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2022年11月8日火曜日

建築の磁場 国際化の時代,建築文化,彰国社,198801

国際化の時代,建築文化,彰国社,198801

 一九八七年の建築界を振り返って最も大きな出来事は何かと聞かれれば、やはり「新日本建築家協会」(JIA)の結成を挙げるべきであろうか。あるいは狂乱地価の土地問題を挙げるべきであろうか。決して少なくない力のこもった作品が生み出される一方で、建築と建築家を支える基盤をめぐって、何やらあわただしく揺れ動いた一年であった。

 しかし、「新日本建築家協会」にしろ、土地問題にしろ、まともな議論が建築家の間でなされてきたかというといささか心もとない。土地問題については「蘇る黄金の六〇年代」*[i]で若干触れる機会があったが、建築雑誌にはなじまないのか、ほとんど論考がない。『建築雑誌』の特集「土地と建物」*[ii]がほとんど唯一のまとまったものではないか。西山夘三の「建築家は再び吹きすさぶ国土破壊の『列島改造』に加担してよいのか」*[iii]、あるいは鈴木博之の「義をもって利を制すべきもの」*[iv]などが目立つ程度である。

 新聞・テレビ・週刊誌などが連日のように土地問題を取り上げてきたから、それでいいというわけにはいかない。建築、都市計画の分野であれば独自に、しかもいち早く取り上げてしかるべき問題である。建築にかかわるメディアがほとんど対応しえなかったことは、その体質を示している。大いに反省すべきであろう。都市計画有志の緊急アピール(代表大谷幸夫)が出されているけれど、今のところそうした動きも取り上げようとしないのは、どうしたことであろうか。

 もっとも、問題はすでに政治的、経済的、社会的にグローバルな問題となりつつあり、広い視野において論考すべき大問題となっているといるかもしれない。しかし、少なくとも、建築や都市計画の現場で何が起きつつあるかについては、しっかりと論ずべきだ。問われているのは、もとより土地と建物の関係のあり方をめぐる、いってみれば哲学である。建築や都市計画、社会工学の分野をも大きな母胎として不動産学会が設立され、不動産学(科学)科や不動産学部の構想が叫ばれているのも、それゆえにである。また、土地と建物をしっかりした理念に基づいてトータルに扱う分野や職能が、必要とされつつあるともいえる。

 ところで、「新日本建築家協会」については、その設立をめぐっていくつかの記事や論文、座談などがある。しかし、そのほとんどは設立にかかわる当事者によるものであり、それに対する反応は今のところ少ない。日本建築家協会と日本建築設計監理協会連合会が母胎となって、「新日本建築家協会」が設立されたのは一九八七年五月のことであるが、それに先立って、その結成が公になったのは年の初め頃にすぎない。丹下健三による「職能建築家の団結を目差す なぜ、いま、建築家の職能理念に基づく新団体が必要なのか」*[v]が公表されたのがそうである。新団体結成の動きは二年ほど前からあったというが、一般に公表されてから結成までほんの短期間である。丹下論文の結びには、「新しい年を迎え、これまで新団体の定款(案)、会員・会費制度などを検討して参りました両協会の合同組織を発展的に解消して、新たに両会の境のない「新団体設立準備会」を設置し、新団体とその社団法人化を四月までに設立することを目標に、広くそれへの参加を呼びかけるキャンペーンを始め、これまでの準備・検討の結果を早急に具体化させる作業に取り組んで参ります」とある。少なくとも外部の人間にとって、実にあわただしい設立だったように見える。

 新団体の設立についてのリアクションが少ないのは、その設立があまりにもあわただしく、議論をつくす余裕がなかったからである。しかしそれにもまして、なぜ、日本建築家協会と日本建築設計監理協会連合会を核とする大同団結が今必要なのか、一般にはピンとこないことが大きいのではないか。

 職能の確立をうたう設立趣旨は、ことさら目新しいわけではない。中心的な理念とされているのも、歴史的に争われてきた兼業の禁止を骨子とするものである。なぜ、いま、大同団結なのかについて、専業建築家の協会の会員数がこれまで少なかったからという説明がなされる。しかし、なぜ、これまで日本建築家協会の会員数がわずかに一、二〇〇人であったのかという説明はない。建築士の数が二〇万人(一級建築士)あるいは七〇万人(一、二級建築士)というのは多すぎるのだというが、多すぎる建築士はどうなるのか。設計施工との関係はどうなるのか。日本建築士連合会(士会)、日本建築士事務所協会連合会(日事連)と「新日本建築家協会」は三極構造を形成していくのだというが、その三極構造というのは一体どのようなものか。解せないことが多い。

 丹下論文においては国際化という要因(「国際化しつつある環境のなかで、国際的な慣例やスタンダードに適合した、内外からの信頼を受けるに足る建築家の職能団体が必要性が痛感される」)と、都市の大規模な整備や改造に対応するだけの体制の必要性という要因の二つが挙げられるが、心ずしも具体的ではない。関西新空港や東京改造の大プロジェクトがイメージされているとすれば、一部特権的な建築家のみのための団体設立であるような印象がしないでもない。いずれにせよ、なぜ、いま、大同団結についての具体的な背景が一般に明らかでないことが、今のところ大きな議論を生まない理由なのである。

 いまここで、「新日本建築家協会」をめぐってあれこれと評論するのは差し控えたい。乱れ飛ぶよく臆測をもとに論じることはできないし、しばらくその経過も見る必要があろう。建築、都市計画の分野にかかわる人々との編成の問題として、いずれじっくり論じてみたいと思う。

 いうまでもなく、「新日本建築家協会」をめぐる問題は、歴史的な大問題である。すでに膨大な議論の蓄積もある。「新日本建築家協会」が発足当初においてすでに多くの問題を抱えていることは、例えば西和夫が会費規定の複雑さを挙げながら鋭く指摘しているところである*[vi]。建前やきれいごとでなく、それぞれの立場から本音の議論が展開されることを期待したい。

 さらに一九八七年を振り返って、もう一つ大きな出来事を挙げるとすれば、国際居住年(International Year of Shelter for the Homeless)に関する一連の催しを挙げるべきではなかろうか。一九八七年は、国際居住年(IYSH)ということで実に多彩なイベントが行われた。各自治体が主催する一五〇を超えるシンポジウムが行われたし、マスメディアも一年を通じてさまざまなキャンペーンを展開した。

 しかし、多くの催しが果たして国際居住年にふさわしいものであったかというと、相当あやしい。それ以前に、一九八七年の出来事を確認するためにいくつかの建築雑誌のバックナンバーを見直してみて、いささか驚いた。ニュース欄を含めて、国際居住年はほとんど扱われていないのである。そしてまた、その本来の趣旨に沿った企画は少ないのである。折からの、土地問題・住宅問題の狂騒に紛れてしまった気がしないでもない。ひどいことに、単なる住宅フェアにすぎないものも少なくない。国際居住年も、日本においては住宅問題一般に解消されてしまったというのが、実のところではないか。その日本語訳が、当初からそれを暗示していたのといわねばならない。

 繰り返すまでもなく、国際居住年の大きな焦点は、ホームレスのための住まいにある。日本においては、住宅取得難のわが身や、ローン地獄の自身をすんなりホームレスになぞらえてしまったということもあるが、グローバルに主題とされるべきは発展途上地域のホームレスである。また、日本においても真の(?)ホームレスや住宅困窮者が、しっかりと問題の中心に据えられるべきであった。しかし、そうした本来の主旨が実に希薄であったのが、日本の多くの催しである。

 そうしたなかで、もちろん、その本来の主旨に沿った企画や催しもなくはない。年の終わりに近く、おそらく国際居住年に最もふさわしいと思われる国際シンポジウムが開かれた。「女性・居住・アジア 新しい住まいと暮らしを求めて」と題された〈かながわ国際フォーラム〉*[vii]が、そうである。

 この国際フォーラムが興味深いのは、焦点をはっきりとホームレスの問題に据えている点であることはいうまでもないこととして、男ー女、都市ー農村、日本(先進諸国、北)ーアジア(発展途上国、南)という三つの対立図式を取り出して基本フレームとしている点、特に女性のイニシアチブを打ち出している点、海外からの参加者のほとんどが非政府機関(NGO)を活動の拠点としている点、すなわち、草の根レヴェルの交流が中心に据えられている点、建築、都市計画のみならず、援助、南北問題にかかわる分野から広くパネリストを招いた点などである。その詳細は、主催者による報告書や「国際居住年・江の島アピール」(八七年一一月一五日)など*[viii]にゆずらねばならないが、パネラーとして参加する機会を得て実に大きな刺激を受けた。以下に、国際居住年の総括の意味を含めて、いくつか書きとめておきたい。

 ここで問題としたいのは国際化という課題、あるいは国際交流とは何かという問題である。考えてみれば、土地問題も国際的経済的関係のなかで求められる内需拡大の必要性によって引き起こされたという見方がある。また、東京が国際的な金融センターとなる過程でのオフィス需要が、地価狂乱を招いたともいわれる。全面的な要因とはしがたいが、国際化する都市と土地問題の連関は指摘できる。また、「新日本建築家協会」の結成が本当に国際化という外圧をモメントとするのであれば、ここでも国際化というテーマが浮かび上がってくる。上記のフォーラムにおいて、僕は、日本の都市の国際化というテーマを与えられて、寄せ場労働者というホームレスの問題と外国人労働者の問題を報告したけれど、建設業の労働現場においてはすでに国際化が現実の問題となりつつある。にわかには断じがたいが、時を経れば、建築界における新団体結成も、日本社会の国際化というインパクトにおけるその再編成の動きとして位置づけられるかもしれない。そうだとすれば、一九八七年は国際化というテーマが鋭く浮かび上がった年ということになろう。

 それはともかく、先の〈かながわ国際フォーラム〉において、最終的に激しい議論になったのは、一つ一つ問題を解いていくために具体的にどう行動するのかという点である。フォーラムにおいてまず確認されたのは男ー女、都市ー農村、日本ーアジアという対立構造が極めて複雑に絡み合っているということである。日本の問題とアジアの問題を切り離して考えることができないことは、フォーラムでも激しい告発があった。日本の住宅資材として木材が例えば東マレーシア(サラワク、サバ)から輸入され、その環境を決定的に破壊しつつあることを想起すれば、容易に(少なくとも頭では)理解することはできよう。また、日本の寄せ場労働者とアジアからの移民労働者との競合関係を考えてみれば、その二重、三重の構造を理解することができるはずである。

 そうした構造を具体的な事例において認識することは、極めて貴重である。そして、それぞれの経験を交流することは極めて大切なことである。しかし、具体的にはどのような行動が可能か、どのような日常的活動を行うのかということは、そう容易なことではない。フォーラムにおいて、最終的に問われたのはそこである。

 国際化一般の問題ではなく、居住問題についての具体的なアクションに関する議論ではあるが、その結果としてまとめられた指針は、次のように言い表された。すなわち、地域を考え、広く国際的に行動すること(Think locally and act globally) そして広く国際的に理解し、地域で行動すること(Think globally and act locally) である。日本社会が国際化していく過程で、おそらく上で言い表されるような行動形式がさまざまなレヴェルで、それぞれに要求されるのである。

 蛇足ながら私見を付け加えれば、具体的な行動において国家という枠組みは必ずしも必要ではないであろう。もちろん、国というフレームを前提とした国際交流もさまざまに追求されなければならないであろう。しかし、上の簡潔なスローガンにおいて前提されているのは、あくまでも地域における日常の活動であり、相互学習、経験交流によるダイナミックな運動が重要であるということである。〈かながわ国際フォーラム〉においても、数多くの提言がなされた。例えば、パネリストの一人であるアニー・アビヨン女史は、居住環境改善のためのいくつかのの指針を提示した。少なくとも僕にとってそのすべては共有しうるものである。それをまず、自らの日常においてどう生かしていくかが、問われる。そして、それを具体的に展開していくことが、真に他の地域の経験に学ぶということであろう。国家という枠にとらわれず、地域と地域がそうした経験交流を積み重ねていくことが、国際化という課題に応えることになるはずである。

 



*[i]  『建築文化』(八七年九月号)

*[ii]  八七年一一月号

*[iii]  『建築雑誌』、八七年九月号

*[iv]  『新建築』、八七年一一月号

*[v]  『新建築』、八七年二月号

*[vi] 「建築家はいま何を求められているか」『新建築』、八七年九月号

*[vii]  八七年一一月一三日~一五日神奈川県立婦人総合センター 主催 日本居住学会、神奈川県、藤沢市ほか)

*[viii]  『建築雑誌』、八八年一参照)













2022年2月17日木曜日

アンベール城の鏡の間 INAX, 1988

 アンベール城の鏡の間 INAX, 1988

布野修司



 インド・ラージャスターンの州都ジャイプルは、別名ピンク・シティという。町中が赤砂岩色をしているからである。18世紀前半に、すぐれたマハラジャ(藩王)であり、数学者であり、天文学者でもあったジャイ・シンⅡ世によって建設された計画都市だ。町の中央に天文台(ジャンタル・マンタル)が置かれているように、独特のコスモロジー(宇宙観)に基づいたグリッド・プランが面白くてしばらく通った。実に活気に満ちた魅力的な町だ。

 そのジャイプルの北に、デリーへの街道が通る険しい峡谷を睨んだ城塞がある。ジャイ・シンⅠ世が建てた華麗な城、アンベール城である。ジャイ・シンⅡ世はここで生まれた。

 六代皇帝アウラングゼーブが没し(1707年)、ムガール帝国が衰退の坂を転げようとするとき、その栄光を引き継ぐかのような華麗な建築をつくりだしたのがジャイ・シン親子であった。

 めくるめくようなタイルの饗宴である。鏡が多用されているからであろうか、切り立つ山岳城塞という立地のせいであろうか、謁見の間の意匠はデリーやアグラの宮殿よりも幻想的に感じられる。ペルシャ風の庭園が設えられており、ペルシャの影響が見られるのはいうまでもないが、ラージプートの建築的伝統、すなわちヒンドゥー芸術の臭いも濃厚である。あるいは、ムガール・イスラーム建築のバロック化というべきか。

 タイルの技術がイランのカーシャン地方から東西にひろまったことはよく知られているが、インドの石造の伝統においては当然表現は異なってくる。赤砂岩、白大理石をベースとするタージマハールを思い起こしてみればいい。細かい装飾で全ての壁面が覆われるようになる傑作はアグラのイティマード・アッダウラ廟であろうか。アンベール城のタイル装飾はその延長にあるようにも見える。 



 インド・ラージャスターンの州都ジャイプルは、別名ピンク・シティという。町中が赤砂岩色をしているからである。18世紀前半に、すぐれたマハラジャ(藩王)であり、数学者であり、天文学者でもあったジャイ・シンⅡ世によって建設された計画都市だ。町の中央に天文台(ジャンタル・マンタル)が置かれているように、独特のコスモロジー(宇宙観)に基づいたグリッド・プランが面白くてしばらく通った。実に活気に満ちた魅力的な町だ。

 そのジャイプルの北に、デリーへの街道が通る険しい峡谷を睨んだ城塞がある。ジャイ・シンⅠ世が建てた華麗な城、アンベール城である。ジャイ・シンⅡ世はここで生まれた。

 六代皇帝アウラングゼーブが没し(1707年)、ムガール帝国が衰退の坂を転げようとするとき、その栄光を引き継ぐかのような華麗な建築をつくりだしたのがジャイ・シン親子であった。

 めくるめくようなタイルの饗宴である。鏡が多用されているからであろうか、切り立つ山岳城塞という立地のせいであろうか、謁見の間の意匠はデリーやアグラの宮殿よりも幻想的に感じられる。ペルシャ風の庭園が設えられており、ペルシャの影響が見られるのはいうまでもないが、ラージプートの建築的伝統、すなわちヒンドゥー芸術の臭いも濃厚である。あるいは、ムガール・イスラーム建築のバロック化というべきか。

 タイルの技術がイランのカーシャン地方から東西にひろまったことはよく知られているが、インドの石造の伝統においては当然表現は異なってくる。赤砂岩、白大理石をベースとするタージマハールを思い起こしてみればいい。細かい装飾で全ての壁面が覆われるようになる傑作はアグラのイティマード・アッダウラ廟であろうか。アンベール城のタイル装飾はその延長にあるようにも見える。 

2021年7月7日水曜日

アンベール城の鏡の間  INAX

 アンベール城の鏡の間  INAX

布野修司

 






 インド・ラージャスターンの州都ジャイプルは、別名ピンク・シティという。町中が赤砂岩色をしているからである。18世紀前半に、すぐれたマハラジャ(藩王)であり、数学者であり、天文学者でもあったジャイ・シンⅡ世によって建設された計画都市だ。町の中央に天文台(ジャンタル・マンタル)が置かれているように、独特のコスモロジー(宇宙観)に基づいたグリッド・プランが面白くてしばらく通った。実に活気に満ちた魅力的な町だ。

 そのジャイプルの北に、デリーへの街道が通る険しい峡谷を睨んだ城塞がある。ジャイ・シンⅠ世が建てた華麗な城、アンベール城である。ジャイ・シンⅡ世はここで生まれた。

 六代皇帝アウラングゼーブが没し(1707年)、ムガール帝国が衰退の坂を転げようとするとき、その栄光を引き継ぐかのような華麗な建築をつくりだしたのがジャイ・シン親子であった。

 めくるめくようなタイルの饗宴である。鏡が多用されているからであろうか、切り立つ山岳城塞という立地のせいであろうか、謁見の間の意匠はデリーやアグラの宮殿よりも幻想的に感じられる。ペルシャ風の庭園が設えられており、ペルシャの影響が見られるのはいうまでもないが、ラージプートの建築的伝統、すなわちヒンドゥー芸術の臭いも濃厚である。あるいは、ムガール・イスラーム建築のバロック化というべきか。

 タイルの技術がイランのカーシャン地方から東西にひろまったことはよく知られているが、インドの石造の伝統においては当然表現は異なってくる。赤砂岩、白大理石をベースとするタージマハールを思い起こしてみればいい。細かい装飾で全ての壁面が覆われるようになる傑作はアグラのイティマード・アッダウラ廟であろうか。アンベール城のタイル装飾はその延長にあるようにも見える。