建築を学ぶ人たちへ
いわゆる「建築家」のみが「建築」にかかわっているわけではない。施主がいて、設計者がいて、施工者がいて、……さまざまな関係のなかで、「建築」は実現する。誰もが施主になれるように、誰もが「建築家」になれる。しかし、どのように「建築」を学べばいいのか。はじめて「建築」を学ぶために、この一冊を挙げるとすればそれは何か? 建築学会を代表する人たちに問うた。解答はさまざまである。おそらく、挙げられたすべてを読めば「建築家」になれる、ということではないだろう。問題は、それぞれに共通する何かである。とりあえず、一冊を熟読吟味すれば、そこに「建築」の本質に触れる何かがあると思う。
To Those Who Study Architecture
Persons engaged in “architecture” are not
only “architects.” Architecture is employed
in various relationships between owners, designers, and contractors. Everybody has the potential to become an
architect, just as everybody has the potential to become an owner. Yet how best may one learn architecture? What is the book of choice for an
introduction to this subject? This
question was addressed to representative persons within architectural
society. Their answers varied, and probably
reading all the books cited would not make one an architect. The issue is something that is commonly dealt
with in those books. If as a first step you
read only one such book with appreciation, you may find references to the
essence of architecture.
2003年12月号
Ⅰ.
座談会
本の先に見えるもの
初めて建築を学ぶ人たちへ
岩下 剛……いわしたごう
鹿児島大学助教授
1964年東京都生まれ/早稲田大学卒業/同大学院修了/居住環境学/工学博士/共著に『悪臭防止法の改正と対策動向』『民家の自然エネルギー技術』ほか
石田 泰一郎……いしだたいいちろう
京都大学助教授
1962年福岡県生まれ/東京工業大学卒業/同大学院修了/建築光環境、色彩/工学博士
大崎 純……おおさきまこと
京都大学助教授
1960年大阪府生まれ/京都大学卒業/同大学院修士課程修了/建築構造学/博士(工学)/1996年学会奨励賞、2000年Hao Wang Award、COCOON2000受賞ほか
小野田 泰明……おのだやすあき
東北大学助教授
1963年石川県生まれ/東北大学卒業/建築計画/博士(工学)/建築計画に「せんだいメディアテーク」ほか/1996年学会奨励賞、作品「苓北町民ホール」で2003年学会賞(作品)共同受賞
新居照和……にいてるかず
新居建築研究所代表
1954年徳島県生まれ/関西大学卒業/同大学院修了/B.V.ドーシのもとにインド留学/アフマダーバードCEPT大学院絵画専攻修了/作品に「安曇野の家」ほか/主な作品掲載誌に『住宅建築』2000年5月号
司会
布野修司
本号担当編集委員会委員長・京都大学助教授
松山 巖
本号担当編集委員会幹事・作家
高島直之
本号担当編集委員会委員・美術評論家
学ぶ世代と、教える世代
松山 本特集では、これから建築を学びたい、建築を知りたいという人に向け、現役で活躍していらっしゃる建築界の方々から、何を期待し、何を考えてほしいかを語る手づるとして本を挙げてもらいました。
本日出席されている方にも、初学者に薦める本を持参いただきましたが、ここでは本にこだわらず、むしろ学生にいま求めること、逆に学生から教師が求められていることを伺いたいと思います。
私は東京藝術大学の大学院生と付き合って3年目ですが、学生に建築批評を書かせる授業をしてきました。そのとき、学生はあらかじめある答えを読み取る能力はあるけれど、自分で考えて問いを出すような学習をしてきていないように感じました。考えるということで、違う世界と結びついていくようなことがなかなかできない。自分の考えていることを文章に書く、あるいは言葉にするには、自分がただ単に好きだということだけではだめで、なぜ好きなのかと考えていく思考回路が必要なのです。
布野先生は、自分の学生時代と比べて、あるいはいまの学生と接していてどのようにお感じですか。
布野 20年以上教師をしてきましたが、どうもいまの学生は建築をあまり好きではないのではと危機を感じます。内田祥哉先生は私が学生の頃、授業の途中で「君たち、これがいいってわかる?」と言うんです。どこがいいのか全然わからないけど、そう言われると、この建築の何がいいのか知りたくなります。
私は学生時代に建物を見て回ることに楽しみにしていましたが、いまの人は建築を楽しんでいない。むしろ、われわれが嫌いにさせる授業をしているのかもしれません。
大崎 大学生の場合、高校の成績で行けるところに決めたという人が多く、とくに建築でなければならないということなく、建築に進んでいるような気がします。
布野 建築を知る前にあきらめているところがあります。建築はもうちょっと簡単なもので、建物を見て歩いたり、松山さんのように学生時代にセルフ・ビルドで何か建ててみたり、そういうことをやるなかでおもしろいことをたくさん見つけていくはずなのに、たぶんそういう機会がないのでしょう。
松山 私もそう思います。モチベーションというか、動機づけというか、やる気というか、おそらくそういう仕掛けがないのです。
とくに建物を見に行っていないのは問題だと思います。情報が多いせいもあるのでしょうが、もうひとつ言うと現実を見るとかえって幻滅するのか、あきらめてしまうのか、とにかく怖がっている感じがするのです。
大崎 われわれが本を読むのは勉強のためとか、昔の有名な人が何を考えていたかを知るためです。おそらく計画系でも、昔の有名な建築家が何を考えてどういうものをつくったか読書をとおして勉強するのだと思いますが、とくに構造系、環境系では知識を得るために読むという割合が非常に大きいと思います。
松山 世の中には二つのことが、あるいはいくつかのことが矛盾して存在していることがあります。その矛盾がどうして併存しているのかを考えることがとても大切だと思います。いまの学生は、そういう考え方があまりできないと私はものすごく実感しています。
つまり、教え込まれた答えについては即答できるのですが、それに反する意見や理論があることを考えもせず、たとえば設計でもあらかじめこういうものが学生らしいなという感覚で進めてしまうのです。
布野 建築というのは構造とか設備を一個にしないといけない。その技術をどこで身につけるかが大切だと思います。現在の環境は環境、構造は構造といった分野ごとの教育が気にかかります。
石田 松山さんと布野先生が仰るように、ようするにいまの学生はあまり建築が好きじゃないのではないでしょうか。もう少し広く言うと、勉強すること自体にあまり興味を持っていないのかもしれません。
私は建築外の出身なので他学科の先生と話す機会がよくあるのですが、それは建築だけではなくて、ほかの分野でも同じことが言えるようです。
布野 松山さんは「対立するところは建築そのもののなかにすでにあって、複雑で相反することをまとめるのが本当は一番おもしろい」ということを言いたいんですよね。
松山 そのとおりです。
石田 それは、布野先生や松山さんが勉強していたころは、統合する道筋なり方法が少し見えていたということですか。
布野 何か前提がありましたね。
松山 わからないけれども、わからないということを「わからない」と言っていたような気がします。だから、先へ進もうかな、勉強しようかなという気になります。そして建築という領域だけでなくて広げて考えようという気があったから、当時、布野先生とも付き合ったわけですね。
その頃、布野先生も私も20代で、近代建築の始まりみたいなものを一緒に勉強していました。結局、本を読んだり知識を得たりというのは、自分でやる気にならない限りだめだと思いますが、そういう場所をつくろうとしないのか、でき得ない感じがします。
たとえば、新居さんは設計だけではなくて環境問題の運動もされていますが、そこの若い人たちはどうですか?
新居 私は地元の私立大学で一週間に一度講義をしているのですが、学校のそとで吉野川に取り組んでいるボランティアの学生や20代の人たちのエネルギーには関心させられます。ものすごく生き生きしていて、全身で吉野川の環境問題にかかわっています。
私は、人間の本当の幸せとは何かとか、生きるとは何かを日頃から考えています。そこにモチベーションがあるような気がします。実際に各国の建築を見たときに、建築に人生をかけてもいいと体全身で感動する機会があるかないかの違いです。
布野 新居さんは学生の頃にヨーロッパの建築を見て回って、次に「インドだ」と言って、インドに行ってしまうでしょう。それはどうしてですか。やはり強烈に建築が好きだったからですか?
新居 ヨーロッパをまわっているうちに、自分たちが建物を建てることがもう少し大きな意味での人の幸せとか喜びにつながることだと気づいたのです。もちろん建築は好きでしたが、もっと大きな何かがありそうだという魅力にかられて、ずんずんインドにはまっていきました。
今日は、初学者に薦める一冊ということで、学生のときに勉強したルイス・マンフォードの『歴史の都市 明日の都市』を持参しました。マンフォードは、文明や都市というものを、人間、生命、生体と絡めながら書いています。学生時代にヨーロッパから西アジアをずっと回っていて、都市というのはわれわれが日常的に言っている経済とか現象的・表面的な話ではなくて、もっとすごく深いもので成り立っているのだと全身で感じました。
布野 私も黒板の前では伝わらないことが、フィールドでは伝わることを実感します。現場でこうやれ、ああやれ、こういう場合はこういう判断をするんだ、ということを教えるのはフィールドでなければできません。
「おもしろそう」から「わかる」「感じる」へ
松山 授業や設計のプロジェクトでも、当たり前のことながら、現実のほうがはるかに広いわけです。本もその取っ掛かりになるもので、その先の現実を見るように、と内田祥哉先生も藤森照信先生も次の特集Ⅱで書いています。つまり、お二方とも本をチャンネルにしながら外を歩き、あるいは現実を見、現場を歩くということを期待しているのです。
教師のほうもあらかじめこういうことを教えていればいいのではないかという感じで、そこから先へ進まないし、学生から学ぶ、あるいは現実から学ぶということをなかなかせずに閉じこもってしまう。だから、学生のほうが生き生きとしていなかったり、建築を学ぶことが非常に狭い知識のところで終わっている気がします。現実には分断されていて矛盾だらけのことがたくさんあるにもかかわらず、それをつないでいく、あるいは矛盾を矛盾としてどこかで組み立てなおしていくことが、なかなかできていないのだと思います。
岩下 学生を見ていると、不景気といえども建築学科はそこそこ人気があるようです。一般向けの建築を扱った雑誌がたくさん出ていたり、テレビ番組でも建築がブームになっていたりして、おもしろそうだなと思って来ている学生は、まだまだたくさんいます。しかし、途中でつまらなくさせているのは、われわれ教師の責任かもしれません。「おもしろそう」と「本当に楽しい」というギャップを埋めるのが教師です。
とくに環境や設備は設計演習で教えるのが難しく、どうしても知識や要素技術のバラ売りが必要です。しかし、なかには、学生に「段ボールで家をつくってみなさい」と言って、?????サートの風通しを測定させて「どういう家にすると風通しがいいか、実際になかに入って感じなさい」という授業をしている先生もいます。そうすると、これは涼しいとか、蒸し暑いとか、風通しの大切さを全身で理解できるのです。
「おもしろそう」じゃなくて、「わかる」「感じる」というところまで持っていけると意味があると思いますが、なかなかそこのギャップが埋められていないと私は反省しています。
松山 私が大学院生に与える最初の課題は、自分の卒業設計あるいは卒業論文を簡略に説明させるというものですが、皆なかなか説明ができない。そして最後に建築を初めて学ぶ学生に出す設計課題を考えさせるのですが、突然住宅を設計せよ、敷地は一様になど、それから幅を広げて考えることができない。
私もそうでしたが、卒業設計でも卒業論文でも、自分で社会に問いかけて、テーマを出していって、それがどういう答えになるかは別として問いかけることが必要なのです。
高島 このあとの特集Ⅱでは、単行本というかたちで集約されていますが、読書という意味だと、私が学生時代に建築に興味を持つきっかけとなったのは雑誌ジャーナリズムです。つまり単行本はどこかに連載されたものが集められて出されることが今より多かったのです。『朝日ジャーナル』『現代詩手帖』『デザイン批評』『美術手帖』など、ジャンルを越えたところで都市論や建築を引き寄せていくような問題設定がたくさん出ていました。
たとえば、磯崎新さんの『建築の解体』も一冊になっているけれども、『美術手帖』に連載中に拾い読みしながらすごく刺激を受けました。
松山 私だと『デザイン』という雑誌です。長谷川尭さんの『神殿か獄舎か』はそこで読んでいました。
高島 昔はジャンルが横断したかたちで、雑誌ジャーナリズムが成り立っていましたが、今は『Casa BRUTUS』の時代になっているのです。建築を学ぼうとする人たちは、建築なら建築のジャンルからだけではなくて本当はいろいろなものから情報を得るべきですが、うまく作動していないという状況です。
布野 情報をインパクトあるかたちでまとめる建築ジャーナリズムの機能がすごく衰弱してしまっている。
日本建築士会連合会の会誌『建築士』(2003年10月号)で「建築への扉を開いた この一冊」という特集が組まれています。石山修武さんは師匠の渡辺保忠先生の『工業化の道』を、菊竹清訓先生は自身の「かたち、かた、か」というデザインの三段階方法論を考える端緒となった武谷三男の『弁証法の諸問題』を挙げています。このなかで、高橋晶子さんは『SD』の79年1月号「篠原一男作品集」だと書いています。
高橋晶子さんは京都大学の卒業だけれど、そこから東京工業大学に入って篠原さんの研究室まで行ってしまったのです。私も、何か一冊が欲しくて神田の古本屋にバックナンバーを探しに通っていた記憶があります。
松山 建築の周りの状況はずいぶん変わってきたのかもしれませんね。
「効率よく」すべきこと、できないこと
大崎 建築というのは工業社会をリードする分野ではないから、機械や航空などの技術を導入せざるを得ません。免震・制振にしても考え方は建築独特のものですが、要素技術は他分野からもらうものなのです。しかし学生は、そういう情報を収集しないといけないという事実がわかっていない。修士論文にしても、できるだけ本を読まないで、できるだけ勉強しないで効率よく終わらせたいようです(笑)。講義にしても、何の役に立つのかを教えなければ勉強しません。
今日はこれだけは絶対言いたいと思っていたのですが、とにかく新しいものを考え出そうと思ったら、基礎をみっちり固めないと新しいものは出てこない。私は日頃、「とにかく本を読みなさい。勉強しなさい。ほかの関連分野の情報を仕入れて、自分の基礎を固めてから新しいことを考えなさい」と言っています。
高島 雑多な情報を飲み込んで、どれが要らないかと削るのも本の読み方であり、ものの考え方だから、「効率よく」という考え方はあり得ないですね。
小野田 しかし、もともと情報がいっぱいあるなかに生まれた若い人たちは、サバイバルして受験競争で勝ち残るためにはいかに効率よく情報を集めるかを優先しなければならず、その才能に長けた者が私の周りに集まってきます。
先日、若手映画監督の青山真治さんとお会いしたときに、映画を全然見ていないのに「映画をつくりたい」と言ってくる若い人がいると言っていました。そういう人たちに「映画館に行って、徹底してこの10本を見てこい。見てきたら話を聞いてやる」と言って、強制的に闇のなかで映画を見せ続けるそうです。そういうのは建築だけでなく、どこのジャンルでも同じようなことが起きているのだなと感じさせられます。
松山 あるとき私の授業で、『世紀末の一年』(朝日新聞社、ISBN:4022597356)という、いろいろな文献あるいは新聞から1900年について書かれた内容を編集した自書を「書評をしろ」と言ったのですが、「これは松山著じゃない。松山編である」と言うわけです。それで私は「それでは建築は何でもオリジナルなのか。コンクリートはオリジナルなのか。構造はオリジナルではないし、シェルもオリジナルではない。もうすべてやってあるではないか」と問いかけました。オリジナルということと、それを学んで自分がある表現をするということが、混乱しているのです。
オリジナルなんていうのは、ものすごく専門的な研究をして基礎を勉強し続けたなかでギリギリになって出てくるものでしょう。脂汗を流しながら、そのことをずっと考えているからポッと出てくるもので、考えていなかったら出てくるわけはありません。
布野 松山さんの『世紀末の一年』をただ編集しただけだというのは、そもそも編集をばかにしています。いろいろな雑多な要素をひとつにくみ上げる能力を信じていないんです。
松山 作家の堀江敏幸と話していたら「建築の学生さんはけっこうフランス語は熱心ですよ」と言っていました。彼は明治の工学部でフランス語を教えているのですが、文章を書かせると、いまの学生は接続詞がない文章を書くと言うのです。つまり「私は~が好きだ」「私は~がいいと思う」と並列して、「だから」「それゆえ」という言葉が出てこない。接続詞で論理を組み立てていくことが非常に苦手だと言うのです。
映画でもいまはビデオですべてのものが見られるから、われわれと違い、記憶のなかで古い映画をあそこの映画館で見たという印象ではなくて、彼らは1920年代から1940年代、50年代、60年代の映画も最新映画も一緒に見られるわけです。それが並列にある状況で、もしかしたらおもしろいこともできるのだろうけど、あまりに情報が拡散しすぎているような気がします。
小野田 一般向けの建築ガイドブックを携えて建物を見に行き、「見てきました」という学生が増えています。
私が昔外国に行ったときの笑い話ですが、日本人はみんな『地球の歩き方』を持って、見たところを丁寧にチェックして、そこに載っているところしか行かないことに驚きました。うまく使えばいいと思うのですが、履行することが義務になっていて、そこで何かをつかむのではなく、日本に帰ってから日本人の友だちに見せるためにここにいるんだなと思いました。
布野 私の研究室では『地球の歩き方』は禁止ですが、暗記する奴までいますよ。案の定ここでだまされましたとか(笑)。
松山 海外旅行に行って撮ってきた建築の写真ぐらいつまらないものはないですね。たとえばロンシャンだったら、本でよく見るアングルばかりでディテールが写っていない。その人なりの見方があれば、現場に行って違う写真を撮っているはずなのに、相変わらず二川幸夫さんが撮ったような写真になる。
現実のほうが広いから、歩いてみたら全然違う方向に行くわけです。本というのはその回路のひとつだと思います。ひとつを深く読めば、関連する本が読みやすくわかると思います。ただし、一冊の本を深く読むという訓練が必要です。
教科書の存在
布野 岩下さんは何を持ってきたのですか。
岩下 私はレイナー・バンハムの『環境としての建築』です。これは何回か読んでいますが、最初は読んでも何だかわからない。建築家の名前もわからない。学部の1~2年でコルビュジエなりいろいろな建築家の名前がわかってきて、あらためて読んでみると今度は設備のことがわからないのです。そして設備の勉強をしてさらに3、4回読み直して、ようやくこんなことが書いてあるのかなとわかってきました。読むたびに全然視点が違うのです。
布野 バンハムでしょう、それからベネボロとか、スカーリーとか、僕らの世代の定番としての教科書みたいなものがありました。最近はそういうものがない。たとえば近代建築を勉強するときはみんなどうしているのですか?
小野田 私は、ヘルツ・ベルハーの『都市と建築のパブリックスペース』を薦めます。いかにも合理主義建築計画者が持っていそうな本ですが、パブリックとプライベートはこういう空間なのだという実例が入っています。
布野 それを使って学生に教えているんですか?
小野田 これをスライドで見せると、プライベート、パブリックという抽象的なものが何なのか、「つまらない建築」と「よい建築」はどこが違うのか理解できます。
私は、たとえば「建築論」をいまの学生に読ませても、きっとリアリティはついてこないと思います。しかしリアルな世界と論理の世界をつなぐ刺激をポーンと与えてあげると、いまの学生は結構やりますよ。
私がいま学生にやらせているのは、映画を見せて「なんでもいいから、このなかに流れている空気の質を感じる建築をつくりなさい」という課題です。そうすると、相当おもしろいものをつくってきます。私たちは建築の形をつくるだけでなく、なかの空気をもつくり出すのだ、という理念が彼らに通じている証拠です。
松山 小野田さんが実行しているように、何か具体的なもので見せていかないと難しいのかもしれませんね。
新居 年輩の方々は、もう少し社会に対する大きな問題を自分たちにとってのリアルな問題として捉えていたのだと思います。しかし、いまはそのあたりが分断されて、そこから出てくる想像力や問題意識がとても小さくなっているのです。
布野 私は毎夏、岐阜の山のなかに入るんですが、学生たちが一個だけ作品をつくるんです。施主さんがいて、村が10万円出して、その範囲で施主さんのために犬小屋をつくったり、茶室をつくったりするんです。放っておいてもおもしろがってつくり上げます。これは身体とモノと空間の近さを感じるためのトレーニングだと思っています。
松山 私の家にはテレビがありませんが、「プロジェクトX」という番組が流行っているでしょう。よくみんな泣くらしい。あれは挫折しながら夢を追いかけて何かを完成させたという話でしょう。
布野 高度成長期のエンジニアとか。
松山 そういう夢のあった右肩上がりの時代ではいまはないのです。ですから教師も学生に「これからは新しい都市づくりを」なんていうことはとても言えない。だからといって小さくなってしまうのはいけないけど、ではどうしよう?と悩んでいる教師の気持ちを学生は薄々感じています。
新居 現実に夢がないから自殺者が多くなっているのでしょう。
高島 そういう意味で、いまは教科書がないのですね。学生が選ぶ情報というのは、なにかインデックスを提示している側が存在しているのですか。
小野田 学生は友だちに威張れるというか、コミュニティのなかでこれを知っていないとまずいという感覚で情報をチェックしているようです。
布野 でも「最先端」の情報にはあまり興味ないですよね?
小野田 だから丸くなってしまう。しかし、逆に流行のMVRDVなどに対しては、すごい勢いで情報を仕入れ、あっという間にみんなオランダモダン建築のミニ評論家みたいになってしまいます。
布野 ところでみなさんは、授業でトレースなんかさせますか?
小野田 古い先生というか、しっかりした先生もいらっしゃるので、コピーからちゃんとやらせているところもあります。
松山 安藤忠雄さんは、コルビュジエの作品模型を学生につくらせていましたね。
小野田 あれは効果あると思います。私も好きな作品の模型をつくらせます。好きな作品の部分模型を同スケールでつくらせるのですが、トレースよりも早く理解できます。
なぜ建てるのか
布野 私が初学者に薦める本として持ってきたのはロクサーナ・ウォータソンの『生きている住まい――東南アジア建築人類学』です。屋根のシンボリズムの話、コスモロジーからテクノロジーの話まで民家を広く説いています。身近な住まいの問題から、建築をめぐるありとあらゆることを考えさせてくれます。
石田 私はトーマス・クーンの『科学革命の構造』という、いわゆるパラダイムという概念を最初に世に出した本を薦めます。考え方が違う集団同士で学際研究を進めていくときに、この本は新しいものを与えてくれると思います。
松山 パラダイム転換というとみんなわかったような気になるのだけど、クーンが言っているのは「見え方の違い、見方の違いが断続的に変化していく」、つまり「見方を変えなさい」と言っているのだろうと、私は理解しました。
私が一冊挙げるとしたら、ケヴィン・リンチの『Site Planning』です。私が学生のときに話題になったリンチの本ですが、今でも教科書として通用すると思います。日本とアメリカではまち並みの形成あるいは隣棟間隔の違いはあるけど、こいうことを考えていかないといけないのかなというリストがずっと書いてあるのです。木の大きさまで書いてあって、こういうものは他にありませんでした。
布野 私はその頃、クリストファー・アレグザンダーの『Notes
on the Synthesis of Form』(Harvard Univ Pr/ISBN:0674627512)を英語で読んで、一生懸命プログラムを書いて、いかに設計プロセスを論理化するかなんていうことを考えていました。その後、アレグザンダー自身がパターン・ランゲージに走り、それからプログラムを書くことをやめてしまいました。パターン・ランゲージにしても『SD』や『都市住宅』の雑誌でバンバン紹介されて、学生がそれを読んで、それを卒論のヒントにもしていました。
大崎 私はEngel・Heinoの『空間デザインと構造フォルム』(日本建築構造技術者協会
訳、技報堂出版、ISBN:4765524167)をお薦めします。力の流れや伝わりについて書かれている図解集です。ぜひ、デザイン系の人に読んでいただき、最低限これぐらいは理解してほしいと思います。
布野 構造系の本で感心したのは増田一眞さんの『架構のしくみで見る建築デザイン』で、山のなかに入って小屋を建てるときに、風がこれだけあるところではガラス窓の厚さがこれぐらいで、壁の断面はこれぐらいといった、現場での計算に知恵を与えてくれます。
本ではありませんが、私がすごく気に入っているのは、京都大学の増田友也研究室にいたドメニク先生の理論です。見事にすべての木造形式を説明し切っているのです。日本の竪穴住居から東南アジアの木造をみんなリーズナブルに説明できる構造発達論。木造設計するときに必要な構造原理です。
松山 大学で設計演習を担当している先生方と話をしていて疑問に感じるのは、教師が失敗談をしゃべらないことです。ここが難しかったという話をしゃべってほしいのです。
片山和俊さんが「彩の国ふれあいの森 森林科学館・宿泊館」という木造トラスを使った施設を建てたので、「これはどこが難しかったのですか? なんどか失敗もしたでしょう」と聞くと、ここは予算が足りなかったなど、うれしがってしゃべってくれるのです。つまり、ほとんどの設計者は失敗の連続をしているのだから、その話をすればいいし、そういう仕掛けがないと学生は簡単に建物ができているものだと勘違いしてしまいます。
布野 林昌二さんが書いた『建築論集 建築に失敗する方法』(彰国社、ISBN:4395001424)という失敗事例のような本を書けばいいのですね。
松山 山本理顕さんの『■■■■■■■■■■』はおもしろかった。失敗例集のようなものです。あれは反面教師ですよ。
小野田 昔は建物をどう建てるのかという課題に向かって、Howを学んでいたわけです。しかし、住宅戸数のほうが世帯数よりも多い現在、何を建てていけばよいのかが課題となっています。
もう一冊挙げるとしたらクリスチャン・ノルベルグ=シュルツの『建築の世界――意味と場所』で、「建築は何で」というところを説き起こしています。人間が生きることと建築をつくる、もしくは建築のなかに住むとことはニアリー・イコールだということです。
大崎 必要だから建てる。そういう単純な話です。
布野 予算があるから建てるというのが多すぎる。
小野田 なぜ建てるかという疑問はないのですか?
松山 いや、一番の疑問でしょう。
大崎 私にしたら、デザイナーはなぜこんなにつくりにくいものを建てたがるのかすごく疑問です。
松山 それはきっとオリジナリティでしょう。別に根拠はなく、人と変わっていたいということだけ。
小野田 変わっていたいというか、困難な問題を解くのに、こういう解き方があったんだというのを、みんな見つけたいのです。
布野 オリジナリティかどうかわからないけど、新しい空間や見たことのない建築には、ある種の役割があります。しかし、オリジナリティが成り立つには、新しさの共通ベースがないとだめでしょう。
高島 なぜ建てなければいけないのかという疑問は大きな問題です。それは、小野田さんが言ったように意識に先立って「人間は存在しているから建てなければいけない」という、実存主義で突破しなければいけないと思います。
私は建築を教えたことがないのでわかりませんが、子どものときにレゴや模型づくりが好きだったという人のモノづくりに対する執着心と、学生レベルでの「つくりたい」という欲望は関係があるのですか?
布野 幼児に建築教育している高崎正治さんから、2歳ぐらいまでに造形能力は決まってしまう、という話を聞きました。2歳までは非常に造形的なイマジネーションに富んだものを粘土などでつくっているのに、2歳を超えると母親の顔を見だすというわけです。家をつくるときに、家の格好をしていないとまずいんじゃないかなとか。
松山 建築教育において天才をつくるということは、あまり意味がないでしょう。天才がいるとすれば、そういう人はどうやっても出てきますから。
繰り返しますが、世の中の情報より現実や歴史のほうが広く、本や講義などはその一通路にしかすぎません。そこから先にボーンと広がっている外の世界とのつながりを教えなければいけない。
大崎 それは教えるものでもないですね。建築というのは、いろいろなものをどう組み合わせていくかという作業で、研究も実務もそうです。いまこれをやればいいというポイントがないのであれば、いろいろな情報から自分で必要なものを選んで総合していきなさいという訓練をさせるのが一番です。それは教えるものじゃないので、それができない人は建築をあきらめたほうがましです。
岩下 『地球の歩き方』の先が欲しいですね。あれに出てくる美術の情報はすごく断片的で、もっと知ろうと思うと、図書館で調べなければわからない。そういうときって、すごく楽しいじゃないですか。もう1ランク上のことを知る喜び。
小野田 藤森照信さんの展覧会のカタログに「目玉相撲」というのがあって、見るときは目玉で相撲を取っている、勝ったと負けたがあるんだ、「これは負けた」みたいな、と書かれていました。
石田 研究でも何でも、小さいテーマでも集中して手足を動かして、これは設計でもそうだと思いますが、実践してみて一生懸命やって、何かつかむものがあるかどうかというのはその人の勝負です。
大学の教育といっても突き詰めたところは職人の技を盗むというところがあるのではないでしょうか。
布野 どうもありがとうございました。
10月8日 建築会館にて
『歴史の都市 明日の都市』
ルイス・マンフォード、生田勉
訳/新潮社/ISBN:4105093010/1985
『環境としての建築――建築デザインと環境技術』
レイナー・バンハム、堀江悟郎 訳/鹿島出版会/ISBN:4306041239 /1981
『都市と建築のパブリックスペース――ヘルツベルハーの建築講義録』
ヘルツ・ベルハー 著、森島清太 訳/鹿島出版会/ISBN:4306043312/1995
『生きている住まい――東南アジア建築人類学』
ロクサーナ・ウォータソン、布野修司
監訳/学芸出版社/ISBN:4761540575/1997
『科学革命の構造』
トーマス・クーン 著、中山茂 訳/みすず書房/ISBN:
4622016672/1971
『Site
Planning』
Kevin
Lynch/Mit Pr/ISBN:0262121069
/3rd 版1984
『空間デザインと構造フォルム』
Engel・Heino 著、日本建築構造技術者協会
訳/技報堂出版/ISBN:4765524167/1994
『建築の世界――意味と場所』
クリスチャン・ノルベルグ=シュルツ 著、前川道郎・前田忠直
共訳/鹿島出版会 /ISBN:4306042839/1991
0 件のコメント:
コメントを投稿