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2022年6月7日火曜日

2022年6月6日月曜日

新井葵+新藤恒樹+中島柚季+吉田奈由+小野美史+北原啓司+砂土原聡+布野修司+濱本卓司:聞き手:佐藤淳,座談:東日本大震災について「理系高校生」が知りたいことを「専門家」に聞いてみる,「特集:災害対策研究の新しい起点」,『建築雑誌』2016年3月

新井葵+新藤恒樹+中島柚季+吉田奈由+小野美史+北原啓司+砂土原聡+布野修司+濱本卓司:聞き手:佐藤淳,座談:東日本大震災について「理系高校生」が知りたいことを「専門家」に聞いてみる,「特集:災害対策研究の新しい起点」,『建築雑誌』20163


 




『建築雑誌』20163月号 都立戸山高校SSH生座談会 2部      校正原稿

話者:新井葵×新藤恒樹×中島柚季×吉田菜由×小野美史(戸山高校1年)、北原啓司(弘前大学大学院地域社会研究科研究科長・教授)、佐土原聡(横浜国立大学大学院都市イノベーション研究院教授)、布野修司(日本大学特任教授)、濱本卓司(東京都市大学教授)

 

聞き手:佐藤淳(佐藤淳構造設計事務所)

録音時間:2時間3728秒(実質:2時間2800秒)

収録日 2015128日(火)

第二部については頁割は特に意識しません.6頁そのままデザイナーさんの思うレイアウトで写真と組み合わせて割り付けてください

 

2部全体タイトル案:質問リストを携えて,理系高校生が専門家と議論してみました


避難と建築物の性能のあり方について

――今日は、戸山高校の学生さんたち5名の皆さんと座談会をし、その中で議論したことを先生方への「質問リスト」として作製していただきました。この後半の座談会では各分野の先生方に参加していただき、質問についてより深く考えていきたいと思います。まずは簡単に自己紹介からお願いします。(佐藤)

 

佐土原 横浜国立大学の佐土原と申します。私は建築や都市の環境が専門で、エネルギーについても研究しています。震災の日は、ちょうど建築会館にいて、そのまま一泊しました。

 

濱本 東京都市大学の濱本と申します。私は構造の分野に所属しています。震災の日は大学の研究室にいました。非常に長く揺れていましたが、私は結構鈍感な方で、ずっと研究室内に留まっていました。その後、大学から学生たちに早く家に帰るよう連絡がありましたが、実際は交通機関がみんなストップして帰れませんでした。結局、大学の体育館が開放され、学生たちはそこで寝泊りしました。大学からおにぎりがふたつずつ支給されたと思います。私は自由が丘まで歩き、親戚の家に泊めてもらいました。東京でも帰宅困難者がたくさん出ました。やはり東日本大震災は、「想定外」「未曾有」などの言葉が使われましたが、津波による被害が大きく、建築分野ではそれほど対策が考えられてこなかったことでした。

 

布野 東大助手、東洋大学講師、京都大学助教授、20153月までは滋賀県立大学で、今は日本大学生産工学部で特任教授をしています布野です。国公私立全て経験したのは珍しいかもしれません。分野は建築計画で、まちづくりを専門としています。僕は第二次提言には関係していないのですが、学会の復旧・復興支援部会の部会長を務めました。震災当日は滋賀にいましたが、たまたま仙台の宮城大学に京大布野研究室出身の竹内泰(現東北工業大学助教授)先生がいて、南三陸町出身の学生の実家の支援のために番屋を建てるというので、支援しました。毎夏、インターユニヴァーシティで木について学ぶ「木床塾」でお世話になっている加子母村(岐阜県中津川市)の支援を受けて、全国大学の学生が参加して、連休には完成させました。復興のための拠点になったと思います。「みんなの家」とか「竹の会所」とか、建築家の多くが拠点づくりに参加しました。

 

北原 弘前大学の北原と申します。専門は都市計画やまちづくりです。生まれは三重県伊勢市ですが、親の関係で仙台にいたことがあり、大学も東北大学でした。当日は弘前にいて揺れを感じ、インターネットを見ると東北の地震だということがわかりました。親も仙台に住んでいて、息子が東北大の3年生でしたが、電話がつながらず安否が心配でした。息子はTwitterで無事を知りました。今は岩手県北上市に拠点をつくり、いろいろな街の復興の仕事をしています。

 

小野 私は小学生の頃から建築に興味を持っていて、今も建築家を目指して大学に進学したいと思っているので、このような機会はとても嬉しいです。

 

吉田 私は数学をやっていて、建築についてはあまりわからないのですが、よろしくお願いします。

 

新藤 僕もあまり建築に関してあまりよくわからないのですが、身の回りに関係する話題が多いなと思っています。

 

中島 震災後に疑問に思ったことなどを直接専門家の方に聞けるので嬉しく思います。

 

新井 これまで建築の分野がこれほど震災に関係しているとは思っていませんでしたが、よろしくお願いします。

 

――それでは、高校生の質問リストから,先生方の気になるものから順に話ができればいいかなと思います。いかがでしょうか。(佐藤)

 

佐土原 ここは都心ですが、質問リストの「高層階で被災した時の避難方法」というのはどういう意味の質問ですか。

 

新藤 当時小学5年生だった頃に、友だちが住んでいた高層マンションが大きく揺れていました。災害時にエレベーターが止まったり、階段に人が集中したりした場合、どう避難するか,また、避難方法があっても本当に安全かどうか証明されているのか疑問に思っています。

 

濱本 まず構造分野からの意見です。建物を設計する時には、どんな地震が来るのかをあらかじめ考えています。たとえば新宿に建っている建物は、今回の震災を経験する前に設計されていて、その当時の知識によって建てられています。ですが、東日本大震災は想定と違っていて、すごく遠くからやってきて、非常にゆっくりとした揺れでした。地面の振動数と構造物の振動数が一致する「共振」によって、すごく揺れたのです。そのような長周期の揺れだと、高層階では身動きが取れませんから、避難できない状況でした。その時その時の最先端の知識で設計されているはずですが、新しいタイプの地震が起きる度に、その経験をフィードバックしてより安全なものをつくっていこうとしています。かつて建てられたビルも、長周期の地震に耐えられるよう、レトロフィットという改修をしています。

東日本大震災は1000年に一度とか、500年に一度と言われていますが、自然現象としては同じような地震は過去にも繰り返し起きているのです。社会の記憶からは消えてしまっているだけで、やはり、今回の最も大きな教訓は、自分たちはちゃんと自然のことを考えながら新しいものをつくってきたのかもう一度見直すべきだということです。

 

布野 高層マンションだけでなく,高層の業務商業複合のビルで劇場のような多数の人を集客する施設を高層階につくっているのは,問題です。避難のシミュレーションをしてみると結構大変だと思います。建築計画としてまずおかしいですね。

 

北原 落ち着いて逃げれば本当は大丈夫でも、全員が整然と階段を降りるはずがないですし,余震も来ますから、やはりパニックになると思います。大人数が高層階にいる建物からの避難ということで,人間の心理的な側面が集団行動にどう結びつくか予測不可能な面もあります。

 

佐土原 建築会館でも、揺れが収まると一斉に人が降りてきたので,混雑して動きが取れないような状態になりました。実は超高層の中にいる人たちがみんな外に出てきてしまうと、足元のスペースは足りないのです。ですから、一斉に降りなくても大丈夫という情報をちゃんと出し、ビル内に留まってもらうようにするにはどうするかを考えているところです。そのあたりは今回の震災で考え方が変わった点のひとつです。

また、ビル内に留まるとすると水道、電気、ガス、そして情報というライフラインが問題になります。当時は,超高層マンションで、本来はより価格の高い高層階が売れなくなっていました。

 

小野 私は震災当時、小学校の校庭に避難したのですが、上からガラスが落ちてきたりすることもあるし、避難経路に割れたガラスが落ちていたら避難しない方が安全なのかなと思いました。

 

佐土原 高層ビルは柔構造といって揺れやすくつくられていますが、窓枠とかは固くできていますね。

 

北原 僕の学生時代に宮城県沖地震があったのですが、建物の玄関のガラスが落ちました。また、ブロック塀が倒れて、僕のすぐ側にいた小学生が亡くなりました。それ以前は、倒れないということが重視されていましたが、以来、ガラスの固定などを含め、新耐震基準ができました。でもやはり自然はそれを超えてきますから、安心はできません。小学校の避難訓練なんかでは、座布団みたいなものを頭に被って守りますよね。

 

――非構造部材、つまり柱や梁などのメインの構造ではない、窓ガラスなどが壊れるということをもっと検証しようということですよね。(佐藤)

 

布野 今回はあまりなかったのですが、阪神淡路大震災の時は、家具が倒れたり、飛んだりして、相当の人が亡くなっています。

 

 

――続いて,避難に関連する項目がいくつか質問リストに挙がっていたので,順に高校生の方から質問の内容を教えて下さい。(佐藤)

 

新井 携帯電話を持っていない小学生の登下校時に地震が起きたら安否確認をどうするのか気になりました。

 

小野 私も,震災以後、家族で避難場所を話し合うようになりました。

 

吉田 私も小野さんと同じで、家族で避難場所を決めています。

 

中島 家の近くにはちゃんとした避難所があるのですが、学校にいるときは、耐震がしっかりしているので学校にいなさいと言われています。

 

――こんなふうに,高校生の皆さんは家族で避難するときに「災害があったらどこに集まろう」みたいな話をされていて,とりあえずの集合場所として地域の広域避難場所をあまり目標にはしていないということがよくわかりました.もちろん地震をイメージしているか津波をイメージしているかで違うと思うのですが,都市計画的な観点からいかがでしょうか。(佐藤)

 

北原 いわゆる避難と聞くと公共的な建築物とか大きな空間にみんな逃げるイメージがありますが、東日本大震災では津波によって体育館などに集まった人が全員亡くなっています。一方、大船渡のある地域では、高台にある神社に避難して全員が助かりました。明治の津波の時以来、地震が来たら神社に逃げろと言われていたそうで、長く歴史が残っているところは比較的安全なのです。

 

布野 関東大震災の時も、避難のためにみんなが集まった場所に、火災が及んで、たくさんの方が亡くなっていますね。

 

北原 まず逃げる場所として津波がない場合は学校などに避難するのは正しいと思います。安全が確保されてから、水の支給などがある広域避難場所に家族で行くという二段階になりますね。集合場所を家族で決めておくのも良いと思います。神社は最初に避難する場所ですね。

 

佐土原 広域避難場所とは安全確保のための大きな空き地などで、避難生活をするところはまた別ですね。直後に避難する一時避難場所と、広域避難場所、防災拠点の3種類があります。

 

吉田 学校など避難所となる建物の安全性は確かなのでしょうか。

 

――特に学校などの公共的な建物は国の予算が付いていて、耐震診断と対策が進んでいます。耐震補強がされた建物とまだされていない建物を区別する表記・表示があるべきかもしれません。(佐藤)

 

減災か防災か,その前に生活できる経済基盤か

 

佐藤 そういえば高校生からも火災の話は出ていましたね。

 

中島 自宅が住宅密集地にあり、古い建物とか木造の建築が多いので、震災が起こったときの木造住宅密集地の火災対策をお聞きしたいです

 

佐土原 一例ですが公的な補助をしながら、建て替えの時に不燃化を進めています。面で広がってしまう火災を断ち切っていくものです。

 

北原 東京の墨田区とか足立区のあるエリアでは、木造の雰囲気を残すために、自主組織をつくり、防火用水を用意して訓練もし、初期の消火を自分たちでやろうとしているところもあります。そうしたコミュニティの力によって乗り切ろうという地域もあります。

 

佐土原 1923年の関東大震災の時は火災旋風が起きてしまいました。当時の報告書を読むと、本当に竜巻のように火が走っていたようです。ですから、その後の東京の対策は、基本的に火災対策として、安全な場所の確保をやってきました。たとえば、大きな団地を開発するときに、広域避難場所をつくるなどです。

 

濱本 1995年の阪神淡路大震災でも、やはり木造密集地帯が火事になってしまいました。初期消化のための道が、崩れた建物で塞がれてしまっていたことも大きな問題でした。火災対策だけではなく、倒れないようにちゃんと建築をつくっておくことも大切です。

 

新藤 いままで逃げ方の話だったのですが、それに関連して「防災と減災の具体的な違い」についてはどうでしょうか。これまでは「防災」が意識されてきたと思うのですが、最近学校で「減災」という考え方が出てきていると聞いたのですね。でも、どのように変わってきているのかということがよくわからなくて。具体的に身の回りでどのように変わってきているのか教えていただければと思います。

 

濱本 構造分野からお話します。防災は英語で「prevention」で減災は「mitigation」と言われていますが、イメージしやすいのは、風に耐える松と、受け流す柳です。今回の津波については、やはり受け流すような建物の方が良かったのかなという話が出ています。構造的には,自然に対してひたすら真正面から立ち向かい対抗するより、ある程度自然の力を受け入れながら、それを弱めて被害を最小化し安全を確保することを設計に取り込むような考え方であると思います。巨大な防潮堤は防災を前提にしたものですが、陸と海がつながった豊かな生活や日常的な暮らしにとってはマイナスになります。嵩上げも、そのためには山が削られ緑や生態系が失われています。震災直後は特に「とにかく守る」という短絡的なところがありましたが、減災はもう少し引いた視点で全体像を見ながら災害に対応しようというものです。

 

北原 都市計画では、災害が起きることを想定し、それを技術や訓練も含めてさまざまな方法でできるだけ小さくしようという考え方です。たとえば、今、青森県で歴史的な町並みを残す仕事をしていますが、木造の雁木による積雪時の道、いわゆる「こみせ」は木造だから良いのであって、同じ形をコンクリートでつくっても興冷めしてしまいます。文化財としてではなく、使いながら残すために消火栓などを埋め込んだりしています。災害はゼロにはできないので、そこで生きたいという人たちのための減災を考えています。

 

佐土原 阪神淡路大震災や東日本大震災でわかったのは、防災技術を求めても、それを乗り越えて物事は起こるということを前提に考えておかないと対応が後手後手に回ってたくさんの人の命が失われてしまう。想像を超えた状況であっても被害を減らす対応を検討しておくという意味で、減災は大きな転換だと思います。

 

北原 あとは、防災か減災かという話以前に,これからその土地でどうやって食べていくか。堤防や嵩上げだけではまちづくりになりませんし、農業や商業にしても、産業が成り立たなければ復興になりませんので、災害対策とあわせての復興にはまだまだ時間がかかると思います。

 

布野 東北地方は少子高齢化が進んでいて、日本の将来の縮図と言われていたんですが、今回2万人もの人が亡くなり、一気に2050年の人口規模になりました。被災地の問題は、日本のあらゆる地方は同じ問題を抱えているわけです。少子高齢社会、人口縮小社会で、どうサステイナブルな社会をつくっていくか、わかりやすく言えば、それぞれの地域がどうやって食べていくのかが大問題です。

 

北原 岩手の大槌町で、ワークショップに地元の高校生に参加してもらっています。おそらくみんな大学や就職で仙台とか東京に行ってしまいますが、自分たちが関わってつくった公園に戻ってきたいという気持ちを持ってもらおうとしています。20年後に効いてくるのかもしれません。

 

――私は防災の嵩上げや防潮堤に反対なのですが、皆さんは率直にどう思いますか。(佐藤)

 

中島 街自体がなくなってしまったので、わざわざお金をかけて防波堤をつくるよりは、安全なところでまちづくりをしていく方がいいと思います。

 

新藤 嵩上げしても津波の被害は絶対あると思います。減災という考え方は、単にものを築くことだけではなく、教育やワークショップによって人から変えていくことの重要性ともつながっていると思いました。

 

北原 1000年に一度の災害に耐えられるようなものをつくっていますが、われわれの人智を超えた5000年に一度の災害だって起こり得るわけです。最近になってようやくみんながあのスーパー堤防で誰を守るのだろうかと考え始めましたが、震災直後は誰もそんなことを言えませんでした。国の復興予算が付いていて、既に発注まで終えてしまっています。石巻では、今復興庁のお金で再開発がいくつか動いていますが、それらはなかなか完成が見えません。一方で、たった4人で発起した「COMICHI石巻」という小さなプロジェクトは復興交付金をもらわずに完成し、イタリアンレストランやお寿司屋さんが入っています。大きな計画よりも、やりたいという意思を持った人たちが自力でやっていったほうが動くということがわかってきています。

 

佐土原 減災にとっては日常と災害時の連動が大切ですね。1000年に一度を想定して防潮堤で防災をしても、それが本当に機能するかどうかが問題です。

 

 

――少しトピックを変えて、「仮設建築の必要形態」という質問を書いた人は。(佐藤)

 

小野 建築学科に通う大学生の知人が、ゼミが陸前高田の方で、仮設住宅に住む人たちに話を聞いたそうです。その時に一番多く耳にしたのが、地域の人たちとコミュニケーションできる公的な建物がほしいということでした。誰も利用できるような図書館のような建物が必要なのかなと思いました。

 

北原 阪神淡路大震災や中越地震の経験もあったので、ボランティアのNPOの人たちもかなり入り、仮設団地の集会室が機能しているところもあります。一方で今問題なのは空き家の戸建住宅に被災者が入った「みなし仮設」です。仮設団地であればイベントもできますが、バラバラの戸建住宅に突然入った人たちはコミュニティがありません。潜在的にどれくらいいるかも把握できていませんし、大きな問題ですね。

あと、仮設団地でも財力のある人は出ていきますから、だんだん歯抜けになっていって、焦燥感や諦めが生まれてきます。そうするとコミュニティが崩壊していきます。

 

布野 阪神淡路大震災の時にはくじ引きで仮設住宅の入居者を決めたんですね。あまり、入居者のコミュニティを考慮しなかった。店屋や集会施設なども考慮しなかった。その経験を踏まえて、東日本大震災の時には、様々な工夫もなされ、集会所もつくられています。

 

北原 集会施設はあっても、図書館みたいな空間はないですね。公的な動きとしては、まず住宅が優先になるので難しいかもしれません。また、仮設住宅を規定する災害救助法は、厚生労働省関連なので、「まず収容しよう」という発想からつくられたものなのですが、本来ならば、ひとりひとりが自立した生活を営めるようなまちづくりの考え方が必要です。

 

マスメディアの切り口について

 

――今まだ「震災後(最中)のメディア」「省エネによる節電」などがまだ話題に出てきていませんがこれを書いてくれた高校生は?(佐藤)

 

新藤 テレビなどでは「省エネ」がかなり言われていると思います。たとえば蛍光灯がLEDになったり、技術によって実現できているところもあると思いますが、学校などのエアコンの設定温度など、人びとの意識には根付いていない気がします。何か策はあるのでしょうか。

 

佐土原 計画停電を経験すると、電気の大切さはよくわかると思います。建築学会の大きな取り組みとしては、照明の電力使用量についての研究があります。近年、企業による宣伝などによって、どんどん照明が明るくなってきていますが、いろいろ調査すると約半分までは落としても問題ないという結果が出ましたので、そうした提言をしています。東日本大震災後、電力の消費量を落とし、さらにLEDになってきたことで、冷房の負荷も下がっています。照明についての認識は大きく変わっていきています。

また、HEMSHome Energy Management System)やBEMSBuilding and Energy Management System)といったマネジメントや、スマートエネルギーシステムが出てきていますが、現状ではまだメーカーによる押し付け的なところがあり、本当に生活に馴染ませるにはどうするかが大きなテーマになっています。たとえば、健康や高齢化の問題と一緒に断熱のことを考えるとか、人が自発的に関われるような節電になればと思っています。

 

新藤 今、多くの原発が止まっていて、火力に頼り続けている状態ですが、どうやって再稼動させていくのか、もしくはもう使わないという方向なのか、どちらなのでしょうか。

 

佐土原 あれほど巨大で複雑な設備をこの災害多発国の日本で将来にわたって使っていくのかはやはり考えるべきです。今どうするかという一時的な問題と長期的な問題を分けて考えなければいけません。

 

新井 「震災後(最中)のメディア」についてなのですが、震災後、どのテレビ局も似たような情報が流れ、同じ会社の同じCMが何度も流れていました。情報発信という意味では無駄が多いようにも思えたので、例えば、地域やチャンネルを限定して、必要な情報を選べるようにしたり、見たくない人が避けられるような改善はできないかと思いました。災害時のメディアのあり方について新しい知見があれば教えていただきたいです。

 

濱本 東日本大震災後、SNSが注目されました。やはりある種マスメディアの限界が見えたのだと思います。

 

布野 米軍がものすごく活躍しても、CNNなんかでは流しているけど、日本では流さない。地元の工務店や建設会社が死体処理をしているとか、そうした活躍のことはほとんど放送されませんでしたね。

 

北原 沢山のテレビ局で同じようなニュースを繰り返されてもあまり意味がなくて、たとえばフジテレビは岩手、日テレは福島などを徹底的にやってもらった方がありがたいです。情報番組であることをもっと意識してもらいたかったという話をお聞きしました。また、FMラジオでは他の番組を止めて徹夜で安否や状況を放送していて、役に立ちました。阪神淡路大震災の時も長田区あたりでは、コミュニティFMができて海外から来ている人たちにも安心感を与えるような放送をやっていました。ラジオは今また見直されてきていますね。

 

佐野原 阪神淡路大震災と東日本大震災を比べると、YouTubeにアップされた映像など、視覚的な情報がすごく沢山あり、多くの人の災害に対する理解を助けています。たとえば、液状化については一般の人でもかなり理解が深まったと思います。

 

――東日本大震災の当時に,メディアについて私が感じたのは、例えば体育館の中に間仕切りをつくったり、簡易に組み立てられる仮設建築物を供給したり、建築分野の関係者がさまざまな活動をしたのですが、メディアには、一部の成功した事例が取り上げられるわけです。だけど、うまくいかない例もあったわけです。「こんなみっともないものをもってきてくれるな」と言う人もいたらしいのです。でも、あのときは本当に何がうまくいくか誰もわからないから、失敗して責められてもしょうがない、という覚悟でみんな取り組んだのであり、それも含めて伝えてくれないと真実を伝えたことにはならない。先に自分たちでおきまりのストーリーを描いておき,そこにはめ込んで報道しようとしたメディアにも問題があるように思いました。(佐藤)

 

座談会を終えて(高校生の感想)

 

――最後に高校生の皆さんに感想や考えていることなどを一言ずつ述べていただけますか。(佐藤)

 

新井 建築の専門家の方々が沢山震災に関わっているということを知ることができてよかったです。ありがとうございました。

 

中島 震災だけを考えるのではなく、普段の生活から防災を考えていくということが心に残りました。とても勉強になりました。

 

新藤 減災という考え方がとても響きました。人の気持ちや行動なども重要だということがわかって、これからそういった視点を広げていけたらいいなと思いました。

 

吉田 震災復興は今もうメディアにあまり出てこなくなってきていて、もう終わったかのように感じていましたが、今日お話を聞いて、長期的なスパンで見なくてはいけないものだと知りました。これから私が大人になっていく上で何かしら貢献できたらいいなと思いました。

 

小野 建築は、いろいろな専門分野が総合されている学問だと深く感じました。いろいろな分野を学ぶことで、震災復興などの社会的な貢献にもつながるのだと思いました。

 

2015128日、ハロー貸会議室田町にて]

 

 

2022年4月26日火曜日

2022年4月2日土曜日

災害に強いまちづくりのための社会システムの構築(主査 岡田憲夫 分担執筆),京都大学防災研究所,1997年3月

  災害に強いまちづくりのための社会システムの構築(主査 岡田憲夫 分担執筆),京都大学防災研究所,19973

 災害に強い町づくりのための社会システムの構築に関するメモ

布野修司

 

世紀末建築の行方:戦後50年と阪神・淡路大震災

 敗戦から阪神・淡路大震災への戦後50年

 戦後50年の節目に当たる1995年は、日本の戦後50年のなかでも敗戦の1945年とともにとりわけ記憶される年になった。阪神・淡路大震災とオウム事件。この二つの大事件によって、日本の戦後50年の様々な問題が根底的に問い直されることになったのである。加えて、年末からは「住専問題」が明るみに出た。日本の都市と建築を支えてきたものが大きく揺さぶられ続けたのが1995年であった。

 建築界は、阪神・淡路大震災で明け暮れた。この間の日本建築学会の対応は以下にまとめられる通りである。またこの一年『建築雑誌』等でも一貫して取り上げられてきた通りである。今手元にたまたま、大部の報告書『兵庫県南部地震の被害調査に基づいた実証的分析による被害の検証』(研究代表者 藤原悌三 1996年3月)があるのであるが、この一冊だけからも、大変な災害であったことが再確認できると同時に、多くの研究者・建築家が大震災をそれぞれ自らの大きな課題として取り組んできたことがうかがえる。

 一方、大震災から一年半を経て、時間の経過に伴う感慨もある。最早、大震災は遠い過去のものとなりつつあるように思えてしまうのである。既に3月20日の地下鉄サリン事件以降、オウムの事件が日本列島を席巻し、被災地は置き去られた感はあった。

 大震災の最大の教訓は、実は、人々は容易に震災を忘れてしまうことではないか。

 しかし、大震災の投げかけた意味が一年を通して問い続けられたことは疑いはない。また、これからも問い続けられていくであろう。この50年の建築や都市のあり方を根底的に考え直させる、それほど大きな事件であったことは論をまたないところだ。阪神・淡路大震災をめぐっては、個人的にもこの一年、様々な議論の場に関わり、何度か思うところを記録する機会があった*1。また、戦後50年ということで、戦後建築の歴史を振り返り、まとめ直す機会があった*2。それを基礎に、建築の戦後50年を振り返ってみたい。

 

 人工環境化・・・自然の力・・・地域の生態バランス

 阪神・淡路大震災に関してまず確認すべきは自然の力である。いくつものビルが横転し、高速道路が捻り倒された。そんなことがあっていいのか、というのは別の感慨として、とにかく地震の力は強大であった。また、避難所生活を通じての不自由さは自然に依拠した生活基盤の大事さを思い知らせてくれた。

 水道の蛇口をひねればすぐ水が出る。スイッチをひねれば明かりが灯る。エアコンディショニングで室内気候は自由に制御できる。人工的に全ての環境をコントロールできる、あるいはコントロールしているとつい考えがちなのであるが、とんでもない。災害が起こる度に思い知らされるのは、自然の力を読みそこなっていることである。自然の力を忘れてしまっていることである。山を削って土地をつくり、湿地に土を盛って宅地にする。そして、海を埋め立てる。本来人が住まなかった場所だ。災害を恐れるからそういう場所には住んでこなかった。その歴史の智恵を忘れて、開発が進められてきたのである。

 それにしても、関西には地震はこない、というのはどんな根拠に基づいていたのか。軟弱地盤や活断層、液状化の問題についていかに無知であったことか。また、知っていても、結果的にいかに甘く見ていたか。

 一方、自然のもつ力のすばらしさも再認識させられた。例えば、家の前の樹木が火を止めた例がある。緑の役割は大きいのである。自然の河川や井戸の意味も大きくクローズアップされたのであった。

 人工環境化、あるいは人工都市化が戦後一貫した建築界の趨勢である。自然は都市から追放されてきた。果たして、その行き着く先がどうなるのか、阪神・淡路大震災は示したのではないか。「地球環境」という大きな枠組みが明らかになるなかで、また、日本列島から開発フロンティアが失われるなかで、自然の生態バランスに基礎を置いた都市、建築のあり方が模索されるべきではないのか。

 

 フロンティア拡大の論理・・・「文化住宅」の悲劇・・・開発の社会経済バランス

 阪神・淡路大震災の発生、避難所生活、応急仮設住宅居住、そして復旧・復興へという過程を見てつくづく感じるのは、日本社会の階層性である。すぐさまホテル住まいに移行した層がいる一方で、避難所が閉鎖されて猶、避難生活を続けざるを得ない人たちがいる。間もなく出入りの業者や関連企業の社員に倒壊建物を片づけさせる邸宅がある一方で、長い間手つかずの建物がある。びくともしなかった高級住宅街のすぐ隣で数多くの死者を出した地区がある。これほどまでに日本社会は階層的であったのか。

 最もダメージを受けたのは、高齢者であり、障害者であり、住宅困窮者であり、外国人であり、要するに社会的弱者であった。結果として、浮き彫りになったのは、都市計画の論理や都市開発戦略がそうした社会的弱者を切り捨てる階層性の上に組み立てられてきたことだ。

 ひたすらフロンティアを求める都市拡大政策の影で、都心が見捨てられてきた。開発の投資効果のみが求められ、居住環境整備や防災対策など都心への投資は常に後回しにされてきた。

 例えば、最も大きな打撃を受けたのが「文化」である。関西で「ブンカ」というと「文化住宅」という一つの住居形式を意味する。その「文化住宅」が大きな被害にあった。木造だったからということではない。木造住宅であっても、震災に耐えた住宅は数しれない。木造住宅が潰れて亡くなった方もいるけれど家具が倒れて(飛んで)亡くなった方が数多い。大震災の教訓は数多いけれど、しっかり設計した建物は総じて問題はなかった。「文化住宅」は、築後年数が長く、白蟻や腐食で老朽化したものが多かったため大きな被害を受けたのである。戦後の住宅政策や都市政策の貧困の裏で、「文化住宅」は、日本の社会を支えてきた。それが最もダメージを受けたのである。それにしても「文化住宅」とは皮肉な命名である。阪神・淡路大震災によって、「文化住宅」の存在という日本の住宅文化の一断面が浮き彫りになったのである。

 都市計画の問題として、まず、指摘されるのは、戦後に一貫する開発戦略の問題点である。企業経営の論理を取り入れた都市経営の展開は、自治体の模範とされた。しかし、その裏で、また、結果として、都心の整備を遅らせてきた。都心に投資するのは効率が悪い。時間がかかる。また、防災にはコストがかかる。経済論理が全てを支配する中で、都市生活者の論理、都市の論理が見失われてきた。都市経営のポリシー、都市計画の基本論理が根底的に問われたのである。

 

 一極集中システム・・・重層的な都市構造・・・地区の自律性

 日本の大都市はひたすら肥大化してきた。移動時間を短縮させるメディアを発達させひたすら集積度を高めてきた。郊外へのスプロールが限界に達するや、空へ、地下へ、海へ、さらにフロンティアを求め、巨大化してきた。都市や街区の適正な規模について、われわれはあまりに無頓着ではなかったか。

 都市構造の問題として露呈したのが、一極集中型のネットワークの問題点である。大震災が首都圏で起きていたら、一体どうなっていたのか。東京一極集中の日本の国土構造の弱点がより致命的に問われたのは確実である。遷都問題がかってないほどの関心を集めはじめたのは当然と言えば当然のことである。

 阪神間の都市構造が大きな問題をもっていることはすぐさま明らかになった。インフラストラクチャーの多くが機能停止に陥ったのである。それぞれに代替システム、重層システムがなかったのである。交通機関について、鉄道が幅一キロメートルに四つの路線が平行に走るけれど迂回する線が無い。道路にしてもそうである。多重性のあるネットワークは、交通に限らず、上下水道などライフラインのシステム全体に必要なのである。

 エネルギー供給の単位、システムについても、多核・分散型のネットワーク・システム、地区の自律性が必要である。ガス・ディーゼル・電気の併用、井戸の分散配置など、多様な系がつくられる必要がある。また、情報システムとしても地区の間に多重のネットワークが必要であった。

 また、公共空間の貧困が大きな問題となった。公共建築の建築としての弱さは、致命的である。特に、病院がダメージを受けたのは大きかった。危機管理の問題ともつながるけれど、消防署など防災のネットワークが十分に機能しなかったことも大きい。想像を超えた震災だったということもあるが、システム上の問題も指摘される。避難生活、応急生活を支えたのは、小中学校とコンビニエンスストアであった。公共施設のあり方は、非日常時を想定した性能が要求されるのである。

 また、クローズアップされたのは、オープンスペースの少なさである。公園空地が少なくて、火災が止まらなかった。また、仮設住宅を建てるスペースがない。地区における公共空間の他に代え難い意味を教えてくれたのが今回の大震災である。

 

 産業社会の論理・・・地域コミュニティのネットワーク・・・ヴォランティアの役割

 目の前で自宅が燃えているのを呆然と見ているだけでなす術がないというのは、どうみてもおかしい。同時多発型の火災の場合にどういうシステムが必要なのか。防火にしろ、人命救助にしろ、うまく機能したのはコミュニティがしっかりしている地区であった。救急車や消防車が来るのをただ待つだけという地区は結果として被害を拡大することにつながったのである。

 今回の大震災における最大の教訓は、行政が役に立たないことが明らかになった、という自虐的な声を聞いた。一理はある。自治体職員もまた被災者である。行政のみに依存する体質が有効に機能しないのは明かである。問題は、自治の仕組みであり、地区の自律性である。行政システムにしろ、産業的な諸システムにしろ、他への依存度が高い程問題は大きかったのである。

 産業化の論理こそ、戦後社会を導いてきたものである。その方向性が容易に揺らぐとは思えないけれど、その高度化、もしくは多重化が追求されることになろう。ひとつの焦点になるのがヴォランティア活動である。あるいはNPO(非営利組織)の役割である。

 今回の震災によって、一般的にヴォランティアの役割が大きくクローズアップされた。まちづくりにおけるヴォランティアの意味の確認は重要である。しかし、ヴォランティアの問題点も既に意識される。行政との間で、また、被災者との間で様々な軋轢も生まれたのである。多くは、システムとしてヴォランティア活動が位置づけられていないことに起因する。

 建築の分野でも被災度調査から始まって復興計画に至る過程で、ヴォランティアの果たした役割は少なくない。しかし、その持続的なシステムについては必ずしも十分とは言えない。ある地区のみ関心が集中し、建築、都市計画の専門家の支援が必要とされる大半の地区が見捨てられたままである。また、行政当局も、専門家、ヴォランティアの派遣について、必ずしも積極的ではない。粘り強い取り組みの中で、日常的なまちづくりにおける専門ヴォランティアの役割を実質化しながら状況を変えて行くことになるであろう。

 

 最適設計の思想・・・建築技術の社会的基盤・・・ストック再生の技術

 何故、多くのビルや橋、高速道路が倒壊したのか。何故、多くの人命が失われることになったのか。建築界に関わるわれわれ全てが深く掘り下げる必要がある。最悪なのは、専門外だから自分とは無縁であるという態度である。問題なのは社会システムであると、自らの依って立つ基盤を問わない態度である。問題は基準法なのか、施工技術なのか、検査システムなのか、重層下請構造なのか、という個別的な問いの立て方ではなくて、建築を支える思想(設計思想)の全体、建築界を支える全構造(社会的基盤)がまずは問われるべきである。建造物の倒壊によって人命が失われるという事態はあってはならないことである。しかし、それが起こった。だからこそ、建築界の構造の致命的な欠陥によるのではないかと第一に疑ってみる必要があるのである。

 要するに、安全率の見方が甘かった。予想を超える地震力だった。といった次元の問題ではないのではないか、ということである。経済的合理性とは何か。技術的合理性とは何か。経済性と安全性の考え方、最適設計という平面がどこで成立するのかがもっと深く問われるべきなのである。

 建築技術の問題として、被災した建造物を無償ということで廃棄したのは決定的なことであった。都市を再生する手がかりを失うことにつながったからである。特に、木造住宅の場合、再生可能であるという、その最大の特性を生かす機会を奪われてしまった。廃材を使ってでも住み続ける意欲の中に再生の最初のきっかけもあったのである。

 何故、鉄筋コンクリートや鉄骨造の建物の再生利用が試みられなかったのも不思議である。技術的には様々な復旧方法が可能ではないか。そして、関東大震災以降、新潟地震の場合など、かなりの復旧事例もある。阪神・淡路大震災の場合、少なくとも、再生技術の様々な方法が蓄積されるべきではなかったか。

 

 仮設都市・・・スクラップ・アンド・ビルド・・・サテイアン 

 阪神・淡路大震災は、人々の生活構造を根底から揺るがし、都市そのものを廃棄物と化した。しかし、それ以前に、われわれの都市は廃棄物として建てられているのではないか、という気もしてくる。建てては壊し、壊しては建てる、阪神・淡路大震災は、スクラップ・アンド・ビルドの日本の都市の体質を浮かび上がらせただけではないか。

 阪神・淡路大震災の前には全ての建築の問題が霞むのであるが、1995年の建築界を振り返って次に挙げるべき事件は都市博の中止である。近代日本の百年、都市計画は博覧会を都市開発の有力な手段にしてきた。仮設の博覧会のためにインフラストラクチャーを公共団体が整備し、博覧会が終わると民間企業が進出して都市開発を行う。戦後も大阪万博以降、各自治体が様々なテーマで繰り広げる博覧会にその手法は踏襲されてきた。博覧会型都市計画は、果たして、その命脈を断たれることになるであろうか。いずれにせよ、建築界にとって戦後50年が大きな区切りの年になったことは間違いない。

 戦災復興から高度成長期へ、日本の建築界はひたすら建てることのみを目指してきたように見える。住宅の総戸数が世帯数を超え、オイルショックにみまわれた70年代前半を経ても、そのスクラップ・アンド・ビルドの趨勢は揺るがなかった。都市計画も成長拡大政策が基調であった。また、巨大プロジェクト主義が支配的であった。

 都市博が「東京フロンティア」と名づけられていたことは象徴的である。フロンティアの消滅が意識されるからこそ、フロンティアが求められたのである。

 しかしそれにしても、オウム真理教のサティアンと呼ばれる建築物も戦後建築の50年の原点と到達点を示しているようで無気味であった。そこにあるのは経済的合理性のみの表現である。あるいは何の美学もない間に合わせのバラック主義である。そこでは建築や街並み、周辺の景観など一切顧慮されていないのである。仮設の建物のなかで、全く我侭に、自らの魂の救済のみが求められている。

 

 変わらぬ構造

 大震災によって何が変わったのか、というと、今のところ、何も変わらなかったのではないか、という気がしないでもない。震災があったからといって、そう簡単にものごとの仕組みが変わるわけはないのである。そのインパクトが現れてくるまでには時間がかかるだろう。しかしそうは思っても、果たして何かが変わっていくのかどうか疑問が湧いてくる。

 建築家、都市計画プランナーたちはヴォランティアとして、それぞれ復旧、震災復興の課題に取り組んできた。コンテナ住宅の提案、紙の教会の建設、ユニークで想像力豊かな試みもなされてきた。この新しいまちづくりへの模索は実に貴重な蓄積となるであろう。

 しかし、そうした試みによって新しい動きが見えてきたかというと必ずしもそうでもない。復興計画は行政と住民の間に様々な葛藤を生み、容易にまとまりそうにないのである。そして、大震災の教訓が復興計画に如何に生かされようとしているのか、というと心許ない限りである。都市計画を支える制度的な枠組みは揺らいではいないし、立案された復興計画をみると、大復興計画というべき巨大プロジェクト主義が見えかくれしている。フロンテイア主義は変わらないのであろうか。

 関東大震災後も、戦災復興の時にも、そして、今度の大震災の後も、日本の都市計画は同じようなことを繰り返すだけではないのか。要するに、何も変わらないのではないか、と思えてくる。復興過程の袋小路を見ていると、震災が来ようと来まいと、基本的な問題点が露呈しただけであるように見える。問題は、被災地であろうと被災地でなかろうと関係ない。どこにも遍在する問題を地震の一揺れが一瞬のうちに露呈させたのではないか。だとすると、ずっと問われているのは戦後50年の都市と建築のあり方なのである。

 バブルが弾けて、ポストモダンの建築は完全にその勢いを失った。デコン(破壊)派と呼ばれた殊更に傾いた壁やファサード(正面)を弄んできた建築表現の動向も大震災の破壊の前で児戯と化した。建築表現は世紀末へ向けてどう変化していくのか。

 このところCAD表現主義とも言うべき、コンピューターを駆使することによって可能になった形態表現が目立つ。新しいメディアによって新たな建築表現が試みられるのは当然である。しかし、CADによる形態操作の生み出す多様な表現はすぐさま飽和状態に達する予感がないでもない。建築はヴァーチャルな世界で完結はしないからである。

 

 都市(建築)の死と再生

 今度の大震災がわれわれにつきつけたのは都市(建築)の死というテーマである。そして、その再生というテーマである。被災直後の街の光景にわれわれがみたのは滅亡する都市(建築)のイメージと逞しく再生しようとする都市(建築)のイメージの二つである。都市(建築)が死ぬことがあるという発見、というにはあまりにも圧倒的な事実は、より原理的に受けとめられなければならないだろう。

 現代都市の死、廃墟を見てしまったからには、これまでとは異なった都市(建築)の姿が見えたのでなければならない。復興計画は、当然、これまでにない都市(建築)のあり方へと結びついていかねばならない。

 そこで、都市の歴史、都市の記憶をどう考えるのかは、復興計画の大きなテーマである。何を復旧すべきか、何を復興すべきか、何を再生すべきか、必然的には都市の固有性、歴史性をどう考えるかが問われるのである。

 建造物の再生、復旧が、まず建築家にとって大きな問題となる。同じものを復元すればいいのか、という問いを前にして、建築家は基本的な解答を求められる。それはしかし、震災があろうとなかろうと常に問われている問題である。都市の歴史的、文化的コンテクストをどう読むか、それをどう表現するかは、日常的テーマといっていいのである。

 戦災復興でヨーロッパの都市がそう試みたように、全く元通りに復旧すればいいというのであれば簡単である。しかし、そうした復旧の理念は、日本においてどう考えても共有されそうにない。都市が復旧に値する価値を持っているかどうか、ということに関して疑問は多いのである。すなわち、日本の都市は社会的なストックとして意識されてきていないのである。戦後50年で、日本の都市はすぐさま復興を遂げ、驚くほどの変貌を遂げた。しかし、この半世紀が造り上げた後世に残すべき町や建築は何かというと実に心許ないのである。

 スクラップ・アンド・ビルド型の都市でいいということであれば、震災による都市の破壊もスクラップの一つの形態ということでいい。必ずしも、まちづくりについてのパラダイムの変更は必要ないだろう。しかし、バブル崩壊後、スクラップ・ビルドの体制は必然的に変わって行かざるを得ないのではないか。

 そして、都市が本来人々の生活の歴史を刻み、しかも、共有化されたイメージや記憶をもつものだとすれば、物理的にもその手がかりをもつのでなければならない。都市のシンボル的建造物のみならず、ここそこの場所に記憶の種が埋め込まれている必要がある。極めて具体的に、ストック型の都市が目指されるとしたら、復興の理念に再生の理念、建造物の再生利用の概念が含まれていなければならない。否、建築の理念そのものに再生の理念が含まれていなければならない。

 果たして、日本の都市はストックー再生型の都市に転換していくことができるのであろうか。

 表現の問題として、都市の骨格、すなわち、アイデンティティーをどうつくりだすことができるか。単に、建造物を凍結的に復元保存すればいいのか、歴史的、地域的な建築様式のステレオタイプをただ用いればいいのか、地域で産する建築材料をただ使えばいいのか、・・・・議論は大震災以前からのものである。

 阪神・淡路大震災は、こうして、日本の建築界の抱えている基本的問題を抉り出した。しかし、その解答への何らかの方向性を見い出す契機になるのかどうかはわからない。半世紀後の被災地の姿にその答えは明確となる筈だ。しかし、それ以前に、半世紀前から同じ問いの答えが求められているのである。

(日本建築学会 建築雑誌  1996年 研究年報717日 記)

 

*1 拙稿、「阪神大震災とまちづくり……地区に自律のシステムを」共同通信配信、一九九五年一月二九日『神戸新聞』、「阪神・淡路大震災と戦後建築の五〇年」、『建築思潮』4号、1996年、「日本の都市の死と再生」、『THIS IS 読売』、1996年2月号など

 

*2 拙著、『戦後建築の終焉』、れんが書房新社、1995年、『戦後建築の来た道 行く道』、東京建築設計厚生年金基金、1995年











2021年4月30日金曜日

中部スラウェシ地震復興と文化遺産 JCIC-Heritage 文化遺産国際協力コンソーシアム 国際協力調査(インドネシア)


JCIC-Heritage 
文化遺産国際協力コンソーシアム 
国際協力調査(インドネシア) 2020.0118-26 中部スラウェシ地震復興と文化遺産 報告書

国際協力調査(インドネシア) 2020.0118-26 報告

 

はじめに

 本報告書は,中部スラウェシ地震の復興と文化遺産に関して、以下を目的として行った現地調査および関係機関調査について報告し,文化遺産をよりコミュニティに根差した存在にしていくためにどういった国際協力があり得るか,その新しい可能性国際協力の可能性について、考察するものである。

 「インドネシア・スラウェシ島中部の都市パルは,2018年に発生した地震・津波により甚大な被害を受けた。同地は活断層上に位置することから,これまでも数十年おきに地震・津波に見舞われており,インフラや生活基盤の復旧とともに,より災害に強い社会を目指す復興計画が進められている。

わが国でも2011年に東日本大震災が発生し,沿岸部では津波が未曽有の被害をもたらした。被災地は過去にも津波による被害を受けていることから,災害の記憶を地域で継承し,教訓として今後の防災・減災に活かしていこうとする取り組みが続けられている。

この調査では,現地及び中央政府等へのヒヤリングを通して,地域の復興に文化遺産がどのような役割を果たし得るのか,またその際に,我が国がどのような国際協力を行えばより効果的であるかを考察する。

特に,東日本大震災後の経験を他国に共有し,文化遺産としての震災遺構の取り扱いについて考えることで,地域を災害から守るための文化遺産の役割について。さらには調査全体を通して,文化遺産をよりコミュニティに根差した存在にしていくためにどういった国際協力があり得るか,その新しい可能性を探りたい。

調査目的

1.      現地の被害・復興における課題等を把握する。

2.      地域の復興に文化遺産がどのように貢献できるか考察する。

3.      災害の記憶の継承に文化遺産が果たす役割について考察する。

4.      被災地における文化遺産とコミュニティとの関係について考察する。」

調査メンバー

 布野修司(文化遺産国際協力コンソーシアム 東南アジア・南アジア分科会長/日本大学生産工学部建築工学科 特任教授) 

・田代亜紀子(文化遺産国際協力コンソーシアム 東南アジア・南アジア分科会委員 /北海道大学大学院メディア・コミュニケーション研究院 准教授)

 ・久保田裕道(東京文化財研究所 無形文化遺産部 無形民俗文化財研究室長)

・斎藤里香(東日本大震災津波伝承館いわて TSUNAMIメモリアル 学芸員)

・松保小夜子(文化遺産国際協力コンソーシアム アソシエイトフェロー)

 調査協力

 荒 仁 国際協力機構JICA 平和構築部  古市久士 国際協力機構JICA パル事務所  沼沢うらら 通訳家・翻訳家






 Ⅰ 中部スラウェシ地震の概要

 

20189281702分,インドネシア共和国中部スラウェシ州の州都パル市の北方80km,深さ10Kmを震源とするM7.5の地震が発生した(図Ⅰ0)。同震災(以下,中部スラウェシ大地震)によって,沿岸部への津波の影響,内陸部の液状化に起因する地滑り,パル渓谷沿いの土石流によって,パル市,ドンガラ県,シギ県中心に甚大な被害が生じた。発災1年後の段階で確認されたのは(公式発表),死者2101人,行方不明者1373人,負傷者4438人,避難者221450人,被害地区122箇所,損傷住宅68451戸,損傷店舗362,損傷モスク327,損傷橋梁7,損傷ホテル5,損傷学校265,損傷事務所78である(201910月現在。図Ⅰ0②③)

図Ⅰ0① パル市およびシギ県,ドンガラ県の位置 

 

図Ⅰ0② 被害状況 Sumedi Andono Mulyo(2019) 荒仁(2019) インドネシア国『中部スラウェシ州復興計画策定及び実施支援プロジェクト』プロジェクト資料

被災地域は,沿岸部,内陸液状化地滑り地区,パル川沿い渓谷農村部に分けられる。



 1① 津波被害地区 


1.沿岸部 津波被害

 沿岸部において,津波高さは約5mで,侵水域は深くはなく,被害地はパル湾沿岸に沿って,幅10mから数10m程度で広がる。河口部の橋が破壊された他,市の文化的催しが行われる文化センター地区,湾を眺望する2つのホテル,観光客を呼んでいた海上モスク,塩田など大きな被害が出ている。また,地盤沈下が起こって,墓地が海中に沈んだ箇所もある。ドンガラ県北部の造船所も被害を受けている(図Ⅰ1①)。

パル市北部沿岸部は,パル川西岸のパル王国の王宮,王墓なども位置した歴史的地区であるが,王宮には被害がなかったものの,幅数十メートルにわたって大きな被害を受けている。


 文化センターは,近年建設され,500席のオーディトリアムをもつ,市の文化的催しの中心施設として期待されていた施設である。発災当日も市制40周年を祝う,また,毎年持ち回りで行われるインドネシア各地の王家が集まる集いが開かれていた施設である(図Ⅰ1②)。周辺施設も大きなダメージを受けており,再開の目途はたっていない。隣接するホテルも閉鎖されたままである。




沿岸部は,文化センターに近接して,夕涼みに訪れる市民のための公園が続いており,レストランや店舗,屋台などが流された。また,多くの漁船が失われた(図Ⅰ1③)。湾上に浮かぶモスクが観光客を集めていたが,このモスクは傾いたままとなっている。また,近接するモスクのミナレットも傾いたままである(図Ⅰ1④)。パル川東岸には塩田があるが,これも大きな被害を受けており,再建中である。




図Ⅰ1③ 被災した沿岸部の現況(2020年1月) 援助によって再建された漁船が並ぶ沿岸部。撮影 布野修司 2020120

沿岸部近くの海底は沈下し,北東部沿岸には水没した歴史的な墓地がある。沿岸北東部はやや高台になっており,津波被害を受けたのは幅10mほどの区域である。発災によって多くの船舶が打ち上げられたが,現在はドンガラ港付近に一艘残されている。




 図Ⅰ1④ 被災を象徴的に示す建造物など 撮影 布野修司 2020120

 


図 







2.内陸部 液状化地滑り被害 

内陸部の液状化地滑りは,地域の代表的民族であるカイリKaili族はナロドNalodoと呼んでおり,これまでも地元では知られてきた、という。20世紀に入ってからも,1907年,1909年,1938年,1939年,1968年,1996年そして2018年にナロドNalodoに見舞われている。全体が扇状地として形成されており,様々な場所で地滑り,断層のずれが確認されるが,特に大規模なのは,バラロアBalaroa,ペトボPetobo,ジョノ・オゲJono Oge3地区である。ペトボ地区は,幅1km,距離2kmにも及ぶ地滑り起こしている(図Ⅰ2①②)。今回の液状化地滑りは,世界に類例を見ないものとされる。

図Ⅰ2② Nalodo大規模発生地区 JICA Study Team2019


 バラロア地区は,パル川左岸,西部地区に位置するが,被災面積は他と比べて小さいが,密集市街地であり被災住戸は930戸と多い。もともとの集落があった高台は液状化を免れており,液状化による地滑りを起こしたのは扇状地上に形成された新たな住宅地である。225m(①),375m(②),250m(③)移動した事例が確認されている(図Ⅰ2③)。もともとの集落は高台にあり,被災した地域は,扇状地の下方に新たに造成された住宅地である(図Ⅰ2④)。




バラロア 地滑り開始地点 右(西)は旧村落  バラロア 地滑り開始地点 右(東)へ地滑り

ペトボ地区は,パル川右岸東部地区に位置し,幅約1kmが約2kmにわたって地滑りした最大規模の被災地で1.63㎢ある。ここで1255戸の住宅が失われた(図Ⅰ2⑤)。


 ジョノ・オゲ地区は,同じくパル川右岸,ペトボ地区の南に位置するが,1,75㎢,238戸が失われた図Ⅰ2⑥)。さらに,20戸が被災したシバラヤSibalaya地区(0.5㎢)の他,パル市内でも10m30m規模で液状化地滑りを起こした地区がある。

発生のメカニズムについては,①地表面液状化理論と②地盤流の水膜理論が考えられるが,a地下水レヴェルが浅く,b傾斜地面,c閉鎖帯水層d積層された軟弱砂層,e低透過性キャップ層が存在していることが指摘されている。

パル川に沿って南北に走る活断層がずれて地震が起こると,それとともに液状化が発生(2),さらに土砂崩れが起こった(3)。閉じ込められていた帯水層から水が噴出,液状化がさらに継続され(4),長距離の地滑りが起こったと考えられている。

発生のメカニズムについては,①地表面液状化理論と②地盤流の水膜理論が考えられるが,a地下水レヴェルが浅く,b傾斜地面,c閉鎖帯水層d積層された軟弱砂層,e低透過性キャップ層が存在していることが指摘されている。




  地表面液状化理論                地盤流の水膜理論

図Ⅰ2⑦  Nalodo発生のメカニズム JICA Study Team2019

 

パル川に沿って南北に走る活断層がずれて地震が起こると,それとともに液状化が発生(2),さらに土砂崩れが起こった(3)。閉じ込められていた帯水層から水が噴出,液状化がさらに継続され(4),長距離の地滑りが起こったと考えられている(図Ⅰ2)

3.山間部 土石流被害


図Ⅰ3① パル渓谷 地形図 JICA Study Team2019

     



 パル市の南に接するシギ県は,パル川に沿うパル峡谷を行政区域とするが,パル川に沿って,点々と液状化,土石流が起こり,道路そして灌漑用水路が分断された(図Ⅰ3①)。176村落の内160村が被害を受け,死者453人,損壊住宅30236戸にのぼる。灌漑用水路などインフラストラクチャーの82%が被災し,農業生産に大きな支障をきたしている。また,中小企業300256の協同組合のうち33が影響を受けた。

  パル市から南へ直線距離で約70km,シギ県クチャマタン・クラウィKulawiは,平屋の小学校が全半壊するなど山間部でも大きな被害を受けた。発災から2週間孤立し,2週間後にヘリコプターで救援物資を受け取ったという。一般的に伝統的住宅に被害は少なく,伝統的構法に従って近年建築した村の集会所ロボloboには被害がなかった。 

4.建造物被害


表Ⅰ4① JICA資料

表Ⅰ4② JICA資料

表Ⅰ4③ JICA資料

 被災地域はおよそ図Ⅰ③に、被害建造物の概数は図Ⅰ②に示されるが,公共建築についてやや詳しく見ると、表Ⅰ4①②③に示される(図Ⅰ4)。ドンガラ県のデータはないが、学校建築(小学校SD、中学校SMP)については、パル市とシギ県合わせて、全424校のうち、113校が全壊、160校が損傷している(表Ⅰ4①)。シギ県の山間部クチャマタン・クラウィの小学校についてみたが(図Ⅰ3③)、震源部から相当距離離れた地域でも鉄筋コンクリート造で建てられており、全壊被害がある。建築の耐震性に問題があったことがはっきりしている。公共建築については、重度の損傷(政府関係12、村事務所3、加工場1、健康センター2、地域健康センター12)が20施設にあった(表Ⅰ4)。全130施設の15.4%である。全体の8割近く101施設に何らかの損傷があり、特に政府関係施設30のうち12施設、4割に重度の損傷があることは、耐震基準に問題があることを示している(表Ⅰ4②)。全壊した建築には、パル市立病院ANUTAPURA、パル市消防署、空港管制塔、アパート1棟である(表Ⅰ4③)。

 民間建物について、大きな被害は,パル川河口の両側部分に集中してみられるが,市街地に点々と損傷建物が発生している。およそ,平屋の被害は少なく,2回以上のRC造の建物の被害が大きいことが指摘される。また,地区によって小規模の液状化地滑りが起こっており,被害建造物がモザイク的に見られることが指摘される。

 指摘されるのは、被害を受けた建物のなかにプロトタイプ(標準設計された建築類型)があることである。これは公共建築に限らず、マンションやガソリンスタンドなどもそうである。この標準設計によって建設された建造物、すなわち、同じ設計の建物は、地震リスクゾーニングに関係なくインドネシア全地域に建設されている。

パル市の場合、地震リスクゾーニングマップの最も重要なエリアに分類され、パル市のスペクトル加速度(SA)は、期間(T )約0.2秒から1.0秒でジャカルタ北部地域の値のほぼ2倍である。 耐震基準についてより配慮が必要であったと考えられる。


 

 Ⅱ 中部スラウェシ地震の復興計画と復興状況

1.復旧・復興の体制・枠組

中部スラウェシ地震の復旧復興は,インドネシア中央政府―中部スラウェシ州―パル市・シギ県・ドンガラ県など地方自治体の連携のもとに行われつつある。インドネシア政府による復旧・復興は,国家開発企画庁BAPPENASおよび公共事業・国民住宅省PUPRが中心となっている。復興計画は,日本のJICAをはじめとする国際機関による支援のもとに立案され,大きく,①災害リスクの評価及びハザードマップの作成(Task Force1),②災害リスクに基づく空間計画の策定(Task Force2),③インフラ・公共施設の強靭化の促進(Task Force3),④生計回復,コミュニティ再生の実現(Task Force4)からなる。

発災直後は,国家防衛庁BNPBを中心に捜索救助活動が行われたが,日本政府は,ジャカルタおよびカリマンタンのバリクパパンから救援物資をパルへ輸送する支援を行っている。そして,国家開発企画庁BAPPENASは,現地調査をもとに復興基本計画(Dokumen Rencana Induk Pembangunan Kembali Wilayah Terdampak)を早急に完成させるために,日本政府に協力を依頼,正式要請が2018111日に行う。それを受けて,JICAはインドネシアに調査団を派遣,復旧・復興支援計画に関わる情報を収集するとともに,国家開発企画庁BAPPENASをはじめとする関係機関と復興計画に関する協議を実施する(201812月)。この協議において,日本政府は,第三回国連防災世界会議(仙台市,20153月)で採択された「仙台防災枠組2015-30」(20154月)及び日本政府が公表した「仙台防災協力イニシアティブ」をもとに,災害の発生後の復興段階において,次の災害発生に備え,よりレジリエントな地域づくりを行うというBBBBuild Back Better)コンセプトを紹介,理解を得ている。また,日本政府は,被災地のインフラ・コミュニティの復興支援が,SDG11「包摂的,安全,強靭で,持続可能な都市と人間居住の構築」に資するものと位置づけている。

インドネシアは,インド洋大津波(200412月)の復旧・復興の過程で,様々な国,団体等の支援調整に混乱した経験を踏まえ,復興基本計画の立案については日本政府のみに依頼を行った。日本以外では,世界銀行WBおよびアジア開発銀行ADBがそれぞれ10USDの支援を表明,受け入れられている。それぞれの担当も,カタール・チャリティを加えて,調整されている。

図Ⅱ1① 支援国・団体等の担当地域 Sumedi Andono Mulyo(2019)


 JICAが担当するのは,パル市における防潮堤・道路建設,環状道路建設,橋梁の修復,建設,農業灌漑システムの改善,河川改修,病院再建,シギ県における道路再建,農業灌漑システムの改善,沈下防止,パリモ県における橋梁改修である。世界銀行は,パル市とシギ県で恒久住宅の建設を担当する。アジア開発銀行は,パル市における空港再建,港湾再建,上水設備復旧,恒久住宅建設,国立イスラーム研究所再建,ドンガラ県における浄水施設復旧,シギ県における上水設備復旧,恒久住宅建設,国立イスラーム研究所再建,海外施設復旧,ダム建設を行う。カタール・チャリティは,パル市における病院再建,シギ県における恒久住宅供給,病院,モスク,学校,診療所建設である(図Ⅱ1①)。

 インドネシアにおける復興計画の実施体制,その実施体制におけるJICAの位置づけは図Ⅱ1②のようである。



図Ⅱ1② インドネシアの復旧・復興実施体制 荒仁(2019)インドネシア国『中部スラウェシ州復興計画策定及び実施支援プロジェクト』プロジェクト資料

 

2.復興計画の実施状況 

A 災害リスクの評価及びハザードマップの作成(Task Force 1

 復興計画の前提として,各地区の災害リスクの評価が不可欠である。


図Ⅱ2① ハザードマップと掲示版 Sumedi Andono Mulyo(2019)


 Nalodo(液状化地滑り)の発生については,上述のように,a地下水レヴェル,b傾斜地面,c閉鎖帯水層,d軟弱砂層,e低透過性キャップ層が関係していることが明らかとなった。そこで,a~dの状態を考慮して,各地区の災害リスク(危険度)を判断することが考えられる。しかし,それぞれ調査した上でハザードマップを作製するには時間もコストもかかることから,JICAは,今回の被災状況をもとに,各地区の災害リスクを4段階に設定,ハザードマップを作成した。大きくは,人的被害に関わる50m以上の地滑りが起こるレヴェル4(レッド・ゾーン),150mの地滑りが予想されるレヴェル3(オレンジ・ゾーン),液状化が予想され,地下水レヴェルが浅いレヴェル2(イエロー・ゾーン)である。

ただ,土地の権利が関係することから,所有者との合意形成が不可欠である。JICA作成のハザードマップに自治体の意向を加味したものが現在公表されているもので,既に各所に掲示されている(図Ⅱ2①)。 

 

B 災害リスクに基づく空間計画の策定(Task Force 2

図Ⅱ2② マスタープラン 建築制限ゾーニング Sumedi Andono Mulyo(2019)



 そして,このハザードマップをもとにマスタープランのゾーニングが決定され既に告知されている(図Ⅱ2②)。

レヴェル4は,建築禁止地区(ZRB4)とされ,建築の再建,新築は禁止され,住民は移住を義務づけられる。緑地,保全地区,記念地区として利用する。

レヴェル3は,建築限定地区(ZRB3)とされ,新築住宅,新設公共住宅は禁止され,住宅の再建については一定の基準を充たしたもののみ許可される。非建設地区,液状化,地滑りの危険が高い地区については,保護地区あるいは農地として利用する。

レヴェル2は,建築制限地区(ZRB2)とされ,新築については一定の耐震基準を充たすことが義務付けられる。津波あるいは洪水が予想される地区は,そのリスクへの対応(堤防など)を求められる。土地利用は低密度とする。

     

図Ⅱ2③ 建築制限地区における住宅再建 撮影 布野修司 2020120-21日 

移転,建築制限に伴う補償など合意形成には時間がかかるため,建築禁止地区あるいは建築限定地区でも許可なく建築がところどころで行われる状況にある(図Ⅱ2③)。

 

C インフラ・公共施設の強靭化の促進(Task Force 3

道路,灌漑水路,空港,港,上下水道,電気などのインフラストラクチャー,病院などの公共施設の復旧は急務であり,これまである程度実施されてきている。パル川の河口の橋は,実施設計も終了し,入札直前にある。また,医療施設の再建も決定されている。しかし,灌漑水路は,ようやく,1年余り過ぎて一水路が復旧された程度で,本格的な復旧は行われていない。土地利用が未定で,復旧自体が決定されていない地区もある。また,沿岸部にある文化センターなど再建の目途が全く立っていない施設も少なくない。

既に決定し,実施されつつあるのは,復旧・復興の体制枠組(Ⅱ1)で触れたように,以下である。

パル市

   アル・ジュフリAl Jufri空港(パル市)の修復・再建 アジア開発銀行ADB 修復完了

   防潮堤・湾岸道路の建設(パル市) JICA 計画協議中

   パル市環状道路新設 JICA

   パルⅡ橋,Ⅳ橋,ⅣA橋,ブルリBuluri橋建設 JICA

   タリセTalise1橋,2橋修復 JICA

   アヌタプラAnutapulaパル病院修復・再建 JICA+カタール・チャリティ

   国立イスラーム研究所改修 アジア開発銀行ADB

   パントロアン港改修 アジア開発銀行ADB

   パル市上水設備改修 アジア開発銀行ADB

   河川改修 JICA

   農業灌漑システム改修 JICA

シギ県

   カラワラ・クワリKalawara-Kuwali道路の再建 JICA

   農業灌漑システム改修 JICA

   地盤改良・液状化防止 JICA

   グンバサGumbasa地区 灌漑用水路再建 アジア開発銀行ADB JICA

   ウォノWuno地区水供給改善 ダム建設 アジア開発銀行ADB

   国立イスラーム研究所改修 アジア開発銀行ADB

   診療所建設 カタール・チャリティ

   小学校建設 カタール・チャリティ

ドンガラ県


D 仮設住宅 災害公営(再定住・恒久)住宅建設

 住宅再建は,発災直後から大きな課題であり続けている。仮設住宅は,必要な住宅数は用意されたが,未だテントの仮設住宅に居住する世帯もある。恒久住宅建設は100戸足らずが建設された段階で,これからという段階である。




         図Ⅱ2⑤ バラロアの仮設天幕住宅 撮影 布野修司 2020121


 インドネシアは,この間,スマトラ島沖地震(インド洋大津波)(200412月),ジャワ島中部地震(20065月),西スマトラ州パダン沖地震(20099月)など大地震に見舞われ,中部スラウェシ地震直前にもロンボク島地震(2018年7月,8月)に見舞われている。応急仮設住宅の建設については,一定の対応システムが構築されてきた。具体的に,仮設住宅は一戸当たり36㎡が供給されるのが原則とされている。インドネシアには,低所得者向けの住宅供給としてコアハウジングの伝統があり,基本的にはその方法が用いられる。コアハウジングとは,コアハウスと呼ばれる36㎡の一室住居+カマール・マンディ(バス・トイレ)(多くの場合骨組(スケルトン)のみ)を供給し,内装,増改築は居住者に委ねる供給方式である。ただ,その住宅形式,集合形式については,建設主体によって様々である。

中部スラウェシ地震の場合,仮設住宅は,各地に設置され,パル市では,大規模Nalodo(液状化地滑り)地区の近くに建設されている。仮設住宅の形態は,公共事業・国民住宅省PUPRによるものとシギ県によるもの,また,NGO,慈善団体(台湾の仏教慈善団体ツチTsu Chi)によるものによって,異なる。PUPRによる仮設住宅は,左右に6戸ずつ設け,中央にトイレ・バス,洗濯場,厨房を設けるユニークなものである。

パル市内で大規模な液状化地滑りが起こったバルロア地区には,液状化が起こった地点より高台に仮設住宅が建設されている。仮設住宅は,大きく分けて,天幕住宅と木造仮設住宅の2種に分けられ,様々な主体によって供給されている。14ヵ月経過した段階で多くが天幕住宅に居住しているが,限定されたヒヤリングで確かではないが,天幕住宅に居住するのは従前には借家住まいをしていた世帯である。天幕は,国連難民高等弁無化事務所UNHCRによるものが多いが,トルコのKIZILAYIなど国際的な支援団体によって供給されている。UNHCRによる天幕は,パル川沿いに山間部に点々と建設されている。




図Ⅱ2⑥ バラロアの木造住宅と共用施設(トイレ・クリニック・給水タンク) ブロック別居住者名簿 撮影 布野修司 2020121
木造仮設住宅は,一室住宅で,これもいくつかの主体によって供給されている。従前の町内会組織,RW,RT毎に入居者が選定されたわけではないが,従前のネットワークは維持されている。





図Ⅱ2⑦ ドゥユ地区の恒久住宅(バラロア居住者向け) 撮影 布野修司 2020121


 さらに,この仮設住宅地に隣接するさらに高台に恒久住宅が建設中であった。恒久住宅は,表Ⅱ2①のように77戸(計200戸)建設が決定されているが,建設はようやく開始された段階であり,バラロア居住者向けが先行している。このドゥユ地区の恒久住宅は,PCフレームのコンクリート・ブロック造で,公共事業・国民住宅省PUPRの他に例のない(おそらく最初の)プロトタイプである(図Ⅱ2⑦)。6m×6m=36㎡で内部空間は,3m×6mLDK),3m×3mの2寝室の3室+トイレという構成である。宅地にそう余裕はなさそうに見えたが,必要に応じて居住者が増築することが想定されている。

  


    

図Ⅱ2⑧ ペトボの毛摂住宅地 撮影 布野修司 2020121

 最大の液状化地滑りが起こったペトボ地区については,近接した高台に建設された仮設住宅地を見ることができたが,木造でトタン屋根の連棟式の仮設住宅の建築としての質は高くない。稲作・畑作には向かない牧草地の広大な敷地に疎らに建てられ,トイレ,給水施設などは別に設けられているが,仮設住宅地の共同生活についての配慮が希薄である。井戸が掘られているが,活断層が近く温泉で,飲料水には用いられない。既に,空き家が見受けられ,仕事のためにパル市内に引っ越した世帯もある。

 スラバヤ ルスン・ソンボの平面形

     

図Ⅱ2⑨ クチャマタン・ビロマル デサ・ムパナウの仮設住宅地 撮影 布野修司 2020121

 シギ県には,76箇所の仮設住宅地が設けられているが,ペトボの南には,公共事業・国民住宅省PUPRによるKec.ビロマルBiromaruのデサ・ムパナウMpanau(図Ⅱ2),また,Integrated Community Shelter (HUNIAN NYAMAN)TERPADU)などいくつかのドナーによるクチャマタンKec.・シギのデサ・ロルLolu(図Ⅱ2⑩)の仮設住宅地がある。

 公共事業・国民住宅省PUPRによる仮設住宅は,中央にダプール,カマル・マンディ・トイレを置き,左右6戸ずつ計12戸を1棟とする共同住宅形式である。これは,スラバヤでJ.シラスSilasらが提案建設してきたルスンRusun(積層住宅=中層集合住宅)(ルスン・ドゥパ,ルスン・ソンボ,ルスン・プンジャリンガン)の各階モデルと基本的に同じである。ただ,一戸は,スラバヤのルスンが3m×6m=18mであるが,ここでは4.5m×4m=18mである。以下に見るクチャマタンKec.・カラウィの仮設住宅も同じモデルに従っている。デサ・ムパナウの仮設住宅地は,JICAが生計回復・地域再生モデル事業を展開するサイトのひとつである。

       


 シギ県の最南部に位置するクチャマタン・クラウィには,公共事業・国民住宅省PUPRによる仮設住宅地(図Ⅱ2⑪)と,それと対照的に全て竹を用いた仮設住宅(バンブー・シェルター)を建設した村(デサ・ナモNamo)(図Ⅱ2⑫)がある。公共事業・国民住宅省PUPRによる仮設住宅地は,そのコンセプトはクチャマタン・クラウィと同様であるが,ディテールのデザイン(特に共用部分)は異なり,外壁がカラフルに仕上げられている。また,居住者の増築が前者には全く見られなかったが,ここではここそこで行われている。










図Ⅱ2⑪ クチャマタン・クラウィの仮設住宅団地 撮影 布野修司 2020121

 クチャマタンKec.・シギのデサ・ロルの仮設住宅地は,デサ・ロルに近接して建設されている。小規模であるが,液状化地滑りが起こっており,建設制限地区に指定されている。仮設住宅地は,マーケットの建設予定地で,既に一部建物の建設が開始されていたが,仮設住宅建設に転用された。広場を中心として,ショッピング・センター,共同食堂,モスクなどが計画的に配置されるモデル仮設団地となっている。仮設住宅は,14.5m×4m=18m背割りした連棟住宅である。

 




図Ⅱ2⑫ クチャマタン・クラウィのバンブー・シェルター 撮影 布野修司 2020121

  バンブー・シェルターの村(デサ・ナモ)は,オン・サイトで,倒壊した住戸の傍に建てるもので,KUN Humanity System+IMC(International Medical Corpus)によるユニークなアプローチである。屋根はアラン・アラン(茅)葺きであるが,躯体も壁(バンブー・マット)も他は全て竹である。伝統的な構法というわけではないが,豊富な建築材料として竹に着目した,集落景観に配慮したプロジェクトである。


 
 以上,仮設住宅,仮設住宅地については,限られた視察にとどまるが,日本の経験からみてもそん色ないアプローチが様々に採られたことが窺える。

恒久住宅建設を行う再定住地として,パル川西地区のドゥユ地区38.6ha,パル市東北部ドンガラ県トンド・タリセTondo-Talise地区146.8ha,パル市東南部,シギ県ポンベウェPombewe地区104ha,そして,その他被災地周辺が予定されている。パル市に6596戸,シギ県に2490戸,ドンガラ県に2008戸,計11099戸の建設が決定されている(表図Ⅱ①)。パル市では,ドゥユに190戸,トンド・タリセに4906戸,ペトボに1300戸,そしてうえで見たバラロアに200戸建設される。トンド・タリセは,大きく3つの地区からなる。シギ県は,ポンベウェに1500戸,その他7ヵ所に990戸を予定している。そしてドンガラ県は,13ヵ所2008戸を計画している。


図Ⅱ2⑬ 再定住地 公共事業・国民住宅省PUPRによる恒久住宅建設用地


 そのうち,公共事業・国民住宅省PUPRが建設するのは,パル市に1939戸(第一期639戸),シギ県に1495戸(第一期725戸),ドンガラ県に1795戸(第一期1600戸)計5229戸(第一期1600戸)である(図Ⅱ⑦)。具体的には,ドゥユ地区に230戸,トンド・タリセ地区332戸,バラロア地区77戸,シギ県のデサ・ロルLoru75戸,デサ・ランバラLambara100戸,デサ・サルスSalus50戸,ドンガラ県クルラハン・ガニGani66戸,デサ・ランピオLampio170戸である。第二期に,多くのデサでの建設が計画されている。地方自治体が建設するのは,一期のみのパル市123戸,ドンガラ県30戸,計153戸であり,約半数は中央直轄で建設される。寄付団体による建設は,計3004戸にのぼる。



 

 


E 生計回復,コミュニティ再生の実現(Task Force 4

図Ⅱ⑭ 生計回復支援

復興計画の中心に置かれるのは,被災者の生計回復であり,地域の経済的復興である。住宅再建のために第一に必要とされた建築技術研修,織物,陶器制作のための工具の提供および訓練,漁船を失った漁民への支援,また,震災トラウマに対するヒーリングなどが展開されつつある(図Ⅱ⑧)

 JICAは,パル市バラロア地区,ドンガラ県,シギ県の3ヵ所でモデル事業を実施中である。その詳細を把握することはできなかったが,たまたま,上述のクチャマタン・ビロマル デサ・ムパナウの仮設住宅地を視察した際にその活動の一旦に触れることができた。以下のシギ県の中小企業局支援の一環で,被災者グループの仮設居住者のための食堂経営,ベーカリー,クリーニング屋を支援する(建物建設,調理具,道具などの提供)ものである。ドンガラ県では,伝統的な漁船の製造支援を行っているという。

   

 

   

図Ⅱ⑮ クチャマタン・ビロマル デサ・ムパナウの生計回復支援

 

シギ県では,中小企業局SMEを中心に,発災直後から被災者支援が行われてきた。

発災直後は,全ての予算執行を停止し,復旧復興に全力を投じることになる。中小企業,協同組合の被害状況を把握し,緊急度の高い被災企業について,被災建物の修復とともに,工具や機材などを提供し,営業再開のための支援が行われた。まず行われたのは,建物修復のための建築技術についてのトレーニングである。たまたま,州の職業訓練所に日本で2年間研修を受けた教員がおり,その教員を中心に研修が行われたという。JICAはこの段階から支援を開始している。建設技術トレーニングには24名が参加,2週間にわたって行われ,修了者には中部スラウェシ職業訓練所から修了証が与えられた。修了者は45グループに別れ,地元の建設業者に加わって,各地の建物復旧に従事している。そして,営業再開支援は,当初,キオスク(小店舗),自動車修理工場,食堂(ワルン屋台),コーヒー店(ワルン)について行われた。

         

図Ⅱ2⑯ シギ県中小企業SMEセンター

続いて,中小企業支援の拠点として,フンタラHuntaraSMEセンターが設立された。被災者の支援のための施策を一ヵ所に統合し,また,仮設居住者について集中的に支援することが目的である。JICASMEセンターを支援している。また,仮設居住者支援として行っているのが,クチャマタン・ビロマル デサ・ムパナウの仮設住宅地における支援である。カフェ,小工場,食堂,販売所などが設置されている(図Ⅱ2⑯)。

   

図Ⅱ2⑰ シギ県クチャマタン・クラウィ 復興拠点計画

シギ県は,こうしたSMEセンターを拡大すべく,4つの仮設住宅地に同様のセンターを設置することを計画中である。そのうちのひとつは,上で触れた(Ⅰ3,Ⅱ2D),クチャマタン・クラウィである。損壊した小学校跡地に,復興拠点として再建すべく計画が練られている。その核としての市場はすでに着工されているが,その一部にNalodoミュージアムを設置する構想がある(図Ⅱ2⑰)

 Ⅲ 中部スラウェシの文化遺産

1.中部スラウェシの概要

 中部スラウェシは,北はスラウェシ海とゴロンタロGolontalo, 東はマルクMaluku,南は西スラウェシと南スラウェシ,南東は東南スラウェシ,西はマカッサル海峡に接し,囲われている。赤道が中部スラウェシの北部半島を横切っており,熱帯気候であるが,ジャワ,バリ,スマトラと異なり,雨季は4月~9月,乾季は10月~3月である。平均年間降雨量は8003000㎜で,インドネシアでは最も少ない。気温は2531°C(高原部は1622°C)で,沿岸部の湿度は7176%である。

 

図Ⅲ1b 中部スラウェシの行政区分(出所)http://adepedia3.blogspot.com/2018/01/peta-administrasi-sulawesi-tengah-2018.html

 

スラウェシは,アジア・オセアニア地域の動植物相が大きく変わる極めてユニークな境界域に位置する。すなわち,ボルネオからアジアを横断するアジア区とオーストラリアからニューギニア,チモールに至るオセアニア区の境界区域である。その境界線は,チャールズ・ダーウィンの進化論のための動植物資料を提供したアルフレッド・ウォーレスに因んでウォーレス・ラインと呼ばれ,ウォーレシアと呼ばれる。島のユニークな動物として水牛に似たアノア anoaバビルサ babirusa , トンケナtonkenaサル, 色とりどりの有袋類カサス,熱い砂の上に卵を産むマレオmaleo鳥などが生息する。

スラウェシ島の森林にも独自の特性があり,アレカナッツareca nut(ロドデンロン種)が優占する大スンダ諸島とは異なるアガティスagatisの木が優勢である。 動植物の多様性は維持し,保護するために,ロアリンドゥ国立公園,モロワリ自然保護区,タンジュンアピ自然保護区,バンキリアン野生生物保護区などの国立公園,自然保護区が設立されている。中部スラウェシにも,いくつかの自然保護区,野生動物保護区,森林保護区が指定されている。

中部スラウェシは,州都パル市Kota Palu12の県からなる。総人口は304万人(2019年推計),パル市はその約1割(34.3万人(2015年))を占める。

中部スラウェシの先住民として多くの民族が知られる。最も主要なカイリKaili族は,中部スラウェシ州のほとんど,特にドンガラDonggala県,パリギ・モウトンParigi Moutong県,シギSigi県,パルPalu市に居住する。その他,クラウィKulawi族(シギ県),ロレLore族,パモナPamona族(ポソPoso県),モリMori族,ブンクBungku族(モロワリMorowali県),サルアンSaluan(あるいはロイナンLoinang)族,ママサMamasa族,タアTaa族,バランタックBalantak族(バンガイBanggai県),バレエBare’e族(ポソ県,トジョ・ウナーウナ県),バンガイBanggai族(バンガイ島県,バンガイ・ラウト県),ブオルBuol族(ブオル県),トリトリTolitoli族,ダンパルDampal族,ドンドDondo族,ペンダウPendau族(トリトリ県),トミニTomini族(パリギ・モウトン県),ダンペラスDampelas族(ドンガラ県)が知られる。加えて,ドンガラ県やシギ県の山岳部に居住するダアアDa'a族など数部族がいる。言語としては22程度の言語が区別されるが,基本的にはすべてオーストロネシア語族に属する。もちろん,現在では,南スラウェシのマンダール,ブギス,マカッサル,トラジャなどの移住者をはじめ,バリ,ジャワ,東西ヌサトゥンガラからの移住者が居住する。2010年のセンサスによると,ムスリムが77.72%,プロテスタントが16.98%,ヒンドゥー教徒3.78%,カトリック教徒0.82%,仏教徒0.15%などである。

主産業は農業であり,灌漑による稲作が行われている。また,野菜作物として,トウモロコシ,トマト,カブ,キャッサバ,シャロット(玉葱),ナスが生産される。果樹は,タンジェリン,スカッシュ,ジャックフルーツ,ドリアン,バナナを産する。また,中部スラウェシはコーヒー産業で知られる。中でも,シギ県とポソ県のコーヒーの歴史が古く,オランダ植民地時代から生産されてきた。コーヒー園は,ロレ・リンドゥ国立公園,クラウィ,ピピコロ,パロロ,およびポソ周辺の渓谷に広がるが,中心はポソ県であるが,最も広大なコーヒー農園はシギ県にある。ドンガラ県は,涼しい高地で栽培されるアラビカ種のコーヒーで知られる。シギ県のピピコロには,ジャコウネコによるコピ・ルワクと異なる,コウモリ,ネズミ,リスの自然発酵製品コピ・トラティマtoratimaというコーヒーがある。

中部スラウェシには付加価値の高い金属鉱物が10種類以上産出し,鉱業も盛んである。モロワリ県,バンガイBanggai県にニッケル,トリトーリ県,ドンガラ県,パリギ・モウトン県に方鉛鉱(亜鉛),ポソ県,バンガイ県に金,クロム鉄鉱石,クロム鉱石の産出がある。銅鉱石は,パレレ山地のブノボグ地区のブラギドゥン地域に産し,トリトリ県,ドンド地区,マララ村の西の山地ではモリブデンが発見されている。その他,可能性として,鉄砂,赤鉄鉱,磁鉄鉱,チタン,マンガンの埋蔵も期待されている。

マカッサル海峡とスラウェシ海,トミニ湾,トロ湾など海洋に接していることから漁業も盛んである。特にモロワリ県は,海藻生産で著名で,近い将来インドネシアで最大の海藻生産県になると予測されている。

 

2.中部スラウェシの歴史

 中部スラウェシの植民地化以前の歴史は古く,紀元前3000年から1300年に遡る巨石文化の存在が知られる。

シギ県のロレ・リンド国立公園周辺に400を超える巨石が残っており,その3割は人間像で,最大のものは高さ4.5m,東南アジア最大とされる。また,カランバKalambaと呼ばれる蓋(トゥトゥナTutu'na))つきの石棺が発見されている。

また,中部スラウェシには多くの洞窟があり,近年,少なくとも4万年前に遡る,ヨーロッパ最古のスペインのモンテ・カスティージョの洞窟画(1985年ユネスコ世界文化遺産に登録)に匹敵する世界最古級の洞窟画がインドネシア・オーストラリアの合同研究隊によって発見されている(2011年)。南スラウェシでは,マカッサルから北へ30km,マロスの町の近郊のマロス・パンゲップ・カルスト台地にある洞窟から洞窟画が発見されている。中でも,手形の洞窟画はやはり4万年前に遡るとされている。スラウェシは,人類の拡散(グレート・ジャーニー)を跡付ける人類史上重要な地域であり,洞窟画の世界文化遺産登録が期待されている。

    図Ⅲ2① スラウェシの洞窟画  https://www.bbc.com/news/world-asia-50754303

青銅器時代については,紀元1世紀のマカッサル斧が知られている。また,シギ県ではタイガニアtaiganjaと呼ばれる東インドネシアで類似のものが発見される装飾品が知られる。しかし,その後,イスラーム期に至るまでの歴史については不明のことが多い。

 カイリ族の名は,この地域の森林,特にパル川とパル湾の沿岸部にみられるカイリの木に由来するという説がある。カイリ族は,パル峡谷で一般的に稲作を行うが,高地ではココナッツ,キャンドルナッツなどの森林作物を栽培するし,沿岸部では漁業を行い,カリマンタンなどの島々との貿易も行ってきたと考えられている。カイリ族は文字をもたず,その起源は不明であるが,14世紀のブギス族の碑文に言及されており,南スラウェシとの関係は深く,当初はヒンドゥー文化の影響下にあり,インドとの関係は深かったと考えられている。

 中部スラウェシにイスラームが需要されるのは,南スラウェシのゴワGowa王国を通じてであるが,マジャパヒト王国の年代記『ナガラクルタガマ』(1365年)によれば,マカッサル族のゴワ王国は14世紀半ばには存在していた。ゴワ王国はその後,ゴワ王国とタロTallo王国の2つに分裂し,16世紀初頭に再統一される。イスラームの到来は,1320年代に遡るとされるが,ゴワ王国のイスラームへの改宗は17世紀初頭である。西スマトラのミナンカバウの3人の導師(ウラマー)(Datuk Ri BandangDatuk ri Tiro and Datuk Patimang)の到来がスラウェシのイスラーム化の起源とされる。

ゴワ王国は,16世紀半ばにカイリからトリトリに至る中部スラウェシ西海岸を占領するが,イスラームは,南スラウェシの勢力の拡張に伴って受け入れられていく。パル湾周辺は,ココナツ油のなど中部スラウェシ内陸部との交易拠点であった。

並行して,ヨーロッパ勢力が現れる。東海岸のトミニ湾を支配下に置いていたパリギParigi王国は,1515年に建国されるが,1555年には,1511年にマラッカを攻略したポルトガルが要塞を建設している。

   

図Ⅲ3① インドネシア共和国法律2017年第5号 「文化振興に関する法律」

 その後,17世紀に入って,オランダ東インド会社VOCがパリギ付近にいくつかの要塞を建設し,以降,オランダの支配下に置かれる。当初,オランダ植民地政府はこの地域にほとんど注意を払わなかったが,19世紀に入るとバナワ王国とパル王国と協定を結び(1824年),トミニ湾の南部と頻繁に交易を行い始める。パル王国が建国されたのは1796年であるが,内陸部は必ずしも開かれたわけではない。現地人がオランダ植民地政府と接触を開始するのは1888年以降である。オランダ植民地政府が,拠点としたのはポソとバナワである。内陸部がキリスト教化されていくのは19世紀末から20世紀にかけてである。この間,中部スラウェシは,ゴロンタロに拠点を置く支部の管轄下にあった。

20世紀に入って,スラウェシ全土を併合しようとするオランダ植民地政府に対する反乱がポソで勃発(1905),以降,オランダ植民地支配に対する抵抗する動きが現れ,1928年にはインドネシア国民党の支部がブオルBuolに設立されている。第二次世界大戦勃発後,日本軍がバンガイ県のルウクLuwukに上陸したのは1942515日である。そして,司令部はパルの王宮に置かれた。

独立後,中部スラウェシは当初マナドに首都がある北スラウェシの一部であったが,1964413日に分離されている。

 

3.中部スラウェシの文化遺産

 インドネシアの文化遺産については,教育文化省の文化保護局(文化総局を20201月改組)において,法令に基づいて指定する一定の仕組がある(2010年法令No.11)。無形文化財についても2017年の法令No.5でその基本方針が示されている。無形文化財については,文化振興の対象として,a 口頭伝承,b 手稿 c慣習 d 儀式 e伝承 f 伝統技術 g 芸術 h 言語 i玩具 j伝統的ゲームの10分野が想定されている(図Ⅲ3①)。 

     

図Ⅲ3② 中部スラウェシ博物館の被害 被災した移動巡回車

     

 

図Ⅲ3② 中部スラウェシ博物館 特別展「災害と自然史」 パフレットの一部

 文化財保護局は支局を各州に置くが,中部スラウェシについては,支局はゴロンタロに置かれている。また,建造物担当の事務所として建築研究所がマナドManadoに置かれている。教育文化省の博物館局は,国立博物館と各州博物館の連携をもとに,文化財の収集,保管,展示,スタッフの研修などを行っているが,中部スラウェシについてはパル市にある州立博物館が文化行政のひとつの中心である。州には,教育文化局がある。

 教育文化省の文化保護局は,文化財の災害対策について,災害の危険のある文化財のマッピング,関連機関との連携,人材育成などについてのガイドラインを作成中ということであるが,今回の中部スラウェシ地震に対する対応は,中部スラウェシ州立博物館が中心である。博物館自体が損傷を受けており,新たに購入し,活動を開始する直前であった移動巡回車も廃車となっている(図Ⅲ3②)。損傷した収蔵品の陶器の補修については,ユネスコ・ジャカルタ事務所の支援でスタッフの日本での研修が実現している。特筆すべきは,特別展「災害と自然史」(201910月3日~3日)を開催し,市民に今次の災害と地域の自然との関係を考える機会としたことである(図Ⅲ3③)。

     

図Ⅲ3④ 中部スラウェシ博物館の収蔵品カタログ

 中部スラウェシにおける文化遺産についての主要なものは中部スラウェシ博物館に収蔵され,展示されるが,地震による損傷で閉館中であり,具体的に鑑賞することはできなかったのであるが,2019年度に収蔵品について,『中部スラウェシの先史時代Prasejarah di Sulawesi Tengah』『有機物Koleksi Organik』『無機物Koleksi Anorganik』『陶器Koleksi Gerabah』という4様のブックレット,カタログが作成されている(図Ⅲ3④)。中部スラウェシ博物館には,図書館が併設されており,中部スラウェシの歴史と文化に関する内外の文献がある程度収集されている。

       

     

図Ⅲ3⑤ 中部スラウェシ博物館の巨石像 撮影 布野修司

 『中部スラウェシの先史時代』で取り上げられるのは,ロレ・リンド国立公園周辺に残る巨石文化である。多くは花崗岩の立石(ドルメン)であるが,上述のように,3割程度は人物像である。最大のパリンド像(パダン・セペ・レンバ・バダ)は東南アジア最大で4.5mあることも前述のとおりである。立石像の他,大小の石棺が発見されている。さらに,臼などもある。その一部,また,レプリカは,中部スラウェシ博物館の屋外展示場に常設展示されている。巨石を囲むレリーフが本館の正面のファサードに掲げられ,敷地の一角には,村の様子が再現されている(図Ⅲ3⑤)。巨石文化は,中部スラウェシの起源に関わり,その文化的アイデンティティの第一の象徴となっている。中部スラウェシ博物館の学芸員イクサムIksam氏によれば,洞窟画の発見もあって,オーストロネシア文化の原郷を中部スラウェシのポソ湖周辺に求める説があり,インドネシア,オーストラリアの共同研究が行われている,という。

無機物の収蔵品には,石器,石やすり,ブロンズの腕輪,ランプ,ポット,砲筒,宝石箱,鉄製槍先,ゴングなどがある。有機物の収蔵品というのは,伝統的儀礼を記した水牛の角,草葉編帽子,竹製ポット,貝殻の器,木製器,竹製籠,ゲーム用具などである。陶器には甕棺も含めて,様々な食器が収蔵されている。

中部スラウェシといっても,多くの民族集団が居住しており,古来一体的な地域として形成されてきたわけではないし,一体的な地域として認識されてきたわけでもない。ドンガラ県西部の人々は南スラウェシのブギスの人々とゴロンタロの人々とが混ざりあっている。スラウェシ東部の人々は,ゴロンタロとマナドの強い影響下にある。また,上述のように,イスラームの伝来については西スマトラとの関係が深く,その影響も,例えば結婚式の装飾形式などにみられる。織物文化の中心は,ドンガラ・コディDonggala Kodi, ワトゥサンプWatusampu, パルPalu, タウェリTawaeli ,バナワBanawa. であるが,ドンガラ県の織物には,バリ同様,ヒンドゥー時代からの伝統をみてとることができる。山岳民族の文化には南スラウェシのトラジャ族の影響があるが,衣服や住居の伝統はトラジャとは異なっている。彼らはカジュマルの樹banyan treeの皮を衣服に用いる。ブヤbuyaと呼ばれるサロン(腰巻)は,ブラウスにはヨーロッパの影響がみられる。また,彼らの住居は木造板壁,萱葺の大きな一室住居である-建築類型として,ロボLoboあるいはドゥフンガ duhunga と呼ばれる集会施設とタンビ Tambiと呼ばれる住居, ガンピリGampiriと呼ばれる米倉がある。

伝統的な音楽や舞踊についても,中部スラウェシ各地で異なる。カイリ族のワイノWainoと呼ばれる伝統的音楽は葬式で演奏される。伝統的舞踊は,宗教的な祭礼で演じられる。中でも有名なのはポソ県のパモナ族のデロDeroと呼ばれる踊りで,ドンガラ県のクラウィ族も行う。収穫期,来客歓迎,感謝祭,特定の祝日にデロが行われる。

 

図Ⅲ3⑥ 中部スラウェシ博物館の蔵書とGhazali Lemba Doni SetiawanEds(2016)ANALISIS KONTEKS PENGETAHUAN TRADISIONAL DAN EKSPRESI BUDAYA TRADISIONAL (PTEBT) SULAWESI TENGAH”カヴァー

伝統的な食,料理についても地域差はあるが,自然の恵みに大きく規定されることから,典型的な料理には一定の特徴がある。主食は米であるが,補完的に様々な塊茎が食され,スパイシーな味と酸味で知られる。最も一般的な果物はマンゴーで,他にパパイヤ,マンゴー,バナナ,グアバが食される。中部スラウェシで最も有名な料理は,ドンガラ県の伝統的な牛のスープ,カレドKaledoである。また,パルのサゴヤシ料理カプルンKapurungも著名である。パルには,魚とエビのコーンスープ,ミル・シラム Milu Siramまたはビンテ・ビルフッタBinte biluhutaもある。

中部スラウェシのカイリ族,クラウィ族,ロレ族,パモナ族,モリ族,ブンク族,サルアン (あるいはロイナン)族,ママサ族,タア族,バランタック族,バレエ族,バンガイ族,ブオル族,トリトリ族,ダンパル族,ドンド族,ペンダウ族,トミニ族,ダンペラス族,ダアア族など先住民の伝統文化については,教育文化省文化総局から『コンテクスト分析 中部スラウェシの地域に基づく伝統的な知識と伝統的な文化の表現ANALISIS KONTEKS PENGETAHUAN TRADISIONAL DAN EKSPRESI BUDAYA TRADISIONAL (PTEBT) SULAWESI TENGAH(Ghazali Lemba Doni SetiawanEds(2016))が出版されている(図Ⅲ3⑥)。執筆に当たったのはタドラコTadulako大学の人類学のスタッフを中心とするチーム(Sulaiman Mamar Rosmawaty Hendra M. Junaidi Hasan Muhamad M. Nasrun)である。

序章を含めて以下の全16章からなる。Ⅰ.序,Ⅱ.伝統儀礼,Ⅲ.民話,Ⅳ.伝統的遊び,Ⅴ.ことわざ,Ⅵ.伝統的治療,Ⅶ.伝統食物・飲料,Ⅷ.伝統武器,Ⅸ.伝統機器,Ⅹ.伝統建築,ⅩⅠ.伝統衣服,ⅩⅡ.伝統織物,ⅩⅢ.社会組織,ⅩⅣ.芸術,ⅩⅤ.伝統的知識,ⅩⅥ.地域の知恵(ローカル・ナレッジ,ローカル・ウィズダム)。

伝統儀礼(Ⅱ)では,民族毎に,バトゥイ族,モリ族,カイリ族の儀礼が扱われている。そして伝統的葬送儀礼一般が扱われている。伝統的知識(ⅩⅤ)で扱われるのは,1.天文学,2.漁師の自然知識,3.森林と土地環境の利用,4.農業知識,5.水田耕作に関する知識である。地域の知恵(ⅩⅥ)では,森の神話・パル渓谷,水田耕作の儀礼と慣習,クラウィ族の意思決定と問題解決の慣習的メカニズム(Molibu),シギ県リンドゥ人の環境と社会の知恵(Ombo),ドンガラ,パル,シギ,パリギ・モウトンのカイリ族の社会規範である。

     

トンプTompu人の住居sou  米蔵gampiri      釜屋kalampa   露台barunju

   

図Ⅲ3⑦ 中部スラウェシ山間部の伝統住居

Ghazali Lemba Doni SetiawanEds(2016)ANALISIS KONTEKS PENGETAHUAN TRADISIONAL DAN EKSPRESI BUDAYA TRADISIONAL (PTEBT) SULAWESI TENGAH

伝統建築については,南スラウェシのトラジャ族のように際立った住居形式は見られない。専ら,文献をもとに,シギ県山岳部のトンプTompu人の住居sou,米蔵gampiri,釜屋kalampa,露台barunju,そして,集会所ロボloboを紹介している(図Ⅲ3)。

 

4.パル市の文化遺産

 パル市では,教育文化局において,法令(2010年法令No.11)に基づいて,文化財のリストアップ作業が行われてきた。そのリストは,有形文化財230件(内建造物7件),無形文化財240件,人材53人,伝統的コミュニティ101件である(表Ⅲ4①)。

しかし,問題は,そのリストをもとに文化財を指定する委員会が組織できておらず,リストアップにとどまっていることである。文化財指定は,教育文化省の研修を受けて試験に合格した判定官,市レヴェルでは5名か7名,州レヴェルでは9名か11名で,組織される文化財委員会によって行われる仕組があるが,委員会が成立していないという。教育文化省の文化保護局によれば,全国でも,この委員会が置かれているは州レヴェルで15,市県レヴェルで59にとどまる状況である。

表Ⅲ4① 有形文化財リストの一部

 パル市は,文化財の活用については極めて意欲的であり,震災直前に『パル市の文化遺産と史跡の活性化に関する報告書 LAPORAN PENELITIAN KAJIAN REVITALISASI CAGAR BUDAYA DAN SITUS BERSEJARAH KOTA PALU』(文化観光局DINAS KEBUDAYAAN DAN PARIWISATA)という調査報告書を2017年に公刊している(図Ⅲ4①)。その目次は以下のようであるが,文化遺産の単なる保護ではなく,その活用,開発をめざすという,その目的,視点はしっかりしている。

 最初に,パル市の文化遺産と史跡の活性化に関する調査研究の背景として,11945年インドネシア共和国憲法第32条第1項「国家は,その文化的価値の維持と発展におけるコミュニティの自由を保証することにより,世界文明の中でインドネシア国民文化を促進する」,2)文化遺産オブジェクト(BCBBenda Cagar Budaya)に関する法律1992No.53)法律1992No.5の施行に関する199310月政府規制 ,4)文化遺産に関する法律2010No.115)パル市政府のビジョンとミッション2016-2021を法的根拠としてあげ,「かつては活気があり,生きていたが,その後は後退/劣化した地域または地域の一部を活性化する」ことをめざすとする。そして,地域の活性化プロセスには,身体的側面,経済的側面,社会的側面の改善が含まれるとし,再生のアプローチは,環境の可能性(歴史,意味,場所の独自性,場所のイメージ)を認識して利用する必要があるとする。保護は文化遺産の保存システムで最も重要な要素であるが,文化遺産の保護のみを目的とするのではなく,利用,開発の要素を取り込むことをうたう。具体的に県としているのは,1)文化遺産と史跡の再

図Ⅲ4① 『パル市の文化遺産と史跡の活性化に関する報告書』

第1章     はじめに (1.1背景. 1.2法的根拠 1.3権限1.4調査対象 1.5調査目的 1.6調査過程 1.7調査意義 1.8調査方法)

第2章     文献レビュー(2.1社会と文化 2.2文化 2.3地域の文化と知恵  2.4地域の知恵の形)

第3章     文化遺産と史跡の再活性化(3.1 パル市の簡単な歴史 3.2パル市の地域区分 3.3 Pue Njidiの概要 3.3 English Pueの概要 3.4 Pue Mpasuの概要 3.5MantikulorePue Mpoluku)の概要 3.6 Tondate Dayo AliasTuvunjagu / Jaguri Sampilaiの概要 3.7 Lasatande Dunia (Baligau)の概要 3.8 Raja Meili (Mangge Risa)の概要 3.9 Daesalemba (Madika Bakatolu)の概要 3.10 Pue Bulangisiの概要)

第4章     史跡およびインフラストラクチャーの再活性化(4.1一般 4.2 墓地施設とインフラストラクチャーの現状)

5章 おわりに(5.1結論, 5.2勧告)

マッピング,2)文化遺産と史跡の面積の分析,3)文化遺産および史跡の社会への社会化/普及のパターン,4)文化遺産と史跡の保存/維持戦略,5)文化遺産と史跡の促進のための戦略である。

興味深いのは,地域の文化と知恵に大きな焦点を当てていることである。それには,中部スラウェシ州ではコミュニティの慣習法(アダット)と伝統的な権利がまだ生きており,法律に違反していない限り,それらを認めてきている背景がある。パル市のなかには,カイリ族のレドKaili Ledo慣習法地区が25クルラハンkelurahan,rai,ライKaili Rai慣習法地区が8クルラハン,タラKaili Tara慣習法地区が7クルラハン,アドKaili Ado慣習法地区が4クルラハン,ウンデKaili Unde慣習法地区が2クルラハン存在している(第33.2)。

伝統的コミュニティの慣習法に関わる文化遺産については,別に調査が行われ,リストが作成されている(表Ⅲ4②)。

『パル市の文化遺産と史跡の活性化に関する報告書』が焦点を当て,提言するのは,史跡としての墓地の活用についてである。文化観光を奨励するために,その建設および改善,すなわち,墓門,墓の中核,巡礼室,待合室,ペトラサン施設(KM / WC),ムショラ室,警備室,エリア駐車場,露天商エリア,水と照明/電気設備,墓へのアクセス道路などを具体的に提言している(第5章)。パル市には,史跡として重要な墓地Makamが8ヵ所あり(図Ⅲ4②),それぞれの地区の特徴が分析され(第3章),再活性化の方策が提言されるのである(第4章)。

図Ⅲ4② パル市の墓地史跡

そのうちのひとつパル湾の西沿岸に位置したプエ・パス墓地は,今回の地震津波によって海中に没する被害を受け,その復旧再生が課題となっている。


 

表Ⅲ4② パル市に存在するカイリ族コミュニティ(文化遺産)の慣習 一部

1は,カイリ族古来の治療儀礼


 

 Ⅳ 文化遺産と地域再生,そして災害復興支援(国際協力)

 

1.中部スラウェシ地震と文化遺産                          布野修司

 

巨石文化と洞窟画―人類の起源と中部スラウェシ

40年もインドネシアを歩いてきたのだけれど,スラウェシは初めてであった。パルに着いて,最初に訪れた中部スラウェシ州立博物館のキュレーター・イクサムIKSAM氏に聞いたのは,専ら,パル市,中部スラウェシの歴史である。トラジャ族あるいはマカッサル(ウジュン・パンダン)については多少知るところはあったけれど,パルを訪れるにあたって,その歴史についてはほとんど予備知識がなかったのである。事前に興味を持ったのは,同行予定であった佐藤浩司(元国立民俗博物館)の,中央スラウェシには「巨石文化」が残っていますよ,という一言であった。また,スラウェシとカリマンタンの間,バリ島とロンボク島の間にウォーレス線が走っており,その東西で動植物の生態区(東洋区とオーストラリア区)が異なっているという事実であった。中部スラウェシ州立博物館に着くと,屋外展示場にいくつも石柱が展示されているではないか(図Ⅲ3⑤ 中部スラウェシ博物館の巨石像)。イクサム氏への質問は,地域の起源についての理解のためである。中央スラウェシの歴史(Ⅲ2)については,イクサム氏の説明をもとにまとめたものである。

 4万年前に遡る洞窟画の存在もある。出アフリカ(12万年~7万年前)を果たしたホモ・サピエンスがオーストラリア大陸へ到達するのが4.5万年前,K字形をしたスラウェシは,スンダランドとオーストラリア区を分ける位置にある。言語学的には台湾が原郷とされているオーストロネシア語族がポソ湖から四周に広がっていったという説がある,というイクサム氏の話に否応なく引き込まれることになった。人類が100kmを海を渡る技術をみにつけたのは,インドネシアにおいてであり,ホモ・サピエンスが台湾に到達するのは約3万年前である。オーストロネシア語族がスラウェシから拡散していったという説も決して荒唐無稽ではない。

 そして,今回の中部スラウェシ地震による世界に類例のない液状化地滑りは,人類史をはるかに超える地球の鼓動を思い起こさせてくれた。調査に同行して頂いた古市久士さんの地球の成り立ちにまでさかのぼる解説は,この地域の重要性を思い知らせてくれた。

 すなわち,中央スラウェシは,人類史の上で注目すべき地域である,というのが現地を訪れて最初に得た印象である。インドネシア政府は,観光開発のためにも,南スラウェシの洞窟画を含めて世界文化遺産への登録に意欲的であるというが,大いに期待できると思う。

     

図Ⅳ1① パル市の地殻・地表の運動 古市久士提供 断層,集水域などが細かく記入されている

 


 

 

①中部スラウェシ地震の復興計画とその課題

中部スラウェシ地震の概要(Ⅰ),復興計画と復興状況(Ⅱ)については上述のとおりである。今回の調査は,地震復興を直接担当する国家開発企画庁BAPPENAS,地方開発企画庁BAPPEDAへの直接的ヒヤリングの機会はもてず,被災者に直接話を聞く機会はほとんどもてなかったから,専ら,JICAの現地スタッフからの情報を基にしたものである。

被災自治体の人口はパル市36.8万人,ドンガラ県29.3万人,シギ県22.9万人,計約90万人である。死者2101人,行方不明者1373人という被災規模は,インド洋大津波,東日本大震災には比べるべくもないが,避難者数は221450人に及んでおり地域に与えたダメージははかりしれない。パルの町を車で走っただけの限られた見聞であるが,大きな被害を受けなかった建物はそれぞれ自力で修復され,ある程度,復旧された印象を受ける。しかし,大規模な液状化地滑りが起こった地区,津波被害を受けた沿海部などは,被災したまま放置されたままである。また,復興恒久住宅は建設が始まったばかりであり,河口の倒壊した橋梁,防潮堤の建設,病院の再建など,復興はこれからという段階にある。

復興における課題と考えられるのは以下である。

①第一に,液状化地滑り地区の将来をどうするか,その復興計画の問題がある。行方不明者の多くが土砂に巻き込まれていると考えられ,その救出が断念された経緯がある。地区のほとんどは建築禁止地区に指定されたが,その土地利用計画は未定である。メモリアル公園,墓地公園,Nalodo伝承施設などが考えられている。

②一方,建設禁止区域などを定めたゾーニングの線引きをめぐっては,従前の居住者,土地所有者との合意が必ずしもなされていない,という問題がある。復興計画の決定と合わせて,中央政府,州政府,地元自治体,そして住民との間の調整が残されている。

③インフラストラクチャーの復旧について,パル川河口の橋梁については設計が完了,入札段階にあるということであったが,防潮堤・湾岸道路の建設は計画協議中である。どのような防潮堤にするかについては議論が残されている。また,パル市環状道路の新設についても必ずしも進展していない。

④農業復興については,灌漑用水路の復旧が不可欠であるが,①の計画とも絡んで,協議が残されている。

⑤仮設住宅居住者に対する生計回復支援は急務である。JICA3ヵ所におけるモデル事業,シギ県の中小企業局の復興支援の活動は,以下の④とも絡んで極めて重要と思われる(Ⅱ2E)。課題は,このモデルをいかに拡大していくかである。

⑥仮設住宅地については,公共事業・国民住宅省PUPRによる共用施設を組み込んだ住棟モデル,バンブー・シェルターなどユニークなアプローチが見られる。インド洋大津波以降の経験が生かされていると思われるが,店舗や共同食堂など共同生活のための施設を予め設置する配慮は評価できる。被災地の近くの数多くの場所に仮設住宅を建設した点も評価できる。ただ,課題と思われるのは復興恒久住宅地への移住のマネージメントである。特に,南東郊外のポンベウェ地区1500戸の計画には周到なコミュニティ計画が必要と思われる。また,交通体系の整備も必要と思われる。

⑦建造物については,耐震基準の見直しが必要と考えられる。また,既存建物についての耐震補強も必要と考えられる。

 

②震災復興と文化遺産

被災地における文化遺産についてはⅢにまとめた通りであるが,第一に,文化財について必ずしもオーソライズされたかたちにはなっておらず,また,一般的に共有されていない状況にある。また,パル市についてリストアップされた文化財の被災状況についても,詳細な調査はなされていない状況である。

第一に,

A 文化財(候補)の被災状況についての調査と文化財の現状と評価が必要とされている。パル市の教育委員会では,ワヒドHERMAN WAHID S, S.Sos氏を中心に,写真撮影やビデオ撮影が行われてきているが,組織的にアーカイブする体制は構築されていない。文化財の指定,登録,アーカイブ化については,支援要請があった。

具体的に被災した文化遺産の復旧再建は当然課題となっている。

パル市は,上述のように(Ⅲ4),文化財の活用については極めて意欲的であり,震災直前に『パル市の文化遺産と史跡の活性化に関する報告書』(文化観光局)をまとめていた。イスラーム墓地Makamを梃とする観光開発を主とする構想である。

B パル王国の王宮に隣接したマカムPue Nggariにはほとんど被害はなかったが,沿岸部のマカムPue Pasuは水没する被害を受けている。このマカムをどう復旧するかは大きな課題となっている。

文化振興の拠点としてのパル市の文化センターは大きな被害を受けた(図Ⅰ1②)。震災・津波当日(2018928日),パル市の市制施行40周年記念の式典とそれに合わせた毎年持ち回りで行われている王家の集いが行われており,多くの人が被災した。500席のオーディトリアムをもつ施設が失われたことは大きなダメージである。

C 震災復興の拠点としても,文化センターで行われてきた様々な催し,集会,展示会などを行う場所の必要性は高い。中部スラウェシ州の教育文化局で,JICA支援への期待を示唆された。中部スラウェシ州立博物館では,活動開始直前の新車であった移動巡回車が被災した。この復活再開が期待される。

文化センターの再建については,JICA支援のプロジェクトには含まれていない。沿海部の復興計画が未確定であり,同じ場所での再建については難しいことも予想されている。

D 文化財の修復については,既に,ユネスコ・ジャカルタ事務所を通じての研修支援が行われたが,日本の東京文化財研究所,奈良文化財研究所などの研究機関を通じた支援は当然考えられる。

今次の調査において,各所で聞いたのは,地震津波の予兆,言い伝え,伝承の存在である。上述のように(Ⅰ2),被災地域は,20世紀に入ってからも,1907年,1909年,1938年,1939年,1968年,1996年そして2018年にナロドNalodoに見舞われている。「晴れた日が何日か続いて,風がやんだ時にナロドが起こる」といった伝承や古来からの伝統に則った儀礼を簡易化したのが問題であるといった噂話が広く人口に膾炙しているという。伝統的なコミュニティにおけるアダット(慣習法)は,無形遺産としてリストアップされている(Ⅲ4,伝統的コミュニティ101件)。「地域の知恵local wisdom」への関心は極めて高いという印象を受けた。

すなわち,復興の前提として,

E ハザードマップの上に,有形・無形の文化遺産をプロットする作業が大きい。これについては,東日本大震災を経験した日本との経験交流は大きな役割を果たす可能性がある。こうした作業は,あらゆる地域で,特に災害が予想される地域で事前に行われる必要がある。

ユネスコと世界銀行は,ポジション・ペーパー「CURE都市再建と回復における文化CUlture in City REconstruction and Recovery」(UNESCO+The World Bank, 2019)のフレームワークとして4段階の第1段階(Phse 1)にあげるが,損害と需要の評価そして展望の段階である。そのコンポーネントとして挙げられるのは,1.1有形文化遺産,1.2無形文化遺産,1.3創造文化産業,1.4文化観光,1.5歴史的住宅ストックと土地資産,1.6データ収集と分析,1.7資産マッピング,1.8権利者マッピング,1.9ヴィジョン開発である。1.3創造文化産業,1.5歴史的住宅ストックと土地資産については,調査に基づく作業が残されている。これについては,共同の調査研究の展開による支援が考えられる。

ユネスコ・ジャカルタ事務所では,中部ジャワ地震を経験した中部ジャワでそうした作業を現在行っていると聞いたが,中部スラウェシでも,今回の経験を継承していく上でも同様の作業が必要とされている。

 

③震災遺構と記憶の継承

 震災津波,液状化地滑りの記録とその経験記憶の継承については,いくつかの構想がある。

 ひとつは,

 

図Ⅳ1② タドゥラコ大学 人類学博物館オーディトリアム構想

F タドゥラコ大学人類学部および建築学部による人類学博物館オーディトリアム構想である(図Ⅳ1②)。上述のように(Ⅲ3),コンテクスト分析 中部スラウェシの地域に基づく伝統的な知識と伝統的な文化の表現ANALISIS KONTEKS PENGETAHUAN TRADISIONAL DAN EKSPRESI BUDAYA TRADISIONAL (PTEBT) SULAWESI TENGAH(Ghazali Lemba Doni SetiawanEds(2016))出版の実績があり,具体的な計画案も作成されている(図Ⅳ1②)。実際の建設はインドネシア政府,大学本部で検討されるが,予算書もつくられている。そのコンテンツについては,協力支援が考えられる。文化遺産の保存活用をめぐる国際シンポジウムの開催と参加について要請を受けた。

また,

G シギ県山間部のクルラハン・クラウィでは,地域復興の拠点計画の一環として,被災した小学校の震災ミュージアムとしての再生が計画されている。この構想は,シギ県中小企業局のポンギSamuel y. Pongi氏が気仙沼の事例を視察したことが大きなきっかけとなっており,経験交流,支援の要請を受けた。以下の④のひとつのモデル事業としての展開が期待される。

そして,

H ナロド被災地区のナロド伝承記念公園,博物館構想がある。ナロドの発生地点には,大きな段差が残されている。また,断層がずれた地点がある(Ⅰ2,図Ⅰ2⑥)。そうした,地点を保存しながら,液状化地滑りの記憶と経験を伝承していくことが考えられるが,必ずしも議論は進んでいない。

I 震災遺構として保存が考えられるのは,以上の液状化地滑りの地形そのものの他,以下のようなものが考えられる(Ⅰ1,図Ⅰ1④)。

 a 海上のモスク

b 傾いたミナレット

c 水没したイスラーム墓地

d 陸に打ち上げられた船

e

全く地域を知らない,しかも,ほんの視察にすぎないかってなリストアップであるが,海上のモスクは,観光客が訪れる場所になっている。陸に打ち上げられた船については,つい最近まで何艘かあったけれど現在は一艘になったという。

震災以降の保存をめぐる議論は,一部でなされているけれど,復興計画に位置付けられているかどうかは不明である。

 

④地域コミュニティと文化の継承

 災害復興の中心は,被災者の生活再建であり,地域の再生である。基本となるのは,コミュニティを主体とする復興であり,地域再生である。

 筆者は,2009930日に発生した西スマトラ地震によって大きな被害を受けた歴史的文化遺産および歴史的街区について,UNESCOおよびインドネシア政府の要請に基づいて,被害状況調査を行うとともに,歴史的建造物についての復旧および歴史的街区の復興計画のための指針および短期,中期,長期の行動計画を立案する専門家チームの一員として加わった経験がある。その報告書は,National Research Institute for Cultural Properties 2009, “Damage Assessment Report of Cultural Heritage in Padang, West Sumatra”, December 2009, Tokyoとしてまとめられているが,筆者らが担当したのは,‘Chapter 2City Planning Survey Report Towards the Reconstruction of Historic Urban Landscape in Kota Lama Padang: Recommendations and Action PlanHanding on the Urban Landscape (Historic Cultural Heritage) and Revitalizing the Community’, Shuji FUNO, Yasushi TAKEUCHI)である。

 その復興地区計画のための1.指針としたのは以下である。

 

1 コミュニティ主体の復興計画

復興を全て公的な援助に頼ることはできないし,財政の問題もあって現実的ではない。しかし,被災者が自力で復興に取り組むには限界があるし不可能である。また,こうした復興をすべて自助にゆだねることは公的責任の放棄である。ただ,国,自治体が各個人の,また各地区の事情や要求に細かく対応することができないとすれば,復興計画の主体として考えるべきはコミュニティであり,コミュニティによる共助がベースとなる。パダンのアーバン・コミュニティにはそうした相互扶助の精神と仕組みが維持されている。

2 参加による合意形成

 復興計画の立案,実施に当たっては地区住民の参加が不可欠である。計画に当たっては様々な利害調整が必要であり,地区住民の間で合意形成がなされなければ,その実効性が担保されない。コミュニティは,地区住民の参加による合意形成をはかる役割を有している。

3 スモール・スケール・プロジェクト

合意形成のためには,大規模なプロジェクトはなじまない。身近な範囲で復興,居住環境の改善をはかるためには,小規模なプロジェクトを積み重ねるほうがいい。

4 段階的アプローチ

すなわち,ステップ・バイ・ステップのアプローチが必要である。実際,被災地では,様々な形で自力で復興がなされつつある。個々の動きを段階ごとに,一定のルールの下に誘導していくことが望まれる。

5 地区の多様性の維持

地区に地区の歴史があり,また,住民の構成などに個性がある。復興計画は,地区の固有性を尊重し,多様性を許容する方法で実施されるべきである。すなわち,市全体に画一的なやり方は必ずしもなじまない。

6 街並み景観の再生:都市の歴史とその記憶の重要性

地区の固有性を維持していくために,歴史的文化遺産は可能な限り復旧,再生すべきである。阪神淡路大震災の場合,被災した建物の瓦礫を早急に廃棄したために,町の景観が全く変わってしまった地区が少なくない。都市は歴史的な時間をかけて形成されるものであり,また,住民の一生にとっても町の雰囲気や景観は貴重な共有財産である。人々の記憶を大切にする再生をめざしたい。

7 コミュニティ・アーキテクトの活用

復興地区計画のためには,コミュニティ住民の要望を聞いて,様々なアドヴァイスを行うまとめやくが必要である。既に,地元大学の教官と学生たちが現地にオフィスを開いて住宅相談にのるヴォランティア活動を行う例が見られるが,そうした人材を各地区に配置する仕組み,援助の仕方が望まれる。

 

 そして,2.行動計画の冒頭に次のように書いている。

 「以上のような指針も,具体性を欠いては意味がない。問題となるのは,予算であり,人材である。以下に,しかし,できることから一歩ずつ進めるというのが以上の指針である。以下に,パタン旧市街の復興計画についていくつかの具体的行動計画を示したい。」

ここで復興計画の主体として念頭に置くのは,パダン市など自治体とコミュニティ組織であり,中央政府の各部局がそれをサポートする体制である。それらが立案する以下の行動計画を,UNESCOなど国際機関,文化遺産国際協力コンソーシアム,JICAなど各国政府機関,NGOグループ,国際ヴォランティア・グループ,インドネシアとの大学間交流など様々なレヴェルの協力体制が支える,というのが前提となる。

西スマトラ地震から1年半,東日本大震災の発災(2011311日)後,筆者は,日本建築学会の復興部会の部会長(201113年)として,復興支援に当たった経験がある。基本方針としたのは,西スマトラ地震の際の指針と基本的に同じである(「東日本大震災復興計画 地域社会を主体とするまちづくり制度(コミュニティ・アーキテクト制)の確立」など)。この指針のさらにもとになっているのは阪神淡路大震災の経験である。

5 地区の多様性の維持,6 街並み景観の再生:都市の歴史とその記憶の重要性,7 コミュニティ・アーキテクトの活用という指針に照らすとき,JICAの支援スキーム,生計回復,コミュニティ再生の実現(Task Force 4)が基本となる。そして,シギ県の中小企業局の復興支援の活動は極めて興味深い。問題は,地域コミュニティ再生をオルガナイズし,リードしていく人材(7 コミュニティ・アーキテクトの活用)である。

西スマトラ地震の際には,パタン旧市街の復興計画について,実際に被災した街並み調査を踏まえて,住宅修復・再建技術基準・マニュアルの作成,重要歴史的建造物のモデル復元,景観形成地区の制定と建景観築ガイドラインの作成,地区の景観イメージの作成, コミュニティ・アーキテクトの活用を提案したのであるが,今回の調査は,具体的な行動計画,支援について提言するには,情報収集が不十分である。

とりあえず,言えるのは,

J 経験交流を深める中で,特に,地区の形成過程,街並み景観,文化遺産,人材などに関する調査を共同で展開することである。JICAの支援スキームのなかには,復興まちづくりについては,東日本大震災の被災自治体(釜石市,東松島市など)との経験交流が含まれている。 

具体的に提案できるのは,

K シギ県クルラハン・カラウィ(G)のような試み,クルラハン単位の生計回復,コミュニティ再生のプロジェクトを拡大していくことである。ここにはJICAヴォランティアの参加も考えられる。ユネスコ・ジャカルタ事務所では,ロンボク地震後に伝統的な織物を生業とする村の復旧復興を支援を展開するが,地域の伝統を踏まえ,その文化遺産を様々に活用していく,多様な試みが期待される。

そして,コミュニティ・アーキテクトの参加については,

L タドゥラコ大学などの学生たちの参加が考えられる。タドゥラコ大学の学生たちは,発災後の復旧に当たって,多くがヴォランタィアとして参加している。その連携関係を持続的なものとして構築していくことが考えられる。また,大学の教育研究活動の展開としては,Eの作業と並行して展開していくことが考えられる。

繰り返すことになるが,どんな指針や提言も,具体性を欠いては意味がない。問題となるのは,予算であり,人材である。

ユネスコと世界銀行のポジション・ペーパー「CURE都市再建と回復における文化CUlture in City REconstruction and Recovery」(UNESCO+The World Bank, 2019)は,第3段階(Phse 3)で,資金調達に触れている。資金源の確保,土地資源管理,地価の把握,区画整理,自治体の予算措置については,本調査ミッションを超えた問題である。


参考文献・入手資料

・荒仁(2019)「開発途上国における復興支援の取組 中部スラウェシ復興支援の現場から」PP発表資料,

日本土木学会

JICA Study Team2019, ‘Brief Explanation of “Nalodo” Assessment & Mitigation’, 9th October, 2019

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