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2024年1月5日金曜日

ポスト・モダニズム建築批判の不遜,KB Freeway,『建築文化』,彰国社,198312

 ポスト・モダニズム批判の不遜

 

  七〇年代の近代建築批判の多様な試みの一切を無化しようとする、いわゆる「ポスト・モダニズム」建築批判の顕在化があって、この一年もまた建築ジャーナリズムは、「ポスト・モダニズム」建築をめぐる議論を軸として展開してきたように見える。しかし、それが極めて皮相なレヴェルから一向に深化されようとしないのも相変わらずである。見るところ、深化されるべき議論の種は随所にあるけれど、単に言葉だけ、それも手垢にまみれた言葉だけにおいて議論が空回りしているところに建築ジャーナリズムのより一層の衰弱がある。そして、その衰弱の大きな原因は、むしろ「ポスト・モダニズム」批判を展開する側の批判の水準にまずあると言い切っておこう。

  「ポスト・モダニズム」建築をめぐる議論として、とりあえず管見する範囲でいくつか挙げてみよう。まず、松葉一清の『近代主義を超えてー現代建築の動向』*[i]がある。いささか大仰なタイトルではあるが、そのものずばり、建築におけるポスト・モダニズムとモダニズムの相克をとらえながら、建築デザインの現況をジャーナリストの眼でバランスよく浮き彫りにしている。表現の幅を拡大することを基調に、双方を相対化し、それぞれへの批判、ことに、モダニズムの側のポスト・モダニズム的表現の曖昧な取り入れへの批判を含んでいるのが大きな特徴である。一般ジャーナリズムといえば、ニュー・ジャーナリズムの旗手、トム・ウルフによる『バウハウスからマイホームまで』*[ii]が邦訳化された。徹底した近代建築批判の書であり、また「ポスト・モダニズム」建築批判の書でもある。建築家による住宅(近代住宅)に対して「われらの家」(アワー・ハウス)を対置するトム・ウルフの議論の平面は、「ポスト・モダニズム」議論がどうしようもなく建築家集団あるいは建築ジャーナリズムのパラダイム(方言)の内に閉じている日本においては考慮されるべきであろう。

  「ポスト・モダニズム」という概念(というより標語)をめぐっては、それをどう規定するかの問題は依然として残っている。それを批判する側がむしろ意図的に、個々の差異を認めない曖昧な全体概念として用いているからである。しかし、一方、「ポスト・モダニズム」の概念規定の問題は、近代建築そのものについてのとらえ直しを要求する。「近代建築をどう理解するか」*[iii]といった議論がそうである。欧米においては、近代建築の歴史をとらえ直す著作の出版が相次いでいる。日本においても同様の作業は続けられているといわねばならないが、必ずしもその成果は上がっていない。それ自体、日本の近代建築の歴史が薄っぺらである一つの証左であるともいえようが、ここでも一つの問題は、建築におけるモダニズムの立場を再確認する立場からの作業が希薄であることである。近代建築の精神なり理念を疑うことなく前提とし、歴史や現実の厚みを内に省みることなく、感覚的な「ポスト・モダニズム」への反発のみが現れていることである。

  「ポスト・モダニズム」建築をめぐる議論と密接にかかわりながら展開されようとしたのが、いわゆる「健康建築論争」である。建築における「健康」という概念をめぐるこの論争は、「ポスト・モダニズム」建築=「不健康」という極めて単純で素朴な決めつけを出発とするものであったが、上空飛翔的な議論に陥りがちな「ポスト・モダニズム」論議を建築家の日常における問題へ引きおろす契機をもつものであったといっていい。事実、論争の軸となった内井昭蔵*[iv]と石山修武*[v]の間の論争にとどまらず、伊東豊雄*[vi]、宮脇檀*[vii]、本多昭一*[viii]、小玉祐一郎*[ix]等を含んだ論争へと広がりを見せようとした。ここで議論の広がりを確認する余裕はないのであるが、基本にあるのは、「健康」という概念が近代建築の精神や理念と密接不可分であり、一方がその概念とそれを支える社会のあり方、ひいては近代建築と建築家そのもののあり方を根底的に問おうとするのに対して、一方は「健康」という概念なり、「健康」な建築をつくる建築家の理念をアプリオリに前提とし、それと現実との落差を問おうとするという構図である。後者の立場は、いうまでもなくオーソドックスな近代建築家のそれであり、そのある種の啓蒙主義なり素朴な市民社会への信頼が疑われようとしない限り、あるいは歴史的な評価を限界を含めて行おうとしない限り、議論はすれ違うことになる。前者の立場にとっては、近代建築家のスタイルについてはすでにあまりにも懐疑的であり、内省のない理念や精神の再確認のみであるとすればアナクロでしかないのである。また、無批判な現実肯定を招くとしか思えないのも確かである。

  内井昭蔵がその「健康建築論」を補足しながら、必ずしもその論が安易な現実肯定ではなく、産業社会のパラダイムそのものの批判をこそ課題とすることを明らかにするとき*[x]0、議論は一つのベースを与えられたといるかもしれない。しかし、CADやTQC、あるいは管理社会の画一化に対置するのが、「健康」であり「個性」であり「イマジネーション」のみであるとすれば、あまりに無防備であり無力であるといるであろう。それはすでにいわれ続けてきたことであり、そのレヴェルにとどまる限り、その限界はすでに明らかであるからである。

  個々の作品をめぐっては、それぞれに議論することがあろう。そこでも「ポスト・モダニズム」論議が大きな影を落としている。例えば、磯崎新の「つくばセンタービル」をはじめとする一連の活動の位置づけは、一つの焦点であり続けているといってよい*[xi]1。建築を自閉的な形態や装飾の遊戯へ追い込み、社会や都市とのコンテクストを見失っているという批判が「ポスト・モダニズム」建築に向けられている以上、都市や社会のかかわりにおいて「ポスト・モダニズム」をどうとらえ直すことができるかは大きな問題であろう。ここでむしろ出発点は、近代都市なり都市計画への批判であり、可能性は「ポスト・モダニズム」の側が握っているといってもいいはずである。

  「ポスト・モダニズム」建築をめぐる問いを、建築における産業社会パラダイム批判の問題としてとらえるならば、さまざまな問題がさまざまな形で指摘されつつある。しかし、そうしたさまざまな問題を掘り下げる視点をほとんど暴力的に根こそぎにしてしまいかねないのが、丹下・篠原対談「ポスト・モダニズムに出口はあるか」*[xii]2に見られる「ポスト・モダニズム」への皮相な理解である。

  丹下健三*[xiii]3は、ときどき来る若い人によくいうのだという。「あなた、あんまりポスト・モダニズムにコミットしすぎちゃいけませんよ。入口は狭いので一回入ったら出てこれませんよ。かと言ってポスト・モダニズムの行く先には何もないんだ、入ってみたら何もないんだ、だけども出てこれませんよ」と。「フィリップ・ジョンソン*[xiv]4みたいに、ときどき冗談みたいにやっては、片一方ではちゃんと普通のものをやっていく、そのようにレッテルを貼られないようなやり方でやらないと行き詰まってしまうかも知れませんよ」という話もよくするのだという。若い人によく話して聞かせるという、このささやきに似た恫喝は一体何を意味するのか。「入ってしまうと出られなくなる」というのは、どういうことなのか。入ってみもしないのに入ってみたら何もないことがどうしてわかるのかと半畳の一つも入れてみたくもなるのであるが、冗談ではできて、一方でちゃんと普通の仕事をしていればよいというのはどういうことか。冗談ならコミットは、出たり入ったりは自由であるようなものの言い方ではないか。篠原一男も口調を合わせるようにいう。「ポスト・モダニズム」は幕間劇としてあってもいい、僕は参加しませんけど、と。一体、ポスト・モダニズムは、参加したり、しなかったり自由自在なものなのか。

  ここで、とても手軽に語られる「ポスト・モダニズム」とは一体何なのか。また、それと区別される普通の仕事とは何か。「ポスト・モダニズム」の作品にもよいものがあるとか、それは何ですか、などということになると、出口がないとか、行く先には何もないとかいうのがどういう意味なのかさっぱりわからなくなる。所詮、こうしたレヴェルで「ポスト・モダニズム」論議がなされるとすれば馬鹿みたいなものである。あるのは、建築ジャーナリズム内的政治だけである。

  もちろん、「ポスト・モダニズム」をさかなにした対談の言葉尻をとらえてもはじまらないことである。丹下健三のいわんとするところは、その対談を通じて浮かび上がっているはずである。要するに、もう少し現実を見よということである。産業社会、情報社会の代弁者であり表現者であることに、建築家の使命が一貫してあるという主張である。日本の近代建築を主導してきた丹下健三らしい状況認識であり、一貫する立場を表明するものといるかもしれない。しかし、問題はその先にある。そもそも、この間の「ポスト・モダニズム建築」をめぐる議論は、産業社会をどうとらえるかにかかわっており、その現実をどう評価するかがそもそもの出発点といっていいからである。七〇年代半ばから多様に展開されようとしてきた近代建築批判の試みが、一般には、単にスタイルやデザインの問題として展開されてきたことは否めないことである。それにはそれなりの理由があったといっていい。近代建築のテクノクラシー支配に対して、その批判のために、現実の問題を提起することが一つの突破口になりうると一瞬信じられたことも事実である。しかし、それはやはり近代建築批判の矮小化でしかなかったといわねばならない。やがて、近代建築批判の多様な模索が「ポスト・モダニズム」という不用意な概念において一括されるに至ったのも、十分な理由のあることである。「ポスト・モダニズム」建築批判の顕在化の背後には、その近代建築批判の水準そのものが露呈していると見ることができるであろう。

  しかし、いわゆる「ポスト・モダニズム」建築批判は、必ずしもそうした脈絡にあるわけではない。近代建築批判を前提としたうえで展開されようとしているわけではない。「ポスト・モダニズム」建築は「不毛」であり「徒花」であり、「不健康」であり、要するに「袋小路」で「出口」のないものであることが、ほとんど一方的に宣言されているだけである。

  そこで対置されているのは何か。端的にいって、産業社会の現実であり、テクノクラシーの体制であり、実務の論理である。そして、それらと密接に結びついたモダニズムそのものの理念や規範である。そこにあるのは批判でも何でもない。「ポスト・モダニズム」がそもそも出発点とした問いそのものを、無化しようとする露骨な意図があるだけである。近代建築の抱えてきた問題を根底的にとらえ直そうとするものにとって、その反批判の水準は極めて政治的であり、犯罪的とすらいるはずである。問いそのものを認めないファッショ的行為といっていいはずである。

  「ポスト・モダニズム建築」に出口がないとすれば、産業社会に変わりうる世界を見い出しえていないからであって、それ以外の理由があるわけではない(情報社会の表現ということであれば、丹下健三がそれを模索しようがしまいが、ポスト・モダニズム建築がすでにその時代の表現たりえようとしているといっていいはずである)。産業社会のリアリティにしがみつき、それを正当化することは自由である。しかし、そのリアリティによって、産業社会のパラダイム・シフトを目指す試みを批判することは全く的はずれといわねばなるまい。産業社会の危機を認識しないものにとって、そもそも「ポストモダン」も「ポスト・モダニズム」もないはずなのである。

  そもそも、丹下をはじめとする建築エスタブリッシュメントたちの「ポスト・モダニズム」批判を支える現実は、丹下が全く認めようとしない第三世界の現実、スクォッター・スラムの世界の評価において極めて明快なものといるであろう。丹下にとって、近代建築の世界制覇、全地球の産業化の道しか眼中にはない。グローバルに見て、どちらにリアリティがあるのか。「東南アジアに仕事が多くなってきているという状態」で、「多少は気をつけますけれどもあんまり考えなくて、日本に建てるものもどこの国に建てるものも気候条件以外はあんまり区別がないんですよ」と言い切るその態度こそが、問題ではないのか。それこそ出口がないのは、産業社会そのもののほうではないのか。丹下健三は一方で、ローテクの活躍する余地を認めようとする。社会的な貢献はするけど、芸術的な貢献はそんなにしないという留保つきで。内井昭蔵は、産業社会批判を話題としながら、I・イリイチを引き合いに出す。I・イリイチのいうように、「インダストリアル社会のパラダイムを根底から否定し、ヴァナキュラーな社会への逆光(?)をなしとげなければ本物の健康の回復にはならないのかもしれない」と。しかし、すぐさまいう。それは極端な危険思想であり、革命的すぎると。こうした言い方で、彼らエスタブリッシュメントたちが守ろうとするものは何か。「ポスト・モダニズム」をめぐる議論は、こうして、不毛な、建築をめぐるどうしようもない問いへ堂々めぐりをはじめつつあるといはしないか。彼らがいかに「大文字の建築」(磯崎)に固執しようと勝手である。しかし、「大文字の建築」を前提とした「ポスト・モダニズム」批判に何の根拠もないことは、はじめからわかりきったことではないか。「ポスト・モダニズム」批判こそ袋小路といるであろう。

  「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題をさまざまな角度から明らかにする」ことをうたう『群居』という小さなメディアを創刊して、早いものでもう一年になる。故小野二郎*[xv]5の「住み手の要求の自己解体をこそーー住宅の街路化への提案」を巻頭文とした創刊準備号を昨年の暮れに出してその構想の一端を明らかにし、四月に、「商品としての住居」を特集テーマとする創刊号によって華々しくデビュー(!?)を飾って以来、七月*[xvi]6、一〇月*[xvii]7と当初どおり刊行してくることができた。所詮、三刊本の世評もものかは、来年度四冊のプログラムもほぼ固まり、現在は「建築家と住宅」を特集テーマとする第四号*[xviii]8の編集作業に追われつつある。ささやかな経験ではあるけど、その作業は、皮相な「ポスト・モダニズム」論議とは無縁である。出口があろうとなかろうと、産業社会の根底的批判こそが大きなテーマである。『群居』に限らず、このところ僕の知っている範囲では、いくつかの小さな雑誌を刊行しようという試みを見ることができる。『R』*[xix]9、『同時代建築通信』*[xx]0、『TASS通信』*[xxi]1、『極』*[xxii]2などがそうである。『同時代建築通信』については、僕自身、同時代建築研究会の一員としてかかわっており、現在三号まで発行されている。こうした試みは、あるいは限られたものでしかないのかもしれない。たまたま、そうした試みが僕の周辺に見られるだけなのかもしれない。一概に、一般化はできないにせよ、こうした試みの背後には『群居』もまたそうであるように、一つは、「ポスト・モダニズム」をめぐって空転する建築ジャーナリズムへの不満があることは事実である。

  しかし、今さら、建築ジャーナリズム論でも、メディア論でもあるまい。言葉を研ぎすましながら、持続的な作業を続けていくしかないことである。出口がないのはどこでも同じであろう。一方にのみ出口がないと言い放つ傲慢さこそ、不遜の極みである。

 



*[i]  鹿島出版会

*[ii]  諸岡敏行訳、晶文社

*[iii]  『新建築』、八三〇一、八三〇五

*[iv]  『新建築』八〇〇九ほか

*[v]  『都市住宅』八二一〇ほか

*[vi]  『新建築』八三〇二

*[vii]  『新建築』八二〇八

*[viii]  『建築文化』八三〇四

*[ix]  『建築文化』八三〇五

*[x]  「健康の建築をめぐって」『新建築』八三〇七

*[xi]  「つくば/磯崎/建築の現在」『建築文化』八三一一

*[xii]  『新建築』八三〇八

*[xiii]

*[xiv]

*[xv]

*[xvi]  第二号、特集テーマ「セルフ・ビルドの世界」

*[xvii]  第三号、特集テーマ「職人考--住宅生産会社の変貌」

*[xviii]  八四〇一

*[xix]

*[xx]

*[xxi]

*[xxii]




 

2023年12月26日火曜日

芸術とコンテスタシオン,螺旋工房クロニクル004,建築文化,彰国社,197804

芸術とコンテスタシオン*[i]    

 

  芸術の廃棄は、芸術に対応する〈諸価値〉を永らえさせようとする意志が強固なだけに、いっそう必要なのだ。われわれは一から十まで芸術のなかで生きている。遠からずわれわれは、睡眠中に芸術を食い、それを消費するようになるだろう。芸術の廃棄は、芸術作品の流布に当たっている機構の真っただ中でのみ実行されうる。われわれは敵の領土に生きているのだから、敵の領土内でこそ最初の勝利は可能であり、実現されるだろう。さし当たって芸術の廃棄以外に突破口はない。

                       アラン・ジュフロワ『芸術の廃棄』一九六八年*[ii] 

                     

  ボブ・ディラン*[iii]がやって来た(七八年二月一七日)。全一〇回の公演で延べ一〇万人を動員するという。Far East Tour 1978。一九六六年のオーストリア公演についで、二度目の例外的な海外公演である。

  数枚のレコードによる追体験。あるいはディランが岡林信康*[iv]や吉田拓郎*[v]に与えた偉大な影響を通した擬似体験。いわば遅れてきたディラン体験者でしかない僕にとっても、その来日が、否応なしに記憶の底から呼び起こしてくるものがあることは事実である。

  グリニッジ・ヴィレッジのコーヒーハウスからコロンビアレコードに拾いあげられて、処女アルバム『ボブ・ディラン』を吹き込んだのが一九六一年。二年後には、公民権運動の高揚のなかで、カリスマ的存在に祭りあげられていた。そして、一九六五年。あの劇的な、ニューポートでの〈転換〉、Its all over now, baby blue.――フォークからフォーク・ロックへ、プロテストソングの放棄?  へ――。そして『ブロンド・オン・ブロンド』を経て事故、沈黙。復活……。ボブ・ディランの軌跡は、少なくとも六〇年代において、極めて先鋭に時代を映していたのであり、私的な体験とないまぜになって記憶されているのである。

  しかし、それにしても、なぜ、ディランは、日本に来たのか。多くのディラノロジストが、その意味と意義について、やかましく言挙げしてみせるに違いない。ディラン神話の諸形態(とりわけその日本的形態)、日本の音楽資本と呼び屋の企業戦略と、それが支える大衆文化の構造など、興味はつきない。

  ディランが来日する二日前(二月一五日)、極めて興味深いシンポジウム(公開講座)が東京の郊外でもたれた。

 場所:和光大学芸術学科D棟三階小講堂

 報告:アラン・ジュフロワ*[vi]

 司会:針生一郎*[vii]

 討論参加:西永良成、千葉成夫 通訳:竹原あき子

 テーマ:芸術と政治

  アラン・ジュフロワの名も、六〇年代末の特定の時空と結びつけられて記憶されている名である。仮に、その名は忘れ去られていたとしても、その〈芸術の廃棄〉という鮮烈なアジテーションは記憶されているだろう。しかし、最近まで、僕らが彼について知りうる情報は、「五月革命」*[viii]直前に書かれて、「五月革命」に大きな影響を与えたとされる『芸術の廃棄』*[ix]と、「五月革命」敗北直後に書かれた『芸術をどうするか――芸術の廃棄から革命的個人主義へ――』*[x]0の二篇の論文にすぎなかった。従って、彼の昨夏に続いた二度目の来日が、その特定の時空を想起させ、この一〇年の時の流れを対象化することを強いることは決して不自然ではない。

 この偶然に重なった二つの来日は、芸術あるいは表現におけるプロテストあるいはコンテスタシオン(異議申し立て)のスタイルについて、なにがしかを想い起こさせる。確かに、それを受け入れる文化の構造、さまざまな知的活動に与えるインパクトの差異の考察もそれなりに興味深い。しかし、ディランはディラノロジストにまかせておこう。僕はとりあえず、出掛けていって、僕の内なるディラン神話の崩壊、その詩と肉声とインストゥルメントの真実を確認すればいい。いま、書きとめておきたいのはA.ジュフロワのほうである。

  A.ジュフロワにとって、『芸術の廃棄』以降の一〇年とは何か。「五月革命」の総括と実践。彼の今日的な活動とその置かれているコンテクスト。日本へ来ることの意味。それを企画した呼び手の戦略。そして、そのことが日本の文化状況にいかなるインパクトを与えうるのか。A.ジュフロワの提起を受け止めうる観衆(受け手)はどこに存在するのか。

 「問い――芸術と政治の関係は、芸術にとって必要なのか、政治にとって必要なのか、あるいは両者にとって必要なのであろうか。もし、両者に必要であるとすれば、芸術は政治に何をもたらし、そしてまた政治は芸術に何をもたらすのであろうか?  芸術に異議を申し立て、芸術の廃棄をもくろみ、日常生活と芸術の合体を意図した後、ついにわれわれは現在、政治自体に異議を申し立てようとし、政治を日常生活に合体させようとする。しかし、政治がその制度の内側で機能しているように、芸術は、その制度の真っただ中で自己を表現し続けている。これまで続けてきた異議申し立てが失敗したかのように、また、芸術が反―芸術をのみ込み消化したかのように、そして政治が反―政治をのみ込み消化したかのように、あらゆることが過ぎ去っているのである。……」

 と、A.ジュフロワは、新たに書きおろしたメッセージを読みあげ始めた*[xi]1。それは、予想外にアクティブで戦闘的なメッセージであったといわねばならない。一つには、左翼連合の分裂をはらみながらも保革逆転の予想される仏総選挙を前にした政治的緊張が背景にあった。彼が最も批判の槍玉に挙げたのは、ベルナール・アンリ・レヴィ*[xii]2らのヌーボー・フィロゾーフの動向である。例えばソレルス*[xiii]3にみられるような「五月革命」を経て、マオイズム(毛沢東主義)へ、そして反マルクス主義へという一つの典型的な軌跡が、現在の政治的コンテクストのなかで、露骨で、危険な役割を果たしつつあることに対する批判と思想闘争は、いま、彼にとって極めて重要な、アクチュアルな課題なのである。さらに、彼は一月末に、ジル・ドゥルーズ*[xiv]4らとともに西ベルリンの大学長へ、体制へ異議を申し立てる学生にも門戸を解放することを要請する《TUNIX》(何もするな、落着こう、という意味)と呼ばれる抗議行動を組織したばかりであるという。

 彼は、また、一九七七年華々しくオープンした、ジョルジュ・ポンピドー・センター*[xv]5で「ギロチンと絵画――トピノ=ルブラン*[xvi]6とその友人たち」という展覧会を組織したばかりである。トピノ=ルブランはダヴィッドの弟子で、フランス革命中最もラディカルに生き、ギロチンにかけられた画家であるが、フロマンジェ、デュフール、モノリ、エロら七人の現代画家に、現代のギロチンと呼ぶべきものを描かしたのである(二月一五日の会場では、スライドで、その幾つかが解説された)。ジェラール・フロマンジェを中心とする。ジュフロワが《新歴史絵画》と呼ぶ一連の動きは、フーコー*[xvii]7やドゥルーズも注目しているらしいが、彼にいわせると、フランスにおいて、現在、最も政治と芸術にかかわっている動きだという。

 すなわち、ジュフロワの芸術と政治をめぐる議論は、決して、図式的、観念的なものではありえない。まして、手垢にまみれた、政治の優位性論や芸術の党派性論の位相にはない。現実の緊張関係、リアリティに裏づけされた具体的なそれなのである。〈芸術は、政治に、衝動的エネルギー、反抑圧的自由、即興的能力をもたらす。政治は、芸術に発明の能力と集団的組織をもたらす〉と彼がひきとるとき、それがダイナミックな現実の過程に裏打ちされたものであることを同時に想起すべきなのである。それゆえ、彼の先鋭なラディカリズムは、一貫してその言葉の端々は活動に息づいているようにみえる。〈視覚の革命〉、〈芸術の廃棄〉、そして〈革命的個人主義〉。彼のキー・コンセプトである〈オブジェクトゥール〉(本義の《異議を申し立てる人》にオブジェを用いるものの意味をからませた語)、〈テクスチュアリズム〉らの衝撃力は、いささかも失われていないように思える。A.ジュフロワに初めて出会う若い世代の素直な共感がそれを示していた。

  確かに、〈芸術の廃棄〉は、挑発、プロヴォケーションにすぎなかった。例えば、「考えることはできるが、実際には、実現不可能な作品をすべて展示し、書くことはできるが実際には公刊できない文章を出版する」というスローガンは、冷静に考えてみれば、不可能性の表現であったのである。ちょうど自己否定という言葉のもちえた意味と同様であろうか。しかし、それは逆に不可能性の表現であるがゆえに、常に有効であるともいえるのである。

  「五月革命」は敗北であった。しかし、A.ジュフロワには必ずしも挫折感はない。さまざまな分野において、「五月」から生まれた考え方の浸透をみたからである。例えば、彼がとりわけ強調するのは、エコロジストの運動の意義である。居住環境整備と結びついたその運動に、僕らが学ぶべきことは多い。

  アラン・ジュフロワの活動の軌跡は、『〈五月革命〉以後のフランス美術と政治』*[xviii]8や『視覚の革命』*[xix]9によって、あるいは『ケージを聴くデュシャンを聴く』*[xx]0その他の断片的な翻訳*[xxi]1によって、一般的に明らかにされつつあるといえるであろうか。

  トロッキー*[xxii]2をめぐる個人的体験。ブルトン*[xxiii]3との出会い。そして、シュルレアリスム*[xxiv]4運動からの早すぎる除名、追放。デュシャン*[xxv]5との交流、熱烈なるゴタール*[xxvi]6支持*[xxvii]7、ソレルスとの往復書簡、アラゴン*[xxviii]8との関係等々。A.ジュフロワの軌跡は、戦後の一側面を映してきた。特に六〇年代に入って「反―裁判」の組織から、『視覚の革命』、『芸術の廃棄』、『革命的個人主義』を著していく過程は、実に興味深い。

 A.ジュフロワの詩を中心とした作業の全体は、やがて紹介され、さまざまな角度から検討されることであろう。少なくとも、最初の美術論集『視覚の革命』をめぐって議論が展開されるはずだ。「見えることの構造」の解明あるいは「見ることの神話」の解体がテーマだ。

 「作品を、芸術とその歴史だけを物差しにして判断するのをやめ、物事の総体的な意義が明らかになる領域での有効性に従って具体的にその役割を量ること」。

 また「《つくり手としての芸術家》の機能を見るものの側に転換させることを狙いとする見ることの革命」。僕らの初発の、しかも持続的な問いは、眼差しの革命にかかわるものなのである。

  また、革命的個人主義と組織(あるいは党)、創造的主体と革命的個人との関係、あるいは、それらを含む知識人の問題など、ジュフロワの提起する問題は多様である。

  僕らは、A.ジュフロワの持続的な問いと活動に拮抗しうる問いや活動を持続しえているのか。彼のさらなるアジテーションに答えうるような作家や作品、諸活動を現実的に生み出しえているであろうか。

  針生一郎らによって組織された場は、それなりにA.ジュフロワの提起に、答えうる受け手を見いだしえていた。若い学生たちの問いは、真摯であり、攻撃的ですらありえた。彼らは、学費値上げ闘争と表現の問題を追求しつつあり、それなりの熱気が反映していたのである。それは、ラップ=ストラクチュアと呼ばれるのだが、闘争の一つの表現として管理棟を梱包してしまったというのである。彼らの想像力がクリスト*[xxix]9のそれを越ええていないとしても、それが特殊な限定された場において実現されたにすぎないにしても、評価されてよいはずである。しかし、それは、既にありえてしまったスタイルでもあった。

 六〇年代末の過程(五月革命、大学闘争)以降、状況をより困難にしているのは、あらゆるコンテスタシオン(異議申し立て)をのみ込み消化してしまう制度の転換であるといってよい。文化的回収の自己運動が巧妙化していくなかで、例えば、実現不可能な作品を展示することが可能となったりするのである。「ギロチンと絵画」展が、ポンピドーセンターにすっぼりと収まりきって一〇〇万人をも動員してしまう状況が、それを物語っている。ポンピドーセンターは、実にすぐれた文化装置であることを示したのである。「五月」以降の芸術家たちが戦術を変えていったのは当然のことなのであった。問題はその戦術である。そして、その戦術が、必ずしも一般的に語りえない点なのである。

  磯崎新*[xxx]9は、「デザインと社会変革の両者を一挙におおいうるラディカリズムは、その幻想性という領域においてのみ成立するといえなくもない。逆に社会変革のラディカリズムに焦点を合わせるならば、そのデザインの行使過程、ひいては実現の全過程を反体制的に所有することが残されているといってもいい」という*[xxxi]0。また「方法上のラディカリズムと社会的変革のラディカリズムとは、あの一九三〇年のシュルレアリスム・グループの、コミュニズムをめぐっての分裂に典型的にみられるように、おそらく相容れないものである。方法がホットな自己表出と結びついているかぎり、この溝はおそらく埋まらないかもしれない」ともいう。おそらく、A.ジュフロワの提起は、磯崎とは逆のベクトルで、この問題にメスをいれるモメントとなるであろう。

  ここでは、ささやかな幻想を込めて、また、現実の多様な展開への期待を込めて、A.ジュフロワの五月革命直後に出した三つの指針を記しておこう。

 ①きのうまでの《芸術》を、投機と保有の対象とは別のものにすること。

 ②今日までの《諸芸術》、すなわち文字言語、視覚言語、聴覚言語の商業的回路のなかで利用されてきたのとは違った、コミュニケーションの形態をつくり出すこと。

 ③この仕事にたずさわることのできる人と接触し、彼らを再び糾合すること。

 この仕事とは何か。

 



*[i] 一九七〇年代末、第二次オイルショック直後、時代は暗かった。まさか「黄金の六〇年代」が復活することになろうとは誰も予想できなかったのではないか。「芸術」の廃棄というスローガンは、一九六〇年代末のものだ。「芸術の廃棄」以後、どういう方向を見いだすのか、が一九七〇年代の課題であった。そして、いまもなお課題であり続けている。螺旋工房クロニクル 一九七八年四月

*[ii] 峯村敏明訳、『デザイン批評』No 1969.01

*[iii] ボブ・ディラン Bob Dylan  一九四一ミネソタ~。本名ロバート・ジンマーマン。アメリカの歌手、作詞作曲家。「風に吹かれて」(Blowin' In The Wind)を発表して(六二)、公民権運動の中で広く歌われ、一躍時代の寵児となる。しかし、六五年「ミスター・タンブリンマン」などでロックの要素を取り入れ、フォークソングから音楽的に転換、物議をかもす。六〇年代後半、レコードが大ヒット。七〇年代には音楽活動に翳りが見えた。来日はかっての反体制のイメージが薄れつつあるタイミングであった。八〇年代に入ると、作品に宗教的な臭いが強くなっていく。

*[iv]  岡林

*[v]  吉田拓郎

*[vi]  アランジュフロア

*[vii] 針生一郎

*[viii] 五月革命 一九六八年五月、フランスで起こった学生たちの運動を中心に起こった社会危機。ベトナム反戦、大学の管理強化への反発をモメントとする、六七年一一月のパリ大学ナンテール校舎の学生ストライキが発端。六八年三月、ナンテール校舎占拠。ソルボンヌなどに波及。五月三日、集会中の学生を警察が排除し衝突が起こったことから学生層の総反乱へ、さらに、労働組合のゼネストも招く。ド・ゴール大統領は、二九日、国民議会の解散、選挙によって事態を収拾する方針を発表する一方、選挙の強制排除によって事態の沈静化を計る。選挙は六月二三日、三〇日に行われド・ゴール派の共和国擁護同盟が圧勝。しかし、翌六九年四月、ド・ゴールは地方改革と上院改組をめざす国民投票で破れて辞任、一一年の政権の座から去ることになった。

*[ix] デザイン批評No 1969.01

*[x] デザイン批評No 1969.06

*[xi] その後、別に西永・千葉両氏によるインタビューが「読売新聞」に二回にわたって掲載された。「表現運動は政治を撃つ」78.03.13. No.1947

*[xii]  レヴィ

*[xiii]  ソレルス

*[xiv]  ドゥールズ

*[xv]  ポンピドゥーセンター

*[xvi]  トビノ・ルブラン

*[xvii] ミシェル・フーコー Michel Foucault 一九二六~八四。フランスの哲学者。七〇年以降、コレージュ・ド・フランスの教授。構造主義の代表的思想家。『狂気の歴史』(六六)『監獄の誕生』(七五)。監獄、病院など近代的制度=施設の根源を問う。『言葉と物』(六六)『知の考古学』(六九)『性の歴史』(七六~)などによって知の根源を問う。

*[xviii] 『美術手帖』、七七一一

*[xix] 西永良成訳、品文社、一九七八年

*[xx] 『エピステーメー』 七七・一一

*[xxi] ほかに、『アンドレアス・パーダーの死』『世界』(七七年二月)がある)

*[xxii] トロッキー Lev Davidovich Trotskii  一八七九ウクライナ~一九四〇。ロシア革命の指導者。本名ブロンシテイン L.D. Bronshtein。一八九八年、シベリア流刑、マルクス主義を本格的に学ぶ。一九〇二年脱走。社会民主労働党の機関誌『イスクラ』の寄稿者になる。一九〇五年、ロシアで革命が起こると永久革命論を立てて帰国。再びシベリア流刑脱走。第一次世界大戦中は急進的な反戦の立場をとる。一九一七年の二月革命後帰国、ボリシェビキに入党、一〇月革命の作戦立案実行に当たる。一八年赤軍創設。二三年、レーニンが廃人となると、ジノビエフ、カーメネフ、スターリンの三人組と対立、二九年国外追放処分。当初トルコに住んで『わが生涯』(三〇)『ロシア革命史』(三二)を書いた。四〇年、メキシコで暗殺された。『文学と革命』(二三)『若きレーニン』(二五)など。 

*[xxiii] アンドレ・ブルトン Andre Breton  一八九六タンシュブレー~一九六六。フランスの詩人、思想家。一九一九年、アラゴン、スーポーらと『文学』誌創刊。自動記述(オートマティスム)の実験を行い、シュルレアリスム理論の基礎をつくる。二〇年、パリのダダ運動に参加。ツァラと対立。二四年、シュルレアリスム宣言。二五年、共産党入党まもなく脱会。『ナジャ』(二八)『通底器』(三二)『狂気の愛』(三七)など。

*[xxiv] シュルレアリスム Surrealisme  超現実主義。一九二〇年代はじめにブルトンらによって開始された文学・芸術運動。自動記述によって思考の純粋かつ原初的姿に触れることをめざす。夢や催眠術、霊媒現象の実地研究から理性の統御を受けないオートマティックな思考を確認、シュルレアリスムと名付ける。二四年「シュルレアリスム宣言」発表。六六年のブルトンの死まで運動は様々な形で持続される。日本にも、滝口修造による自動記述の実験(二九~三一)などによってシュルレアリスム運動がもたらされた。

*[xxv] マルセル・デュシャン Marcel Duchamp  一八八七ブランビル~一九六八。フランスの美術家。既成の芸術概念を否定し、現代美術に多大な影響を与えた。『花嫁』(一九一二)で油絵放棄。一五年から八年間、2mx3mのガラス板に『独身者たちによって花嫁は裸にされて、さえも』(通称『大ガラス』)という大作を作り続け、未完のまま残す。第一次世界大戦中にニューヨークでマン・レイらとニューヨーク・ダダ運動を起こす。米国籍取得。レディ・メイドのオブジェを並べる作品をつくり続ける。

*[xxvi]

*[xxvii] 『愛と政治の地平線のかなたへ――J=L.ゴタール論――』、『季刊フィルム』創刊号、六八一〇など。ジャン・リュック・ゴダール Jean-Luc Godard 一九三〇パリ~。フランスの映画監督。映画研究誌『カイエ・デュ・シネマ』の批評家から『勝手にしやがれ』(五九)でデビュー。ヌーベルバーグの旗頭となる。『女と男のいる舗道』(六二)『恋人のいる時間』(六四)『気狂いピエロ』(六五)『東風』(六九)『パッション』(八二)『カルメンという名の女』(八三)など。

*[xxviii] アラゴン Louis Aragon  一八九七~一九八二。フランスの詩人、小説家。一九年、ブルトン、スーポーらとともに雑誌『文学』創刊。パリのダダ運動を経てシュルレアリスム運動の主要メンバーのひとりとなる。詩集『永久運動』(二五)など。共産党入党、シュルレアリスム運動を離れ、ロシア革命賛美の詩集『ウラル万歳』(三四)など、社会主義リアリズムを唱える。第二次世界大戦中はレジスタンス詩の傑作を数多く発表。大戦後はフランス共産党中央委員をつとめた。『共産主義者たち』(四九~五一)など。

*[xxix]

*[xxx] 磯崎新 一九三一大分~。建築家。東京大学建築学科卒業。丹下健三に師事する。磯崎新アトリエ設立(六三)。「大分県医師会館」(六三)以降、「群馬県立近代美術館」(七四)「筑波センタービル」(八三)「バルセロナ・スポーツ・パレス」(九〇)など多くの話題作がある。一九七〇年代から八〇年代にかけて、一貫して近代建築批判を展開し、「建築の解体」「見えない都市」「大文字の建築」など様々なキーワードを提示するとともに日本の建築界をリードした。著書も『空間へ』、『建築の解体』、『建築の修辞』、『建築という形式』など極めて多い。

*[xxxi] 建築の解体