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2023年3月26日日曜日

漂流する日本的風景,磯崎新VS原広司 司会 布野修司、学芸出版社,建築思潮05,1997

 漂流する日本的風景,磯崎新VS原広司 司会 布野修司、学芸出版社,建築思潮05,1997


  漂流する日本的風景                  磯崎新+原広司 司会:布野修司           


  布野  ・・・「漂流する日本的風景」という詩的なタイトルなんですが、具体的には建築家と地域計画というテーマを考えたいと思います。地域計画の在り方はどうあるべきか、建築家の役割なんなのか、いま何を手掛かりに、何を根拠に設計していくのか、さらに日本の建築家は何を為すべきかというところまで拡げて議論できればと思います。明日香は日本の原点、あらゆる意味での原点というところがあります。この歴史的風土と景観、地域・自然というところに絡めて、原さんから口火をお願いします。

    

空間の捉え方ーーー容器と場

     ・・・・建築家が空間を、そして地域とか場所というものを考えていく時には、大きく二つの捉え方があると思います。一つは、空間は容器である、入れ物であるという考え方です。たとえば、明日香村ならば、まず村の境界があり、奈良県という境界があり、次に日本という国の境界がある。それぞれの境界、入れ物をはっきりさせていく捉え方です。もう一つは、場という考え方です。大きくても小さくともかまわないが、中心という捉え方です。その場合、どこからどこまでが、という境界がありませんから、ここら辺りが山のピークであるとか、あるいは文化の中心であるとか、そういうことになる。この二つの捉え方が、空間をあつかう場合に昔からあります。

 一般的に、文化を発信していくときには、場に期待をするわけです。そうすると場所に対する考え方というのは、じつは本来非常に拡がりをもっているのではないかということがいえる。仮に境界というものを考えたとしても、その境界を常に大きくして考えていく。「自分たち」というところを限定しないで、段々容器を大きくして考えていく。そういうふうに、文化とか、歴史とか、風景とかを考えていくことが重要ではないかと思います。とかく区画されたなかで考えると、この地域ではこれをしてはいけないとか、何かというと、ゾーニングの理論で展開されがちです。

 僕らは日常的には、行政的な捉え方というものに慣れています。国家の境界というものが今日では最強の境界としてあります。どちらかというと空間とか地域という場合には、容器として捉える癖があると思います。地域計画を考えた場合、ある行政区画のなかで上手くやっていかねばならないということになります。行政的な慣習に慣らされて、入れ物としての空間だけを考えがちである。でもそれでいいのか、という感じがします。

 「日本的風景」というものも同じです。僕らは、空間の性質を考えるときには、常に二つを同時にもっている。境界の中で考えることと、連続的に拡がっていく中心という考え方とを、同時にもっている。地域を考える時にも、それを同じに捉えていくことが必要ではないか。「日本」であるとか、「明日香村」ということを考えたときに、あまり、ここからここまでということにこだわるのはどうか。

 自分たちの場所の歴史を掘り下げていく、考古年代までも掘り下げていき、ある一つのものを探しだしたとします。すると探したものが普遍性をもたないで、その場所、限られた境界の中だけでの話になりがちになるのではないかと思われるわけです。場として考えてみれば、それは中心ですから、拡がりがどんどんでてくる。自分たちの場所性というか、それは限られたものではなくなってくる。

  布野  ・・・原さん、ちょっとよろしいですか。いきなり難しい話から始まりましたが、地域とか地域性をどう捉えるかという問題をまず説明されようとしたわけですね。その前提として、空間というのには容器としての空間と、場、場所としての空間の二つ大きくあるという話から始められた。わかりやすいのは、行政的な区画を予め決めて発想するのは、限界があるということですね。限界という言葉はお使いにはなりませんでしたが、多少問題があると指摘された。地域とか地域性をいう場合は、概念そのものに問題がありますよ、そういう問題提起ですね。

    ・・・・そうですね。

  布野  ・・・例えば「景観」といったときには、行政的な区画とは違い、歴史的な風土とか自然とかに関わるわけですね。行政的な区画とは必ずしも一致しない。「景観」ということで少し先回りすると、そういうことですか? 「日本的な風景」といったときには、明日香とか奈良とか、あるいは京都といった、盆地的な景観がある種の共通の特性を形つくっている。それが日本の地域性をつくっている、という指摘もあるわけですけど、「場」から発想していくとどこまで拡がって行くんでしょう。地理的に離れていても共通性をもつということもあるわけですね。

 

    

「日本」という呼称

 

    ・・・・ここで問題にしようとしているのは「日本的」とか「明日香的」とかいったことが、何処から出てきているのかが問題です。「日本」とか「明日香」というある境界があって、そういうものが出てくるのではない。空間的境界に捕らわれすぎているのではないかと危惧するわけです。そういうものから解放されていく手段として、場が片一方にあるわけです。そこで考えると、風景というのはどうなるのか。新たな空間の概念を必要とするようになってくるのではないか。それはなんだろうということを、まず最初の問題提起としたかったんです。

  磯崎  ・・・前置きを用意してきたんですが、それは後にします。原さんに続けて、僕なりのお話をしてみようと思います。いま議論されているなかで、「日本的な景観」あるいは「明日香的な景観」という特定の場所の名前のついた景観を、われわれはどう解釈していけばいいのかというの問題がでてきました。それと同時に「何何的」という場所を特定する場合の、境界の輪郭の捉え方をむしろ問題にしておかないといけない、そうおっしゃったんだと思います。これは議論を整理する上で、明解な問題設定のしかただと思います。

 そこで一つの具体的な例を申し上げます。いま「日本的」という表現がでてきていますが、「日本的」というのはどういう風に生まれてきたのか? 実はこれは「日本」という呼称がどうやってでてきたのかを考えてみればいいのではないかと思います。おそらく七世紀ぐらいまでは、「日本」なんていうものはなかった。そういう呼称もなかったのではないか。ところが七世紀半ばに、中国と衝突して、百済の応援にいって負けて帰ってくるという事件が起こります。帰ってきて外圧の危機にさらされる。その直後、とうとう新羅と唐の連合軍の何千人かが、北九州に駐留するという事態になる。そういうなかで天智天皇が亡くなり、壬申の乱が起こるという大変動がありました。この大変動のあと、こうした外圧に対して「ここ」を守らなくてはならない、あるいは「この場所」を独立させてゆかねばならないという、一種のナショナリズムが生まれる。その時に、初めて「日本」という呼称がでてきた。これが僕が歴史から学んだことです。もちろんその前に聖徳太子が「日出ずるところの……」とか言ったということはありますが、その時はまだ「日本」とは呼んでいなかったと思います。

 そういうふうに、外に対して、外部に対して内部の、ひとつの共同体が自分自身を関係においてはっきりさせるときに、初めて「何何」という呼称が生まれ、「何何的」という表現がでてくる。それは特定の場所、たとえば「明日香」とか、たとえば「奈良」とかという具合に、地域の呼称が生まれてくるときも同じです。この呼称を外に対して、「ここまでは自分の領域なんだ」ということを名前で示そうとするわけです。「みはらすかぎりのあの範囲まで…」と、昔は決めていたようですが、そういうことを聞くと、特定の呼称は自分自身が外との対応をするときに初めてでてきたことだというがわかると思います。

    

反復される原初の景観

 

  磯崎  ・・・そう考えていくと、たとえば明日香村の風景、奈良の風景、京都の光景、景観という呼び方をする、その呼び方は何から起こったのか、という問題がでてきます。その地域に文化が発生したときに、まわりの山や海や川や野原を組み合わせて出来上がってきたものと、なにがしかの人工物が当時は必ずあったわけですが、その関係において景観はできたわけです。景観というのは僕の考えでは、その文明が特定の場所に発生した時の光景を、ずっーと呼び続けている。つまりその後は、文化の発生した状態を反復するために、「何何的」という呼称を常に呼び続ける。こういうことになってきているのではないか。ですから常に景観を議論するときに、たとえば「京都的」といえば、東山、西山、北山という山で囲まれたあの平地と桂川と鴨川の流れる場所というのが議論のベースになります。それは京都を組み立てたときに、既にその景観はあった。それとの関係において成立した景観ですから、それをいまに至るまで反復しようとする。もし議論があるとすれば、それを崩すものを排除しようとするときでてくる。それだけのメカニズムで、いまの一般的な議論は動いているのではないか。奈良に関してもまったく同じではないか。

 では、明日香の場合はどうか。やはり一つの時代に、この明日香に文明というか文化が、特定の文化が生まれたわけですね。その時にここで生活した人が、いちばん最初に文化が出来たときに見ていた景色が、おそらく明日香村の景観であった。いまはそれに比べてどうなったか、単純に比較において議論がなされていくのだろうと思います。

 それ以外の問題の設置の仕方というのは、ほとんど現実問題として、一つ特定の場所で議論するときには無理があるという気がします。

 僕は今日初めて明日香村を訪れ、時間があったので石舞台までは足をのばしました。それほどたくさん拝見できたわけではありませんが、少なくとも僕は地図をみるかぎりでは、明日香から昔の藤原京付近の光景はつながっているものだと思っていました。が、実は違うということが、今日よくわかりました。写真にはこの景観はほとんど映りませんから、来てみて初めてわかった。来てみて初めて、「ああそうか、そうだったのか」というのが理解できました。というのも、奈良の南半分と吉野の間は、古代の歴史とその時代の記録、たとえば万葉集などにでてくる、いろいろな言葉や光景や叙述や事実を手掛かりにイメージを組み立てているわけです。保田与重郎     ★1   という桜井で生まれて育った人がおられますが、個人的にはこの人の文章をたくさん読んでいます。彼の文章で、これは明日香の光景だと思っていたわけですが、実はそうではなかったようです。明日香というのは別の光景だったのだということが、今日わかりました。それが実感なんです。

 おそらく橿原や桜井という地形から奈良三山といわれる山を見ながら、どのように景観との関係をつくりだしてきたのか。たとえば三輪山がどうだったかという景観の考え方は、常に万葉集や古事記にたち返っていく。そのなかで、はじめてイメージが浮び上がってきます。おそらく明日香村の光景には、そのもう一つ前、あるいはそれと重なる時代の別の光景があったんだと思います。それをどう解釈していくのか、彼らはどう解釈していたのか、それをいまもう一度、今日の状況のなかでどう見ていくか、そういうことじゃないか。

 すると原さんの出された境界という問題設定、輪郭をどこに設定するのかということが重要になります。これは、おそらく行政単位ではないだろう。その時期に発生していた文明のひろがり方、そこで共通の光景として見ていた一定の範囲の古代の人たちが、そういうものから生まれてきた共通の感覚、頭の中に焼き付いたあるイメージでもって、いまのここ範囲でどうだということではなかったと思います。村の境界がどこまで拡がっているのか、どこまで他の要素が入っているのか、それはいろいろな形で勉強してみる必要はありますが、行政区画とは違う形であった。おそらく特定の文化が生まれたときの地域の拡がりとの関係においてでてきているというのが、僕の感じていることなんです。

 

    

外部からの視線

 

  磯崎  ・・・景観というときに、その内部ではなく、常に外部の視線のほうが重要なんですね。いま景観というのは、なぜ議論されるのか。そこに住んでいる人は、もう見慣れている。自分の身のまわりで、自分の必要に応じて組み立て直していく。それがごちゃごちゃ言われる必要もないんじゃないかと思っている。おそらくそう考えているでしょう。それに対して、特定の場所の呼称、あるいは国の呼称が、外部との関係で生まれたということは先ほど言いました。いまその外部とは観光客の視線です。外から来た人が、明日香はこういうものだった、と思いながら見にくる。この外の目に対して、いまの景観や環境的なものが、どのような特徴をもっているのかを説明をしなきゃいけない。あるいはその景観を守る、景観を固めていく時の、その原型をとらなきゃいけない。明らかにこれは外からくる視線なんだろうと思います。それは村の外ということではなく、ここで生まれてきた文化的な領域、ある拡がりの外ということです。逆に言うと、六世紀、七世紀、八世紀という、その時代の景観だったかもしれない。その時代にとっては外部である現在、二〇世紀という別の距離から、われわれの住んでいる今から、もう外である昔を振り返ってみる。これも外部の視線だろうと思います。こういうものが、どのように絡んでいるのかを見ればいいのだと思います。

 僕の考えでは、出発点つまり物事のはじままりの地点に、時間的にも空間的にも返っていく。それを見ることによって、われわれは単純に反復させている。そういう点で景観の問題を具体的にとりだせば、簡単明瞭になるんではないかと思います。

  布野  ・・・景観や地域をめぐっての、大きな理論的な枠組みをいただきました。たとえば明日香に百済から宮廷人などの渡来人がきたときに、自分たちの都であった扶余(ふよ)の記憶というか原型をもとめて、明日香を捜し当てたという説があります。藤原京についても、発掘が進むなかで、“大藤原京”とでも呼ぶ説が浮上してきています。奈良に匹敵する規模があったのではという、立ち上がりのところでの考古学的な知見がでてきています。そうなると地域の原イメージも変わってくるのでしょうか。

 少し、プラクティカルな質問をしてみます。そのなかで、地域起こしや、地域計画、景観を考えるときに、どういう仕掛けができるか。具体的に明日香という舞台でどのような地域計画なり、まちづくりが可能か。如何ですか?

  磯崎  ・・・その扶余の都というのは?

  布野  ・・・明日香の地形が、扶余の都とそっくりだという説があるわけです。

  磯崎  ・・・百済から移住した人たちが組み立てた場所、国といえば国であると。国をつくるときに昔の光景を思いながら、その場所を探したということですね?

  布野  ・・・こんなこと言っていいんでしょうか? 村長如何ですか?

  会場  ・・・(明日香村の関村長)はずれてはいませんね。

  布野  ・・・そうですか。ナラというのはクニという意味ですよね。韓国語では。

  磯崎  ・・・そういう形で、似た景色を探してつくるという例は、歴史上ほかでも見つかるように思います。あの時代の人たちの持っていた、自分たちのコミュニティ「失われた世界」に対してのノスタルジーを、この明日香で現実に組み立てようとしたんだと思います。少なくともこの特定の場所というものを考えれば、すでに選ばれてしまった場所というか、それがいちばん最初にスタート地点として考えることですね。そのオリジンはそうだったと言えますが、議論としてはこの場所に来てから、設営して設備して、一つの文化というか文明を組み立てていった。

  布野  ・・・常に地域なり景観は外から決められる。あるいは文化が発生する原初の景観なり、構えが反復されるだけだという、鋭い指摘がありました。原さんの言葉で再度整理されるとどうなりますか。

 

 

    

歴史の遡行と系列

 

    ・・・・問題を整理するというよりは、もっと拡張したほうがいい。境界というのが内と外の視点でちがうことは、磯崎さんの話で明解になりました。漠然としているけれど、歴史にあるクライマックスというものがあるとします。たとえば律令制度が出来あがったときには最も高揚した時期があって、それがある場所性を規定する起源になっているという意見があります。そんなふうに考えてみると、クライマックスというのは常に過去にある、古いところにあるという考え方にならざるを得ない。そこから如何に解放されていくのかが課題ではないかと、僕は思っているわけです。

 歴史というのは、ある見方をつくっていくことであり、時間的な系列がある。しかし、歴史というものをわれわれは、とかく根源的なるものというか、溯行したものというように捉えがちですが、必ずしもそういうものではない。クライマックスというのは過去にあったと考えがちだが、はたしてそうなのだろうか? 生きるというのは、そういうふうに物事を捉えることだろうかな、というのが基本的に僕にはあります。それは系列ではないか。系列自体が、時間的に変化していくものということなんですが、その系列をどういうものとして考えるのかということです。

 よく話すんですが、南米の文学者であるボルヘス     ★2   がこう言ってるんです。彼に「カフカと先駆者たち」という論文があり、こう書いています。世間の人々はカフカがどういう系列からでてきたのかという理解の仕方をする。ところがカフカ自身が、その前に書いた作品でもって、その次に書く作品を説明するものではない。系列というものを歴史を辿って説明しようとすると、絶対にできない。それは逆である。カフカが、たとえば『城』という小説を書いたときに、初めて系列は生まれる。つまり、歴史とか時間的系列というものはそういうものである。ある事件が起こったときに、その事件が系列というものを作りだすんだ、そういう考え方をボルヘスは言っているわけです。僕はこれはまったく正しいと思っている。

 クライマックスはどこかにあるかもしれない。僕らも建築をつくって、それじゃ歴史のクライマックスになれるようなものをつくれるのかというと、そうではないと重々知っているけれども…。知っているけれど、われわれがつくるということは、常にその系列を逆に溯行する方向にある、そういうものを整理することにあるんだと考えた方がいいんじゃないかと思います。だから、風景といったときに、たとえば景観といったときに「記念すべき景観」というものがあるということはよくわかります。わかりますが、それがどういうものであるかというのは、ある時だれかが上手く振り分けたとか、歴史家が整理したということがあって、初めてそれは「記念すべき」だといえる。

  布野  ・・・ものすごくわかりやすく言いますと、ある地域計画を新しく立てたとする。するとその瞬間に、そういう系列が見えてくるということですね。必ずしも歴史の筋道をたてて、たとえば歴史的な環境を保存していく、守っていくのとは違う系列がある……。

    ・・・・違うんじゃないか……という気がしてるんです。

  布野  ・・・これも重要な視点ですね。建築家の役割は、むしろ、新しい系列を提起する役割があるわけですね。

 

    

ロストパラダイスとユートピア

 

  磯崎  ・・・原さんの発言を反復することになりますが…。僕は時間の問題はこのように考えています。いわゆる近代という時代になって、われわれが思考を開始した時点と、それより前の時点では、物事の捉え方はかなり違っていたのではないか。少なくとも、一八世紀とそれ以前には断絶がある。断絶が起こった理由というのは、このようなことです。

 時間というものを、本来は絶対時間が過去から未来に向かって、均等の順序で流れていっているという概念があった。それに対して、思考の形式というものはまったく逆らっていて、一つの時点から過去に向かって溯行していく。つまり「遡っていく」という思考の仕方をはじめたのが一八世紀です。その時に何を考えはじめたのかというと、いわゆる「ロストパラダイス」ですね。失われた何か、何かあった素晴らしい時点、時を捜していく、回復していくという考え方です。このロストパラダイスという考え方は、別な意味で、われわれの思考の出発をどこにもつかという、ものの考え方の出発点を探すという時に時間を遡っていくのとまったく同じ形式のものとしてでてくる。

 実は時間というものが過去に向かって遡っていくことができるのならば、未来に向かって加速することもできるはずだと、おそらくは考えただろうと思います。それが「ユートピア」の考え方です。ユートピアというのは、未来にある場所を先取りするという考え方です。これは時間を短縮して、未来を現在に引きもどそうとしていく考え方です。これはロストパラダイスという、失われた時、失われた場所に対する思い入れ、ノスタルジーという風なものとは、まったくベクトルを反対にした考え方です。近代の特徴というのは、私の考えでは、これを同時にはじめたということなんだと思います。背景には、科学的な思考としては時間が過去から未来に流れていくことは知っていながら、われわれの思考の形式というものは、それを短縮したり溯行したり逆行したりしている。そうなってくると、遡り方や短縮の仕方、そのやり方が各人で違うわけです。各人で違うということは、別のやり方で遡るということもあるわけです。別のルートで未来を探しているということもあるわけです。各人各様であって、時間が実は一つではなくて、歴史というのは多様な時間で成り立っている。歴史は、無数の時間がよりあわさってできている。一人一人の歴史解釈は違ってくる。一人一人の未来イメージは違ってくるのは当然なのです。

 こういうことをやり始めたのがどうも近代で、これが一本であると思わせた体制が、ついこの前までありましたけれど、いまはバラバラの違う糸なんだとみんなが見ている。だから常に過去の解釈は変ってくる。その時に誰が言い当てたのかということが、もっとも強力で説得力があるということになる。そうするとかなりそこで道筋が見えてくる。だけどそれは必ずひっくり返されるというのが、歴史の常識だと思います。

 そういうふうに解釈していけば、先ほど原さんがだされたボルヘスの例。ボルヘスはまさに、未来へ行くのか過去に行くのか、時間の中で動こうとする時に、あるルートをひとつバンとどこかに設定する。そこから生まれてきたチャンネルが全部に流れていく、そういう時間の中の動き方を発見するということが重要なんだと言ったんだと思います。

 ですから、おそらく原さんの意見と僕の意見が共通するところは、特定の誰もが承認すること、たとえば八世紀の時点の明日香というものが、誰もが共通として認めることはおそらく不可能だと思うところなんです。ただ、八世紀の明日香に接近する仕方を、各人各様がもっていて、各人がいまそれを見ている。僕はそのことを、一つの場所が常に立ち返るような引力をもっている、思考を共有しているということを、さきほど反復を繰り返しているんだと言ったわけです。

 

    

解釈としての地域計画

 

  布野  ・・・ではそうしたなかで、建築家はどいう仕事をしていけばいいのでしょうか。たとえば、さきほど村長が、挨拶の中で、明日香村は日本の原点ということで景観保存を施策としてずっーと展開されてこられたと言われた     ★3    。地域とか自然とか歴史や文化を大事にしながら、それは展開してきたということでした。景観保全ということでは、村長も開発規制や高さ制限の問題を指摘されました。それをやると、一方で産業が衰退してしまい、あるいは過疎の問題がおき、農業がへたりこんだり、結局はそもそもの景観が維持できないということが生じる。非常に戯画化した言い方ですが、そんなことも考えられます。そうした地域計画の課題に対して、建築家というのはいったい何をやればいいのか?

    ・・・・ひとつの地域計画というものは、ひとつの解釈であるということです。解釈を新たに設計するものだということです。だから景観というものは、明日香村なら明日香村の歴史の総体、飛鳥の時代から今日までは飛んでいるのではなく、ちゃんとした歴史が脈々とあって、その歴史自体を現状をも含めてどのように解釈すればいいのかを示すこと、それが地域計画であると思います。だから明日香の景観はどのようなものかというと、こういうものだという決まった定式があるのではなく、それに対する新たな定式を見せるような何かができればそれでいいのではないか。仮に大失敗すれば、その次のまた歴史を建て直せばいいわけです。再興すればいいわけで、それをずっーと繰り返してやっていくことが、景観計画とか地域計画というものではないか、という気がするわけです。修正ができないとすれば、それは歴史の内容だと思います。

 建物のことならば簡単に修正できるのではないでしょうか。前に「京都」をテーマに磯崎さんと話したことがありますが     ★4    、端的に言えば、建物は壊せばいいわけです。大失敗だったら壊せばいい。景観の問題というのはたいしたことはないと僕は思っているんです。たいしたことがないというのは、人間の生死に絡む都市の問題と比べればということです。たとえば交通事故で、いま約一万人の人間が毎年、都市で死んでいるわけです。こういう問題には建築家はお手上げです。ようするに難しい問題には言及しないで、まあ「タバコでも禁止させおくか」というような、禁止を徹底することで共同体を維持してるような最近の傾向に非常に似ていると思います。重要な問題は解決しないでいるわけです。

 だから景観の問題は、一人の人生、命の問題に比べれば問題ではないわけですよ。そういうふうに考えると、壊すことはできるだろうと思います。まあ社会がそれを簡単に許すかどうかはわかりませんが…。ある程度、大胆に解釈をやってみて、そのように考えればいいんじゃないかと思います。それで駄目であれば、もう一度やり直す、次の世代へ託すというように、多様な解釈を次の世代へ伝えるようなやり方が、僕はいいと思います。

 

失敗したら壊せばいい?・・・評価基準の問題

 

  布野  ・・・壊せばいいと言われたのは、建設中の京都駅ビルのことでもありますね。いささか大胆というか、乱暴な意見なような気がしますが、原理的にはそうなりますね。地域計画というのは一つの解釈であって、そのつど新たに設計し直せばいいというのはよくわかります。壮大な無駄をしては困りますけど、うまく共有できる解釈を行うのが建築家ということなのでしょうか? 磯崎さんは、明日香というもののイメージは、誰もがある反復を共有することによってなりたってきたといいながら、一方、近代においては誰もがある共有をすることは有り得ないんだということを言われました。地域計画というのは解釈だ、そうした設定というのをやるのが建築家だと考えていいのでしょうか?

  磯崎  ・・・この建物も壊さなくてはならないかもしれない(笑)。おそらく解釈をさまざま加えていくと、この場所には大きすぎるとか、姿を考えなくてはいけないということは起こるでしょう。そういう議論が、さきほど言った解釈であり批評である。また計画を組立る原理を探すときの手掛かりにするようなものだと思います。そうすると建築家として、どういう視点から、いまこの時点で何かの評価基準を組み立ってていかないといけない。単純に間違ったら壊せばいいというだけでは、簡単で無茶苦茶やって誰かに壊してもらうことになる。やりたい放題やっておけばいいというのでは困る。とりあえず何かの評価基準をつくらなくてはならない。この評価基準のつくりかたが、いちばん混乱して難しい状態になっているんだと思います。

 と言いますのは過疎の問題がでましたが、文化的な施設あるいは生活環境が乏しいと、また労働環境が乏しいと、どうしても過疎化して離村するということが簡単に起こります。それに対して引き留める方法は何かということが、常にでてきます。そして、これは全国様々なところで「村おこし」とか「まちづくり」という議論がなされているのと、まったく共通の問題なんです。僕の生まれた湯布院の街もそうです。湯布院は一望のもとに見渡せる小さな盆地で、数件の宿がある寂れた場所だったんです。村おこしが成功して、そこが何件かのスポットができたことによって観光地になってきた。そこまではいいんですが、今度は類似の施設がどんどん増えていく。たくさんの人が入ってくる。そうなると、いま問題になっているのは環境が壊されるということです。つまり新しい意味での環境破壊が、成功したが故に街に抱え込んでしまったという矛盾が起きています。湯布院の中心部は、週末になると一種の盛り場のようになって、みんなしょうがないからここから逃げようなんて論議にもなってきている。マイナスがあるんだけれど、それをプラスに転化すると、こんどはしすぎちゃって過剰になってしまった。

 そんなことから考えると、新しいことを付け加えなければならないということは言えるけれど、それはある意味でのバランス、均衡のなかで動いていくと思うのです。個々でどういう問題が起こっているのかはわかりませんが、たとえば一〇メートルなり一二メートルの建物規制は結構だ。地域で様々な建築素材を規制するのも、まあいいだろう。イタリアのトスカーナ地方では、何か建物を追加しようということであれば、伝統的な赤瓦と石積み以外の材料を使ってはいけないということがある。日本でもそれに近いことをやっている所はたくさんあります。ただ、それがいいかどうかという議論はやりにくくて、やっておけばマイナスにはならない。ただそれだけの理由で規制はやっているような状況です。その条件をさらに超えるようなよい提案はあるのかと言えば、一般論としてはやりにくくて、現在はできるだけ新しい施設はやめろというのが一般的な風潮になっている。それが極端にいくと、チャールズ皇太子が歴史的な様式をもったものしかロンドンにはいらないといって、新しい建築を排除していったようなことが起きる 

   ★5    。排除のなかで、あれこれ無理してハイテク建築が進出していくという構図がありました。

 湯布院は歴史がありませんから、雰囲気だけの問題でしかありませんが、明日香は歴史遺産もあり、その絡みのなかで都市化の問題もあります。それと上手くいくような建築様式というか素材というか、そういうものがはたして議論されているのか、いいと見られているのかという問題がある。大袈裟にいうと、僕からみると戦争前の帝冠様式の問題、日本様式はこう、東洋様式はこうで、だから屋根をつけなさいというのと、ほとんど同じ議論にしか見えてこない。おそらく景観の問題を建築家として議論するならば、そういう所へ立ち返って建築の問題を議論してもらったほうがいいのではないかと思います。

    

全国一律の景観行政

 

  布野  ・・・景観行政の問題でしたら、私も多少意見を持ち出しています。日本の約二百ほどの自治体がいま「景観条例」を持った段階です。ここ数年で四百ぐらいにはなるだろうという状況だそうです。その「景観条例」たるもの、ほとんどどこも同じだということです。「景観マニュアル」がつくられ、磯崎さんが言われたように高さを決める、あるいはもう少し踏み込んで素材を決めて、色を決めていくということがなされる。ところがそれは矛盾するわけです。「地域に固有の…」と言いながら、全国一律の規定だったりするわけです。どこかの先進県なり、先進自治体の真似をしてつくるわけで、都市計画コンサルは同じ文章に写真だけを入れ替えて提案するというおかしなことが起こっている。そういうものであれば、むしろ能力のあるアーキテクトに任せたほうがいいという考えが、たとえば磯崎さんの「熊本アートポリス」であったんではないかと思うんですがどうでしょう。

 以前に磯崎さんともお話しましたが、条例やマニュアルをつくるよりも、建築家がもう少し地域の景観に責任を持つような仕組みが日本でもできないか、ということを考えたことがあります。熊本アートポリス以降、仕組みの面でも磯崎さんはいろいろな仕掛けをなさってます。たとえばコミッショナーシステムとかプロデューサーシステムなどがあります。建築家が何をしていけばいいのかという話で、そのあたりの評価、現時点での考えをお聞かせ願えませんか?

  磯崎  ・・・熊本の例でいえば、葉祥栄さんがやったガラスが多くて木材を使った建物、石井和紘さんは構造が変っているんだけど木造と瓦屋根という建物、伊東豊雄さんは本当に軽い鉄骨がでてくる建物、安藤忠雄さんは相変わらずコンクリートが地下に埋まっているという建物。こうしたまったく違う建物がアートポリスでは生まれてきている。これはどういうことかというと、一つの様式で、一つのスタイルで解決というのはできない。むしろそれぞれの建築家が、その場所をどのように解釈して、自分のデザインがうまく適合するかということを、自分自身に問いながら、上手くいったものだけが評価されている。

 建築に関していうと、さきほど無理に帝冠様式の議論をしたように、日本で瓦屋根を載せるのは多かれ少なかれ帝冠様式とコンセプトは同じですから、こういうことがはたしていちど議論されながら、そのまま宙づりになって、姿を代えていま現われているという、歴史的な経緯もあります。その基本的な問題というのは、建築というものの理解の仕方、解釈の仕方というものが、あくまでスタイル、見かけのスタイルだけにこだわり、あるいはそこだけが評価基準になっていることが多いことにあるのではないか。それがポピュラーでわかりやすい手掛かりなんだけど、議論があまりにもそれに引きずられているのではないかというように思います。瓦屋根だけがいいというのはマイナス側を押えている。そこにガラス張りの建物があっても、上手くあう解決方法があるのではないかと、僕は個人的には思ったりしています。

     

帝冠様式と佇まい

 

  磯崎  ・・そうやってみると、建築の佇まいみたいなもの、あるいは道路や公園や庭園といったものがつくられときに生まれてくる、特定の気配みたいなもの。そういう、言葉にならないけれど、われわれがその場所に行って感じられるもの。本当は建築が環境と関わっていて、さらにその中から独特の繋がりをだそうというようなことを考えていく時には、僕は個人的には、いい佇まいがあるかないかということが評価に影響していいんではないかと思います。だけど「いい佇まい」というのは、なんでみたらいいのか。一見では見えなくて、感じなくてはならない。感じるというのは人によって違う。そうすると評価基準にはならないという意見もあるのですが、最終的にはそういうものとして環境を感知している。いま流行りの現象学的な視点を追いつめてゆけば、そういうものをちゃんと評価できる基準がでてくるだろうと思います。

 みんな難しいことを言うけれど、プラクティカルな問題から避難するわけにはいかない。とにかく、帝冠様式とは違う視点をださないといけないということは、ひとつ決定的にあるのではないかと思います。

  布野  ・・・佇まいを評価する方法を、アーキテクトに任せることのほうが早いのではないか、というのが僕の意見です。

  磯崎  ・・・それはまったく同じ意見です。つまり文書にしたり、指導要綱にしたりということではまったく駄目で、ある独特の個性をもった解釈のできる建築家の判断に個別の委ねることが必要です。

  布野  ・・・チャールズがロンドンに責任をもつと言ったら、彼に任せるわけです。チャールズに建築家の資質があるとすればですよ。彼は、建築学校つくったんですよね。C.アレグザンダーなんかはチャールズの好みらしいですね。ただそれが永久にというわけにはいかない。五年任期で、任期が終わった段階で次のシティアーキテクトなりが気に入らなければ、原さん流に言うならそれをぶっ壊すと。少々乱暴な話ですが…。若い建築家が、個々の地域計画とか景観に関わっていく時にどうすべきかについては、原さんは如何ですか?

     

法制度を変えよ・・・マスタープランはいらない

 

    ・・・・問題は、ある都市、地域において離散的に配置された施設の良し悪しの問題だと思います。この問題というのは、まったく局小的な景観とか佇まいの問題ですから、かなり建築家に任されていいんじゃないかと思うのです。ところが、ある広いゾーンをどうするのかということがでてくる。そういう時にどうするのか。あまり上手い方法というのを持っていない。ある行政域で条例を決めてやるといっても、条例というのはあまり信用できないという感じがあります。なぜ信用できないかというと、ものとは関係しないレベル、理念のようなところでものを決めているところが法律にはある。すごく悪いものを規制するのにはいい方法かもしれませんが、それによって全体が歴史的に浮上するチャンスがあるにも関わらず、それを殺しているということがあると思うんです。

 すると、あるゾーンの構想を立ててみる作業というのが、絶対に必要になんだと思います。その形式をどのようにするのか。いわゆるマスタープランといわれていたものを、どのような形で描くのか。描き方はいろいろあるとは思います。それを描いてみて、軸にして検討していくことが絶対に必要なんじゃないですかね。

  布野  ・・・離散的に配置されるというのは、具体的には公共建築のことをいわれているのですか?

    ・・・・たとえば、都市において、他は砂漠でも知らないよと、こことここに建てる場所だけは面白く建てればいいじゃないかというのが、現実問題としてあります。しかし、あるいは広い原野の中で、昔のように間隔をおいて建てるというならそれでもいいでしょう。

  布野  ・・・公共建築というか、都市のモニュメンタルな建物について誰がやるのかという問題はあるかと思います。ようするに、能力のある建築家がやればいいということですが、一方で「広いゾーン」と言われたのは、たとえば住宅だったりするわけですね。われわれはよく「地と図」という言い方をしますが、グラウンド(地)をつくっていくようなところをどうやっていくのか、それが問題ですね。マニュアルをつくったり、形態や色を規制したりすることでコントロールしようとするアーバンプランナーの立場からは、世の中は優秀な建築家ばかりではないから規制が要りますよという議論になって、なかなか収斂していきません。最後に言われた、マスタープランは要りますよということについては、以前にもお二人のなかで話題にでたことがあるかと思います。

 磯崎さんはむしろ、マスタープランは止めなさいと言われている。岐阜県で女性四人に公営住宅団地の建て替えをやらせたときに、マスタープランなしでやってくださいと言われた。能力ある建築家が集まってやれば、マスタープランなしでもある種の全体のコーディネイトションができる。そんなことが、「地」の部分でも考えられるのではないかと思います。僕が、タウン・アーキテクトを発想するのもそうしたねらいからなんです。

  磯崎  ・・・行政が、特に建設省がいま使える法律は二しかなくて、一つは建築基準法ともう一つは都市計画法です。これに派生している条例はたくさんあって、いろいろな個別の開発方針や補助金もそこからでてくる。これはどういうことかというと、マスタープランを上からつくって、能力のない街の建築家たちは、それに基づいて、その枠の中でやりなさい…というお上の発想がそのまま法律になっている。これが僕のいまの二つの法律に対する解釈です。この二つをつぶして変えない限り、ほんとうは行政の人たちも困るんですね。それしか実際に住民に対する手段がないわけです。もともと悪い法律しかないにも関わらず、それを良いがごとく言いくるめなくてはならない、二枚舌を使わざるを得ないような状況が現実に起こっている。建設省の人たちにも、それは全部わかっている。わかっているけど、どうしょうもない。改正しても枠は変えられないので、重箱の隅をほじくるようなことになる。みんな頭がいいから、小さい部分をほじくるような法律をたくさんつくる。つくればつくるほど、ものが動きにくくなる。こういう矛盾を過去五十年くらいやってきたのが日本である。いま本当に行き詰まってきたのは、そこに原因があると本気で思っています。

     

マスター・アーキテクトとタウン・アーキテクト

 

  布野  ・・・マスター・アーキテクト制ということをおっしゃったことがありますね。一人が全体を統括する形の内井さんのいうマスター・アーキテクト制と違う発想ですよね。

  磯崎  ・・・審議会でそういうことを言っても、やりますとは言うんだけれど、実際に何時になったらできるのかわからない。そういう実状です。それを見て感じるのは、上から決めていくしかできないマスタープランだけしかないんだけれど、それを一度忘れて、その場その場で、これの方がより面白い、いい解決方法ではないかというものを探す。それがじわじわ動いてできあがるほうが、ネットワークが将来できあがるほうがいい。そのほうがリアリティがあるし、現実問題として無理が起こらない。できるだけマスタープランをつくろうとしている上の悪い作用を及ぼさないようにしてくれと…。少なくともそれをサスペンドしてほしい。そういうことをいつも考えるわけです。熊本の場合でもマスタープランはつくりませんでした。岐阜の場合もマスタープランなしで、四人で議論しているうちに、何時の間にかマスタープランらしきもの、同じものができあがる。そいうやりかたが実際にやろうと思えば、できるはずなんです。そして、それをより効果的にするには、基本的な大きな枠組みを法律のレベルから変えて欲しいというのは、いつも思います。

  布野  ・・・いまの脈絡でいきますと、原さんが必要だといったマスタープランは、少し違うようですね?

    ・・・・磯崎さんのも実はマスタープランであり、そういうやり方があるんだと思います。従来の意味で、それはマスタープランと呼びたくないんだと、磯崎さんはおっしゃるんだろうとは思います。言葉、概念として、いままでと違うことをやったんだから、それはマスタープランと呼びたくない。そういうことだと思うんです。しかし、何らかの形で全体に対する言及は欠かせるかといえば、そうはならない。磯崎さんは、おまえら勝手にやれというようにまかしたという決定をしたわけですよね。そこが極めて重要ですよね。そこの所を、いろいろな段階でどのようにやるべきかを考えたものこそがマスタープランだと思います。言葉がまずければ、計画の作り方というのが、おそらく必要ではないのかなと思います。

  磯崎  ・・・マスタープランというと語弊があるかもしれませんが、そういう種類のものはいったい何だろうかと僕は思っていたんです。たとえば大昔に、藤原京はここでいいんじゃないかというのを、誰が決めたのか? 何故ここがいいんじゃないかと決めたのか? 平城京もそうですし、平安京も同じことです。そう決めたときに、ここはなかなかいいと見つけてきた人がいるはずです。平安京の場合には、それは風水師らしい、道教のコンセプトがあって…などと、少しずつ復元がなされつつあるようです。彼らはその場所へ行って、この場所はいけるとかいけないということを、感でもいいんですが、理屈づけて決める。ただ一番最初に、ここはいけるというふうに思う、何かがあったと思うのです。たとえば吉野などは、誰も風水理論で説明していなくて、山岳密教や山城云々で言われたりしますが、やはりあの場所へ行くと、何か不思議なものがたちあらわれてくるような、山の佇まいも含めて、そうした気配がたちこめています。おそらくそれを感じたから、あそこを探したのだと思います。

 だから、いまマスタープランをやれる人は、そういうものがわかる人、理屈じゃなくて、感じられる人。昔は陰陽師がいて役をもらっていましたが、いまは都市計画家として図面を引いたというレベルではなく、もっと別のレベルでの感覚をもった人が、判断力をもっている人がでてくればいいと思うんです。世の中を見渡すと、職業的に僕はそれは建築家がいちばん近い存在だと思います。建築家という領域の中から、それを養成する以外にしようがないと思います。

  布野  ・・・かなりの層が必要だと思います。そうでないとタウン・アーキテクトはなりたたない。

     

分散論の限界と高層建築

   会場  ・・・明日香という地域からは少し離れますが、原さんの新梅田シティや建築中の京都駅ビルを見せていただくんですが、その建築哲学のようなものを聞かせていただけませんか?

  布野  ・・・短い時間で建築哲学を語れというのはずるいですが、原さんいかがですか?

    ・・・・それは非常に長い話になると思います。なぜああいうこと、高層化をするのかというのは、地域計画ということとも、日本の原風景ということとも密接に関わることなので、お答えしようと思います。

 日本では分散論がさかんで、集中というのは間違いで、いろんなものを分散したほうがいいんだという議論が基本的あります。その考え方は、僕らがいろいろな形でみている日本の原風景、日本的風景というものは、自然の中に調和的にものがあって、比較的ものが離散的に配置された、のどかな風景であるから、人間の快適な生活のために今日まで続けているんだということですね。では近代化ということが、いったい日本の状態、分散という問題にどう影響を及ぼしたのか? われわれのなかにある景観、日本的・村落的な、ある景観のイメージを引きずって都会に集まってきた人たちが、どんどんスプロールしていく。そういう現象の結果、いまでは自然が都市化される面積は、一年あたり三三〇平方キロメートルほどの速度をもって侵食していくんです。それは、東京都の都市化された面積が約一千平方キロですから、三年に一つ東京都ができてくるというスピードで、都市化が進んでいる。過疎などの問題があるんですが、そういう現実が数字として示されています。ワールドウオッチ研究所というところがだしてきたデータによれば、たとえば日本と台湾と韓国については一九五〇~六〇年代から今日までに、農耕耕作面積を半分に減らすということになっています。

 だから景観とかいう問題もありますが、僕はどちらかといえば、人間が生きる環境領域を限定していったほうがよいという考え方にたちます。いま砺波平野や出雲平野にみられるような散居村形式で住もうとすれば、その分散論のモデルをつくってみると、空きが二十メートルほどしかとれないわけです。のどかな散村型の風景の延長で、人間の欲望の解決策を追求していったときに、どのようになるのか? 都市と農地をぜんぶ足して、そのなかにバァーと人間をばらまくモデルを描いてみると、日本における昔の離散型集落での平均距離は、およそ八十メートという結果が得られました。それが現在では大幅に縮まってきて、分散的に生きる構図自体は危機になってきています。

 

  布野  ・・・いまのお話は関心は日本の国土レベル、地球環境レベルでの考えかたと理解していいですか。

    ・・・・いや地球全体に及ばないように話しているつもりです。それはもっと大変な問題があるんです。日本に限定して考えてみても、おそらく、新梅田シティとか京都駅ビルとかでいちばんわかりやすい話は、なぜ高層化するのかということだと思います。僕はその話をしているつもりですが、単純に言えば、人間はもう住む領域をここで止めて、限定した都市再開発をせよということです。少なくとも日本はそうすべきだ。もしみんなが、快適さのために広い面積が必要だといえば、その限定した中で生きるべきだということなんです。世界は一年に九千万人の人口が増える、一日二五万人が増えるというスピードが現実なわけです。

  布野  ・・・東京が九つ、一年でできるわけですね。

    ・・・・そう。そのなかで日本人が、いったい何を主張し、何を理念として生きていくのか? 大袈裟なんですが、それに僕は国家とかは好きではありませんが、そういうことだと思います。環境問題などで、発展途上国でも何をしては駄目、あれは駄目といわなければならない現実が目に見えているわけです。だけど温暖化の問題にしろ、なんにしろ解決しなくてはなりません。いまは餓死した人は無視したりしていますが、その状況の中で都市に住む人たちに、餓死してはいけない、住居はみんな平等にもたなくてはいけない、という理念をたてたならば、いったい世界でどういう都市形態を考えればいいのか? その時に、やはり分散論は駄目だ、無理だと僕は思いました。

 いろいろデータを調べると、日本は特にアウトなんです。だからわれわれの中にある、幻想的な日本的風景とか地域性とかは、根本的に誤っている、錯覚しているのではないかということを、僕はズーっと長いあいだ思っているわけです。それは集落調査をしたとき、アフリカの餓死していく子供たちに遭遇し、帰国してすぐ食料自給率や人間が生きていくうえでの農地の必要性について調べてみたんです。そしたら大変なピンチであることがわかった。そのことを「朝日ジャーナル」などで発表すると、お前は農本主義者だと言われたんです。時あたかも、外国産の食料がすごい勢いで入ってきて、飽食の時代が始まったんです。公害問題こそみんな注意しましたが、世界の農耕地のピンチについては誰も言及しなかったんです。

 リアリティとしてはいまでも、誰もこうした意識をもっていない。だけど遡っていくと、今日の最初の話にもつながりますが、世界的状況でもし物凄い飢餓状態がでてくれば、その時に「日本的風景」とか何かは、いったいどういうものになるのか。それは、今とはガラッと変るわけです。

   

「持ち家政策」の欺瞞

 

  磯崎  ・・・結論はかなり似ているんですが、プロセスが違うんです。僕は、日本政府が過去四十年くらいとり続けてきた「持ち家政策」をずっーと批判してきたつもりなんです。諸問題の根源はすべてここにあると思ってもいる。たとえば政治は五五年体制、官僚機構は四〇年体制というようにいわれていますが、その状況は依然として変らない。五五年体制がつくった最大の政治的課題というのは、日本中を総中産階級化するために「庭付一戸建住宅を持つことができるよ」という幻想を、まず組み立てた。それがすべての政治的課題であるとして、歴代政府がずっーとやってきた。かれこれ四十年ほどになるわけです。それは、大きな会社にみんな所属し、そこで土地取得、住宅建設のローンを組み、それを銀行が保証する。とはいえ、それを裏書するのは自分の所の会社であるから、永久雇用をしなければ、それはできない。つまり会社が縛ることができる。と同時に、あらゆる金融、担保の取り方、一切合切が、各人が庭付一戸建住宅が持ち得るんだという幻想に向かって、日本の政治や経済が組み立ててスタートした。これが五五年体制で始まったんですね。その末端とでもいうべき後始末が、後始末さえできないのですが「住専」です。銀行がパンクしてダウンしているのも、バブルが崩壊したのもその後始末です。ちょうど過去五年くらいの間に、日本政府がとり続けてきた問題が壊滅状態になってきたことは誰もが知るところです。

 その根源は、実は都市政策であり、住宅政策である。それに関わってきているわれわれ、建築家や都市計画家が、その細部を埋めるためこれまで作業をさせられてきたという関係の中でできあがってきている。大都市が壊滅していったというのは、おそらく庭付一戸建というものがとり得ないにもかかわらず、依然としてそれを持っている。細かくやって細部を穴埋めしようとはしています。高層化して立体分譲ができるようになるまでに、ものすごく時間がかかって、いたしかたなく立体分譲をやるという政策をとらざを得ないことになる。結局、本質的な解決にはならなくて、五五年体制のときに持った一戸建の推進に、すべて戻ってきているんだと思います。

 原さんの言われたことは、このようにして出来上がったものが、もう少しマクロに見たらそれ以上の危機が押し寄せているということだと思います。僕は個人的にそこの問題に関しては、土地とその他に住みわけするという考えが必要で、適切な考え方だと思います。都会で住む人でさえ、大都市で働かなければならない人でさえ、同じ条件をということで同じ幻想を与えてしまったことにいちばんの問題があった。彼らを第一次機械時代のロンドンのような、劣悪な生活条件に置くこと。都市とはそういうものなんだ、劣悪な生活条件なんだということを、冷たく認識させるようにする。近代の都市計画は“太陽と緑と空間へ”ということが、あるいは田園都市が一般化したように、第一次機械時代の都市の劣悪条件に対する批判としてのみ組み立てられた。そこで組み立てたられた法則というのは、いままで構造的な変化をもたらすことが、実はできなかったわけです。それをいじましく日本は解釈し、政策にしてしまった。それがいまの元凶なのではないか。

 そこから跳ね返って、いまの都市計画の構成の仕方、政策のつくられ方、それを受けとる住民サイドの意識、庭を諦めるとか、緑を諦めるとかいう、幾つかの条件をやらない限り都市には住めないということをはっきりしたほうがいいのではないか。都市に住むには、それだけの利便があるわけです。それに対して、こちらが何かを捨ててそれをもらわなくてはならない。それは空間と緑と太陽かもしれない。近代都市計画が狙った、この三つの幻想としてのスローガンをぜんぶ捨ててもらって都市に住み、たとえば文化であるとか便利さであるとか、新しいメディアであるとかをもらっていく。そんなことしかないのではないか。上手い具合にバランスをとって両方できるというふうに言うのは、これは政治的詐欺である。理論的にも、成り立たないものを言いくるめるという詐欺である、そういう状態がいま起きていると思います。

   布野  ・・・ほぼ時間が尽きました。以上でこのシンポジウムを終わらせていただきます。どうもありがとうございました。

           (一九九六年一〇月二六日、明日香村中央公民館)   

   

★1 昭和初期(一九一〇~八一年)の評論家。亀井勝一郎らとともに「日本浪曼派」を創刊、その中心的指導者として活動した。古典への思慕とドイツロマン派を切り結んだ独自の発想による飛躍の多い硬質な文体が魅力的。

★2 アルゼンチンの詩人・作家(一八九九~一九八六年)。ヨーロッパで教育を受け、二〇年代にラテンアメリカに前衛詩の派をつくる。幻想的な小説で知られ、多くの詩集、小説がある。

★3 公開シンポに先立ち、明日香村長関義清氏に発言をいただいた。日本書記、古事記の舞台となっている明日香村は、都市計画法で「明日香村歴史的風土保存地区」として守(=規制)されている。建物規制もおこなわれており、高さ、形態、色などにも規制がある。

★4 磯崎新+原広司「京都あるいは消滅する都市」、「建築文化 特集“建都一二〇〇年の京都”」一九九四年二月号、彰国社

★5 プリンス・オブ・ウェールズ(チャールズ皇太子)著の『英国の未来像・建築に関する考察』で、伝統的なイギリスの建物や風景が、近年次々とこわされていく事実に直面して、彼はこれではイギリスは滅びると感じた。そこで破壊を食い止め、再び古き良きイギリスの美しさを取り戻すために、「何世紀もの間、建築家や建設業者を導いてきた規則やパターンを少し発展させる」必要があるとして、その「規則やパターン」を「一〇原則」にまとめた。

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 この記事は、建築フォーラム主催「建築思潮・明日香村会議」として、一〇月二六日、奈良県明日香村と吉野山・東南院で開催された公開シンポジウムを収録している。同イベントでは、磯崎新+原広司「“漂流する日本的風景”~地域計画と建築家の役割」と題する公開シンポジウムと、お二人を含む建築家五〇人の合宿会議が行われた。

 


2023年2月16日木曜日

2022年8月2日火曜日

居住と住居のあいだ, 対談 石山修武×布野修司,建築雑誌,日本建築学会,200704

 居住と住居のあいだ, 対談 石山修武×布野修司,建築雑誌,日本建築学会,200704

『建築雑誌』4月号特集「住むための機械の未来」

 対談

 

居住と住居のあいだ

 

 

石山修武[早稲田大学教授]

 

いしやま・おさむ

1944年生まれ/早稲田大学卒業/同大学院修了/著書に『建築家、突如雑貨商となり至極満足に生きる』ほか、共著に『都市・建築の現在』ほか/作品に「観音寺」ほか/「伊豆の長八美術館」で1985年吉田五十八賞、「リアスアーク美術館」で1995年学会賞(作品)受賞ほか

 

 

布野修司[滋賀県立大学教授]

 

ふの・しゅうじ

1949年生まれ/東京大学卒業/同大学院修了/建築計画/工学博士/著書に『曼荼羅都市――ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』『世界住居誌』『近代世界システムと植民都市』ほか/作品に「スラバヤ・エコ・ハウス」ほか/1991年学会賞(論文)受賞 2006年都市計画学会論文賞受賞

 

 

[司会]

新堀 学[編集委員会幹事/新堀アトリエ主宰]

 

松村秀一[編集委員会委員長/東京大学教授]

 

「未来」への視線

新堀――今回の特集は「住むための機械の未来」と題しましたが、まず住宅というところをスタートラインにさせていただきます。

 今回の特集の動機自体を先にお話しさせていただきますと、住宅といった瞬間に思考停止状態に陥ってしまうようなところに少し危機感を持っています。

 例えば、ステレオタイプではない住み方の話、あるいは逆に住宅本来が持っていた考え方の可能性のようなものが見失われているところがあれば、それを発見したいし、あるいは「もう住宅じゃないんだ。生きるという現場でありさえすればいいんだ」という根本的な話でもかまいません。今日は住宅をめぐる現状の輪郭のようなものを押さえていければと思っております。

石山――最近住宅に関して書かれた本のなかで感銘を受けたのは、面と向かって言いますが、松村さんの本[1]でして、非常に面白かった。未来ということに関してこの本が傑作だったのは、最後の未来というところでガンツ構法というのがあるのかなと思ったら、これはないわけで、歴史的に書いているけれども非常にバーチャルな、でも非常にリアルなことを書いておられることですね。

 私はあの本のなかで、未来に関しての考えが非常にリアルだということに逆にびっくりしましたが、本誌でやるべきことは、意識的に楽観性を帯びてどれだけ語り合えるかということに尽きるのではないかと思っています。

松村――人の借り物で恐縮ですけど、ガンツ構法というのはSFに出てくるある種のバイオで、菌の粉のようなものを混ぜると勝手にかたちができていくアリ塚のようなものです。それを自由に操れるおじさんが出てきて、それがガンツと言います。その技術が広がって、森林のなかに入っていき、ブルドーザーで土をかき分けて、その粉を混ぜるとある種のシェルターができていくという構法の話です。

石山――これまでの評論やアカデミックな論述の枠に入っていないのです。今のバーチャルとリアルという大テーマの境界線を、かなり的確にスタイルをつかんでいたと思います。

布野――基本的に私は建築を学んだ最初から住宅にこだわって考えてきたつもりです。いま松村さんと石山さんがお話しされたことで多少関係がありそうだと思うのは、500年ぐらいのスケールで見たときに住宅とその集合、あるいは都市でもいいですが、どう見えるのかということですね。リモートセンシングでインテルサットから俯瞰すると、500年間の人類の居住の実験を見ることができるきた。人類は、住居の形、都市の形をさまざまにうみだしてきたわけです。そこにさまざまな可能性を見る必要がある。

 そのかたちに可能性がないとすると未来はないのではないか。人類が生まれてから住居や集落、都市をつくってきて、そのかたちに答えがないとしたら、未来も読めないのではないか。私はこの間、街区組織とか都市組織、都市型住宅のかたちがどうなるか、ヨーロッパよりアジアについて、ずっと関心をシフトさせていったわけです。

 最大の問題はやはり工業化で、人類の壮大な実験をゴチャゴチャにしてしまったのがこの150年ですね。

石山――先ほどの話とつなぐと、布野さんの考え方は、リアリズムのようなことからおっしゃっていますが、私はそれはもう限界だと思っています。飛躍といったことではなくて、意識したノン(?)フィクションのようなことをどうやって書いていけるかということに尽きると思うのです。それでガンツ構法ということを申し上げたわけです。

 例えば、住むための機械というと、普通われわれ古いインテリゲンチャたちはル・コルビュジエや、せいぜいダイマキシオンハウスなどを考えますが、その系列のなかでいま布野さんがおっしゃったようなことのなかだけで考えていくと、おそらくもう未来がない。

 一番とんがった機械というのは、例えば宇宙船で、地球から離れてフッと浮いて孤立してやっているわけですから、あれに住宅のスタイルを重ね合わせることに意味があるかといったら、これは全然ない。

 宇宙船というものに大変な意味があるとしたら、少し不思議な言い方になってしまいますが、初めて宇宙船で宇宙に出ていったときに宇宙飛行士たちやシステムエンジニアが感じたであろう地球との一体感だと思います。離れてみて、初めて「やっぱり、ちょっとヤバいぜ」という感じになる。それは地球環境や、そういう空疎な概念ではなくて、体や思想そのものでわかってしまったようなことを、おそらく宇宙船があの人たちにもたらしたのだろうと思います。私はああいうものの意味を認めるとしたら、機械というものの未来の可能性はあるのではないかと思います。

 だから松村さんがガンツ構法のリアルとアン・リアルの境目のことを書こうとした意欲と、宇宙船の意味のようなものは、意外と近寄っているのではないかと思いますね。例えば、われわれの共通の友人である大野勝彦さんの仕事(セキスイハイムM1[以下、M1])も非常に大事な仕事でしたが、「工業化の果てに」という捕まえ方ではなくて、もう少し視点をずらしてみると、社会的に共有化されるハコをつくれるのかどうかです。これははっきり言って、資本主義ではつくれないですね。

 でも、あのビジョンは一瞬のビジョンだったと思いますが、今でもそれは追いかける可能性は十分にありすぎる。それは彼が言っているガンツ構法と同じなのでしょうね。要するに希望の先としては、ああいうものが共有できるかどうかで、おそらく見果てぬ夢に終わるけれども、そういうものを共有できるかということに、今は焦点が絞られているのではないかと思います。

 

技術とビジョンの射程

松村――石山さんの開放系技術の世田谷村というのは、今のお考えのなかではどのような位置づけになるのでしょうか。

石山――ベースは剣持伶の規格構成材理論です。でも、それのリアリティは今はものすごくありすぎるので、私はもう少しビジョンの方に行こうと思って、それで開放系技術だと考えています。

 それをクローズドシステムなのかオープンシステムなのかという議論に行ってしまうと、もう何も生まないから、私はひとつの理想として「すでにあるものであるのだ」ということを言おうとしました。

布野――『群居』の出発点は、大野さんのハコ(セキスイハイムM1)ですね。都市組織、街区組織と言いましたが、おそらくそちらに行かないといけないという感じはあったわけです。だから「群居」なんです。

 石山さんの話をすると、社会的に共有されるハコへ行きたかったけれど、自分のうちを村にしてしまわざるを得なかったんじゃないですか。古い言い方だけど、個から全体へか、システムか、という議論はずっとあったけれど、結局、自分の家を村にせざるを得なかった、行くところに行ってしまったなという感じがある。そうすると、あえて開放と言わないといけなくなる。世界が閉じてしまっては困る。そういうふうに見えていたのですね。

 しかし、ハコのシステムで世界を覆うというのは原理的には無理ですが、ハコが「群居」する、そのさまざまなかたちにまだ可能性があるという言い方をもう少し議論する必要があると思います。

 日本の住宅はどうか、世界の住宅はどうなっていくかという話だと、個々の建築家のイリュージョンやビジョンといったことで完結しない話がおそらくあるわけでしょう、今回の特集でもね。だから社会主義リアリズムでもなんでもいいけれど(笑)、システム的に考えたときに、例えば、宇宙船の話でいうと、それが本当に完結、自立するのかという問題があるわけです。

石山――そうではなくて、宇宙船という即物をイメージしたら、もうそれでお終いなのですよ。宇宙船というメディアをきちんと思わないと。メディアというよりも、それを使っている人間、宇宙船という機械を使っている人間の方に主体を持っていって、彼にとって宇宙船とか地球はなんなんだろうかという視点がないと、布野さんが抽象的だと感じているようなビジョンは絶対に生まれない。

松村――石山さんがそういう考えになったのはいつごろですか。何か変わったんですか。

石山――最近ではないですが、21世紀になってからではないでしょうか。

松村――『群居』が終わってからですか。

石山――そうですね。自分でキーワードとして開放系と言ってみて、逆に、それに考え方がついていったというか。それとバーチャルなビジョンと両方を等価に見ていかないと、一番最初に申し上げたように可能性は見えてこないだろうということです。

 住宅とは何かとか、都市型住居の可能性といっても、日本で戸建て住宅の未来なんてありっこないのですから。でも、そうではないビジョンを得ようと思ったら、違う方法で見ていかないといけない。だから、先ほど私が「どうしても意図的に楽天的にならざるを得ない」と申し上げたのは、そういうことではないかと思っています。

 

機械と世界と

新堀――少しM1の話をさせてもらいます。今回の特集で中村政人さんという芸術家の方にインタビューしましたが、彼はM1をもう一度使いたいと言っているアーチストで、先ほど言われた話に戻りますと、「M1は無目的なハコというコンセプトの部分に立ち返れる。その自由さがすごく大事だ。なおかつ、それで世界を覆っていくというビジョンが明確に見えるじゃないか」とおっしゃるのです。M1ができ上がってからこれだけ経って、そこにもう一度立ち返ってくる人がいるということは、私にとってはすごくエキサイティングなことです。

私たちは住宅といったときに、敷地が当たり前にあって、そこに対してお金を出して、買い物をしますというサイクルを前提にすること自体に、いま石山先生が言われたように限界感を感じている。そうではない、それこそ、もともとコルビュジエが「住むための機械」と言われたときにパッと広がった世界というのは、その機械を通じて私たちは世界に出ていけるのだという期待感があったような気がするのです。

石山――今おっしゃっている機械というのはもう少し具体的に言うと、コルビュジエのドミノみたいなことを言っているのですか。それともコルビュジエが言っているように、飛行機とか自動車というスタイルを言っているのですか。

新堀――それはコルビュジエ自体が両義的なので、私も厳密に「どちら」と言い切れないのですが、人間は裸でいるとただの裸のサルでも、例えば、裸のサルと世界の間に機械を置くことでこちら側が人間になるというような、先ほど言った一種のイマジナリーなひとつのレイヤーがある。バーチャルと言ってもいいかもしれませんが、それがいま言っている機械というものに一番近いのかもしれないと思います。少し苦しいのですが。

松村――住むための機械という、先ほどから石山さんがおっしゃっているようなビジョンと、その後、現実に進んでいったパッケージした住宅が商品化されていくということと込みで表現されているのではないですか。

新堀――そういうイメージはかなりありますね。「機械」のなかにすでに分裂があるというところはたしかにあります。

石山――私は「じゃあ機械って何だろうか」と言ったら、正確に繰り返しができる、生産できる、その機械をいうのであって、そのラインでいったら可能性はそれほどありません。

 機械はバーチャルなものを生むかもしれないし、要するに未来というのはある種のプロトタイプですね。それがビジョンじゃないとわれわれは生きていけないから、そのときにコルビュジエが言ったような飛行機やドミノなど、そういうものが相変わらず頭のなかにあったり、失礼な言い方にならなければいいですが、ハコとかそういうものがまずプロトタイプとしてあるということは、私はそれほど大事なことではないと思います。

布野――それは私も一緒ですね。大野さん自身も、はっきりおっしゃるかはわかりませんが、早い段階である種転向したわけですよね。地域工房のネットワークと言われ出したときには、おそらく限界をわかっていたからそういう攻め方をしようとされたと思っています。

石山――例えば、コンテナはコンテナリゼーションというシステム、流通というシステムで世界中覆い尽くしてしまっているわけですよ。

 

ハコを超えていく住居

布野――私はこの2,3年間は山本理顕や鈴木成文先生の51Cの議論に付き合わされてきましたが、そのレベルでは家族や社会的な編成が問題になります。国内的には今の高齢化の問題や少子化の問題のなかで、今のハコでよいのかという議論が大きいのですが、基本的に、一人の建築家が回答できる問題ではありません。

新堀――私もあまりないです(笑)。

布野――建築家が用意できるのは、空間の骨格、住区組織や街区組織の方です。空間は、住み手によって、簡単に乗り越えられるものです。建築家という職能の議論になるかもしれませんが、やはり何かを用意する役割がある。もしかすると、それが、新堀さんがおっしゃっている機械かなという気がします。

 もう少しわかりやすく言うと、例えば、スケルトンーインフィルのスケルトンでしょうか。インフラといってもいいですが、、要するに住宅的なある種のストラクチャーを提示する必要性があるでのはないか。スケールはいろいろあって、それは集合住宅だったり、街区レベルだったり、都市全体だったりしますけれど。

 だから「ひとつの住居のプロトタイプをつくって」という議論にはあまり乗りたくないというか、「そんなもの、好きに住めばいいんじゃない?」と思う。それこそ500年間を見ていたら、みんなそこで生きて死ぬわけです。一番大事なのは境界をめぐる所有の争いですよ。地形(ジガタ)が大事で、土地、建物の所有関係をどうセットするかによって上のスケルトンや空間形式が違ってくる。その型で新しい手があるかどうかは興味があります。

松村――布野さんはインドネシアの都市カンポン(密集市街地)を調べられたり、コアハウスやビルディング・トゥギャザーなどをやっていらした頃から、もう……。

布野――問題意識はほとんど変わりませんね。カンポンのように所有関係が「近代法」化されていない世界で、使用と所有がかなりグチャグチャで、家族関係にしてもかなりフレキシブルな場合には、要するにハコではない、M1ではないプロトタイプのようなものをいくらでも思いつくわけです。それは一体どういうものがあるんだろうという興味がずっとある。

石山――私も布野さんに連れていってもらってアジアのそういう地域を見たけれども、外れたところに行くと本当にインフラも何もなくて、例えば、チベットのようなところでは、皆モバイルとコンピュータを持って、変な、われわれより全然新しい生活をしています。インフラがないから、すごくフリーですよ。

 それがいいかどうかはまだわからない。でも、遅れて近代化を十分に達しなかった国の具体的な道というのは結構あるのではないかと思います。

 これは松村先生の理論というか、教えてもらっているデータで、要するにもうスペースは十分にあるわけですね。それを住宅と呼ぶか呼ばないかということだけであって、住宅とわざわざ呼んでみても可能性が全然ないと。

 違う呼び方はどうなのかわかりませんが、そういうバーチャルな概念のようなものを出さないと、私は住宅という言葉はそれほど未来を示していないのではないかと思います。「日本の場合は戸建て住宅がちょっとおかしいな」ぐらいのことは、誰でも常識で知っています。だからもし未来があるとしたら、住むための機械というより、古い言い方ですが、住宅という言葉を解体していかないと、本当にわれわれは未来が見えてこない。住宅と言った途端に何かイメージしてしまうのですね。

 

居住世界の変化と職能

松村――いわゆる建築の設計で生きていこうとする人たちは、今までのパターンですと、ほぼ必ず最初は住宅ですよね。例えば、『新建築』住宅特集であったり、最近では『カーサ ブルータス』など、住宅作家というのか何と言うのかわからないけれど、住宅というものを極めてはっきり対象としてとらえているでしょう。

 むしろ住んでいる人よりもはるかにパッケージしたものとしてとらえて、自分が育っていこうという、建築家の世界の方に非常に保守的に残ってくる概念のような気がしますね。それをやって次に行くぞという意味でも、その職能のあり方があるとしたら、そういうことではないかもしれないのに、職業として成立していくときの仕方がそうなるでしょう。

布野――東京の学生はわからないですが、京都あたりで見ていると、まず住宅の設計のちゃんすがあるかどうかという問題があって、例えば、滋賀県立大学の学生は内装や改造を頼まれて、セルフビルドで楽しそうにやっています。

松村――住宅を建てる前に、まず改造から入る。

布野――そういうところでトレーニングをしながら、地域と付き合うという方向には可能性があるかな。私が言っているタウンアーキテクトが地域の世話をするなかで、「建て替えをしますよ」といった住宅の仕事が転がり込むかもしれないという予感はある。

石山――教育のなかからでも絶対に生まれないですね。社会学を教えればそういう人が出てくるかというと、そうでもないと思いますし、私は基本的には教育の問題がものすごくあると思いますよ。住宅の教え方、生活の仕方。要するに教え方というか、伝達の仕方がどうもうまく行っていないというか、もう現実に抜かれてしまっているのに。教える側の問題でしょうね。当然学生も含めて、その循環がありますからね。だからアナザウェイではないですが、違うものを提示しないとだめなんだろうと思います。例えば、これは教えられて非常にびっくりしましたが、機械と思っていた、要するにバッキー・フラーの設計した家がもうすでに古色蒼然として見えるのはなんなんだろうか。ドミノを見ても「なに、このポンチ絵は?」と。そういう感じがすごく大事ではないかと思います。

松村――そういう感じはなんとなくわかりますね。

布野――『群居』で考えてきたことと、そんなにずれていなくて、例えば、東洋大学にいたときは学生が地域ビルダーとして生きていこうとする層が多くて、大野さんの地域工房ネットワークという発想が強かったのです。京都大学では、地域生活空間計画という講座に行ったのでコミュニティデザインリーグというものを始めました。そこではコンバージョンや需要の話もでてくる。建たなくなって建築家が生き延びるために三つぐらいの道がある。ひとつはコンバージョンや改造、メンテナンス、設備、そちらの方向に行くという手ですね。もうひとつは海外に行くことです。中国、インドはこれから市場が開く。これは学生に本気で言っていますが、「設計をやりたければ中国へ行け」と。事実、松原弘典君や迫慶一郎君はバンバン食えるようになっている。インドへ行ったほうがいいと思いますが、最後は「まちの面倒を見ることですよ」と。これがタウン・アーキテクト、あるいはコミュニティアーキテクトの道です。

 要するに地域社会が壊れてしまっている。地域社会と自治体をつなぐ役割が建築家にある。正直、そこで仕事を取らないと飯の食い上げですね。日本の産業構造が変わる大きな転換の過渡期に、一級建築士が何人いるか、建築学科の学生が何人出るか、それを考えると、まちづくりを担う職能としてなんとか食えないかという発想になっているのです。

石山――私はある意味で「住むための機械の未来」という設問の仕方が非常によいと思いました。例えば、環境の未来というと、「明るい未来」「環境が大事だ」って、誰でも言えますよね。でも全部浅いのです。次に構造の未来というと、いま構造は花盛りですよ。とんでもない変な構造が出てきて、なんでもありだという。能力のある構造家はワクワクしていると思いますよ。自分の計算能力をフルに使えるから。

 それから材料の未来というと自然だとか何とか言って、これも結構明るいです。われわれは明るく演技をしないとなかなかできないという、先ほど言いかけましたが、そのあたり分野の問題があるでのはないでしょうか。これは考えすぎているのか……。考えすぎたほうがいいと思いますが、環境の未来という言い方からは絶対未来は出てこない。地球環境って、誰でも気楽に言うのですが。

 

プロトタイプの使命

松村――最後にひとこと「やっぱりこれだ」という結びの言葉をおっしゃっていただきたいと思います。

布野――機械をシステムや空間的な装置と広げてもらえば、やることはいろいろあると思います。セルフビルドで自前で建てられる仕組みさえあれば、それはそれぞれでやればいいし、勝手にやってそれが非常に美しい秩序を持っていれば、例えば、きれいな集落ができるわけですよ。人類はそういうものをつくってきた。それがいびつだから変てこなものができてくる。そのいびつさは何かというと今の仕組みのすべてで、法律にしても、税制にしても、そのいびつな表現がそのままになっているわけだから、街や住まいがいびつになるのは当然といえば当然であるということですね。

 だから未来というのは「そこを変えましょう」ということになるけれど、それだと凡庸な結論だからおもしろくない。(笑)ちょっと考えさせて。これで負けるんだよ、いつも石山さんに。ようするに、どうやったら変えられるかが問題なんです、最初から。

石山――私は自分で実験住宅というか、住宅をつくったわけです。しかも自宅で。それを世田谷村と呼んでいます。これは理屈の固まりみたいにしてつくりましたが、生活し始めたらどうしても修正せざるを得ないのです。

 でもやってみると、私にとっては土をほじくり返してホウレンソウをつくって食べたりするリアリティというのは、理屈のリアリティを超えているのです。つまらない生活学や、そういうことの重要性を言っているのはないですが、私がいま痛感しているのは、未来があるとすれば、やはり私自身のそういうコモンセンスを変えていかなければいけないと。

 だから機械から有機体へとといったようなことではだめなのです。こちらががついていかないわけですから。日常生活が大事だということを言っているわけではなくて、私たちのほうに巣くっている、そういう性向です。住宅を論じていくと、日本に独特の、日本だけにしか通用しない論理でおそらくいろいろな議論がなされてしまっている。日常的にいろいろな国の人と会ったり、いろいろな国の若い人と会ったりすると、今までピュアなものとして感じてきた論理や歴史観が、日本の特殊例だったということを逆に教えられるというか、私はそちらのほうが重要だという気がしますね。

布野――結局、これも紋切り型ですが、やはりやれるところからやるということですね。

 『群居』でずっと考えていたようなことですが、「世田谷村」でもなんでも、その1戸が2戸になって、2戸が4戸になるところのルールで何か実践的なテーマを見つけてということですね。抽象的に環境問題といっても、なかなかかたちにならない。やはり何かモデルをつくって、失敗して、また失敗して、それでもまだやるべきなんでしょうね。

 プロトタイプというのは評判が悪いのですが、何か実験的につくって、それをまねする人が出ればプロトタイプになるわけでしょう。やはり若い人はそういう提案に挑戦してほしい。

新堀――本日はどうもありがとうございました。

200729日 建築会館にて

 

参考文献

1――松村秀一/『住に纏わる建築の夢――ダイマキシオン居住機械からガンツ構法まで』/東洋書店/2006.12









2022年6月30日木曜日

JIA設立30周年記念大会 阿波踊りの国とくしま大会 「建築家と土着 グローカルに生きる」 メイン・シンポジウム 鼎談「建築と土着」コーディネーター:布野修司 原広司+山本長水

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