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2021年11月5日金曜日

カンポンとカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP) Kampung and Kampung Improvement Program(KIP) 布野修司 Shuji FUNO

  日本建築学会2021年度大会(東海)「都市インフォーマリティから導く実践計画理論」[若手奨励]特別研究

パネルディスカッション資料


【インフォーマル居住地×臨地調査・研究・実践】

 カンポンとカンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP)

Kampung and Kampung Improvement Program(KIP)

 

布野修司1)

Shuji FUNO

 1)日本大学客員教授(funoshuji0810@gmail.com

 Visiting Professor, College of Industrial Technology, Nihon University, Dr. Eng.

 

I wrote my dissertation titled "Study on Transformation of Living Environment and Its Improvement Method in Indonesia-Methodological Consideration on Housing Planning Theory" in 1987 and summarized the essence for the general public as “The World of Kampung”in 1991, and then 30 years later, and all the lessons learned in the last 40 years are summarized in this year's "Surabaya Southeast Asian City Origin, Formation, Transformation, Reincarnation. -Kampon as Cosmos- "(Kyoto University Academic Press). This book is a financial statement (answer) related to the author's criticism of architectural planning, which originated in architectural planning. This article is a few comments based on this book in terms of informal settlements. 

カンポン,カンポン・インプルーブメント・プログラムKIP,インヴォリューション ,都市村落

Kampung, Kampung Improvement Program(KIP), InvolutionUrban Village

1. はじめに 

建築計画学研究を出自とする筆者は,やがて自らの研究ごとを「都市組織研究」と呼ぶようになるのであるが,その基本としてきたのは臨地調査Field Surveyである。そして,その実施に当たっては以下のような心得を常に意識し,協働者と共有してきたつもりである。 

歩く,見る,聞く―臨地調査心得七ヶ条

1 臨地調査においては全ての経験が第一義的に意味をもっている。体験は生でしか味わえない。そこに喜び,快感がなければならない。

 2 臨地調査において問われているのは関係である。調査するものも調査されていると思え。どういう関係をとりうるか,どういう関係が成立するかに調査研究なるものの依って立っている基盤が露わになる(される)。

 3 臨地調査において必要なのは,現場の臨機応変の知恵であり,判断である。不測の事態を歓迎せよ。マニュアルや決められたスケジュールは応々にして邪魔になる。

 4 臨地調査において重要なのは「発見」である。また,「直感」である。新たな「発見」によって,また体験から直感的に得られた視点こそ大切にせよ。

5 臨地調査における経験を,可能な限り伝達可能なメディア(言葉,スケッチ,写真,ビデオ・・・)によって記録せよ。如何なる言語で如何なる視点で体験を記述するかが方法の問題となる。どんな調査も表現されて意味をもつ。どんな不出来なものであれその表現は一個の作品である。

6 臨地調査において目指すのは,ディテールに世界の構造を見ることである。表面的な現象の意味するものを深く掘り下げよ。 

7 臨地調査で得られたものを世界に投げ返す。この実践があって,臨地調査は,その根拠を獲得することができる。

 

『スラバヤーコスモスとしてのカンポンー』

東洋大学の磯村英一学長主導の国際研究プロジェクト「東洋における居住問題の理論的実証的研究」(19781982年)でジャカルタの「カンポン」を訪れた19791月以来,文化遺産国際協力コンソーシアムJCIC-Heritageの「スラウェシ島地震復興と文化遺産調査」(20201月)まで,筆者のインドネシア行は28回に及ぶ。中でも度々訪れることになったのは,東ジャワ州の州都スラバヤである(23回)。

『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ハウジング計画論に関する方法論的考察』(学位請求論文,東京大学,1987年)を書いて,そのエッセンスを一般向けにまとめた『カンポンの世界ージャワの庶民生活誌』を上梓したのが1991年,それからさらに30年,この40年に経験し学んだことの全てをまとめたのが『スラバヤ スラバヤ 東南アジア都市の起源・形成・変容・転生コスモスとしてのカンポン』(京都大学学術出版会,2021)である。

新著は,建築計画学を出自とする著者の建築計画学批判に関わるひとつの決算の書(解答書)である。

19791月,はじめてインドネシアの地を踏んでバラックの海と化したカンポンに出会い,戦後日本において建築計画学が果たした役割を思い起こしながら,ここで求められているのは日本と同じ解答ではない,と直感した。以降,別の解答を求めて、毎年のように通い,臨地調査を継続することになった。

何故,スラバヤかについては,最初のインドネシア調査行で,バンドンの建築研究所のD. スミンタルジャ[1]を尋ね,そこでたまたまバンドン工科大学 ITB に集中講義にきていたスラバヤ工科大学ITSのジョハン・シラスという巨人に出会ったことが決定的である。その時手渡された論文[2]に刺激されて,スラバヤの「カンポン」を臨地調査の対象地に定め,再びシラスに会いに行ったのが18822月である。J.シラスはスラバヤ中を案内してくれて、「カンポン」という都市のなかのムラ的な共同体のあり方,その相互扶助に基づいた居住環境整備KIPについて説明してくれた。

この間の共同作業,ルスン(積層住宅)モデルの開発,スラバヤ・エコハウスの建設,クリーン&グリーンKIPの新たな展開などは新著に譲るが,つくづく思うのは,研究=実践なるものの原点は現場(フィールド)であり,それを支える諸関係の束ということである。

臨地調査の遂行に当たっては,相互理解が不可欠である。冒頭に掲げた心得の「2 臨地調査において問われているのは関係である。調査するものも調査されていると思え。どういう関係をとりうるか,どういう関係が成立するかに調査研究なるものの依って立っている基盤が露わになる(される)。」ということである。J.シラスのグループと長期にわたる関係を維持できたことは,実に幸運であった。

 

3. カンポンとコンパウンド

最初にジャカルタのホテルに着いて荷も解かずにいきなりコタのグロドックGlodok地区の「カンポン」を歩き回って,活気に満ちた生活感溢れる光景になんとも言えない感動を覚えた。「カンポン」研究の出発点にあるのはこの「感動」である。

「カンポン」はもとより「スラム」ではないし,「インフォーマル・セツルメント」などではない。人間居住(ヒューマン・セツルメント)のひとつの魅力ある形態である。「カンポン」は,マレー(マレーシア・インドネシア)語で,「ムラ(村)」を意味する。カンポンガンkampunganと言えば,イナカモンという意味である。興味深いことは,都市の居住地がカンポンと(ムラ)呼ばれることである。インドネシアの行政村はデサdesaである。カンポンそしてデサ,クルラハンなどインドネシアにおける村落共同体に関わる概念をめぐる議論は新著に譲るが,デサが,デサ的要素を残しながら都市において再統合されたものが「カンポン」である。

『カンポンの世界』を書いた時には,スラバヤのカンポン以外の視点はなかった。しかし,椎野若菜氏に論文(椎野若菜「「コンパウンド」と「カンポン」:居住に関する人類学用語の歴史的考察」『社会人類学年報』262000年)を送って頂いて,「カンポン」が「コンパウンドcompound」の語源であることを知った。

コンパウンドの語源がカンポンであるということは,カンポンについて考えることが,世界中の「ムラ」,少なくとも,大英帝国が植民地とした地域の「ムラ」について考えることに繋がるということである。発展途上地域の植民都市研究を開始するのは,コンパウンド=カンポン起源説に導かれてのことであった。

 

4. RTと隣組

 そしてまた,太平洋戦争時の日本軍政期から独立後の脱植民地期にかけてのカンポンの住民組織ルクン・タタンガrukun tetanggaRT(エル・テー):隣組)と日本の町内会システムが深く結びついていることは,とりわけ日本人にとって考究すべき大きなテーマである。

日本(内務省)は,大東亜戦争遂行のための総力戦体制を敷くために大衆動員の施策として,「部落会・町内会等整備要綱」(内務省訓令17号)を発令し(19409月),隣保組織として510戸を1組の単位とする隣保班を組織する。そして,町村の末端としての住民組織を直接掌握するこの隣組・町内会制度は,日本軍政下のジャワにも導入される。この隣保組織のありかたは,カンポンのコミュニティ組織として戦後にも引き継がれるのである。

日本軍軍政当局が隣組tonarigumi制度を導入したのは太平洋戦争末期になってからにすぎない。1944111日に,全ジャワ州長官会議で全島一斉に隣保組織を設立することを発表し,これに続いて「隣保制度組織要綱」が出されるのである。

軍政監部は,1月から数ヶ月間,各地で説明会や研修会を各地で開催し,モデル隣組がつくられた。研修会では,幹部となる州庁役人に対する研修では行政一般に加えて,隣組の理論と実践,ジャワ奉公会の組織と活動,防衛義勇軍と兵補家族の保護,農民組織(ルクン・タニ),地方行政と隣組,食糧増産などが講義され,江戸時代の五人組制度の歴史についての講義も行われたという。州役人は,地域に帰って郡長や村長を訓練し,末端にその意義を伝えるのであるが,一般住民に対しても,隣組がジャワ社会の伝統であるゴトン・ロヨンの精神に根ざすこと,また,イスラームの教えにも一致するものであることなどが宣伝された(倉沢愛子『日本占領下のジャワの農村の変容』1992)。

 

5. 開発独裁とカンポン

日本の無条件降伏によって,インドネシアは独立戦争を戦うことになるが,RTそして字azaはルクン・カンポンrukun kampung=airka’エルケーRK’として,存続する。すなわち,税の徴収,住民登録,転入転出確認,人口・経済統計,政府指令伝達,社会福祉サーヴィスなどの役割を果たした。ただ,フォーマルな政府機関とはみなされない。

1960年にRT/RWに関する地方行政法(Peraturan Daerah Kotapradja Jogjakarta no.9 Tahun 1960 tentang Rukung Tetangga dan Rukun Kampung)が施行されるが,基本的には,RT/RKを政府や政党からは独立した住民組織として認めるものであった。RT/RKを政府機関に組み込む動きが具体化し始めるのは,1965930日のクーデター以降の新体制になってからである。RT/RKは次第に独立性を失っていくが,ひとつの画期となるのは1979年の村落自治体法(Village Government Law 5)の制定である。地方分権化をうたう一方,中央政府権力の村落レヴェルへの浸透を図るものである。そして,大きな変化として導入されるのがルクン・ワルガRWという,RTをいくつか集めた新たな近隣単位である。1983年に,インドネシア全域に対して,RT/RWに対する新たな規定として内務大臣決定(Peraturan Menteri Dalam Negari No.7/1983)(「規定」7号)が行われる。RT/RWは,国家体制の機関として組み込まれることになるのである。

インドネシアの場合,以上のように,強制的に組織化されたRT-RWではあるけれど,自律的,自主的な相互扶助組織として存続してきたのは,デサの伝統と隣組の相互扶助の仕組みが共鳴し合ったからである。しかし,それは開発独裁体制の成立過程で,再び,国家体制の中に組み込まれることになる。カンポンの生活を支える相互扶助活動と選挙の際に巨大な集票マシーンとなるのは,カンポンに限らない共同体の二面性である。

 

6 インヴォリューション

「インヴォリューション」(内向進化)とは,もともと人類学者A.ゴールデンワイザーが,未開社会でよくみられるある特定の文化型=「ある確たる型を形成したにもかかわらず,安定もしなければ新しい型へ転換することもなく,むしろその内部でより複雑化することによって展開するような文化型」を説明するために用いた概念である[3]。A.ゴールデンワイザーが比喩として用いたのは,基本的様式は極限に達し,細部の加工,名人芸的な技巧のみによる装飾の細密化を行う「マオリ族の装飾的な芸術」や高さを競って石造建築技術の限界を実現した後は細部の装飾化,その豊かさの表現に向かった「後期ゴシック様式」である。

このカルチュラル・インヴォリューションの概念を,農業生産に適用したのがC.ギアツのアグリカルチュラル・インヴォリューションである。平たく言えば,「一定の耕地面積において,労働投入量を増加させることだけで,農業生産量を増加させていくシステム,技術革新なき変化のパターン」「労働集約化のみによって生産を増加させていく,農業の内向的発展」がインヴォリューションである。19世紀のジャワの農業生産はまさにこの「インヴォリューション」という概念によって捉えられると提起したのが『農業のインヴォリューション』(Geertz 1963)である。

アグリカルチュラル・インヴォリューションに対してアーバン・インヴォリューションという概念が提出される[4]。都市への大量流入人口が,雇用機会のないままに,第3次産業のみに従事し,仕事を細分化することによって貧困を分かち合う,そうした現象をアーバン・インヴォリューションと呼ぶのである。確かに都市の生産力そのものはさして上昇しないにも関わらず,一貫して増加し続ける人々が生活していくためには,都市サーヴィス部門における仕事の数を増やし,限られたペイを分け合うことが必要となる。結果として,大量の都市貧困者が生み出される。

発展途上国の大都市の人口が急激に増加するのは,第二次世界大戦後,1960年代から70年代にかけてのことである。アーバン・インヴォリューションと呼びうる過程が共通にみられたのは,その人口爆発の過程においてである。都市への流入人口の受け皿になったが,いわゆるインフォーマル・セクターである。都市貧困層の生活を支える生業の形態は実にさまざまである。しかし,そのほとんどは,サーヴィス業,小売業に集中し,また必ずしも一般的な産業分類には含まれないものが多い。いわゆる,インフォーマル・セクターに従事するものがほとんどである。都市インフォーマル・セクターの存在にはじめて注目したILOに依れば(ILO,"Employment, Incomes and Equity: A Strategy for Increasing Productive Employment in Kenya", Geneva,1972),その特徴は以下のようである。すなわち,

 a.新規参入が容易であること, b.現地の資源を利用していること,c.家族経営が中心であること,d.小規模であること, e.労働集約的で技術水準が低いこと,f.労働者の技能が正規学校教育の外側で得られていること, g.市場が公的な制約を受けることなく競争的であること,である。

 

7 W.R.スプラットマンKIP

KIPの歴史はオランダ植民地期に遡る。オランダ語で,文字通りカンポン改善(カンポンフェアベタリングkampongverbetering)という。

 バタヴィア(1905年)に続いてスラバヤに自治体が設けられるのは1906年である。自治体は,独自の法律と選挙による議会に基づいて設置され,オランダ人理事(レヘント)とジャワ人首長(ブパティ)からなる市政府によって運営されたが,基本的に,全てを決定するのは,オランダ植民地政府の内務部(Binnenlands Bestuur)であった。自治体は,法と秩序の維持,道路,運河,橋梁など基本的なインフラストラクチャーの建設を主な役割とした。

20世紀に入って,急速な都市化によってさまざまな問題が出現する。過密化し,上下水道のない,またごみ処理を欠いた不衛生な居住環境のために,しばしばペスト,コレラ,マラリアなどの伝染病が発生した。オランダ領インドで最も人口の多かったスラバヤは,最も不衛生な都市であり,20世紀に入って,1900年,1902年,1908年とたて続けに伝染病が発生している。そして,1918年のスペイン風邪の発生は極めて大規模なものであった。スラバヤ市がカンポン改善に乗り出す背景にあるのは居住環境の悪化による衛生問題である。

1920年代半ばまで,植民地政府もスラバヤ市も,基本的にカンポンには手をつけていない。基本的には間接統治であり,カンポンの自治は認めてきた。スラバヤ市政府は,1925年からカンポン改善実施していった。具体的には,下水道,水浴・トイレ施設,ごみ処理施設を改善し,メーター付きの水道設備を設置する。そして,道路の舗装を行う。基本的に,1960年代末以降に行われるKIPと同じである。ただ,オランダ人居住区に疫病や火災の発生などの影響が危惧される場合に限って,カンポンの改善を行わうのが前提であった。

独立後約20 年は ,カンポン対してほ とんど何の施策も行われない。ただ,50年代半ば以降 ,スラバヤにおいては,カンポンの居住者による自発的な改善活動が行われ,それを市当局が支援する試みがなされている。

カンポンの居住環境改善について逸早くカンポン改善に取り組んだのはスラバヤである。それまでのカンポン改善への補助施策の延長として,寄付金をもとにコンクリート・ブロックやコンクリート板を供給し,カンポン住民が自主的に道路の舗装や下水道を整備するプロジェクトを開始するのである。1968年に,開始されたそのプロジェクトは,スラバヤ出身の作曲家に因んでW.R.スプラットマンKIPと呼ばれた。

こうして,自治体ベースで開始されたKIP ,やがて国家的政策となる。そして,世界銀行の融資が開始されるの は,1974年である。世界銀行による融資はまずジャ カルタに対して行わ れ (Urban I 7476  ,76 年からはスラバヤにおいても行われた Urban 7779 )。「ワールドバンクKIPは遅れてやってきた」のであった。

 

8 リスマとクリーン&グリーンKIP

スハルト退陣後の2002年以降,スラバヤでは,バンバン・デウィ・ハルトノBambang Dwi Hartono2002-10),トゥリ・リスマハリーニ(2010-20152016-)と闘争民主党DPI-P(Partai Demokrasi Indonesia Perjuangan)の市長が市政を担う。トゥリ・リスマハリーニ,愛称リスマ市長は,スラバヤ工科大学ITSの建築学部の出身である。すなわち,シラスの弟子である。

 リスマ市長は,20109月に就任すると,「1.スマートシティライフの構築,2.人道的都市の表現,3.地域密着型経済の実現,4.環境に優しい活気のある都市」をヴィジョンとして,積極的な施策を展開してきた。

 とりわけ興味深いのはクリーン&グリーンKIPである。

それ以前のKIPの進化といっていいが,①緑化,②生ゴミのコンポスト化,③ゴミの分別収集と廃棄物のリサイクル,④廃棄物利用の工芸品の製造を柱にしている。特にアーバン・ファーミングという緑化施策がいい。また、カンポンの経済的自立を目指してスモール・ビジネス事業を展開する。

 スラバヤ市31 のすべてのクチャマタンでさまざまな施設や人を対象にセミナーが実施され,各カンポンに,環境問題に関心があり,取り組みに意欲的な市民を環境ファシリテーターとし 住民の意欲向上や環境改善を手助けするためにフォローを行う役割を与え,配置している。また,廃棄物管理システムの規模拡大をはかるため,地元NGO団体や婦人団体PKKと連携し,RWが廃棄物管理システムを基に独自にはじめたコミュニティベースでのプログラムを支援する仕組みを新たにつくっている 

リスマの施策は,日本でも展開できるのではと思う。それが経験交流であり,相互学習である。まずは、自らが依拠する地域コミュニティを問う、それが基本である。

筆者は、この間、京都CDL(コミュニティ・デザインリーグ)、近江環人(コミュニティアーキテクト)地域再生学座などを展開してきたが、この間、スラバヤとJ.シラスに学んできたこと、それに応答し、それに匹敵する運動を展開し得たかどうかについては甚だ疑わしい。

 



[1] 建築史家:Djauhari Sumintardja1981),著作に“Kompendium Sejarah Arsitektur Jilid I”, Bandung: Yayasan Lembaga Penyelidikan Masalah Bangunan など。

[2] Silas, Johan1979, ‘Housing priorities of the marginal settlers in Surabaya’, unpublished manuscript, Faculty of Architecture, ITS,Surabaya

[3] A.ゴールデンワイザー Alexander Goldenweiser:""Loose Ends of a Theory on the Individual Patterns and Involution in Primitive Society",in R.Lowie(ed.),Essays in Anthropology Presented to A.L.Kroeber,Berkley,University of California,1936

[4] W.R.Armstrong and T.G.McGee,Revolutionary Change and the Third World City:A Theory of Urban Involution,Civilizations,1968H.D.Evers,Urbanization and Urban Conflict in Southeast Asia,Asian Survey,1975

2021年10月23日土曜日

韓国近代都市景観の形成:段煉孺・李晶主編:『中日韓建築文化論壇 論文集』中国建築工業出版社

 韓国近代都市景観の形成:段煉孺・李晶主編:『中日韓建築文化論壇 論文集』中国建築工業出版社、20214 


韓国近代都市景観の形成

Formation of Modern Korean Urban Landscape

Spatial Formation and Transformation of Japanese Colonial Settlements in Korea

 

 

布野修司

 

 本稿は、布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民著『韓国近代都市景観の形成-日本人移住漁村と鉄道町-』(京都大学学術出版会,20105月)のエッセンスをまとめたものである。本共著の目次は、大きくは、序章 韓国の中の日本と景観の日本化、第Ⅰ章 韓国近代都市の形成、第Ⅱ章 慶州邑城、第Ⅲ章 韓国日本人移住漁村、第Ⅳ章 韓国鉄道町、終章 植民地遺産の現在、である。第Ⅱ章は、韓三建『韓国における邑城空間の変容に関する研究-歴史都市慶州の都市変容過程を中心に-』(京都大学,199312月)、第Ⅲ章は、朴重信『日本植民民地期における韓国の「日本人移住漁村」の形成とその変容に関する研究』(京都大学,20053月)、第Ⅳ章は、趙聖民『韓国における鉄道町の形成とその変容に関する研究』(滋賀県立大学,20089月)の学位論文がもとになっている。

 

 韓国の中の日本と景観の日本化

『韓国近代都市景観の形成』が対象とするのは, 朝鮮(韓)半島の古都慶州,そして日本植民地期に形成された「日本人町」「日本人村」である。朝鮮王朝時代に各地方におかれていた,慶州に代表される「邑城」が植民地化の過程でどのように解体されていったのか,その伝統的な景観をどのように失ってきたのかを明らかにすること,そして「日本人町」「日本人村」がどのように形成され,解放後どのように変容していったのかを明らかにすることをテーマにしている。具体的に取り上げているのは,かつての王都であり,朝鮮時代に「邑城」が置かれていた慶州の他,日本植民地期に形成された「鉄道官舎を核として形成された「鉄道町」(三浪津,安東,慶州,そして「日本人移住漁村」として発展してきた巨文島,九龍浦,外羅老島である。

『韓国近代都市景観の形成』がテーマとするのは韓国における近代都市景観の形成である。焦点を当てるのは,街並み景観,都市施設のあり方,街区構成,居住空間の構成であり,その変容について臨地調査を基に明らかにしている。

19世紀後半,急速に進んだ「開国」によって,朝鮮半島の社会は大きく変動していくことになる。近代都市の形成もその社会変動の一環である。

朝鮮時代の地方に置かれた「邑城」,開国以降の過程で解体される。もともと,「邑城」は,儒教を国教とした中央集権国家を打ち立て,維持する上で,地方統治の装置として設置された。中心に置かれたのは「客舎」であり,東軒」といった官衙施設であり,その他の宗教施設も商業施設も城壁内には置かれなかった。「邑城」は「地方の中の中央」であった。その「邑城」に植民地化に相前後して日本人が居住し始めると,日本の統治機構のために朝鮮時代の官衙施設などを改築し,あるいは解体新築することになる。そして,土地を取得して,日式住宅」を建て,商店街を形成するようになる。「邑城」,こうして「韓国の中の日本」となった。

「江華島条約丙子修好条約・日朝(韓日)修好条規)」1876227日)によって,釜山を開港させられ,「日本専管居留地」が設置されて以降,元山1879年),漢城,龍山1982年),仁川1883年),慶興1888年),木浦,鎮南浦1897年),群山,城津,馬山,平壌1899年),義州,龍巌浦1904年),清津1908年)と次々に「開港場」「開市場が設けられた。そして,「開港場」「開市場」に設けられた「日本専管居留地」「共同租界」,朝鮮半島にそれまでになかった景観(都市形態,街並み,建築様式)を持ち込むことになった。

 しかし、朝鮮時代の伝統的都市や集落の景観と異なる景観がより広範囲に導入されたのは,半島全域を鉄道線路で結んだ鉄道駅とその周辺に形成された「鉄道町」を通じてである。「開港場」「開市場」が置かれ,その後韓国の主要都市となった都市も含めて,半島の各地域の中心都市となった都市のほとんどは,鉄道駅を中心とする「鉄道町」を核として形成された都市である。「鉄道町」は,朝鮮時代以来の集落や街区とは異なるグリッド・パターン(格子状)の街区をもとにした新たな町として整備された。そして,「鉄道町」の中心には,「鉄道官舎」地区など日本人居住地が形成され,日本人が建てた建物が街並みを形成することになった。

そしてもうひとつ,「日本人移住漁村」もまた,「開港場」とは別に,はるかに一般的なレヴェルで,新たな景観を朝鮮半島にもたらすことになった。海岸部に接して密集する形態をとる日本の漁村と丘陵部に立地し,半農半漁を基本とする朝鮮半島の漁村とはそもそも伝統を異にしていた。「日本人移住漁村」の出現は,伝統的な集落景観に大きなインパクトを与えるのである。

開港期に造られた居留地(租界)の都市構造やそれを構成した建築様式を眼にすることは,朝鮮人にとって「近代」との最初の接触経験である。そして,全国的に広く形成された「鉄道町」や「日本人移住漁村」の「日式住宅」やそれが建ち並ぶ街並みは朝鮮人の都市,建築に関わる理念の変化に最も大きな影響を与えることになる。そして,朝鮮半島の居住空間のあり方そのものを大きく変えることになった。

 

 1 韓国近代都市の形成

 朝鮮半島における都市の起源は,日本同様,中国に求められる。すなわち,朝鮮半島最初の都市は, 三国,すなわち高句麗・百済新羅の王都に始まると考えられる。そして、朝鮮半島の都市の伝統は,朝鮮王朝時代の都城および「邑城」に遡る(図1①朝鮮時代の府・邑・面)。開国とともに出現することになる「開港場」「開市場」は、全く新たな都市である(図1②)。さらに,日本植民地期における近代都市計画導入が朝鮮半島の都市を大きく変えていくことになった(図1③市街地計画令適用都市)。


 

 2 慶州邑城

 慶州邑城の空間構成,その骨格をなす街路体系については,朝鮮末期に描かれたと推測される『慶州邑内全図』(図Ⅱ①)と『集慶殿旧基帖』が手掛かりとしてある。城壁内部の幹線道路は,他の「邑城」と同じく東西南北の城門を結ぶ十字街である。『舊基帖』の表記によると,十字路の中心から東門に至る街路は「東門路」,反対側は「西門路」である。中心から南北方向の道路の名称は確認できない。ただ,邑城の南門から南に延びる道路は「鐘路」と呼ばれたことがわかっている。この道沿いに「奉徳寺の大鐘」をぶら下げた鐘楼があったためである。

  『邑内全図』では小路は「客舎」の周辺に集中している。具体的には「客舎」の西側にある慶州邑城で最も広い街路と,「客舎」の東側にある郷射庁,府司,戸籍所,武学堂などの諸機関とを結ぶ接近路がそうである。

 『邑内全図』と地形図を比較してみると,100年を越える時間差があるのにもかかわらず,大きな変化は見あたらない。

 旧邑城とその周辺部を対象にし,土地台帳と地籍図をもとに変化をみると、邑城内部の東部里には国有地が最も広く分布し、終戦までほとんど所有者が変わらない。国有地には,郡庁舎,警察署,法院支庁,官舎などが立地し朝鮮時代の施設を再利用した。東部里における日本人の所有土地は,植民地時代の全期間において大きく増加した。それに対して朝鮮人の土地は大幅に減少した。終戦時点では,査定時に朝鮮人が所有していた旧邑城内土地の5割が減少し,邑城内に居住していた朝鮮人の半数が押し出されたことになる(図2②)。また,時期が下がるにつれ,日本人地主の出現が見られる。城内でも,朝鮮人が密集して居住していた北部里には,日本人所有地の増加はそれほど見られない。しかし,城外の路東里と路西里は宅地化が進み,終戦の段階でほぼ全てが宅地化される。ここでは,全体的な朝鮮人所有土地面積は減少していたが,宅地は面積が増加している。


 朝鮮時代の「邑城」には地方統治のための施設のみが集中しており,住民もこれらの施設に務める身分の低い階層が大多数を占めていた。「邑城」に居住しながら「守令」と地元住民の中間関係に立ち,地方官庁の実務を担当していた「郷吏」階層でさえ,本来は「邑城」の中では居住することが許されなかった。「邑城」の城門は,毎日決まった時刻に開閉され,用のない人々の出入りを禁止していた。また,僧侶などの「賎民」は「邑城」への出入りが許されていなかった。朝鮮末期の慶州邑城の光景を撮影した写真に,城門の前に,聖なる場所の入り口に建てる「紅箭門」が建てられているのを見ても,「邑城」は精神的な意味でもヒエラルキー的に区別された場所であった。

  朝鮮時代の地方都市,つまり「邑城」や統治施設が集中する地区は,空間的に中央の直接的な支配下に置かれていた。日本による植民地支配が始まると,空洞化した「邑城」の内部に,それまでの朝鮮人官吏に代わって,日本人官吏が入ってくることになった。官庁に務めていた「邑城」内の住民も失業者となり,他の職をもとめて「邑城」を去って行った。 邑城の内部は,朝鮮時代には「地方における中央」であり,植民地時代には「韓国における日本」であった。

 

 3 韓国日本人移住漁村

「日本人移住漁村」は,補助移住漁村」と「自由移住漁村」に分けられる。各府県,水産組合,「東洋拓殖会社」などによって計画的に移住が行われ,建設されたのが「補助移住漁村」であり,日本政府と「朝鮮総督府」は多大な補助と支援を行った。しかし,そうした多大な措置にもにもかかわらず,「補助移住漁村」の大半は,成果をあげることなく失敗している。これに対して,日本人が任意に移住,定着したのが「自由移住漁村」である。民間の漁民,商人,運搬業者などが主体となり,漁業のための生産・流通・商業の拠点として,また居住地として開発したものである。「自由移住漁村」の中には,失敗し衰退した「補助移住漁村」を引き継いだものもある。「自由移住漁村」の多くは,解放後には韓国の主要漁港として発展している。

韓国の伝統的漁村は主農従漁村あるいは「半農半漁」村が多かった。その大半は,丘陵性山地下端部の傾斜地に位置し,居住地は自然地形に従った曲線的形態を取る。これに対して,「日本人移住漁村」は海を生活の場とする純漁村あるいは「主漁従農」村が大半で,漁業,流通業,商業,加工業が複合する形で発展した。居住地は,海岸道路に沿って形成され,道路幅や敷地の規模は基本的に狭く,高密度に住居が建ち並ぶ都市のような形態をとる。すなわち,「日本人移住漁村」は,朝鮮半島沿岸部に,それまでになかった居住地空間と街並み景観を持ち込むことになった。


韓国の伝統的漁村の大半は,丘陵性山地の下端部に位置し,海岸を前にして背後には丘陵を持つ傾斜地形に集落が形成されてきた。伝統的漁村は,農業を基盤として漁業を兼ねている主農従漁村と半農半漁村がほとんどである。近所に農地があり,食物と飲料水を得やすい土地,そして海風が弱い地形を選んで集落が立地するのが一般的であった。居住地は比較的に平坦なところに石垣を部分的に積み上げ,整地してつくられた。居住地内部を貫く路地は自然地形にしたがった曲線形態であるのが普通である。

韓国の「日本人移住漁村」の分布(図3②)をみると,東海岸と南海岸に形成されたものが大半である。その中で,「補助移住漁村」はほとんど南海岸に集中しているが,「自由移住漁村」は南海岸を主としながら東海岸にも分布している。その形成時期をみると,南海岸が最も早く,続いて西海岸,最後に東海岸に立地したことがわかる。2 


「日本人移住漁村」の立地は,前述のように,,海岸,内陸水路の3つに大別される。特に海を生業と生活の場とする島や海岸に位置する漁村の場合,居住地は山のせまった狭隘地につくられる場合が多い。そのため街路や路地が狭く,家屋が肩を寄せるように密集して建てられ,共同井戸を利用して水を得ていた所が少なくない。こうした高密度な空間利用の集落形態が「日本人移住漁村」の特徴であり,それはそれ以前の朝鮮半島にはなかった形態である。「日本人移住漁村」の住宅は,日本の漁村とほぼ同様である。その特徴をまとめると次のようである(3)。


①漁村は生産と生活の場を異にする。漁民にとっては,海上の生活が主で陸上の生活が従である。陸上にある住居は休息を目的に作られているため,屋敷内には庭や菜園などは見られず,家の中に広い土間を持たない。

②漁民は住居を転々と変える傾向がある。それは家に対する観念が船に対する観念と共通しているためとされる。漁民は経済状態により大きな船を買ったり小さな船に変えたりするが,家もまた同様の感覚で住み替える場合が多い。

③漁民にとって,住居は伝統的な格式を示すものではない。家の大小はその時々の盛衰を示すが,漁民は家を通じて先祖を尊び,先祖の徳を誇るようなことはほとんどない。

④漁民の居住様式に,海上生活の様式が取り入れられる場合がある。船は一般に「表の間」,「胴の間」,「艫の間」に分かれているが,このような船に乗っていた漁民の住居には船住まいの様式がそのまま持ち込まれる場合がある。

 

4 韓国鉄道町

韓国のほとんどの地方都市は鉄道の敷設によって形成された「鉄道町」をその都市核としている。「開港場」「開市場」とともに鉄道沿線に形成された「鉄道町」は,韓国近代都市の起源である。日本植民地期に形成された「鉄道町」の街区構造は,伝統的な朝鮮半島の集落や「邑城」とは大きく異なり,それを転換していく先駆けとなる。また,鉄道の敷設とともに建設された「鉄道官舎」地区は,「日式住宅」が建ち並ぶ,朝鮮半島にそれまでなかった街並み景観を持ち込むことになった。


  朝鮮半島における鉄道の敷設は,1899918日のソウル-仁川間の京仁線の開通によって始まる。朝鮮の鉄道網において大きな軸線となるのは,京仁線,京釜線,京義線の3線である(図4①)。「鉄道町」の立地についてみると,まず港湾型・内陸型の2つがある。また,既存集落との関係によって,既存集落混合型・既存集落隣接型・開拓型(新町)の3つのタイプを区別できる。そして,鉄道線路と既存集落,新町との位置関係について,線路挟んで両側に既存集落と新町が形成されているもの,線路と既存集落の間に新町が形成されるもの,鉄道駅と新町が既存集落と離れているものの,3つのタイプを区別できる。

 「鉄道官舎」は,多種多様であったが,基礎となり基準となったのは,京仁鉄道株式会社,京釜鉄道株式会社,臨時軍用鉄道監部による3つの系統である。それらは「朝鮮総督府鉄道局」の標準設計図に集約されていく。大きく,一戸建て型,二戸一型,マンション(集合住宅)型,独身者宿舎型の4つのタイプに分けられる。一戸建て型は,3等級官舎や4等級官舎,そして5等級官舎の一部に用いられた。高級職員向けで,組石造である。最も多く建設されたのは二戸一式型で6等級,7等級甲,7等級乙,8等級官舎として採用された。木造軸組構法で,外装は土壁漆喰塗り,または,板張りで,屋根にはセメント瓦が使われた。このスタイルが「日式住宅」の原型である。


朝鮮半島には,「オンドル」と呼ばれる伝統的な床暖房方式がある。しかし,日本が持ち込んだのは畳の部屋であった。「オンドル」については,朝鮮半島の厳しい冬の気候に対応するために,逆に「鉄道官舎」に用いられる。

「鉄道官舎」は,解放後も鉄道関係の韓国人によって居住し続けられるのであるが,1970年代から1980年代にかけて一般に払い下げられることになる。共通に見られるのが「出入口(玄関)」の変化である。植民地時代に建てられた「鉄道官舎」は,ほとんど全てが北入りであった。しかし,北からの出入りは,韓国の生活慣習には受け入れられず,南入りに変更されるのである。そしてこの出入口の変化は,「鉄道官舎」の空間構成を大きく変えることにつながる。まず,南側に設けられていた庭が「マダン」に変わる。「マダン」も庭と訳されるが,鑑賞主体の日本家屋の庭とは違って,作業も行われる様々な機能をもった多目的な空間が「マダン」である。「マダン」によって,居住空間の構成は,大きく「道路-玄関-「廊下」-部屋-庭」から「道路-「デムン」-「マダン」-玄関-「ゴシル」-各室」へというかたちに変化する。ここで内部に出現した「ゴシル」は,現代的「マル」といってもいいが,吹きさらしの「マル」ではないから,伝統的住宅には無かったものである。

一方,「日式住宅」の要素で,韓国の現代住宅に受け入れられていったものもある。「襖」「続き間」「押入」などがそうである。韓国の一般的な住宅は,部屋の面積が狭く,「押入」のような「収納」空間は設ける余裕がなかった。「オンドル」を用いてきたためでもある。「襖」によって2つの部屋を1つに繋げる続き間は,一部屋当たりの面積が少ない韓国の部屋の問題点を解決した重要な工夫となる。

 韓国の伝統的住宅では,「アンバン」と「コンノンバン」の間の「デーチョンマル」は「マダン」と同様,多様に使われ,特に,法事などの祭事は「デーチョンマル」と「マダン」を利用して行われるなど,極めて重要な空間であった。しかし,「デーチョンマル」のような一定の広さをもつ空間を確保できなくなると,都市住宅では,「鉄道官舎」で導入された「日式住宅」の空間要素である「続き間」が用いられるようになる。「ゴシル」と「アンバン」の間に取り外せる襖を設置し,2つの空間を繋ぐことで,法事などの家庭の行事を行うようになるのである。現在,「続き間」は,都市住宅を始め,農漁村の田舎の住宅まで広く使われている,「日式住宅」の空間要素がして受容された代表的な空間が「続き間」である(図4③)。


 

5 日式住居の変容

「日式住宅」の導入によって韓国の住居は大きく変化した。玄関の出現,便所と浴室の屋内化,台所の変化,押入と続き間などの設置などは,「日式住宅」が大きな影響を与えている。一方,韓国の伝統的住宅本来の機能を保ち続けている空間要素もある。代表的なのは,出入口の位置,「マダン」「ゴシル」の出現と部屋の配置である。また,道路の「ゴサッ」化など外部空間の利用方法である。

① 出入口の位置

植民地時代に建てられた「鉄道官舎」は,ほとんど全てが北入りである。北側からの出入は,「鉄道官舎」だけではなく「朝鮮住宅営団」の公営住宅や解放以後建設された大韓住宅公社,ICA住宅,国民住宅の初期モデルにも採用されている。しかし,この北側からの出入は受け入れられず,1960年代前後からはほとんどの住宅で正面入口として南側に出入口が設けられるようになる。北入りの配置は,韓国の生活慣習には受け入れられなかったのである。

三浪津,慶州,安東の旧「鉄道官舎」では,北側にあった出入口のほとんど全てがその位置を変更している。南側への出入口変更が最も多く,地形的な理由で南側に設けられない場合には,東あるいは西側に設ける。当然,出入口の位置変更によって玄関の位置も「デムン」のある位置に移動される。

韓国の伝統的住居空間では,基本的に南入口を重視してきた。すなわち,寒い冬場に北側からの厳しい風を遮断するため,また,敷地と面している畑などに繋げる勝手口の利用のため,さらには,法事の時,先祖の霊が通る死者の通路と認識されているため,北側以外に出入口を設けるのが一般的だったのである。

②「マダン」

居住空間の変容としては,出入口の位置の変更,庭の「マダン」への転用,主屋の増改築,別棟の増築などが重要である。

出入口は,北側から南側へと位置変更が行われると共に「デムン」という名称に変わる。南側にあった庭は多用途空間である「マダン」に変わる。そもそも「マダン」は,韓国の住居の中心空間であり,各棟を連絡させる空間である。全ての「マダン」は,主屋の前面(南側)に位置し,付属棟によって囲まれL字型,コ字型,ロ字型の構成を採り,各棟を連絡している。

一方,「鉄道官舎」では,「マダン」ではなく庭としての機能が与えられた空間が主屋の南側に設けられていた。そして払下げ以後,出入口の位置変更と共に全ての住宅で庭が「マダン」へと変えられる。

こうした庭の「マダン」への転用は,単なる空間の位置や形態の変化ではなく,その空間の機能と意味の違いによる変化である。すなわち,「鉄道官舎」の主屋の南側に設けられた庭は本来室内から眺め楽しむ空間であり,様々な植物を植えるなどの庭園的空間であったが,多様な作業ができる,オープンな多目的空間としての「マダン」へ,陰陽思想の位置づけとしては陽の空間へ変化するのである。住宅に関わる陰陽思想によると,主屋が陰の空間で,「マダン」が陽の空間である。陰と陽の間の円満な循環を図っているためには,「マダン」に植物を植えることや,大きい物を置くなどはよくないとされてきたのである。「鉄道官舎」に導入された庭のような空間は,韓国人の生活習慣にはあまり適合しなかったと考えられる。

③「ゴシル」の出現

「鉄道官舎」は,中廊下によって部屋を繋ぐ中廊下式住宅である。こうした中廊下の形式は,解放後も1960年代まで使用される。しかし,通路の機能を持った中廊下は,「デーチョンマル」を中心としてきた韓国人の生活習慣にはあまり浸透せず,中廊下を拡張することで「デーチョンマル」の代わりとなる「ゴシル」が創出されることになる。

「デーチョンマル」によって2つの部屋が分離されていた伝統的な韓国住宅は,「ゴシル」の出現と共に,「ゴシル」を中心とし,各部屋が「ゴシル」に面する構成へと変化した。外部空間としての「マダン」は主屋を始め各棟と接している。そして内部空間に「デーチョンマル」の代わりの空間として表れた「ゴシル」は,主屋の中で部屋は勿論台所,ユニットバス,「チャンゴ창고」に直接面し,内部空間の動線をコントロールしている。「ゴシル」は,動線のコントロールだけではなく家族の食事空間,法事,団欒の空間などに使われる複合的な機能を持っている。

以上のように,現代版の「マル」であるゴシルは,韓国住宅において複合的な機能を内在化する独特な空間となるのである。

④道路の「ゴサッ」化

「鉄道官舎」地区は,各宅地が副道路によって囲まれ,「ゴサッ」を創る配慮は全くなされていない。それは,「鉄道官舎」地区だけではなく全国の住宅地でも同様である。街路の「ゴサッ」化は,「鉄道官舎」地区に限らず,韓国の各都市の居住地で見られる。「ゴサッ」は,失われつつあるコミュニティ空間の代償であると考えられる。

2021年9月7日火曜日

JCIC-Heritage, 文化遺産国際協力コンソーシアム令和2年度調査報告書,海域交流ネットワークと文化遺産, 2021年3月

JCIC-Heritage, 文化遺産国際協力コンソーシアム令和2年度調査報告書,海域交流ネットワークと文化遺産, 20213

https://www.jcic-heritage.jp/wp-content/uploads/2021/04/Report_Maritime-Network-and-Cultural-Heritage.pdf



東南アジア・南アジア分科会

執筆者:布野修司(日本大学)


 

0 アジア海域世界

アジア海域とは、ユーラシア大陸の東と南、そしてアフリカ大陸の東に拡がる海域、大きくは、アジア大陸、アフリカ大陸、オーストラリア大陸、南極大陸で囲われたインド洋に太平洋とアジア大陸との間を加えた海域をいう。北東から南西へ、オホーツク海域、日本海域、東シナ海域、南シナ海域、セレベス海域、ジャワ海域、アンダマン海域、ベンガル湾海域、アラビア海域、東アフリカ海域という小海域に区分される。

・家島彦一(2006)は、イスラーム地理学における海域認識、すなわち、地中海とインド洋を大陸に食い込んだ入江(海域)とみなす世界観をもとにして、地中海世界に対するインド洋海域世界=アジア海域世界を考える。そして、その2大海域世界が、「それぞれに包摂される自然地理・生態・人間・文化や陸域との関わりなどの「差異」の諸条件に基づいて」、7つの小海域、すなわち、Ⅰ東シナ海海域世界、Ⅱ南シナ海海域世界、Ⅲベンガル湾海域世界、Ⅳアラビア海・インド洋西海域世界、Ⅴ紅海北海域世界、Ⅵ東地中海海域世界、Ⅶ西地中海海域世界に区分する。家島の場合、視座は、地中海に対する「イスラームの海」としてのインド洋海域に置かれている。海域は海域であって截然と区別できるものではないことは、家島の区分が重なり合う海域をもつことが示している。視点によって、また時代によって、海域区分は異なる。



家島彦一によるアジア海域区分

・アジア海域世界の小海域への区分は、基本的には地形(海岸線と島の形、プレート境界線、海底地形)を基にした区分であるが、アジア海域世界を第一に規定してきたのは、地球規模の大気と水の循環であり、運動である。地球の地表面の形状は、その運動に従って、各海域の気候の差異を生む。アジア海域は、北東から南東へ、亜寒帯から熱帯まで、多様な気候帯からなっている。アジア海域は、北東から南東まで約1万キロの海岸線を挟む全域がアジア・モンスーン地域である。その源流はアフリカ東海岸のマダガスカル北部で、5月中旬から北東に向かって吹き始める(南西モンスーン)。アラビア半島そして西アジアへ、インド洋の湿った空気を運び、南アジアに達する。さらに、ベンガル湾、インドシナ半島、中国南部を経て、日本にも達する。逆に、11月中旬からは北東モンスーンが吹くことになる。しかし、さらに海流の影響もあり、地域ごとに気候は異なる。

・東アフリカの大地溝帯で誕生したホモ・サピエンスは、20万年前から数万年前にかけて「出アフリカ」し、グレート・ジャーニーと呼ばれる移住を開始する。まず、西アジアへ向かい(208万年前)、そしてアジア東部へ(6万年前)、またヨーロッパ南東部(4万年前)へ移動していく。ベーリング海峡を渡って南アメリカ最南端のフエゴ諸島に到達したのは12万年前である。このグレート・ジャーニーの過程に海路も含まれていた。モンゴロイドのうち中央ルートを抜けたグループ、すなわちアルタイ山脈を抜けて中国へ至ったグループの一部は、東シナ海あるいは南シナ海に突き当たって台湾に渡ったと考えられる。この台湾を渡ったグループは、やがて島嶼を伝って南下していくが、言語の系統分析からオーストロネシア語族と呼ばれる(Blust Robert(1995))。オーストロネシア語族は、東はイースター島、西はマダガスカル島まで、太平洋、インド洋の広大な地球半周を優に超える海域に広がる。アジア海域世界を最初にひとつの世界としたのはオーストロネシア諸族である(オーストロネシア世界)。

人類が最初に都市を創造するのは、ティグリス・ユーフラテス(メソポタミア)、ナイル(エジプト)、インダス、黄河、長江の大河川の流域であるが、それぞれアジア海域世界と密接に関わり合いをもつ。ナイル川が流れ込むのは地中海であるが、その心臓部には紅海が深く食い込んでいる。大河川を通じて都市文明とつながることで、アジア海域は、いくつかに色分けされることになる。東シナ海、南シナ海は、文字通り「中国の海」となり、インド洋もまさに「インドの海」となるのである(都市文明と海域)。

・各地域に成立した「帝国」は、世界貨幣を流通させ、法(国際法)をもち、世界宗教を統合の原理とし、世界言語をコミュニケーション手段とする。アジア海域世界は、それらを伝えていくことになる。イスラームは、その誕生からまもなく中国南部に到達しており、やがてインド洋海域はイスラームの海と化す。ユーラシアの大陸部が1つの世界として結びつけられるのは、人類史上最大の世界帝国大モンゴル・ウルスの成立によってである。13世紀以降、海のネットワークがユーラシアの東西をつなぎ、ヨーロッパ列強の海外進出の基盤が成立する(世界史の成立)。

・ヨーロッパ勢力がアジア海域に姿を現すのは15世紀末である。ポルトガル、そしてスペインが先鞭をつけ、オランダが続いたヨーロッパ世界の海外進出と並行して、15世紀半ばから17世紀半ばにかけて近代世界システム」が成立する(I.ウォーラーステイン[1]。最初にそのヘゲモニーを握ったのはオランダであり、それを追ってアジア海域に進出したのがイギリスとフランスであり、アジア海域世界は西欧列強による世界分割のための海となる(近代世界システムとアジア海域)

 

1.海域ネットワーク/水上輸送に関わる文化遺産の種類

東南アジア、南アジアの沿海部そして島嶼部はアジア海域世界の中央部を占める。家島彦一(2006)の小海域区分に従えば、南シナ海域、セレベス海域、ジャワ海域、アンダマン海域、ベンガル湾海域、アラビア海域が含まれるが、東南アジアについては、さらにウォーレシア海域―マカッサル・フローレス海域、マルク・バンダ海域―が加えられる。ウォーレシア海域の東がオセアニア海域である。

アセアン10ヶ国、南アジア7ヶ国のうち、特にフィリピン共和国、インドネシア共和国、スリランカ民主社会主義共和国、モルディブ共和国の4ヶ国(インド洋海域としてはさらにマダガスカル共和国)は、海に囲われた海洋国家であり、その成立の起源から海域世界とのかかわりは深い。また、ネパール連邦民主共和国、ブータン王国、ラオス人民民主共和国を除けば、諸国は、直接海域世界に接する沿海部をもっており、海域世界とのつながりは深い。

インドネシアは、「海洋文化遺産は国家のアイデンティティ」という。また、フィリピンは、海洋関連遺産についての意識を啓発するために、大統領令(No.3162017)(ドゥエルテ大統領)によって、9月を「海洋群島国家啓発月間」と指定している。

東南アジア海域、インド洋海域における海域ネットワークと海上交易に関わる文化遺産は、共通して、①人類の誕生とその拡散、②都市文明(メソポタミア文明、エジプト文明、インダス文明、中国文明)の成立とそのインパクト、③世界宗教(キリスト教、仏教、イスラーム)の成立とその伝播、④陸域の帝国との関係、⑤西洋列強による植民地化、⑦近代化、産業化の影響に大きく分けられる。

フィリピンは、その文化遺産として、オーストロネシア文化に関する文化遺産(①)、中国・東南アジアとの交易(陶磁器など)に関する遺産(②④)、スペインとのガレオン交易に関する遺産(⑤)、スペイン植民都市(セブ、パナイ、マニラ、ヴィガン)(⑤)、第二次世界大戦の沈没船(⑦)を挙げる。また、インドネシアは、人類の拡散に関わる遺産(スラウェシの洞窟画など)(①)以降、あらゆる時代の文化遺産が海域と関わるとしている。近年では、ビンタン島水域やスラヤール島水域、ジャワ海域の沈没船、また、南シナ海の領海問題と絡んでナトゥール島の文化遺産が関心事となっている。南シナ海のほぼ中央に位置するナトゥール諸島は多数の島からなるが、東ナトゥナに世界最大級の埋蔵量をもつ天然ガス田があり、中国との間の係争海域となっている。スリランカは、インド洋海域の要に位置し、古くから東西交易の拠点として知られるが、各時代の交易品(陶磁器、絹、コイン、象牙、宝石、香辛料など)に関わる文化遺産があり、土着のドラヴィダ文化、ポルトガル文化、オランダ文化、そして英国文化に関わる遺産がある。港市については、オランダ植民都市(ゴール、コロンボ、トリンコマリー、ジャフナ、マターラ)とコロニアル建築、とりわけ、ゴールとゴール湾の難破船に注目している。

東南アジア海域、インド洋海域において、ユネスコの世界文化遺産として登録されるものはそう多くはない。港市については、Ⅰ.都市国家としての港市、Ⅱ.内陸国家に従属する港市、Ⅲ.海域通商国家としての港市に大きくわけられるが、その立地について、直接海洋に接する港市のみならず河川を通じて内陸に位置するものも含めると、世界遺産登録されている文化遺産には、古都ホイアン、フエ、ハノイ(ベトナム)、ヴィガン(フィリピン)、マラッカ海峡の歴史的都市群:マラッカとジョージタウン(マレーシア)、古都アユタヤ(タイ)、ピュー古代都市群(ミャンマー)、マハーバリプラムの建造物群、ゴア、エレファンタ石窟群(インド)、ゴール旧市街(スリランカ)(東アフリカ沿海部には、ラム、キルワ、ストーンタウン)などがある。水中文化遺産の中心は、沈船関連の文化遺産で、近代以前の、ジャンク船、ダウ船、そしてヨーロッパ船、さらに近代の戦争における軍艦などに分けられる。インドネシアでは、近年、スラウェシ島の湖底遺跡(10世紀以降)の調査研究が行われつつあるほか、イリアンジャヤ(Raja Ampat)での調査が開始されつつある。太平洋戦争との関連では、マルク諸島やスラウェシ島など東インドネシアに関連する戦跡が多い。

 

. 海域ネットワーク/⽔上輸送に関わる⽂化遺産の調査研究・保護に関わる機関・法制度について 

3.海域ネットワーク/水上輸送に関わる文化遺産の調査研究・保護の現状・動向

水中文化遺産

1960 年代の潜水技術の発達をきっかけに世界中で水中探索が盛んに行われるようになり、一方でサルベージ会社や個人のダイバー等による無秩序な遺物引き上げが問題となってきたが、東南アジア海域、南アジア海域においても、海外のサルベージ会社による商業目的の沈船調査が行われ、盗掘のような形で遺跡破壊が進み、多くの関連遺物が散逸してきたという経緯がある。近年においても、新たな沈船や関連遺跡が発見された直後から、地元のトレジャーハンターらによる盗掘や遺物の販売が活発に行われ、数年で遺跡が消滅する例も報告される。海外のサルベージ会社との共同調査の場合、収集された遺物は折半されることが多く、半分は海外チームが所有し(オークション販売等をすることもあった)、残りの半分は各国の国立博物館等が所蔵する形で残される。一般には、沈没船そのものよりも、積載品である陶磁器等の遺物の収集や研究が主流となっている。

 インドネシアでは国立の調査機関等が関与せず、私企業等によるサルベージが横行してきたが、過去に商業サルベージで引き揚げられた遺物が大量に収蔵庫に保管されており、この活用について、ユネスコ・ジャカルタ事務所では、東南アジア海域におけるモデルケースとなるような海事博物館における展示などを模索中である。2017年にロンドン大で行われた海のシルクロード関連文化遺産のシリアルノミネーションを検討するUNESCOの専門家会議(Maritime Silk Routes: Report on UNESCO Expert Meeting London 30-31 May 2017)を受けて、2019年には、ASEAN諸国の専門家を交えてのASEANUNESCOの主催で水中遺産に関するフォーラム(Forum of Southeast Asia Ministries of Culture on Underwater

 


木村淳作成

Heritage Jakarta and Belitung 5-8 November 2019がジャカルタとブリトゥンで開催されている。さらに、20208月にシンガポールのアジア文明博物館Asian Civilization Museum が「中国と海のシルクロード:沈没船、港市、交易品(China and the Maritime Silk Road: Shipwrecks Ports and Products Webinar 21-23 August 2020)をWebinarで開催している。この会合に参加した分科会委員によれば、「海のシルクロード」という名称について、第1に、海域交易ルートで運ばれた主たる物産は「シルク」ではなく、「陶磁器やスパイス」であったこと、第2に、「シルク」という、中国の特産物が名称になっていることで、海域交易ルートに関与した他の多くの地域が見えなくなるという問題が指摘されたという。

アジアやオセアニアの水中文化遺産、水中考古学に関する国際学会としては、4年に1度開催Asia-Pacific Regional Conference on Under-Water Cultural Heritatge (APCONF)がある(過去にはマニラ、ハワイ、香港で開催済み)。アジアを中心とする水中文化遺産関連の最新情報はこの学会でほぼカバーされている。

 

南シナ海域・ジャワ海域

化遺産の調査研究・保護についての各国の取り組みはさまざまであるが、組織的な展開がみられるのがベトナムである。ベトナムは、南北1650Kmにわたって南シナ海に接しており、古代より多くの港市が存在してきた。港市関連の文化遺産としては、ベトナムの代表的港市として、1999年にユネスコ世界文化遺産に指定されているホイアン以外に、クアンニン、フンイエン、タインホア、ゲアン、ハティン、ビンディン、ベンチェー、ハティエン等、沿岸部の各省、各地で歴史的港や港市について考古学調査が盛んに行われ、クアンニン、フンイエン、ゲアン、ハティンの港遺跡では、菊地由里子(東京大学)が発掘調査を行っている。

ベトナム海域には、古代から近世の商船が多数沈んでおり、特に以上の港市の沖には多数の沈没船が確認されている。クアンガイ省のホイアン沖では、1415世紀の2隻の沈没船が発見され、さらに10隻以上の沈没船があるとされるが、最近注目されているのが考古学研究所によるチャウタン海域沈没船(唐代)の引き揚げ調査である。この海域では複数の沈没船の存在が確認されており、木村淳(東海大学)らが調査を行っている(「東南アジア港市の船体考古資料調査と保存研究」)。また、菊地由里子がハティン省で、17世紀に沈没した朱印船の探査を目的とした水中考古学調査を佐々木蘭貞(九州国立博物館)の協力を得て行っている。さらに、ベトナム中部の海域には、太平洋戦争中の日本の輸送船が沈んでいる。遺骨は引き揚げられているが、まだ船体内に残されている可能性があるとされている。ベトナム政府がサルベージを認可した、あるいはサルベージに関わった沈没船は、1.ウンタウ(1990)、2.フークォック(1991)、3.ホイアン(199799)、4.カマウ(199899)、5.ビントゥアン(200102)の5隻である。

水中遺産については、考古学研究所内に水中考古学研究センターが設置され、専門家の育成や学術的調査を担っている。海外の研究者の支援をうけながらも、公的組織として水中考古学研究センターがあり、自前の機材と常雇の専門家がいるという意味では先進的である。ベトナムにおける海域ネットワーク研究には、歴史学分野でも考古学分野でもこれまで一定の研究成果があるが、近年は、中国との領土問題もあり政策的に海域ネットワーク研究が展開されている。また、ベトナムでも、政府が許可した遺物引き揚げの後に遺物の売買が行われる等、十分な規制が行われていないという指摘もある。

ベトナムの文化遺産保護政策は、日本の文化庁に相当する観光・体育・文化省(B VĂN HÓA TH THAO VÀ DU LCH)を頂点として、各省の文化課、省博物館、地域の人民委員会が協力して政策を実施している。そして、ベトナム国立大学ハノイ校やホーチミン社会科学院、考古学研究所が研究面を支えている。国営放送では特集番組が制作され、You Tubeでも公開されている。ベトナム沿岸部各省の省博物館は、啓発的な展示やシンポジウムのほか、各港遺跡の保存活用に取り組んでいる。

・フィリピンでは、海域文化遺産、水中文化遺産については、フィリピン国立博物館(NMP)の民族学、考古学部門において、フィリピン大学UPなど研究機関と共同して調査研究が行われ、その保護政策、法制定についても、法制当局をサポートするかたちがとられてきたが、この保護政策、法制定については、2021年から国家文化芸術委員会NCCAの管轄に移行している。国立博物館(NMP)の調査研究は、上述のように、あらゆる時代の地域交易、文化交流を対象として、個々の遺構について積み重ねてきているが、現在は、これまでのコレクションの再調査も行っている。海域ネットワーク遺産、水中遺産に関する分野についてはスタッフも足りないし、必ずしも主要な関心事になっているわけではない。

研究成果は、調査研究報告書、展覧会、図録などによって公表されてきているが、直近の展覧会は「フィリピンの陶磁器遺産」展であり、現在は、「海上交易の1000年」展を企画中である。文化財保護については、陸地のみならず水中を含む一般的な文化財保護法があり、2009年の遺産法:共和国法(RA10066が最新であるが、RA10066の一部は、2019年のフィリピン国立博物館法:RA11333によって修正されている。フィリピン国立博物館(NMP)は、遺構、遺産の損傷、略奪についての報告に基づいて、それを確認するが、予算と人員不足で必ずしも対応できていない。NMPにとって予算の問題は大きな問題である。年によって異なるが、過去3年間は、年US$2000ほどで、フィールド調査はできない。NMPの研究プロジェクトは、すべて外部資金に頼っている状況にある。文化遺産の保護に関わる予算は不明であるが、最小限である。

・インドネシアが「海洋文化遺産は国家のアイデンティティ」とし、海洋文化遺産について取り組んでいることは上述の通りであるが、海洋研究のための研修が開始されたのは1980年代である国立考古学研究センターNRCAが現在、南シナ海のナトゥナ諸島の文化遺産の調査研究を行っていることが示すように、領海問題としてクリティカルな排他的経済水域EEZについては、国家的関心事となっている。国立考古学研究センターが海洋遺産について調査研究を行っており、他にガジャマダ大学などに考古学研究部門がある。


木村淳作成

インドネシアの各海域には、東南アジア最古級の沈没船遺跡群をはじめとして、1213世紀の海商沈没船遺跡、オランダ東インド会社船籍沈没船遺跡、大戦中の戦跡遺跡が存在している。「国連海洋法条約」(1982 年)に基づいて、インドネシア政府は、オランダ東インド会社のヘルダーマルセン号など沈没船遺構のサルベージを合法化してきたが、1990年代になって、最古級の(9世紀と推定される)ブリトゥン沈没船の引き揚げ遺物の売却問題(オークションによってシンガポール政府が購入、アジア文明博物館に寄託された。アジア文明博物館は、ワシントンのスミソニアン博物館と共催でブリトゥン沈没船についての企画展を計画したが、売買目的での引き揚げの倫理的問題をめぐって議論が行われた結果、スミソニアン博物館の展覧会は中止された。)を契機として、政府が保証する商業サルベージに疑問が投げかけられてきた。2001 年のユネスコの「水中文化遺産保護に関する条約」の採択もあり、上述のように水中遺産保護の方針が流れになっている。しかし、現在までに水中考古学に関する調査研究機関の設立はなく、水中考古学で博士号を取得者した研究者はいない状況にある。
 インドネシアにおける文化遺産保護に関する活動については、特に、200412月のインド洋大津波、20053月のニアス沖地震、20065月の中部ジャワ地震、20099月の西スマトラ地震のような自然災害に関連して、JCIC-Heritageの報告書があり、文化遺産に関する共和国法については、2020年の国際協力調査報告書『スラウェシ島地震復興と文化遺産』に田代亜紀子(北海道大学)「インドネシアにおける被災文化遺産と復興がある」がある。詳細は以上の報告書に委ねたい。

 

 

 

木村淳提供

東南アジア大陸部

・東南アジア大陸部諸国の海域遺産、水中遺産についての取組については不明の点が多いが、ユネスコの水中文化遺産保護条約(2001年採択)をアジア・太平洋地域の中では一番に締結した(2007年)カンボジアは、締結当初、バンコクのSEAMEO-SPAFAや、タイのチャンタブリの国立海洋博物館との水中考古学の技術研修や交流などを行っている。水中考古学部門は文化芸術省に置かれており、専門の担当者も配置されたが、2016年頃から、国内他の世界遺産登録準備等を兼任するようになり、もともと海域の文化遺産が多くないこともあって、現在、ほとんど動きが無い。文化芸術省は、海域のみならず、河川や湖等の水域に埋没している遺跡、遺物、文化財の調査や保存処理については興味をもっており、将来、何らかの技術協力をSEAMEO-SPAFAあるいはユネスコに要請したい、という意向をもっている。2018年には、プノンペン国立博物館の企画展として、第一世界大戦中に地中海沖で沈没した戦艦に乗船していたカンボジア義勇兵に関する展示を行っている。

・マレーシアは、マラッカ海峡の歴史的都市群(マラッカとジョージタウン)があり、クアラルンプルの国立博物館に水中考古学関連資料が保管されているが、水中考古学のセンターとなるような研究機関はまだ設立されていない。

・タイでは 1970 年代のコークラン沈没船(15世紀)の引き揚げ(197374)やシーチャン1号沈没船(16世紀末~17世紀初頭)の西オーストラリア海事博物館との共同調査以降、国立海事博物館が設立されるなど、一定の取り組みがなされてきた。1992年にチャンタブリー県バンカチャイ湾沖で発見されたバンカチャイ2号沈没船については、1994年にタイ芸術局により、第1次調査が行われ、その後、1999年~2002年に25次調査が行われるなど、研究も進んできている。

 

インド洋海域

 

 ・インドには、海洋遺産、水中遺産に関する政府機関には、インド考古調査局Archaeological Survey of Indiaの水中考古学部局Underwater Archarology Wing(UAw)と国立大洋学研究所National instutute of Oceanography2つの研究機関がある。また、水中考古学関連の学科コースをもつ大学としてデカン・カレッジDeccan College Course of Underwater ArchaeologyTamil UniversityAndhra University がある。近年の関心事として、2004年のインド洋大津波の際にマーマッラプラムの海岸寺院の伝説の7パゴダが確認され、調査が行われていることが挙げられる。また、グジャラート州のハラッパー遺跡のロータル、 クンタシ、 パドリ、 ナゲシュワール、 バガスラでは、高度な海事文化が存在していることが確認され、ベッと・ドゥワルカ、 サムナート、 ハサブ、 ヴァラビなどの沿岸都市などサウラシュートラ(半島)地域沿岸(カッチ湾、カンバート湾を含む)において水中考古学調査がされている。

 ・スリランカは、1990年代の10年間、ロナルド・シルバRonaldo SilvaICOMOSの会長をつとめており、ICOMOS国際条約を基本とした文化財保護行政を展開してきている。国内法としては、中央文化基金、古物条例Antiquity Ordinanceが文化財保護関連の法として制定されている。これまで中央高地のいわゆる黄金の三角地帯の歴史遺産が評価され、聖地アヌラーダプラ、古都ポロンナルワ、古都シーギリア(1982年)、そして聖地キャンディ(1988年)続いてタンブッラの石窟寺院(1991年)が世界文化遺産に登録されてきたが、そうした中で港市としてゴールの旧市街と要塞(1988年)が追加され、近年、ゴール湾の沈没船と搭載品が注目されてきたことは上述の通りである。ゴールの旧市街と要塞の保存は、UNESCO のアジア太平洋賞Asia Pacific Merit Awardを受賞している。



スリランカには、文化遺産の保護を担当する文化遺産省Ministry of Cultural Heritageがあり、関連機関として中央文化基金の考古学部門Department of Archaeology; Central Cultural Fund、国立博物館の海洋考古学部門が重要な役割を果たしている。また、ゴールには、国立海洋考古学博物館がある。

国立機関については、政府によって年間予算が組まれており、文化遺産保護政策については組織的な展開が行われている。ただ、特に海洋遺産、水中遺産についての予算が計上されているわけではなく、緊急事態(インド洋大津波など)の場合には、予算の組換えで対応している。ゴールの旧市街と要塞の保存には、国家遺産文化省へのオランダ文化助成金とアメリカン・エクスプレス銀行の基金(ゴール・フォート内の旧オランダ病院の保存)を得ている。インド洋大津波の被害を受けたマターラ・フォートの保護にはアメリカ大使館の助成金が用いられている。しかし、調査研究については、通常、国際的ドナー機関、民間研究所からの企業社会責任基金CSR(Corporate Social Responsibility Funds)によって行われている。現状では、調査研究、データ収集は極めて困難な状況にある。

・モルディブについては、その歴史的遺産の全てが海域文化遺産といっていいが、京都大学東南アジア研究センターのデジタル遺産ドキュメンテーションラボを拠点とするオクスフォード大学などと連携した、GPS / RTKReal-Time Kinetic)マッピング、デジタル写真、ビデオ、CAD図面、IIIFInternational Image Interoperability Framework)デジタル化、空中および地上撮影などのデジタル技術によるアーカイブ化を目的とした海域アジア遺産調査(MAHS)を展開中である。

 

4.他国との国際協力の現状

フィリピン国立博物館は、オーストラリアの環境エネルギー部門Deparment of the Environment and Energyと水中考古学、水中遺産に関する共同調査研究を行うことで合意している。

 インドネシアは、人材育成についてはインドネシア教育文化省とUNESCOと共同している。海洋文化遺産に関してはオーストラリアとオランダと共同関係にある。

 スリランカは、ゴールの旧市街と要塞の保存については、上述のように、いくつかの外国機関と共同している。外部資金・基金についてはの規制がある。海域ネットワーク/水上輸送に関わる文化遺産の調査研究・保護について、他国や国際機関との共同について将来計画について示してほしい、という。

 

参考文献その他

本稿は、主として、各国当該機関へのアンケート(フィリピン、インドネシア、ベトナム、タイ、バングラデシュ、インド、スリランカにアンケート調査を行い、フィリピン、インドネシア、スリランカから回答を得ている。)および東南アジア・南アジア分科会メンバーによる情報提供、また、木村淳(東海大学)「東南アジア・南アジアの水中文化遺産保全の概況」(35回東南アジア・南アジア分科会報告)、Michael Feener(京都大学東南アジア地域研究研究所 )The Maritime Asia Heritage Survey‘35回東南アジア・南アジア分科会報告に基づいている。

 

家島彦一(2006)『海域から見た歴史インド洋と地中海を結ぶ交流史』名古屋大学出版会

A.S. Gaur&Sundaresh、 Maritime Archaeology of Gujarat: Northwest coast of India、 Asia-Pacific Regional Conference on Underwater Cultural Heritage Proceedings. Eds. by: Staniforth、 M.; Craig、 J.; Jago-on、 S.C.; Orillaneda、 B.; Lacsina、 L. (Asia-Pacific Regional Conference on Underwater Cultural Heritage; Manila; Philippines; 8-12 Nov 2011). 2011; 155-168

 

関係諸機関

べトナム

Underwater Archaeology Department, The Institute of Archaeology, Vietnam

タイ

SEAMEO-SPAFA

https://www.seameo-spafa.org/

インド

Underwater Archarology Wing(UAw) Archaeological Survey of India

https://asi.nic.in/underwater-archaeology-wing/

https://www.google.co.jp/amp/s/www.thehindu.com/news/national/tamil-nadu/state-govt-plans-underwater-archaeological-excavations/article29293563.ece/amp/

National instutute of Oceanography

https://www.nio.org/about_nio/general-information/nio-at-a-glance

https://www.google.co.jp/amp/s/www.livehistoryindia.com/amp/story/snapshort-histories%252F2018%252F09%252F14%252Fthe-temple-that-rose-from-the-sea

Deccan College Course of Underwater Archaeology

https://www.dcpune.ac.in/post-graduate-diploma-underwater-arch.php

Tamil UniversityAndhra University

http://www.tamiluniversity.ac.in/english/faculty/department-of-maritime- history-and-marine-archaeology/

Andhra University Center for Marine Archaeology

http://andhrauniversity.edu.in/science/marinearchaeology.html

 

スリランカ

Ministry of Cultural Heritage

https://dutchculture.nl/en/organisation/ministry-culture-arts-government-sri-lanka

Department of National Museum

http://www.museum.gov.lk/web/index.php?option=com_content&view=frontpage&Itemid=1&lang=en

Central Cultural Fund http://ccf.gov.lk/index.php?lang=en

National Maritime Archaeology Museum(Galle)

https://www.yamu.lk/place/national-maritime-archaeology-museum-galle/review-36840

 



[1] I.ウォーラーステイン、『近代世界システム Ⅰ、Ⅱ 農業資本主義と「ヨーロッパ世界経済」の成立』、川北稔訳、岩波現代選書、1981