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2023年9月26日火曜日

都市が見えてきた,そして,見えなくなった,六十年代・都市・新宿,ペンギン,現代企画室,198402(『スラムとウサギ小屋』所収)

 いまここに、三分冊の報告書がある。広報渉外局首都建設部による「新宿副都心地区実態調査報告書」その1、その2、そして資料篇の、いずれもそう厚くはない三冊である。この報告書がまとめられたのは、一九五八年。既に四半世紀の時が流れている。この二五年の間に、新宿は、歴史上かつてないほどの急激な変貌を遂げた[1]2。報告書に眼を通しながら、そのかつての姿を想い浮かべるとき、その変化のすさまじさに今更のように驚かされる。

 報告書は、その冒頭に言うように「淀橋浄水場の移転がかなり具体的日程にのぼってきた」ことを契機とし「首都圏整備にもとづく副都心地区再開発の基礎資料を得ることを目的」としたものであるが、その淀橋浄水場が、超高層ビルの林立する地区に変貌を遂げることなどもちろん夢想だにしていない。東口、西口の各地区について、人口密度、建築動態、建蔽率、容積率、権利移動関係等のデータをもとに、その特性を明らかにしているのであるが、およそ現在の姿からは想像し得ないような実態が明らかにされている。例えば、報告書は次のように書いている。

「新宿四丁目(非戦災地区でしかも区画整理は行われていない)花園町等をあるいてみると、無数にたちならぶ旅館や大きな倉庫の間に、とりのこされたバラックが点在していたり、木造の兵舎住宅? のようなものがあったりする。建物用途別現況図と、人口分布図をみれば、マーケット街はおそろしい過密住が行われていることがわかる。とくに最近区画整理の行われた角筈一丁目、新宿二~三丁目、歌舞伎町は小さく分割された街区にビッシリと併用住宅がつまっている。また盛り場周辺には旅館や、小さな店舗、材木問屋などが住宅地の中に発生し用途の混乱は甚だしいものがある。花園町、新宿二丁目、西大久保一丁目、柏木一丁目などの盛り場の周辺はすべてそうである」。

 もちろん、今なおその面影を新宿はそこかしこにとどめていると言えるかもしれない。ゴールデン街は、昔の新宿をしのぶよすがであろう。しかし、最早、バラックや兵舎住宅はない。小さく分割された街区にビッシリと併用住宅がつまっていた地区の大半は、すっかり高層化され、さまざまなビルに建て替わってしまったのであった。

 指摘されるように、東京の町は、近代化、都市化の波に洗われながらも、また関東大震災の大被害にもかかわらず、昭和戦前期までは、近世江戸の骨格と香りをいまだ残していたと言っていい。そうした意味では、戦災は東京にとって、ひいては日本の都市のあり方にとって、決定的な意味をもった。都市的集住の伝統が薄く、巨大な村落と称される、木造住宅の密集する東京が焼け野原と化すことにおいて、また、そこで焼け残ったのが鉄とコンクリートの建物であったという経験を手にすることにおいて、近代都市へ生まれ変わる大きなきっかけを得たと言っていいからである。しかし、戦災による日本列島の白紙還元に匹敵するほど、日本の都市の相貌を一変させたのが六〇年代の過程であった。戦後まもなく焼け野原は、すぐさまバラックで埋めつくされた。先の報告書でも、新宿副都心地区について、戦前と戦後とでは土地権利移動の性格が根本的に変化していること、五〇年から五三年にかけても最も移動が変化したこと等、その様相を記述している。ビルブームと建設投機、その変化の予兆はすでにあった。しかし、ところどころにバラックが点在していたことが示すように、六〇年代直前の新宿はいまだ戦後まもなくの焼け跡・闇市のにおいを残していたのである。今となっては、この三冊の報告書は、極めて貴重な記録と言えるであろう。

 廃墟を埋めつくしたバラックの海から、大企業がその覇を誇示するかのように高さを競う超高層群へ、あるいは、現代消費社会の中心としてのアーバンシティへ、新宿は、最も象徴的に、六〇年代における日本の都市のドラスティックな変化を示してきたと言っていい。今、ここで、そのフィジカルな変化の過程を詳細にトレースする必要はあるまい。日本列島の至る所で、われわれは同じような変化を経験し、また経験しつつあると言っていいからである。

 しかし、一方、新宿が六〇年代の日本の都市の象徴であると言うとき、われわれは、単にフィジカルな意味でのドラスティックな変化のみをその根拠とするわけではない。六〇年代、都市、新宿と並べるとき、われわれの集団的な記憶が喚起するのは、新宿を舞台とする数々の出来事であり、それを通じて一瞬垣間見ることのできた、ある具体的な都市のイメージである。

 六〇年代末、新宿はたびたび騒乱の舞台となった。催涙ガスがたち込め、火炎ビンや石の飛びかう戦場となった。そこここにバリケードがつくられ、電車や車が焼かれることも珍しいことではなかった。近代都市へ装いを変えつつあった町のビルが、突然、金網や工事現場用の鉄柵で覆われ、異様な光景が現れた。学生・労働者と機動隊が衝突を繰り返す戦場としての新宿は、また、フーテンやヒッピーたちのたむろする若者文化の拠点であった。公園や神社、街頭そのもので、あるいはビルの一角や地下室で、ハプニングやイヴェントを繰り広げられる町であった。都市そのものが雑多な表現の舞台であった。

 都市が一つのメディアであること、秩序と反秩序の、管理と自由の葛藤の場であること、個々の、あるいは集団の表現の場であると同時に、国家あるいは制度の意志の媒体であること、おそらく、われわれは、アナーキーで、活気に満ちた六〇年代末の新宿に、そうした都市そのもののある本来的なあり方をみたのである。

 六〇年代に入って、極めて広範囲に、かつてない全面的な形で都市あるいは都市問題が主題化されたこと、それはまだ記憶に新しいことといっていい。極めてわかりやすいのは、都市のフィジカルなあり方に直接かかわる建築家やプランナーである。六〇年代初頭、建築家たちは、一斉に都市を対象化し、さまざまな都市プロジェクトを発表し始める。ほんの二、三年のことにすぎないのであるが、建築家が都市そのもののデザインをプロジェクトとして提示すること、都市そのものを主題とすることは、戦時体制下の植民地での体験を別とすれば、全くかつてないことであった。新宿副都心についても、六〇年代の建築・都市計画のあり方を主導することになるメタボリズムグループのメンバーである槙文彦[2]3、大高正人[3]4によってそうしたプロジェクトの一つが提出されている。建築家やプランナーを都市へ駆りたてたものは、言うまでもなく、かつてない規模で列島全体に及ぶことになる都市化現象そのもの、スクラップ・アンド・ビルドの混乱の様相そのものである。彼らは、近代都市計画の理想を掲げながら、混乱と無秩序の都市への理性的な対応こそを使命としたのであった。

 しかし、そうした形で、六〇年代に入って、都市問題がクリティカルに認識され始めたこと、都市化現象が日常生活を全面的に侵し出したこと、都市計画や都市の再開発が最も重要な現実的な課題となったことを確認する次元と、六〇年代末の新宿において、都市そのものの本来的なあり方をみようとする次元とは明らかに違っている。言うまでもなく、六〇年代末の都市の反乱は、近代合理主義に基づく都市計画そのものへの批判をこそ最も直截に示すものであり、一方、日本における都市の形成そのもの、都市の論理そのものを見いだそうとするものであったと言っていいからである。

 六〇年代末、その都市の論理について、最も明快に歴史的バースベクティブを示し、その具体的なプログラムを示したのが羽仁五郎[4]5であった。

 「コンミュニティというような概念が目的とするところは、われわれ人間が解放されるような場所を考えようとしているのではないか。コンミュニティというのが現実に存在するとすれば、それは都市ではないか。第一に、人間は家族から解放されなければ救われないのではないか。第二に人間は地域から、すなわち農村から解放されなければ救われないのではないか。そういう意味で、都市がそういう解放的な社会的条件の実現の場所ではないか。第三に、ルネサンスの自由都市共和制およびその全国的実現としてのフランス革命によって、われわれは人間の解放の段階に入ったのである」。

 共同体、家族、農村からの解放、そして自由都市共和制の実現、ルネサンスの都市の理想をフランス革命そしてパリ・コンミューンに重ね合わせるその論理は、今、読み返してみても実にあっけらかんと単純明快である。しかし、その羽仁五郎[5]6の『都市の論理』[6]7が上梓された六八年末、新宿は、それを極めて具体的にリアルに感じさせる都市ではあった。その自治体連合の構想が、革新自治体の相次ぐ出現によって現実的なプログラムとして受け止められていたことも事実である。

 歴史は羽仁の言うようには動かなかった。一瞬見えたかに思えた都市とその論理は再び見えなくなった。一九六九年七月二四日、新宿駅西口地下広場は、突然、通路という名称に変えられた。その年の二月以来、土曜日になると、ギターをならしフォークソングを歌う集会が自然発生的に開かれていたのであるが、五月に入って機動隊が規制を始め、六月二八日には参会者が七、〇〇〇人にも及んで、激しい衝突の末、六四人が逮捕されたばかりであった。通路という名称によって、広場が道路交通法による取締りの対象の場所になる、実に象徴的事件であった。同じ頃、東口にたむろしていた二〇〇人にも及ぶフーテン[7]8たちは、軽犯罪法の適用によって次第に姿を消しつつあった。戦場であり、解放区であり、舞台であり得た都市が、実は法・制度の網の目でしかないことをそれらの事件は暗示していたのであった。

 ピーピングハウスが乱立し、性風俗の最前線を謳歌する新宿は、今なお、猥雑でアナーキーな町と言えるかもしれない。しかし、それは決して、かつての新宿ではない。それこそ新宿副都心に林立する超高層がテクノクラシーの論理そのものをヴィジュアライズする表現であり、さまざまなファッションビルが、ものそのものではなく欲望そのものをイメージや記号として消費する消費社会のあり方を象徴する、そうした意味での現代都市である。

 この間、一貫して現実の都市をつき動かしてきた論理とは何か。言うまでもなく、それは、産業社会そのものの論理である。六〇年代に入って、空間そのもののあり方は産業的な生産と消費のメカニズムによって大きく規定されることになった。空間そのものが剰余価値を生む商品と化し大きく都市のあり方を規定することになった。六〇年代に、模索され、見いだされようとした都市の論理が、現実に裏切られざるを得なかったのは、現代都市を支える産業社会、消費社会の論理を必ずしも対象化し得なかったからと言えるであろうか。

 都市論ブームといわれるほど、この間一貫して都市について語られ続けてはいる。しかし、いたずらに過去の都市を理念化するのではなく、いま、この都市そのものに切り込むものはほとんどない。六〇年代・都市、新宿もそろそろ過去の幻影と化しつつあるのであろうか。

 

 筑豊[8]9炭住スラム,“IN”09198112(『スラムとウサギ小屋』所収)

 博多で会議があった折に、筑豊の炭坑住宅を見て回る機会を得たことがある。僕にとって初めての体験であったのだが、想像以上に強烈な体験であった。

 近代日本の屋台骨、そのエネルギー基盤、産業基盤を支えてきた筑豊は、六〇年代初頭の、大手炭坑の閉山以降相次いで中小炭坑が閉山し、八〇年、ついに全炭坑が閉山するに至った。そして、現在、かつての産業コロニーとしての炭坑住宅地区は次第にその姿を消していった。訪れたのは、そうした炭坑住宅が今なお数多く残されている宮田町(直方地方)、飯塚市、碓井町(飯塚地区)、田川市(田川地区)である。

 何よりも驚かされたのは異様な風景である。ボタ山と巨大なホッパー(巻上げ塔)の残骸を中心として広がる茫漠たる未利用炭坑跡地の風景である。そして何よりも、辺り一面の地面の陥落である。その規模は信じられないほど大きく、地域のほぼ全域に及ぶ広範囲のものである。それ故、数メートルにも及ぶ陥落に一見、気づかないほどである。所々に散在する巨大な池、復旧された道路面や宅地面と田畑面との異常なずれが、地底に網の目のように張りめぐらされた坑道の存在と、その水没、沈下のものすごさを突然思い知らせてくれるのである。長期間にわたる採掘によって、地形そのものが変わってしまっている。営々と築き上げられた無数のボタ山、そして一面の陥落。そこに投下された気の遠くなるような人々の労働を想えば、また地底に生き埋めとなった幾多の命を想えば、誰しも異様な感慨にとらわれてしまうのである。

 たまたま飯塚の喫茶店で、そうした感慨をそれぞれに口にしていると、一人の男が突然「俺の家に来い」という。招じ入れられた彼の家で、われわれは陥没による家屋の被害の実態をまざまざと見せつけられることになった。梁や框が傾き、基礎は地中にめり込んでいる。建具は動かず、柱との隙間には紙で目張りがしてある。無資力を理由に、その保障を拒否されている事情を怒りを込めて語りながら、意地でもそのまま残して置くのだと、その彼はあきらめに似た笑いを浮かべるのであった。

 また、生活保護を受けながら、炭坑住宅に沈殿している何人かの人々に会うこともできた。そうした人々の中には、炭坑で働いていたときの後遺症で手足の自由を奪われた人々も数多い。高度成長から取り残された筑豊は、まさに「日本の暗い谷間」として、近代日本のつけを一身に引き受けているかのようなのである。

 ボタ山の流出、崩壊の危険、陥落による家屋や田畑への被害、湧水、赤水などの水利異常といった鉱害が、巨大な後遺症として人々を苦しめつつある。環境問題の一つの縮図がそこにあると言えるであろう。

 筑豊に網の目のように張りめぐらされた鉄道網は、今その荒廃に追打ちをかけるように赤字ローカル線として次々に廃止されていった。炭坑離職者等失業者対策としての工業誘致、地場企業の振興は必ずしもその実効をあげず、人口流出、過疎化が進行し、老齢人口比の異常に高い、活力のない地域となっている。各地に散在する炭鉱跡地、ボタ山は、各種の私権や抵当権が入り乱れ、権利関係が複雑なために自由に処分できず、その開発、土地利用計画を困難にしている。また、炭住・炭住街は次第にスラム化し、さまざまな社会問題を生みつつあり、その改良事業も必ずしもスムーズに進んではいない。

 筑豊の諸都市は、都市の生と死を最もドラスティックにわれわれに示すといえるであろうか。戦後まもなく、焼け野原と化した日本列島の中で、筑豊地域は、傾斜生産方式のもと、また、朝鮮動乱を背景として、石炭景気に沸いていた。活気にあふれたその時代をなつかしむ声をわれわれはしばしば耳にした。しかし、今はまさに灯の消えた静けさである。最盛時の人口が半減した都市が一般的である。石炭産業という単一業種に依存した地域経済・地域社会の構造は極めて短期間にもろくも瓦解してしまったのである。

 エネルギー問題、資源問題の新たな認識から、石炭産業は見直されようとしたかにみえた。筑豊には、これまで採取された石炭の量の倍以上の量が埋蔵されているという。しかし、それを採掘することは最早、不可能である。陥落は、水没によってほぼ停止の状態にあるとされるのであるが、地域全体が丁度、水の上に浮かぶ島のようになっており、どうすることもできない状態にあるからである。日本のエネルギー施策の転換は、筑豊をほとんど死滅させるに至らせたのである。

 その再生の道は厳しい。石炭後遺症を解消し、補助金依存型の経済体質を改善して自立型の経済発展の基礎を固め再生の道を開拓することは容易ではない。しかし、筑豊の経験を、近代日本の裏面として、高度成長期の負の蓄積としてのみ葬り去ることはできないはずであり、少なくともその経験の意味は繰り返し反芻すべきであろう。

 炭住スラムのはらむ問題の重要性をわれわれに直接教えてくれたのは、花岡正義、本田昭四両氏の「筑豊における炭鉱住宅の再編・整備に関する調査研究」である。もちろん、ほかにもさまざまな関心や指摘はなされていたのではあるが、特に田川出身で、一貫して炭住地区を見続けてきた花岡氏の存在は大きかった。しかし、僕らを案内して下さることになっていた氏は、直前に急逝され、生き字引としての氏のお話を直接聞く機会を永遠に失ってしまったのであった。

 

 鹿島[9]10地域空間の古層,“IN10198203 (『スラムとウサギ小屋』所収)

 利根川の河口、銚子に対峙して波崎という町がある。茨城県鹿島郡。近世以降、水運の要所、漁業基地として発展してきたのであるが、今では鹿島開発の膝元といった方がイメージしやすいかもしれない。事実、隣接する神栖町に突如として出現した巨大な石油コンビナートは、かつての町の相貌を一変させている。高度成長期における巨大開発の、栄光よりもむしろ歪みを一身に受けた小さな町の一つである。

 その波崎の町でコミュニティ施設をつくる計画があるというので、町を訪れる機会を得たのであるが、意に反してなかなかに興味深い土地柄であった。巨大な煙突の林立する、われわれの日常的なスケール感を全く狂わせてしまうコンビナートの風景。複雑に絡み合うパイプの生み出すメカニカルな景観は不思議な迫力をもってわれわれの胸を打つ。しかし、その迫力はそれ故に辺りの風景を寒々しいものに変えてしまっている。つわものども(不動産屋、ディベロッパー)の夢の跡。開発成金の輩出とその御殿づくり。その陰での人間関係の悲喜劇。そして新旧住民の軋轢……。巨大開発に伴うおきまりのパターン、それが僕の町に対する先入観のすべてであったのであるが、そしてそれは必ずしも的外れではなかったのであるが、意外に強固な地域の伝統が所々に顔をのぞかせているのである。

 例えば谷田部の集落である。街路パターンが奇妙に錯綜しており不自然である。聞けば、西国での戦いに敗れた一八人の武士が、三世代の間、外界との接触を一切断って息を潜めていた隠田百姓村(一五七三年)であるという。そして驚くべきことに、その一八軒党は今も連綿と存続しており、毎年の村祭りの際、その祭儀の一部は秘儀として、その一八軒の主人以外にはいまだに公開されていないという。集落の中心としての神社には、一八人の写真が掲げられ、共に辛酸をなめた先祖の結束の継承を誇示しているのである。

 また、街道に沿って実に整然と短冊状に区切られた田畑と宅地がある。川尻の集落(一七一七年)である。聞けば、大原幽学[10]11の相互扶助の思想に基づいてつくられた村だという。間口二五間(分家は一三間)。一戸当り三町八反。利根川の川岸から田、道を挟んで宅地、そして果樹園、畑地、山林といった構成で各戸で自給自足が可能であったという。

 柳川新田(一八四五年)もまた大原の負債整理法、冠婚葬祭の法、備荒貯蓄法、さらに二宮尊徳の五人組制度によって強固な組織づくりが行われ、今もその名残がみられるのだという。さらに、太田(一七四二年)にも、四七軒党と呼ばれる集団組織ができ、現在も存続し機能しているのだという。巨大コンビナートの存在の背後に、こうした根強い集団関係が残されているのは何故か。それにはおそらく、新田開発の歴史が関係している。過酷な新田開発のために例えば、農業開発に欠かすことのできない水や肥料(地引網による鰯)の確保のために、また、他の集団との競争に打ち勝つために、強固な共同性が必要とされてきたのである。古来、利根川・北浦・霞ヶ浦そして鹿島灘・太平洋を通じて、さまざまな地域からさまざまな集団が入植してきた。波崎の漁業基地が和歌山県人によってつくられたことはよく知られている。今でも、言葉は和歌山の言葉に近いのだという。また、越後人や八丈島民の入植はめざましいものとして記録に残されている。そうした担当広範囲に交流をもつ開かれた地域でありながら、一方で極めて閉鎖的な集団関係がつくられていったことは実に興味深い。親村子村関係が今でもはっきりしており、開発の歴史と集団関係の展開をたどることができるのである。

 もともと気候には恵まれているものの地味は貧しく、植林することも耕地化することも困難な砂地が大半である。中央部は見捨地として最近までほとんど利用されず戦時中は横須賀航空隊の爆撃練習場として使われていたほどである。ある意味では、それ故、工業開発用地、石油基地とされるそれなりの理由があったのかもしれない。また、他所者による新田開発の歴史は、鹿島開発を抵抗なく受け容れる何らかの理由となったのかもしれない。しかし、そうした地域であっても、そこには決して無視することのできない歴史と伝統が生きているのである。

 今、町の中央部の見捨地であったところは、各企業集団の住宅団地がつくられている。地元住民にとって、あるいは開発の新たな歴史が付け加わっただけかもしれない。しかし、化石燃料を基盤とする産業社会のシンボルとしての石油コンビナートの立地は、言うまでもなく、かつての農業、漁業を基盤とする開発とは全くその質を異にする。伝統的に閉鎖性の強い地の集団と、新たな開発集団との間に軋轢が生じるのはある意味で当然であろう。

 そうした地域において、何がコミュニティの核となりうるのか。何がそのアイデンティティを支えうるのか。実に興味深い問題ではある。波崎を訪れて得たささやかな示唆は、どんな何もない場所であれ、徹底して地域空間の古層と呼びうるようなものを掘り起こすことが、その一つのヒントになるのではないかということであった。波崎に即して言えば、新田開発の歴史、その地域づくりの方法に学ぶことがあるのではないか。また、鹿島社[11]12に近接することにおいてその神話的世界を喚起させる場所として、地域のイメージをより豊かな時間空間の広がりでとらえることができるのではないか。また、町のシンボルとしての大タブの木は、その分布する他地域との生態学的連関を想起させるのではないか。宝山伝説、塚原卜伝、武甕槌大神……。地域の伝統を根こそぎにすることによって成立する巨大石油コンビナートの膝元においても、地域の古層のイメージをさまざまに重ねてみることができるのである。

 



[1]2 東京都の新都庁舎の完成で、その新しい姿が完成したといえるだろう。

[2]3 槙文彦

[3]  大高正人

[4]5 羽仁五郎

[5]6 一九〇一~八三年。歴史学者。旧姓・森。一九二一(大一〇)年東大独法科を中退して渡欧,ハイデルベルク大で歴史哲学を学び,大内兵衛、三木清らと親交を深めた。二四年帰国、二七(昭二)年東大国史学科卒。自由学園(    ライト設計)創立者の子、羽仁説子と結婚。束大史料編纂所等を経て、二八年日大教授となり史学科を創設した。同年一〇月、三木清とともに雑誌『新輿科学の旗のもとに』を創刊。二九年 〇月プロレタリア科学研究所の創立に参加、雑誌『ブロレタリア科学』に合流した。『転形期の歴史学』(二九年)、『歴史学批判序説』(三二年)。さらに野呂栄太郎を助けて『日本資本主義発達史講座』七巻(三二一三三年)の刊行に尽力。三三年治安維持法違反で逮捕され、日大を辞す。『明治維新』(三五年)、『白石・諭吉』(三七年)『ミケルアンジヱロ』(三九年)など。四五年三月北京で逮捕され、敗戦後の四五年九月まで在獄。『日本人民の歴史』(四九年)『都市』(四九年)『羽仁五郎歴史論著作集』四巻(六七年)『羽仁五郎戦後著作集』三巻(八〇~八一年)。。

[6]7 頚草書房、一九六七年。

[7]8 ホームレスのこと。

[8]9 「炭住スラム」、『in』9号、一九八一年一二月。

[9]10 「地域空間の古層」、『in』  号、一九八二年三月。

[10]11  大原幽学

[11]12 鹿島神宮