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2023年12月11日月曜日

都市組織の世界史―イスラーム都市の構成原理―、地球文明学会、20170417

都市組織の世界史―イスラーム都市の構成原理―、地球文明学会、20170417

都市文明 の起源や歴史における都市の役割についてのお話ならどれも関心はあるのです 
が、布野さんが現在進めておられる世界都市比較もお聞きしたいことの一つです(柳澤先生)
 

布野先生にお教えいただきたいことを以下に記述します。

布野先生のご著書「ムガール都市」のなかで、以下が記述されています。

1;「イスラーム都市原理は有機都市である」

2;「イスラームは基本的には都市全体の具体的な形態に関心を持たない」とされています。

3;「イスラーム都市の都市計画において、部分(身近な居住区・街区)からの街づくりが主体で、全体(マスタープラン)から部分を考えることはない」

 「全体が部分を律するのではなく、部分を積み重ねることで全体が構成される」

4;「都市の公(公共施設)をつくるのに、ワクフ(寄進)財で建設する」

以上の論点とイスラーム都市の原理の追及は、私のように都市計画をしているものにとっては、素晴らしい卓見であります。そこでなぜこのような都市原理が生まれたのかについて、いくつかの質問をさせていただきたく存じます。

1;イスラーム都市の特徴は、迷路と細かい街路からなる、密集状況の住まい方です。なぜ、このような高度密集迷路型の街区で、安定し安全な都市共同体が維持されているのかが、不思議です。また、この高度密集迷路街区に、様々な宗教が異なる人々が仲良く同居しているのはどういう背景があるのでしょうか。いま、トランプ大統領の出現や、EUでの移民族排斥運動が盛んになってきました。異質なものの共存が都市の機能の一つですが、それが受け入れない状況になっています。イスラーム都市が、異質を共存という形で受けいれ、しかも西欧の幾何学的都市(例えば見通し)とは異なる安定し平和な高度密集迷路型の街区を作り上げた原理は何でしょうか。都市の形態、規模、都市人口、都市人口密度、建築密度、都市機能、経済などの指標は、都市の発展進化指標として有効な尺度でしょうか。

2;「イスラーム都市原理は有機都市である」とされていますが、有機体ということは、生物の生命体モデルに近いという意味でしょうか。もし、生物モデルとすれば、イスラーム都市は、都市の発展(巨大化、膨張、拡ネットワーク的拡張)を生物進化という視点でとらえることができるということでしょうか。

3;都市という実態は、国家とどのような関係があるのか。イスラーム帝国が拡張膨張・拡張・巨大化していく過程で、イスラーム都市化は、帝国化のなかでどのような位置にあったのでしょうか。帝国化と都市化との関係で、イスラーム文明圏での、都市の挙動について、お教えいただければありがたいです。

4;ワクフでの都市の公を作る論理は、現代都市で進行している従来の役所が作るマスタープランによるまちづくり、すなわち全体から部分への志向に疑問を抱かせます。と同時に、藤本様が進められているバイオマスでの共同体づくりや、近藤様の省エネルギー都市などの都市の部分から都市全体を変えていく手法に、大きな勇気を与えるものですし、住民参加の効力も明らかです。私のゼロエミッションの街づくりも大きな励みになります。このような戦略(部分から全体)は地球規模の環境問題(地球温暖化など)に直面している地球文明に新しい文明の姿を描く契機になります。高谷様の守山への確執もそこにあるのではないか。世界単位論も、同じ思潮だと思います。石油・石炭を使い続けている限り、グローバル経済は、地球温暖化をもたらし、水不足、インフラがだめになり、食糧生産が困難になり、格差を助長し、飢餓と感染症と戦争を世界に蔓延していくでしょう。巨大な文明の中に、小さな自立したバイオマス文明をつくることは、ワフクのような部分から公共を作り出し、全体を構造改革する手法に学ぶ必要があります。このような手法がいかに未来の文明に普遍性を持つかが、今後の地球文明学の大きな課題だと、勝手に思い込んでいます。ワフクの方式が、世界のスタンダードになることができないでしょうか。お教え願いたいです。

以上です。都市とは何かについて、亡き高谷様からむつかしい宿題をいただいておりますが、なかなか容易に解けません。布野先生のイスラーム都市に大きな感銘を受けました。お話をお伺いできることを楽しみにしています。吉村元男


 

 

2回 地球文明学会で高谷が発言したこと

 

20151110

高谷好一

 

 都市とは何かということだが、抽象的に議論するとわかりにくくなる。皆がそれぞれに違った都市を想像して、それで議論して、混乱が起こる危険がある。

 それで、私の提案は、具体的な都市を並べてみて、それで都市とはこういうものだというのを前にして、そこから議論したらどうかと思う。

 そのとき、二つの方法があるが、人類史の中で実際に存在した都市を縦に並べてみることだ。例えば、紀元前3000年頃のメソポタミアの都市、それから紀元前後のギリシアやローマの都市、もっと後になって現れるイスラームの都市、それからヨーロッパの都市、特に産業革命後の都市、それから今日の東京のような大都市。それを一度、縦に並べてみる。しかし、たぶんこれでも都市の一部しか出ていない。だから本当は、いくつかの生態区を想定して、それぞれの生態区における都市の歴史を定義する。例えば、砂漠・オアシス地帯には、どのような都市が生まれたのか?東南アジアのような森の多い多島海では?あるいは日本のような稲作をやる盆地では?などと並べてみて、生態という横軸と歴史という縦軸の中で都市群のマトリックスを作ってみると、よくわかるのではないかと思う。皆、共通したイメージを持つことができて、議論がしやすい。もっとも、この作業自体が大変な作業になるのだけど。

 『野生が都市を救う』は素晴らしかった。ずいぶん前に出版されているのだが、今読んでも新しい。言い出したのが早すぎて、当時はあまり売れなかったのではないかと思った。

 ところで、本の主張の一つが、「都市の中に自然を作ろう」ということだったと思うが、私は「なるほどな」と思った。都市はあまりにも人工物に満ち満ちていて、殺風景すぎる。何とかしてもう少し自然を入れなきゃいけない。と同感した。

 しかし、すぐ後にこんなふうにも思った。「俺の住んでいる守山のあたりの田舎のことが忘れられているのではないか」。都市はどんどん大きくなっている。やがて、地球全体が都市になってしまうのではないか。少なくとも、平野部は全部都市になる。そんなときには、中自然をわざわざ作るよりも、今ある田舎を中自然として積極的に活かした方が手っ取り早いのではないか?そんな、いささかいじわるなことを考えた。

 東南アジアの森の人たちは、本当に多くの植物の名前などを知っている。その用途を知っている。これは腹痛の薬だとか、これは蛇に噛まれたとき傷口に塗ればよいとか。その知識は多様で深い。森の中で木や草とともに、それを十分に利用して生きている、といってよいかと思う。その知識は私たちが本で読んだものの何百倍もある。

 彼らはまた、森の中で迷ったりしない。私たちは地図とコンパスをもって森に入り、それでも迷って慌てふためき、パニックに陥る。しかし、彼らはそんなことはない。仮に一時k迷ったとしても、2、3分すると自分がどこにいるのかを知り、行くべき方向をちゃんと見出す。これは彼らが「物語」の地図を頭の中にもっているから。この木は村で一番大事にしているドリアンの木だ、とか、この背面にべったり苔の生えた岩は、昔から化け物の住処とされているところだとか。この小さな流れは、魚毒草がたくさん採れる小川だとか、森に散らばっている木や岩や泉や流れなど、あらゆるものに物語があって、それでたとえ一瞬自分の居場所がわからなくても、すぐに物語の地点を見つけ出し、そこからは安心してその物語の途をたどって行く。

 この「物語」の地図は、単に標高や距離だけが無機的に示されているのではなく、それにまつわる一連の話があって、それは昔からの言い伝えや、場合によっては見えない地下の話にまで広がるものなので、それは豊かで深いものである。東南アジアの人たちはそういう世界に住んでいる。日本の団地に住んで、地面とも木とも草とも、隣人とさえ切り離された生活をしている人と比べると、その豊かさは何万倍もあるといってよいのだと私は思っている。

 田舎がよいのは、そこには汲めども尽きぬ「物語」があるからだ。例えば、「この杉の木には天狗が住んでいた」とか、「この松の木には五寸釘が打ちつけられていた」とか、「この小溝沿いには細道があって、お宮に集まった一行が列を作ってお伊勢参りに行ったのだ」など、いっぱいある。お宮だけではない。ちょっとした曲がり角や道傍にころがっているような地蔵さんにも、あるいはもっと新しい消防ポンプ小屋にも、供出米の検査場にも、みな物語がある。これらの物語は、住民がみな知っている。小さな話で、それ自体大きな論理や思想につながるものではない。しかし、皆でそれを共有しているということは、大変なことなのだ。そんなことは、学校での教育や読書からは得られないものだ。長い歴史をかけて、共にその地に住んできたということの中で出来上がったものだ。土地の文化、土地が持っている物語というものだ。

 たしかに、団地にも物語はあろう。町に作られた公園にも物語は作られよう。しかし、それが本当の「物語」になるには、やっぱり時間がかかる。何百年という時間がかかる。中にはこの社会に染み込んだ「時間」がある。

 私自身が田舎に住む人間として、この田舎に何を感じているのか、どう見ているのかを言わせてもらいたい。それは納得の世界だということ。私の母などは納得して死んでいった。私の母の人生は決してよいことばかりではなかった。没落したので、大変な貧乏だったし、それで京都に女中に出ていた。生まれ故郷に帰っても、苦しい生活ばかりだった。そんな中で近所の人たちや親せきたちともよくいさかいもあったようだ。もちろん、楽しいこともあった。要するに、このあたりの普通の田舎の社会の例にもれず、相互監視の中で、それでも精一杯、なるだけ楽しく生きてきたようだ。

 年老いてからは、私と二人だけの生活が長く続いた。その頃は、もう90歳を過ぎていたが、天気が良いと、毎日屋敷の草むしりをしていた。1日中していた。ナンマンダブツナンマンダブツと言いながら、草取りをしていた。これは口癖だけで、決して素晴らしい仏教信者というのではなかった。私はそれをよく知っている。仏教の教えではないが、何か独特の安堵心のようなものをもっていた。それをもって、ただ口癖のナンマンダブツを繰り返して、ひたすら草むしりをしていた。草に話しかけているようでもあり、自分の一生を思い出しているようでもあった。

 そんな母を見ていて、いつも私は思っていた。「おふくろは、納得の人生を送ったな」ということ。苦しかったことも楽しかったこともみな昇華してしまって、ただ「これで良かったのだ。おかげさまで。ナンマンダブツ、ナンマンダブツ」と言っていたようだった。

 田舎に生きるというのは、こういうこと。そこにある「物語」の中に自分も溶け込んでしまって、一生を終えるということ。ここにあるのが、「納得の世界」。

 私は土「土地の主」というのを自分自身の分担する研究の中心に据えたいと思っている。もともとは、その土地の本当の持ち主は誰なのか、ということをはっきりさせることだ。ご先祖様であるのかもしれないし、自分たちとは無関係の先住者がいて、その人の魂が土地に染み込んでいて、これを「土地の主」と私自身が感じているのかもしれない。

 この「土地の主」という言葉は東南アジアではよく聞く言葉だが、最近ではラオスで聞いた。ラオ人の村に行くと、たいてい社があって、「プー・ター」を祀っていると話してくれた。多くの場合、クメール人だ。彼らが入植してくる前には広くクメール人がいて、その人たちの魂がこの土地にはこびりついている。粗末に扱うとたたられる。だが、大事にすると守護神になる」という。この種の「土地の神」が今の時点での私の最大の関心事だ。

 ただ、この「土地の主」は全世界的にあるものではないのかもしれない。私のいう「生態型世界単位」の範囲、すなわちもともと森林の卓越していたところだけにあるものなのかもしれない。たぶん、砂漠地帯などにはないだろう。欧米にもない可能性がある。森といっても北の森は東南アジアの森と違って、オオカミとクマのいる森だ。草・木の卓越する南の森とは違う。それに、北の森にはキリスト教が早くから入り込んでしまった。地球文明を考えるとき、やはり私としては生態区を抜きにしては考えらえないように思う。

 

【お酒をのんだとき、吉村が言ったこと】

 「野生→コモンズ」という言葉をキーワードにしてきた。

 コモンズの次のキーワードを考えねばならない。皆で考えよう。「コスモロジー」というのが一つの案かと思う。

 この研究会では、できたら具体的なプロジェクトをやってみたい。例えば、内湖を復活して「本当にきれいな湖畔を作り出す」ということを具体的にやってみることだ。














































PFI(「総合評価」)による事業者(設計者)選定方式  建築のあり方研究会編:建築の営みを問う18章,井上書店,2010年

  建築のあり方研究会編:建築の営みを問う18章,井上書店,2010


PFI(「総合評価」)による事業者(設計者)選定方式

布野修司

「世界貿易機構(WTO)」案件はもとより、国の事業は、既に「PFIPrivate Finance Initiative)」事業が主流となっており、公共事業の事業者選定におけるPFI方式は着実に定着しつつある。国あるいは地方公共団体が、事業コストを削減し、より質の高い公共サービス提供する(安くていいものをつくるという「説明責任」を果たす上で極めて都合がいいからである。第一に、PFI事業は、事業者選定の過程について一定の公開性、透明性を担保する仕組みをもっているとされる。第二に、国あるいは地方公共団体にとって、設計から施工、そして維持管理まで一貫して事業者に委ねることで、事務作業を大幅に縮減できる、第三に、効率的な施設管理(ファシリティ・マネージメント(FM))が期待される、そして第四に、何よりも、設計施工(デザイン・ビルド)を実質化することで、コスト削減が容易となる、とされる。しかし、「説明責任」が果たせるからといって、「いい建築(空間、施設)」が、実際に創り出されるかどうかは別問題である。

 

日本のPFIPrivate Finance Initiative)法は、欧米PFIでは禁止されている施設整備費の割賦払を禁止していないばかりかむしろ割賦払いによる施設整備を促進しており、財政悪化の歯止めをはずした悪法となっていることなど[i]、その事業方式そのものの問題はここでは問わない。事業者(特別目的会社SPC)および設計者の選定に関わる評価方式を問題にしたい。決定的なのは、地域の要求とその変化に柔軟に、また動態的に対応する仕組みになっていないことである。

 

BOTBTO

 公共施設整備としてのPFI事業が、BOT(建設Build→管理運営Operate→所有権移転Transfer)か、BTO(建設→所有権移転→管理運営)かは、建築(空間)の評価以前の問題である。

PFI事業がBTOに限定されるとすれば、設計施工(デザイン・ビルド)とほとんど変わらなくなることは容易に予想される。すなわち、設計施工の分離をうたう会計法の規定?をすり抜ける手段となりかねない。

SPCは、民間企業として、事業資金の調達および建築物の設計・施工・管理を行い、さらに、その運営のための多くのサービスを提供するのに対して、公共団体は、その対価を一定期間にわたって分割して支払うのがPFI事業の基本である。地方公共団体にとって、財源確保や管理リスクを回避できることに加え、契約期間中に固定資産税収入があることで、メリットが大きい手法となるはずである。問題は、民間企業にとって、どういうメリットがあるかである。PFI事業の基本的問題は、すなわち、公民の間の、所有権、税、補助金などをめぐる法的、経済的関係、さらにリスク分担ということになる。

公には「施設所有の原則」があり、「施設を保有していないのに補助金は出せない」という見解、主張があった。公的施設の永続性を担保するためには公による所有が前提とされてきたからである。実際は、BTO方式によるPFI事業にも補助金を出すという決定(補助金交付要項の一部改正)がなされることになる。SPCにとっては、補助金がないとすれば、メリットは多くはない。BOT方式のPFI事業では、所有権移転を受けるまでの30年間(最近では10年~20年のケースが増えつつある)は、SPCの所有ということになる。従って、SPCは税金を払う必要がある。これではSPCにはさらに魅力がないことになる。

実際上の問題は、公共施設のプログラム毎にケース・バイ・ケースの契約とならざるを得ない。「利益が出た場合にどうするか」というのも問題であるが、決定的なのは「事業が破綻した場合に、その責任をどのようにとるか」である。契約をめぐっては、社会的状況の変化をどう考えるかによって多様な選択肢があるからである。公共団体、SPC、金融団等の間に「秘密保持の合意」がなされる実態がある。破綻した際の責任をだれが取るのか、建築(空間)の質の「評価」の問題も同じ位相の問題を孕んでいる。

 

責任主体 

PFI事業によって整備される公共施設の「評価」を行い、SPCの選定に関わる審査機能をもつ委員会は基本的に法的な権限を与えられない。従って、責任もない。これは、PFI事業に限らず、様々な方式の設計競技においても同様である。また、審査員がどのような能力、経験、資格を有すべきかどうかについても一般的に規定があるわけではない。

地域コミュニティや自治体に属する権限を持った「コミュニティ・アーキテクト」あるいは「タウンアーキテクト」、また法的根拠をもってレビューを行う英国のCAVE(Committee of Architecture and Built Environment)のような新たな仕組みを考えるのであれば別だが、決定権は常に国、自治体にある。都市計画審議会にしろ、建築審議会にしろ、諮問に対して答申が求められるだけである。

日本の審議会システム一般についてここで議論するつもりはないが、PFIをうたいながら、すなわち民間の活力、資金やノウハウを導入するといいながら、審査員には「有識者」として意見を言わせるだけで、予め設定した枠組みを全く動かさないという場合がほとんどである。

「安くていいものを」というのが総合評価方式であり、一見オープンで公平なプロセスであるように見えるが、プロジェクトの枠組みそのものを議論しない仕掛けが「審査委員会」であり、国、自治体の説明責任のために盾となるのが「審査委員会」である。

予め指摘すべきは、地域住民の真のニーズを汲み上げる形での公的施設の整備手法は他にも様々に考えられるということである。

 

プログラムと要求水準

公共施設整備の中心はプログラムの設定である。しかし、公共施設は様々な法制度によって様々に規定されている。施設=制度institutionの本質である。

民間の資金やノウハウを活用することをうたうPFI事業であるが、予め施設のプログラムは、ほとんどが「要求水準書」によって決定されている。この「要求水準書」なるものは、多くの場合、様々な前例や基準を踏襲してつくられる。例えば、その規模や設備は現状と変わらない形で決められてしまっている。また、容積率や建蔽率ぎりぎりいっぱいの内容が既に決定されており、様々な工夫を行う余地がない。極端に言えば、あらたな質をもった建築空間が生まれる可能性ほとんどないのである。

「要求水準書」は、一方で契約の前提となる。提案の内容を大きく規定するとともに、審査における評価のフレームを大きく規定することになる。すなわち、公共施設の空間構成や管理運営に地域住民のニーズを的確に反映させる仕組みを予めPFI事業は欠いているといっていい。参加型のワークショップなど手間隙はかかるけれどもすぐれた方法は他にある。

 

総合評価

公共施設整備の核心であるプログラムとして、設計計画のコンセプト、基本的指針が本来うたわれ、建築的提案として競われるべきである。そして、公的な空間のあり方をめぐってコンセプトそのものが評価基準の柱とされるべきである。あるいは、コンセプトそのものの提案が評価の中心に置くべきである。しかし、コンセプトはしばしば明示されることはない。PFI事業においては、「総合評価」方式が用いられるが、「総合評価」といっても、あくまで入札方式としての手続きのみが問題にされるだけである。

問題は、「総合評価」とは一体何か、ということになる。

A 評価項目とそのフレーム

多くの場合、審査員が参加するのは評価項目とその配点の決定からである。予め「先例」あるいは「先進事例」などに倣った評価項目案が示され、それを踏襲する場合も少なくない。すなわち、国あるいは地方公共団体の「意向」が反映されるものとなりやすい。

問題は、建築(空間)の質をどう評価するか、であって、そのフレームがまず審査員の間で議論されることになる。ここで、審査員によって構成される委員会におけるパラダイムに問題は移行することになる。例えば、建築を計画、構造、設備(環境工学)、生産といった分野、側面から考えるのが日本の建築学のパラダイムであるが、一般の施設利用者や地域住民にそのフレームが理解されることは稀である。「要求水準書」を満たすことは、そもそも前提であり、しばしば絶対条件とされる。審査委員会の評価として「プラス・アルファ」(それはしばしば外観、あるいは街並みとの調和といった項目として考慮されようとする)を求めるといった形でフレームが設定されるケースがほとんどである。

B ポイント制

フレームはフレームとして、提案の全体をどう評価するかについては、各評価項目のウエイトが問題となる。各評価項目を得点化して足し合わせることがごく自然に行われる。複数の提案から実現案1案を選ぶのであるから、審査員が徹底的に議論して合意形成に至ればいい(文学賞などの決定プロセス)のであるが、手続きとしてごく自然にこうしたポイント制が採られる。審査員(専門家)が多数決によって決定する、またその過程と理由を公開する(説明責任を果たす)のであればいいのであるが、ポイント・システムは、例え0.1ポイント差でも決定理由となる。建築の評価の本質(プログラムとコンセプト)とはかけ離れた結論に導かれる可能性を含むし、実際しばしばそうしたことが起こる。

各評価項目もまた、客観的な数値によって評価されるとは限らないから、多くの場合、相対評価が点数による尺度によって示される。個々の審査員の評価は主観的であるから、評価項目ごとに平均値が用いられることになる。わかりやすく言えば、平均的な建築が高い得点を得るのがポイント制である。

建築の評価をめぐる部分と全体フレームをめぐる以上の問題は「建築」を専門とする専門家の間でのパラダイムあるいはピア・レビューの問題であるといってもいい。

C 建築の質と事業費

「安くていいものがいい」というのは、誰にも異を唱えることができない評価理念であるが、「いい」という評価が、Bでの議論を留保して、点数で表現されるとして、事業費と合わせて、総合的にどう評価するかが次の問題である。

建築の質に関わる評価と事業費といった全く次元の違う評価項目を比較するとなると、点数化、数値化は全く形式的なものとならざるを得ない。そこで持ち出されるのが実に単純な数式である。

事業費を点数化して、建築の質の評価に関わる点数と単純に合わせて評価する加算法と、質は質として評価した点数を事業費で割って比べる除算法が用いられているが、数学的根拠はない。極めて操作的で、加算法を採る場合、質の評価と事業費の評価を5:5としたり、4:6にしたり、3:7にしたり様々である。除算法を採る場合、予め、基本事項(要求水準)に60%あるいは70%の得点を与える、いわゆる下駄が履かされる。基本的には、質より事業費の方のウエイトを高くする操作と考えられても仕方がない。

単純に事業費のみとは限らない。SPCの組織形態や資金調達能力などが数値化され、係数を加えたりして数式が工夫される。

事例を積み重ねなければ数式の妥当性はわからないというのが経営学の基本的立場というが、建築の質の評価の問題とはかけ離れているといわざるを得ない。

地方公共団体の施策方針と財務内容に基づいて設定された事業費に従って、施設内容、プログラムを工夫するやり方の方がごく自然である。

D 時間的変化の予測と評価

事業費そのものも、実は明快ではない。いわゆる設計見積を評価するしかないが、設計・施工のための組織形態によって大きな差異がある。そして何よりも問題なのは、時間の変化に伴う項目については誰にも評価できないことである。維持管理費やランニング・コストについては、提案書を信じるしかない。

結局は、予測不可能な事態に対処しうる組織力と柔軟性をもったSPCに期待せざるを得ない、ということになる。

事後評価

PFI事業の事業者選定委員会は、設計競技の審査委員会も同様であるが、多くて数回の委員会によってその役割を終える。当初から事業に責任がないことは上述の通りであるが、事後についても全く責任はなく、なんらの関係もない。そもそも、PFI事業は一定の期間を対象にしているにも関わらず、事後評価の仕組みを全く持っていない。

事業の進展に従ってチェックしながら修正することが当然考えられていいけれど、そうしたフレキシビリティをもったダイナミックな計画の手法は全く想定されていない。

 

以上、PFI事業による公共施設整備の問題点について指摘してきた。透明性の高い手法として評価されるPFI事業であるが、実は、建築(空間)の評価と必ずしも関わらない形式的手続きによって事業者が決定されていることは以上の通りである。PFI事業の制度は、結局は事業費削減を自己目的化する制度に他ならないということになる。「いい」建築を生み出す契機がそのプロセスにないからである。少なくとも、地域住民のニーズに即した公共建築のあり方を評価し、決定する仕組みを持っていないことは致命的である。

問題点を指摘する中でいくつかのオールタナティブに触れたが、「コミュニティ・アーキテクト」制の導入など、安くていい、地域社会の真のニーズに答える仕組みはいくらでも提案できる。要は、真に「民間活力」を導入できる制度である。

4800字 4p



[i] 割賦払いの契約を締結すると公共には施設整備費を全額支払う義務が生じ、施設の瑕疵担保リスクを超えた不具合リスクを民間に移転することが出来なくなるというデメリットが生じる。そして、公債よりも資金調達コストの高い民間資金を利用して施設を整備する合理的な理由がなくなる。


大腸癌 退院後 2度目の診断 

 朝、5:00起き

7:00に家を出ようと思ったら、ストーマ漏れ!

慌てて取り換える。

朝は危ない。

7:50分について、血液検査、9:20の大塚先生の診断 5分

しかし、会計に一時間待ち。操作を間違った可能性。売店でテープを5個買う。

西国分寺にバスで帰って、歩いて家へ。美智子からSMS、何か買って帰るように。いなげやによって寿司、氷結。11:15には着く。

来年は、1月9日。