ジャイシン二世の曼陀羅都市,ネパールーインド紀行③まちの形とすまいの形,日刊建設工業新聞,19961220(布野修司建築論集Ⅰ収録)
③ジャイプール ジャイシン二世の曼陀羅都市
アーメダバードからジャイプールへ。一六人乗りのプロペラ機に六人。途中ウダイプルの町がくっきり見えた。ジャイプールで先発隊と合流。カトマンズ、アーメダバードと三箇所同時に調査隊が活動していることになる。この後パキスタンのラフォールが加わる。
ジャイプール入りすると、早速、調査地区であるプラニバスティーというチョウクリ(街区)に直行、歩き回る。
ジャイプールでは、ラジバンシー教授にお世話になった。マラビヤ大学にいた二年前にもいろいろと教えを乞うたのであるが、彼はジャイプール開発局(JDA)に職を転じていた。最大の収穫はインド調査局が一九二五年~二七年にかけて作成した詳細な地図を手に入れることができたことである。
ベースマップを手に路地から路地を歩き回って、七〇年前の地図が驚くほど正確なのにびっくりする。モスクのあったところにモスクがヒンドゥー寺院の場所にはヒンドゥー寺院が、井戸や小さな祠の位置まで正確に書かれている。インド調査局もすごい調査をするものである。
ジャイプールは、一八世紀初頭にジャイシン二世のつくった計画都市である。極めて整然としたグリッド(格子状)パターンの都市で、ヒンドゥーのコスモロジーに基づいてつくられたとされる。グリッドの格子が正南北に対して一六度ほど傾いており、また、完全なナイン・スクエア(3×3の9ブロック)からなるのではなく、北西の一つのブロックが欠け、南東に一ブロックはみ出ているなど実にユニークな都市だ。
真中に王宮とジャンタル・マンタル(ジャイシン二世はデリーを含め五都市に天文台をつくった)が置かれ、北方にはブラーフマプリと呼ばれるブラーフマンの居住区が今もある。インド古来の建築書マナサラにあるプラスタラに従ったと言われる。マナサラは紀元後四、五世紀の成立とされるが、ヴィトルビウスの建築書の影響があるという説もある。洋の東西の交流をうかがう貴重な古文書である。マヤマタなど数多くの類書がある。
この数年インドネシアのロンボク島にあるチャクラヌガラという都市を調べてきた。バリ島の東部カランガセム王国の植民都市として一八世紀前半に建設されたインドネシアでは珍しい極めて整然としたグリッド・パターンの都市である。ヒンドゥー理念に基づいてつくられた都市はと見渡すと西にジャイプールがあった。実をいうとジャイプールとチャクラヌガラを比較したいというのがインド行の主目的なのである。
ジャイプールの整然とした区画割りも、よく見るとチョウクリによって区画の仕方が異なる。カーストによって区画の面積を変えているのである。均等な区画のチャクラヌガラとは少し原理を異にしている。
都市住居はハヴェリと呼ばれる。中庭式住居で三、四階建てまである。合同家族(ジョイント・ファミリー)ということで、ひとつのハヴェリに数十人から百数十人が住むことも珍しくない。見事な集住システムである。近年は合同家族の制度は崩れ、貸家も増え、さまざまな居住者が混住し始めている。
ジャイプールの町が面白いのは幹線道路沿い間口二間ほどの店舗をづらっと並べていることである。また、二階三階にオフィス、住宅などを有機的に配す立体的に多機能複合の都市となっていることである。
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