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2021年4月29日木曜日

世界建築史の構築―東南アジアからの視座 布野修司-世界建築史之建立—從東南亞的觀點(世界建築史の構築ー東南アジアからの視座)(黄蘭翔主編『臺灣藝術史進路 世界、東亞及多重的現代視野』国立台湾美術館、芸術家、2020年11月)

 布野修司-世界建築史之建立—從東南亞的觀點(世界建築史の構築ー東南アジアからの視座)(黄蘭翔主編『臺灣藝術史進路 世界、東亞及多重的現代視野』国立台湾美術館、芸術家、202011月)


世界建築史の構築―東南アジアからの視座

 布野修司

 はじめにーアジア都市組織研究 

 インドネシアのカンポン研究[i]を出発点として、筆者は、アジア各地においてフィールドワークをもとにした都市組織[ii]研究を展開してきた。その成果は、アジアの都城三部作と呼ぶ『曼荼羅都市-ヒンドゥー-都市の空間理念とその変容』『ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容』『大元都市-中国都城の理念と空間構造-』などにまとめている[iii]。さらに、インドネシアを対象にしたことからその宗主国であるオランダが世界中に建設した植民都市についてもフィールドワークを展開することになった。植民都市研究は、『近代世界システムと植民都市』『グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』などにまとめている[iv]。建築史の専門家ではないけれども、以上のような研究展開の過程で、各国の建築史を学んで、その枠組みの限界、すなわち各国のフレームを超えたグローバルな視点の必要を意識するようになった。そして、『アジア都市建築史』『世界住居誌』[v]のような試行を経て、『世界建築史15講』(刊行委員会編、彰国社、20194月、日本語)という「世界建築史」をうたうテキストを企画編集する機会また、『世界都市史事典』(布野修司編、昭和堂、201911月、日本語)を上梓することが出来た。本稿では、建築のグローバルヒストリーの可能性をめぐって、この2冊の本を編集・叙述する過程で考えたことを中心に記したい。

 

 Ⅰ 建築の世界史へ Towards Global History of Architecture

 建築の歴史は人類の歴史である。建築する能力を獲得したこと、すなわち、空間認識そして空間表現の能力を得たことが,そもそもホモ・サピエンスの誕生に関わっている。そして人類は、紀元前3000年期には、エジプトのピラミッド群のような巨大な、現代の建築技術によっても建設可能かどうかを疑われるような建築を建設し、その歩みとともに数々の偉大な建築を作り出してきた。世界建築史は,人類はこれまでどのような建築を創造してきたのか,建築がどのように誕生し,どのような過程を経て,現代に至ったのかを明らかにする営為である。

 建築の起源は、原初の住居、すなわち、簡単な覆い(シェルター)の小屋である。あるいは、特別な空間を記し、区別するために、一本の柱や石を置く行為である。それ故、誰にとっても親しい。人類は、家族を形成し、採集狩猟のための集団を組織し、定住革命・農耕革命を経て,都市を生み出す(「都市革命」G.チャイルド)。都市は、人間が作り出したもののなかで,言語とともに,最も複雑な創造物である。都市や集落は、様々な建築によって構成される。建築の世界史,世界史の中の建築を振り返ることによって,われわれは,建築のそして都市の未来を展望することになる。

 建築の世界史あるいは世界の建築史をどう叙述するかについては,そもそも「世界」をどう設定するかが問題となる。人類の居住域(エクメーネ)を「世界」と考えるのであれば,ホモ・サピエンスの地球全体への拡散以降の地球全体を視野においた「世界史」が必要である。しかし,これまでの「世界史」は,必ずしも人類の居住域全体を「世界」として叙述してきたわけではない。書かれてきたのは,「国家」の正当性を根拠づける各国の歴史である。一般に書かれる歴史はそれぞれが依拠している「世界」に拘束されている。

人類最古の歴史書とされるヘロドトス(紀元前485420)の『歴史』にしても,司馬遷(紀元前145/135?~紀元前87/86の『史記』にしても,ローカルな「世界」の歴史に過ぎない。ユーラシアの東西の歴史を合わせて初めて叙述したのは,フレグ・ウルス(イル・カン朝)の第7代君主ガザン・カンの宰相ラシードゥッディーン(12491318)が編纂した『集史』(1314)であり,「世界史」が誕生するのは「大モンゴル・ウルス」においてである。しかしそれにしても,サブサハラのアフリカ,そして南北アメリカは視野外である。

 今日のいわゆるグローバル・ヒストリーが成立する起源となるのは西欧による「新世界」の発見である。西欧列強は,世界各地に数々の植民都市を建設し,それとともに「西欧世界」の価値観を植えつけていった。そして,これまでの「世界史」は,基本的に西欧本位の価値観,西欧中心史観に基づいて書かれてきた。西欧の世界支配を正統としてきたからである。そこではまた,世界は一定の方向に向かって発展していくという進歩史観いわゆる社会経済史観あるいは近代化論に基づく歴史叙述が支配的であった。

世界建築史もまたこれまでは、基本的には西欧の建築概念を基にして,古代,中世,近世,近代、現代のように世界史の時代区分に応じた段階区分によって書かれてきた。そして,非西欧世界の建築については,完全に無視されるか,補足的に触れられてきたに過ぎない。しかし,建築は,歴史的区分や経済的発展段階に合わせて変化するわけではない。また、建築の歴史,その一生(存続期間)は,王朝や国家の盛衰と一致するわけではない。世界建築史のフレームとしては,細かな地域区分や時代区分は必要ない。世界史の舞台としての空間,すなわち,人類が居住してきた地球全体の空間の形成と変容の画期が建築の世界史の大きな区分となる。

日本で書かれてきた建築史は、「西洋建築史」を前提として、それに対する「日本建築史」(「東洋建築史」)という構図を前提としてきた。そして、「近代建築史」という「近代」という時代区分による歴史が書かれるが、ここでも西洋の近代建築の歴史の日本への伝播という構図が前提である。近代建築の、日本以外の地域、アジア、アフリカ、ラテンアメリカへの展開はほとんど触れられることはない。『日本建築史図集』『西洋建築史図集』『近代建築史図集』『東洋建築史図集』というのが別個に編まれてきたことが、これまでの建築史叙述のフレームを示している。もちろん、この問題は、歴史学における「日本史」と「世界史」の関係についても同じである。日本で「世界史」が現れるのは1900年代に入ってからであるが(坂本健一(190103)『世界史』、高桑駒吉(1910)『最新世界歴史』など)、明治期の「万国史」(西村茂樹(1869)『万国史略』、(1875)『校正万国史略』、文部省(1874)『万国史略』など)は、日本史以外のアジア史と欧米史をまとめ、世界各国史を並列するかたちであった。西欧諸国についても、国民国家の歴史が中心であり、西欧列強の世界支配によって「世界史」が叙述されてきたのである。そうした意味では、「世界史」の世界史(秋田滋/永原陽子/羽田正/南塚信吾/三宅明正/桃木至朗編(2016)『「世界史」の世界史』ミネルヴァ書房)が問題である。

建築史の場合、建築技術のあり方(技術史)を歴史叙述の主軸と考えれば、共通の時間軸を設定できるであろう。しかし、建築技術のあり方は、地域の生態系によって大きく拘束されている。すなわち、建築のあり方を規定するのは、科学技術のみならず、地域における人類の活動、その生活のあり方そのものであり,ひいては、それを支える社会,国家の仕組みである。

世界各地の建築が共通の尺度で比較可能となるのは産業革命以降である。そして、世界各国、世界各地域が相互依存のネットワークによって結びつくのは,情報通信技術ICT革命が進行し,ソ連邦が解体し,世界資本主義のグローバリゼーションの波が地球の隅々に及び始める1990年代以降である。そして、各国史や地域史を繋ぎ合わせるのではなく,グローバル・ヒストリーを叙述する試みも様々に行われてきた。『世界建築史15講』は、日本におけるグローバル建築史の叙述へ向けての第一歩である。

 『世界建築史15講』は、大きく「第Ⅰ部 世界史の中の建築」「第Ⅱ部 建築の起源・系譜・変容」「第Ⅲ部 建築の世界」の3からなる。第Ⅰ部では、建築のの全歴史をグローバルに捉える視点からの論考をまとめた。建築は、大地の上に建つことによって建築でありうる。今や宇宙ステーションに常時人が居住する時代であり、宇宙空間にも建築が成立すると言わねばならないけれど、建築は、基本的には地球の大地に拘束され、地域の生態系に基づいて建設されてきた。ここでは、地球環境の歴史を念頭に、建築の起源、成立、形成、転成、変容の過程をそれぞれ考える。建築という概念は「古代地中海世界」において成立するのであるが、それ以前に、建築の起源はあり、「古代建築の世界」がある。そして、ローマ帝国において形成され、その基礎を整えた建築は、ローマ帝国の分裂によって、キリスト教を核とするギリシャ・ローマ帝国の伝統とゲルマンの伝統を接合・統合することによって誕生するヨーロッパに伝えられていく。そうしてヨーロッパ世界で培われた建築の世界は、西欧列強の海岸進出とともにその植民地世界に輸出されていく。そして、建築のあり方を大きく転換させることになるのが産業革命である。産業化の進行とともに成立する「近代建築」は、まさにグローバル建築となる。

第Ⅱ部では、まず、世界中のヴァナキュラー建築を総覧する。人類の歴史は,地球全体をエクメーネ(居住域)化していく歴史である。アフリカの大地溝帯で進化,誕生したホモ・サピエンス・サピエンスは,およそ125000年前にアフリカを出立し(「出アフリカ」),いくつかのルートでユーラシア各地に広がっていった。まず,西アジアへ向かい(128万年前),そしてアジア東部へ(6万年前),またヨーロッパ南東部(4万年前)へ移動していったと考えられる。中央アジアで寒冷地気候に適応したのがモンゴロイドであり,ユーラシア東北部へ移動し,さらにベーリング海峡を渡ってアメリカ大陸へ向かった。南アフリカ最南端のフエゴ諸島に到達したのは12万年前である。そして、西欧列強が非西欧世界を植民地化していく16世紀までは、人類は、それぞれの地域で多様な建築世界を培っていた。建築が大きく展開する震源地となったのは、4大都市文明の発生地である。そして、やがて成立する世界宗教(キリスト教、イスラーム教、仏教・ヒンドゥー教)が、モニュメンタルな建築を建設する大きな原動力となる。宗教建築の系譜というより、ユーラシア大陸に、ヨーロッパ以外に、西アジア、インド、そして中国に建築発生の大きな震源地があることを確認する。

第Ⅲ部では、建築を構成する要素、建築様式、建築を基本的に成り立たせる技術、建築類型、都市と建築の関係、建築書など、建築の歴史を理解するための論考をまとめた。さらに多くの視点による論考が必要とされるのはいうまでもない。

 Ⅱ「植民地建築」の世界史: 西欧の世界支配と建築

  1 近代世界システムの形成と植民都市

西欧列強が海外進出を本格的に開始するのは,クリストバル・コロンがサンサルバドル(グアダハニ)島に到達した1492年である。以降,西欧建築の伝統が非西欧世界に移植されていくとともに,西欧建築と非西欧建築の接触による同化・異化・折衷のプロセスによって新たな建築が産み出されていくのである。1492年は,世界建築史の大きな画期である。

西欧列強の海外進出の過程は,「発見」「探検」の時代から「布教」「征服」の時代へ,「交易」の時代から「重商主義」の時代へ,さらに「帝国主義的支配」の時代へ推移していく。この過程で「近代世界システム」が成立するが,その要となったのが列強の交易拠点であり,植民都市である(図101


海外進出の先鞭をつけたポルトガルは,領域支配を行わず,交易拠点のネットワークをインディアス領とした。ゴア占領が1510年,マラッカ占領が翌年,1517年には広州へ到達する。1543年に種子島にマスケット銃を伝えたのはよく知られている。市参事会を設けてシダードcidades(都市)としたのは,首都ゴア,コーチン,マカオ,コロンボ,マラッカである。コロンの「新大陸」発見直後,ポルトガルとスペインはローマ教皇アレクサンデルⅥ世の仲介でトルデシーリャス条約(1492年)を結んで世界を二分割する。A.カブラルのブラジル発見(1500年)によってブラジルはポルトガルのものとなり,サルヴァドル,レシフェ(オリンダ),リオ・デ・ジャネイロ,サンパウロなどが都市形成される(P)。


新大陸」を「世界経済」に組み入れる役割を担ったスペインは,16世紀に広大な帝国を形成する。土着の文化を破壊した上に,ヨーロッパ世界の拡張として一定の理念に基づく都市を建設したのがスペインである。最初の近代植民都市サント・ドミンゴ以下 ,代表的なスペイン植民都市は,副王領の首都となったメキシコシティとリマ,アウディエンシアが置かれたボゴタ(ヌエヴァ・グラナダ),パナマ,グアテマラ,グアダラハラ,スクレ(ラプラタ,チャルカス),キト,サンティアゴ,ハバナ,マニラである(S)。

17世紀は「世界経済」の最初のヘゲモニーを握ったオランダの世紀である。オランダは,アジアのポルトガル拠点を次々に奪取することによって東インドを「ヨーロッパ世界経済」に組み入れた。オランダの主要な植民都市は,ゴール,コロンボ,ジャフナなどセイロン島の諸都市,マラッカ,そしてバタヴィアを始めとするインドネシアの諸都市である。そして,西インド会社が拠点としたケープタウン以西の,西アフリカのエルミナなど,そしてカリブ海の諸都市がある。オランダは地域内交易をベースとした(D)。

フランスの植民地支配の歴史は, 16世紀から18世紀にかけての絶対王政期(第1期植民地帝国)と19世紀半ばから1962年のアルジェリア喪失まで(第2期植民地帝国)の2期に分けられる。英仏が全面衝突した7年戦争(175663)で敗北し,1763年のパリ条約によってフランスは植民地の大半を失う。第2期植民地帝国において植民地としたのはマグリブとヴェトナム,ラオス,カンボジアのインドシナ半島である(F)。 

産業革命のイニシアチブを握ったのは,フランスとの覇権争いを制したイギリスであった。イギリスはカルカッタ(コルカタ),マドラス(チェンナイ),ボンベイ(ムンバイ)の3つのプレジデンシー・タウンを拠点にインド帝国を樹立し,マレーシア(海峡植民地),南アフリカ,オーストラリアなど1930年代には世界の4分の1を支配するに至る(E)。

 

2 植民都市と要塞

西欧列強の海外進出を支えたのは,航海術,造船技術,攻城砲(火器),そして築城術である。さらに,宗教改革(M,ルター95ヶ条の論題』1517),コペルニクス革命(『天体の回転について』1543)による世界観,地球観,宇宙観の転換がある。1415世紀のルネサンスから17世紀の科学革命に向かう16世紀は世界史の大転換期である。

西欧列強による植民都市の建設,発展過程は,土着の都市が存在する場合と処女地の場合で異なるが,交易のためにまずロッジ(宿所),続いて商館(ファクトリー)が建てられ,次の段階で商館が要塞化され,あるいは独立した要塞が建設され,その周辺に現地民および西欧人の居住する城郭が形成される,そして,全体が城壁で囲まれる段階へ移行していく(図2-01)。オランダ植民都市の場合,城郭の二重構造をとるのはマラッカとコロンボで多くは要塞+城郭の形式である(2-02)



植民地建設の強力な武器となったのは火器であり,とりわけ,火器搭載船の威力は絶大であった。ルネサンスの建築家たちが理想都市の計画にエネルギーを注いだのは、大砲の出現に対応する新たな築城術が求められたからである。

ポルトガルの海外進出を主導したのは, ザグレブ岬に造船所,天体観測所,航海術地図製作術の学校などを建設し(「王子の村」Vila do Infante,1416年)),各種地図を収集,航海全体の指揮をとったエンリケ航海王子(1346-1460)である。最大最強を誇ったポルトガル要塞はオルムズ要塞(2-03)である。マラッカにも初期のサンチャゴ要塞の門(図2-04)が残っている。ゴアに四隅に陵堡を設けたアグアダ要塞(図2-05)が建設されたのは1612年である。



スペインは,インディアス諮問会議(1524年)を最高決定機関とする強大な統治機構を設ける。そして,インディアス法(フェリペⅡ世の勅令(1573))に集約される極めてシスマティックな方法で植民地建設を行った(図2-06)。1000を超える植民都市が建設されたが,市壁を持つ都市はサント・ドミンゴ(1494年),ハバナ(1515年),パナマ(1519年),リマ(1535年),マニラ(1571年)などである(2-07)。
 

オランダが建設した要塞も膨大な数にのぼり、スリランカだけでもゴールをはじめ21ある(2-08)。マウリッツ王子とともに軍事技術者養成機関としてネーデルダッチ・マテマティーク(1600)を設立したS.ステヴィンは,最も体系的な理想港湾都市計画を提案し(図2-9ab),バタヴィアの基本計画を行ったとされる。

フランスにはルイⅩⅣ世(16381715)に仕え、150もの要塞を建設し,53回の攻城戦を指揮した軍事技術者ヴォーバン(16331707)が知られる。稜堡(bastion)式要塞の築城法を体系化し,植民都市建設に大きな影響を与えた。

 植民都市計画を完成させたのはイギリスである。その先駆は北アイルランドのアルスターのマーケットタウン群である(図2-11)。シャフツベリー卿のチャールズタウン計画がグランドモデルとされ,W.ペンのフィラデルフィア建設,ジョージア植民地のサヴァンナなどが建設された。さらに,カナダ,シエラレオネ,オーストラリア・ニュージーランドに植民都市が建設されたが、体系的な植民地手法を理論化したのはE.G.ウェイクフィールドである。代表的なのは,ペナンのジョージタウンを建設したF.ライトの息子W.ライトが建設したアデレードである。イギリスは,ホワイトタウンとブラックタウンを広大なエスプラナードで分離した。また,土着の町や村とは離れてカントンメント(兵営地)を造るのが一般的であった。究極のセグリゲーション都市が成立するのが南アフリカである。大英帝国の首都として建設されたのがニューデリー,プレトリア,キャンベラである。

 

3 伝道師と教会

西欧列強の海外進出の最初のインセンティブとなったのは香料であり,ポルトガル,スペインが先を争って目指したのはモルッカ諸島そしてバンダ諸島であった。コンキスタドールたちを駆り立てたのは一攫千金の夢である。そして,会社組織による組織的な貿易が展開されるようになる。一方,ポルトガル,スペインなどカトリック諸王国の公式の目的は布教である。多くの宣教師の福音伝道の熱意が海外渡航を支えた。理想都市の実現を夢見た宣教師も少なくない。新教徒もまた「新大陸」を目指した。

 コーチンには,インド最古のローマ・カソリック教会,聖フランシス教会(1503年)が建設され,最初に寄港したヴァスコ・ダ・ガマ(1524年死)の墓石が残されている(図3-01abc)。プロテスタンティズムを奉じたオランダは1633年にコーチンを奪取するとこの教会を除いて全て破壊している。ポルトガルのアジア布教を担ったのは,フランシスコ・ザビエル(15061552)に率いられた「イエズス会(1534年設立)である。ザビエルは,1542年にゴアに着任,マラッカ(1545年)を経て,日本へ上陸(1949年),ゴアに引き上げる途次,広州沖の上川島で死亡する(1952年)。その遺体はマラッカの聖ポール教会(図3-02に埋葬された後,ゴアのボム・ジェズ・バジリカ(1594年起工1605年竣工)に安置されている(図3-03)。正統なルネサンス様式の中心聖堂セ・カセドラル(1562起工1619竣工)(図3-04)に対して,バロック的要素が加味されている。1557年に明朝から居留権を得たマカオには,当時アジア最大であった聖ポール天主堂(15821602年建設)のファサード壁のみが残されている(図3-05)。


フランシスコ会,ドミニコ会,アウグスティノ会,イエズス会などに属する聖職者たちは,インディオの改宗を第1の使命としたが,都市建設や教会建設にも大きな役割を果たした。

アメリカ最初の植民都市サント・ドミンゴに建設されたのはアメリカ首座司教座聖堂となるサンタ・マリア・ラ・メノール聖堂(15121540年)である(図3-06。総サンゴ石造りである。コロンの遺体が安置され,その銅像が立つプラサ・マヨールに面している。最初の病院サン・ニコラス・デ・バリSan Nicolás de Bari病院 (15331552)( 3-07も最初の大学サント・ドミンゴ大学(15181538),ラス・カサスが回心し,修道士になった聖ドミニコ会修道院(1510),サン・フランシスコ修道院(15241535)など主要な修道院・教会は16世紀末までに建設されている。副王領の大司教座が置かれたメキシコシティそしてリマのカテドラルをはじめとして数多くの教会が建てられた。マニラとパオアイのサン・アグスチン教会(図3-0809)やフィリピンのバロック式教会群も世界文化遺産に登録されている。フランス植民地期にカトリックの一大拠点であった北ヴェトナムのパト・ディエムのカテドラル(1891)は中国風の石造建築のようにみえるが主架構は木造である(図3-10






教会は先住民の集落に,その神殿を破壊した上でその材料を用いて建てられるのが一般的であった。そして,やがてレドゥクシオンあるいはコングレガシオンと呼ばれるインディオを強制的に集住化させる政策が採られるようになる。インディオ集落は,防御を考えて山間に立地するものが多く,改宗,徴税など行政管理がしにくかったからである。その先駆とされる興味深いレドゥクシオンメキシコミチョアカン教区の司教であった,トマス・モアのユートピア思想に深く共感し,インディオの共同体を建設しようとしたヴァスコキロガ147078?~1565)の試みである。キロガは,インディオ虐殺の非道を告発したラス・カサスと同様,インディオの奴隷化に強く反発し,エンコメンドーロを激しく批判する書簡をカルロスV世宛てに送っている。イエズス会レドゥクシオンは主としてペルー副王領で建設され,とりわけパラグアイのラ・サンティシマ・トリニダー・デ・パラナとヘスース・デ・タバランゲのイエズス会は成功を収めた例とされている。

 

4 支配と被支配―異化と同化 受容と葛藤

 植民地支配は,物理的な支配,政治経済的な支配にとどまらない。文化的,精神的支配もその一環である。すなわち,西欧世界の価値体系の全体が移植されるのが植民地化である。

カトリック教会は布教のための場所であり,キリスト教世界の権威を象徴するものでなければならない。植民都市の中心に時計塔が建てられるのは西欧的(標準)時間による規律を基準とする意味がある(図4-01)。劇場やコンサートホールは西欧文化を伝える場所となる。

都市核に置かれるのは広場とその周辺に建てられる教会であり,宮殿であり,総督邸であり,市庁舎である。広場は様々な儀礼の場であり,市場が開かれ,処刑場にもなった。スペイン植民都市の代表となるヌエヴァ・エスパーニャ副王領の首都シウダード・メキシコのソカロ(中央広場)の周囲の諸施設は,支配ー被支配の逆転を象徴している。ソカロ広場の東に位置する国民宮殿は,コルテスの宮殿(1522年)をスペイン王室が買収(1562年)し, 1692年に再建したものである。バロック宮殿がモデルである(図4-02)。

バタヴィア市庁舎(1710年)は,ヨーロッパ随一と言われたダム広場に面して建つアムステルダムの市庁舎(王宮)(1648年)を模したとされる。ケープタウンの建設者J.v.リーベックの息子アブラハム総督が,J.P.クーンが1627年に建設したものを建替えたものである。ペディメントの中央には正義の女神像が掲げられ,地下には水牢が設けられていた(図4-03


イギリス植民都市の代表はカルカッタ(コルカタ)である。「宮殿都市」と呼ばれ,20世紀初頭には人口122万人を誇る大都市であった。ダルハウジー広場(ビバディ・バーグ)周辺に東インド会社の社宅ライターズ・ビル(1780年),総督邸,市庁舎などの中心施設が建てられた。W.ジョーンズがアジア協会を設立したのは1784年であり,アジア太平洋地域最大のインド博物館が建てられたのは1814年である(図4-04

西欧諸国は,当初,自国の建築様式をそのまま植民地に持ち込もうとした。要塞建築や教会建築など石造建築の場合,石や煉瓦を船のバラストballastとして積んで行き,商品を代りに積んで帰るのである。すなわち,同じ建築材料,構造方式,工法によって西欧の建築様式をそのまま建てた。そして,西欧建築は植民地の建築に大きな影響を与えることになる。興味深い事例が,ラテン十字平面のヒンドゥー寺院である。ゴア近郊のシャンティ・ドゥルガー寺院(1736年),ナゲシュ寺院,マンゲーシャ寺院は,いずれも平面はラテン十字形をしており,聖堂にはシカラではなくドーム屋根の塔を建て,7層の鐘楼を付属させている(図4-05)。

 英国のゴシック・リバイバルを代表するG.G.スコットがインドを訪れずに設計したムンバイのボンベイ大学図書館(1878G.G.Scott)(図4-06)の例もあるが,チェンナイのハイコート(1892J.W.Brassington & H.Irwin)(図4-07)のようにヴィクトリアン・ゴシックをベースにチャトリやモスクのドーム屋根が付加されるのが一般的である。20世紀に入ってデリー遷都後に立てられたコルカタのヴィクトリア記念堂(1921W.Emerson)は,パラディオ風の堂々たる古典主義建築であるが屋根の両端にチャトリを掲げている。ムンバイのハイコート(1879J.A.フラー),ヴィクトリア・ターミナス(1887F.W.Stevence,市庁舎(1893F.W.Stevence)などプレジデンシー・タウンの他,マイソールの宮殿,ダッカのカーソン・ホール,ラホールのラホール博物館など,インド帝国の地方都市においてもインド・サラセン様式の建築が建てられた。そしてさらに英領マレーシア,また,イギリス本国にも逆輸入される。インド・サラセン様式のスタイルブックも作られ,日本の近代建築の祖とされるJ.コンドルもインド経由でインド・サラセン様式に触れた上で鹿鳴館を設計するのである。         

インドで活躍した建築家たちの中には,さらに土着的な建築との融合を目指したマドラス大学評議員会館(1873)を設計したR.F.チザムChisholmがいるが,インドネシアには,帝冠様式的な屋根形状のみで土着の様式を表現する折衷様式が撮られる中で(図4-08),デルフト工科大学出身のM.ポントのインドネシアの伝統的建築と近代建築の構造技術を統合しようと試みるバンドン工科大学(図4-09)やポサランの教会(図4-10)のような例がある。





 5 コロニアル・ハウス

 住居は,地域の自然社会文化経済の複合的表現である。その形態は,気候と地形(微地形と微気候),生業形態,家族や社会組織,世界(社会)観や宇宙観,信仰体系など様々な要因によって規定される。宗主国にはその地域で培われてきた住居の伝統があり,一定の形式やスタイル,それを成立させてきた建築技術がある。そして,植民地にも同様に地域の生態系に基づいて成立し,維持されてきた住居の形態がある。

 構法と材料

 建築材料は現地で調達するのが経済的である。ゴアでは,サバナや熱帯雨林に産出するラテライトlaterite (紅土)が用いられ,漆喰で仕上げられた。また,カリブ海域ではサンゴが石材として用いられた。 インドのケーララやヒマラヤ地方あるいは東南アジアなど木造文化圏では当然木造が用いられる。ジャワに入植したオランダ人たちの住宅にはジョグロと呼ばれる4本柱の架構をそのまま用いたものがある(図5-01)。また逆に,木造住宅に住んできたマレー人が石造のフラットルーフの住宅街を形成したケープタウンのボーカープ(図5-02)のような例もある。南米スリナムのパラマリボにはジャワ人が入植させられるが,全て木造住宅である(図5-03)。



   屋根形態とファサード・デザイン

 民族や地域のアイデンティティは,屋根の形態やファサードのデザインやスタイルに表現される。オランダ植民地の場合,風車とともにオランダ風切妻(ダッチ・ゲイブル)のタウンハウスをそのまま持ち込んだ例がニューアムステルダム(現ニューヨーク)である(図5-04)。カリブ海に浮かぶキュラソーのウィレムスタッドにもオランダ風街並が再現されている(図5-05)。オランダの茅葺農家が建てられた南アフリカの田園都市パインランズのような例もある(図5-06)。 

 熱帯環境

ヨーロッパの住居形式は,熱帯亜熱帯を中心とする植民地の気候風土には基本的に合わない。現地の伝統的民家に学んで様々な工夫が行われるようになる。ジャワに入植したオランダ人たちの場合,洋服を着用し続けて18世紀になってようやくジャワ風の服に切り替えるのであるが,熱帯の気候に適したポーラスな,また気積の大きな住居(図5-07)を建て始めるまでに相当時間がかかっている。バタヴィアの大運河(カリ・ブサール)沿いのトコ・メラ(赤い店)(1730年)(図5-08),郊外住宅として建設された総督邸(1760年,現国立公文書館)(図5-09)は,開口部の大きいのはオランダ風で,階高は高く大型である。

 ヴェランダとバンガロー

植民地住宅として成立し,逆に西欧の住宅に大きな影響を与えたのがヴェランダそしてバンガローである。ヴェランダの語源は,一説にはヒンディ語のヴァランダvaranda(ベンガル語のbaranda)由来のポルトガル語とされる。もともとは格子のスクリーンで区切られた中庭に向かって開かれた空間をいう。ヴァスコ・ダ・ガマがカリカット(コージコーデ)で初めて知ったというが,それ以前にアラブ人たちがマラバール海岸に持ち込んでいた(図5-10)。アラビア語でヴェランダに相当するのはシャルジャブsharjabで,格子スクリーン窓,バルコニーはイタリア語のバルコン(梁)に由来し,2階以上の張り出しをいう。

ヴェランダはやがて外部に作られるようになり,3面あるいは4面をヴェランダで取り囲むバンガローBungalow形式が成立する(図5-11)。ベンガルに一般的に見られる船形を逆さにしたバーングラBanglāと呼ばれる形態が採用されたわけではない。住居形式としてはムガル朝のテント生活をベースとして成立したと考えられ,方形あるいは寄棟屋根住居の四周を囲むのが原型である。インドでは仮設的な住居として使われ,英国人は当初は旅の途次に利用するものとして建設した。

アングロ・インディアで成立したバンガローは,本国に逆輸入され,大英帝国のネットワークを通じて北アメリカやアフリカにも普及していく。1730年代にイリノイでつくられているが,18世紀には英語にもなり,一般化していく。フランスもまたニュー・オリンズなどにバンガロー(ギャラリー)を持ち込む。逸早く一般的な住居形式として定着したのがオーストラリアである。日本にも長崎のグラバー邸(1863)の例がある。バンガローは,9世紀前半にイギリスで発明されて世界中に一気に広がったトタン(亜鉛鍍鉄板,コルゲート)屋根とともに,植民地化による建築文化のグローバルな拡散の象徴である。

 コートハウス

古今東西一般的な都市型住居の形式はコートヤード・ハウス(中庭式住居)であるが,イベロ・アメリカに持ち込まれたのはパティオのある住居である。その規模,形式には都市によって様々な形式がある。ハバナには中2階を設けた形式もある(図5-12)。ヴィガン(フィリピン)には,バハイ・ナ・バト(石の家)と呼ばれる木骨2階建てで1階が石造で2階を生活面とする形式が成立した(図5-13)。

         

 ショップハウス

バタヴィアには,オランダの街区のような切妻を街路に向けて中庭を囲む形式が持ち込まれるが(図5-14ab),インドネシアでは必ずしも一般化しない。都市型住宅として定着するのは,ショップハウス(店舗併用住宅)である。店屋の英語訳がショップハウスであり,その形式は中国南部が起源とされる。東南アジアに普及していくことになるのはS.ラッフルズがシンガポール建設の際にアーケード付の形式を採用して以降である(図5-15)。アーケード(ポルティコ)は,スペイン植民都市のプラサ・マヨール(中央広場)の周囲に設けられるが,その起源はギリシャのストアに遡る。一方,中国には亭仔脚と呼ばれる雁木形式のものがあり,シンガポールでは洋の東西の伝統が融合したかたちとなる。

バラック

西欧が植民地に生み出した最も大量な住居形式はバラックbarrackと総称される。戦場における簡易な兵舎をいうが,現地労働者を収容するために用いられた。シンガポールのショップハウスももともと中国人労働者の収容を目的とするものであった。輸送中の奴隷の宿舎はバラクーンbararacoonと呼ばれ,カタルーニャ語,スペイン語にはバラックbarraqueという言葉は早くからある。西アフリカから大西洋を輸送中はバラクーンに収容され,「新大陸」に着くとバラックに居住させられるのである。南アフリカではホステル(簡易宿泊所)とも呼ばれたが,金やダイヤモンドの鉱山の強制収容所に大量につくられた(図5-16)。インドには,チョウルと呼ばれる長屋形式のバラックが生まれ,やがて高層住宅の形式が生み出される。

   Ⅲ 東南アジア建築史

 台湾建築史を念頭に、東南アジア地域の建築史をグローバルヒストリーの視点から考えてみよう。

 大きな空間区分として、ユーラシア大陸全体はまず都市文明の発祥地に着目していくつかの文明生態圏にわけることができるが(図Ⅲ-01)、さらに、.アジアは「コスモロジー・王権・都城」連関にもとづく都城思想(理念)をもつA地帯とそれをもたないB地帯とに二分される。そして、以下が指摘できる。.A地帯は、都城思想(理念)を生み出した核心域とそれを受容した周辺地域という「中心ー周辺」構造をもつ。また、.A地域の核心域は2つ(古代インドA1と古代中国A2)存在する。それぞれは都城思想(理念)を表す書物『アルタシャーストラ』(A1)『周礼』考工記(A2)をもつ(図Ⅲ-014.B地域(西アジア)にコスモロジーに基づく都城理念(都市のかたちをコスモスの表現とみなす考え方)はない5. イスラームには、一つの都市を完結した一つの宇宙とみなす考え方はない。メッカを中心とする都市のネットワークが宇宙(世界)を構成する.6.イスラームは、都市全体の具体的な形態については関心をもたない。イスラーム圏の諸都市の形態は地域によって多様である。7.イスラームには、イスラーム固有の都市の理念型を現す書物はない。東南アジア地域は、A1,A2そしてBから影響を受けてきた。


 世界史の大きな時代区分として、①ホモサピエンスの地球全域への拡散②定住革命/農耕革命③都市革命④帝国の誕生⑤ユーラシアの連結 モンゴルインパクト⑥環大西洋革命 近代世界システムの形成 ウエスタン・インパクト⑦産業革命⑧情報革命A 火器の出現-攻城法B 航海術,造船技術 馬と船C 産業革命 都市と農村の分裂D 近代建築―建築生産の工業化―E 交通革命 自動車,飛行機F 情報通信技術)を念頭にすると、世界建築史は、Ⅰ ヴァナキュラー建築の世界、Ⅱ 古代都市文明と建築、 世界宗教と建築、仏教・ヒンドゥー教・キリスト教・イスラーム教、 西欧世界と植民地建築、 産業革命と近代建築、Ⅵ グローバリゼーションの時代に大きく時代区分できる。東南アジア地域は、ヴァナキュラー建築、ヒンドゥー・仏教建築、イスラーム建築、中国建築、植民地建築、近代建築、グローバル建築を区別することによって豊かに記述することができる。

 東南アジアのヴァナキュラー建築については、『東南アジアの住居 その起源・伝播・類型・変容』[vi]に委ねたい。これはタイ系諸族に焦点を当てているが、プロトオーストロネシア世界を視野に置けば台湾も含めて議論できる[vii]

 ヒンドゥー・仏教建築については、ボロブドゥール(図Ⅲ-03)、バイヨン(アンコール・トム)(図Ⅲ-04)といった同時代のヨーロッパにはない世界的な建築の伝統が東南アジアにはある。インド世界、中国世界を含めて様々な比較研究が可能である。仏教建築の世界史については『世界建築史15講』に素描を示した[viii]


 イスラーム建築については、それこそグローバルな視野における検討が可能である。台湾にはその波が強く及ぶことはなかったけれど、中国南部にはいわゆる「海のシルクロード」によってイスラームは受容されてきた。マレーシア、インドネシアなどでは、イスラーム建築史はナショナル・アイデンティティに深く関わっている。

 西欧建築の世界中への伝搬については、その位置づけの視点を含めて、上で様々な事例を示した(Ⅱ)。西欧建築との比較研究のテーマは膨大に残されている。とりわけ、近代建築の受容と葛藤のプロセスは丹念に掘り起こされるべきである。インドネシアには、M.ポント(図Ⅲ-05)やT.カールステン(図Ⅲ-06)という興味深いオランダ人建築家の事例がある。

 



 おわりに

 芸術(建築)の歴史は人類の歴史である。芸術(建築)する能力を獲得したこと、すなわち、空間認識そして空間表現の能力を得たことが,そもそもホモ・サピエンスの誕生に関わっている。芸術(建築)の世界史は、従って、人類そのものの歴史、人類が表現してきたものの歴史として書かれる。人類の居住域(エクメーネ)を「世界」と考えるのであれば,ホモ・サピエンスの地球全体への拡散以降の地球全体を視野においた「世界史」が必要である。

 しかし、書かれてきたのは,「国家」の正当性を根拠づける各国の歴史である。一般に書かれる歴史はそれぞれが依拠している「世界」に拘束されている。「国民国家」の成立以降、「国家」という枠組みが大きく歴史叙述を規定してきた。その枠組みをどうグローバルに開いていくかが今問われている。

 芸術(建築)の世界史あるいは世界の芸術(建築)史をどう叙述するかについては,そもそも「世界」をどう設定するかが問題なる。予め確認すべきは、芸術(建築)の世界史は決して一元的な歴史とはならないことである

 積み重ねるべきは、地域のディテールに世界(史)をみる試みである

 

 

 



[i] 布野修司(1987『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文,東京大学1991、日本建築学会論文賞受賞)布野修司1991)『カンポンの世界,パルコ出版,1991

[ii] 都市をひとつのあるいは複数の組織体とみなし,そのかたちとその組織編成に焦点を当てるのが「都市組織urban tissuesurban fabrics),tessuto urbano」論である。都市を,有機体が遺伝子,細胞,臓器,血管,骨など様々な生体組織からなっているように,「都市組織」からなっていると考えるのである。「都市組織」という概念は,都市を建築物の集合体と考え,集合の単位となる建築の一定の型を明らかにする建築類型学(ティポロジア・エディリツィア)で用いられてきた。イタリアの建築家サヴェリオ・ムラトーリ(191073)が創始したとされるが,地形(じがた)(敷地の形)に従って規定される建築類型の歴史的変化をもとに都市の形成過程を明らかにする方法として注目されてきた。建築物(住居)の集合からなる「街区(イゾラートisolato)」を単位として,「地区(セットーレsettore)」が構成され,その集合が「都市(チッタcitta)」となる段階構成を考えるのである。身近な家具やベッドからなる寝室や今から,建築,街区,そして都市まで一貫して構成しようとする建築都市構成理論においても「都市組織」という概念は用いられる。オランダのN.J.ハブラーケン(1928年~)が主導してきた都市建築設計方法論。建築物をいくつかの要素(部屋,建築部品,…等々)あるいはいくつかのシステム(躯体,内装,設備,…等々)からなるものと考え,身近な家具やベッドからなる寝室や居間などの部屋,住居,建築,街区,そして都市まで一貫して構成しようとする

 具体的には,都市のフィジカルな基盤構造(インフラ・ストラクチャー)としての空間の配列,編成に着目し,その空間構成の理念,原理,計画手法を考える。「都市組織」という概念は,共同体組織,近隣(コミュニティ)組織のような社会集団の編成が都市の空間構成の大きな規定要因となることを前提としている。集団内の諸関係,さらに集団と集団の関係によって規定される空間の配列,編成を問題とする

[iii] 布野修司(2006『曼荼羅都市-ヒンドゥー-都市の空間理念とその変容』京都大学学術出版会布野修司・山根周(2008『ムガル都市-イスラ-ム都市の空間変容』京都大学学術出版会 布野修司(2015『大元都市-中国都城の理念と空間構造-』京都大学学術出版会Shuji Funo & M.M.Pant2007),Stupa & SwastikaKyoto University Press+Singapore National University Press

[iv] ロバート・ホーム(2001)『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』,布野修司+安藤正雄監訳, アジア都市建築研究会訳,京都大学学術出版会(Robert Home1997),” Of Planting and Planning The making of British colonial cities” E & FN SPON布野修司編(2005)『近代世界システムと植民都市』,京都大学学術出版会布野修司・ヒメネス・ベルデホ,ホアン・ラモン(2013『グリッド都市-スペイン植民都市の起源,形成,変容,転生』京都大学学術出版会布野修司・韓三建・朴重信・趙聖民(2010『韓国近代都市景観の形成-日本人移住漁村と鉄道町-』,京都大学学術出版会

[v] 布野修司編(2003)『アジア都市建築史』,アジア都市建築研究会,昭和堂(布野修司(2011)『亜州城市建築史』,胡恵琴・沈謡訳,中国建築工業出版社,2009布野修司編(2005)『世界住居誌』,昭和堂(布野修司(2010)『世界住居』,胡恵琴訳,中国建築工業出版社)

[vi] 布野修司+田中麻里+ナウィット・オンサワンチャイ+チャンタニー・チランタナット2017『東南アジアの住居 その起源・伝播・類型・変容』京都大学学術出版会,2017

[vii] 佐藤浩司「オーストロネシア世界から見た台湾原住民の建築」『世界・地域及多元當代視野下的台湾芸術史』201911.16-17

[viii] 黄蘭翔・布野修司「Lecture09「仏教建築」の世界史 起源・類型・伝播」、布野修司「Column09 ストゥーパ その原型と形態変容」『世界建築史15講』