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2021年11月26日金曜日

虚白庵の暗闇ー白井晟一と戦後建築

 虚白庵の暗闇ー白井晟一と戦後建築,『白井晟一研究』Ⅱ,南洋堂,1979年(布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー:建築の昭和』収録)

 

虚白庵の暗闇  白井晟一と戦後建築




一 方法としての白井晟一

白井晟一についてはすでに多くが語られてきたし、これからも少なからず語られ続けていくことであろう。建築家としての白井晟一の存在の仕方は今なお特異と言わねばならないし、何が白井晟一を、とりわけ建築文化の表層において特異たらしめているのか、という問いは依然としてアクティブな問いのように思われるからである。

しかし、白井晟一について語ることは必ずしも容易ではない。白井晟一とその作品をめぐる言説を支える一つの出来上がった構造(いわゆる白井神話)があり、あらゆる言説がそうした前提を免れ得ないでいるからである。白井晟一の特異性を支える構造がすでに語ろうとするものの内部に存在しているのである。極端に言えば、白井晟一については、ひたすらオマージュを捧げ完全なる帰依を表白するか、ひたすら無関心を装いつつ完全なる無視を決め込むか、そのどちらかが許されているだけのように思えるほどである。当然のごとく、後者の吐露が言説として定着されないとすれば、あらゆる言説が白井神話を増幅し、彼を神格化するヴェクトルのみをもってしまうのである。その結果、白井晟一とその作品を相対化し、それなりのコンテクストへ位置づけようとする試みの方がその説得力を欠いているようにみられてしまう。神話に拮抗するだけの言説を産み出し得ないのである。

何故、白井神話なのか。その神話作用を成立させ、それを支えるものは何か。

われわれは、一般的な神話の構造に即して、この問いに対する答えを、ひとまず、白井晟一とその作品につきまとってきたある種の謎、不可解さにおいて了解することができる。神話とは言葉であり、何よりも二次的な意味論的体系である。それ故、話すことに属することならすべてが神話でありうる。しかし、われわれが神話を必要とするのは、専ら、不可解なもの、了解不能と思われるものに対する時だからである。完結した意味の欠如であれ、その過度の充満であれーー神話が用意されるのはしばしばこのいずれかであるーー一般の了解を超えるものも、神話によってわれわれのものとすることができる。われわれは、神話によって、世界のどの物体の閉ざされた沈黙をも、豊饒な両義性の海へ誘い、その絶え間ない、意味するものと意味されるもの、言語とメタ言語の戯れの構成の果てに、不可解なものに対する現場不在証明を得ることができるのである。

白井晟一とその作品は安易な位置づけを拒否し続けている。言ってみれば、これまでの日本の建築の文脈と少しく異なった文脈を提示しているがために、われわれはそれをわかりやすくとらえる座標軸を見いだせないのである。それはデラシネであり、ノン・コンテクストであるようにみえる。唯一、白井晟一個人の生と肉体あるいは観念の運動においてのみ、その意味をとらえることが可能となるように思えるのであるが、その個自体もミスティークなヴェールに包まれるが故に、その意味を一点に集中させ、共有することができないでいるのである。それ故、またその裏返しとして、白井晟一とその作品の系譜はあらゆる意味づけを受け入れる多義的なテクストとして存在しているように一見みえる。事実、これまでの白井晟一に対する諸言説がそれを示しているはずである。時には矛盾を含んだ両義的な位置づけを許してしまうのである。あるものは、そのコスモポリタニズムを指摘し、またあるものは、その日本的なるものの一貫性を指摘する。あるものは、その精神主義を賞揚し、またあるものは、その物質の肉化をうたう。あるものは、彼にラディカルな変革者をみ、またあるものは、反動的な保守主義者をみる。あるものは、そのフォルマリズムをいい、またあるものはそのラショナリズムに思い入れる。あるものがそのマニエリズムを指摘すれば、またあるものがマニエリストとは程遠いというのである。

この両義的な現れが、そして、その両義性を媒介する白井晟一とその作品のもつある種の底のしれなさ、不可解さが白井神話の母胎である。それは例えば、磯崎新の饒舌が自ら提示する両義性の世界とは対照的な世界である。その両義性は、むしろ、位置づけを与える側にあるからである。それは、われわれの現場不在証明のために必要とされる世界なのである。

白井神話の謎を解き明かすためには、いくつかの問いが用意されなければならないであろう。確かに、こうした白井晟一とその作品をめぐる言説の構造が、白井晟一とその作品自体の両義的な特性に基礎を置き、われわれの現場不在証明のために必要とされていることは了解できる。しかし、それが今のところあらゆる位置づけを逃れているにしろ、その特異性は、さまざまな尺度において確認されなければならないからである。

例えば、日本の近代建築の歴史において、白井晟一はいかなる位置を占めてきたのか。あるいは占めているのか。われわれは、こうした問いによって、すでに、その特異性を支える単純な構図を手にしているといえるであろう。そもそも、戦後における白井晟一の発見がどのような脈絡においてなされたのか、そして、殊に、六〇年代末に、彼に一つの公認の賞が与えられて以降の白井晟一評価の眼差しが、どのような背景を含んでいたのかを想起してみればよい。それらは、単純化して言えばいずれも、近代主義批判あるいは日本の近代建築のとらえ直しの趨勢に合致しているはずである。皮相な、しかも不毛な図式と言えばいえよう。しかし、白井神話は、そうした意味づけを一次的なものとして成立してきたのである。

白井晟一が、日本の近代建築の流れ(として書かれた歴史)においてヘテロな存在であることはすでに断片的にではあれ語られてきた。それらは無論、こうした図式を内容において超えるものではない。例えば、世代的には分離派と丹下健三らの世代の間にあり、前川国男や山口文象らと同じ時代を呼吸しながら、かれらと全く異なった位相を開示するのはなぜか。神代雄一郎がむしろ彼らの世代との親近性を込めて、かつて問うたように、「多くの人が頬かむりをして戦前から戦後と連続してきた中で、」「なにか群の中の一人として出てこられたという感じでなくて、全然個人的な形で」、「戦後になって出てこられた」のはなぜか。ヨーロッパ体験にしても、堀口捨己、吉田五十八、谷口吉郎らの日本の当時の建築家の一般的パターンと少なくとも一見異なったパターンを示すようにみえるのはなぜなのか。何人かの建築家との距離を尺度とする白井晟一の位置の測定は、こうして、それぞれに白井晟一の特異性を明らかにするようにみえるのである。そこでは、日本のコンテクストにおいて、白井晟一はかつてない型の建築家なのである。いきおい、その特殊性は、建築家としてのその出自や経歴の特殊性に求められ、説明され、アウトサイダーとしての、特殊なケースとしての位置が与えられるのである。すなわち、白井晟一を日本の近代建築の流れに、相対化して位置づけようとする試みは失敗し続けているのだ。それ故、われわれはひとまず、単純な図式を採用することによって、それを丸ごととらえようとするのである。

白井晟一は、同時代の建築ないし建築家が担う課題を必ずしもストレートに内面化してこなかったようにみえる。それ故、われわれが近代建築の史的展開をとらえるいくつかの基本的な軸をすり抜けていくのだともいえる。職能の問題にしろ、技術の問題にしろ、民衆や伝統の問題にしろ、また西洋や日本、あるいはアジアの問題にしろ、彼は独自の視角と平面においてとらえてきたのである。白井晟一は、時代なり状況とのかかわりを、決定的な一線において欠いてきたといいうるかもしれない。もちろん、彼とその作品が状況的でなかったというのではい。むしろ逆である。五〇年代の白井晟一の発言に、明らかに状況的なものを見いだすことはたやすいはずである。しかし、私には、五〇年代の状況への発言を含めて、とりわけ、現在の白井の沈黙と状況のかかわりが示すように、白井は、時代なり状況との直接的な交差を決定的な一線において欠くことにおいて、逆説的に状況的であり得たように思えるのである。そうした意味では、横山正のいうように、白井晟一は徹頭徹尾、観念の建築家であったし、あり続けているといえるかもしれない。「凍結した時間のさなかに裸形の観念とむかいあいながら、一瞬の選択に全存在を賭けることによって組み立てられた<晟一好み>の成立と現代建築の中でのマニエリスト的発想の意味」を、親和銀行本店にみてとったのは磯崎新である。<裸形の観念>そして<凍結した時間>ーーそれは何よりも白井晟一にふさわしいかもしれないのである。

白井神話とは何か。その神話作用の意味するものは何か。

私は、いまのところ、白井晟一自身とその作品自体には興味がない。正直に言えば、これまで語られてきたいくつかの興味深い論考のほかに付け加えるものを持たないからである。また私的な断片的なレクチュールを繰り返していることでとりあえず満足できるからである。必要なら、あえて、詩のみが物自体をとらえ、神話に拮抗し得るのだと居直ってもよい。むしろ、関心は白井神話そのものにある。もちろん、それをめぐる問いのほとんどについては留保しなければならない。しかし、少なくとも、それはより私自身の位相にかかわっていると言わねばならないからである。それは、われわれの眼差しの問題であり、何よりもわれわれの現場不在証明の問題である。白井晟一を何らかの形で、日本の近代建築の流れの中に位置づけようとする眼差しが、逆にその特異性を確認することにのみ終始するとすれば、われわれの眼差し自体が問われざるを得ないからである。

白井晟一と白井神話をめぐる分離が究極的に成立するとは思えない。白井晟一とその作品自体について語ることと、それについて語られたことについて語ることの差異は、語る主体の内部でも微妙に交錯するはずである。その故、前提としての分離は方法的なものといってよい。すなわち、白井晟一とその作品へ向かうのではなく、むしろ、白井晟一とその作品をあたかも鏡として写し出されるものへ向かうのである。それが白井晟一論たり得るかどうかはわからない。おそらく、そうなり得ないであろう。しかし、それは白井神話とその成立にかかわり、それを支えるものを明らかにすることにおいて、逆に白井晟一の位置をも明らかにするはずなのである。もちろん、白井晟一とその作品への直接的な作業が、おそらく、かつてない密度とアプローチでなされなければ、その作業は完結し得ないと言えよう。それが直接的にその神話を解体しようとするものであれば、私の興味は、神話の意味作用を解読し、神話を神話化することにあるのである。

白井晟一をあたかも鏡として写し出されるものは、言うまでもなく、白井神話を支える日本の建築文化のコンテクストである。そして、白井晟一はある意味では、戦後一貫してそうした役割を担ってきたのではなっかたか。白井晟一についての言説自体が既に歴史性をもっており、その歴史自体が、言ってみれば戦後の日本建築に対する切断面を提示するのではないか。

白井晟一を一つの鏡とする歴史のレクチュール、白井晟一とその作品について書かれた膨大な言葉をテキストにしながら、日本の戦後建築の展開を、とりわけその出自の様相をとらえ返してみること、それがここでの私のささやかな関心である。

 

二 戦後建築のゼロ地点

建築ジャーナリズムという建築文化の表層の流れにおいては、白井晟一は、明らかに、戦後にはじめて建築家としての出発を遂げたといいうるだろう。もちろん、戦中、すでに『建築世界』や『建築知識』に、河村邸を発表しており、嶋中邸、清沢山荘、のような習作としての作品や歓帰荘によって彼は建築家としての出発を果たしていたといえる。三十路を超えて、はじめて本格的に建築を学んだという晩学の白井にしても、一九三〇年代の後半には既に、建築家として生きるしたたかな覚悟は自覚されていたはずである。戸坂潤と親交をもっていた彼が、その獄死を強いた時代の重さの中で揺れながら、必ずしも建築家としての将来を見いだし得ていなかったにしろ、その建築家としての出自の母胎が、戦前、戦中の時に求められねばならないことは言うまでもないことである。私が最も興味をもつのは、むしろ、この時期の白井晟一である。川添登や長谷川堯が触れつつあるのであるが、白井の戦後の位相をとらえる上で、この時期の重要性は否定し難いし、白井神話のヴェールにつつまれる以前の白井を見いだしうるという意味でも極めて魅力的なのである。しかし、例えば、同時期にヨーロッパに渡り、ヤスパースの講義を席を並べて聞いたのだという山口文象が既に、昭和の初頭から華々しい活躍をしていたのに比して、また、まさに戦後建築を一身に体現することになった丹下健三が、すでに、三〇年代後半から,コンペを総なめにすることによって華麗なデビューを飾っていたのに比して、ジャーナリズムの白井晟一の発見が、明らかに戦後、それも五〇年代、伝統論華やかなりし過程であったという意味で、白井は戦後にはじめて出発した作家といいうるのである。

なぜ、白井晟一は戦後的な作家として出発したのか。ジャーナリズムの白井晟一の発見というドラマティックな事件はいかにして起こり得たのか。

こうした問いに正確に答えるためには、おそらく戦後建築のゼロ地点に立ち返ってみなければならないであろう。今、われわれに明らかなのは白井晟一とその作品を、戦後の建築家あるいは戦後建築の範疇においてとらえることには無理があるということである。いわゆる戦後建築なるものが規定されなければ、こうした言い方は無意味なのであるが、白井晟一が今のところあらゆる位置づけをすり抜けているという意味において、ひとまずそういってもよいはずである。しかし、白井の登場は戦後的であり得た。もしそうだとすれば、こうした問いによって明らかにされるのは、むしろ、今日の白井神話の母胎となった戦後まもなくの、とりわけ五〇年代の日本建築の有り様であるはずなのである。

一九四〇年代は、日本の近代建築にとって空白の一〇年であった。それは単純に、前半の五年が太平洋戦争によって、後半の五年が戦災復興の準備期として、大半の建築活動が停滞していたからであり、新興建築家連盟の崩壊から建築新体制へという直線的過程として位置づけられる一九三〇年代において、一応の定着をみていた近代建築の理念が一瞬、白紙還元されたようにみえるからであり、またさらに、その問の建築および建築家の問題が必ずしも明らかにされていないからである。この空白の一〇年。建築の一九三〇年代と五〇年代の間にぽっかり口をあけた歴史の裂け目。われわれは、そこに多くの問題が潜んでいることを知っている。戦前・戦後の連続・非連続。戦争責任。転向。それは、建築において最も象徴的には、忠霊塔(一九四〇)、大東亜建設記念営造物(一九四二)、バンコック日本文化会館(一九四三)と続いたコンペに示された、日本建築あるいは大東亜建築の様式をめぐる問題として議論されてきた。いわゆる帝冠様式を、長谷川尭は、近代合理主義建築運動が、後発工業資本主義国において展開する時に、ある歴史生理的必然性から生ずるいわば正常な排泄物に近いものであるという。彼が「『昭和』の中央を汚す傷のようにかなりの数の歴史様式の建築と、さらにはあのファシズムの横行に付随したいわゆる帝冠様式が、分断している」にもかかわらず、「昭和建築」というカテゴリーを提出するのはそうした視点からであった。彼が、戦後建築の展開を戦前に準備され成立してきた近代合理主義の建築=昭和建築としてネガティブにくくり、「大正建築」をすくい取ろうとしてきたことはよく知られていよう。また、それを、丹下健三に即して、例えば大東亜記念営造物コンペ案と広島平和記念会館との間の連続・非連続の問題として執拗に追及する構えをみせたのは中真己や宮内嘉久らであった。磯崎新は、また『建築の一九三〇年代』において、この空白の一〇年にかかわる問いを提出しようとしていたはずである。モダニズムとリアリズムの問題、実証主義の問題、建築生産の合理化、建築の統制、植民都市あるいは大陸での実験、国民住居論、……さまざまなプロブレマティークがそこにはあるのである。

しかし、ここでは戦後建築のゼロ地点に的を絞ろう。まず、この空白の一〇年の中間点、一九四五年八月一五日からしばらくを戦後建築のゼロ地点としよう。そして、その束の間において、日本の建築家たちの内に最もヴィヴィットにイメージされていた建築を、ありうるべきであった戦後建築としよう。白井晟一の戦前・戦中については別稿が用意されなければならない。また、ありうるべきはずであった戦後建築というような指標がたてられるかどうかは必ずしも定かではない。しかし、べったり連なった日本の近代建築の負性をいきなり対象化する一歩手前で、そこにこだわってみる意味はありそうである。方法としての「戦後建築」。戦後建築もまた最低の鞍部で越えてはならないのである。方法としての白井晟一も、少なからず、そうした意識に支えられた歴史のレクチュールにかかわるはずである。

終戦がどのようにむかえられたのかは、戦後まもなく発刊ないし復刊された諸雑誌に現れた活字の端々や、次々に結成された諸団体のスローガンにうかがうことができる。

「君は健在か、僕も健在であり得た。これからのニッポンは引き続き多難な途を歩まねばならないであろう。僕達青年の使命はこれからこそ果されなければならないのだ。逞しく生き抜こう。人類の理想の大旗の下にたたかい抜こう。一九四五年八月一五日 K/これは別府の友人K君から終戦後僕に与えられた初めての便りであった、と共に日本の青年達みんなに贈られて良い言葉だと思う。想へば随分長い苦しい嫌な戦争であった。大日本帝国はとうとうアメリカやイギリスに完全に敗けた。それは紛れもない厳しい現実である。……」

小坂秀雄の「敗戦から都市再建へ」*1は、ある平均的な終戦時の心情を伝えている。そこには、国は敗れたが、軍国主義の敗北によって平和と自由への勝利を勝ち得たのだという底抜けの解放感と思想上の一八〇度回転は兵隊の回れ右ほどたやすい業ではないという内面的苦悩が混在している。そして、そうした心情の揺れと、人類の理想の大旗の下に戦い抜こうという決意の前に廃墟があった。都市再建がそうした心をとらえるのはごく自然なことであった。

建築界の指導的な立場にあった部分の反応はもう少し屈折する。岸田日出刀の講義の様がわりについては、宮内嘉久が建築アカデミー幻想に対する最初の冷水として触れているのであるが、「建築時感」*2において、岸田日出刀は「講義というひとつの小さな問題」について、「しにくくてしようがなかった講義の面目を一新して、ここ数年間の割り切れぬ気持ちを清算して、また昔のように建築を芸術として力強く説くことができるようになったことを限りなく嬉しいと思い、ホッと」しながら次のようにいう。

「戦争は建築を単なる戦争のための道具に堕落させてしまった。……日本の建築家がその知能のあらん限りをつくしてその戦争遂行に協力したことは事実であり、またその効果があまりパッとしたものではなかったことも確かであるが、戦時平時を問はず建築は社会と共に生き社会と共に死ぬといふ厳とした事実は、『太平洋戦争と日本の建築』といふ一事象だけからしても、はっきりと実證されたわけである。『建築を作るのは、単なる建築家の頭や腕では決してなく、建築を作るものそれは大きく社会そのものである』ことの正さが今更にはっきりと認識された。社会を離れて建築は存在しないことを識り、建築の社会性というふやうなことを強く考えさせられる」。

随分、したたかな、内に省みることのない総括である。しかし、こうした認識は根底的なレベルで受け止められる限りにおいて、極めて正当なものであったといえるであろう。今にして振りかえればそうした圧倒的な現実認識こそ唯一の戦後の出発を与えたはずなのである。岸田は続いて、モリスの社会改造運動の妥当さ、自然さについて顧みながら、そうした脈絡において「建築は造形芸術である」という透徹した理解の必要性について述べている。そして最後にポツリというのである。

「かうした根本的な改革も、いづれは必ず行はれる機運に向ふと思ふが、それの具体化は想像以上におくれるのではあるまいか。かうした改革の必要そのものについてもいろいろの論議が出て収拾がつかず、結局事ナカレ主義から旧状維持といふやうなことになったら、日本の建築はいつまでもウダツが上らず、わが国に建築芸術の華が咲くといふ日は永久に訪れないかもしれない」。

こうした危惧がどれだけ広範に存在していたのか知らない。しかし、いずれにせよ、終戦という時間の闇において幻視されたものは、戦後復興が遅々として進まぬ中で、後ろ向きの反省、批判が前向きの展望へ、使命感へすり変わるとともに、やがて危機感に裏打ちされていくのである。

建築家が終戦を機に一斉に主題化したのは、住宅問題であり、都市計画であり、建築生産の近代化であった。とりわけ計画化が、極めて新鮮な言葉としてイメージされていたことは、MIDおよび日本建築文化連盟の機関誌がいずれも、それぞれ『PLAN』、『計画Planning』と名付けられていたことからもうかがうことができるはずである。そうした主題は驚くほど口をそろえて語られていた。課題は明確に共有されていたのである。丹下健三は、都市の封建的土地支配の問題と建設工業の封建的機構の問題を正確に押さえながら、平和的民主革命と経済均衡の回復を大課題とする、建設の計画化、建設技術者の主体性の確立を主張していたし(「建設をめぐる諸問題」『建築雑誌』一九四八年)、西山夘三は、戦前・戦中の蓄積を踏まえて、住宅建設と都市の復興についていち早く指針を提出し得ていた。『新建築』の復刊第一号が西山夘三の「新日本の住宅建設」の特集で始められ、以後、彼を軸とした住宅建設、都市計画に関する一連のキャンペーンを続けたことはよく知られていよう。またそれなりに限界にあったにせよ、エスタブリッシュされた建築家として最も果敢にファシズムと闘ったと目される前川國男は、「単一人類の実現へと向ふ世界歴史の必然からしてここに言語につくし難い困難な時に恐らく前代未聞の「近代」を辿らねばならない我々の同胞の運命を思う時、我々の近代建築の果さねばならない責務の大きさを思はずにはいられない」(『PLAN 1』)と家庭日用生活器具の設計から都市計画、農村計画、国土計画、さらに政治経済のあらゆる人間的形成の基本的原理としての意味を近代建築精神一般にみていたのであるが、そのもとで、MIDグループは組立住宅プレモスを提出することによって実践の一歩を踏み出していたのである。

戦後まもなくの建築家のこうした意識を最も広範に組織し、それに方向性を与え、大きな影響力をおよぼしたのは浜口隆一であり、その「ヒューマニズムの建築」であった。もちろん、NAUの大同団結があり、その「ヒューマニズムの建築」を契機とする近代建築の概念規定をめぐる議論も含めて、当時の建築家の位相をNAUこそが示していたといい得る。しかし、NAUがむしろすでに、危機意識に媒介されており、やがてあえなく崩壊のうきめをみたのに比して、イデオローグとしての浜口は、戦後建築の幻想を精一杯に飛翔させたといいうるのである。その機能主義とヒューマニズムを無媒介的に結びつける近代建築の理念あるいは概念規定は、磯崎新がいみじくも指摘するように、モダニズムがうみ出した諸思考をリアリズムへとつなぐ視点をみせかけた「日本国民建築様式の問題」(『新建築』一九四四年一月)に示された彼の日本建築のパースペクティブを一度断ちきることにおいて提出されたものであった。そこに、つまづきの石をみるのは今ではたやすい。彼は、確かにモダニズムとリアリズムの位置をとりちがえてしまった。それはバラ色の、幸福な束の間の夢であったことは疑いないのである。しかし、それは、現在、われわれの想像を超えた迫力をもっていたといいうるであろう。浜口は、日本近代建築の明日への展望を、近代建築の理想像の実現(1 人民のものであろうとすること、2 機能主義によって制作すること、3 高度の技術水準をもつこと、4 美しい作品、国際的なスタイルであること)を、底抜けに語りながらも、具体的には、(一)住宅、(A)最小限住宅、(B)住宅の工業的生産、(二)公共建築のそれぞれについて指針を提出し得ていたのである。その具体的な課題は、明快な展望として共有化されていたといってもいいはずである。そして、乱暴に言えばそれは、われわれが「五期会」世代と呼ぶ、戦後まもなく活動を始める世代のある部分によって最も無垢な形で、少なくとも五〇年代を通じて意識され続けたといってもいいのである。

この、戦後まもなくの間に幻視されていたものを、モダニズムの名において一蹴すること、それは既に一般の視座である。ありうるべき戦後建築も、所詮、西欧の近代建築を範型とする理念でしかなかったといえる。しかし、すかさずモダニズム批判が起こったように(もちろん、それは近代主義とマルクス主義といった対立図式を超えるものではなかったのだが)、問われていたのは、具体的な課題に対する具体的な実践であり、日本のコンテクストにおけるリアリティにほかならかった。あくまでも、前代未聞の近代であり、誰しもその困難性は認めていたのである。それは、ここでのささやかな脈絡においても確認できるであろう。その困難性をいかに深く認識し、それを具体的な実践によって解いていくか、それこそが戦後建築の、そして日本建築のアポリアであった。

白井晟一は、おそらくそれに根底のレベルにおいてかかわることにおいて見いだされたといえるのである。

 

三 伝統・民衆・創造

白井晟一が、戦後はじめて建築ジャーナリズムにその一歩を記したのは「秋の宮村役場」においてである(『新建築』一九五二年一二月)。いまでは、戦後まもなくの「三里塚農場計画」、「光音劇場計画」についてもわれわれの知るところである。そして、その二つのプロジェクトに、「軒の出の大きい収納庫と、軒の出が全くない車庫と、対照的なタイプになっていることで、その後、白井晟一独特の作風をつくりあげた木造建築の二つの型」(川添登「北国の空間」)を見いだすと同時に、「<新しき村>を想起させる」白井の社会的理想(小能林宏城)に、まさに戦後建築のゼロ地点において幻視されていたもの、そこからのプロジェクションをみることができる。しかし、少なくとも五〇年代を通じて、それらは、戦前のいくつかの作品と同様、一般にはほとんど知られることはなかったといっていい。この「秋の宮村役場」において、白井晟一のささやかな、そして具体的な実践に光が注がれる糸口が与えられたのである。

「秋の宮村役場」、「雄勝町役場」、「松井田町役場」の三つの公共建築、秋田や群馬における、地方での仕事、試作小住宅を含むいくつかの小住宅などの白井晟一の五〇年代前半の作品は、その後の白井晟一の作品の系譜に照らしても。また、当時の他の建築家の活動の状況からみても、驚くべき量と密度を示していたといえる。われわれは、そこに彼のいわゆる、精一杯のソーシャリズムの時代をみる。彼もまた、その時代を確実に呼吸していたのである。戦後建築のゼロ地点において幻想されていたもの、それは明らかに彼をも突き動かしていた。「秋の宮村役場」について「秋田の文化団体に招かれたのが機縁となり、若し自分の仕事を通じてこの地方の人々に明るい冬を過させ最少の熱燃料であたたかに仕事をしてもらへることが出来るとすれば都会のおおきな規模の建物をつくるために働くよりはるかにたのしいことに違ひないと思ふようになった」と彼はいう。また「雪深い秋田にもやがてはその風土自然に導かれるように民衆のためにほのぼのとした多くの建物があらはれねばならぬ。渺たる一寒村の役場にすぎないこの小作品が、この地方の人々にとってささやかな道標ともなり得るならば望外のよろこびである」という。その短いコメントに、われわれは、彼をつき動かしていたものをみるのである。

白井晟一のジャーナリズムへの登場が衝撃的であり得たのは、後の伝統論の文脈における評価、いってみればその作品あるいは造型の特質にかかわる以前に、その具体的実践の重さの衝撃そのものであった、と私は思う。池辺陽は、前川國男の紀伊国屋書店の批判において、その前川國男の建築家としての道を「第三の道」として、困難であるが追求されねばならないとしていた(「現代建築家のえらぶ道」『NAUM 1』)。また、高山英華は、「いわゆる平和的民主革命が突如としてわがくににもたらされた結果、建築界においても民主化の問題は多少流行的にとりあげられたとみるべき点がある」、また「そこでは、主として抽象的一般的なかたちで急進的な民主化が説かれ近代化が叫ばれたのであったが、このような傾向に対しても、最近やや一転機をもたらしつつあるように感じられるのである」と既に言いながら、「地道な建築の実践を通じながらしかも革命的技術者としての新しい行き方を創りだしていく必要がある」と述べていた(「建築界展望」『NAUM 1』)。白井晟一は、当時イメージされていた語にさしてこだわらなければ、いち早く「第三の道」を歩み始めていたし、「地道な建築の実践」を通じて「新しい生き方」を創りだしていく可能性をみせていたのである。しかも、それは、戦後まもなく垣間みられていた通路とは全く別の通路を、具体的に示そうとしていたといえるのである。彼は、計画化を語ることはなかったし、「ロウコウストは建築のエレメントである。しかし、人間の生活や精神を引き上げられるロウコウストでなければならない」という試作小住宅の示すように、工業化をうたうこともなかった。多かれ、少なかれ、ありうべき戦後建築が上からの近代化、工業化によってイメージされており、民衆や人民があくまで抽象的なレベルに措定されていたのに対して、彼の実践は多く、地方においてであり、彼のいう民衆は、少なくともより具体的な、彼の出会った「秋田の人々」なのであった。そしてまた、当時、彼ほど、風土、自然を語った建築家はいなかったのではないか。

NAUによる大同団結の崩壊、それについては既にいくつかの考察がなされているのだが、それとともに、戦後建築の具体的展開は開始される。丹下の離陸がそうであり、池辺陽の立体最小限住居、増沢洵の最小限住居がそうであり、RIAの結成がそうであり、前川、坂倉、レーモンド、村野らの活動が再び開始されるのがそうである。そして、吉田五十八や清家清の、いわゆる新日本調と呼ばれるものも付け加えねばならないのかもしれない。その過程はポジティブにとらえ返せば、近代建築の理念が日本というコンテクストへ定着していく過程であったといえる。そして、ネガティブにとらえ返せば、ありうべき戦後建築がなしくずしにされていく過程であったといってもよい。伝統論は、日本というコンテクストにおける、そうしたモダニズムとリアリズムのコンフリクトの過程の華麗な産物、ある意味では徒花であったといいうるであろう。すでに、戦後建築の出発の光景において、われわれはそうした徴候を認めることができる。五〇年代の日本の建築については、それ故、いくつかの構図を描いてみなければならない。しかし、それはポスト・モダニズムやポスト・メタボリズムをめぐってさまざまな構図が描かれはじめている七〇年代も後半の現在ほど困難ではない。なぜなら、五〇年代においては、その時代を生きつつある各自において、その構図ははっきりと意識され、共有化されていたといいうるからである。戦後まもなくに既に偏在していた危機感は、何よりもそれを示すのである。しかし、白井晟一については、その具体的な実践が、全く別の通路をみせるが故に、確固とした位置づけを欠いていた。それ故、やがて、川添登による、伝統論における丹下と白井という構図が五〇年代の一つの構図として定着していくのである。

 

●白井晟一の、建築家としての現代的価値とは一体どういうことなのだろう。

○むずかしい問題だな……。僕は彼の創作態度は立派だとは思うが、作家というのは個の問題ではなくて、全体の問題だと思っているから、彼を現代の建築作家の理想像として考えることはまずいと思うな。

●ということは現代的価値がないという意味?

○そうじゃないよ、過渡的な現代だけにああいう創作活動をしているということは大いに意味があるよ。

●それは一体なんだろう……?

○そう……、僕達に一番不足しているもの、モダニズムに抵抗する精神……つまり人間愛とか、誠実さとか、現代という宿命の中で自分の過去と闘う、そういった僕達の創作活動にたちかえっても、立派に生活や創造のエネルギーになるものを把んでいて、しかも創造という形で出していることだろう。

●白井晟一とゆっくり話してみたいな。教えられることがあるだろうね。

○あるね。しかし、問題はそれを僕達の現代にどう受けとめて、どうエネルギーに転化するか、ということだ。(「ギリシャの柱と日本の民衆を読んでーー作家・白井晟一の建築創造をめぐって」対談 白井晟一・神代雄一郎…編集独白 『建築文化』一九五七年七月)

 

この編集独白は、当時の白井晟一の位置について伝えている。今、同じ独白を若い編集者が吐いたとしても、さしたる齟齬なく受け入れられるかもしれない。しかし、彼らにとっての問題は、あくまでも「全体の問題」であり、その「全体の問題」こそ、多くが共有していると信じていた問題にほかならない。それに対して、わわれわは、少なくともこれほど自信をもって「全体の問題」を語る位相にはいないのである。そしてまた、そこには、「モダニズムに抵抗する精神」、「個」「創造」において白井晟一をとらえる視点が示されている。それは、いわゆる白井晟一の発見の構図であった。

さらに、この対談のきっかけとなった、神代雄一郎の「ギリシャの柱と日本の民衆●●白井晟一の一面」によれば当時の白井晟一の位置はさらに明らかとなるであろう。神代は、原爆堂計画案によるはじめての白井の作品との出会いが、河原温の一連の作品を想起させたことから書き始めるのである。彼は、白井晟一について何かを書こうなどということは、全く考えてもいなかったのである。彼は、丹下健三の広島の仕事や松山の体育館をみるためにわざわざ酷暑をついて旅をしても、白井の作品は黙殺したかったし、避けて通れるものと思っていたのである。神代雄一郎が、NAU内部での「近代建築論争」(「ヒューマニズムの建築」をめぐって)において、もっとも包括的に、クールに、その行方を総括し得ていたことはよく知られていよう。彼は「近代建築の考え方を(1)日本の特殊事情により、ヨーロッパの形だけ日本にもってきたモダーン・スタイル(薬師寺ほか)(2)上部構造から革新的な世界史的な立場における建築運動(モダン・アーキテクチャー)(浜口)(3)資本主義の下部構造と建築との関係を日本の特殊性を考えて打ち出す(西山ほか)の三つに整理した上で、下部構造のとらえ方の問題を、建築の理解に対する社会経済史的立場(図師)と技術史的立場(浜口)との相関性の問題として提出していたのである。しかし、その神代によって、白井は、全く位置づけ難い存在としてあったのである。白井には、「初めから機能主義に背をむけて出発したと考えられるところがある」としながら、超現実主義と規定したのである。例えば、現代建築のなかにフルーティングのある柱をもち込むこと(過去の断片の再起用)が、ひとびとの無意識や想像力に、どのように訴えうるのか、をめぐるその批評は、極めて水準の高い、すぐれたものである。「多くの建築家が現代の形態言語で語ろうとするなかで、超現実主義的な語法で語ろうとする」その神話的素材の使用、サンボリズム、集合的無意識といった、フロイト、ユングを援用した、その分析が全体として明らかにしようとしたのは、白井が日本のコンテクストとは著しくかけ離れた地平にいることであったのである。

一方、川添登をはじめてとして、吉中道夫、吉島一夫、川添智利らの白井晟一論は少し位相を異にしていたといっていいであろう。そこには少なくとも避けて通ろうとする意識、黙殺したい意識はないのである。それらは、近代建築の誤り、「人間の機能を精神的な諸契機から孤立した機能の技術的追求という部分的真理を絶対的なものとして措定した方法論」の病根を確認するものとして、白井晟一を積極的に位置づけ、対置し、それに学ぼうとするのである。ここに近代主義批判から伝統論への移行のひとつの典型をみることができるのである。すなわち、機能や技術、合理性に対して、精神を、現代ヒューマニズムを、民衆や伝統を、さらに創造や芸術を、再発見するのである。浜口隆一における機能主義とヒューマニズムの無媒介的結合という虚構の崩壊のあとで、「機能主義のアンチテーゼの作家であるというよりは、“人間を欺くことのなかった”純粋の芸術家」として白井晟一が見いだされるのである。そして、それが例えば、川添登によって「ローコストなるが故に、庶民住宅と称し、国民建築へのアプローチと考えているような現代の流行」に抗したものとして賞揚されるとき、そこに戦後建築の一つの転機をみることはたやすいのである。白井晟一のリアリズム、その実践の重みはここでは別の脈絡に置き換えられているといってもよい。神代と川添という、日本の建築評論家を代表する二人の白井の位置づけをめぐるずれは、その後の二人の言説の軌跡を比較する上でも興味深いものといえるであろう。一方が、やがて地方を主題化し、一貫して、それに眼を注ぎながら、サーヴェイを持続したのに対して、他方は、やがてメタボリズム、未来学、生活学、地域主義と揺れていくのである。

ここで川添によって示された白井晟一評価は、皮相に理解すれば、今もなお静止したままである。そうした評価の構図は、それが直接に対置された部分において、裏返しの意識として保持されたといえるであろう。その皮相な位置づけにおいて、白井晟一に対する反感もまた広範に組織されていたからである。みねぎしやすおは、善照寺によせて、「常日頃白井さんの論文をよみ、ある共鳴を感じ作品に対してある反感を感じてもいた」のであるが、「現在の私にはその作品から、自由な健康な人間生活の躍動が感ぜられずに懐古的な排他的な威圧を感ずると同時にそこに次をうみ出すポテンシャルも感じられないのです」といいきっていた。しかし、問題は、むしろ、その共鳴と反発との間にあったといえるのである。

伝統論は、伝統、民衆、創造をめぐって、それにかかわる諸概念をパラダイムとして展開されていた。それはモダニズムとリアリズム、機能主義とヒューマニズム、民衆と建築家などを媒介するものが具体的に求められていたことを示すであろう。もちろん、日本の五〇年代における伝統論は、「現代日本において近代建築をいかに理解するか●●伝統の創造のために」と問う丹下健三を軸に展開されたものであった。それは、まさに五〇年代前半の日本において、近代建築をいかに理解するかという構えをとったものであり、近代建築の理念の中に、日本的な構成や構築方法や透明な空間概念を発見すること、逆に、伊勢や桂に典型化される限りにおける日本の建築的伝統に、近代的なるものをみること、によって成りたっていた。白井の伝統論が、それとは全く異なった位相を持っていたことはいうまでもないであろう。彼のいう伝統、民衆、創造は、何よりも、自らの西洋体験、秋田の人々との出会い、哲学思索に基づきながら、具体的な回路においてとらえられようとしていたのである。しかし、それに対する議論は、この時期の白井晟一評価の構図を超えることはなかったといってもいい。それ以降、彼は、専ら、純粋建築家、造型の作家、しかも近代建築を全く相対化した地平で、「西洋建築」の石の壁と戦う孤高の作家、観念の作家として、その作品のみが他の側面と切り離されて論じられることになるのである。白井晟一が垣間みせようとしていた、その、特に五〇年代における仕事を突き動かしていたもの、それを正確に受け止める機会は失われてしまったのである。白井晟一自身の問題でもあった。しかし、それは、日本建築の抱えていた根底的な問題でもあった。

 

四 虚白庵の暗闇

白井晟一が建築のおかれている状況に対して直接的な発言をなしたのは、少ないが幾度かある。そのうち最も鮮明のは、私の理解では二度ばかりある。一つは、原爆堂のプロジェクトの提出に絡むメッセージ、「原爆堂について」(『新建築』五五 四)および朝日新聞紙上での発言(「平和を祈る原爆堂」一九五六)、一つは国立劇場のコンペに関する「伝統の新しい危険」(『朝日新聞』五八 一一 二二)および「建築家は二の足踏む」(『朝日新聞』六二 九 一五)である。五〇年代を通じての発言は、多かれ少なかれ、状況的なものであり、断片的には、その言説の端々に自らの置かれているコンテクストへの距離を認めることができる。例えば「試作小住宅」(『新建築』五三 八)には、先のローコスト住宅に対する距離のほかにも、近代数寄屋という様式の氾濫に対する不満がみられる。「この様式は花柳狭巷にはよろしい、しかし健全なるべき階級の住宅までこの様式を遂うのは問題である」というのである。しかし、「豆腐」(『リビングデザイン』一九五六年一〇月)や「めし」(『リビングデザイン』五六 一一)、「待庵の二畳」(『新建築』五七 八)、「縄文的なるもの」(『新建築』五六 七)といったエッセイは、確かにその当時のコンテクスト(建築ジャーナリズム)にもかなったものであったが、はるかに射程の長いものであり、日本の建築文化に対する深い洞察を示したものであった。数少ないにもかかわらず、一つの文章論がものされるゆえんである。われわれは「日記から」(『朝日新聞』七七 一)において、久々に、その思索の世界の一端に触れ得たといえるのである。

白井晟一の状況への発言、それ自体は極めて興味深いその一面をみせる。特に、彼を一挙に時代の寵児にした原爆堂のプロジェクトの提出にかかわる発言には、いくつかの問題が潜んでいるように私には思える。ひとつはそれが、後年われわれが白井晟一に対していだくイメージ、自己の内側に向きあうそれとはかけ離れているようにみえることである。六〇年代末に原広司が、「むしろ、デザインしている建物だけじゃなしに、白井さんが俗世間に出てきて発言してほしいというような、そういった感じがあるんです」と問うたのに対して、「もうでる幕がないと思っているわけじゃないが、生まれて大きくなった時代の人間以外にはなれないんだから時代に対応ということも、そういう『分』のなかで努力してゆくよりほかないね。……ぼくにはそんなことよりどっちかというと淘汰の自然のなかへ還元してゆく自我をみつめるといった方に日常の重点がかかっていく。建築のこともね。」と答えている(「人間・物質・建築」『デザイン批評』六七 六)。原爆堂のプロジェクトの提出を支える建築家としての自負には、当時の建築家の意識を良かれ悪しかれ覆っていた啓蒙意識を認めることができる。少なくとも、プロジェクトに凝縮された生と思索の密度を直接社会にぶつけるパトスがあった。そうだとすればその後、白井晟一の内に、決定的に何かが起こったこと、彼が何かを、決定的に何かを、横山正のいうような意味での近代の深淵を彼自身みてしまったことを確認すべきであろうか。原は、なおかつ聞く。「そうですか。だけど、世の中のいろいろなことに無関心でいられるわけにいかない」。白井は答える。「戦後地方の公共建築を造らせてもらった。建築家としての精一杯のソーシャリズムだった。粗末な建物だったが一生懸命にやった。それから、何十何百、そういう建物がつくられる一里塚にはなったらしいが、表面の大義は同じでもすっかり意味が変わってしまった」。そうだとすれば、原爆堂のプロジェクトの提出に、すでに、その精一杯のソーシャリズムの帰結を見いだすべきであろうか。そうかもしれない。そのスタイルは、それまでの、例えば戦後まもなくの二つのプロジェクトとも異なった回路におけるもののように、私には思える。むしろ、それは、戦後建築がアプリオリに前提していた建築家のプロジェクションのスタイルに近いものである。それ故、彼は、伝統論の平面において論じられることになったのではなかったか。

「建築家は施主の夢を占う。施主には個人から共同体まである。大王もあれば明日の幽明すら不調の病人もないとはいえない。『くらしの工夫』信徒も袖には出来ない。桂離宮やパルテノンの建築家はたしかにうまい裁断師、すぐれた医師である前に占眼を具えていたと思う。同じ造型家でも美術家と異なるような負担をのがれられないのが建築家の宿命であろう。………正しく占われざるかぎり、夢は蹉跌が常習であり、術作も創造の媒体となったためしはない。……」(「煥平堂」『新建築』五四 一〇)、「かくしもったる啓蒙の旗などは辛棒強くひっこめ」ながらの彼の精一杯の悪戦苦闘は、このように殊に五〇年代前半の作品に付されたコメントに、ほのぼのと息づいている。われわれは、そこに、具体的な状況において、すなわち施主との直接的な関係において創造や民衆や伝統を思索する白井晟一の姿を見いだす。もし、われわれがあり得べき戦後建築を一つの指標としてたて得るとすれば、一つはそこにあり得たのかもしれないと、私は思う。「イデオロギーでは自分の仕事が育たなかったことに気がつきかけたのが、おそかった」と白井晟一は言うのであるが、「啓蒙の赤旗どころか観念の白旗を揚げなければならない」が故に、そしておそらく原爆堂を契機とすることにおいて、その啓蒙主義の陥穽を見抜いたが故に、自己の内に向き合うことを決意したのである。そこでは、問題は「淘汰の自然のなかへの還元」であり、建築すらも相対化されるのである。

いま、白井晟一は確かに静止しているようにみえる。しかし、静止し続けてきたのではない。時代を呼吸しながら揺れてきたのである。一貫した観念の建築家でもなければ、純粋の建築家でもない。それは、こうした書かれた言説のフィルターを通したささやかな歴史のレクチュールによっても確認できるのである。それ故、日本の戦後建築の展開は、静止した白井晟一という点の回りを螺旋状の軌跡を描いて一周したというような単純なものではあり得ない。それは、歴史を単純化し図式化するわれわれの眼差しによるだけである。

「ジェネレーションとしたら、包括する思想がつかめない時代に育ったものより何分かの徳はあったかもしれない」と白井は言う。また「僕と同じことはやらん方が無難だと思う」という。おそらく、同じことはできないであろう。包括する思想がつかめない時代に育ったものにとって、それは無理からぬことである。しかし、否、それ故に、われわれは白井晟一に眼差しを向けるのである。

ある意味では、丹下健三が世界建築家として、戦後建築のゼロ地点において幻想されていたもの、その一面をつきつめることによって、その帰結を示し続けたとすれば、白井晟一は、その帰結を既に見据えながら別の帰結を提示し得たと言いうるのかもしれない。われわれにとってのアポリアは、依然として、その両者の間に横たわっているのである。

しかし、そのアポリアを否応なく意識させられながら、われわれはなおかつ白井晟一にこだわらねばならないものである。言うまでもなく、それは彼を徒らに神格化し、神秘化することではない。一つには、ここでの脈絡が示すように、日本の戦後建築をとらえ直す尺度としての存在たり得ているからであり、すなわち、ありうべき戦後建築として幻想されていたものをその帰結とともに一瞬垣間みせてくれるからであり、さらに、具体的には、歴史に学ぶことを教えてくれるからである。おそらく、五〇年代の日本の建築家にあって、彼ほどいわゆる近代建築を相対化する視点を示した建築家はいない。「天壇」、「中国の石仏」、「仏教の建築」に示された中国あるいは東洋への関心となると、極めて少ないと言わねばならない。そもそも、明治以降の建築家は、伊東忠太のような例外を除いて、アジアへの視座を欠いてきた。戦前・戦中においてはまだしも、直接的な関係の中で、ある種の、極めて偏向したといわねばならないにせよ、視座があった。それが戦後、ぷつりときれてしまうのである。新生中国の誕生という背景があるにせよ、白井晟一が中国や東洋への関心を持ち続けていたことは不思議と言えるほどである。それは、近年、『日記から』の「東洋のパルテノン」、「白磁の壺」、「土の造形」などにおける韓国や中央アジアへの関心にも持続されているのである。白井晟一の自己凝視の世界、例えば書の世界を共有することは最早無理であるとしても、その歴史をとらえる眼、世界をとらえる眼のあり方自体には学ぶべき多くのものがあるはずなのである。

虚白庵の暗闇は、そのまま建築文化の表層を穿つ穴でもある。それは最早、かつてのようにそれ自らが、われわれに対して啓蒙の光を放つことはない。それは、暗闇の沈黙によって、われわれを、われわれの立っている場所を照らし出すだけである。われわれがその周囲を徘徊するのみであるとすれば、それは暗闇であり続けることであろう。ありうべきはずであった戦後建築のある側面も、その暗闇の中に封じ込めてしまうことになるであろう。

*1 『白井晟一研究』Ⅱ。

*2  『建築文化』創刊号。

*3  『建築文化』一九四六年八月。