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2021年11月1日月曜日

アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究 Ⅳ. グリッドの構成原理

 アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究,科研都城研究(199394)19953


Ⅳ. グリッドの構成原理

  ここでは、S.コストフの『形づくられた都市』*[1]より、そのⅡ章「グリッド」を紹介したい。グリッド・パターンの歴史について、グローバルな位置づけを得るのが目的である。

 

 

 「荷を負ったロバが歩く道は、・・・」ル・コルビュジェ(Le Corbusier)は、都市計画に関する1924年の著作の中で述べている。「大陸のあらゆる都市の計画に責任を持つ」と。彼は、「有機的な」パターンのことを言ったのである。荷を負ったロバは、「だらだらと歩き、注意散漫で気の散ったやり方で黙想にふける。大きな石を避けるため、また楽に登るため、あるいは少しでも陰にはいるため、ジグザグに進む。つまり、ロバは最も抵抗の少ない道を選ぶのだ。」それは人の方法と同じはずがない。「人は真っ直ぐに進む。なぜなら人には目的地があり、どこに行くところなのか知っているからである。」イギリスの建築家、ウィリアム・チェンバース卿(Sir William Chambers)は、2世紀も前にほとんど同じことを述べた。「障害物や斜面のない平地では、・・・・・・人は曲がった道を歩くとは考えられない。そこでは、真っ直ぐに歩いてたどり着けるのである。」

 この議論で述べられているように、人は真っ直ぐに歩き、必要があればそこから直角にそれる。このような交差道路の多さは、人間自身の決定なのである。地形はほとんど関係ない。特に水平な場所ではそうである。土地を歩くときのこの単純で合理的な規律(互いに直角に配された街路)は、植民地の計画におけるファーストステップである。

 

 

1. 直線による計画の性質

 グリッド(あるいは網目状、格子状)は、計画的な都市において、今のところ最も一般的なパターンである。グリッドは、(それが、歴史を通じて間断なく使用されたというわけではないにせよ)地理学的にも年代学的にも普遍的である。異なる場所での標準的な計画として、あるいは、土地の公平な分配の手段や、不動産を区分けし売りやすくする手段として、グリッドに勝る都市計画的解決法はない。真っ直ぐな優先道路の防衛上の利点は、アリストテレスの時代から認識されてきたし、また直線的な街路パターンもやはり、不安定な人口を監視下に置くための手段であった。難民や捕虜の収容所は明かな例である。バルセロネータ区(the barrio of Barceloneta)のグリッドは、バルセロナを1714年に征服したフィリップ5世(Philip Ⅴ)の城砦が失われた今、あまり厳密なものには見えないかもしれないが、城砦の稜堡の外側、港の岬という、この計画的なバリオの位置、そして、細長い区画の15本の直線街路の方向は、意図的な戦略であり、このことによって、城砦の用地をつくるために家を壊された「海の民」を監視することが可能だったのだ。

 しかし、グリッドは常に遍在してきたために、誤解も多く、少ししか違いがない融通のきかない考えとしてしばしば扱われる。むしろ反対に、グリッドは非常に柔軟で多様性のある計画システムであり、それ故に多大な成功を収めてきたのである。あらゆるグリッドに共通であるほぼ唯一の事柄は、その街路パターンが直交的であること(すなわち、街路が直角に交わるという規則と、2方向のそれぞれで街路が違いに平行に置かれること)だ。このことさえも不変ではない。このシステムは、その基本的な論理に背くことなく、地面の不規則な部分のまわりで曲げることが出来る。

 つながりのない文化的コンテクスト(宋朝の中国と植民地時代のアメリカ)における、2つの優れた、そしてよく残されたグリッドの計画は、この、都市に平凡な事柄を特別な注意を払って研究することの賢明さを示すであろう。

 南江蘇省にある古代中国の都市、蘇州は、宋王朝のもとで刷新された。その斬新なデザインは、1229年に作製された美しい石版画に残っている。計画は確かに直交的であるが、全体のパターンは柔軟でリズミカルな複雑性があり、独断的なシンメトリーや、あくまでも続く直線、統一的な街区割りから解き放たれている。しかし、寸法における秩序という点、及び空間構造の首尾一貫した明確な表現という点で、このプランは明らかに計画的なものであり、寸法や高さの正確な計算に従って実行されたものである。都市の至る所を走る街路には、並行して流れる運河のシステムがあった。6本の運河は南北に、14本は東西に流れていた。およそ300本の橋がこれらの運河にかかり、交差点で巧みにまとめられていた。この二重の輸送網は、たびたび交差したりジグザグに折れたりして活気づけられていた。形としては、この都市は城壁で囲まれた約4.5×3マイル(およそ10×5km)の長方形であった。しかし、その枠には地形を考慮して突き出た部分があり、城壁の3つの角は、運河の水の流れに沿って隅切りになっていた。周囲には5つの門が非対象に配された。都市の中心部は、巨大な壁と堀で囲まれた行政機関の複合体であり、真ん中から南東にあった。あらゆる公共建築物は、このように封鎖され複合されたものとして形成されたが、もっとも重要な施設の場合には、その高い壁は水の帯を伴って強化された。行政機関の複合体の北側は、居住地の細長い区画であり、プランの中では唯一、比較的統一性のある通路を持っていた。それらの区画は狭い敷地に分割され、家々の正面は道路に、背後の庭の壁は運河に沿っていた。

 ジョージア州の新しい植民地にあるサヴァンナ(Savannah)は、1733年に築かれた、洗練された地域計画の中の城壁のないコアである。都市のグリッドは区に組織された。それぞれの区は独自のスクウェアを持ち、その広さはおよそ315×270フィート(96×82m)であった。各スクウェアの東西のサイドには、教会や商店のような公共の建物のための敷地が用意され、他の2つのサイドは、40戸の宅地に分割された。ジャクソンスクウェアを持つダービー区(Darby Ward)が最初に建設され、町の中心となった。“Ward(区)”とは、もちろん行政の用語である。プランは、政治システムの青写真であった。10人の自由土地保有者は、十人組を形成した。4つの十人組で1つの区が構成され、その行政官は治安官であった。十人組は、5戸ずつが背中合わせに小道や路地を共有する2列にまとめられる。住宅は全て東西の街路に面していたため、区は、公共建築を共有することで社会的に相互依存していたように、視覚的にも統一されていた。したがって、スクウェア周りの内側志向の区のシステムはまた、街路志向の線的解釈も成り立つ。スクウェアを結ぶ街路やスクウェアそのものは、かなり早くから並木が植えられたが、南北の大通りや区の内部の小さい通りには並木がないままであった。区という単位は繰り返し可能なので、サヴァンナは19世紀まで初めのパターンをほとんど変えることなく発展していった。

 恣意的な選択によって二つの複雑な直線的計画を見てきたが、このことは次に示すような、歴史的分析の範囲を明確にする。考慮しなければならない幾つかの問題は次の通りである。

 

 

1.街区の大きさと形、及びその内部の構造

2.オープンスペースとその分布

3.公共建築

4.街路のグリッドの性質。すなわち、強調されている部分があるか(例えば軸の交点を強調することによって)、あるいは最も重要な街路と次に重要な街路との間で、体系的な区別がなされているかということ

5.グリッドの端部。開かれているのか、壁のある境界線に当たるのか、都市の門に組み込まれているのか。

6.周辺の地域や地形の特徴とグリッドとの関係。

7.最も重要なことは、グリッドの3次元的な効果。例えば、マンハッタンと鉄道沿いの小さな町との比較。

 

 

これらの点は全て、形態に関する議論を行う上で基本的であるだけでなく、グリッドをつくる動機の中核、すなわちグリッドが主役を務めるようにデザインされる命となる部分とでもいうようなものと関わってくる。

 さらに、この問題にはグリッドの、純粋でなく複合的な、あるいは他の混成的な用い方という問題が多く含まれている。例を挙げよう。

 

 

1.厳密でない近似。そこでは線が厳密に並行ではなかったり、あるいは角度が厳密に直角ではなかったりする(中世の武装都市bastideの多くがこれにあてはまる)。

2.「有機的な」都市の形態の、グリッドによる拡張(例えばベルリンやクラクフなど)。

3.元のグリッドのプランにさらにグリッドを加えるもの(例えばサンフランシスコやニューオーリンズ、チューリン)。

4.他の幾何学的原理と組み合わされたグリッド。最も一般的には対角線の街路であり、ランファン(L'Enfant)設計のワシントンや18世紀のサンクトペテルスブルグの計画が有名な例である。

5.近代の宅地開発における曲線のグリッド。

 

 

 グリッドと政治

 一般的に言って、グリッド構造の町はそれ自体で町の目的、すなわち防衛、農業の発展、交易という目的にかなうものである。歴史上のある時期、新しい都市を計画することが最も有用な方法であるという事実の他に、グリッドの街路配置が前もって選択されることはほとんど無い。例えば次は、中世後期における例である。哲学者や教父が、都市をつくることが君主の義務であると主張するとき、彼らには、ある種の直交的な計画がモデルとなっていた。14世紀のカタロニアの哲学者、フランチェスコ・エイキシメネス(Francesco Eiximenes)は、著書“Crestia”における都市形態に関する描写の中で、古代ギリシャ・ローマのグリッドの一般的な型を再現している。

 西洋の都市史の概観に共通する単純な平均化(民主主義的社会とグリッド、中央集権的政治体制とバロック美というような)は、根本的に誤りであるとは言えないが、安易な誇張である。一つには、そのような平均化では、スペインやフランスのような絶対主義的権力による植民地事業での、グリッドの拡張的適用を説明できない。

 グリッドは、最も絶対主義的な王政の象徴としての要求に応えてきた。それらの中では中国と日本が主なものである。唐の長安は、グリッドを最も厳密に用いたものとして位置づけられる。その例は、平城京(現在の奈良)の計画の指針として8世紀初期の日本に輸出された。中国の帝政の歴史の最初の数世紀において行政の中心地というのは総合的な創造の産物であり、政治的コントロールのもとでの強制的な居住地であった。都市は権力を象徴し、権力の要求に尽くすものであった。直交的な計画は空間構造を凍結し、変え難い身分性を反映した。すなわち、王宮の地区、行政、宗教、住居を、身分に従って、隔離した都市の囲いにはめ込んだのである。交易は二次的な関心事であり、政治的グリッドの中で厳重に管理されていた。それこそ蘇州を魅力的にしたものである。その明朗なグリッドは、10世紀以降の中国の行政都市の緩やかな自由化と、都市形態の構成要素としての商業と娯楽の受容との、明確な記録である。

 これらは有名な例であるが、その文化が西洋から遠く離れたものであり、孤立したものであったため、都市史の主流からは外れたものとして扱われている。しかし、西洋におけるグリッドの政治的潔白はフィクションである。例えば初期のギリシャの植民地において、グリッドは、全ての市民に対する土地の公平な分配を保証するための民主的手段であるには程遠く、最初の入植者から受け継がれた土地所有者層の特権を永続させ、領土的貴族制を強化する手段であった。その土地に渡ってきた最初の入植者は、都市の城壁の内外どちらについても、土地を平等に割り当てられる権利があった。このような世襲で受け継がれてきた私有地は、奪うことの出来ないものであって、支配階級は土地取引を厳しく妨げた。私有地は莫大で、数家族当たり2Ñエーカー(1ha)もあった。それらは所有者からさらに細分された。都市の中では、私有地は住宅のためにのみ使用することが出来た。いかなる土地の譲渡も、またいかなる土地の改変の訴えも厳正に処理され、場合によっては殺人罪と同等に罰せられた。

 長安と平城京から数世紀後、公共建築物の特別な配置や他の計画上の手法は、中央集権的政治体制を讃える形で明白にグリッドを投入するのに、なお有効であった。ブルターニュのブレスト(Brest)を例に取ろう。ブレストは、フランス海軍の計画的な拡張の一貫としてルイ14世(Louis ⅩⅣ)の政府に支援された、4つの新たな港湾都市の1つである。1680年、コルベール(Corbert)の技師サント・コロン(Sainte-Colombe)による計画は、これらの都市の研究家であるジョセフ・W・コンヴィッツ(Josef W.Konvitz)が述べているように、「厳格に管理され、完全な、飾られない、街区のグリッドパターン」であった。翌年、ヴォーバン(Vauban)はいくつかの改善案を提示している。具体的に言えば、教会、市場、そして公式の居住地区の統一的な構成の挿入であり、それによって、グリッドを政府によりつくられたものとして区別する。都市と兵器工場との間にこのような記念碑的なものを置くことによって、ヴォーバンは、偉大なバロックの対角線や他の絶対主義的な計画の明確な装置に頼ることなく、新しいブレストが王の主導の下にあることを効果的に表現した。アメリカにおけるフランスの植民地プランテーションの軍の要塞(place d'armes)は、制度化された建築(総督や司教、行政官の公邸、兵舎、病院など)を伝え、同様に、王政の事業としてニューオーリンズやセントルイスの簡潔な直線グリッドを築いた。

 さらに、17世紀のオランダにおけるグリッドの適用が、E・A・ガトキンド(E.A.Gutkind)が述べたように、「カルヴィン主義者の教条主義と民主主義的平等主義」を象徴していると述べることは、単純な政治的メッセージが、多分に経済的関心という現実問題に動機づけられる都市の図式に起因する、と考えることである。というのは、オランダはプラグマティックなブルジョワ階級の重商主義文化を促進させたが、そのような文化にはバロックの対角線や騎馬像で示される公式の場とは無縁だからである。

 実際、平等主義は、他のどのような都市形態にとっても理にかなっていないのと同様に、グリッドにとっても理にかなっていない。初めの前提がどんなに高潔なものであっても、不平等は遅かれ早かれ生じる。中世の新しい町は、自分達が押し進める自由な社会にふさわしく、土地の平等性に関して高潔な意図を持っていた。ヴィユヌーヴ・シュル・ロ(Villeneuve-sur-Lot)のような町の市場のスクウェアには、次のような特権階級の状況の便宜を補償することを意図した、小さな敷地があった。丘陵地の町は、全ての入植者が斜面に関して同じ条件になるように設計された。しかし、敷地の半分はすぐにうまり、選ばれた住民は、23倍の敷地を得る機会が与えられた。

 都市のグリッドは土地の分配に関する平等主義的なシステムを表している、という信念が最も強く表明されているのは、近代民主主義のコンテクスト、すなわち主にアメリカ合衆国のコンテクストにおいてである。要点ははっきりしている。グリッドは、「土地の測量、記録、次々と起こる土地所有権の移動の単純性」を与えるほか、「不動産市場の参加における基本的な民主主義を支持するものでもあった。このことは、個人の財産が相当な不動産を占めることを意味するのではなく、むしろ、土地の区画の初めの基礎的な幾何学的形状が、都市の土地市場への容易な参加を導く単純な平等主義を示すものであることを意味した。」しかし、事実は非常に疑わしい。普通の市民が都市の土地を簡単に入手できるのは、安い田舎の土地が急速な敷地割りを通して都市化していく、予備的な段階においてのみである。このプロセスを速め、不在地主の購買を合理化する程度までは、グリッドは平等化の社会的手段であると見なすことが出来るかもしれない。しかし、一度土地が都市と同一視されてしまうようになれば、このような「土地の区画の初めの幾何学的形状」の利点は消滅し、まだ何も建っていない敷地さえ、一般の手の届く範囲から外れてしまう。結局、問題となるのは、グリッドという幾何学の神秘ではなく、初めの所有権という運である。

 グリッドの最も純粋に平等主義的な用い方は、敬虔な奉仕集団にとって、最も得意とするところであろう。2つの有名な事例がそのことを立証するだろう。

 最初の例は、カトリック教会の大きな分派の、最近の所産である。1685年ナントの勅令の撤回後、20万人以上のユグノーがフランスから避難した。彼らは、プロテスタントのドイツやイギリス、オランダ、スイスに移住し、町や郊外をつくった。あらゆる町は同じ形態であった。すなわち、四角い敷地に規則的な街路のグリッド、全く同じ形、大きさ、色をもつ統一された住居、小さな教会、同じ工場があるというものであった。ユグノーの移住地の中で最も有名なものの一つに、カッセル(Kassel)の近くのカールシャッフェン(Karlshafen)や、アンスバッハ辺境伯(the Margrave of Ansbach)の領土にあるエアランゲン(Erlangen)がある。ここでは明らかに、同一性は全ての住民の社会的平等性を表すものと考えられていた。

 次の例は、上より2世紀後のモルモン教徒に関わるものである。神は、モルモン教徒のイエスキリスト教会の信者に、ヨセフ・スミス(Joseph Smith)を通じて次のように告げた。キリストの再臨が「全き時と場所」でアメリカで果たされると。そして、この至福千年の出来事にふさわしい都市として、彼らの委任統治領を整えよと。1833年、スミスは、「シオンの都市の図(Plat of the City of Zion)」として知られる、モルモン教徒の理想都市の計画を作成した。Plat1平方マイル(2.6km)の広さがあり、街路のグリッドで分割されていた。広さはゆったりしたものであった。全ての街路は132フィート(40.25m)の幅があり、建物の1区画は10エーカーから15エーカー(46ha)の広さであった。住宅はレンガと石でつくられることになっており、道路との境界線から25フィート(7.6m)セットバックすることになっていた。プランは、信者の増加につれて、無限に成長するものであった。全ての土地は教会に譲渡され、そして人は、神の恵みを授かり、仕えることを約束する(すなわち、農場であり、商店であり、聖職者としての使命である)。

 モルモン教徒は、最終到達地であるグレート・ソルト・レイクの谷にたどり着くまでに、Plat of Zion2度(ミズーリ州のコールドウェル・カントリー Caldwell Country と、イリノイ州のノーヴォウ Nauvoo で)放棄している。ソルト・レイク・シティは、中心地区の一つに建てられた寺院のまわりに急速に発展した。ワーサッチ山脈(the Wahsatch Moutains)に守られた記念碑的なチェス盤の向こうには、庭園と農地が広がっており、それらもまた、規定通りのグリッドのラインに収まっていた。住宅は広大な敷地の角の部分に建てられ、交差点で4つにグループ分けされた。民数記やレビ記に描かれたレビ人の四角い都市、イェルサレムにおけるエゼキエル(Ezekiel)の四角い都市の後に続く都市が、ユタ(Utah)の原初の岩だらけの風景の中、デゼレット準州(the Territory of Deseret)に広がっていた。モルモン教徒は、キリストの再臨に備えた。

 

 

 “よりよき秩序”か、型にはまった手法か

 歴史的に言えば、グリッドは2つの主な目的にかなうものであった。第一に、秩序だった移住、すなわち広い意味での植民地化を容易にすることである。これは、遠く離れた領土の獲得(ギリシャ人によるシシリー島、スペインによる新世界の獲得)と、レコンキスタにともなってスペイン半島で起こったように、あるいは1800年頃の後アメリカの中西部で起こったように、再び獲得したり新たに開拓された土地への移住との両方を含んでいる。

 グリッドの使用のもう1つの目的は、近代化の手段、あるいは秩序だっていない既存のものとの対比の手段であった。ローマ人は、生粋のイベリア人やゲルマン民族の移住を、この方法で整然と行った。ルネッサンス期には、君主たちは、彼らの中世の都市構造を典型的なグリッドの区域を用いて拡大した。15世紀末にビアッジオ・ロセッティ(Biagio Rossetti)によって設計されたフェラーラ(Ferrara)の、エルコール・デステ(Ercole d'Este)による増補は、初期の例である。1628年の王の勅令は、フィンランドの全ての既存の町をグリッド構造として再整備することを規定したものであり、そのことによって、それらの町は“より良き秩序”へと導かれ、また、全ての新しい町はこれと同様の枠にはめ込まれるとするものであった。近代のヨーロッパは、(キプロスやモロッコ、ヴェトナムにおける)その植民地帝国の元々ある都市の隣の新しい地域にグリッドを用いた。新たに興った近代国家は、グリッドの助けをかりてその領土を最新式に整備した(19世紀の、独立後のギリシャや、コリントスやスパルタのような古代都市の同時代版を見よ)。近代運動は、その基礎的なグリッドを発展させ、異なる国や異なる気候における都市の(再)計画の革命的な新しい方法の基盤として資するものとした。ルシオ・コスタ(Lucio Costa)によるブラジルの新しい首都、ブラジリア(Brasilia)の計画は、彼の言によれば、近代主義の原理の完璧な例となるものであった。チャンディガール(Chandigarh)もまた、ル・コルビュジェによる著名な一群の都市建築を除いて、インドの密集し絡み合った旧都市とはっきりと対比をなす、没個性的な近代主義のグリッドである。

 グリッドを用いる際の実際の動機も変化している。グリッドは、軍隊の配置(ローマの軍営地 castra 、イギリスの営舎)、宗教上の誓約、重商主義的資本主義(鉄道沿いの町)、そして産業計画に資するものであった。愚鈍で、平凡で、単調な方式と見ることが可能なものの中のプログラムの、このような多面性は、グリッドの価値を大いに損なうこととなった。バロックの都市計画家からアメリカ合衆国におけるシティ・ビューティフル運動の理論家まで、グランド・マナー(Grand Manner)の主唱者たちは、グリッドが力強さに欠けること、また、公共建築物のために他とは区別される敷地を提供できなかったことに対して、非難してきた。古きヨーロッパの町の視覚的な興味と社会的な豊かさを守ってきた人たちは、直交的な計画を、文化の原始的な段階を示すものとして、あるいは近代の都市的経験の貧困さの証拠として見なすことしかできなかった。チャールズ・ディケンズ(Charles Dickens)は、1842年の訪米中、フィラデルフィアについて次のように不満を述べた。「気が狂いそうなまでに規則的だ。12時間も歩くと、この世界を曲がった道のために与えることが出来れば、と感じる。」ブリュッセルの改革主義の市長であるチャールズ・ブルス(Charles Buls)が1893年に記述したところによると、ベルギーの都市の旧市街地と比べて、互いに平行に、また直角をなすように走る街路をともなう近代の拡張部分は、「人工の結晶の性質を持つ、すなわちドライで数学的」である。また、それよりもわずかに早い、カミロ・ジッテ(Camillo Sitte)によるアメリカのジェファーソン流のグリッドに対する評価は、全く好意的ではない。

 

 

 この「分割」は、明らかに次のような事実によるものである。当時、地形はあまり知 られてなく、また、その将来の発展は予測できなかった。何故ならアメリカは過去を持 たず、歴史もなく、人類の文明と言えるものを未だに何一つ示すことがなかったが、何 平方マイルもの土地だけはあったからだ。アメリカやオーストラリア、その他の未開拓 の土地にとって、グリッドのプランはなおしばらくの間、充分に有効であるかもしれな い。人々がただ植民地のみに関心を持ち、金を稼ぐためだけに生き、また、生きるため だけに金を稼ぐ、そのようなところではどこでも、樽詰めのニシンの如く、建物の区画 の中に人々を詰め込むことがふさわしい。

 

 

 グリッドに対するこのような偏見は、アメリカのプランナーや学者によって、より近年に育まれたものである。ルイス・マンフォード(Lewis Mumford)のような田園都市の擁護者にとって、また、サヴァンナのパターンの美は理解できるのに、純理的な町の平凡なレイアウトには長所を見出さない形式論的都市史家にとって、あるいは、グリッドを貪欲や、見せかけのコミュニティによる無感情で機械的な産物と同義であると見なしたがる社会史家にとって、グリッドは攻撃の的になりやすかった。

 しかし、もちろんグリッドを都市的な経験の浅薄さや無感情のために非難することは、明らかに的外れである。どのグリッドも、どのように肉づけするかによって、時が経てば美しい都市になる可能性を持っている。建築家や、社会計画者、政治家、そして住民自身は、一度平面図が適当なものであれば、そのような機会がある。もしグリッドが都市の環境を決まりきった型にはめ、疎外するようなこととなれば、その原因は多分に、初めの線が引かれた後に、起こるままにしていたもの、あるいは起こるようにはしていなかったものによる。集団によるコントロールがなければ、サヴァンナのようなモデル的なグリッドさえ、初めに有していた利点を急速に減ずることになるだろう。注意力と創造力によって、グリッドという最も退屈なものの初めの単調性も、興味と多様性、人間の豊かさもたらす基盤となるかもしれない。また、もちろんグリッドの本来の意図は、自身を単調さや平凡化から守ることが出来る。純理的な町で利益を追求する者に対して、我々は共同社会主義的な試みによって対抗することが出来る。モルモン教徒が迫害の足跡に沿って建設したグリッドは、図の上では魅惑的でないのは土地開発や鉄道の会社の投機的な図面でもないのと同様であるが、信仰の力と共鳴するものであった。おそらく、今や、グリッドの計画を「愚鈍で、美的でなく、どういうわけか知性の低い話」としてすぐに非難することをやめて、むしろ「人間の知性による偉大な発明の一つ」と見るべき時である。

 

 

2. 歴史的回顧

 だれがグリッドを創案したのであろう。このことは多分避けられない質問だろう。むしろこれはだれが正しい角度を発見したかという質問であるだろう。つまり幾何であり、事実その言葉はその中にグリッドの人気や、本当に必然性のもとがある。幾何学は空間と空間の中の図形の理論である。それは線と角度の配列関係であり、都市をつくる際に、排列の秩序を配置する最も簡単な方法は互いに直行する関係を用いて水平と垂直の座標を作ることである。しかし幾何学はギリシア語のジオメトリアから文字通り、“地球を測量する”を意味していた。だからグリッドは国や街や田原や街路に適用され、その最も基本的なことは区画されずに広がる土地を規則だった測量された部分に分割するのである。

 

 

 古代世界のグリッド  

 都市と田園の両方の範囲においてエジプト人は神聖な伝統を持っていた。ギザのような古代王国の労働者の村は原始的なグリッドを存在していた。その原因、それが一つの社会的目的を持った同質の人々を組織する最もよいまた最も早い方法であるからである。ナイル河の両岸の耕作に適した土地、黒土という区分地域には、洪水毎に再建された。この細長い、特徴がない土地を直行する計画のは、自然に生まれたものだ。その理由は、よって河は北から南へ走る大きな軸となり、すべてのものはそれに沿って、もしくは太陽の軸に沿って分布しなくてはならないのである。

 本当の都市のグリッドが古代世界の少なくとも二つの地域にその姿を現すのは前古典的な古代世界だった。BC1500年頃に不思議な終わりを遂げたインダス谷のモヘンジョダロやハラッパは町の西側に城と、ほぼ同じ大きさの土地を持っていた。違がうのは主な街道(2030フィート、69mの幅)と、家が面している小道の間に現れていた。インドの歴史の後期の段階でこの計画の伝統の繰り延べったものを今はっきり示すことはできない。しかしながらマナサラのようなテキストのモジュールのグリッドによるヒンズー都市のデザイン理論に重要な情報があった。それはシルパシャストラの一部であり、約紀元前一世紀頃のものであるが、それ以前のものによって当てにした。そしてBC1000年頃までさがのぼると、ヴァストビダヤVastuvidya(都市計画や建築に関する神秘的な学説)は直線的方式を含めた幾何学的な都市のマンダラという条件での学説があった。

  その他の考古学的な地域はメソポタミアとアッシリアであり、バビロンやボルシッパBorsippa等のような都市である。規則的な都市に向かう傾向はアッシリアが支配されたBC9世紀以後からはじまるのは確かであるとおもわれる。しかしバビロンにおいてのグリッドはBC2000年頃のハンムラビ時代までさかのぼると、たとえ街路のパターンが見えっでも、BC6世紀のネブカドネザルに、復旧されたものである。ヘロドトスはバビロンを”平行であったり、河に向かってただしい方向であるような真っすぐな道によって横切られている”と言ってよいだろう。古代の世界のこの地域におけるグリッドはアッシリアの征服ののちメギド2世のために造られた。BC915もしくはBC732年に逆上ることができるものを含む。

 しかし、その跡を残した初期のグリッドを用いたものの中で座標システムと呼ぶことができるものはない。それは、公共建築と住民の建築はうまくつながっていなかったし、部分は以下のことを除けば、つながった理論をもたなかった。裏返しからつまり、中庭やそれを取り囲む部分から、街路や小道が達しているパブリックスペースまでによって決定されない限りだ。だからここでの計画は実際には主な通りを配置したり、寺院や王宮などの公共複合機関の正式な配列を考慮することだった。本当の意味で達成したのは中国とギリシアだった。この二つのつながりのない文化の中において都市はそれ自体が正式な計画する単位となり、その中で個々の建築は必ず自分の適切な場所を見つけるのだ。

中国のグリッドはわれわれが見れば政治的ダイアグラムであって、行政の首都を備えていた。知られるのが遅かったが、例としては長方形の基準に基ずいた帝都を計画するための儀礼の決まりはBC1000年の末の頃には存在していた。一方ギリシアはより強制力が少なく、より実用的なものだった。しかしそれは政治的意図はなく、全面的ではなかった。

 ギリシア人は植民地を作る努力のなかでBC7世紀頃からグリッドの意味を理解していたようだ。ギリシアにおける植民地はアポイケであり、故郷から離れた移民は近代のヨーロッパの植民都市のような単なる進貢国ではない。もし国が耐える事ができる量を超えて都市の人口の増加があった場合、一つのコロニーが送り出されることになる。だからコリントはシシリーにシラクサをつくり、シラクサはかつて西部に拡大した所にアクラエとカマリナを造った。それらの都市の人口は通常少なくだいたい5000人ぐらいである。BC600年までに地中海の西半分の地域でギリシアは今の南フランス、シシリー,南イタリア、リビア,スペインを植民地化した。そのような都市のなかには当然考慮されるべきの、以前のギリシアの村の構造や古代ギリシアのすばらしい遺跡はみられなかった。だから本国の場合の様に、同質化や同化する過程をとおって’組織的’な都市を造るということでの正当性を得るとゆうことはできなかった。以前の土地の分割は考慮される必要がなかった。植民地の土地は文化的にまた慣習からも自由である。もっともそれはギリシア人にとってであるが。神々とその儀式を持ち込み、アゴラのような組織を持ち込む。そしてそのアゴラとは民主政治の最も古い象徴である。また都市の制度としての政策それ事態の概念を持ち出す。

 これらの新しい土地はギリシア本国やAegean諸島とは全く違うものだった。滑らかで長い海岸線や広大な平原があった。初めのころは、まだ作られた都市は相当的に緩やかな配置をしていた。つまりパブリック・スペースは神殿やアゴラのためにわきに置かれ城壁の中のあまった土地は入植者の初めの世代に割り与えられた。7世紀までに都市計画の道具としてグリッドは以下の地域に現れていた。東方のスミルナやオルビア(明らかにすぐ隣の西洋の前例の影響を受けていたが。),シシリーの幾つかの植民地等にである。このことは、はじめの制度の大規模な再組織化が行われることを示していた。出鱈目なものから直交したものへのシステムの変化はシシリーの西海岸にあるメガラヒュブレアMegaraHyblaeaに見ることができる。

 ギリシアのグリットにおける分割は、ブロックと言うよりも細長いもであって、城壁によって緩やかに取り囲まれていた。実際の測量の道具に基ずく初期の配置にたいする大規模な再評価はBC5世紀にミレトスのヒポダモスによってなされた。アリストテレスはヒポダモスは’都市を分割すること’(ピレウスのアテネの港の都市に適用した)と書きまた、’実際に政治の影響を受けずに最も可能な構成に対する提案をした初めての人間である’と書いた。理想都市について記述しているときにアリストテレスはミレトスの思想家の次のような発言による都市の青写真を支持した。つまり個人の家の配置は明確に最新のヒポダモス様式でなされるならば、より快適でありより一般的な目標に対して役に立つだろう、と言うものだった。もしヒポダモスがグリッドを発見することができなかったとすれば、アリストテレスの言葉に対する可能な解釈のひとつは、彼はその特別な例を主張したのであり、都市主義者の社会理論と一緒にしたということだ。ヒポダモスは特に次ぎのような政治的システムを主張していたようである。’街の住民わ三つの層に分けられる。つまり職人と農民と兵士である。それにともない土地も三つの部分に分けられる。まず神聖なもの次に公的なもの(兵士を養うためのもの)そして三つ目は私的なもの(農民が住む所)にである。ヒポダモスの故郷であるミレトスに対するマスタープランは、彼の提案である一万人よりももっと大きな人口を想定していた。囲い込まれた全ての都市区域は250エーカー(約100ヘクタール)であり、通常の意味での成長に備えていた。このこともヒポダモスの例の以前のものとは異なっていた。以前は植民地の全ての土地は最初の時期に分割、分配されてしまい、後からやって来た人々は土地なしで暮らさなくてはいけなかった。

 BC5世紀はギリシア人にとっては都市を造るのにとても活動的な時期であった。古い時代の都市はペルシャ戦争の間に破壊され、その中にはミレトスも含まれており、再建が必要とされていた。そして新しい植民地は政治的、経済的にも好ましいものであった。ヒポダモスにより活力を取り戻したグリッドはこの必要に合致した。次の世紀までにグリッドの人気は最盛期を迎えた。それはあまり適さない土地にも適用された。例えば険しい坂に立地するプリエネなどである。そしてアレキサンダーの征服とともにグリッドはペルシャやメソポタミアにまで古代世界全域に広がった。新都市の二つの分野が新しく示された。つまり軍事的な植民地であるカトイチアイKatoichiai(たとえばDuraEuropos)と母都市の合法的な子都市であるクレルチアイKleruchiaiである。貿易の交通路にそった場所や、商業的に有効な港をもった場所が好まれた。R.E.Wycherlryが’新しいヘレニズムの都市の大量生産’について述べていることに対する証拠がある。アンチオクAntiochとその港であるセレウキアピエリアとアパメアとラオデキチア(それらはすべてセレウコス一世によって作られた)は約367*190フィート(112*58m)の同じ大きさのブロックをもっていた。

新しい都市はしばしギリシアのかつてのどんな都市よりも大きく成長することができた。例えばセレウキアピエリアは6miles(10km)を越える周壁をもっていたがアテネよりも大きかった。チグリスにあるもう一つのセレウキアはプリニの言うところによれば600000人の人口をもっていた。合理的な再分割によるギリシアのグリッドはアレキサンダーによって広められたかつての文化とはことなるものだった。ヘレニズムの出来事が終わるとすぐに人々は自分たちのギリシア以前の習慣に戻って行き、グリッドはすぐにつくり直された。ブロックのきちんとした再分割はなされないままでおかれ、アゴラのオープンスペースは露店や商店に取って代わられた。シリアーの国境にあるDuraEuroposの変化はこの過程の顕著な例である。

 ローマ世界に関しては、そこで、BC273に建立されたコサとAD100に軍隊の旧兵の居留地のために建立されたティムガドを比較するとその特徴が劇的にあらわれる。コサはBC32世紀のイタリアの最初の植民地であった。植民地という言葉のもともとは、コロコレーレcolocolereで、’耕作をしに行く’という意味であり、すなわち、植民者は農夫であった。ローマ人の植民地として開拓する一つの目的は、戦争の兵に対して住居地をつくるためであり、もう一つは征服した領域を控制するためである。コサの位置は岩の多い岬の絶頂であり、地形図を注意してみると、arxあるいは首都の位置は南部の最高点にあり、公会の広場は南部の城門に近い最高なレベルの場所に配置していた。この長いブロックと緩い都市の城はギリシア式に従わせた。

  しかし、彼らは計画的にイタリアを征服する時、ローマ人は山の集中的な地域から押し出し、ポー峡谷の広い平原の上で、以前のギリシアとエトルスカに取り代わられた。パヴィアとヴェロナの二つ時代ともBC89年に建てられ、アオスタの時代(BC25)ローマのクリットは独自的に発展していた。ーー巨大な広場のブロックの多数な単位のブランがあった。堅い壁の構造はグリットの軸線に従って組合みあわせ、公会の広場は二つの主要な枢軸の交差点の近くに位置していた。初期ローマ帝国はもっと外部的に広がっていたAD1世紀の時代に、ゴール、ブリデン、北アフリカの臨界地域でたくさんのグリット式の町を建てた。ティムガドはその中でも最も純枠な形で重要な地域であった。ティムガドにおけるグリットは測定により、各辺の長さは380インチであり、36ブロックは一部として、4部があり、全部で144個ブロックであった。そのうちの11個が公会の広場を配置され、6個が劇場にされ、6個が大衆浴場にされていた。もし新しい公共建物が必要な場合、彼らは外面のグリットを開発することにした。2世紀のローマ帝国の都市は最もしなやかで、複雑な直交形であった。

 その時、軍隊の利益は極めて主要だった、そして専門的な軍隊の育成、植民地に永久的に定住するため、都市計画は標準化、防御化した計画であった。それにより、かえって意味ありげに、BC1世紀末からAD1世紀までの間、新しいの地方の都市デザインに影響を与えた。逆にたまたまこのような主張があった、(それらの軍団の駐留地のインスピレーションは必ず彼らの先に建た初期の都市設計から生じるのである。)ポリヴィウスはBC2世紀にローマの軍隊の生活を記述する時に”一つの広場はタウンのように木と他の建物と規則的に計画されるべきだる”という建議を書いた。とにかく、アオスタとチューリンのように、都市計画の項目は明らかに類似していた。完全な変化の証拠は、たとえば、最近ブリデン少なくでも三つのローマの軍隊の駐留地を発見した。ーーコロチェスター、グロウチェスターとリンカーンであり、更に、前の要塞から改造した、同じ直線の街道を保留していた。

 後期のローマ共和国と初期の帝国において、グリッドは新しい配列を表示していた。その計画の根本的なものは地方の小さな町ではそのままのこっていた。しかし、植民地である国の首都(ムニシピアmunicipia)、あるいは、ガリア諸国の行政機関を中央集権化させた都市の首都はグリッド化をしなければならないということがあった。グリッドはブリデンの新しい町で計画しはじめていた。ゴルーでは、早期のローマ人は征服した自由な植民地の町づくりは、水平化、整備化することを犠牲にしてまでも、まっすぐに伸ばしつづけた。

   一般に、町をつくるのは国の特権であり、彼らの責任は大きなの行政管理の政策の一部に属する、これらの公式なプランは直線的、あるいは、時には標準化であった。ヴェロナとパヴィアは同様なグリッド、同様のサッズのブロックを持っていた。また、私的な寄付者、あるいは地方当局が必要になった。都市はそんな平凡な規則を満足することがめたになかった。セプティミス皇帝は金と才能を惜しまず、レプティスマガンの都市を復修していた、そして彼の宮殿は北アフリカで誕生した。彼の宮殿が建った時、既存のグリッドは結合され、巧みに作られた独創的な作品として拡伸された。

 

 

 中世のニュータウン 

 古典世界の末期に、私たちはいくつかの世紀の間に、グリッドを通った跡がわからなくなった。古いグリッドを持っていたギリシャーローマの都市は彼らの自然の統一性を失い、あるいは、すべてのものを消失していた。イギリスのウエセックス王は彼らの主なburbsをつくる時の一つ簡単なグリッドを利用していたという基本的な理論は未解決の問題であった。ヨロッバでは、直交の計画が決定的に復帰したのは、約1100年から二つ違った背景があり、一つはニュータウンをつくり出した、もう一つは初期の広がったグリッドを用いた。その時に、大部分は有機的都市であった。例え、Massamaricttima、あるいは、Florence41であるBorgoOgnissanti132035年の間にSettimoS.Salvatoreシトー修道院が現れられた。MassaMarittimaで、約1228年に拡張のデータが発見された、それは”principium et decus nove urbis”(新しい基碑と都市の輝きを添える人)という書き付けられたものを塔に残されたものである。同じ時期にFanoGubbioTaoyesの郊外で、商人の北部の4分の1の地域は拡張しはじめていた。この過程は中世紀の散在した構造と比べると、大きいな新しい規模をつくり出していた。

  ヨロッバで三つの一般的な地域にニュータウンをつくっていた。

1.南フランス、北のスペイン、イギリスとウエールズ。そこで私たちが発見したニュータウンはAlphonse de Poitiersのような勢力がある貴族、他の統治者と修道院長などによって建てられていた。特にフランスでは、ニュータウンは最初の統治者階級が求めていた大邸家、修道院と猟場になり、彼はニュータウンあるいはバスティータの所有者になった。(中世期間にはフランスのバスティーユは建っていた、ラテンの起源はテラレ・バスティータである、建設権を持った田舎の土地所有者)防御、農業と貿易は動機づけであり、またタウンは通常森林あるいは他の整地されたところから返還を要求があった。スペインでは、これらのタウンはレコンキスタの進行中にキリスト教の国王の再建設の要求により、結合されていた。西南部のフランスでは、特にガロンヌ流域の両側の土地は1213世紀の間にフランス国王と彼の数えるトゥーロンソの家臣とイギリス王との間その地域をえるために競争していた。彼らの安全的要求のためにバスティードの両側に植物を植えった。13世紀の初期に十字軍に向かっていたAlbigensianの異教徒は正しい思想持つ住民による都市を創るために、出生地を離れ移転することまで追われていた。Aigues-Mortesは地中海にある平な沼地の地域は1240年にLouisixに建立された。これは有名な例である。

2.スイス、オーストラリア、ドイツのエルバ島。それはザーリンゲンの公爵のタウンと神聖のローマ皇帝自身彼の部下の保護の下にある帝国タウンと、十字軍チュートン騎士によって建立した東ドイツまで拡張した植民地である。この地域のタウンは最大の数をもち、また、最も大きいニュータウンを真剣に計画した。

3.ニュータウンはイダリアの諸都市で発見された。このようなニュータウンの種類、彼らの忠実さを、タウンの状態の政策システムに再調整することである。それらはノヴァラなどである。(13世紀の最初の30年にボルゴマナーを建てした。)

 中世紀の後期までにたぶん千個ニュータウンがすべての三つの地域の中にあるであろう。これはヨロッバの既存タウンの数の2倍より多い。また、あらゆる項目は排除してはいけない。オランダにもバスティックデスクがあった.たとえば、最近のデータでは、それはVianenCulemboryMontfortHelmondを含めていたこのような種類に属したタウンは城の増補のであった。ウエールズ1世のエドモンドはこのようなニュータウンを建てたことがあった。同じく他のタウンは城から独立して位置していた。それはElburgNaardenKortgeneで、イギリスとフランスで共通して行われた様式であった。オランダ王フローレンス5世伯爵の都市計画と英国王エドワードⅠ世のジーランドにおけるDuchbastidesの建設を1280年に見たということを信じるにたる理由がある。

 都市計画の活動のすべてにおいて、フローレスの有名なルネサンス様式以前にも新しい計画にも、古典的な前列がみうけられる。レデック2世は1247年イタリアパマの近くのビトリアでの就任式の時にこの古典な型の復活に関して明確にのべた。そして彼はエスカナEuscan、ローマの都市開発儀式を保存した。しかし、それは自然に浮かびあがったものではなく、学問的に考えられたものであった、だから見習うべき純粋なローマグリッドは存在しなかった、ザーリンガーの公爵の一人が捕られている間にローマ様式を残したケルン建築を学んだがその特徴をその後の公爵の建物に適用することは困難であったことを私達は知っていた。

 防御と経済の政策はバスティードを説明することでき、しかし、宗教の促進は一つ無視できない要因である。中世紀の文化において、プリンスの義務であった都市作りはひとつの繰り返すのテーマである。主要な例は約1270年にトマス・アキナスにみられる。”都市は正確な社会である...また都市の建設は王様の義務である。テキトの最初の部分は都市の生活を高めることで、 SevilleIsiddore(Ⅵ-Ⅶ世紀)とHrabanusMaurus(Ⅸ-Ⅷ世紀)以来長い歴史をもっていた。しかし、これらの理由の多様性についての理論を議論した。都市の生活は他の生活よりずっと好ましいやり方である。社会的存在は相互に助かるを可能にさせ、また、知力の仕事を割り当てることにした。例えば、一人は医学を従事しているうちにもう一人は別のことをするのである。さらに都市の生活の主旨は価値ある生活である。価値ある生活のために都市は必要である。これは神様の知識であることを意味していた。キリスト王の役割は国民を神の道へ導くようことによって、彼らは都市をつくるべきであること信じていた。”最も強い民族と有名な王様は新しい都市を創、他人の土地を征服し、自分の名前をつけるより光栄なものはなかった。”都市を創る過程は皇族にとって世界を創ると同じことであった。そして、プリンスはすべての重要なことを決定するべきだった。例えば、位置を選ぶ、宗教の教会の場所を割り、裁判所、産業、また職業によって、住民を分類することなどである。このような王の敬虔な行動は最も望ましい都市をつくることの条件であった。トーマス自身はこの都市の形に関して、述べなかった。もし彼が支配者に関する本を書いていたならそのままにはしていなかったであろう。彼はヒポダモスからアリストテレスまで通じており、そして、彼がこれをこの課題と同じく使ったとはおもわれないのである。

 

 

 ヨーロッパにおけるルネサンス

  15001700年の二つ世紀の間のヨロッバではニュータウンを注目すべきものではなかった。都市の成長は大都市に集約されており、そして、その都市は最もおおきくなった。ルネサンスのインプリマタに与えられたグリッドは既存タウンの拡張のうちに規則的にあらわれた。新しい植民地の数示例は、16世紀の初期に南フランスのグラッセとニースの間の地域に、つくられたものである。そして、それは黒死病とそれに続く災害まで、回復しなかった。(15041519、、、)1545年以後フランクⅠ世のために作られた要塞は砲術に関する戦争技術にともない発展した新しい稜保壁の内にグリッドロックが存在することを示している。 

 15001700年の二つ世紀における唯一の主要な新しい植民地はシシリー、スカンジナビアと新世界である。シシリーの封建的なタウンの離れた不安定な地域で土地を所有した貴族たちは農夫たちを自分達の居住地にくるように設計した。例えば、ヴィットリア(1607)とモンテヴェゴ(1640

 16201650年にこのようなタウンが25個建立した。このほとんどは一つの大きな中庭のオプンスペースに一つのグリッドを付けた一つのプランをもっていた。特に1693年の地震により荒らされたあとに古いタウンを復修した。タウンは最も冒険的計画だった。新しい建築設計のとりきめでこのブロジェクトに触発され試みられた。

  17世紀期間にスカンジナビアでの都市計画はバルト海と北海でのデンマークとスェーデンの貿易に関する激しい競争を含め、一つの史詩といえるでしょう。たくさんのニュータウンは港市であった、それは貿易を確保するためのであり、また、二つの帝国、あるいは彼らの植民地の防御のために経済を発展させることにした。キリスト4世のもと、デンマークの支配権(現在のスウェーエデン南部のSchleswingScanis)はノルウェーに移った、またグスタフⅡと彼の後継者クリスティーナ女王とチャールズ7世の治世、スエーデン・バルティック帝国はドイツ、ロシア、フィンランド地方まで進出した。しかし、これらのニュータウンを全て防衛するためのプログラムはその土地が害国の領土であるが、激しい抵抗を原住民から受けた。

 1600年のあたりでは、稜堡の幕開のシステムを数年間を越えて改良することが普通になっていた。非常な大多数のニュータウンは直交なグリッドを持っていた。少数のニュータウンはフィラレーテのスフォルティンダのような流行なルネサンスの都市計画であった、大砲時代の軍隊的建設のを繰り返していた。

 北部における主要な都市都市評論家はオランダ出身のサイモン・スティーブン Simon Stevin(1548-1620)だった。彼の専門は港町の設計で、アントワープやアムステルダムのような実在する都市を手本にした。これらの都市が繁栄した秘訣は、海岸にあった、又、運河によって、実際の港の商業的なメリットが広がることは明白だった。そこで、Stevinは運河と壁とによって囲まれた拡張可能なグリッドを考えた。このグリッドには、相互に連結された縦の通りが数本通っていたので、壁の向こうにも行くことができた。この方法だと、グリッドは新しく併合された土地に拡張可能だし、公害を合理的に都心に結び付けることもできた。

 Simon Stevinの方法はSund海峡の南側に位置するデンマークとスウェーデンの都市計画に影響を与えた。Copenhagenの一部であり、1640年頃に開発の始まったChristianshavenは、Stevinの特徴を非常によく備えていた。1620年代に、スウェーデンでは新しい港町を求める運動が起きたが、これは一時的にStevinと親交のあったGustavus Adolphusの統治下でのことだった。スウェーデンで最初の重要な土地であるGothenburgStevinの指示に従ってつくられた。又、Jonkopingへの拡張も行った。

 その頃、スウェーデンのプランナー達は 180度方針を転換した。Stockholmの再計画が進められていた1640年代には早くも運河は格子状のデザインから意識的に除かれた。なぜならオランダの重商主義を意図した運河は王国の首都には不適当だったからだ。その後は、放射状で同心的な形状をした理想の計画を追求することが流行した。スウェーデン王室では、Eric Dahlbergが、1650年代のイタリア旅行後にこの流行を始めた。又、Nicodemus Tessin the Younger1670年代にフランスを訪れ、実用的なオランダ方式を犠牲にしてフランスバロックの新しい都市デザインを採用した。彼らの作品例としては、LandskromaKarlskromaそしてKarisbolgのための計画がある。

 このころまでには、バロックの都市論という新しい美学原理によって、ヨーロッパの中心都市は変化しつつあった。それは斜線の発展過程に基づいており、絶対主義国家と結び付くようになった。1666年の大火後のロンドン改造を求める討論において、活気のある新しいバロックの美学原理と信頼できるグリッドとが公然と衝突した。バロック側にはwrenJohn Evelynという今をときめく都市論家がおり、一方グリッドはRichard Newcourtのような頭の古い人々に指示された。又、Mark Girouardgridを土地測量士と不動産業者との産物としてとらえ、「計画し易くて販売し易い」と述べた。

 しかし隠れた狙いも存在する。イギリス人がロンドンに、WrenEvelynの計画のような偉大な計画を実行する機会をおろかにも逸してしまったことを嘆くなら、ロンドンにとって彼らの計画が適切だったかどうかという問題に全くふれないでいることはできない。事実、バロックの都市形式は政治的な中心化を促進させたこともあるし、又、17世紀後半当時の数十年間は、イギリス流の物事の体系においては、国王の立場は非常に民主的だった。その上、ロンドンの近くににあり、イギリスの法の庇護下にあった堅固な個人所有建造物のおかげで、大規模なロンドン改造計画は全て没になった。

 

 アメリカへの道

 百年後、ワシントンD.C.のデザインをめぐって適当性の問題が中心になった相似な論争が行われた。対立したのは、ジェファーソンの有名なグリッドとL´Enfautのグリッドの小心に対する憤激であった(P209の下を見よ)。フランス人の雄大な帝国主義的なダイアグラムがグリッドを上回って当時の人々の支持を取った。しかし、Jeffersonが、アメリカの空間構造に永久に影響を与えた厳密なグリッドを残った国土において続々と反対していたため、彼の勝ちがより大きいものである。

  グリッドが長い間に植民地時代のアメリカでは定着していた。St.Lawrence河はパリのような中央権力を維持してのんきな景観を呈し、この河の教会区がSt.LouisNew  Orleansのようなニュ-フランスの大胆な川のグリッドと対照的になった。QuebecMontrealのような都市では、その成長に方向性を与えようと試みたにもかかわらず、河沿いの低地にある町並みがやはり地形に柔軟に適応し、まっすぐな延長とブッロクの様々な応用を表した。

  スベインのエピソ-ドにも、形式的側面と非形式側面とがある。例えばコロンビア海岸の初めての都市が無計画だった。しかし、グリッドがすぐに広まり、その後の都市の規範となった。最初の計画的な敷地である西インド諸島のHispaniola島のSanto Domingoは、ほぼ規則的なグリッドのパタ-ンに基づいて1493年に設計された。南米の最も重要な都市-Quito,Lima,Buenos Aires,Bogota,Santiago de Chile,Valparaiso-が全て1534年から1544年までの10年間に作られていた。Texas州のAntonio,Louisiana州のGalvez,California州のSan JoseLosangelesにプエブロが設計された時にはまちづくりも18世紀に入った。たくさんの地方首府、採鉱業と製造業都市、インデイアン人の定住地が初めての世紀に作られた。計画が都市機能を無視して変化しなかった。Cartagenaのような港湾都市も同じように農業の中心地域として設計された。Konvitzが言ったように、スベインの“都市計画に対する法律的かつ綱領的なアプロ-チ”は、都市間の部分的な差別を避け、計画の機能面とその行政管理、都市の均質と関連して考えた。

  ニュ-スベインの町は公式的にスベイン王宮の命令に従って計画され、プレブロやヴイラスと呼ばれていた。1573年にはPhilllip三世がこれらの町を集め、“西インド諸島の法律”という純粋なルネサンス思想の成果のような作品に収録した。この精粋は、最終にVitruviusの古典名作-《建築十書》になり、1526年には初めてスベイン語に訳され、1582年にPillipに捧げられたラテン語版も出版された。しかし、これらのアメリカの町をバスティト(Bastide:フランス中世の武装都市)の長い中世史の延長と考えることも確かに妥当である。アメリカにいる計画者たちは、町をバリオ(Barrio:管理区域)に分割する方法や、これらのバリオの宗教と社会生活をスベインから持ち込み、維持した。これらのバリオが自分の教会を持ち、町通りもそこの職業と同業組合の活動による命名した。?   

 

 Tenochtitlanのプランは、中心に広場のある座標構造であり、居住区の形が不確定であった。Peruvian海岸に面した前インカのChanchanの長方形は、明白な計画の一切ないように様々なサイズの大きな長方形の城壁の混合体である。同じような“内正方形”のプランはインカ帝国の首都Cuzcoに特徴づけたが、他のインカ都市が規則なグリッド設計にもっと近いであった。Ollantaytamboでは、ほぼ同じサイズの長方形ブロックが堅い城壁による横切られてちょうど二分になった。

  二本のメイン軸が交差し、その交差点には大きな公共広場があるグリッドが標準的である。このプラザが敷地の要所であり、このサイズがグリッドの構成を統制した。プラザを取り囲んだブロックが四つの等しい区域(solareo)に分割され、移住者のリ-ダ-達に割り当てられた。Vitruviusが勧めたように、ブロックの方位は時々、四角を基本ポイントに向かってある角度で配置されていた。そうすれば、卓越風が町の縦方向に吹き抜ける事ができなかった。

  “西インド諸島の法律”の影響を受けなかったのは他に二つの敷地タイプがある:インディアンの敷地-これがイエズス会のreducciones、つまり乞食の神父の氏名であった。-とpresidioあるいは軍事施設であった。これらもまた、直線形のプランに従っていた。この三つの地域社会-pueblos(スベイン要塞地)、presidios(南米の集落)とインディアンの町-の差異が特に1600年以後に実際に見えなくなった。

  英国も新世界の植民地づくりにグリッドを利用した。ニュ-イングランドには、初めから郡区単位で方向づけられ、そこの土地が配置の前に測量され、限界が決められたけれども、厳密なグリッドのパタ-ンが現在ほとんど知られていなかった。New Havenの結晶構造プランは例外であった。このプランには、九つの同じな正方形ブロックが並べ、そこからまっすぐな道路が放射状にのび、港につながる十番目の「尾」のようなブロックも付随していた。このプラン-町が1638年に創立された-がもうLondon、あるいは軍団が最初に上陸したBostonより先頭に立ったかもしれない。これが植民者の野心によって説明できるかもしれないが、この野心がLong Island海峡全域に対する独立てきな司法支配権から始まるものなのである。その夢が二十年の内に崩れ、New HavenConnecticutに所属する小さな農業区になった。 

  植民地の中部には、Pennのクェ-カ-教徒住民用に設計したPhiladelphiaが有名だった。しかし、もっと南部のイギリス植民地が17世紀において都市構造に発展する事ができなかった。VirginiaMarylandにはいくつかの厳密でないグリッドが見られる。これは英国国王の指示によって作出された「ニュ-タン法」に従って設計された。これらの町-Yorktownが一例である-が通関港として位置づけられた。これも農園主と商人による維持されていた。西インドの煙草と奴隷の到来に従って、Virginia地域の田園風が固められた。Jamestown,1699年にVirginiaの州都が遷されたWilliamsburgMarylandの植民地首府となったAnnapolisが数少ないの例外であった。

  しかし、18世紀までには南部の都市中心に対する抵抗が弱まった。

比較的な新しい植民地には、CharelestonSavannahのような港町も見られた。Thomas Jeffersonの後押しで1785年の国会が国家的測量調査を実施することを決定したが、ある意味でおそらくただうまく確立された植民地時代後期のアメリカの都市の習慣をまた植民されていない地域に広げることであった。もちろん、居住用に開拓された土地が植民時代の夢の全てをくじけさせた。また、自由を保障するものとしての土地平等配分という理想と普通選挙権はアメリカ革命の真の試金石となった。

 《国土条例》はアメリカのほとんどすべての都市計画がグリッド案になることを確実にした。一つの世紀の中には境界が閉合されたグリッドの町が太平洋と東海岸の旧植民地地域の間の各州にほどんと漏れなく散布していた。グリッドが古い町の新地域の規範にもなった。例えばBostonBaltimoreRichmond、そしてNew Yorkはこの規範を一番厳しく執行した都市であった。その都市の三人委員会がManhattanを同一したブッロクと変化のない公共オ-プンスペ-スによる155本の通りに区分した。その時New Yorkには23本の通りしかいなかった。委員会の1811年のレポ-トの中には、L´ENfantの最新のWashinton プランを念頭に置き、“創造された改造-円形、楕円形、星形”を止めてさっばりと“都市は男性、海岸に面し、よく配置された建てやすくて住みやすい住宅によるなる”と述べた。

  この姿勢の中には、都市土地の社会価値、そして過去の建築が建てられた前に都市分区に明確的な定義しないという支配的な見解が一掃された。この点も植民時代のグリッドの応用からの意味深い転換と新視点であった。Peter Marcuseによるもう一つの視点としては、Manhattan 1811年のプランは、植民時代の閉鎖的なグリッドから合衆国のオ-プン的なグリットへの新紀元だったということである。閉鎖的なグリッドは基本的に前都市的な概念であり、閉合の構造の中に堅固な境界と確定したデザインと見られた。この境界は時々城壁、あるいは地形の特徴であり、公共建築を主軸の端点に配置することと、グリッドを公共用地に取り囲まれ、農場に当てる事によって決められた。最後のが、植民のアメリカに城壁なしのグリッドの流行的な形であった。オ-プン的なグリッドは資本主義経済に基づかれ、その土地が市場で売買される商品に変化された。それから、グリッドが無境界的かつ無制限的に、物質的な利益があるさえどこまでも延長できる。この状況の下に、グリッドが土地の売買に熱心している商人によって様々な土地活動を画一化する便利かつ簡単な方法になった。公共用地、公園、そして他のすべての市場から移転された土地が利益創造の源泉に対する浪費とはっきりと見られている。New Yorkの委員会がこういうふうにかれらの1811年のプランの中に公共スペ-スに土地を提供しないという決定をしたのである。率直に言うと、Manhattan島がこういうふうに言われていた。

  海の入り江によって、健康と愉快な気分、特に適切に言うと商業利益と関連するそ

 の場所を示した。同じ原因でそこの土地の値段が極めて高かった。こう見ると、良心 の命令と責任感に従うことより、やはりもっと大きい範囲で経済法則の影響を認めているようなのであった。都市の土地から利益をもらえるチャンスがあったら、公共利益がすぐに捨てられた。

  実際にはNew York市が評判の1811プランよりも早く、すでに彼の委員会の信条を実施した。ある時期においてNew York市がWall Streetの南部の一部の私有地以外に、Manhattanすべての所有権を持っていた。1689年のDongan Chatrterがこの所有権を法律化した。そして即刻にこの都市の“保護者”がこの公共財産の利益を財布に充て入れることを始めた。各区域がグリッドによる簡単に設計され、やすい値段で競売されていた。1796年までには、市長のCasimir GoerckManhattanの中心に広い範囲の土地を測量して直線構造に分割した。現在の委員会が例外なくこの教訓を厳しく応用している。

 1846年から1848年までのメキシカン戦争の後にCaliforniaがアメリカの領土になった時、この新視点が西部の仕事に対する有益なのであった。スベインシステムのもとに、土地は家庭の譲渡できないものであった。(厳密的に言えば、この家庭が土地の所有権を持っていないけれども、国王から土地の永久監護権をもらった。)これが公共オ-プンスペスと広い個人用地の中間に位置している。アメリカにはthe puebiosの丈夫な社会構造が自由放任主義の競争に交替された。川あるいは広いプラザに沿う町中心の遊歩道が開発の的になった。市政府に公共用途に配分されたのはただ売れない、あるいは廃棄された地区であった。初めから社会の永遠の利益に除外された公共用地が適当と思われる時さえすぐ都市保護者に捨てられてしまった。“西インド諸島の法律”が都市と農村を工作のユニットとして考えていたが、アメリカにはこの二つのものを別々の権力として考えていた。スペインとメキシコの法律になかった土地税は、アメリカの支配階級の実業家によって田園貴族の崩壊を助長し、この世襲財産の獲得と配分を促進した。雛形の都市の周辺にはグリッドが無制限に蔓延していた。この時、元のスベイン法律を続けて執行剃る必要もないし、そして無数の土地投機商と建築人がこの都市周辺部を忘れる前に、アメリカ政府もこの地域に対する全面的な計画を作成する実力が持っていない。

 良質が投機なグリッドに対するそんなに必要ではなかった。Jewis Mumfordの言ったように、普通の事務員がT定規と三角定規を使って、土地の売買と開業と関連する土地の数量を計算できる。機械師が練習なしに建築家と社会学者になって都市を計画できる。最悪の犯罪者は鉄道会社であった。特に1862年以後、広大な土地の利益が連邦政府によって与えられた後、彼達がいつもただ一つの基本計画によって何百の町を彼の鉄道を沿って計画し、これを土地投機と国家交通の獲得の手段として使っていた。競争する会社がこの地域を分割する時にはこのような将来型の町がたくさんあった。個人の持ち主が鉄道を従って沿道する町を認めた。共通の根拠としては、農産物を工場と市場に運送するために農民に交通機関を作るのであった。失敗率が高かった。なぜなら、たくさんの計画案が地方裁判所に積もっている時に短い時間に休廷を要求するチャンスがあり、これらの町を無効にしてこの地区を農民に再売する法律手順があるからなのであった。

 この19世紀のグリッドがだいだい3060ブロックしかなかった。一つのブロックに616個の敷地があった。都市計画がいつも標準化され、彼の範囲によるしか変えられない。例えば、ある会社が300平方フィット(28平方メトル)、140フィット(42.5m)深さの敷地を持っている。このプランには二つの軸があった。一つは鉄道を沿う工業軸であり、駅、穀物昇降機、倉庫、水塔、管理室と野外演奏ステ-ジのある沿道公園がこの軸の上にある。そしてもう一つの軸は大通りを沿う商業軸であった。この二つの軸がある時一致し、ある時直角的に交差し、そして鉄道を直線にするT型の形もあった。もしグリッドの後に鉄道が敷設されば、優勢と便利を鉄道行に与えるため道路プランが再編成される場合もあった。GalvaIllinoisには、鉄道がグリッドを対角線的に通りぬけた。 この都市化に対する過度の熱中がアメリカには制限されていなかった。他の鉄道をやすく受け入れる地域にもこの状況が続いていた。ラテンアメリカの農村部には公共用地から個人利権への転換に関する非常に相似的な記録が残っている。北部のメキシコの驚くべきのグリッドと並行して、Bahia BlancaArgentinian19世紀のニュ-タンにも無感情かつ無制限的にグリッドが蔓延していた。一方、AustraliaNew zealandには、簡単な町のグリッドが開発の制限されている公園によって構造され、そしてこの公園も自分のグリンベルトを組み立てていた。

 

 

3. グリッドの配置

 ここで扱ってきた「グリッド」という語は便宜的に、正確ではないが「直交計画」を指している。少なくともアメリカ合衆国では「gridiron」とは細長いブロックパタ-ンのことであり、「checkerboard」は正方ブロックのパタ-ンを意味している。これがグリッドプランの最も一般的な2区分である。正確な正方形ブロックの基本は単位寸法に従うことである。座標に従ってできる二次元的単位が等しいからだ。長方形ブロックは、細長いブロックの規則性または公共建築やオ-プンスペ-スに対するそれらの大きさ関係により、単位寸法に従っていることもそうでないこともある。

 正確な正方形ブロックは稀にしかない。年代順に挙げれば、東トルコのゼルナキ・テペ Zernaki Tepe にある未完成の町ウラルティアン Urartian B.C.8世紀)やヴェローラ Verora のような北イタリアの初期のロ-マ植民地、京都、ラリンド Lalind (フランス、ペリゴール)のような少し中世風に建てられた町々、ニュースペインの町々、オマハやネブラスカのような初期のアメリカ都市の計画、そしてセルダ Cerdaのバルセロナといったものが思い浮かぶ。長方形ブロックはもっと一般的である。しかし、概してグリッドプランは初めはそうでなくても後にユニットが付け加えられたりして様々な大きさのブロックが混ざり合ったものになっていく。

 しかし、都市計画史家にとっての主な関心対象である街路グリッドやブロックパタ-ンといったものは、それら自体が都市形態の性格をあきらかにするものではない。そうした全体のグリッドが配置されるとたちまち、それによって区画されたブロックの中に、更に細かなグリッドができる。ロケーションが土地所有者や賃貸者に影響を及ぼす土地配置の決定は、街路 street 線が引かれる前あるいは同時に下される必要がある。もし、都市の歴史の中で街路がブロック内のより細かくわかりにくい道よりも長く耐える様であるならばである。それはつまり公共空間としての街路は各私的区画が内側で変容し得る間も公的監視下にあるからである。それにもかかわらず、街路グリッドと小区画グリッドは絶えず結合し互いに依存しているだろう。

 グリッドをとる都市形態の質を左右する重要な問題点がその他に2つある。1つは土地の形状であり、もう1つはその時と場所における調査技術とその精度である。

 

 

 敷地

 始まりは土地とともにあるものだ。土地が平らな所では、グリッドは単一である。これは都市計画家が白紙上に思いつく最も手っ取り早いものである。地表レベルで標準化された形式が無理なく繰り返され得る。計画業者は実際に窪地を埋め、起伏を削り、あるレベルの敷地を造ることを決断するかもしれない。ゴールにあるロ-マの都市は、これまでいわれてきたように、自然物であれ人工物であれ既存の特質にはっきりと軽蔑感を示している。彼らの求めたのは実質上の更地であった。(即ち、)新しい都市は「完全な水平性」のもとに見いだされ得た。

 平らな土地においても、グリッド居住パタ-ンは敷地のさまざまな物理的要素に影響されるであろう。例えば河川都市では主要街路は流れに平行になりやすく、多くの小路が主要街路をつなぐ傾向がある。南西フランス、ガロンヌ川のサラセン城 Castelsarrasin 城塞都市 bastideはまさにその例である。後世の北アメリカにおけるフランス植民地で細長いグリッドをとる河川港町は、こうした〔河川に〕共鳴した直線街路のより整った型の例である。

 起伏のある地形上に、純粋で妥協のないグリッドが発生することは稀である。古代から最も名高い例としてはB.C.4世紀のプリエンのよく考え抜かれたグリッドが挙げられる。プリエンのもとの町は蛇行した川の河口にあり、沈泥が問題となっていた。新しく出来上がった都市は約4000人の人口が居住出来るように計画されていて、南と東と西に傾斜している尾根の南端である高台の上に建設された。都市の各ブロックは、主な東西街路に沿って劇場の座席のようなテラス状になっており、南北の歩行者用街路はところどころ階段が入っていた。中世のリューベックにおいては、自然な土地形態に関わりを持たないことは合理的に説明され得る。都市はトラウェ川に囲まれている。都市の軸は敷地の高くなっている尾根沿いにあり、傾斜に沿って下る真っ直ぐな街路が町の中心と川の桟橋の間を最短距離で結んでいた。サンフランシスコのような現代の例は理論家にとって早道である。傾斜上の地所でうまくやろうという努力は次の買い手に回されていくのだ。

 自然の不規則性と直角の抽象性、厳密性との間に妥協点を探り出すことが街路グリッドにおける一般的なやり方である。各々の地域の地勢要素に直観的かつ適切に対応した網状の都市形態の例を探すためには中世に新しく建設された都市以上に見るべきものはない。何百もの城塞都市の中で、フランスのモンパツィールやオーギュ・モルテス、またウェールズのフリントといった固いグリッドをもつものは極めて稀である。これらは平地にあり、たいていは長方形に壁にかこまれていた。新しい都市の多くは防御壁が建設されず最初から境界はそれほど定められておらず、全体的にエッジがはっきりしていなかった。これらの都市は平らでない地形上にあり、時には故意に険しく高い地を選んだ既存の城に接していることがあった。それゆえ大部分においてレイアウトは「一般に城塞都市の形態は地域の緊迫した状況に適応したのだといわれる、主として地域的経験的アプローチ」の結果生み出された。尾根においては1つの主要街路と傾斜に沿って平行に並ぶ道路による単純な線的グリッドが生まれる(例:ヴィラフランセ・ド・クェイラン Villefranche-du

-Queyran、セント・パスツール St.Pastour )。丸く盛り上がった丘の上では、「有機的」成長に起因したであろう環状プランが単純な方形となった(例:ドンザク Donzac )。ニューウインチェルシー New Winchelsea の計画者は出来るだけ多くの丘の頂をグリッド化した結果、不規則なエッジを持つ奇妙な形の居住地や牧草地を残した。ヴモン Boumontは、市場の北のグリッドブロックを曲げることで背後の丘と折り合っており、そのために南側では多少線型を逸脱している。以前からの村落や主要道路は新しい町の範囲に影響を及ぼすので街路表面の保存は迅速に経済的に行われる。Villeneuvesur-Lot の2つの城塞都市は10年の年月の隔たりを置いて河川の両岸に建設されたものであり、そうした影響を如実に示している。つまり、川の右岸にある古い方の町は処女地に建てられていてかなり規則的であるが、その仲間である左岸の新しい町はもともと村やプジョル Pujols の領主の2つの要塞があった所で、直線的な大きな区画が大分あいまいになった形態を示している。

 これら何百ものプランで一般的に見られる直行性であるが、これは中世期に開花した合理的都市デザインにとって単なる選択肢にすぎなかったということを忘れないほうがよい。それは単に領域の見積もりや部分の調整に便利なシステムに他ならなかった。ルネッサンスまでは、計画者は地形や都市形態の正確な図を数学的に作成する道具を持っていなかった。ディビット・フリードマン David Friedman は「中世においては、直行性のある明瞭な平地の上でのみ明確な点の位置が判った」と書いている。前章で言及したように、シエナは有機主義的に計画されており、現存する体系において成し遂げられた。しかしはっきりしておくが、これは全く異なる話である。地理的特徴や不規則な都市形態を調査し、記録する可能性が開かれたのはルネッサンスに入ってからだったのだ。

 

  調査官と理論家

  直交した道路を設計するという単純さのために、グリッドは技術的に複雑でない文化においても実行しやすい都市形態となった。実際の土地区画を行う人々の教育はかなり基礎的に行えた。そのための道具は、成果をより正確にするために定期的に改善されながら非常に長い間使用されてきた。どの時代においても直線をマークするものはロープとペグだった。アルベルティのホドメーターや道路計測器は、1500年前にビトルビウスにおいて記述されている。それは外周が分かっている普通の荷馬車の車輪の回転数が自動的に記録されるものであった。

  エジプト人は、水平点とそれと異なる高さとの2点の高度差を測定することができた。簡素な観測器を持っており、さらにトランシットの原型であるグロマというものを使っていた。それはギリシャ人、ローマ人に受け継がれ、ルネッサンスで改良版が開発されるまで標準的な土地測量器具でした。このトランシットでは、直線のうち1本を主方向の観測に使い、もう1本の直線で主方向の直線に対して直角の方向を決定した。

 ギリシャの植民地事業では、horistesは最初の探検には重要な一員であった。その言葉の文字通りの意味は「境界線をはっきりさせる人」である。彼は有用な技術を持っていた。区画分けは細長い形状におこなわれた。紀元前1世紀の後半のディオドロスDiodorusの植民地建設の記述によれば、まず啓示に対して儀式的な協議(宗教的な要素)をおこない、次に泉の配置(水の供給)、都市の壁の建設(防御壁)、大通りやplateiaiなどのグリッドのレイアウト(彼の記述しているチュリイThuriiでは、1方向に4本、それに直交して3本の通りがある)を決めた。そして、この初期の整理をした後に、stenopoiと呼ばれる狭い道路、基本的には区画の間のフットパスによって住宅用の狭い区画に細分割した。住居はstenopoiに面し、公共施設はplateiaiに面していた。その区画は 100x300フィート(30x90m)であった。都市の一部は政治、商業建造物のために厳密に確保されていた。経済活動の中には居住地区に含まれているものもあった。公共施設に関して言えば、寺は時にはグリッドに合っていることもあれば、おそらく宗教的な理由で独立して適応していることも

あった(例えばAgrigento Paestum )。劇場はしばしば座席の配列に自然の傾斜を利用した。

 ミレトスMiletus のヒポダモス Hippodamus のことはよくわかっていない。彼の作によるとされるシステムに関する詳細の資料が全く無いのである。しかしその根拠となる事実はかなり確かである。それは、〔そのシステムは〕土地測量士の純粋な技術(実験)実習よりも、理論に基づいた幾何学の公式に基づくものであり、また配置に関する明確な要求に注意深く適合しているということである。ピラウPiraeus から判断するなら、そのシステムはそれ自身のもつ直線道路パターンで領域を区域に分割するということを含んでおり、特別な公共機能のために境界の標識で定められた公共区域をとっておき、公共施設の配置に供給する。ロードスRhodesの例から古代の道路パターンが再構成できるので、ヒポダモスの幾何学システムには3段階の分割があったと推定できる。最も大きな要素は、1辺1stadion 程の長さの正方形である(600フィート または180mぐらいの可変ユニット)。これらの正方形をそれぞれ4つに分け、1辺1/2stadionの正方形をつくり、それを6つに分割して、100x150フィート(30x45m) の長方形をつくっている。しかし、そのシステムがヒポダモスの死後、都市デザインのスクールとして確立されるようになったのか、普通の測量士のmodus operandiを単に洗練したのかはわからない。

 ローマ人の測量士の教育についてはもっとよくわかっている。それには、数学・幾何学・法学の知識が含まれていた。概して彼らは正方形、長方形、それに加えて三角形を使って仕事をしていたが、それを三角測量に使うのではなく、川幅を渡らずに知るようなものに使い、ともすれば高度を計算するのに使っていた。他の器具には、建物測量士が主に使っている三角定規と、正確な水平位置を定めるための水盤と、方位を決める持ち運びのできる日時計と、もちろん直定規と測鎖があった。計画都市と、その周りの農地の長方形の土地測量との間に厳密な区別はなく、田園の測量士と軍隊あるいは都市の測量士との間にも厳密な区別はなかった。軍隊野営地の中心にグロマを設置するのは通例であった。

 ルネッサンス以前には、直線のレイアウトが平面幾何学の簡単な機械的手順によって一般的であった。測量士は、地面に引かれた直線に対し垂線をどのように引くのか、平行な実測直線の引ける2つの座標をどのように設定するのか知っていた。

 多くの城塞都市で、12ノットのひもを使って直線をかくことのできる、3辺が3、4、5のピタゴラスの三角形が広く使われていた。構造幾何学に基づいたより複雑なパターンはゴシックの大聖堂のデザインでよく知られており、フィールドに適用することは可能であったろうがそうはならなかった。いいかえれば、街のレイアウトは建築デザイン上の問題と同等に高尚な問題とはみなされなかったのである。

 分析に適合する例として、トゥールーズでフランス国王の執事により1300年頃に建設されたグレナデ・スール・ガロンヌがある。この計画は、1255年頃、アルフォンソ・ド・ポワトーの計画者によって開発された街のタイプの後世の型であり、その例としてはドルドーニュのセントフォアラグランデ Ste.-Foy-la-Grande 、モントリオールドジュール、エドワード一世のモンペリエがある。このタイプの中心的な特徴は、互いに平行で同じ距離にある二組の道路の交差にある。これらの道路が取り囲む正方形の中はマーケットである。典型的なものではこの中心の区画は正方形であるが、計画の残りの部分では長方形の区画となっている。グレナデの計画の幾何学的原理は、それによって街がレイアウトされた一般の実測直線の位置で明らかである。それは、13世紀初頭にヴィラルド・ド・オネクール Villard  de Honnecourt のスケッチブックに描かれた循環システムであるが、タウンプランに実施されたのは初めてだった。これは、それがどのように機能しているかである。最初の2本の実測直線の間の距離、つまり中心の正方形の辺という定義の軸線間の距離は210 フィート(64m)である。これが街の図面作成者の最初の決定事項であった。次に、一辺210 フィートの正方形の対角線をとると297 フィート(90.5m)となり、そしてこれを主軸線と次の軸線との距離にとる。このプロセスを繰り返して、街の外側区域で区画の大きさを決めた。

 

 

 芸術家としての都市計画家

 理論的に発達した幾何の知識をもち、大聖堂の工房に携わるゴシックの専門家たちが、ルネサンス以前の時代に街のグリットを芸術に関する問題としてとりあげた形跡はあるのだろうか?デビッド・フリードマンは、このことに関して最近の著書のなかで14世紀のフィレンツェの新しい都市について述べている。アルノー谷の上流にあるサンジョバンニ、テラヌオバ、カステルフランコ、ピエトラサンタ、スカルペリア、またアペニネ地区のフィレンツォラといった街は、大都市の北や東のとなりに位置していた。これらの街は平地にあり、一つの基本的な計画に基づいている。大きな長い軸はたいてい、町の立地に関わるような〔広域〕主要幹線の一部であり、これに対して大きな広場が直角におかれた。城壁が居住地の形を初めから決定していた。壁の内側の道は防衛境界に沿って集団が移動できるよう意図されたものであり、メインストリートの次に広い道幅を有していた。最後に、辻には4つの均等な区画があり、それぞれの区画のなかにもまた交差する軸があった。

 フリードマンの意見では、この計画はゴシックのデザインによく見られる建設的な幾何とは対照的に、洗練された正弦の幾何、特に三角法が用いられている。三角関数は円の幾何学的な測定、つまり弧や弦と関係している。正弦の幾何がフィレンツェの計画の基礎ではないかということが以下のことから推測される。即ち、街のブロックの奥行きが中央から離れたところでは浅く、メインストリートに接しているところが最も深いというように、同じ幅で奥行きが3段階にわたって浅くなっていく事実である。この変化が社会の階級を表しているかどうかは定かではない。権力者はこの街からは排除されている。だから、この進歩は幾何の進歩であるともいえる。

 もし、正弦の幾何がここで本当に使われていたのなら、これは中世の街のデザインにおいても一つのパターンとして継承されているであろう。正弦の幾何の進んだ理論的な利用は、伝統的に中世の天文学や地球上の測量と関連している。これは2つの事実から明らかである。1つは航海図であり、これは科学的な手法で地球上を直接に観測することによって得られた実用的な航海の情報を与える。これらの図 chartは文字通り特徴的 characteristic なパターン、即ち表面にクモの網状に広がる線で構成されたパターン・・風のおこりに関係するパターンであり、後に充分進歩した方位磁石に関係していく・・を有しており、また多くの平行線の組み合わせがあって、これにならってフィレンツェの新しい街のグリットの均整のとれたシステムが生みだされたのである。もう一つの正弦の幾何の利用は観測のために独自の見方が要る(円盤の直径と中心の回転軸の長さ)平面天体図のアストロレーブにおいてである。アストロレーブから生まれたもっと単純な器械に四分儀がある。これらは双方ともヨーロッパで早くも11世紀から知られていた。

 フィレンツェのプランは航海図やアストロレーブのような正弦幾何、及び1220年頃にピサで書かれたレオナルドフィボナッチの「実用幾何学」のようなコ-ド表を使用していた。これらの表のおかげで測量士はアストロレーブや四分儀が必要なくなった。伝統的な測量の道具(糸や棒、また直角を測るための単純な器械)は手間がかかった。調査する者は街のメインストリート軸となる基本線を一本引き、軸に垂直な線を引くだけでよい。そして適当な大きさに調整された円の弧の11,22,33,44,55ユニットのコードを測定する、と街の両側の5つのユニットの境界を定めることができる。測量線は軸と直行線の交点からそれぞれ平行に出て、基線とともにプランの骨格をなす。しかし、主要な決断はこれらに優先する決定的なものである。誰かが円の大きさを計算しなければならないし、残った寸法を得るために円周の22,44,55,66番目の弧のコードを計算しなくてはならない。フリードマンは、それはデザイナーの仕事であると結論した。

 この実用的な測量や区分の仕事を超越したフィレンツェのデザイナーの意識的かつ芸術的な創造は、街も有名な建物のように建築的なデザインによって生み出されるべきだというルネサンスの姿勢の前兆であった。次の世紀にはアルベルティたちは街を宮殿と同等に扱った。「街の主な装飾は、通り、広場、建物の品位と機能に基いた配置である」とアルベルティの言葉にある。Filalete Sforzind に始まり、ルネッサンスの建築は周囲が固定また区分された理想的な街を追求していった。その中で円が基本となった幾何が街のデザインのプロポーションを決める手段として使われていたことは明らかである。

 その中の一番最初の事例の一つがフラ・ジオコンドの1511年に出されたビトルビウス Vitruviusに関する本に見られる。そこにはビトルビウスのおもな道筋を描いた木版画が載っている。それらの道はどれもコンパス上の普通の方位を避けているが、その方向からは不健康な強風が吹いてくると考えられていたのである。木版画は16個の正方形のブロックからなる直交街路システムを示している。このプラン上に八角形が重ねられており、その各々の辺上に風が表されていて、それらはどの道とも平行になっていない。フラ・ジオコンドの描いたものの斬新さは、この幾何学的な形の風の流れは、街路、ブロックの大きさ、街の大きさと調和しているという事である。またビトルビウスの道路の基本とは関係ないルネサンスのオリジナルのものもある。円を基本とする幾何とグリッドとのこうした調和は、2世紀早くフィレンツェの新しい街のデザインに使われていたものであった。

 この絵を描く時、フラ・ジオコンドの頭にはギリシャのネオポリスであったナポリの古い計画があったようである。古代ナポリと同じく、彼の街路システムには垂直の道より広い3本の水平の道がある。紀元前5世紀の終わりの頃を再現した現代の調査によると、ナポリには距離をおいた3本の長い道路(約607 フィート、185 m)があり、そして121.5 フィート(37m)の間隔で20本の道が交差している。すると住区画は5対1のプロポーションとなる。この計画線はナポリの中心部においてなお残っている。東に向いたゆるやかな長い坂道があり、この方向の風だけが健全であるとビトルビウスでは考えられていた。これに交差する道はもっと傾斜があり、南の港の方に向いている。しかし道の方向はどちらも経線またはコンパスの経度線から22.5度傾いており、これはビトルビウスでの都市街路の位置の決定法であると考えられるものと同様である。

 フラ・ジオコンドの別の絵においては、元のナポリの計画の理想的な型が示されていると考えられている。それは円や風の流れを16分割したものである。二つの点は、街路パターンの中央の縦の線と、またそれぞれ交差する道である横の線の一つと重なる。フラ・ジオコンドのナポリにおけるパトロンであったアルフォンソ2世は、古代のものに積極的な興味を示し、彼の支配期間には実際に長い道路を拡幅したり、道路を掘り起こしたりしてギリシャのプランを復活させようとする試みを行っていた。彼の図はそうした復興のプロセスとおそらく関係していたであろう。

 これらのフラ・ジオコンドの街の図は、グリッドと円との新しいつながりを確証する以外にも、別の理由で重要である。それはルネサンス時代における、街をグラフィカルに表現るす新しい方法の進歩である。我々は現代において平面図を街の地図として当然のように考えている。より一般的な街の描写は投影図や鳥瞰図によるパースペクティブであるが、これはルネッサンス期の発明である一点透視に関連している。またこれは芸術家たちに平面上で三次元の空間を表す能力を与えた。それに対し、平面図は街をすべての形態に対して垂直な無数の視点から描いている。現実の様態に関係ないこの高度に複雑な抽象法は街を一様で空虚な二次元上の記録に置き換えるのである。そしてこのローマ時代には知られていたが中世においては無名だった平面図は、16世紀の間に、測量の方法と道具の進歩によって復活したのである。

 強調したい重要な事は、新しく科学的に測量された計画と、同時代における可動式大砲の進歩は、街を観念的な図と見ることにつながったという事である。街は様々な要素が完璧な計画をつくるために盛り込まれたパターンとして独立して研究され始めた。新しく発表される論文は、グリッドの技術的なバリエーションを含むこれらのパターンを広めることになった。もっとも影響を及ぼした論文は、ピエトロ・カタネロの「I quattro primi libri di architettura (1554)とビンセント・スカモッティーの「L'idea della architettura universale(1615)である。

 

          

4. 都市と田園とを調整する機構

 都市設計においてこれらの批判的な開発を従う世紀は、グリッドの歴史の中でもっとも分節的ででエレガントな例を、少なくても西洋ではAvola  and  Turin, Richelieu  and  Neuf-Brisach, Mexico  City  and  Savannahなどを提出した。通りの幅や街区の調子や空地などは互いの関係から数えられる。常に非中心的で正確な整列は、強調された幾つかのポイントで区切られる。アメリカ大陸の植民地時代においては、都市グリッドが日常作業的に広範囲な地域計画で引かれ、それは広大な田園の管轄地域に向かって直線からなる空間の構造に引き延ばされた。

 

 

 田園のグリッド

 都市にとって田園のコントロールは常に主要な悩みであり続けた。植民地化や土地の開墾の計画は、もしそれが魅力的ならば部分的には農地の公平な配分によって決められた。これにはしばしば何種類かの巨大な規模のグリッドを必要とする。街と田園の2つの直線的なシステムは、異なるスケールでまた同じ計量ユニットを適用するよく似た規則に従っているように思える。

 皇帝に支配されていた早期の中国で、このユニットはliであった。それはあらっぽく言うとギリシャのstationに相当する。(ca.600 feet/180 m.) 田園のそれぞれのユニットは8人の家族のための農耕地に分割されていた。その四角形は実際は9つの部分に分割されていた。そして王は、税金をその9つ目の農耕地から集めていた。この農耕の分割と徴兵の軍事システムとの関係は明確ではないが、その目的のために耕地は5つに複合的に集められた。日本では新しい政治秩序の関係で7世紀に紹介された条理システムが、田圃の公平な配分を保証すると意図された。主要な四角形はだいたい反対側まで半マイル(800m)に測られた。これらはさらにつぼと呼ばれる36の等しい四角い土地に分割された。そしてそれらの一つ一つはまたさらに、国から耕作者への期間限定的で適当な土地の割り当てである10のストライプに切り離された。条理制の名残は日本の南部で今日でも明白に見ることが出来る。

 ローマの土地測量は幾つかの方法に従う。その中でも最も普通だったのはcenturiationである。互いにまっすぐな角度をなす、2つの軸となる道路が測量を始めた。それからfield tracks(limites)が四角のグリッドや長方形が形となるまで平行に延びていった。四角形は一辺が2.400feet(730m)になり、それらは100の小さな小作地(centurriate)を含むことになった。標準的なcenturiationの基準はactus(120feet/ca.37m)である。

 フランスのbastidesでは、土地を分割する三つの方法が普及していた。測定のユニットの後、移住者はayral(ca.1,0003,300平方feetまたは100300平方m)と呼ばれる建物のための敷地と、cazals(6,5007,500平方feetまたは600700平方m)と呼ばれる野菜畑と、arpentsjournaux( 一人当たり約2/3acreまたは0.25ha.)と呼ばれる牧草地やワイン畑とする耕地を受け取る。これらの配分は三つの同心円状の領域を形成した。都市区画は町の限界や、もし存在するならば城壁へと延びてゆく。畑は城壁の内側かすぐ外側にあった。耕地や牧草地は常に町に隣接しているとは限らなかった。

 スペイン人が新世界にやってきたとき、土地の管理は地域を基礎に行われていた。元来の植民地都市の司法権は特に強大であった。

アスンシォンの領域は、全ての方向に約300mile(500km)まで延びた。

 そして今日までに、パラグアイはこうして一つの都市に所属することになった。土地の広がりは一般的に正方形であり、それぞれの辺が10,000varasまたは5+1/4mile(8.5km)であった。これらの広がりははsitiosと呼ばれた。町のproperは広大な土地の中央や中央の近辺にあった。町の周辺では、ひとつまたはそれ以上のサイドでejidosー都市の発達に用意される共同の土地があった。それから農地を区画し、その多くを元々の移住者に配分し、幾らかを後にやってくる人々に残し、また幾らかを地域共同体の目的のための収入をつくるために賃貸しした。共同の耕作地や森も存在した。それぞれの移住者は町の中に農地と家を一区画もらった。土地を売ることは出来なかった。こことSicilyでの古代ギリシャの制度の共通点は明白である。農地の分割パターンー巨大なグリッドーが後に都市発展と本来の町の中心とを統合することを可能にしたこともまた記さなければならない。なぜなら、町のグリッドが機械的に延ばされ、田園のより大きなグリッドに一致したからである。南アメリカでは、一九世紀の街路の延長は、もともとのグリッドのラインのdead-straightな連続であった。しばしば(ブエノスアイレスのように)10miles (15km)もの長さに延ばされた。第一次大戦以後になってようやく、農村の通りで不規則なものが見られるようになった。

 北アメリカのイギリス植民地体験はそれ自身の農村/都市秩序を持っていた。良く知られた例では、Savannahが地域計画の一部として考えられた。町の限界は、農村の区画の向こう側(四角形の半分のトライアングル形)や、さらなる大きさの主要な寄付者の農場のための耕作地を越えた。ニューイングランドでは、農場のパターンは町のそれのように規則的なグリッドを熱望しなかった。町は共通のまたは主要な幹線沿いの周りの単核の村や住宅地の集合して構成された。マサチューセッツのケンブリッジやコネチカットのフェアフィールドやハートフォードのような一般にコンパクトな四角い町が一般的でなくなってきた。南部では、小作地は孤立し、そして移住地のパターンは拡散した。すでにそのことについて言及してきたが、それは1785年の国家調査の後にやってきた。郡区は6×6milles9.7×9.7km)で測られる。全てのほかの郡区は1平方マイルまたは640エーカー(260ha)のセクションと呼ばれる街区に分割された。そして最終的には36セクションが、もっと運営しやすい半分や4分の1に壊された。遠く離れた前例としてローマのcenturiation、新しいスペインのstitios, 日本のjoliシステムそしてオランダの技術者によって海から埋め立てられた土地(polders)に適用された分割方法がある。これらの全てのケースで、測量は地形学に適合されている。アメリカ合衆国の国土調査だけが厳格にコンパスの方向に確定させている。

 しかし調査に対する矩形の郡区の基礎ユニットは、18世紀後半までのコロニーの北部と南部で非常に知られていた。それだからジェファーソンは本国で便利なモデルを発見した。1684年もの早期にウィリアム・ペンは宣言している。”一般的に中央の村々である私たちの郡区は矩形を基礎としている。” ジョージアの植民地とするために1717年に計画されたサー・モンゴメリーのMargravate  of  Aziliaは、中央に町を角に4つの共有地を持ちそして外側に向かって1マイル(1.6km)にわたり四角形の周り全体に大農園を持つ640エーカーの四角形を基本としている。北カロライナでは640エーカーのセクションは最初から共有であった。1765年のオハイオインディアンへの冒険の間、100家族の開拓移住者にたいするヘンリー・ボウケットの提案は、以下のように記される。”もしそれが便利だと言えるのならば、河やクリークの上にそれぞれの辺が1マイルの四角形が横たわる。その四角形は640エーカーとなる。”このエリアの中で、40エーカー(16ヘクタール)は通りや公共地となり、50エーカー(20ヘクタール)は居住地(2分の1エーカー(0.4ha)が家に当てられる)となり、そして残りはそれぞれ5.5エーカー(2.2ha)ずつの100の耕作地となる。

 アメリカのジェファーソンのグリッドは”自由保有権”の考えに基づいている。それによってあるサイズである価値の所有地が意味され、または明確に税金のかかる収入を作り出す。これは土地保有権と区別されるべきだ。土地保有権は借用の条件を意味する。自由保有権は政治的な権利である。彼らは選挙権を与えられた。つまり彼らは官職につくことができ、投票することが出来る。財産は市民権と投票権の鍵である。植民地時代には、自由保有権の資格は約50エーカー(20ha)であった。ジェファーソンはアメリカ人にもっと持って欲しかった。調査の時点で、13の植民地の多くは税金に相当する文字どおりの意味での自由保有権を放棄した。だからジェファーソンは保守的になった。しかし彼の夢は全てのアメリカ人(少なくても白人には)を土地という基盤の上に投票権を持つ市民にすることであった。国土調査のグリッドはそういう意味では憲法と等しく考えられていた。ジェファーソンの土地民主主義はほとんど全ての歴史的実験の例に漏れずはなはなだしい短命を保証されたが、このような状況の下で、憲法が実際に制定されたことは幸運であった。。

 

 

 グリッドの延長

 町と田舎の調整のとれた整列の存在は、町のグリッドの周囲の領域への秩序的な延伸を保証しない。原則として、都市の権威が農業地域の開発を監督する力を持っているときはグリッドの入った延伸はcoherent  designに従い、都市核への合理的な結合を確立する。

 田園のグリッドは’有機的な町’に、もしくはもともとのグリッドに添えられる。幾つかのbastidesは初期の城下町に移植されたグリッドのある延長である。オランダのクレムバーグは良い例である。12世紀はじめに遡った古い中心は、1271年からの城であり、南西に向いた”Nieuwstad”は1385-92にかけてである。通りは古い町の商業地から延び、南のゲートを通って、排水路の運河を渡り、そして新しい町へとぬける。そして二つの都市ユニットを一緒に結びつける。

 これは”有機的な”核と結果として生じるグリッドの関係と、時期の離れた2つのグリッドの関係の両者に関して結合の標準的な方法である。すぐに思いつく例としては、古い町の主要な軸がグリッドのあるville  neuveに延ばされたLe  Harveや、古い市場とハークレンアディッションの広場が線形に結合されたルネッサンス・フェララが挙げられる。もし古い町の後に続くグリッドの延長が、城壁に受け取るならば、移植の問題はもっと難しくなる。ベルリンとその17世紀から18世紀にかけてのDorotheenstadt  and  Friedrichstadtの付加物は適切なケースである。Unter  den  Lindenの強い結びつきにも関わらず、グリッドされた田舎はその壁がなくなるまで中世の中心とぴったり合わなかった。

 Turinは元々ローマ時代にグリッドされた街が、後になってスムーズに移植されることができた最も分かりやすい証明とある。Savoy  dynastyの元でPiedmontの首都に選ばれ、Turinは3つものグリッドを施された古いローマの中心に続く地域を加えた。それは17世紀の早期の壁の外側に南へとつくられた12の新しい集団である。Poの岸へと至る東方への延長は1673年に始まり、1712年に最終的に西へとつけ加えられた。その最終的な局面では、都市はほとんど卵型の形を達成した。そのその複合的な広場と共に、それはルネッサンスの理論家達の理想都市に非常に似ている。後からできたグリッドの街区は、ローマの核のそれに比べて大きい。これは部分的には都市居住のルネサンスの理想のためである。ーー巨大で、規則正しく集められたpalazzo、新しい都市の壮大さのより典型的な例(国家の役所やそのようなもの)そして他の要因としては、賃貸地として割り当てられた多くのブロックのなかの幾つかを発展させるための修道会を許す可能性である。修道会は今日ではチャリティや教育の国家の義務という考えられている。Via  Porta  Nuovaに沿って約400×280 feet ( ca.120×85 m) のブロックが形成される最初のグリッドの付加地で、商業区域を発展させる願いは幾分異なるブロックデザインを定めた。例えば住居が上に載り地上レベルには小さな店がつくり出す狭い正面や店の裏側を通り供給者へのアクセスを許すためにブロックを長く切る狭い路地、そしてブロックの内側の庭の中の倉庫や貯蔵のユニットなどである。街路の結合は機械的ではない。ローマのグリッドの幾つかのラインは続いているかすこしばかりゆがんでいる。一方他のものは、より新しいグリッドの一つのブロックが古いセクションのなかで2つ分の幅となるようにおさえられている。

 アムステルダムは特殊な例である。この巨大な北方の港は、それは都市の形に関する社会規制の注目すべき原理を常に行使したのだが、合理的で長期間に渡る発展を確実にするために最良の「有機的な」システムとグリッドを取り入れた。1607年に始まった巨大なマスタープランはその範囲を4倍に増やした。最終章で見るように、その都市はIj河口の南側に沿った防波堤と小さい川にかかったアムステルと呼ばれるダムと共に13世紀に始まった。堀はこの河口とアムステルの線に平行に、14世紀の終わりから15世紀の半ばにかけて、植民地の東と西へむけて二つ一組で建設された。これらは街の南部に集まった。そして住居はそれらと川自体に沿って並べられた。1607年の計画は都市のエッジを形作る運河を単純に取り入れ、そして空虚な土地を横断し周囲を取りまく3つの運河の中にそれらの元を尋ねた。これらの最初のthe  Heerengracht1593年の要塞に使われた塀の上につくられた。そして他の2つは塀に平行に走っている。これらの運河のそれぞれが都市核の連続した拡張の間に、新しい都市のエッジになった。だから、最初から定められた土地利用と共に全体の拡張計画と段階ごとの建設可能性の両方を知ることが出来た。水路の間の狭い細長い土地はグリッドに分けられている。しかし同心円状の配置のせいで、街区の良いプロポーションは台形となった。都市自体が3つの運河の配置を決定した。しかしそれらと新しい壁を越えたあいだでの発展は、個人的な企業心に残された。この領域の西部では、労働者の地区が住宅・かわなめし工場・毛織物やベルベットの工場・染料工場などと共に設計された(the  Jordaan)。存在している堀や小道の上に引かれたその街路のグリッドは、新しい運河と間接的に関係して配列された。

 TurinAmsterdamのような都市や現代のドイツの自治体の中央集中的な権威無しでは、グリッドの拡張は田舎の小作地の所有権境界にぶつかる小さな開発のパッチワークへと退歩した。マンハッタンの1811年の均質なグリッドというよりは、これはアメリカの都市の成長の一般的現実である。多くのケースで「無限に延長できるグリッド」の印象は、交通工学家により自動車時代のために集められたthrough - streers の「スーパーグリッド」によってこのad  bocパッチワークを合理化することに恩がある。

 

 

5. 閉じたグリッド:骨格、強勢、空地

 レッセフェール計画によるオープングリッドは首尾一貫した設計を熱望しなかった。形式張った構造を達成するために、街の限界は本来の時に戻って定められなければならなかった。

 

 

 壁で囲まれた骨格

 塀で囲まれた囲いは最も明確である。しかしそれだけでなく境界を定めることも意味する。反対に、それが存在する場所の都市の壁は街路のグリッドに統合されるかもしれないし、そうでないかもしれない。理由は明白である。つまり街路のグリッドと壁の囲いは、それらの上に位置づけられる異なった要求を持っている。防御の原初的なシステムとして、壁は攻撃を受けたときの生存を確実にするべきである。そしてそのデザインは他の何よりも先に考えるべきこの問題を抱えている。内側のグリッドは住宅の配置やそれと市場との関係や公共の建物と空地の分布といった市民生活を秩序立てる。荒っぽい地形では、壁は防御に関する自然の特徴の利益を最大化しようと努めるだろう。このようなケースならば、街路グリッドがたどることが必要なかったり不可能だったりする場所では、壁は昇ったり降りたりするだろう。

 これはNeapolis(Naples)Priene, CosaAlba  Fucensのような古典的古代の街のケースである。それらの秩序的な街路グリッドは不規則な城郭にどうにかして適合しなければならない。主要な関心事は街のゲートへのアクセスである。防御の欲求を危険にさらすことなしで同等にすることが可能な場所で、通りの何本かはゲートにたどり着くまでまっすぐに延長されるだろう。さもなければ通りはあまり直接的でなしに接続するか、あるいは住民に無計画で無人の土地を横切らせるためにある方向にむりやり向けさせている壁の不足で完全に止まる。多くの中世の新しい街では、壁が存在するとき、壁は防御の必要を無力にするコストを削減するための設計された区域のすぐ近くを通る。都市の形は、合理的にデザインされた四角形のまわりの中心に集中する。そしてpomerial  spaceに適合するゆがめられたブロックと共に壁で囲まれたエッジへたどり着くまで達する。ときどき主軸線に平行な通りは二つの主点でおだやかにカーブする。そして終点のゲートでその軸線にぶつかる。これは機織りの糸車に似ているという理由で、spindelformプランと呼ばれる。目的は都市に入るポイントを減らすことである。典型的な例はBrunswick  AlstadtHammである。珍しいイタリアの例は、Guidiによって13世紀前半のいつかに設立されたcounts  palatineMontevarchiである。

 町が同一のレベルにあり、それ故に守りが完全に人の力で行われるときは、条件は街路グリッドや町の壁に区切る都市設計にとって都合がよい。戦場において軍隊のキャンプはしばしば人工的な環境を発明する以外の選択肢を持たないので、塀で囲まれたグリッドの最良の解決法の幾つかは、軍事工学家の手によるものであった。後期民主制の時に全ての部分で標準化されたローマの正方形のcastrumは、これらの解決の一例である。どのような直線からなる都市設計の原則を学んでも、それはそれ自身をつくる。そしてそれは決まったやり方に負けまいとする都市計画家の方向転換だった。

 ローマの陣営にはヴィアプリンシパルとヴィアキュインタナの2本の平行道路があって、大きな公差軸と整然と角を成していた。壁は門を通ってこれらのメインストリートに注意深く配置された。陣営の特徴的な分割、つまり兵士のための仮設建物の連なりの山と護民官のためのユニットの薄い並びは不規則な街区幅を生じさせた。後に、これらの道路のリズムはすでに述べた英国のケースのように陣営から直接発展した都市、もしくは陣営のパターンを見習ったアオスタやティムガッドの様な都市に移行した。

 このような都市システムの配置がうまくいったのは自由な道路グリッドによるものである。もし道路グリッドが合理性を持って設計されたなら衝突が起こってしまうだろう。フローレンティンのニュータウンにおいて道路間隔がふらついてしまったのはそのような難しさの現れであった。サンジョバンニのプラン、これはニュータウンの最も初期のものなのであるが壁の塔は道路計画を持って配置されていた。すべての道路は塔で行き止まっていたのである。しかし塔と道路の発展の仕方は全く異なる考えに基づくものであった。道路はしばしば敷地の大きさや街区の長さに合わせて多様なものができる。塔は武器の射程距離や壁のすべてのパートへのアクセスしやすさに関連して作られたので、遠くまで理想的に同じ形であった。サンジョバンニでは道路の不規則な間隔の取り方で塔の間隔の取り方が規定されてしまったので、後のプランではそこで試みられた塔と道路の配置は断念された。

 16Cには砲兵隊戦争に対応した要塞が現れて道路グリッドから都市の壁が総じて独立することは免れ得なくなった。最も効果的な要塞のカーテンは多角形であった。道路グリッドの直行のルールにこの形がどのようにうまく組み合わさっていても効果は低くなってしまうのであった。少なくとも、そのおかげでカターネオやスカモッツィのプロジェクトのように壁の内周に続く独特な形の部分は高くなり、それらに見習ってアヴォラのような都市が作られた。要塞壁の幾何学性が暗示することは放射構造の道路システムであるが、それは市民の日常生活のダイアグラムを規定するというシステム自身の問題を抱えていた。そこで、17Cにおけるこの守りのシステムの拡張現象をもって、表面の規模は、それまでのグリッドを打ち壊し壁と道路グリッドはより疎遠なものとなった。

  ストリート・リズム

 それ自身の防御の鎧に制限されていても、農場や公共の場のような何らかの約束に従って作られた自然の柵に囲まれていても、ある広がりに続く閉じた道路グリッドは自らを組み立てる。設計者(道路グリッド)の配置要素にはリズミックな道路のアレンジやストロングセンター(中心部)の創造やオープンスペースの配置がある。

 道路のリズムは様々に生じる。設計者(道路グリッド)は不均一な道路幅や道路間隔をスキャンするかもしれない。多くのグリッドを分類する中でメインストリートと横道の混ざり合いはそれ自身のリズムをもっているし、街区面積の多様さは直接道路同士の距離に影響を与える。合衆国の鉄道町においてはビジネス上のスパイン(脊椎)となるメインストリートは最大の幅を持ち(普通100feet30m)、重要な交差道路が次にきて(80feet25m)、そして住区の密な道路は60feetを越えることが全くない(18m)。また別種の象徴性において、長安や日本におけるイミテーションの様な中国型のインペリアルグリッドは道路幅をいろいろに分ける。710年に建てられた日本の平城京(奈良)はこの良い例である。南側の塀から内裏の門(朱雀門)まで続く南北の軸(朱雀大路)はレイアウトの中で最も幅広の一本だけの道路で都を対称に東西半分づつに分割した。次に広いのは都を4分割した御所を含む北側全部つまり南北主軸の両側に渡って官庁街区域の範囲を示す道路であった。ユニフォームな最小の幅はすべて柳の木で線引かれたコモン住区グリッドのものだった。道路ヒエラルキーの最下層の道路はそれぞれの住区を16個の四角に分割する道路であった。

 しかし、宋代の蘇州の再計画の場合のように道路それ自身の道のりは波乱に富んで作られることもある。この場合や他の中国型のグリッドにおいて、T形路は悪の精神が増長するのを妨げるために作られる。一種の悪の精神であるところの都市内部に広がろうと侵入してくる力もそれを阻まれるのであった。   

 T形路は西欧でもしばしば見受けられる。中世において、例えば、ボーモントのバスティード(別荘保養都市)ではほとんどの道路は東西方向を分断されている。その理由は明らかではないが、しかし別のバスティード、例えば、ラモンショアやサンクラーにおいて、それはプランの対称性や幾何学的な美を傷つけることなく道路の総数を減らすことを目的として行き止まりの道を作るようである。Tシステムは多分、グリッドのレイアウトの堅さを打ち消すためのものでペンのフィラデルフィアでも見られる(リットンハウス広場周辺)。今日の計画家は正面衝突の危険を減じるといる点と興味深いもしくは重要な建物のためのビスタを形成するという点でT形路を評価している。

 しかし、サビオネッタ村はこの考えの最も悪名高く策略的なものである。この村は、一族の砦もしくはロッカ(城塞)周辺のそれほど大きくないヴェスパチアーノ・ゴンザガの領地がドメニコ・ジュンティの設計に基づくモデル都市として作りなおされ始めた1550年ごろに起源を持つ。数年前の1549年には別のゴンザガがジュンティをグアスタラの都市開発担当においていた。基本的に両方ともパワフルな防御機能とロッカを持ち、2つの門からなりそしてエキセントリックといった方が適当な道路グリッドの要塞である。2つの門はこの案で最も長い直線道路に繋がっているが、それは接続するまでに一定の角度で2度折れる。また両方の都市において直行する道路はどちらの終点でも罠に入り込む。等々である。

 サビオネッタにおけるこれらの風変わりな道路のラインが意図的であることは疑いようがない。本来、地点を認識させるよう道路に印を付けるための曲がり角はたくさんある。しかしどうしてそれが要るのか。私的な領地、公的な領地、住居や製造のための場所、そして3つすべてが出会う中心部といったように機能範囲をいくつかに分ける試みとしてこの道路案を説明することができるかもしれない。クルト・フォルスターはそれを評価しているがしかしそれ以上に、最近の分析から、サビオネッタのプランをマニエリストのグリッド手法として捉えるべきだと批評している。一般的に、マニエリスムの美術史における注釈は”ハイ・ルネッサンスの理想形態のルールをいじくることを通してその緊張感を作り出す因習打破のスタイル”といったようなものである。マニエリストの画家達は釣り合いを持たないように彼らの形態を引き延ばしルネッサンスの均衡を”頑なな対角線”(対角線への固執)と捉えて構成の中にアンバランスを作りだし、そしてゴンザガ家やその建築家は都市デザインの領域においてグリッドを壊すために作るというマニエリストの遊びに耽るのであった。フォルスターは迷宮がゴンザガ家の象徴でヴェスパチアーノはそれを都市性に表現しようとしたのではないかと指摘している。

 グリッドプランに焦点を作る最も際立った方法は中心で交差し合う南北と東西の2つの軸を用いることとパブリックな広場を形成する交差点をマークすることである。これはギリシア型のグリッドがローマ型のグリッドと異なる点となる。一般に交差軸の手法によりフォルムや別の公共建物が交差点で、もしくはその周辺でシビックセンターを作りだしていることで後者はより中央集中型である。このパーフェクトな交差軸のアレンジはそうそう見られるものではない(例、ティムガッド)。多くの場合、交差点は中央部からはずれているか、もしくは交差の片方か両方の腕がフォルムで短く切れていたり、そこで2つに分かれていたりする(例、、シルチェスター、トリール、ペストュム)。現代の言葉ではこれらのメインストリートは南北でカルド、東西でデクマヌスと呼ばれるが、これは必ずしも古代の根拠に基づいてはいない。古代において、それらの用語は農地の測量システムであるところのセンチュリエーション(ケンテュリアーティオ、合理的分割方法)の基準線の意で、そしてはその方向がしばしば川や地形等の風土上の容貌によって変化するセンチュリエーションパターンのカルドの中で最大のものとデクマヌスの中で最大のものが正確に都市の主たる交差軸に合致するときのみ多分その用語は(本来の意味をもって)使えるのである。しかしこれは常に言えるというわけではない。ローマのフローレンティンでは例えば、境界の点に合わせた街区のグリッドラインはセンチュリエーションの配置に一致しなかった。

 ローマの西の範囲では普通回廊でライン引きされた都市の長さと同じだけつづく一つの軸だけで強調が達成された。これはテルメッソス、パルガ、シデ、パルミュラ、ダマスクスの町々で見ることができるティグリス川沿いのセレウキアでは、ここでのメインストリートは実際カナールなのであるが、南端の広場で終わっていた。完全に柱列道路が開発されたのはアウグストスの時代より早いものではない。アンティオキアではそれはヘレニズムの都市のエッジをマークした。コロナードのメインストリートを作るという考えは時としてヘロデ王の誉れとなるものである。

 ローマの交差軸は12Cに修道僧ルシアンが十字架の象徴を見たであろうチェスターのような中世のいくつかの町のプランに残っていた。交差軸の中世のバージョンは基本的なグリッドのものを除いてほとんどのニュータウンで独自に見られる。それらのカテゴリーに含まれてはいるが、重要な例外となるのはプランにおいて2つのマーケットストリートが中央で交差しているシュトラッセンクロイツ(交差路)案と呼ばれるものである。フィリンゲンとロットヴィルは1120年代から伝統的にゾーリンゲンの君主に結び付きの強い新都市の基盤で、初期の良い例となったであろうが、実際には1218年にゾーリンゲンの君主達が滅んだのち、1世紀も遅れて完成したようでそのとき町はホーエンシュタウフェン朝の皇帝、フリードリッヒ2世のものであった。この交差軸のタイプは12Cにはほとんどないのは確かであるが13Cになるとしばしば見られるようになる。例としては1249年にユーゼンベルグのルドルフ2世によって建てられたケンズィンゲンのような、多分、フリードリッヒ2世の計画家に影響を受けたシュウェビアの町がありそこでは交差の2つの軸が非常に異なる幅を持つ(短ければ短いほど幅広)。そして、婚姻関係によってホーエンシュタウフェン家とつながりのあったババリアのヴィッテルスバッハ公のためにイザール川沿いのランダウ(1224年に建設)、ケルハイム(1231年)、ディッゲンドルフ(1242年過ぎ)、ドナウ川沿いのノイシュタット(12601270年)がレイアウトされた。

 

 

 広場の分割

 オーストリアのいわゆる長方形の広場(直角の広場)のタイプにおいては、交差によって適当な区画がもたらされた。この市場の区画は、線状のグリッドのメインストリートと垂直な方向に延長されることがあった。昔のケルンテンのラートシュタットと、今はイタリア領となっているベンツォーネの2つの例がある。ここでの利点は、その町の残りの部分の成長と調和した区画の延長ができることである。このタイプはトスカナにも伝えられ、14世紀のフィレンツェのニュータウンでも現れる。しかしながらここイタリアでは、ローマの遺産が一役を担うのである。14世紀後半の再開発の一部であるパビーアの横断する広場のモデルはおそらく、ヴェローナのPiazza Erbeであり、これはローマのオリジナルのレイアウトからの直角をなすフォーラムの真の遺物である。

 フランス、イギリス、スペインの中世の武装都市の地域での、中央の市場の区画のグリッドとの関係には、2つの異なる関係のしかたがある。ある場合には市場はグリッドの中央の1つのブロックを占め、そのブロックの範囲を限定している4つの街路の4つの角からアプローチされる。それよりも例は少ないが、市場がちょうど交差点に位置する場合には、それは軸の方向に沿ってアプローチされ、その閉じこめられた角を4つのブロックの中へ押し込む。しかしこの2つのタイプは中世を超えて通用している。例えば、インド諸国の法律は、中央の広場は各側面の真ん中にも角にも、そこにつながる通りをもつことを規定しているが、こうした複合の方式はめったに実現されなかった。アメリカ合衆国の中西部や南部の州都では、オープンスペースの中央に裁判所のある中央の広場には、4つの異なるアプローチのタイプがある。いわゆる「ブロックスクエア」と呼ばれるものでは、通りが広場の側面に沿って通っている。「ハリソンブルグスクエア」では、さらに2本の通りが2つの向かい合う側面の真ん中から出ている。「フィラデルフィアスクエア」では、閉じこめられた角をもつ軸状の配列に従う。「フォーブロックスクエア」は、その名前が示すように、通りのグリッドの4つのブロックを占め、それ故にニュースペインのために規定された方式を複写する。

 カタネオとスカンモッチの論文の中の都市計画は、複数の中心を持つグリッドを普及させた。稜堡を備えた多角形の輪に囲まれ、グリッドは連続した広場によって崩されており、メインの広場が中央にあり、左右対称な分配の中にさまざまな大きさの他の付随的な広場がある。グリッドに統一性を与えているのはグリッドそのものよりもむしろブロックの相互関係にあるといえる。ブロックの大きさがさまざまなのはメインの広場及び付随的な広場に対応するためである。

 CataneoScamozziの理想的なグリッドが実際の町に適用されたのは、ランスの北東のシャルルヴィル(1608-20年建設)、ペンのフィラデルフィア、AvolaNotoのようなシチリアのニュータウン、フランスのVersoixCarougeのような18世紀の町、さらに遠く離れては、インドの海岸のDamanのポルトガル人の町においてである。アボラは範例となるものである。それは、大地震後の1693年にフラ・アンジェロ・イタリアというシチリア人の建築家によって計画されたが、彼がCataneoの本を見ていたのは明らかである。その街は六角形のグリッドプランをしており、VaubanNeuf-Brisach1698年)やMontdauphin1692-93年)が示すように、当時の築城法の理論に受け入れられない形ではない。5つの広場は十文字に配置され、もっとも大きなものがその交点にあり、他は4つの腕の終点となっている。左右対称性は、町の中の6つの教会の2つ1組のリズムで強調されており、その位置は主軸のうちの1つに関して対称にバランスがとられている。

 計画されたものでも実施されたものでも、全てのこれらの理想的なグリッドにおいて、中央のメイン広場は町の構成と社会的構造にとって重要である。Scamozziは、王子の宮殿は、教会の本山と同様に、この広場の上に突き出すようにおかれるべきであると明記している。付随的な広場は、市場のための場所としてつくられている。しかし、このような教会の中枢性の代替案を探るルネッサンス後のグリッドも存在する。リシュリューの時代には、矩形の町は、矩形の長い方に、南北に向く「グランドリュー」という伝統的な帳壁をもち、それは大きさの等しい両端の区画をつないでいる。そのうち北の区画は、専ら居住地である。他方は、真の町の中心であり、教会や市場の建物がオープンスペースをはさんでお互いに向き合っている。町のホールもあるが、王子は住まない。というのは、カーディナルの城は町の南の門の外側の公園にあるからである。

 Savannahのオリジナルのプランと6つの個々の広場のまわりの区のシステムがCataneoの模倣と思われるならば、広場の等しい大きさとそれらの2列の配列は、彼のトレードマークである中枢性と階層性を拒否している。この優美なデザインの起源ははっきりしない。1666年の大火のあとのロンドンの復興のために少なくとも一つの計画が存在した。既に述べたリチャード・ニューコートによる計画であるが、カタネオの様式に従って5つの区画があり、ブロックサイズの区は路地の交差点にそれら自身の内部の広場をもっている。しかし、このはっきりしないイメージは、もとの図形を超えてはいない。しばしば思い起こされるペンのフィラデルフィアの計画も、私の意見では、比較に及ばない。

  2次元のプランとしては、フィラデルフィアは明らかにカタネオの一連の計画と関係がある。しかし、プランからは分からないところで違っている。公共の広場の中央で交差する2つの主要な通りは100フィート(30m)の幅で、残りの半分は、当時としてはきわめて気前のよい配置である。4つの小さい広場はレクレーション公園とされている。そして住宅地のブロックはそれ自体広々としていて田園詩的に建設された。町の建設を指示する1681年のペンのメモには次のような部分がある。

 全ての家を地所の中央に位置させ、そのまわりについては、各側面の土地は庭や果樹園や畑になるかもしれないし、それは緑の田舎町になるかもしれないが、それは決して焼けることはなく、いつでも健全であろう。

  実際、ペンの計画に公共の自然はほとんどない。唯一の商業への考慮は、例えば「ストアハウスの場所」にはっきりとではないが見てとれる。明瞭な都市の中心もない。ニューイングランドのピューリタンの礼拝堂の周りの町区のようなものもない。ここで忘れてはならないのは、ペンがクエーカー教徒であったことである。クエーカー教徒のコミュニティは固定した牧師や固定した礼拝の場所をもたなかった。そのため、ある意味では、ペンのフィラデルフィアは、17世紀のロンドンの計画された土地によく似ていて、1つの都市というよりは1つの住宅地であった。フィラデルフィアが独占植民地支配者の完全な支配下でなくなるや否や、この上品なクエーカー教徒の植民地は適応する必要に迫られた。ペンと同教徒による文化的価値に加えて他の文化的な価値が働き始めた。公共の公園がつぶされ、気前のいいブロックが建て込んだ。

  Savannahの精神で、公共のオープンスペースでグリッドのバランスをとろうとする後の試みに注目すべきである。オハイオ川沿い、インディアナ州・ジェファーソンビルである。計画は、1800年頃のトーマス・ジェファーソンによる計画に基づいており、「芝生と木の中の」オープンな広場の交互のパターンと細分されたブロックをもつ。ジェファーソンによるプランの根本的な目的は、当時広く流行していた黄熱病の予防である。オープンな広場を切る斜めの街路は、実際にその町をレイアウトした人物、John Gwathmeyによる計画にとりいれられた。これはおそらく、ランファンのワシントンに従って、計画を最新のものにするためであろう。ある意味では、それによって、その都市の形態を超えたジェファーソンのランファンとの争いが再び起きた。この奇妙な混合は、都市のブロックによるグリッドと、それに対して45度の角度をもつもう一つの街路のシステムの2つが重ね合わされたグリッドを生んだ。(広場はもたないが、これと同じ混合が2つの大きなアルゼンチンの街、ラプラタとベロオリゾンテのオリジナルのプランの中で世紀の末に再び現れることになる。)その建設から15年もたたないうちに、ジェファーソンビルは慣習的なグリッドにデザインしなおされた。しかし、巧妙なジェファーソンのシステムはミシシッピ州の新首都ジャクソンに、数年後に再び使われた。しかし、そこでもまたオープンな広場はやがて建物で覆われてしまった。

 

 

 ブロックの構成

 直角なプランの基本単位のように、三次元におけるブロックとその構造は都市のグリッドにその特性を与える。これらのブロックの共通の歴史用語は、insulaeilotsなどというように、島(islands)に起源をもつ。はじめニュー・ソールズベリー(ウィルトシア)では、それらは「Chequers」と呼ばれてたが、それは「チェスボードに似ていることがその計画者の頭から離れなかったことを示している。」

 単純な、量的基準での、顕著な特徴はブロックの大きさと密度である。どちらも常に固定されたままというわけではない。最初のグリッドの中でブロックが大きければ大きいほど、新しい「突き抜ける」通りによって横切られやすい。より多くのオープンスペースがブロックの中に囲いこまれるほど、人口の増加とともに、より高い密度の建物への変化が起こりやすくなる。人々の配置は初めからさまざまで、土地利用によって生み出される経済的価値に依存する。中世の市場の区画やそれらの通りの延長の縁や、リューベックのような港の埠頭の通りは、商業的活動から離れたブロックよりも狭い区画でぎっしり詰まっている。合衆国では、多くのグリッドが鉄道、 波止場、 裁判所の区画の周辺に沿って高い密度の画地をあたえている。

 ブロックの大きさと形は、もちろん、細分された画地の数と形に直接的に関係がある。ギリシアのグリッドの細長いブロックには4から10の背中合わせにくっついた家があった。オリュントスでは、全て120×300フィート(37×90m)の大きさの画一的なブロックが、路地によって縦に細分されていた。プリエネではブロックは120×160フィート(37×49m)で、おのおのが4つもしくは8つの家に細分されていた。この四角く切られた構成は、後のローマ人の習慣とより調和して、そこではさらにブロックが大きくなる傾向があった。例えば、フローレンスにはおのおのが645平方フィート(60平方メートル)の区画があった。アオスタには、230×260フィート(70×80m)のものが、ウィンチェスターには440フィート(135m)四方のものがあった。さまざまなプロポーションをとるフォーラムに合わせるために、その付近ではしばしばブロックのリズムとブロックの幅が交替された。ローマのブロックには使い方にかなり自由な幅があった。それらは、専ら店で占められることも、オスティアのようにアパートのブロックで占められることも、あるいはまた地上階に店を持つ核家族のための中庭をもつ家によって占められることもあった。しかしたいていの場合、これらのブロックの占有は内の庭に向かって開かれた1階建もしくは2階建の建物に基づいていたので、これらのプロポーションは美しかった。後の中世の時代の背が高くて狭い、通りを向いたテラスハウスは、このようなブロックとはあまり合わなかった。ローマのグリッドが中世の町の下に横たわるところでは、オリジナルのブロックが2つ1組に統合されたり縦に細長く細分されたりしてきた。

 正方形や幅の広い長方形への分割から縦に細長い土地のパターンへの変化はまた、ローマの遺物からは独立した固有の中世の歴史を持つ。またそれは、中世後期の商人や職人の町の発生の要素である。フランドル地方及び北ドイツからホーエンシュタウフェン家のシチリア島までの地域では、12世紀まで、都市は農業から商業経済への転換の真っ最中であった。その過程は、ベルンのツェーリンガー財団の文書に記されている。オリジナルのツェーリンガー・タウンの全てに見られる特徴は、創設者の家臣に割り当てられた一定数の農地(areae)への分割である。全てのメンバーは、住宅のための区画(casalia)に分割されるべき一つの土地を割り当てられた。土地の寸法はさまざまであったが、標準的な比率は2:13:5で、長辺が通りに平行であった。区画の数もまた、3、5もしくは7個とさまざまであった。早い段階では、その土地は司法上の機能と税の機能をもっていた。家は通りから後退して位置した。そのために、通りは完全には占拠されなかった。細長い区画が商業経済に適する都市の枠組みを再規定し、農業的な構成要素がもはや明らかに従属的なものになっていくにつれて、この根本的には田園のシステムであるシステムは、12世紀半ばから徐々に追いやられていった。これらの新しい区画の比率は極端なものもあった。バーゼルには13×150フィート(4×46m)、ベルンには23×175フィート(7×53m)、そしてジェノバには23×213フィート(7×65m)のものがあった。ビルディングの線まで押し上げられた、背の高い幅の狭い住宅は、通りの性格を作り変えた。

 初めから商業のためにつくられた中世後期の全く新しい町あるいは町に追加された部分では、長く狭いブロックによって、奥行きの深い区画がぎっしり詰まって連続しているものが、幅は狭いながらも通りに面することができた。これらのいわゆる「土地保有権による区画」によって、ブロックとロットの寸法についての基礎的な事実がはっきりわかる。つまり、それらは、町の区画を占めるべく意図された建物と利用のタイプによって、最初に決定されるということである。イタリアの都市地理学者たちは、グリッドの最初のマーキングの時の緑の野原のような敷地の上の都市の構造の標準的な形態を示すために、tipo portante、すなわち「先導的タイプ」という用語を新しく造り出した。土地保有権による区画の場合、家の正面は一つの通りと同一直線上に来、背後の区画は菜園や動物のための庭となる。付属建築物はこのオープンスペースの縁に追いやられ、背後の短辺に沿って建てられる。結果として、同一の通りに住宅と付属建築物の両方が並べられることもあった。「二重に積まれた」ブロックでは、2列の家並みは固有の通りに面し、ブロックの中央に追いやらた付属建築物は、区画を区分する歩くことしかできない路地を境界づけることもある。1列の土地保有権による区画が、時間の経過のなかで、庭を縮小して新しい家に背後の縁をふさがせることによって二重に積まれたブロックになることは、珍しいことではない。

 狭い寸法が通りに面した細長い土地は、農業利用が都市生活の必要な面であった頃の特性であるが、19世紀の入植の様式による所に今なお見られる。国営の織物製造業の町、ポーランドのウージでは、亜麻糸の紡績業の地区が、1820年代半ばに、細長い小区画のグリッド状にレイアウトされた。小区画は概ね幅65フィート深さ985フィート(20×300m)であり、居住者に自身の亜麻を耕作させるためであった。大体同じ頃、奥行きの深い区画のパターンは、オランダのvoortrekkers(開拓者)によって南アフリカにもたらされた。そのグリッド状の農業的植民地では、奥行きの深い区画の先端には支柱などなしに建つ南アフリカ生まれの白人の住宅があり、背後には集約的な耕地があった。

 しかし19世紀においては、そのような奥行きの深い区画の構成とそれらへの弁解(都市の農業と商業との混合)は、例外的な中世風のものであった。当時、急務であったのは、工業労働者のための借家を供給することであった。イングランドでは、手っとり早く利益を得るためにこの需要を利用しようとせっせと働く投機家たちが、都市の周縁部の安い土地に、テラスハウスの薄いブロックを形成し、ゆがんだグリッドパターンの寄せ集めをつくりだした。イングランドの北部や中部地方では、それらは通例「背中合わせ」、すなわち中間に空地のない二重の列であった。この住宅供給の型は、新たに工業化された中世の町にも現れた。そこでは、中心市街地の土地保有権による区画は、居住密度の高密化に応えるよう強いられている。通り側の面が切れ目なく連続している住宅と店舗の後ろの長く狭い庭は、一続きの差し掛け小屋で徐々に満たされた。その差し掛け小屋は、一方の壁に沿って狭い通路をアクセスと換気のために残しながら、もう一方の庭の壁にごちゃごちゃに差し掛けられていた。ウィークフィールドに記録されている420フィート(128m)の長さの適例に見られるように、何十というこうした安普請の住居が、たった一つの土地保有権による区画に押し込まれることもあった。飽和した中心部以上に、多層の背中合わせの住宅が、細切れの空き地に、あるいは狭く細長い小さな農地が開発されたところに建てられた。裏通りとしか言えない通りを向いたみすぼらしい住居の不健全なグリッドは瞬く間に広がり、リーズやマンチェスターといった大工業都市を取り囲んだ。リバプールでは、三階建ての背中合わせの住宅の列のグリッド状のブロックが、ブロックの中央の「コートハウス」への唯一のアクセスを与えていた路地をすっぽり包んでしまった。

 19世紀からの社会変革と都市開発は背中合わせのみっともない景観を消し去ってしまった。しかし、中流階級のもの、即ち一般に19世紀のイングランド中にあった郊外通勤圏として定義されるテラス状の通りのバラバラのグリッドは、今なお完全に残っている。その像は、社会階層の両端によるものである。貴族的なジョージ1-4世のテラスが、繰り返しのデザインの一様な通りをもつブロックのアドホックなグリッドに細分された郊外の土地の起源である。階層分離の趣味もまた、そこからきている。もう一方の端では、労働者階級の住宅の進歩的モデル、及び最低40フィート(12m)の幅と通りの間の義務づけられたオープンスペースをもつ「条例通り」を生じさせた1875年の公衆衛生運動は、後期ビクトリア朝時代の思索的な建築業者たちに、彼らが広くまっすぐな通りの規格化された方式と、小さな庭で裏の住宅と隔てられているほとんど同じ住宅からなる単調な通りに注目しなければならない理由を与えた。通りのレイアウトはディベロッパーの権限であり、テラス状のブロックの長さは、地所の大きさによって制限されるのみであり、彼の意のままであり、彼の良識に任されていた。800フィート(245m)の通り及びそれを上回るものは、鉄道沿いを除いて、知られていない。

 19世紀のイングランドにおける都市土地保有権で保有されている区画の高密なスラムへの変化と似たことは、いたるところで起こった。同様の過程で、織物業の労働者のためにあつらえられたルージの長い区画は、中産階級のしゃれた邸宅とともに通りの端に並べられ、彼らの奥行きのある庭は地価の高いまちなかの敷地に可能な限り高密に建てられた暗い多層の家屋とは隔離されていた。南アフリカ共和国のピーターマリッツバーグやスリナムのパラマリボのような、奥行きをもった区画のグリッドに建設された植民地都市では、民族的な文脈の中で繰り返される、よく知られたテーマである。黒人奴隷たちは目立たないように裏庭の住処あるいはバラックに住まわされた。ワシントンDCではブロックの形は異なるが、社会の経過はほとんど同じである。19世紀後半に、国会議事堂の影では、広い威厳のある上流階級のブロックの核が、移民の黒人のスラム街を隠した。

 アメリカでは、植民地のグリッドは、気前のよい通りとブロックとロットの寸法の傾向を後世に伝えた。主な通りはほとんど75フィート(23m)以上の幅であった。初期のグリッドのロットのサイズの範囲の典型は、サバナ(60から90フィート、18から27m)、アラバマ州モビール(75から150フィート、23から46m)、及びオハイオ州マリエッタ(90から180フィート、27から55m)である。標準的な鉄道沿いの町のブロックのサイズは300平方フィート(28㎡)で、ロットは50から140フィート(15から43m)であった。人口が増加すると、通りや裏通りを加えることによりこれらの形態を小さくさせようとする圧力に抵抗することは困難であった。

 フィラデルフィアでは分裂は早くから始まった。大きいブロックは非常に狭い裏通りで切断された。それによって、Sir William Pennの「緑の田舎町」は、テラスハウスと裏通りのアパートで建てづまった都市に徐々に変わっていった。これは普通アメリカの歴史を考える上では嘆かわしいこととされており、ブロック内の密集とそれに伴う裏通りの不潔さを考えると、それはまさに美しい都市の配列の格を下げている。フィラデルフィアの場合の別の評価は確かにありうる。高密化により、初期の低密なときよりも多くの人々が家を所有できるようになった。そしてさらにある。1930年までにフィラデルフィアの住宅の約50パーセントが持ち家であったと指摘されている。これは比較的住宅のコストが低かったことによる。またこれは、グリッドの中にテラスハウスを詰め込む極めて高度な技術によるものである。基礎、歩道及び根太の市の建築基準は、狭い住宅のためにかなり低い。そのため労働力も建築資材もたいへんに節約されてた。

「ニューヨークシティー」にはオリジナルのグリッドと近代の都市の高密さとの間の衝突がきわめてよく書かれている。1811年の Commissionner's Plan においてつくられた2000のブロックは、25から100フィート(8から30m)の、狭い辺が通りに向いたロットに細分された。そのプランは、ブロックの真ん中の裏通りに対して何の対策もとらなかったために、細分によりアクセス可能なユニットを増やす可能性をもたなかった。19世紀の中ごろまでには、核家族向けの裏庭付きのテラスハウスに合った大きさのロットは、90パーセントあるいはそれ以上の敷地がアパートで埋めつくされた。1879年の好意的なアパート運動(Tenement House Act)によって、後にCatherine Bauerが「おそらく世界最悪の合法的な建物の形態」と呼んだものが生まれた。これが「ダンベル」アパートで、その平面図の形からそう呼ばれた。建蔽率は80パーセントで、それぞれの境界の壁沿いのシャフトから最低限度の換気と採光ができて救われていた。1900年までに、市は25フィート(8m)の幅のロットではそのような高密ではやっていけないことを認識し、換気と採光の基準を低くした。唯一の解決策は多数の小区画を大規模建築のために集合させることであった。

 局面は住宅を超えた。都市の建築は概してスケールを変え、当初の小区画の寸法とはもはや合わなくなった。工業国では、新しい巨大な建築型(アパート、駅、事業所や官庁、百貨店や問屋)は、なるべく完全な1ブロックを必要とした。ニューヨークのペンシルバニア駅のように2ブロックを必要とするものさえあった。アメリカでは、都市のグリッドが比較的新しいために、こうした大都市のスケールへの変化が容易であった。高価でない住居の tipo portance 、すなわち木組の家は、土地に飢えた各種の団体にとって重大な障壁とはならなかった。そのため、中心業務地区は、周囲の住宅のブロックの中へと拡大することができた。そこでは、大規模建築の用地を低コストで集めることができた。

 ヨーロッパの場合はより複雑である。オースマンのパリの大きなブロックは大手術の結果である。大規模な収用と取り壊しは都市のブロックパターンを再生し、中世の通りや路地や溶け込んだ区画の美しい葉脈のシステムを、大きな新しい建物の敷地にする「ひどい計画」であった。これらの技術は19世紀後半にはヨーロッパ中で広く手本にされた。まだましなことに、新しい大きなブロックは都市の周縁部の未開発の土地に配置された。ウィーンは、巨大な広がりをもつ破壊された防御施設を、環状道路の大規模公共建築と大規模住宅建築のために利用した。そして当地出身のオットー・ワーグナーは、彼の1910年の大都市の提案において、ブロックを満たす7列のアパートの、よく考えられたグリッドを考案した。それは歴史的中心を含み、それを保存し、しかも無限に拡張できる。

 厳しく規制された個人の開発によるグリッド状の都市の際限のない拡大という近代の大都市のこうした概念のモデルは、1860年頃からの実現された2つの計画に行き着く。James Hobrecht の大ベルリン計画、及びスペインの全ての都市の拡張のプロトタイプとして計画された Ildefonso Cerda のバルセロナ計画である。

 Hobrechtは、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世のもとで王室の庭園の計画家であったPeter Joseph Lenneによる1820年代の実行されなかった都市拡張計画を、モデルとしてとりあげた。Lenneの聴衆は貴族だった。彼は、巨大なブロックをかたどるのに必要な最小限の本数の通りを計画した。そのブロックは、高価な地所を供給し、後で所有者の好みに合わせて細分されうる。しかしながらHobrechtの時代までには、ベルリンは一大工業中心地となっていた。当時何よりも必要であったのは労働者階級への住宅供給であった。そのためHobrechtの計画における820×490フィート(250×150m)もの大きさの巨大なブロックは、5階建てのMietskasernen(安アパート)でぎっしり埋められた。そして、そのグリッドを、新しい世代の都市計画家の目から、まさにスラム地主とひどい密集の母体であるとして非難した。

 Cerdaはバルセロナの古い町をもとのまま残し、中世の都市の城壁の外に10平方マイル(26平方キロ)以上に及ぶ平地に一定のグリッドをひいた。通りは全て20m66フィート)の等しい幅で、正方形のブロックはこの通りの幅に合った長さの切り取られた角をもっていた。建物もまたこの比率の関係に組み込まれており、通りが広ければそれだけ背が高いように統一されていた。Cerdaにとって、その正方形のブロックは「明快かつ純粋な数学的平等さの表現であり、それは、権利と利益の平等であり、正義そのものの平等である。」

 この計画の驚くほどの規則正しさは、グリッドを横切って巨大な厳格な「X」を形作る2、3の斜めの大通りによってのみやわらげられる。しかしその単調さは当てにならなかった。ほとんどのブロックは2辺にだけ建物が建てられ、しかも必ずしも同じ2辺ではなかった。それぞれの街区で建物が建てられずに残っているところは、造園によって風景が美化されていた。こうした準備により、大きな四角形からモダニズムの前兆であるスラブのブロックの直線的な配列までの、建物とオープンスペースの極めて多様なバリエーションが可能になった。

 しかしCerdaは、私的所有権の影響や投機的な市場を考慮に入れていなかった。彼はブロックに4階の高さ制限と28パーセントの建蔽率を定めた。しかしセルダの計画が効力を持ち続けると予想されていた一世紀かそこらの間に、ブロックの4辺全てに建物が建てられたり、ユニットの高さが高くなったり、どうでもよい中庭空間が中央に取り囲まれてできたりしていき、このガーデンシティの密度は4倍になった。今日では、12階建てで建蔽率90パーセントの住宅の建っているブロックもある。セルダの社会的平等主義への望みを反映した理想の地図は、ゆがめられた。中流階級は、労働者階級を都市の縁の工業地域や都市の古い中心地の荒廃した住宅へと追いやり、偉大なグリッドを植民地化したのである。

                                

 

6. 20世紀におけるグリッド

 モダニストの時代に到来は、新しい建築のタイポロジーを通して伝統的なグリッド都市を救おうとする試みに終止符をうつものであった。1880年代から1920年代にかけて社会改革の主唱者たちは、(いずれにしても彼らは田園都市思想へと転じてはいなかったが)周辺の街区を住宅への解答として擁護してきた。ベルリンでは1890年代に博愛主義プロジェクトとして、アルフレッド・メッセルの設計によって、広い解放的な中庭を持ち外部に閉じた街区が建設され、ニューヨークでウィリアム・フィールドと彼の息子によって同種のプロジェクトが実施された。1910年代までこの種のプロジェクトは、パウル・ウルフやブルーノ・メーリングといったドイツの改革者によって、ベルリンの悪名高い住区、HOBRECHT周辺のMIETSKASERENにかわるものとして促進された。1915年のベルラーギのアムステルダム南部のプランでは、一様なファサードをもち中庭を囲む長い居住街区が変則的なグリッドの上に配置されたが、これは階層の違いを隠すために意図されたものであった。これは20世紀になって実現されたが、結果はベルラーギの意図を裏切るものであった。ミカエル・デ・クラークやピエト・クラマーといった、いわゆるアムステルダム学派に属する建築家の主導のもとに形成されたハウジングコンプレックスは各街区が個別にデザインされたために、造形とディテールにおいて個性が強く、ベルラーギによって注意深く描写された中庭、街路のボリュームをむしばむことになった。

  ベルラーギの時代を経て、モダニストに属する都市計画家にとって、グリッドが社会の発展にとって望ましい枠組みとはなりえなくなった。住宅改革者の主唱者は、ヴェルナー・ヘーゲマンがベルリンの居住環境を酷評したDAS STEINERNE BERLIN(1930年)で述べ、キャサリン・バウアーが MODERN HAUSING(1934年)で非難しているように、グリッド街区を手に負えない都市病理を生み出すものとしている。モダニズム提唱者は高密街区開発が、居住者の不可侵の権利である「水、光、日照」を侵すとして非難した。しかし、現代都市の、一見したところ果てしない交通量の増加こそがおそらく、グリッドに対する最も説得力のある告発であった。今や、グリッドが運搬交通を目的として不可欠に創られたものであると論じられている。自動車によってグリッドの性質はより悪い方向へと変化し、都市の街区は包囲された孤島へと変わったのである。1933年には、自動車交通の影響で都市圏の大きさが3倍になり、1日の交通量は9倍になったと見積もられている。交通量のスピードの増加のために街路は、とりわけ子供達にとって極めて危険になってしまった。

  こうしたことが、グリッドを捨てるべきだという意見の根拠となって、主要幹線道路を境界とするスーパーブロックの概念が受け入れられるようになった。個々の区画を組織化する手段としてというよりもコミュニティを分離するという枠組みとしてのグリッドの使用は、非西欧地域に先例を求めることができる。

多くの文化的状況の中で厳格な街区構成は都市基盤全体を構成しており、そうした中に繊細なスケールのトレーサリー模様やその他の活気に満ちた交流が発達する素地が生まれている。10世紀までの中国の帝国都市では、大きな街区の境界線は単に遮蔽ラインであり、古代においてはしばしば防御壁であったが、この壁を越えて地方の複合的な組織化が進んでいった。同様に、古代ジャイプールでは大きな区画が一辺800mの小区画に分割されていたが、これは街区というよりもセクター(戦区)というべきものであった。その各々の中に性格の似通ったルースなミニグリッドがあり、これが近隣住区を形づくっていた。こうした近隣住区は40から50の住戸の住宅を建設できる規模で、階層、職業、民族、宗教に基づいた単一組織の集団が住んでいた。

  モダニストによるスーパーブロックはこれとは異なった境界線を持つ。ヨーロッパでは共通の取り決めとして、テラスを平行に並べ、緑の芝生に面してファサードをそろえ、正面は奥行きに対して短くし、ときおり空白地帯を設けた。

これらは、周囲の溝としての主要街路へとつながっていく。アメリカの住区としてのスーパーブロックの提唱者は、コミュニティ精神を構築するという明確な社会的テーマをもっていた。伝統的なグリッド状街路は居住者を騒音とゴミ、悪臭、危険に囲まれた長方形の島の上に取り残した。価値のある社会生活が容易に実現しない状況にあって、都市の居住者は孤立して、社会基盤を失い、「広大な失望の海」に浮かんでいると表現された。その解決策は、各々が商店、学校、コミュニティ施設を備えた自給自足的近隣住区としてデザインされたスーパーブロックによって、社会的コミュニケーションを促進していくことであった。

  こうした考え方がはっきりとした形をとりはじめたのは、1915年のシカゴにおいてであった。大都市周辺の開発に際して画期的なデザインを求めてシティクラブが主催したコンペティションの応募案に、区画の1/4ずつを統合して扱うために、伝統的なグリッドとその小街区を放棄したものが現れた。審査員の一人は次のように記している。「我々を人間として特徴づけている神経質さにより、われわれは単調さよりも多様さを好む傾向がある。このことは、厳格であるよりも遊び心があり我々が心ひかれる葉形飾りのような物に象徴される。」すべての入賞案に共通しているのは、安定した枠組みとして直線的な

道路を確保し、一方で幅のある曲線道路やよりルースな街区構成を導入している点であった。また、すべての入選案が景観への配慮を強調し、学校や教会の様な公共施設を備えた内向的街区に焦点をあてていた。

  しかし「家庭生活のコミュニティのための近隣住区単位」が初めて第一概念とされたのは、1929年にルッセル・セージ財団に提出された社会学者アーサー・ペリーの論文においてであった。ペリーの計画案は、アメリカ郊外のピクチュアレスクな風景とイギリスの田園都市の経験にもとづいたもので、コミュニテイセンターと、街路の循環交通システムを主眼としていた。田園都市論のアメリカでの提唱者ヘンリー・ライトらは、土地開発の基盤としてアメリカのグリッドを法的に再編すべきだという議論を展開したほどであった。

 30年代以降、アメリカのスーパーブロック・プランニングの概念は次第に、CIAM(近代建築国際会議)から発した理論と結びつきを強めていった。アテネ憲章として知られる、CIAMが1933年に立場を表明した条文に示されるモダニストの規範によると、交通の流れとそのデザインは都市形成の主要な決定要素であった。CIAMの主張は、円滑で新しい輸送技術と緩やかに発展していく既存都市の外殻との相反性に焦点をあてたものであった。実際、モダニストは、高速幹線道のルースなグリッドによって組織され、木々の緑が広がる眺めの中に建築郡が建ち並ぶ都市像をもっていた。デトロイトとミネアポリスにおいて、プランナーは20世紀にはこの種の特大グリッドを、街路グリッドの代わりというよりもむしろそれに付加するものとして考案した。デトロイトにおいては、以前からの幅員66フィート(20メートル)の道路のグリッドの上に重ねる形で、約3マイル(5キロメートル)間隔で幅員204フィート(62メートル)の幹線道路と、1マイル(1.6キロメートル)間隔でその半分の幅員120フィート(37メートル)の主要道路で構成される道路体系が建設された。

 より広範にわたる提案が、アメリカのグリッドを新しくつくりかえる提案として、Bauhausdiasporaのシカゴを拠点とする、Ludwig  Hilbersheimerによってなされた。そこでの「居住区」の概念は、アメリカの近隣住区計画とヨーロピアンモダニストのより合理的な都市計画案の双方から刺激をうけたものであるが、整然と計画された街路の閉鎖と建築物の破壊を通して、漸進的に伝統的なグリッド都市からの移行をはかることを基本としていた。移行後の新しい方式においては、近隣関係は緑地帯によって区分けされ、道路体系の一環としてクルドサックを採用することにより、居住地での交通からの安全が確保される。

 ヒルベルザイマーの歴史的居住地でのパターンとは対照的に、モダニストによる高速特大グリッド都市のプロジェクトは、何もない土地に対して計画されるのが普通であった。ニュータウン建設は、何の障害もなしにこの種の都市計画を実行する絶好の機会であった。戦災都市も、それほど整然とはしていないものの格好の機会を提供した。ベルリン復興に際して、ハンス・シャロウン率いるモダニストグループによって準備された1946年の「コレクティブ・プラン(Collective  Plan)」は、64箇所のクローバー型立体交差点をもつ高速グリッドシステムによる新メトロポリスを建設しようとするもにで、それまでの円形放射状の交通パターンを放棄したものであった。中世都市のコアのみがアーバンミュージアムとして残される。戦争で焼け残った他の破片は取り壊される。シャロウンは次のように記している。「空襲と最後の戦闘が空虚な状況をつくりだした。焼け残った物はすべて、自然と建築から、高いものと低いものから、広いものと狭いものから都市のランドスケープを創り出せることを示唆している。そこには新しい活気ある秩序が生まれている。」このプランは翌年否決され、シャロウンは、保守派のカール・ボナツに取って代わられた。

 モダニストの計画が最初に実現した都市、チャンディガール(1951年創設)では、緑地景観と、スーパーブロックの境界となる主要道路のルースなグリッドパターンが相互に貫入し、洗練された居住地パターンを創り出している。スーパーブロックあるいは、いわゆるセクター(戦区)は、それぞれが800m*1200mの大きさで、これらは黄金分割の比率によっている。街区は、主要道路が生活空間とならないように、コミュニティの意識を内部に向けるようコントロールされる。各街区は一本の主要なローカル道路(マーケットストリート)によって縦に二分されると同時に、これらは直線的な商店街を形成している。モダニズムのバザールへの敬意である。直線は実際には都市の端から端まで連続していない。ほとんどの場合、主要道路に出会うところで途切れている。また、中央緑地系統が街区を横断する形で走っている。古代ローマのフォルムのように、2つの主要軸が交差するところにシビック・センターがある。しかし、この都市の真の中心は、ル・コルビュジェの設計による、政府機関が集積した議事堂(キャピトル)であり、高等裁判所、議会、庁舎、知事公邸から構成される。これは、巨大なモデュールをもとにデザインされる。ヒマラヤの荘厳な背景に対して、建築群もそれに応じたスケールを持つ。建築群の間を焼けつくようなパンジャブの太陽の下、徒歩で通行することは、たとえキャピトルプラザ全体が地下の交通機関を通して駐車場とつながり、地上は歩行者空間として考案されているにしても、ほとんど不可能である。

 モダニストの計画によるグリッド都市のうち、最近のもっとも徹底したものは、イギリスのニュータウン、ミルトン・キーンズ(1967年創設)である。ここでのグリッドシステムは1平方キロメートルの街区の境界線となる自動車道から構成されるが、ここでのグリッドは厳格さからはほど遠いものである。道路のラインはゆるやかにうねっており、土地の起伏に合わせて上下する。さらに道路は、交通による騒音を吸収するために、道路は幅のある緑地帯によって縁どられている。イメージはハイブリッドである。田園都市の美しい緑地化が合理的なグリッドを洗練させるために行われ、そこでは道路技術者が「機能的な構造がそれ自体美しく見える」ようにむなしい努力をおこなった。この道路体系には特別な中心はなく、それゆえ、エベネザー・ハワードの田園都市の原案でのダイアグラムのような中央集中型プラン(結果的にはすべてのニュータウンがこれを尊重したが)では不可避の交通混雑が、ここでは避けられている。タウンセンターは必然的にショッピングモールとなる。自動車道がこの上部階レベルを走りぬけている。

 グリッドによる区画の内部では、民間開発は自由におこなわれる。アパートメント、戸建住宅の双方が容認され、いくつかはの区画は、商工業建築やレジャー、レクリエーションのために割り当てられる。プランナーは用途混在を支持したにも関わらず、都市を「機能」によって分化するというモダニストの主張が広まった。地域の交通ネットワークは歩行者、自転車交通をも収容した。しかし、ここでのグリッドによる街区は、田園都市の方式で内側に向けて「計画された近隣住区」として考案されたのではない。ここでの狙いは、オープングリッドへの回帰であり、自動車道、ローカルストリートを使って都市全域を自由に移動できるようにすることである。ミルトン・キーンズでは、モダニズムと田園都市の経験が伝統的な方向に向けなおされたと言えるであろう。

 事実、歴史的都市を再生し、その遺産を保全し、それから得られる教訓から学ぼうとする、ここ20年間の改革運動は、伝統的な街区の回復をも伴っている。実際、これまでグリッドは決して消滅することはなかった。モダニストの創出した都市景観は、二つの伝統的な都市景観に取って代わったが、今や、それを再生させようとする動きが起こっている。そのひとつは、空間がタイトに連続していくなかで、ピクチャレスクな効果と不規則性をもつ「有機的な」都市景観である。もうひとつは、完全な構成、視覚的ドラマ性、広場でのモニュメントの見せ方、眺望における遠近画法的ヒエラルキーを伴ったバロック的都市景観である。

 これは、モダニスト都市のように工夫して考え出されたアイディアに対抗し得るグリッドの素晴らしい美点であり、不断の有用性である。グリッドの擁護者はその信条として、社会生活の複合性を充足するためには、複合的な街路システムが必要であるという考えをもっている。地上での線の集合としての都市形態が、我々の人生が演じられる舞台装置となるということが、グリッドの前提となる。この舞台の上で我々がどのように演じるか、誇るに足るコミュニティ創出に向かってどのような進歩を遂げるかは、我々の手にかかっている。我々が何を意図したかは、都市形成の進歩の過程に応じて、街路や公共の場所に証拠として残っていくであろう。グリッドの美点は、それが特定の内容を与えられるまで、概念的な形式的秩序をもち、非階層的でニュートラルなことである。グリッドは、絵のような美しい光景を生み出すわけではないし、イデオロギーからも自由である。グリッドには反復性、均質性があり、冗長でさえあるが、それだからこそ、我々がそれを尊重し、完成させる必要がある。デザイナーとしての我々の任務は、必ずしも地上の二次元のプランとは限らないレベルにグリッドを分割する一方で、グリッドの普遍性を評価することになる。グリッドはそれ自体の固有の性質を持たない。グリッドは我々自身がつくっていくものなのである。