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2022年7月17日日曜日

楽しい試行錯誤ー木匠塾の15年ー,『sylvan』,Special Issue 2005Autumn

 楽しい試行錯誤ー木匠塾の15年ー,『sylvan』,Special Issue 2005Autumn





楽しい試行錯誤―――木匠塾の15

布野修司

 「木匠塾」という小さな試みを始めて15年になる。その始まりといきさつは、今や「幻」(?)となった雑誌『群居』で特集したことがある。19993月発行の『群居』47号「特集 木匠塾」(群居刊行委員会)である。僕はその特集で「未だ見ぬ塾生のためにーーー木匠塾小史」という一文を書いている。

岐阜県高根村にあった林野庁の使わなくなった「製品事業所」を買わないか、それを使って木のことを学ぶ何かができないか、という中川営林署長からの依頼と藤澤好一(芝浦工業大学)、安藤正雄(千葉大学)、渡辺豊和(京都造形大学)、布野(東洋大学)がそれまで続けてきた夏期合同合宿が母胎となって出発した経緯の詳細は、特集に譲るけれど、当初は「飛騨高山木匠塾」と称した(1994年より「木匠塾」)。

高根村で活動を開始したのは1991年夏のことである。「わが国の山林と樹木の維持保全と利用のあり方を学ぶ塾を設立する。生産と消費のシステムがバランスよくつりあい、更新のサイクルが持続されることによって山林の環境をはじめ、地域の生活・経済・文化に豊かさをもたらすシステムの再構築を目指す。」と、設立趣旨には高らかにうたうが、実態は、学生たちを主体とする夏合宿(サマースクール)である。

初期には、レクチャーや卒論の中間発表、工場見学などがむしろ主であった。樹木についての講義なども聴いた。そのうちに実際何かつくりたいということになった。手取り早いのは「製品事業所」の改造である。風呂が欲しい、集会場が欲しい・・・という必要に従って、手作りを始めることになった。高根村は「日本一かがり火祭り」(八月第一土曜日)で有名なのであるが、そのお手伝いと言うことで、焼き鳥を売る屋台を製作したりもした。また、飛騨高山祭りの山車の模型をつくった。何がきっかけとなったのか、登り窯(蛇釜)をつくろうということになって、実際つくった。「木匠塾」なのに、焼物製作も何年か続けることになった。その時の作品?は今でも持っているけれど、なつかしい。

試行錯誤というか、右往左往というか、行き当たりばったりの数年を経て、高根村から加子母村に拠点を移すことになった。加子母村に移っても成り行き次第は変わらない。様々な補助金を得たり、村との折衝をしたり、・・・などは藤澤好一先生が一手に引き受けてくださっていたので、その苦労は身にしみてはわからないのであるが、裏方は裏方で大変だったことは間違いない。しかし、毎年、学生主体の幹事会がよく働いたと思う。試行錯誤も楽しい思い出の方が多い。

自分の身体で、実際にものをつくってみる、というのが、その素朴な原点であろうか。

今年の参加募集は次のようにいう。

実習期間は主に夏期休暇中:参加大学が加子母に集い、木造建築の制作を行う。

例年100名以上の学生が参加:サッカー大会などのイベントを通じて大学間の交流も行う。

地元の工務店の方々による指導:加子母村の地元の工務店の方々に木造建築の制作指導を受けながら基礎の段階から始動していただく。

 学生自身が、設計・積算・施工計画・施工を行う

多くの大学が参加する合同合宿という形態をとることで、様々な出会いがあり、いささか手前味噌ではあるが、少なくとも、塾=教育・研鑽の場としてはうまく機能してきたと思う。1995年に高根村から加子母村へ拠点を移すことになったが、1998年までの活動は以上の特集にまとめられているところである。

「木匠塾」には、京都大学、立命館大学、京都造形芸術大学、千葉大学、東洋大学の5大学が主に参加(2004年度までは芝浦工業大学も参加)してきた。そして、木匠塾は徐々に拡がり、秋田県角館町、奈良県川上村、京都府美山町、山形県五十沢大石田、佐渡島と全国に展開してきた。この四月に京都大学から滋賀県立大学に移動してみると「多賀木匠塾」(滋賀県多賀町)という「木匠塾」が行われており、単位も認定されるという。随分、広がってきたんだなあ、と実に感慨深い。おそらく大きな時代の流れがあるのであろう。

1999年に、「本家」である、「木匠塾」は、加子母村の提案で新たな試みを始めた。「施主制度」と仮に呼ばれるが、村民がこういうものをつくって欲しい、という希望を出し、各チームが興味のあるプロジェクトを選定し、建設するという方式である。村は一プロジェクトに10万円の補助を出す。「施主制度」というのは、これは、ほとんど実際の建築物の、設計施工のシミュレーションとなるからである。小規模であり、工作物を超えないとはいえ、学生たちは、ものができあがるプロセスを疑似体験することになる。われわれも含めて、ものつくりの現場をあまりに知らなさすぎる、というのが「木匠塾」の出発点である。

五年ほど続いたが、実に面白い。富士見台、バス停、藤棚、物置、ベンチ、看板、ウサギ小屋、遊具、茶室、作業器具置き場・・・・・実に多彩な工作物?が学生たちによってつくられてきた。神社の拝殿というものもある。丘の上にある本殿に登るのがしんどくなった高齢者が増えたから麓に拝殿をという要望であった。ポストモダン風の小屋に神社の旗が翻るのはなんともヘンテコな風景だけれど結構人気がある。

わずか10日の期間では完成は難しく、実際設計と段取りに二ヶ月はかかる。そして、下手をすると夏には完成せず、秋口まで村に通うことになる。学生たちの負担も大きいが、特に幹事連中は大変なのであるが、嬉々として参加する。ものをつくる魅力が彼らを強力に惹きつけるのであろう。

村民の方も折角ならいいものを!と若干自腹を切ることになる。村民と学生たちとの交流は、一方で、林産地の現実をよりよく知る機会でもある。何よりも大変なのは、技術指導をして頂く大工工務店の皆さんである。全くのヴォランティアで、多大な時間を割いて頂くのには頭が下がる。短い時間に、みんなそれなりに基本的な工具を使えるようになるのがすばらしい。

三年ほど前から、「五重塔」プロジェクトというプロジェクトが始まった。経緯はあるが、幸田露伴の『五重塔』のモデルにもなった東京谷中の五重塔、戦後「心中事件」に絡んで炎上してしまった、それを復元したいというグループとの出会いがあり、「木匠塾」と連携できないか、というのがきっかけである。全国の「木匠塾」参加者が、斗や肘木を一個ずつつくればいつかできるんではないか、などと、当初は「夢物語」であったが、とにかく、模型ならつくれるということになった。それで始めたのが、1/5の模型製作である。谷中の棟梁に技術指導に来て頂いた。毎年引き継いでいけば、「木匠塾」の持続性の証にもなる。未だ遅々として進まないけれど、徐々にかたちになりつつある。

昨年から、「施主制度」から加子母村の学校林の整備事業をベースとすることになった。村の予算措置、補助事業のやりくりの結果である。「施主制度」は、学生たちには人気が高いが、村の役に立つというのが原点であり、やむを得ない選択であった。それぞれのチームは、学校林への入口を様々にデザインした。橋あり、階段有り、・・・様々なデザインが試みられた。今年、加子母村は中津川市と合併、補助事業の存続が心配されたが、紆余曲折の末、「施主制度」に戻って、とりあえず、続行ということになった。

大学などのカリキュラムに正式に取り入れ、「単位」制にすると、持続性は確保されることになる。しかし、熱心な学生と関心のない学生との間で温度差生じる問題も、出てきているという。それに大学に予算があるわけではない。また、「木匠塾」の活動を支援していく自治体、技能者、コーディネーターそれぞれ大変である。あくまで「木匠塾」の初心に則ったヴォランタリーな参加が理想ではあるけれど、そうもいかないこともある。無理して続けるのも意味はない。「木匠塾」の15年を振り返って、そのさらなる飛躍には、もう少しの「楽しい」試行錯誤が必要なのかもしれない、と思う。



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布野修司 20241101 履歴   住所 東京都小平市上水本町 6 ー 5 - 7 ー 103 本籍 島根県松江市東朝日町 236 ー 14   1949 年 8 月 10 日    島根県出雲市知井宮生まれ   学歴 196...