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2023年1月17日火曜日

北朝鮮都市建築紀行,雑木林の世界47,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199307

 北朝鮮都市建築紀行,雑木林の世界47,住宅と木材,(財)日本住宅・木材技術センター,199307

雑木林の世界 

北朝鮮都市建築紀行

                       布野修司

 

 一九九三年四月二九日から五月四日まで、日本建築学会の朝鮮都市建築視察団の一員として、北朝鮮を訪問してきた。朝鮮建築家同盟との学術交流が主目的であったが、平壤、開城、板門店、妙香山などを訪れる機会があった。限られた見聞にすぎなかったのであるが、その印象を素朴に記してみたい。北朝鮮の都市、建築については極めて情報が限られている。誤解も多いかもしれないけれど、南北建築界の理解の一助になればと思う。

 一時間遅れで名古屋空港を発った高麗航空のチャーター便は、日本列島を北上、新潟上空を通過してウラジオストックへ、一旦ロシア領へ入って平壤へというコースをとった。直線的に飛べば二時間足らずであろうが、三時間半かかる。まさに近くて遠い国である。

 降り立った飛行場が閑散としてやけに寂しい。実は、着いたのは平壤の南、黄州の軍用飛行場であった。核査察の問題、チームスピリット(日韓合同軍事演習)の問題で、平壤空港が閉鎖されていたのである。帰国時には、平壤空港から飛べたのであるが、国際関係の緊張を否応なしに感じさせられる旅の始まりであった。

 黄州から平壤へ向かうバスの車窓からうかがう農村の風景が珍しい。一ケ月前に見てきたばかりの韓国の農村風景と比べるとやけにすっきりしている。あたり一面赤い土の田圃が広がり、小高い丘の上に集落がつくられている。集落はいくつかのスタイルの住宅からなる。目につくのは、三層から五層の集合住宅である。もちろん、伝統的なスタイルと思われる平屋の農家もあるけれど、時代によってモデルを変えながら供給されてきたようだ。所々に小さな水力発電所がある。地域毎に電力をまかなっているという。

 夜の平壤は暗かった。街灯が少なく、ネオンもほとんどない。雨のせいか人通りも少なかったのである。翌朝、早速、ホテルの回りを歩く。ホテルは、高麗ホテルという平壤でも最高級のホテルで、ツインのタワーが何となく東京新都庁舎を思わせる。未完成の柳京ホテルとともにまちのここそこから望める。平壤の新しいシンボルである。近くに、平壤駅があって、通勤、通学の人々でごったがえしていた。通勤の足は、バス、トロリーバス、地下鉄である。大人の間に子供の姿が多い。都心に職住近接で居住するからであろう。子供の手を引いた女性の姿も目立つ。何よりも気づくのはゴミが落ちていないことである。早朝に一勢に掃除をする人々を毎朝見かけたのであるが、通りは実にきれいである。

 ゴミのないことが象徴するように平壤の街は実にきれいな街であった。市の中心にある主体(チュチェ)塔の上から俯瞰すると柳の緑が美しい。朝鮮戦争で壊滅的な打撃を受けた後、見事に復興したのである。電線の地中化が徹底して行われているのが都市の景観として大きい。日本の都市の猥雑さに見慣れていると随分すっきりした印象を受ける。看板や広告塔がほとんどないこともそうである。

 ただ、洗濯物が全く見られないのはいささかとまどう。洗濯物はバルコニーや室内に干すことが決められているのであるが、それはそれとして、あまりにも生活の臭いが感じられないのである。たまたま、五月一日のメーデーの様子を見ることができた。特に行事があるわけでなく、休日なのである。遊園地でくつろぐ人々、輪になって歌い踊る女性達、泥酔する何人もの男性、いずこも変わらない風景であった。

 今回のツアーの一つのハイライトは、開城(ケソン)であった。開城は、平壌の南西六〇キロに位置し、板門店へは一〇キロ弱のところにある。高麗(九一八年から一三九二年)の都が置かれた歴史都市である。実に驚いたことは、子男山の麓に歴史的な街区が相当分厚く残っていたことである。子男山から見おろすと、黒い瓦屋根の家並が一杯に広がる。韓国のソウルや慶州でもこんな街区は残されていない。歴史的な痕跡を一切破壊された高句麗の首都、平壌の様子からは想像できないことであった。

 開城は実は三八度線の南にある。戦災を免れたのはあるいはそのことが関係するのであろうか。停戦協定の締結時点の戦力の配置によって国境が決定され、その結果、ある意味では偶然、開城は北朝鮮の領域に組み入れられたのである。開城は、最も離散家族の比率が高いという。南北分断を象徴する都市である。

 開城の歴史的佇まいが残されていることはなんとも言えない感慨を呼び起こす。韓国の人々は、開城のこんな様子を知っているのであろうか。韓国の友人達にすぐさま知らせたい、とまず思った。これは世界歴史遺産とすべき都市ではないか、というのが続いての思いである。

 『朝鮮と建築』(一九二一年創刊)に、野村孝文先生の「開城雑記」(一)~(五)(一九三二年~三三年)という連載記事がある。開城雑記といっても、後に『朝鮮の民家』(一九八一年)にまとめられることになる朝鮮全体についての記述を含んでいるのであるが、開城については、池町、北本町、東本町の八つの住宅を紹介した上で、「開城が朝鮮に於ける住宅建築に於いて、可成りの発達をなして居た事を知る事が出来る」と結んでいる。写真やスケッチからは、六〇年前の開城の様子を伺うことができる。今もその面影が残っているのである。

 板門店からはソウルの北にある、風水説で言う祖山に当たる北漢山が見える。この近さはやはり不思議である。ベルリンの壁なき後、板門店は唯一特異な空間として存在し続けていくのであろうかと、ひとつの線を南北に跨ぎながら考えた。

 妙高山へは観光客用の専用列車であった。国際親善展覧館で、各国の元首などから贈られた贈り物を厭というほど見せられたのはうんざりであったが、普堅寺は面白かった。スパン割の不均一な観音殿があって随分首をひねったものである。

 白頭山建築研究所での朝鮮建築家同盟での交流会は短い時間ではあったが、北朝鮮の建築界を垣間見る貴重な機会であった。中心は、建築家の養成、教育であったのであるが、まず、さもありなんと思ったのが、設計教育の七割が実践教育だという点である。設計製図の優秀作品はそそまま建設される、なかなかいいシステムである。もちろん、実践家の教授、助手が指導にあたり、外部事務所がついてのことである。人民大学習堂もそうして建設されたという。

 大学を出ると設計員の資格を受験する。六級から一級まであって、一級上がるのに三年の経験がいるという。かなり厳しい。二級以上になると、功勲設計家、さらには人民設計家となる資格ができるという。人民設計家というのが最高位である。

 全体は限られた見聞でしかない。集合住宅の内部や農村住宅が見たいというわれわれのいくつかの希望も叶えられなかった。全体として、見せられているという感じは拭えない。しかし、それにしても貴重な経験をしたと思う。実に多くのことを考えさせられた。


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