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2021年11月2日火曜日

アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究 Ⅴ アジアの格子状街区パターン

アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究,科研都城研究(199394)19953 


V. アジアの格子状街区パターン


1.日本に於けるグリッドパターン

 日本においてグリッドパターンが都市・地域計画に用いられるのは、日本が統一国家として都城を建設した当初からのことである。今回は、その当時の都城における都市計画についてのまとめである。

 まとめ方として、各都城について、沿革、都城の規模、街区割、街路幅員、施設配置、宮の構成についてまとめる。現在、都城といわれているのは難波京、近江大津京、「藤原京」、平城京、恭仁京、長岡京、平安京である。この7都城の成立順にまとめる。

 しかし、都城に関しては発掘があまり行われていないものもあり、不明な点も多い。よって様々な考察を行う際には、「藤原京」、平城京、長岡京、平安京を中心に行う。

 参考文献として、『都城の生態』岸俊男編、『シンポジウム平安京』財団法人京都市埋蔵文化財研究所、『考古学からみた平安京』堀内明博発表を中心としてまとめた。他にも数冊の参考文献を参照しているが、基本的にこれらの論旨に沿ってまとめている。

 

 

難波京

沿革 この付近では5世紀にさかのぼる大型の倉庫群、6世紀から7世紀にかけての集落あるいは役所の遺構が検出されている。有史以降では、613年に推古朝に、難波より飛鳥京にいたる大道を開き、645年に孝徳天皇が京を難波に遷す。そして652年にが完成している(これを発掘された前期難波宮と推定している)。

 さらに、天武天皇が683年12月に、中国的な複都制を採用し、難波を(副都)とすることを宣言した*1(中国・唐の例としては、長安(西京)と洛陽(東都)、他に太源(北都)が設けられていた)。また679年11月に羅城が築かれていもいた(京域の設定を意味するか)。

686年に火災があり、聖武朝726年に藤原宇合が知造難波宮事になり、後期難波宮が造営された。

 推古朝の豊浦宮・小墾田宮から天武朝の飛鳥浄御原宮に至るまで概ね飛鳥に宮都が設けられてきた。続いて「藤原京」・平城京・恭仁京に移ったが、これは飛鳥を中心として設定された古道が計画の基準となっていた。

 一方、難波京は大和川・淀川の利用を目的としていた。これを副都・主都という流れでみると水系の都としての長岡京の性格が見えてくる。

都城の規模 岸俊男氏によると、1886年に作成された5,000分の1の大阪実測図という地図を分析し、さらに北流する猫間川、西の東横堀川などから想定すると、東西幅は約2,120m=4里=8坊で、東京極の外に、猫間川、西京極の外に東横堀川が流れると考えられる。南北限に関しては不確定である。

街区割 同じく岸氏の分析では、難波宮の中軸線にほぼ一致する南北道の西側に沿って、「藤原京」の1坊と同じ「心心方式」で1辺約265m=750令大尺の方格地割が南北に並んでいた。また中軸道路と直交する道路や畦畔にも265mあるいはその半分の長さの間隔を保つものが多いことが判明し、1坊を小路で四分割していることが考えられる。

街路幅員 上記のように朱雀大路らしきものの存在は判るが、二条大路が設けられているか判らない。

施設配置 宅地の班給が行われていた*1

宮の構成 4条×4坊の藤原宮とほぼ同じ規模の宮域を上町台地の中央北よりに置くであろう。

 前期難波宮は堀立て柱造で、桧皮葺きである。八角殿院が朝堂院の北に左右あるのが特徴的であり、楼閣建築と想定される。また朝堂院では14棟の朝堂が見つかっており、小さいが数は多い。

 

 

近江大津宮

沿革 朝鮮半島での白村江の戦いでの敗戦(663年)など、朝鮮事情が混乱しているさなか、667年に天智天皇が遷し、造営されたものである。

都城の規模 当地の地形と発掘状況から判断する限り、現状では京域はなかったとする考え方が一般的である。条里制で復原案がでているが、条里制と条坊制の違いが存在し、条里制での復原は現在では信頼できない。

街区割なかったとする見方が強い。

宮の構成 近江大津京を含めなかなか場所の確定はなされなかったが、錦織地区で当時の掘立柱の建物や柵の跡が検出され、東西150m南北350mにわたり南北の同一方向に整然と配置されたものが検出され、大津宮の中心である可能性が高い。

 

 

「藤原京」*2

沿革 天武天皇が682年に新城に幸し、684年に宮室の地を定める。天武天皇が崩御し、あとを継いだのは持統天皇であった。690年に藤原に幸し宮地を観す。691年に使者をして新益宮を鎮め祭る。694年に持統天皇が遷都した。

都城の規模 京域は岸案では、古道*1である中ツ道を東京極、下ツ道を西京極、横大路を北京極、上ツ道の延長とも考えられる阿部・山田道を南京極とする。藤原宮は4条×4坊の地域を占め、中央北側に位置する。条坊地割りがなされ、左京・右京ともに12条×4坊であった。(大宝戸令に左右京とも四坊ごとに一人の坊令を置くとあり、同じく官員令には十二人の坊令を置くとあることから明らかとなる。)

 地図上の計測によって、東西両京極のあいだは2,118m=高麗尺の6,000尺=4里=720丈(3道の間隔は1,000歩として計画された)。

 これに対し、近年における発掘データによると、南はほぼ推定通りであるが、北、東、西は岸説を超えて条坊が存在し、確認されただけで南北4.5km、東西3.5kmにものぼっていることが明らかになり、これをどう解釈するかをめぐっていわゆる「大藤原京説」が出されるようになった。現状では京域の具体的範囲や施工時期は定見をえていない。なお、藤原宮、本薬師寺等では遺構の下に条坊が見つかり、また条坊と方位のふれが違う溝が発見されているところもある。

街区割 1坊は心心で約265m=高麗尺の750尺=半里=90丈(1条も同じ長さとするとやや12条に足りないが、山田道が古道であるため設定以前から存在していたことで説明される)で、1坊は小路により4町に分割されている。調査では「心心方式」で街区割りがなされ、約133m間隔で道路が走っている。

街路幅員

施設配置 京域には官衙(左右京職・左右獄等)やそれに準ずる施設(東西市等)のあったことが史料から推定されているが、所在や実態は明らかにされていない。東西市は宮の北方にあったと推定され、鴻臚館の存在は確認されていない。また、寺院も多数存在したことが史料から推定されているが、調査が行われたのは大官大寺、本薬師寺、紀寺である。

 宅地については、『日本書紀』に宅地班給の記事があるが、現在のところそれほど明らかではない。4町や2町以上、あるいは1町などの規模を持つものについては存在と構造の一部が明らかになっているが、それより小さい宅地については不明な点が多い*1

 「藤原京」には幾条かの河川が流れているが、古代における利用状況は明らかではないが、中ノ川の前進河川が発掘され、条坊に沿って流れていることから運河の可能性が指摘される。河川、あるいは運河については後続の都城の市の位置に関係があると言われており、「藤原京」の市についても同様のことが言える可能性がある。

宮の構成 藤原宮については、東西925m、南北907mで、4条×4坊を占めており、四周に掘立柱の大垣が残っており、12の宮城門を持ちそのうち5つが調査され、全て同規模・同形式であった。なお、大垣は通りから離れて築かれており興味深い。宮の中央に朝堂院、大極殿院、内裏と南から北に配置されており、朝堂院、大極殿院については調査されている。官衙も宮の東西で確認されているが、宮の南西部分の調査によれば配置には粗密があったようである。

 

 

平城京

沿革 708年に平城宮地を鎮め祭る。710年に遷都したものである。

都城の規模 奈良盆地を縦走する三つの古道のうち下ツ道を基準として計画されており、朱雀大路は下ツ道を三倍以上に拡幅して造られたものである。朱雀大路は真北より22′30″程西にずれていた。京域は東西8坊(約4.3km)×南北9条(約4.8km)の左右対称部分と東に外京、北西に北辺坊という張り出し部分がある。外京は東西3坊(約1.6kmで一坊の長さが若干短い)×南北4条(約2.1km)の範囲を持ち、成立の背景に興福寺、元興寺の存在が挙げられる。外京の成立年代がくだるという説があるが、根拠に乏しく東西の寸法が短いのは道路の走る位置を考慮した結果であるとの説がある。平城京の計画は藤原氏の影響が強く感じられ、興福寺、藤原不比等の邸宅が良好な立地にあること、また平城京、平城宮の左右対称が崩れていることがそれを明瞭にしていると言えよう。

街区割 条坊がどの様に計画されたかであるが、基本的に、大路は心心で1,500大尺(1,800尺=約533m)の間隔で計画され、1坊はその中に入る。小路や、坊間路、条間路は、これを4等分した375大尺(450尺=約133m)間隔で同じく心心で設けられた。このことは1坪、1町が隣接する道路の幅により変化することを示している。坪の1辺長で314尺=約93mから425尺=約126mまでのばらつきが生じている。坪の面積の均等化は、「藤原京」同様考慮されていなかった。

街路幅員 道路幅は側溝の心心間で決められ、朱雀大路が210大尺(252尺=約75m)、二条大路が105大尺(126尺=約37m)、その他の大路は40大尺から70大尺で、坊間路、条間路は25大尺(30尺=約9m)であり、小路は20大尺(24尺=約7m)または20小尺(約6m)であった(当時の1尺(1小尺)=0.295から0.296cm)。

 長岡京、平安京との比較のため築地の心心間距離で表記すると、朱雀大路が28丈(約83m)、二条大路が17丈、東一坊大路が12丈、小路は4丈であった。

施設配置 平城京には多くの寺院が建立され、飛鳥からの流れを引くものと、奈良時代に新たに建立されたものがある。なかには、「藤原京」における位置を踏襲したものもある。新たに建立されたものには東大寺、法華寺、西大寺等があり、氏族寺院も多数建立された。このことは後の長岡京、平安京に影響を与え、後の都城では基本的に寺院の建立は認められなかった。

 宅地の利用状況であるが、史料は平城京に限って残っていない。発掘等により、位階により割り当てられ、8町から1/32町までの例が知られている。藤原仲麻呂が8町、不比等が少なくとも4町、長屋王が4町でこれらはごく限られた高官の邸宅である。1町の発掘例は多く、1/2町、1/4町、1/8町、1/16町、1/32町と続く。その分布は1町以上の宅地は平城宮周辺、南に離れるに従い1/8町以下の宅地の割合が増す。1/32町に至っては八・九条周辺に位置する。位階により、規模・位置が区別されており、時代が下る奈良時代後半以降に狭少な宅地が顕著であり、次第に細分化される傾向があった。

 市は左京八条三坊に東市、右京八坊二坊に西市が立地し、各坊の中央南よりの4町を占めたと考えられる。左右対称とならないのは水運との関係と考えられ、東堀河と秋篠川の利用が重視されていたのであろう。

 西堀河たる秋篠川に関しては流路のつけかえが行われたが、佐保川なども京の北半では河川のつけかえが行われていたようである。また能登川や岩井川は京の外を走らせた。しかし佐保川は京の南半では流れるにまかせていたようである。

宮の構成  平城宮は、2坊(約1km)四方の正方形の東に東西半坊(約270m弱)、南北1坊半(約800m)の張り出しを持つ。この外形と大極殿・朝堂に相当する部分が東西に二つ並立する点が特徴である。この張り出し部分は藤原不比等の邸宅(後の法華寺)に接していることから、宅地班給の際に不比等が良好な立地を優先的に取得し、あえてその間を宮に取り込む形にしたとの推測が成り立つ。

 

 

恭仁京

沿革 740年に、乱を東国に行幸して避けた聖武天皇が、乱後も山背国にとどまり、大養徳恭仁大宮と呼び遷都を命じた。しかし、恭仁京の建設途中に、742年の紫香楽宮造営、744年の難波京遷都を経てついには745年の平城京遷都となり恭仁京は廃止となった。

都城の規模 「続日本紀」によると、恭仁京の京域は賀世山の西の道から東を左京、西を右京と定め、宅地の班給も行われたので、ある程度都城が造営されたと想定される。最近の発掘データで地図上の計測を行うと右京の中心道路は南に下ろすと那羅山を越えて平城京の東京極へつながり、さらに中ツ道へとつながる(実際には、中ツ道と下ツ道が平行でないため、中ツ道と東京極とはつながらない)。

宮の構成 左京に内裏、朝堂院が存在する。空中写真の判読、地割りの状態から8町四方程度と推定される。大極殿は746年に山城国国分寺に施入されている。

 

長岡京

沿革 784年に、桓武天皇が長岡京に遷都した。わずか2年半前に2省2司を廃止して律令財政の再建をしようとした矢先であり、また準備期間がきわめて短く、半年前に視察してすぐのことであった。更に造営の中心となった藤原種継が暗殺されたこともあり、わずか10年で廃されている。このように、その当時桓武天皇が行った早急な遷都にはいささか不可解な点が多い。

 このような様々な疑問の背景として岸は難波京との関係が挙げている。文献史料によれば、長岡遷都に難波京を管する摂津職が深く関与しており*1、発掘から難波宮を移築して長岡宮にしたらしいことが明らかになっている。

 このことから、長岡遷都は平城京からだけではなく難波京からの遷都という意味あいをも持つと考えられる(実際に摂津職が廃されたのは793年で、多少の移行期間が存在する)。実際のところ、難波津は浅くなり関津としての機能を低下させてきており、さらに副都制を廃し、京を一つにして財政再建を図ったと考えれば不可解な遷都の理由が見えてくる。朝堂院の規模が12堂から8堂となりそれまでの最低の規模に押さえていることがそれを物語っている。

 わずか10年にして遷都されてしまった理由としては、藤原種継の暗殺、小規模な宮都、水害等に対する不都合が考えられる。

都城の規模 京域・宮域については外形が南北に長い長方形で計画されたことは間違いないが、ともに南縁が確定していない。すなわち京域については九条大路以南、宮域については二条大路以南の確認がなされていない。16坪(町)をもって1条×1坊とするなら、南北10(9.5)条×東西8坊の規模となる。

街区割 条坊の計画については平城京から平安京へと至る過程を示し興味深い。宮城から南、東、西の位置(宮城南面街区、宮城東面街区、宮城西面街区とそれぞれ言われる)にある町の規模は短辺350尺(または375尺)、長辺400尺の長方形となり、残った左京と右京(左京街区と右京街区)は400尺四方となり平安京全域で用いられたものと同じ規模を持つ。1町の規模が小さいところは特別な区画で、細分化する必要のない高位の者が住んだと思われ、細分化される残りの左右京は同一の面積を与えることが意図されたと思われる。

街路幅員 築地の心心で、朱雀大路が24丈、二条大路、東一坊大路が12丈、その他の大路が10丈、小路は4丈の幅を持っていた。

施設配置 長岡京には七寺院あったことが地名、出土瓦から明らかになっているが、平城京からの寺院の移転は禁止されていることから、長岡京の造営前からあったものが取り込まれたようである。その中で、川原寺の大衆院跡と思われる遺構が検出され、長岡京と同時に造営されたことが明らかとなり、当時私的寺院の造営が禁じられていたこと、天皇家との深い関わりをうかがわせる文献史料との関係から、この寺が長岡京における東寺の役割を果たした可能性が大きい。また同様の性格が文献資料よりうかがえる長岡寺が西寺に当たると思われる。両寺が平安京の東西寺の造営に合わせて史料から消えることもこれを裏付ける。

 宅地に関しては、戸主制という制度が用いられるようになった。用いられたのは貴族皇族らが住まう宮城の南、東、西の地区を除いた地区で、400尺四方を1坪と均一に計画してある地区であった。そこでは東西に4等分(100尺)、南北に8等分(50尺)という1坪を1/32にした宅地を1戸主として下級官吏らに与える制度であった。

 東面街区、南面街区の調査では有力者達の宅地として利用されていることが確認されている。東面街区では、官衙跡が、二条二坊十町で発見された東院を取り囲むように左京一・二条の二坊一帯で発見され、天皇関係の役所が集中していた。東院の南には、4町の規模を持つ整然とした建物配置の宅地があり、離宮の可能性がある。このあたりは平城京、平安京でも高級貴族達の宅地であり、その場所が持つ性質は変わっていないと考えられる。また、南面街区では七条一坊で朱雀大路に面して大規模な宅地利用が確認されている。

 実際の戸主制の使用状況であるが、四条大路あたりと六条大路あたりでかなりの違いを見せている。四条大路付近の宅地では、多くの建物跡、井戸跡が大路に面して検出された。これに対し、六条大路付近では耕作関係の小溝群が検出され、戸主単位で耕作が行われていたようである。また、右京六条三坊の土地売買の証文である『六條令解』によれば、東西を4等分、南北を8等分した宅地のやりとりが実行されていたことが記されている。

 東二坊大路と七条条間小路との交叉点の川跡から祭祀跡が発見され、大路末でおこなわれた祓えに関係するとみられる。

 堀川の利用に関しては、北限にあたる左京北辺三坊八町で大規模な倉庫跡を町の中央部で検出し、また左京一条三坊八町では、大量の木簡が川跡から出土し、宮関係の造営に関わる物資や人々の集結地及び作業場であったことが明らかとなった。この調査地は長岡京時代の河川跡のそばにあり、この河川は桂川に通じる堀川の役目を果たしていたと見られる。

 市は左京、右京ともに七条二坊三・四・五・六町付近に設けられていた。

宮の構成 上記のように、長岡宮は南に二条を越えるかで不明である。通常の都城は二条大路をもって南限とするが、長岡宮の発掘では朝堂院が二条大路に極めて近いところで検出され、朱雀門と朝堂院の間隔が極めて近く不自然なため、南限が確定していない。

 その他の特徴としては、財政再建のために宮の規模を縮小していると考えられ、実際に朝堂院、内裏(第2次)など調査が行われたところは、極めて小規模である。

 

 

平安京

沿革 桓武天皇が793年に遷都のために視察し、794年に新京に遷り、新京を平安京と名付け、山背国を山城国と改めた。

都城の規模 平安京に関しては『延喜式』の京程に記述があり、平面規模、各道路の規模及び構成部分の規模や数を知ることができる。しかし、初期平安京に関しては史料は少ない。

 南北9.5条×東西8坊の南北に長い長方形の外形をしている。ほとんど長岡京と規模は変わらない。

 発掘調査により造営尺=29.8445cm、造営のふれ=-0°14′23″(座標北から東方向を+とする)が最確値としてもとまり、施工誤差は約±1mであることが解っている。平安京の規模は東西4.5km、南北5.2kmであるから約2kmぐらいで1mの誤差が生じる程度の造営が当時の土木技術の精度であり確実に技術が向上してきたことがうかがえる。ただし、1丈(10尺=約3m)分のズレを同一道路内に生じた場所もあり、同時期に様々な場所から造営が開始されたことによる測量ミスであると考えられる。

街区割 特筆すべきは平安京の各区町が同じ規模であることである。河川の取り扱いを見ても宅地を同一面積にする方針がとられている。その各町は東西に4、南北に8分割され、この1単位(東西10丈、南北5丈)は『戸主』といい、当然面積は一定で、最小の土地区画単位となっている。このことは、当初の都市計画が道路心により心心で各町が設計され、都城全体が設計されていた時期から、長岡京を経て徐々に宅地が私有化される過程を都市計画上からも明快に示すものとして特筆すべき点である。

街路幅員 道路は路面、側溝、犬行、築地で構成され、個々の規模も知れる。道路の規模は両側の築地の心心であり、単位は丈(10尺)で表され、298.445cmであった。ちなみに、朱雀大路は28丈(83.56m)、二条大路は17丈、東西大宮大路と九条大路は12丈、宮に面する大路は10丈、その他の大路は8丈(23.88m)という幅であった。小路は4丈の幅で統一されていた。

施設配置 寺院、市、堀川などは東西のほぼ左右対称に配置されている。

 造営に際し堀川も含め、土地改変が行われていることが知られる。右京八条二坊二町の調査では、初期に流路あるいは湿地の上に整地し、条坊路を設けたことが知られる。ここでは築地が想定される場所に各戸主が柵を設けた跡が見いだされ、国家による造成は側溝までで、平安京の造成から町並みの整備に至る過程は官民一体となって進められた様子を示している。

 このことは一般の都城に関して言えるであろうが、造営が平安京全体に対し行われたかは疑問であり、調査でも右京八・九条三・四坊は平安期の遺構が存在しない。また、左京八条三坊では、一帯が平安時代後期に大規模な整地を行い宅地化されたことが知られる。

 寺院については平安京内に造られたのはわずかに東西寺だけである。東寺が左京九条一坊、西寺が右京九条一坊と左右対称の配置である。

 宅地については調査面積の制限から、1町を占めるものが2例、戸主単位では右京八条二坊二町の調査のみである。

 東西の堀川、その他の河川のほとんどは旧流路に近い道路内を通しており、例外的に1町の東西中心軸上に川を設ける例があるが、当初から町の面積を同一にする方針が貫かれたことが解っている(例外として、使用されない地域においては鴨川が左京の南西を侵していた時期があるようにその限りではない)。野寺小路のように道路全体が川に作り替えられているところもある。また、東西堀川は東西市にそれぞれ通じていて、その点は平城京と同じく水運が考えられていたことが明らかである。

宮の構成  平安宮は各築地と、接する大路の築地の心が等しく、宮の規模は築地の心心で南北460丈(=5坊分=約1,373m)、東西384丈(=4坊分=約1,146m)で、平安京と同じ計画線で計画されたと考えられる。また内部の建物は回廊等からの距離が整数尺を示す例があり、かなり精密な造営計画指図の存在がうかがわれる。また、官衙のうち外縁にあるもののほとんどが条坊地割りを踏襲していること、造営時期が不明である北辺の一坊を除くとほぼ正方形となり、大極殿がその中央にくることもそれを裏付ける。平安宮に関しては、後世の利用により遺構の完全な形での発掘はなかなか望めないという状況にも関わらず、かなり正確な宮城図が存在しておることもあり調査もかなり進み、各官衙の四至はほぼ確定していることから今後、官衙の変容もいずれ明らかになろう。

 

 

2.比較考察

「藤原京」と中国の都城

 岸俊男による分析のうち現在でも有用と思われる部分を以下に紹介する。

 「藤原京」の外形は、岸案では東西4里・南北6里の縦長型である。「大藤原京説」によっても京域は南北に長い。縦長の都城としては、北魏洛陽城の内城があり、6里×9里の広さを持つ。ただし、内城の外の外郭は東西20里×南北15里の横長となる。また他に534年に北魏の孝静帝がギョウに遷都し、東魏と号したたおりに築かれた南城は「ギョウ中記」によれば、6里×8里60歩であり、ほぼ洛陽城の内城に近い。北魏洛陽城の外郭・唐魏洛陽城とギョウ北城に関しては1坊が正方形で復原されており、唐長安城や以下の建康城では1坊は正方形ではないため、日本の条坊制の起源を推測する上で興味深い。

 一方、鬼頭清明は、岸俊男による平面プランの形式のみを分析する手法に疑問を提示し都城の機能的構成を重視する立場をから北魏洛陽城の内城と「藤原京」を単純に結びつけることを批判している。さらに、「面朝後市」は、『周礼』の儒家思想に関連し、唐の長安城型で北魏に始まるものと考えられるものは、陰陽五行説の太極の考えに結びつくと考えている。

 日本がどの様な部分で中国の影響を受けたかが明らかになることにより、岸俊男と鬼頭清明のどちらが妥当な分析であるかが見えてくるかもしれない。

 以上は北朝の都城であるが、日本に関わりの深かった南朝では建康城(現南京)がある。「建康実録」によると、都城の周囲は20里19歩、宮城の周囲は8里、宮城の南門・大司馬門とそれに対する都城の南門・宣陽門との間は2里であった。この数値は、藤原宮の外周に関してはほぼ同じで、岸案であれば京域もほぼ一致する。また京の外形も南北が長い復原がなされている。より興味深いのは台城(臨時の京であり、宮より低いという意味で台が用いられる)の構成で、一見すると平城宮、長岡宮、平安宮に見られるような宮の中心部分が1つの南北軸をもたずに配置されているところが、似ていることである。

 朝鮮半島の都城との関係や、より詳しい分析は徐々に進めてゆきたい。

 

 

条坊制の変化

 以上各都城で見てきたように、古代日本の都市・地域計画において方格地割りが卓越している。特に計画線を正方形とする地割りが見られることが明らかであるが、その設計方法についてはかなりの変化があり、継続して受け継がれている方法と、変化した方法についてまとめてみたい。

 しかし、現状でこの考察を行う場合、厳密に行うとすれば「藤原京」を含めるのは難しいと思われる。古代都城が明確に知れるものとして現状では平城京、長岡京、平安京があり、それ以外は不明な点が多い。従って、その変遷を追う意味では以上の3つの都城を中心にまとめ、その他の都城については語ることができる部分については適宜語ってみたい。

 まず、都城を通じて継承されたものをみてみると、道路の幅が挙げられる。この場合の道路幅は築地と築地の心心間であり、路面と側溝を含む幅である。大路、小路の幅はほぼ変わっていないといって良い。京の中心道路として朱雀大路、二条大路があり、その他の大路、小路が設けられているが、このことも平城京から大して変わっていない。

 また宅地に関しては宮城の東側に当たる部分が高級貴族達の宅地に当てられていたことも3つの都城を通じて認められる。

 これに対し、条坊制は平城京、長岡京、平安京と変化を遂げ、その変化は主に宅地部分に現れる。この変化について山中章氏は「分割方式」と「集積方式」という言葉を用いて説明しているが、この考察においては、この語に対応する用語としてそれぞれ「心心方式」と「内法方式」という用語を用いる。

 「心心方式」とは、道路の心心で基準寸法を用い、そこから各道路幅で側溝や築地の位置を決め、最終的に宅地の規模が決まるというものである。日本古代の場合、基準寸法は1区画(1町分)約133m=450令小尺である。この方法は「藤原京」と平城京(そのほか難波京)で用いられている。このような場合、接する道路により宅地の面積が決まり、平城京の場合、朱雀大路に面するような小さい宅地の場合と小路に面する大きい宅地とでは1.7倍の差が生じる。

 「内法方式」では、あらかじめ宅地の規模と道路の幅員を決めて、これを組み合わせる方法である。この場合宅地の基準寸法は400尺で、長岡京の場合は部分的に「内法方式」がとられ(長岡京の宮城に面する方向では町の幅は350~375尺となり、長方形の町、坪を持つ部分もある)、平安京になって全ての町が400尺四方となった。平安京については、宮城内部にすら400尺四方の計画線で官衙が計画されている部分がある。400尺という寸法は、「心心方式」で宅地が最終的にできあがる際の寸法に近く、分割の方法からすると完数が得られるために用いられたものであろう。

 このような条坊制の変化の背景として、当然のことながら、宅地利用の変化が挙げられよう。「藤原京」や平城京が計画された時点において、宅地の均一さはさほど大事ではなかったようである。たとえば平城京の長屋王邸では計画当初から左京三条二坊の敷地に4坪(町)分の宅地が当てられていた。長屋王邸の北には藤原不比等やその子・麻呂といった藤原氏の有力者の邸宅が設けられていた。このような大邸宅を所有する有力貴族達にとっては序列や位置が重要であった。このような傾向は平安京の前半まで踏襲されていたようである。更に、奈良時代後期までは庶民には宅地の班給はなされず、役人ばかりが対象となっていた。これらが平城京の計画時点まで「心心方式」がとられていた原因と考えられる。

 奈良時代後期になって建設事業のために大量の農民が京に集められ、肉体労働に従事することになり、また東大寺では写経事業のために技能者が集められることになり、ここにいたって1坪(町)を1/32から1/64に分割して与え始める。このようにして京の人口が増加の一途をたどると、宅地に対する考慮がなされるようになり、その結果長岡京において条坊制に変化を強いることとなったと考えられる。

  前述のように、長岡京では「内法方式」の用いられた地域が存在し、それには新しく戸主制が新たに採用され、京の宅地に対する配慮の必要性が高まっていたことを暗示している。このようにして長岡京において部分的に採用された戸主制は、平安京においては全面的に採用され、そのことが平安京において「内法方式」の全面採用につながるのである。

 このようにして日本の都城を見ていくと、当初諸外国の影響によって採用された条坊制は、一部計画者の対外的必要性によって生まれたものと考えられるが、時代が下るに従い、宅地班給という内部の必要性から、計画方法が「心心方式」から「内法方式」へと変化していくという過程が考えられる。

 

 

測地尺

 大宝律令(701)・養老律令(718)においては大尺と小尺が用いられた。それ以前に存在した尺は唐尺と高麗尺で、唐尺には大尺と小尺があった。大宝律令で、高麗尺が大尺(令大尺)、唐尺の大尺が小尺(令小尺)にあてられた。2つの尺は1.2倍の関係にあり、測地尺としては令大尺が使われている。

 和銅6年格制(713)になって測地尺は令小尺となり、名称は大尺になる。小尺として唐小尺が用いられる(倍率は令制と同じ)。奈良時代によく使われた測地尺は令小尺(後の大尺)であり、よって単に尺と記す。また、尺の実際の寸法は時代が下るにしたがい次第に大きくなることが考古学調査から明らかにされている。それ以外の尺度は複雑になるので基本的に略す。

令制

「藤原京」、平城京の造営時

    高麗尺=令大尺=35.3あるいは35.5cm=1.2令小尺

    唐尺(大尺)=令小尺=0.295から0.296cm

    1歩=高麗尺5尺(大宝律令の雑令以前は6尺)

    1里=300歩

    1丈=10令小尺

和銅の制

    1歩=6大尺(長さは令制の1歩と変わらない)

平安京の造営時

        1尺=29.8445cm

今日の尺(曲尺)

        1尺=30.3cm

 

 

藤原京と長安城の坊形

藤原京の条坊制の基本単位は1辺が約265m=半里の正方形をなす*1。それに対し長安城の場合は、外形が横長であることに影響され一般に各坊も横長である。ただし中央の朱雀門街にそう東西の特別区に当たる坊だけは、正方形に近く、小路も、南北には通っていないという特色がある。これに対して、北魏洛陽城、隋東洛陽城ともに1坊は正方形で、北魏洛陽城の1坊は方1里である。4面に1門を開き、十字に小路を通すが、この点も藤原京に近い。平城京は1坊が縦横3本ずつの小路によって分かたれる。これは中国の都城にはない変形である。このように坊の形においても、北魏洛陽城など中国の都城に、直接類似するのは、藤原京である。

 

 

平城京と長安城の相似点

 藤原京は、唐長安城とは異なり、北魏・東魏・南朝の都城のように2対3の外形をなすが、平城京と長安城との間には相似点も存在する。

 一つは朱雀門街東西を特別区とする認識である。これは発掘による道路の遺存痕跡が非常に顕著であることが認められ、なおかつ平安京にいたってはこの地域を坊城と称することによっても重要性は高かったことがうかがわれる。

 また唐長安城には東南隅に曲江池と芙蓉苑がある。平城京にも越田池が東南隅ににある。苑池の配置には類似性が感じられる。

  朱雀大路と宮城に南面する第五街の幅は、唐長安城では150~155mと120mであり、朱雀大路が南北で1番大きい道であり、第五街が東西で1番大きい道である。このことは平城京でも朱雀大路と二条大路において踏襲されている。第五街は春明門と金光門とを結ぶ主要道であり、春明門を出れば東都洛陽、あるいは北都太原に通じ、金光門は西域に通じていて、東西市はこれに面するように設定されていた。日本からの使者も必ず春明門から長安に入ったらしい。第五街は日本人にとっても印象深い場所であったであろう。

 

 

東大寺

  743年10月、紫香楽で造立の詔が出された盧舎那仏金銅像は、京が平城京に還ると平城京の東、大倭国添上郡山金里、現在の地に造立が開始された。

 「東大寺山堺四至図」という756年6月に献納された絵図をもとに、選地に対して考察を加えると、この図には南面する築垣の途切れには門名の記入がないが、西面する築垣には北から「佐保路門」、「中門」、「西大門」と記入があった。さらに西大門の肩には「東大寺」と注記されている。

 更に、南大門と中門との間には当時丘があり、丘を取り壊し現在の状況のように、南大門から直接中門が望めるようになったのは、鎌倉時代からであった。他にもいくつか西大門が正門として扱われた例がある。*1以上のようにこの当時、寺域を画する築垣に開かれた門のうち、二条大路に通じる門である西大門がもっとも大きく、正門と認識されていたことが判る。このことは、二条大路の優位性を示していると考えられる。

 また「東大寺山堺四至図」には、朱で、方格線が描かれており、どうも条坊区画を基準としているようでもあり、大仏、西塔の位置は町の中央の位置に計画されている。東大寺は、平城京の下京の外にあるが、このことは興味深い。

 

 

倭漢氏と造都

 都城の造営にあたって指導していたのは、平城京では、坂上忌寸忍熊が平城京司の大匠となっていた*1。孝徳朝の難波長柄豊碕宮では将作大匠として荒田井直比羅夫があたっている*2。彼らは倭漢氏である。他に倭漢氏が造営に携わったものに舒明朝の百済寺があり、書直県が大匠として伝えられる*3

 

 

3. 東アジアにおける都市計画の理念

 中国の中原を中心として、東アジアでは、古くから都市を形成してきた。そして、中国では次第に都市計画の理念らしきものが形成された。

 なかでも、日本の研究者達が注目したものには『周礼』考工記がある。きわめてわずかな本文に、日本の都城研究者達は日本の都城の原型を見、理想の首都計画として研究の対象としてきた。しかし、近年の研究により、都市計画にも時代、地域の特性が顕著である実状が改めて指摘されている。そのような中では、どれだけ影響力を持ったか明確でない都市計画の理念に関して考察することは、限られた意味しか持たない。しかし、格子状街区の構成原理に対して研究する場合、たとえ実状から離れていても必要なことは間違いないであろう。

 今回の考察にあたって、『周礼』考工記、「風水」、「陰陽」思想に関してまとめてみた。ただし、いずれも包括的な(宗教の教義に近い)考え方であり、本研究では都市計画に関して述べられている部分に対してのみまとめてみた。本来なら考え方の全体を見渡した中で、都市計画の理念に対して考察を加えることが望ましいが、本研究ではこのようなまとめ方もあり得るであろう。ただ、格子状街区にこだわらず、都市計画全体に対してどの様な考え方を持っているかについて留意したつもりである。

 主に参考とした文献は、『都城の生態』(岸俊男編)*1、『中国の城郭都市』(愛宕元著)*2、『風水探源』(何曉キン著)*3、『風水思想における原則性から見た平安京中心とする日本古代宮都計画の分析研究』(黄永融著)*4である。他に数冊の参考文献があるが、基本的に上記の文献の考え方を踏襲して、まとめてある。

 

 

『周礼』考工記にみる都市計画

 『周礼』考工記とは周王朝の、あるべき王城の姿を記したものである。周初、旧殷の勢力圏であった東方経営の拠点として周公旦が造営したとされる成周*1という洛邑がモデルと言われるが、確証はない。儒教の古典として尊重され、都市計画の最も基本となる理念の記述あるいは、いまに残る最も古い史料と考えられる。

 『周礼』考工記のなかの匠人の条は「建国」の項に続き、「営国」の項がある。この項は王城の造営に関する記述であり、本文を以下に記すと、

 方九里、旁三門。国中九経九緯、経ト九軌。左祖右社。面朝後市、市朝一夫。

わずかこれだけであり、注釈書を参照しつつ意訳すると*2

 「一辺9里の正方形で、側面にはそれぞれ3つずつの門を開く。城内には南北と東西に9条ずつの街路を交差させ、その道幅は車のわだち(8尺)の9倍とする。中央に天使のいるの左つまり東には祖先の霊をまつる宗廟をおき、右つまり西には土地の神をまつる社稷をおく。前方つまり南には朝廷を、後方つまり北には市場をおき、その市場と朝廷はともに一夫つまり百歩平方の面積を占める」

 那波利貞氏により『周礼』考工記が詳細に検討され、「前朝後市」「左祖右社」「中央宮闕(宮殿)」「左右民テン(民家)」という4つの要素に要約した。氏は、この4つの要素は明代の北京城に至るまで及んだものとし、このような伝統的形式に対し、宮闕を中央北詰において後市の慣例に背き、また宮闕の前面にも民テンをおく形式もあることも論じ、このような2つの類型の存在を論証している。

 那波氏は4つの要素の前提として、原則的諸現象として6ヶ条を挙げ、第一に首都都城の各面に3門ずつ合計12門を開き、都城疆域を碁盤目状に等分するように幹線道路を確定することを挙げた。しかし、碁盤の目状に分割すると、16区になり、その点は今日訂正され、いくつもの復元案が存在している。

 これに対し、村田治郎氏は『周礼』考工記そのものの位置づけで那場氏の意見に疑問を提示し、『周礼』冬官考工記は、中国学の学者達が考えるほど大きな影響力を持ったものではなく、明代に元・大都を改造する際に現在の北京になったのが唯一の例であるということ、宮闕は当初より北方にあるのが中国の伝統であるという推定をしている。しかし、いずれにせよ周末漢初以来、首都のあるべき姿として意識されてきたことは間違いないであろう。

 砺波護氏は陰陽説を取り入れる必要を指摘している。その根拠として『欽定礼記』に付録された「」巻一の朝市廛里の条の文中にある、

 君立朝而后立市。固以寓先義後利之権。*3

を見れば、朝廷を立てる天子と市場を立てる皇后とを陰陽の対置として捉えられると述べている。

 加えて、考工記より古いとされる『周礼』の内宰の条に、「およそ国を建つるに、后をけて市を立つ。その次を設け、その叙を置き、そのを正し、その貨賄を陳べ、その度量と淳制を出す。これを祭るに陰礼をもってす。」とあり、これに対し漢のは「王は朝を立て、后は市を立つ。陰陽相成の義なり。」と注を入れている。これをもって上田早苗と福山敏男がそれぞれ述べた説に同調している。実際の歴史においてもそのようなことがあったかどうかは疑問があるが、中国では陰陽で説明され、日本においてもこのような思想に基づくと思われる記述もみられる*1

 

 

『周礼』考工記の影響

 那波利貞氏による4原則が実際の都城にどのような影響を与えたか見て行く。

 日本に多大の影響を与えたとみられる唐長安城(隋大興城)では「前朝後市」「左祖右社」「中央宮闕(宮殿)」「左右民テン(民家)」のうち明快にまもられた部分は「左祖右社」だけでそれ以外に見い出すのは難しい。

 「前朝後市」は、皇城は宮城の南部に位置したが、「後市」の部分で東市と西市が宮城の南東と南西に位置することで異なる。「中央宮闕」においては、宮城が中央北詰にあることで完全に背馳している。「左右民テン」においても宮城の前方の朱雀門街の両側に4列に各々9坊、合計36坊あり、反している。

 「左祖右社」に関しては皇城の東南隅に太廟と太廟署がおかれ、西南隅に太社と郊社署がおかれていることで原則は守られていた。ただしこの「左祖右社」に関しては日本の都城には採用されなかったということは常識であるから、日本ではこの部分は何らかの理由で除外されているようだ。

 しかし、「左右民テン」・「面朝後市」に関しては砺波護氏が仮説を提示しており、興味深い*2

 まず、「左右民テン」に関して述べる。長安城内の東に54坊と東市、朱雀門街の西にも同じく54坊と西市があり、全部で110の坊市がある。そのうち、先に述べた宮城の南にある36坊に関しては他の坊と異なる点がある。まず、規模が他の坊に比べ小さく、それが一つの原因であるとも考えられるのだが、東西の坊門2門しかなく、他の坊に見られるような、4門あって坊内に十字路がある状態ではないことが挙げられる。砺波氏はその点に「左右民テン」の考えが反映されているのではないかということを述べている。坊が小さいので東西路のみ残されるということは根拠としては十分でなく、更に根拠として陰陽説や、「左右民テン」の考えが反映されていたとしている。更に唐代に長雨が続くと坊市の北門を占め、晴れるのを祈った史実もあり、何らかの理念が少なくともあったことが十分に考えられ、「左右民テン」が考慮されていたと推測する砺波氏の意見は理解される。

 続いて、「面朝後市」について述べる。長安には太倉、洛陽城には含嘉倉という倉庫群があり、都城において重要な役割を持っていた。呂大防『唐太極宮残図』にあるように太倉は太極宮内、西部にある掖庭宮の北に位置し、それよりも大規模である。しかし逆に、含嘉倉は東城の北(東北部)に置かれている。このような配置の相違は洛陽城における河水の氾濫を恐れたことが原因であると砺波氏により考察されている*1。『周礼』考工記における都城の理想としてみられる「建物配置の東西対称」で考えるなら、東宮と掖庭宮は東西対称として向かい合っていると考えられよう。ところが、呂大防『唐太極宮残図』には、掖庭宮より太倉の方が大きく描かれており、東宮との東西対称で考えると、掖庭宮は太倉を含んで対称となっていると考えられよう。このように考えると、先に考察したように、「面朝後市」で位置づけられた市が、この場合太倉に当たるのではないかと推測している。さらにこのことが、「面朝後倉」となり変わり、平城宮、平安宮へと受け継がれたと推測している。

 

 

『周礼』考工記に対する批判

 文化大革命期においては儒家思想を批判して法家思想を高く評価する政治社会運動、すなち批儒評法闘争の一環として『周礼』考工記に対する批判が建築の分野でもあった。

 これは『周礼』考工記・匠人の条から始まる都市計画に関する記述が、後世の儒家の都市計画に与えたが、文化大革命期に問題となったもので、反動的な役割を果たしてきたという切り口で断罪している。論旨には問題もあるが、中国都市計画の一つの側面に対する本質的批判としてはおもしろい内容を持っているものと言える。

 このような儒家の都市計画に対する批判は、文化大革命の終焉をもって次第に薄れてきている。

 

 

道教と風水

 今回都市計画の理念として道教を紹介せず、風水を紹介した理由をあえて述べておきたい。

 道教と風水の理念の多くは類似点を持ち、平行して発展し、浸透しあったと考えることが妥当である。すなわち、古代の民間巫術、神仙思想、陰陽・五行説などは、中国で生まれ育った宗教である道教と風水の共通の土壌である。特に『易経』は、両者の間に多くの共通項を生んだ。自然を「生気」で理解する方法、宇宙の図案に対する神秘的な付会、色彩・方位・数字に対する特殊な処理、人体の構造に対する抽象や模倣などである。風水の教典の一つ『宅経』は『道蔵』(道教の一切経)に納められてさえいる。また風水が最も理想的な環境モデルとして描写する四霊(四神)は道教の保護神でもある。また、ともに巫術を運用している。このようなことから混同されがちである。

 しかし、相違点を挙げれば、宗旨、思考法、対象が同じでないことが挙げられる。特に宗旨、対象に関して考えると、むしろ日本の都市計画に与えた影響は風水思想の方であると考えるほうが妥当ではなかろうかと思う。宗旨は、道教では長生き、不死、昇仙の追求にあるのに対し、風水では俗世での繁栄である。対象は、道教では人体であるのに対し、風水では居住環境である。

 日本においては、1980年代に道教が本格的に紹介され、日本に伝来した中国の考え方の多くは道教にあるとして語られることが多い。そして、日本の都城の選地、内部の空間構成等は道教によって理由付けされることが多かった。しかし、日本に道教が布教されなかったことを考えれば、間接的に理念に影響を与えることはあっても、日本の都城に大きな影響を与えたとは考えづらい。加えて、上で述べたことを考えれば中国における理念として風水を選んだことは当然であろう。

 

 

「風水」思想による選址

 それでは、まず選址(立地の選択)について述べると、農村の場合と同じように周囲の山川や地理の形勢の観察、地質の調査に基づいて行われる。農村と違うのは、規模が大きくなっただけ量が問題になる。「龍(山)」は旺盛でなければならず、「脈(連なる様)」は遠大で「穴(生気が集中するところ)」は横に広くなければならない。

 また、水が農村に比べ重要視される。山が重要視されず水が重要視されることも、堂局(明堂を含む平地)が大きくなったことで山が遠ざかるとみることもできよう。どちらも規模が大きくなったことによる当然の成りゆきとも思われる。

 都市計画の理由付けとしては、五行よりも陰陽思想によって多く説明がなされている。山は陰に属し川は陽に属すとされ、都市の形勢は自然の摂理にあわせ、半陰半陽でなければならないとしている。大都市の場合、立地は平田広野となる。山は遠ざかることとなるが、この場合も山のかわりに「環衛」するものは必ず存在している。

 

 

「風水」思想による空間構成

 『易経』では、陰をして人間の皮膚とし、陽をして人体の血液の循環とした。風水ではこの関係を、城壁と、城壁が囲む都市との関係にこじつけている。この考え方は城壁に加え、都市全体の空間形態と平面構成まで決定した。具体的には、都市の龍脈の主峰の頂点を東と西の城壁の延長戦の交点としていることが挙げられる。また都市の中軸線は天体の北極星座をささねばならない*1。中国において、南北の中軸線への志向が見られる理由として挙げられる。

 また都市の内部にグリッドパターンの道路があるとして、そのグリッドの縦と横の比率も陰(偶数)と陽(奇数)の比率でなくてはならない。つまり1対1の正方形のグリッドであってはならない。一般には9対8、5対4、あるいは3対2の長方形が多く見られる。中国東南部ではグリッドパターンを持つ都市のすべて、中国全土においてもその裏付けを得られる。

 

 

 都市の中心のことを「正穴」と称すが、その場所は役所の諸基址の用にあてる。また東西南北を問わず、四方がすべて高いところを吉としている*2。また、都は皇居の内殿を主とし、省の城は高官の役所を主とし、州・県は役所を主とするという記述も見られる*3。都市中心部の配置方法や順序および具体的な処置については、官製の都市計画を引いたものもある。例えば、「国の都を建造する法は、先に宗廟を建て、次に宮殿を営み、その次に役所や六省などの行政の場を営む。州や県の町を建造するには、先に行政府を建て、次に蔵や牢獄を建てる。」*1

 『宅経』の説によると、東北は鬼門であり、この方向は完全な城壁でなければならない。福建省の城壁は多くそうなっている。この地方は北東の風が強いこともあり、『宅経』の教えが流伝したと考えられる。

 古代の築城は常に亀と関係があった。おそらく「亀ト」を用いた選址と関係がある。また亀が中国では霊獣であったこともあるであろう。秦の恵文王が張儀・張若に命じて成都を築くときの話にも、亀の進むところに城を築くことで、今まで壊れてしまていた城を築くことができたという話が残っている*2。また都市を亀にたとえた形状にする例すらあり、平江城(蘇州市城廂区)は「亀城」と呼ばれた。

 ことわざに「鯉魚が龍門ではねる」と言い、文風が盛んな土地の意味であり、鯉の形状を模して文風が盛んになることを願う。泉州市は鯉に似ているので鯉城の称がある。

 流水を財力の象徴とする見方は、都市の水系に影響を与えた。風水の考え方では、城壁の外にめぐる堀の水が、都市の正門を通過することによって財力がこんこんと湧き出る様子を象徴するとしている。

 また、城門の設置に関しても風水は影響を与えた。城門は山を迎え水に接していなければならなかった。西の城門は山勢と水勢は合いにくい。そこで出城を設けたり、門の外にあずまやを設けて納めるようである*3。あるいは西門は閉鎖されればよい。また、城門の一つが都市の守護神となる。城門の建築法も五行説に基づき規定されており、同時に陰陽説、「四霊(四神)」説にも暗に合致している。

 

 

 都市に建てられる建造物に関して述べると、文筆塔、文武廟(孔子廟と関帝廟)、文昌閣、奎楼、役所等は風水による規定がある。文武廟に関しては礼制と一致している。このようにこれらの規定は礼制と世俗の心理的欲求からでているものが多い。

 水口(都市に流れる水系の出入口)が農村と同じように建設される。地勢を整えるためである。ただ、水口は都市からの距離が割合離れている。

 都市の住宅については、街路の処理、隣居との関係を重視している。農村の住宅とは区別されている。横町や道路が重要視される他、四方の門から入る風、水も重視され、水法が良ければ栄えるとされる*4。また隣居との関係を龍脈の中に託すこともある*5

 しかし、具体的に街路、隣居との関係を見てゆくと、街路は農村を囲む「水」の要素にたとえられており、すべて農村の「水」の方法にならっている。そして、龍脈は大局の盛衰だけしか論じられず、あまり関係ない。街巷を水の理論にあてはめ、街区がどの規模の道路に囲まれ、そして、その街区のどの位置に住宅があるかによって判断する*6。更に論を進めて「龍」「穴」「砂(穴の横を囲む山)」「水」の四大要素を都市の住宅周囲に配当している論もある。この場合農村における関係と相似している*1

 

 

日本の宮都に見られる「陰陽」思想

 史料が少ないことから学問として成立しにくいのであるが、この時代に間違いなく陰陽師が存在し、選地などに影響を与えたことを考えればこのような分析は必要なことであろう。

 陰陽五行思想が大陸から日本に伝来するのは、日本書紀に現れる限りでは、513年に百済の五経*2博士段揚爾が献上されることが始まりであった。その後も、大和朝廷は、主に百済から渡来した人と書物の導入を積極的に行った。

 日本の陰陽道に影響を与えた渡来人は、初期にはほとんど僧侶であった。例えば推古朝に渡来した百済の観勒は、蘇我氏の建立した法興寺の住職となっている。そのために直接的に道教の影響を受けたと言いがたい。しかし、遣唐使が派遣されるようになると、唐では当時道教が盛んであったため、陰陽道も影響は受けたと考えられる。

 天文・暦・哲学・医学などの学問の総称としての陰陽道は天武朝には陰陽寮という役所までできあがった。中務省に属し、陰陽道の教育から実践まで行った*3

 

 

 日本の都城に関して具体的にどの様な記述が残されているかを見てみると、選地に対する記述が多い。藤原京では、「日本書紀」に「広瀬王.大伴連安麿および判官・録事・陰陽師・工匠を畿内に遣わして、都を応るべき地を視占しめ」とある。平城京の詔書でも、「続日本紀」に天体観測・四神相応・亀甲ト筮により選地を行ったことが書かれている。平安京においても、選地に際し大納言藤原小黒麿・左大辨紀古佐美など、陰陽道に明るい人が赴いたことが記録に残っている。少なくとも都城の立地には、陰陽道の考え方が強く反映していることが確かであろう。

 具体的な選定方法としては、平城京に関しては「続日本紀」に「方今平城之地、四禽叶図、三山作鎮、亀筮並従、宣建都邑」とあり、四神対称(相応)と、山に囲まれたことを選地の理由として挙げている。また平安京に関しては「山川襟帯、自然作城」とある。遷都と同時に山背国から山城国と国名を改名している。

 また、『周礼』に見られるような、日影を計ることで選地を行った可能性がある*4

 

 また祥瑞現象に対する記述も見られる。723年に白い亀が献上され、この事により大赦・租税免除・賜禄、さらには譲位もなされた。年号が神亀となってさえいる。他にも年号に亀が付く場合、同じ様な祥瑞現象があったからとされる。

 政治制度も、陰陽五行説に影響されたと考えられ、冠位十二階の色の価値観、十七条の憲法の17という数字などにも影響が見られる*1

 他にも幾つか陰陽思想に関係して行われたこともあるはずであるが、陰陽道の相関知識や書籍は、国家機密として厳密に管理された。陰陽寮内ですら自分の分野以外の書物を読むことを禁止している。

 

 

都城の数字に関する考察

 前述の『周礼』考工記の記述にもあったとおり、九里九軌等の9が基準数となっているが、9は究に通じ、数字の極まりを意味する。

 日本の都城の源流の一つと考えられている北魏洛陽城は内城に「九六城」という俗名があった。岸俊男氏は縦横比率が9対6の系列の都城を「四六判の都」と呼んだ*2。しかし、外形の呼称としてはそれでもよいが、「九六城」と呼び慣わされた理由の一つとして、9という数字と6という数字が陽数(奇数)と陰数(偶数)の代表として有り、九六とは一義的に「陰陽」を表してきたことが挙げられねばならない。したがって9と6という数字の持つ意味あいも考えねばならず、そう単純には「四六判の都」と呼べないのではないかという砺波護氏のような意見もある*3。現在「藤原京」の外形が単純に岸説によれないことを考えると、外形のプロポーションを議論することは、より設計理念の研究と考古学的裏付けが必要となってくるであろう。

 また、唐長安城に関しては平岡武夫氏により、朱雀門街に、龍首山のすそ野よりのびた6つの丘陵があることが、宮城、皇城、寺院等の配置に影響を与えたことが指摘されている。具体的には、6つの丘陵は当時の人々に六坡と呼ばれ、易のになぞらえられていた。易の術語により丘陵は北から順に初九、九二、九三、九四、九五、上九にあてられ、その解釈から天子の位に当たる九二の丘陵に宮城を、君子の位に当たる九三に官庁街たる皇城を、至上位の九五には一般の庶民を住まわせず、東に仏寺の代表たる大興善寺を、西に道観の代表たる玄都観をおいたという。乾の六爻になぞらえる事を後世の付会と片付けるか、あるいは平岡氏や、砺波氏のように信憑性が高いととるかはどちらも有りうるであるが、長安城(大興城)を新たに造営した隋の文帝が、北周の武帝が行った仏教、道教弾圧を撤回させた性格上、このような比定も十分あり得ると思われる。そうすると、唐長安城を、単純に宮城が北詰中央にあることをもって配置計画に最優先されたととることは難しくなる。

 

 

4.中国に於けるグリッドパターン

 中国においてグリッドパターンが都市・地域計画に用いられるのは、明確な起源を求められない。

 もともと中国(つまり漢民族)が成立する過程は、中原における都市国家群の成立と切り放せないものがある。都市は、その時既に城郭化しており、このような都市国家群の抗争による城塞都市の成立は、多くの世界の都市の成立と同じ歴史的要因をであると言えよう。むしろ日本における古代都城は例外的である。

 このような城郭都市がどの様にしてグリッドパターンの都市平面を持ったかを考える際には、村落などからの自然発生的な様相が見られる都市は少なく、都市計画の存在と、前提としてその都市が持つ強大な権力、グリッドパターンを肯定する理念の存在、土地利用の法規の存在が必要となっているのであろう。

 中国における都市遺構の発掘は、現状では十分な考古学的資料を提供してくれるとは言いがたいが、古代からグリッドパターンの復元図が見られる都城を中心に沿革、都城の規模、街区割、街路幅員、施設配置、宮の構成についてまとめて行きたいと思う。

 参考文献としては、『中国の城郭都市』愛宕元著を参考としている。

 

 

期の遺址・遺址

沿革1954~57年に発掘された遺址で陜西省西安東郊にあり、同時期(仰韶文化期;bc40002500)の遺址としては 陜西省県・遺址、華南省陜県・遺址がある。原始定住村落であり、、土壁のたぐいはまだない。ほとんどの原始村落遺址は黄河の本流からやや離れた丘陵上に立地している。仰韶期には城墻の出現は確認されていないが、ハン打法(版築)の技法は集落内住居址の基部に用いられている。

 半坡遺址の場合は、北流するサン河東岸、河床から約9m高い黄土台地上にあり、最古層はbc3955±105とされている。

規模50,000平方メートルの重層した集落址で、周囲は幅員、深さともに5mの濠溝で防禦目的に掘っている。

 

 

竜山期後期の遺址・遺址

沿革河南省にあり、同時期(竜山文化期;bc25001600)後期の遺址としては河南省遺址がある。この時期になると城墻が登場している。城墻の存在から、集中的かつ大量の労働力動員を可能にした社会であったと言えよう。また墓葬遺址からは、玉器等を副葬した少数例とそれ以外の簡素なものとが混在しだしており、階級社会への移行を示している。

 王城崗遺址は中岳嵩山の南麓、五渡河西岸の台地上にある。城墻から青銅器残片が出土し、層内出土の木炭片からbc2000前後と推定され、また「」と伝承されている地でもあるが、現状で中国最初の王朝である夏の遺址と断定することはできない。

規模ほぼ方形・同規模の東西2城からなり、1辺を共有する複郭構造となっている。現存する壁体の基礎槽*1は、西城で西壁が94.8m、南壁が97.6m、北壁残部が29m、東壁残部(東城西壁残部)が65m、東城南壁残部が40mである。東南流する五渡河の側浸により東城はかなり破壊されている。復原すると16,000平方メートル程度となる。

 

 

殷・周の都市国家

 殷・周の時代には都市国家群という形で中国は発達してきた。それが秦漢後に領土国家という形を取り、城郭都市にもいよいよ本格的な都城が成立する。

 殷・周の都市国家は邑あるいは国と呼ばれ、独自の神々の体系を持ち、祖先を同じくした血縁集団を支配層とした都市国家である。城郭を中心として周囲に半径数十kmの耕地を持つが、その外は、領土ではない状態であった。伝承ではその数は、夏の禹王の時万国、殷初には3千余国、周初には千7百余国、春秋初では千2百国であった。正確であったかどうかは別として、時代が下るにつれ、弱小邑が統合されて数が減少したのは事実であろう。

 原始村落から階級社会に移行するにしたがい、城壁が発達し、都市国家が形成されると言えよう。

 城郭構造に関しては、宮崎市定氏の説によれば、一般的な城郭の形態は山城式、城主郭従式、内城外郭式、城従郭主式、城郭一致式と変化したようである。このうち、殷代は山城式が一般的であったと考えられる。ただし、大邑である殷の城郭である偃師県殷城、鄭州殷城は別格であった。西周期から春秋期になると内城外郭式へと主流が変わる。このころ城と郭に別れ二重構造が明確となる。これが戦国時代末期になると内城は衰退し、外郭の強化が行われ城郭一致式に至るのである。

 このような城郭構造の変化に影響を与えたと考えられるのは、宗教的権威の低下による宗廟等の祭祀施設を囲む内情の重要性を低下させたこと。これに加え、都市国家から領土国家への移行があり、戦国中期には、わずか7国が国境を接する状況にまでなった。このような領土国家への移行は、戦法にも変化をもたらした。戦略面では、敵地奥深くまで侵略することもあることから、動員数の大幅な増加、戦争の長期化、要所攻略中心の戦闘、物資補給の長大化等があげられる。戦術面では、戦車による野外戦から、歩兵を中心とする大規模な攻城戦へと変わっていった*1。城郭については、このことは外郭の強化につながる。また国境に長城を築くようにもなった。

 このようなことは兵法書にもあらわれ、春秋期の『孫子』では攻撃法方として攻城法を下の策とした。記述もわずかである。これに対し、戦国期の『墨子』では、この選守防衛の思想を反映しているとも言えるが、それにしても攻城法の具体例に対する防禦法がかなり具体的に書かれている。

 

殷代の遺址・殷城址

沿革河南省偃師県にあり、殷代前期のしかも比較的早い時期に築城されたと見られている。殷は拠点を王朝創始者の以前に8遷、以後に5遷しているとされており、中国学会では湯王が移り居住したに比定する見方もなされているが断定することはできない。また築城に要した尨大な労働力を集中的に動員し得た強大な王権が殷代初期にすでに形成されていたことをしめすが、それゆえに、これに先行する竜山文化期の末期段階との格差の大きさに不自然さが残る。この問題は、今後の考古学的調査の進展に期待するしかないのであろう。

 偃師城址は洛河北岸の台地上に位置し、南北に長い東南部が欠けたほぼ長方形の平面をしていたと推定されるが、南壁は洛河による浸食で失われたと思われ確認されていない。

都城の規模東壁が1,640mで基厚が20~25m、北壁が推定1,240mで基厚は16~19m、西壁残長は1,710mで基厚は16~19mである。基礎槽の口幅は18m、底幅は17.7m深さ0.6~0.9mである。未確認の南壁を東壁と西壁の南端で結ぶと推定すると750mとなり、全周5,340mになる。1里=405m換算で約13.2里となる。後の周礼にみる王城が9里四方の全周36里とされるから、この時代としては脅威的な規模と言えよう。ちなみにこの復原では1,600,000平方メートル程度となる。また古道、版築基壇跡、内城が城内で見つかっている。

街区割縦横2本の古道は、ほぼ南北、東西に走っている。

施設配置

宮の構成内城だけで34,000平方メートル程度あり、これだけで先の時代の王城崗遺址に比べて約2倍の広さがある。

 

 

周代の遺址・比定成周城遺址

沿革bc1050頃、陜西方面に本拠をおく周が東方に勢力を拡張し、河南方面の殷にとって変わる。殷の王が周の王に敗れたことで、この事は戦国時代の儒家に大きく宣伝されている。周はbc770勢力等の圧力で、(宗周)から東の(成周)に移すことになり、周の時代は大きく西周と東周と分けて呼ばれる。さらに東周は、春秋期と戦国期に分けられている。

 西周時代の城郭とみなされる城郭遺址はほとんど見つかっていない。文王の時ホウ邑に、次の武王の時ホウ水をはさんでわずかに東の鎬邑に本拠を定めたとされるが、西安市西郊のホウ鎬地区からは建築遺址をはじめとする考古学調査による成果はあるが、城壁址は今のところ見つかっていない。

 東周の都城としては、『周礼』考工記に見られる王城のモデルとも言われる洛邑(成周)がある。成周は周初、旧殷の勢力圏であった河南地方における拠点として周公旦が造営したものである。

 洛陽で成周城基に立脚したとおぼしき東周期の城壁址が見つかっている。中央西寄りに漢代河南県城址があり、宮城とみなすと西周初めの成周城の姿が見えてくる。王宮を包む内城とその外側を囲繞する外城という、二重城郭というものである。このような二重城郭は、当時の城郭構造の一般的なものとも考えられるであろう。

都城の規模北壁が約2.8km、ほぼ直行する東壁残部、西壁残部、南壁残部がある。基厚は8~15m、残高は0.8~4m。外形は、3km四方の正方形が河川の影響などで完全な形をとらなかったと考えられる。つまり、洛水とその支流に面する西壁と南壁は少なくとも蛇行すると考えられている。

街区割、街路幅員

施設配置北西角に陶窯遺址が、南西角に大型建築基址が見られる。

宮の構成中央に西寄りに漢代河南県城があり、これは1,400m弱のほぼ方形をしている。宮城にこれが見なされると考えられる。

 

 

秦の都城・咸陽城

沿革秦の25代孝公(bc361338)は、衛国の公子を重用しbc361bc350の二回にわたり富国強兵策(商鞅の変法)を実施した。その内容としては、郡県制の導入により領土を王の直轄にすること、私的恩義関係に対する処罰規定、重い軍役、軍功の奨励、度量衡の統一などであった。これにより秦は軍事大国として台頭することとなる。そしてその一環として、咸陽に選都した。その後秦が全国統一し多数の宮殿が築かれることとなるが、間を置かず項羽により火が放たれ灰燼に帰した。そのことを裏付ける出土品もある。

都城の規模宮殿群の遺址と見られる版築基壇が多数確認されている。咸陽宮があったとされるの北では東西6km、南北2kmにわたり分布しており、阿房宮を含む南のほうは更に広く分布している。しかし、城址は見つかっておらず、全体を取り囲む城郭はなかったかもしれない。渭水が北に流路を移動していることから、咸陽宮付近には城郭があった可能性が残されており、南に関しては各宮殿ごとに囲っていたことが考えられる。

街区割、街路幅員、施設配置

宮の構成各国を併合するたび、その国都の主要宮殿を模した大建築群を咸陽北半に造営した。宮殿群は解体移築したと考えられる。政公が始皇帝と称してからは宮殿群は増解築され、阿房宮などの大宮殿が新築された。宮殿群は270あるいは300を超えたといい、それらを上下2層の回廊でできた複道で始皇帝は人目に触れることなく潜幸できたという。

 また渭水をはさみ咸陽宮と南に造った阿房宮は、阿房宮を天極、渭水を天漢(銀河)、咸陽を営室(星座28宿の1)に見立てた宇宙観の表現であった。

 

 

郡県制

 秦始皇帝は全国に郡県制を敷き、周以来の封建制を廃止した。つまり中央から官吏が派遣され地方統治をするシステムの基礎を築いた。

 6国併合の段階で36郡(後48郡)に分けた。郡も県も戦国期に各国が置きだしていて、征服された小国は古くは懸と言われ、官吏が来て直轄支配していた。その上の行政単位として郡は位置し、複数の県を統括するものとして置かれていた。郡・県を直轄支配する郡城・県城は、昔の都市国家の城郭を再編して設けられたため、政治的色彩の強い地方都市として秦漢以降も存続する。

 郡の長官として守、次官として丞、郡内の軍隊指揮官として尉、監察官として御史(監)を派遣し地方統治を行った。そしてその下に県が置かれた。

 

 

漢の都城・長安城

沿革秦末に項羽を倒し、高祖劉邦が漢王朝を創始した。当初、洛陽に都城を定めるつもりであった。しかし関中の要害としての利から、長安に新たに都城を築くこととなった。咸陽の南に位置し、渭水の南岸に近い位置に造営された。高祖の時、未央宮、長楽宮が造営され、長楽宮は秦の宮殿址

都城の規模従来の城郭と形態は異なり、不規則な形態をしている。秦の咸陽においても考えられることであるが、宮殿が先行して造営されたことが理由である。咸陽においては城郭は未確認であるが、長安城では城壁はほぼ残存しており、平面プランは判明している。