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2022年7月15日金曜日

木が石を喰う,,シルバン編集委員会,シルバンNo.7,1996 winter

 木が石を喰う,シルバン編集委員会,シルバンNo.71996 winter






木が石を喰う!・・・「建築進化の原則」から見た木造建築の前途

布野修司

 

 ベトナム・カンボジアへ行って来た。ハノイから入って、フエ、ダナン、ホイアン、ホーチミンとベトナムを下って、プノンペン、シェムリアップというコースである。東南アジアには度々出かけているのであるが、これまで行きにくかったせいもあって、ベトナム・カンボジアは初めてである。ドイモイ(解放)政策で活気に溢れたハノイ(河内)、世界文化遺産に指定されたフエ(順化)、南洋日本人町があったホイアン(會安)、プノンペンの戦争犯罪博物館、それぞれに印象深かったのであるが、ハイライトは、やはりアンコール・ワット、アンコール・トムであった。石の、煉瓦の、あるいは、ラテライト(紅土)の圧倒的建築群である。

 インドシナ半島を縦断してみると、木造文化圏が石、土の文化圏に切り替わっていく様がよくわかる。ベトナム北部から中部にかけて、中国文化の影響圏には木造建築の伝統が生きている。甎との併用の形であるが、南中国の影響を受けながらベトナム独自の木組みをつくっている。ハノイの金蓮寺、燕夫亭、文廟、玄天真武観、フエの王宮や歴代皇帝廟、頼世亭などのいくつかの例を見ただけであるが、斗(ます)や肘木(ひじき)の組方には独特なものがあった。ところが、ベトナム中部に至るとチャンパの領域となる。チャンパは、紀元前2世紀から15世紀まで、その勢力を誇ったチャム族の国で、東南アジア最初のインド化国家のひとつである。ヒンドゥー教を主とし、仏教を従とした。林邑期(      )、環王期(      )、占城期(       )に分けられる。

 普段の行いが悪いのか、ダナンで台風に合い、ミーソンやドンジュアンなどチャンパの遺跡群を観ることは出来なかったのであるが、チャンパの彫刻博物館を観る限り、チャンパ王国の建築は、アンコール・ワット、アンコール・トムのクメール王国と同じ石の建築世界である。

 もちろん、こうした言い方には嘘がある。石造だから残るのであって、多くの木造建築が建てられていたことはチャンパでもクメールでも疑いないところである。石造のチャンディ建築が残る中部ジャワ、東部ジャワでも同じだ。石造であったのは、モニュメンタルな建造物だけなのである。しかし、石造、礎石造の技術を発達させたかどうかということでいうと、石の世界と木の世界はやはり分かれてくる。今回、印象的だったのはラテライトという素材である。ラテライトは岩石ではなく土壌の一種である。雨水によって化学的風化作用が起こり石のようになる。赤くて表面はぶつぶつと穴が空くのであるが巧みに建設材料として使われている。砂岩との取り合わせも見所である。

 シェムリアップでは、二日間、初期のロリュオスの遺跡群から、数多くの遺跡群を見ることが出来た。石の建築の迫力に圧倒されたのであるが、個々の建築の評価とは別に強烈な印象を受けたことがある。

 まず第一に、石の建築というのは壊れ出すと止めどもないということである。多くの遺跡は崩れそうになっている、近寄ると危険な状況にある。所々に木のつっかい棒がしてあるのであるがどうみても効きそうにない。修復と保存の試みがなされているのであるが、なんともみっともない。例えば、アンコール・ワットなど回廊の石の梁が全て折れているのであるが、コンクリートでつない繋いでいるのである。石柱を鉄輪で巻いたり、色々工夫するのであるが、石造の本来と違うから違和感がある。スタッコのレリーフが落ちて、モルタルでやり直すのはいいにしても煉瓦が崩れ出すとどうしようもない。全て解体して積み直すしかないのであるが、造った倍のエネルギーはかかる。

 また第二に、樹木は場合によると石に勝つということである。極めて象徴的な遺跡がタ・プロムであった。この遺跡は、フランス極東学院が意図的に手を加えず、そのまま放置している遺跡で、石の建築が歴史を経るとどうなるかがよくわかる。巨大な樹木が遺跡を喰い破っている。樹木の生長が遺跡を破壊しているのである。かえって遺跡らしいというので人気がある。樹木にはとてつもない生命力がある。また、石造に比べれば遥かに解体修理は容易である。石の建築に樹木は勝つのではないか、ふとそんな思いが沸いてくるのである。

 ベトナム・カンボジアには、建築家であり、東洋建築史学の大先達である伊東忠太のいくつかの論文のコピーを携えて行った。「仏領印度支那」、「祇園精舎とアンコル・ワット」、「安南大磊故城発掘の古瓦」などである。中に、「建築進化の原則より見たる我が邦建築の前途」という有名な論文が紛れ込んでいた。帝国議事堂のデザインをめぐって大議論が起こったころの論文である。和風か、洋風か、和洋折衷か、という議論の輪の中で、伊東忠太の主張したのは、日本は独自のスタイルを発展さすべきだという進化主義であった。

 昔読んだ時には、余り興味を持たなかったのであるが、木造文化と石造文化のことを考えながらの旅であったので読み直して実に面白かった。

 伊東は、当時の建築界の状況を「混沌たる」「無政府のような有様」、「暗黒時代」といい、「明治以前の純粋の建築の形式が茲に終結を告げて、今や新しいスタイルがそれに代わって興ろうとしてまだ興らない」「過渡の時代」という。いつの時代でも「過渡期」が意識されるものだけれど、今も同じような状況かもしれない。「混沌たる」「無政府のような有様」はそう変わっていないようにも思える。

 伊東のいう「進化の原則」は、七条からなる。建築は材料(肉体)と意匠(精神)からなり(第一)、相互に関係しながら進化する(第二)ことを前提とした上で、第五に次の場合にスタイルの変化を生ずという。 甲 材料変化するとき

 乙 意匠変化するとき

 丙 強制的若しくは任意的に外部の影響を受くるとき

 また、第六として、スタイルの変化は次の形式に於いて現れるという。

 甲 器械的混合

 乙 化学的融合

 そして、意匠を司る最大の勢力が宗教である(第三)という原則とともに、次のような原則を挙げる。

 第四 スタイルはスタイルを生ず、スタイルは故なくして発生又は死滅せす。

 第七 スタイルの変化は突如に成ることなし、若し材料の変更による場合には、其の間に所謂             即ち              の時代を生ず。

              の時代というのは、材料が変わっても形式は変わらず古式がしばらく続くことをいう。具体的には、木造から石造に変わっても、木造の形式がしばらく用いられることを想起してみればいい。

 伊東忠太は、材料の面からその進化の事例を検討するのであるが、全体として明らかになるのが「木造は石造に進化する」こと、「全ての材料はみな一斉に石材に帰して仕舞う」ということである。その過程に必ずサブスティテューションの時代があるのだけれど、結局、材料の面からの進化の順序は次のようになる。

 第一 泥、石、植物、天幕の時代。原始時代。

 第二 木材時代。

 第三 木石混合時代。

 第四 石材時代。

 第五 鉄材時代。

 いかにも単純な進化論である。日本は第二期にあり、これから第三期に向かおうとする。支那は第三期にある。北米で第五期の動きが始まっている。以前読んだときに余り興味を覚えなかったのは余りに単純だと思ったからである。

 ところが、伊東忠太は第一から第五まで建築が進化していけばいいと考えていたわけではなかった。材料と意匠は違う、材料の変遷と美的価値は違う、というのである。

 「日本は必ずしも第二期から第三期、第四期と秩序的に進化しなければならぬと云う理屈はない。第二期から他の何れの時期に移っても差支えない。其の国の国情と必要な条件とに依って如何なる時期を選ぼうともそれは自由であります。又或特殊の目的に向かっては依然木材を本位として行くことも少しも差支ない話であります。」

 「或特殊な目的」という留保つきながら「木材本位」でもいいというのである。重要なる建築に対しては木材は到底用いるに耐えないことは前提されているのであるが、伊東にとって問題は意匠(精神)の方であった。建築スタイルの変遷には、器械的混合と化学的融合があり、進化主義、折衷主義、帰化主義が区別されるのであるがここではおこう。スタイルはスタイルを生む、スタイルは独創されることはない故に、既存のスタイルをもとに新たなスタイルを生み出して行くしかないというのが伊東の主張である。自然と思想が進化発達するように建築スタイルも進化していくというのが伊東の進化主義である。

 木材というのは建築材として完全な材料ではない、質が弱くて天然の破壊力に抵抗する力が乏しい、容易に燃焼し腐朽する、要するに永久に形式構造を伝えるのに足りない、というのが伊東の基本認識であった。しかし、一方、その欠点が同時にまた美点として働くので木材悉く不完全というわけでもない、木材で木材に適当な美建築を造る余地は充分にある、ともいう。伊東忠太は公式的な進化主義者ではなく柔軟な現実主義者であったのである。

 ところで、伊東忠太の「建築進化の原則」は果たしてどう捉え直すことが出来るであろうか。

 まず、鉄材の時代、あるいは石材・鉄材の混合としての鉄筋コンクリートの時代というのはやはり時代を制した、20世紀は鉄とガラスとコンクリートの近代建築の時代となった。伊東の「建築進化の原則」は実証されてきたと言っていい。どういうスタイルが生み出されたかというと、四角い箱形のいわゆるインターナショナル・スタイルである。意匠を司る最大の勢力は宗教であるという第三の原則も、工業社会という神が、ヒンドゥー教やイスラーム教や仏教にとって代わったと思えば一応つじつまが合う。

 第七の原則は、してみると、鉄筋コンクリートで歴史的様式を模した、例えば、戦時中の「帝冠様式」(鉄筋コンクリート造に神明造りや社寺の屋根を載せるスタイル)の時代がサブスティチューションの時代ということになるのかもしれない。

 それでは第四の原則はどうか。どうも第四の原則に鍵がありそうである。「スタイルが成立した以上は、互に縁となり因となって進化して行くので、其の間に突然スタイルが発生することも無ければ又突然になることもない」というのであるが、近代建築はそもそも既存のスタイルを否定することによって成り立つ。近代建築は、とすると、「建築進化の原則」を超越することになりはしないか。少なくとも第四の原則には合わない。

 ここで僕らはやはり「進化」という概念の呪縛から逃れるべきではないか。既に、上で見たように伊東忠太は「日本は必ずしも第二期から第三期、第四期と秩序的に進化しなければならぬと云う理屈はない。第二期から他の何れの時期に移っても差支えない。其の国の国情と必要な条件とに依って如何なる時期を選ぼうともそれは自由であります。又或特殊の目的に向かっては依然木材を本位として行くことも少しも差支ない話であります。」といっているのである。むしろ、この認識の方が遥かに柔軟で大きな原理を指示しているのではないか。

 木造から石造へ、という変化は、何故起こったのかを考えてみれば、それは木材が乏しくなったからである。木材が豊富にあるところでは石造は発達しなかった。日本がそのいい例だ。木造から石造への変化は必ずしも進化ではないのである。その土地で利用できる素材を巧みに利用するのがより普遍的な一般原理である。伊東忠太は「進化の原則」を解きながら、条件に応じた材料選択の自由を認めているのである。

 僕らの前には利用できる材料が無数にある。それをどう利用するかは社会全体の選択の問題なのである。地震があるから、石造や組積造、ブロック造は日本に馴染まないというのは一面の指摘である。日本に木材が無ければ、また、石材が豊富にあれば、巧みにそれを利用してきたに違いないのである。

 しかし、それにしても、アンコール・ワットの石の、煉瓦の、ラテライトの遺跡群は鬱蒼とした熱帯林の森の中にある。豊富な樹木に囲まれながら、何故、石が選択されたのか。謎である。同じようにインドから石の文化が伝えられながら、例えば、石造の仏教建築が場所によって木造へと切り替わっていく例もある。「木造は石造に進化する」のではなく、「石造が木造になる」例が仏塔である。中国のように石の世界と木の世界が共存する世界もある。そうして見ると、材料が変わればスタイルが変わるという原則、あるいは材料と意匠の相互関係の原則は重要である。日本で今木造建築と言われるものは一体何なのか。日本の木造建築がその存在感を薄くしているとすれば、材料(肉体)と意匠(精神)の生き生きとした相互関係を失いつつあるからではないのか。

  



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布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...