①カトマンズーパタン ネワール人の高密度居住
天沼俊一の『印度仏塔巡礼記』(一九三六年)とモハン・M・パントさんの『バハ・マンダラ』(上海同済大学修士論文 一九九〇年)を携えてカトマンズの地を初めて踏んだ。アジアにおける都市型住宅の比較研究のための調査が目的でネパールの後インドへ向かう。ネパールではハディガオンという町の調査とトリブバン大学での特別講義が任務であった。
パントさんの論文は英文でサブタイトルに「カトマンズ盆地パタンの伝統的居住パターンの研究」とつけられている。バハとは仏教の僧院ヴィハーラからきたネパール語で、中庭を囲んだ形式の住居のことである。カトマンズ、バクタプル、パタンといったカトマンズ盆地の都市の魅力を、バハの形式が都市の構成原理となっていることを実証するパントさんの論文に導かれてじっくり堪能することができた。
カトマンズ盆地は京都盆地のおよそ四倍あるという。ヒマラヤをはるかに望む雄大な盆地の景観はそこにひとつの完結した宇宙があるかのようである。古来ネワール人が高密度の集住文化を発達させてきた。カトマンズ盆地には、パタン、バクタプル、キルティプルといった珠玉のような都市、集落を見ることができるのである。カトマンズの王宮、パタンのダルバル・スクエア(王宮前広場)、バクタプルの王宮、そしてスワヤンブナート(ストゥーパ)などが世界文化遺産に登録されたことが、その建築文化の高度な水準を示している。
カトマンズに着いて、いきなり、インドラ・チョークを抜けて王宮へ向かった。バザールの活気と旧王宮の建築のレヴェルの高さに圧倒される。パタンのダルバル・スクエアにしても、バクタプルの町にしても同様である。世界遺産といっても遺跡として凍結されているのではなく町は実にいきいきと生きているのがすごい。
そのひとつの理由はすぐさま理解された。広場や通りに人々が集う空間的仕掛けがきちんと用意されているのである。具体的にはパティと呼ばれる東屋、ヒティ(水場)、そして聖祠(チャイティア)が要所要所に配されているのである。様々な用途に今でも使われている。
そしてもうひとつは、都市型住宅の型がきちんと成立していることである。バヒはもともと独身の僧の施設で、バハは妻帯を行うようになってからの施設をいう。バヒの空間は中庭に開かれているけれど、バハは個々の部屋が壁で閉じられ閉鎖的となる。この住居の形式が都市の建築形式として、中庭を囲む形式へと段階的に展開していく。それをパタンに即して論じたのがパントさんの論文である。
天沼俊一の『印度仏塔巡礼記』を見ると多くの写真が載っていて丁度六〇年前の様子がよく分かる。一九三四年に地震があった直後の訪問で多くの寺院が破壊された様子が生々しいけれど、チャン・ナラヤン寺院、パシュパティナート、チャバヒ・バハ、ボードナートなど、今日の姿とそう変わらない。
もちろん、カトマンズは急速に変容しつつあり、スクオッター(不法占拠者)問題も抱えている。しかし、今日までまちの景観を維持してきた住居の形式、空間の仕掛けの力に、日本のまちづくりを考える大きなヒントをカトマンズ盆地の町に見たように思う。アジアにも都市型住宅の伝統は息づいてきたのだ。
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