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2021年6月3日木曜日

木賃アパート改修戦略―ソーシャルスタートアップの実験 「モクチンレシピ」  進撃の建築家 開拓者たち 第26回 連勇太郎(開拓者31) 川瀬英嗣(開拓者32) 中村健太郎(開拓者33) 山川陸(開拓者34)   NPO法人モクチン企画

 進撃の建築家 開拓者たち 第26回 連勇太郎(開拓者31) 川瀬英嗣(開拓者32) 中村健太郎(開拓者33) 山川陸(開拓者34)   NPO法人モクチン企画 木賃アパート改修戦略ーソーシャル・スタート・アップの実験「モクチンレシピ」201810(『進撃の建築家たち』所収)



開拓者たち第26回 開拓者31 連勇太郎 開拓者32 川瀬英嗣 開拓者33 中村健太郎 開拓者34 山川陸    建J  201810

NPO法人モクチン企画

 木賃アパート改修戦略―ソーシャルスタートアップの実験

「モクチンレシピ」

布野修司

 

 とにかく会いにいきませんか?と、連勇太郎[1]くん(図⓪a)を紹介してくれたのは川井操くんである。このシリーズ、「計画学への問いかけ、建築 史の検証、アジアへのまなざし、スラム・寄せ場・セルフビルドへの共感、タウンアーキテクト待望など、布野修司の自分語りも重ね合わせて建築家論、建築家職能論を展開する」という編集部の指令のもとに開始したのであるが、「自分語り」に拘ると内輪話に堕す。だから、これを機会にネットワークを広げる方向で考えたいと思ってきた。「トモダチ」の「トモダチ」の「輪」を広げる芋づる式である。とはいえ、そうそう若い建築家に出会う機会があるわけではない。そこで頼りにしてきたのが、日本建築学会の『建築討論』の作品小委員会のメンバーであり、日頃接する学生たちである。滋賀県立大学の談話室(『雑口罵乱』0109号、20072017年)で出会った建築家たちはこの連載の幅を広げてくれたと思う。




 「モクチン企画」のオフィス「カマタ_クーチ」(図①aに出かけて、連くんから『モクチンメソッド 都市を変える木賃アパート改修戦略』(学芸出版社、2017年)をもとにレクチャーを受けた(43日)(図①b。大島芳彦(開拓者27)さんから連くんは「木造賃貸アパート再生ワークショップ」の時の学生だったと聞いていた。「木賃アパート」のリノヴェーションを専門にしている企画設計集団と思い込んでいたのであるが、説明中C.アレグザンダーの『パターン・ランゲージ』(図①c)が出てきて、俄然、関心が深まる。僕の卒論はC.アレグザンダーの設計方法論なのである[2]。「パターン・ランゲージ」については45年前にそれなりの決着をつけたつもりであった。いくつか具体的な「作品」?あるいは「現場」が見たいというと、改めて戸田公園(埼玉県)を拠点とする「モクチンパートナーズ」の平和建設(川邊政明社長)を紹介するというので、西川直子編集長と一緒に出掛けた(717日)。

 







 モクチン

 モクチン=木賃とは、木造賃貸アパートの略語である。「木賃」はモクチンと呼び慣らされる以前はキチンと読まれた。木賃宿のキチンである。本来、江戸時代に宿場制度として街道筋に設けられた安宿、旅籠を意味する。基本的に大部屋で宿泊者が食材を持ち込んで薪代相当分を払って料理してもらった、薪すなわち木を賃料として払ったから木賃宿である。木銭宿ともいった。明治に入って産業革命とともに都市化が進行すると、東京、大阪、名古屋に「貧民窟」が出現、木賃宿は「貧民窟」すなわち労働者や無宿人を畳一枚程度で雑魚寝させる貧民の巣窟の安宿を意味するようになる。「やど」を逆にした「ドヤ」という言葉ができる。この系譜は、ドヤ街に繋がる。

 モクチンは、この「ドヤ」の系譜とは異なる。日本にアパート形式の住宅が現れ始めるのは大正末から昭和の初めであるが、住宅ストックとして大量に建設されるのは、戦後復興から高度成長期にかけてである。戦後まもなく住宅不足数は420万戸と推計された。建築家たちが最小限住宅に取り組んだことはよく知られる。建築家の戦略は、公共集合住宅のモデル設計、工業化住宅のプロトタイプ設計へ向かう流れと個別住宅設計を積み重ねる方向の大きくふたつに分かれる[3]。日本住宅公団が設立されるのは1955年であり、プレファブ住宅の供給が開始されるのは1950年末以降である。そして、曲がりなりにも全国の住宅数が世帯数を超えるのは1968年、全都道府県で住戸数が世帯数を上回ったのは1973年である。その間、日本の住まいを支えてきたのが木造賃貸アパートである。

 

 木造賃貸アパート再生ワークショップ

  60年代末から70年代初頭にかけて、若い建築家や建築を学ぶ学生たちは、何かに憑かれるように東京の街を這いずり回った[4]。「デザイン・サーヴェイ」と総称されることになるが、その対象、視点、目的は様々であった。その中でモクチンへのある種のシンパシーをもって調べ回ったグループが、『モククチンメソッド』も触れるが、重村力らの東京探検隊(『都市住宅』「木賃アパート-様式としての都市居住」、19732月号)である。当時、木賃アパートは上京してきた学生たちや若いサラリーマンたちの受け皿だった。まだ、「賄い付き下宿」も一般的であった。ワンルームマンションが登場するのは後の時代である。

 その時代から40年、「木造賃貸アパート再生ワークショップ」というプロジェクトが立ち上げられたのは2009年という。首都圏の様々な大学から学生が集まり、木賃アパートを自分たちの手で、自分たちの住みたくなるようなものに改修しようというプロジェクトである。大島芳彦(ブルースタジオ、開拓者27)、土屋貞雄(コンサルタント:株式会社貞雄、元ムジネット取締役)の仕掛けらしいが、連くんは22歳、SFC(慶応大学湘南藤沢キャンパス)の学生として主体的、主導的に参加した。このプロジェクトには大いに共感を覚えた。フィールド・サーヴェイは、建築計画研究そして都市組織研究の基本である。ワークショップは毎月開催、下北沢、高円寺、千駄ヶ谷などを歩き回り、実際に「物件探し」も行い、1年かけて北沢の築40年のアパートを改修することができた(20103月)。結局、このプロジェクトがNPO法人モクチン企画の設立(2012)に繋がる。代表理事連勇太朗、副代表理事川瀬英嗣(図⓪b)[5]大島、土屋はその理事に名を連ねる。

 

 モクチン企画

 モクチン企画は、設立6年の若い組織体である。連くんは、もともとは物書き(小説、評論)になりたかったという。父親から建築にもこんな世界があるよとレム・コールハウスの『錯乱のニューヨーク』を渡され、慶応大学SFC(湘南藤沢キャンパス)に入学したのだという。難解な『錯乱のニューヨーク』によって建築を志すとは「タダモノ(只者)」ではない!が、父親とは建築家、連健夫[6]である。幼い頃から建築は身近にあった。学部を出て、修士、博士課程に進む。小林博人[7]研究室に所属したという。一緒に仕事をする機会はなかったけれど、京都大学で3年間(19966月~1999年)僕は博人先生と同僚であった[8]博士課程に進学するとともに、川瀬とともに「モクチン企画」を立ち上げた。助教を務めながら、2015年に博士課程を単位取得退学、その後もSFCY-GSAで非常勤をつとめる。2014年にシステムエンジニアとして中村健太郎[9](図⓪c)が加わった。また、2016年から山川陸[10](図⓪d)が参画する。スタートダッシュ中の組織である。

 2013年秋に自ら改修して事務所として入居した「カマタ_クーチ」(図②)を訪れたときには4人そろって作業中であった(図①a)。事務所前の「クーチ(空地)」に卓球台が置かれている、生け垣や塀もない、?と思ったけれど、その時もらった『モクチンメソッド』の最後に、大家さんの茨田禎之さんとの出会いやその大いなる意図が記されていることを知った[11]

 レクチャーを受けながら考え続けたのは、「木賃アパート」を重要な社会資源として捉え、それを再生する意味である。そして、モクチンレシピなるものを支えるビルディング・システムである。直感的に思ったものは、「木賃アパート」という共用空間を最小限とする都市型住宅としての形式と低所得階層の受け皿としての役割を固定化することにしかつながらないのではないか、という疑問である。連くんとの最初の議論はその直感をめぐっていた。

  

 モクチンレシピ

 C.アレグザンダーの“Notes”から“Pattern Language”そして“House Production”への展開は、基本的には建築の企画設計から生産へ至る一般に開かれた方法論の展開である。“Notes”は決定論的に過ぎるし、“Pattern Language”はパターン(言語)が普遍的に設定されすぎていて(方言を認めない?)辞書的に過ぎる。もう少し、緩やかに建築言語の関係を規定するカスケードのようなシンタクスが必要ではないか、というのが40年前の僕の評価である。モクチンレシピなるものが単品メニューではなく相互関連をもつカスケードのような形でシステム化されているとすれば面白い!?と瞬間思った。しかし、モクチンメソッドは、どうやら建築家による設計方法論、建築生産論という建築のオーソドックス(オールド)・パラダイムの位相とは異なる。予めターゲットとされているのは、社会システムであって建築システムではない。閉じたシステムではなく、開いたシステムである。モクチンレシピとは、部分的で汎用性のある改修アイディアという。それをウエブ上で公開し、流通させ、様々な人に使われる状況をつくることで、単独で改修を一個一個積み重ねていくよりも圧倒的に多く、そして早く木賃アパートの改修を実現していくことができ、物件オーナー、不動産会社、工務店など木賃アパートに関係する様々な主体にアイディアを提供しエンパワーすることで、木賃アパート全体の質の底上げを狙うのだというのである。

 モクチンレシピは、C.アレグザンダーの「パターン」といっていいと思う。そして、レシピ同士の取り合わせ(関連性)も合わせて示される点で「カスケード」が意識されている(図③ab)。問題はその使い方である。「モクチン企画」の仕事は、モクチンレシピの開発ということになるが、その具体的中身は何か、である。



 

 トダ_ピース:モクチンパートナーズ

 平和建設は、戸田公園(埼玉県)の駅前で不動産業を営む。約600戸の不動産を管理するという。見せて頂いたのはいずれも戸建住宅である(図④ab)。川邊政明社長は、「モクチン企画」のモクチンレシピ(図⑤abc)を知ってすぐに飛びついたという。空家対策は、大家にとって、駅前(地域)の不動産屋にとって日々の大きな問題だからである。





 レシピとして専ら使われているのは、「のっぺりフロア」と「ぱきっと真壁」そして「まるっとホワイト」「チーム銀色」のようである(図⑥abc)。平和建設が手掛けたリフォームのビフォー、アフターをいくつかスライドで見せてもらったが、マンションもプレファブ住宅も手掛ける(図⑦ab)。インテリアは白に仕上げるのが基調であった。レシピにも「ホワイトニング」「チーム銀色」といった白、シルバーといった色に関わるレシピが少なくない。一旦、骨組に戻してリノヴェーションをするということではない。借り手と借り手の間にお色直しが可能なレシピが基本である。3ヶ月あるいは半年も借り手が突かない場合、大家さんにリフォームを勧めるのだという。



 川邊政明さんは、「トダ_ピース」というネットワークを仮構する(図⑧ab)。スローガンは「「空き箱」を「宝の箱」へ」、空き部屋、空き家に、新しい価値を生み出し、住みたい部屋、魅力的な戸田の街をつくる、人と建物と街の平和で良好な関係(PEACE)をつなぎ合わせて(PIECE)いくのだという。そして、そのネットワークは実体化しつつあるように思えた。レシピは確実に機能している。少なくとも不動産さんの需要には応えている。かつて大野勝彦が構想した地域住宅工房のような街の核となるコーディネーターの役割を、ポスト・スクラップ・アンド時代の現在、地域の不動産屋さんが果たす可能性があるのではないか。

 「モクチン企画」は現在21のモクチンパートナーズの年会費とレシピの閲覧料によって支えられている。

 

 ソーシャルスタートアップ

 「モクチン企画」は、「建築家個人の名前をブランドとするアトリエ系事務所でもなければ、組織設計事務所でもない」。「ソーシャルスタートアップ[12]としての建築組織」だという。「スタートアップ」とは、「明確な目的やビジョンを持って事業に取り組み、ミッションを達成するために短期間のうちに組織をつくり成長する一攫千金を狙った組織形態」である。「モクチン企画」が社会的なニーズ、少なくとも地域の不動産業の空家対策といったニーズに応えていることは各地のパートナーズが実証していると思う。いまのところ「一攫千金」を得るところまではいっていないように見えるが、その可能性はあると思う。

 ただ、確認すべきはそのミッションである。また、モクチンレシピによってそのミッションが達成可能かどうかである。岡部照彦(開拓者05)の「寄せ場」での取り組みを思い起こすが、その「ソーシャル・ファイナンスト・デザイン」とは違う。実に挑戦的なのは、「モクチンレシピのユニークな点は、今までの「まちづくり」というキーワードから想像される合意形成やワークショップというものとは違ったかたちで環境を改変していけるところです。関係者全員で話合ったり、協議する必要はなく、一人一人の家主や不動産管理会社の担当者が家賃収入を向上させるためにレシピを使えばよいのです」「一つ一つのアイディアの中にモクチン企画が大切にしているまちや建物に対する思いが込められているので、結果的にレシピの適用によっていくという無意識の良質なサイクルが生まれることです」という宣言?である。合意形成を基本とする藤村竜至(開拓者13)とクロスすることはないのか?。レシピに込められている「思い」とは何か。この「思い」はどこまでの射程を持っているのか。近代建築計画学の標準設計や標準仕様、住宅メーカーの顧客対応のシステム、あるいは住宅部品や住宅建材のオープンシステムと個別設計をめぐる歴史的基本的問題がここにある。


 『モクチンメソッド』は、最後(PART4 つながりを育むまちへ)に、まちへの展開を示唆する。その担い手は誰なのか、そしてレシピにまちづくりへつながる契機が含まれているか、それが問題の核心なのだと思う。「一攫千金」の夢が叶うことを大いに期待したい。



[1] 1987 神奈川県生まれ。2012 慶應義塾大学大学院 修士課程修了。2015 慶應義塾大学大学院 後期博士課程単位取得退学。2012-2013 慶應義塾大学大学院 助教(有期・研究奨励Ⅱ)。2012- モクチン企画設立、代表理事に就任。2013 C-Lab Collaborator(アメリカ、NY)。2013-2014 横浜国立大学大学院Y-GSA非常勤教員。2015- 慶應義塾大学SFC 特任助教 (SFC-SBC)2015- 横浜国立大学大学院客員助教 (IAS/Y-GSA) 

[2] 布野修司(1973)『構造・操作・過程―構造分析の試み―』(卒業論文(東京大学))。C.Alexander1964, Notes on the Synthesis of Form”をもとにグラフを解くHIDECSというプログラムを書いた。卒業設計はそれをもとに大学キャンパスを設計した(戸部栄一と共同設計)。

[3] 後者の方向を代表するのが延々とNo.住宅を作り続けた池辺陽である(「住宅の近代化」「第三章 二近代化という記号」『戦後建築の終焉-世紀末建築論ノート』)。

[4] 『戦後建築論ノート』(1981年)で、富田均の『東京徘徊』(1979)を枕に列挙しているけれど、元倉真琴、井出健、松山巌ら「コンペイトー」、真壁智春、大竹誠らの「遺留品研究所」、望月照彦らの「マチノロジー」、そして重村力の東京探検隊など、膨大な時間をかけて実測し、詳細な実測図を作製したのであった。

[5] 1988年生まれ。武蔵野美術大学空間演出デザイン学科卒。2009年より当活動に参画。 在学中より家具・インテリアプロダクトのデザイン製作や展覧会等の企画運営を行う。現在、 様々な領域を横断しながら活動を展開中。2009年黄金町バザール「cagg&zakkana」企画運営、  2010年銀座ギャラリー悠玄「回展」企画出展、2011TDW2011「木造賃貸アパート再生 ワークショップ」ブースデザインなど。

[6] 1956年京都市生まれ。多摩美術大学美術学部建築科(現環境デザイン学科卒業東京都立大学大学院修了後、建設会社に勤務、10年間、建築設計実務に携わる。1991年に渡英、ロンドンにあるAAスクールに入学、大学院優等学位取得の後、同校助手、東ロンドン大学非常勤講師、在英日本大使館嘱託を経て96年に帰国、有限会社連健夫建築研究室・一級建築士事務所を設立する。1996-1999多摩美術大学非常勤講師。1996-1998東京都立大学非常勤講師。1997-1999東京電機大学非常勤講師。2001-2004明治大学兼任講師。2001-2009ルーテル学院大学非常勤講師

[7] 1986 3月 京都大学工学部建築学科卒業 1988 3月 同大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了 1991 9月−1992 6 Harvard University Graduate School of Design Master in Design Studies 修士課程修了 2000 9月−2003 3月 同大学院 Doctor of Design Program修了 Doctor of Design学位取得 1988 4月−1996 6月 株式会社 日建設計 設計部 1996 6月−1999 3月 京都大学大学院工学研究科建築学専攻助手 同キャンパス計画助手。2000 2月− 2002 1Harvard University Graduate School of Design, Teaching Fellow 2003 4月− 株式会社 小林・槙デザインワークショップ代表 (槇直美と共働)。2005 4月ー20123月 慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科准教授 20124月ー現在 慶應義塾大学大学院政策・メディア研究科教授 

[8] 夫人は槇直美(父は槇文彦)、兄は小林正美(明治大学副学長)、甥は小林恵吾早稲田大学准教授、建築ファミリーである。小林恵吾先生は一昨年(2016年夏)スラバヤを案内する機会があった。

[9] 1993年大阪府生まれ、和歌山県育ち。慶応義塾大学SFC卒業。学部一年次より同大学松川昌平研究室にてアルゴリズミックデザインの研究を行っている。2014年よりモクチン企画システムエンジニア。

[10] 1990年 埼玉県生まれ、神奈川県育ち。2009-13年 東京藝術大学美術学部建築科。2013-15年 松島潤平建築設計事務所。2016年よりモクチン企画へ参画。在学時は会場構成・舞台美術・店舗内装の設計施工を中心に活動。松島事務所での担当作に育良保育園(2016年日本建築学会作品選集新人賞)TritonText等。設計活動と並行して建築理論研究/実践検証のユニットとして超ポストモダン研究会/山田橋を共同主宰。

[11] 木賃アパートの改修を如何に街の再生につなげていくかは、様々なかたちでリノヴェーションに取り組む若い建築家にとって共通の大きなテーマである。「計画的小集団開発」(延藤安広)「ゼロロットライン」(巽和夫・高田光雄)の提案など僕らの世代も考えてきた。京都で町家の再生を試みる魚谷繁礼・みわ子(開拓者0607)や森田一弥(開拓者14)の場合、木造の柱梁構造の再生ということが前提で、シェアハウスへの展開や他用途への転換を個別に解いていくのが方針である。

[12] 投資家の孫泰蔵と社会起業家支援を行うETIC.が立ち上げた社会起業家向けのプログラムSUSANOOというソーシャルスタートアップのためのアクセラレータプログラム。着実な成長を積み重ねていく組織体は「スモールビジネス」であり、新しいビジネスモデルやサービスの開発によって短期間で急成長を目指す組織体を「スタートアップ」だという(馬場孝明(2017)『逆説のスタートアップ思考』中央公論新社)。

2021年6月2日水曜日

木之本から:近江環人の行方―レトロ・フィット建築の体系  「オフセット町家」 進撃の建築家 開拓者たち 第25回 大井鉄也(開拓者30)

 進撃の建築家 開拓者たち 第25回 大井鉄也(開拓者30)木之本から:近江環人の行方ーレトロ・フィット建築の体系 「オフセット町家」 201810(『進撃の建築家たち』所収)


開拓者たち第25回 開拓者30 大井鉄也                    建J  201809

 

 木之本から:近江環人の行方―レトロ・フィット建築の体系 

「オフセット町家」

布野修司

 

大井鉄也(図⓪a[1]は、滋賀県立大学環境科学部環境計画(環境建築デザイン)学科の3期生である。大学院に進学、内井研究室に所属した。内井先生が急逝(2002)されるも、生前から決まっていた内井昭蔵建築設計事務所に入所する。僕は、内井先生とは京都大学で3年間同僚としてご一緒した(19931996)。また、滋賀県立大に行かれた後も、京都市公共建築デザイン指針検討委員会(19992000)をお手伝いする機会があった。そして、滋賀県立大学に10年(20052015)務めたが、大井君とはすれ違いである。直接会ったのはごく最近だ。

 僕が京都から彦根に引っ越した20053月に出迎えてくれた4人がー何故か4人とも坊主頭で、「四天王」ならぬ「四坊主」と呼ぶのだけれど(中川君は坊主じゃなかったらしい)-、川井操(滋賀県立大学助教)、中川雄輔(日建設計)、中浜春洋(西倉建築事務所)、中村喜裕(Vans)である。川井・中川が6期生、中浜・中村が9期生である。彼らは、僕の最初の設計演習のTAとなる中村(小島)奈苗さん(Vans)など徒党を組んで、南彦根駅前の「遊楽太郎」という洒落た店の内装工事(セルフビルド)を請負っていた。「遊楽太郎」は度々利用することになるのであるが、京都で修業した若い大将の料理の腕前は相当なものである。

 川井・中川の両君はM1で、すぐさまアジアのフィールドを連れ回ることになる。中川君はいきなりインド・スリランカを一緒に回って[2]、インド洋大津波後のスクオッター地区の復興をテーマに修論[3]を書き、日建設計に就職する。学会の「作品選集新人賞」を受賞するなど将来を期待されている。川井君は、西川幸治研究室出身の西安工程大学の段錬儒教授のところへ留学することになるが、北京、西安、澎湖島、台湾、福建、ハノイ・・・と連れ回り、結局、学位論文[4]の取得までつき合うことになった。この川井操君が、滋賀県大出身の建築家のエースは大井先輩です、と会う機会をつくってくれた(518日)。そして、是非、作品を見に行きましょう、となり、川井夫妻、新婚の中川夫妻、そしてわが相棒も一緒に、木之本に出かけることになった(77日~8日)。

 

  サラダパン

 全ては看板(立体サイン?)から始まったのだという(つるやパン本店改修)(図①abc)。「つるやパン」は実は2度目であった。沢庵をマヨネーズ和えした「サラダパン」[5]は、評判の美味しいパンというので、家族でわざわざ買いに行ったことがあるのである。滋賀県のごく一部の地域のローカルフードが2000年代のご当地グルメブームによってマスコミに取り上げられ、滋賀県発の変わり種パンとして全国的にも知られるようになった。今や渋谷のヒカリエで毎月特売日がある。この看板、抜群の発信力があった。

 大井君の双子の兄福也さん(ANDAND代表、クリエイティブ・ディレクター)と専務((有限会社つるや)西村豊弘さんが虎姫高校の同級生で、本店の改修を依頼されたのが発端、看板のデザインと販売戦略は3人で取り組んだ。高岡(富山県)のアルキャスト・メーカー竹中製作所には随分通った。微妙な皺、曲面を表現するのに苦労したのである。この竹中製作所が将来を期待される建築家である能作文徳・淳平兄弟の実家なのだというから世の中狭い。

 看板製作と本店の改修の後、依頼されたのが「オフセット町家」という豊弘さんの弟、工場長の西村達朗さんの家である。もとは「サラダパン」を考案した祖母西村智恵子(旧姓安達)の実家で、1952年の建設である。そして、並行して、「つるやパン二号店、まるい食パン専門店」の改修を依頼された。店長は従兄弟の西村洋平さんである。看板は、同じ型枠で展開できればと当初思っていたけれど、10年の時を経た長浜の2号店は、まるい食パンをモチーフにすることになった(図②abc)。


 木之本

 内井事務所(20032008[6]から遠藤克彦建築研究所(200812[7]を経て独立する。「つるやパン」のネットワークを中心に木之本町が建築家としての出発点となった。「つるやパン」は木之本の街づくりの核でもある。西村福也さんに工場について説明を受け、街も案内してもらった(図③ab)。

 木之本が東浅井郡虎姫町・湖北町・伊香郡高月町・余呉町・西浅井町とともに長浜市へ編入されたのは2010年である。北国街道沿いの馬市が立った宿場街で、織田信長の眼にとまる名馬を買うお金を差し出した山之内一豊の妻のエピソードは有名である。秀吉と柴田勝家が信長の跡目を争った賤ヶ岳の戦い(1583)もよく知られ、その先陣を切った加藤清正ら七本槍に因む清酒「七本槍」は地元ブランドである。

 歴史的町並み(図④)を維持する木之本であるが、多くの地方都市同様、高齢化と人口減に悩む。滋賀県立大学は「近江楽座」そして「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)」という、COC(地域中心)プログラムの一貫でまちづくり支援のプロジェクトを続けてきているのであるが、地域再生の課題は容易ではない。「黒壁」のまちづくりで知られる長浜であるが、全てがうまくいっているわけではない。木之本でも、空き家を安く賃貸して外部から人材を招く事業を展開してきたが、なかなか仕組みとして定着していかない。街角の町家を改修して共同の土産屋(南政宏[8]設計)をつくったが、今は閉鎖されている。川井操研究室でも「近江楽座」の助成を得て、連携を模索しつつあるところという。 





 

 屋根上の休憩所―工場改築

 どうしたらいいのか。近江環人=コミュニティ・アーキテクトとは一体何者か、何をするのか、何ができるのか、近江環人地域再生学座の設立に関り、10年間議論だけはしてきたけれど、奥の手を見いだせたわけではない。実は、20数人市町村長(現在は19市)を育てるということを密かに目的としてきたけれど、既に100人を超える修了生を出した。共通の認識となったのは、近江環人の創意工夫とそのネットワークが鍵となること、ステレオタイプ化したマニュアルは役に立たない、ということである。どこでもやるような観光客誘致策が息切れすることははっきりしていた。

 木之内には、「つるやパン」をはじめいくつかの有力な種がある。時計屋さんの空き家に越してきた陶芸家七尾佳洋夫妻がいる(図⑤ab)。それぞれが自立したサイクルを確立することを優先し、それを重ね掛け合わせるのが基本なんじゃないか、などと話しながら街を歩いたのであるが、西村福也専務の話もまさにそうであった。

 つるやパン工場のすぐ近くに伊香高校の野球グラウンドがある。かつては甲子園の常連校であった。今年一年生大会で優勝したというから名門復活も近いかもしれない。野球部員は、帰りに「つるやパン」本店によってイートイン・コーナーで団欒するのだという。「サラダパン」が全国に知られるようになって、パートも増え、駐車場も必要になった。また、休憩場も必要になった。そこで大井くんが提案してSDレビュー2017に選定されたのが「屋根上の休憩所」である(図⑥)。この屋根上からは伊香高校の野球場が見物できる。

 その後、工場増築から工場見学も含んだ駐車場も一体化する計画へと構想は膨らみつつある。すなわち、「つるやパン」本店と工場を回遊することによって、客を街で受け入れる計画へと展開しつつある。

 そもそも創業者の祖父西村秀敏がいわゆる「ヤリ手」だった。戦後はパン食が主となる、という読みのもとでパン屋を始めるのである。それでいて後には米飯組合も設立したという。教育長も務めた地域のリーダーであった。

 

 オフセット町家

 こうして、看板から始まった活動は、やれること、できたことを積み重ね、拡大していく、近江環人地域再生学のひとつのモデルになりつつように思える。そうした中で、「オフセット町家」は、街並研究会の会合、地元書店による本の読み聞かせの会、展覧会のギャラリーなど、街に開かれた場としても計画された(図⑦abcdef)。










 戦後まもなく1952年に建設された町屋は、骨太の材木で組まれた新町家で、珍しい青(ライトブルー)漆喰や繊細な組子の建具など当時としては洒落た家であったと思う。基本的に大きな変更は加えてはいない。北国街道に面した8畳の続き間2つを土間にした。後方の平屋部分を住居の基本部分(LDK+バス・トイレ)とし、母屋の2階に寝室・居間を置いた。これを小町家といい、町家に小町家を入れ子状に組み込んだ。内井昭蔵仕込みというべきか、新旧材料の取り合わせ、ディテール、卒なくまとまっている。ただ、母屋の土間の天井、2階の小町家という切妻屋根の小屋(2つの寝室)の床下が銀色に塗られていて、いささかブルータルにずれが強調されている。

 オフセットとはカーボン・オフセットのオフセットすなわち「相殺する」あるいは「埋め合わせる」という意味かと思ったのだけれど、どうも違う。図像(イメージ)版と紙が直接接しないオフセット印刷、すなわち「転写する」という意味でもないらしい。基準からずらす、という意味だと、大井君はいう。「閉じつつ開く」「切断しながら関係をつなぐ」ということか。しかし、腑に落ちたわけではない。オフセットという概念が設計の新たな手法に繋がっていくのかどうかは今後の展開を待とう。

 一方、「すでにある」形式を編集する、と大井君はいう。リノヴェーションの仕事を出発点にする若い建築家にとって、既存の建築、「すでにある」空間をどう評価し、どう編集するかは共通のテーマである。

 談話室

 滋賀県立大学に「談話室」という建築学生の組織がある。ゲスト講師による講演会を主とする活動で、1999年に開始されて、現在まで続く。その第68回に卒業生として初めて大井君は招かれた(20171213)。そのタイトルが「「すでにある」形式を編集するープロトタイプとタイポロジーの間ー」である。実は、談話室の活動を開始したのが、大井君と同級生の丹治健太[9]君なのだという。僕が着任した2005年までに19回開催されており、記録集を出すことを条件に旅費を支援し始め、僕も20回から57回(2014)まではほぼ全て参加した。記録集『雑口罵乱』は現在9号まで出版されている。

 木之本の長治庵に一泊、大井君に現在の研究テーマについてあれこれ聞くなかで、談話室の講演で何をしゃべったの?と聞いたら、161枚にも及ぶパワー・ポイントの資料とこれまでの仕事の詳細[10]を送ってくれた。高校生時代から卒業設計「遺跡の現在 安土山遺跡ミュージアム」(大井+丹治の共同設計)(図⑧)、大学院の設計「修道院」、「東京大学生産技術研究所アニヴァーサリーホール」(今井公太郎+遠藤克彦+大井鉄也)そして、木之本の仕事が紹介されている。



 常に仕事を、原点、すなわち卒業設計―「すでにある」遺跡を編集する 復元を否定してみる―に遡って確認しながら、振り返る姿勢には理論家としての資質がうかがえる。ともすると、クライアントの要求、社会の趨勢に身を委ねるままの建築家も少なくないのである。もちろん、建築家の仕事はクライアントがあってのものであり、確たる理論があってそれを応用すればいいというものではない。常に後付けであると磯崎新は言うが、大切なのは、振り返って、自ら、自らの仕事を位置づけ続けることである。

 

 リノヴェーション建築の体系へ

 「形態は機能に従う」(L.サリヴァン)「形態は機能を喚起する」(L.カーン)「形態だけではなく、利用形態(プログラム)まで射程に入れなくては、建築はとらえきれない」(B.チュミ)・・・どういう説明がなされたかは推測するしかないが、講演の冒頭には、建築の世界ではよく知られたアフォリズムが並べられ、「形態は、機能が変わっても、普遍的な価値を得て、その形態は、後の機能にも対応する」とある。最後は、大井鉄也のテーゼであろう。

 プロトタイプとタイポロジーそして編集をめぐっては以下のように考える。すなわち、プロトタイプ(原型)が「何らかの必要から(?)」空間となって出現し、それを編集することによって、住居、学校、工場・倉庫、美術館・・・のような様々な形式(建築類型?)が生まれる、そうして生まれた「すでにある」形式を新たな利用形態を可能にする建築(空間)へとさらに編集する、のである。原初、人々の全ての活動は住居を中心とする未分化な空間において行われていた、その空間はやがて分化し、いくつかの形式(建築類型)が生まれ、さらに近代的制度=施設として成立する。編集とは、その再編成に関わるのである。

 建築を「すでにあるもの」として出発するとすれば、これまでの建築のパラダイムは大きく転換せざるをえない。大井鉄也が考えているのは「レトロ・フィット建築の大系」である(図⑨)。新築(リファイン)―既存(レトロ・フィット)、介入(インテルヴェント)―継承(レスタウロ)で張られる空間に建築行為を位置づけようとする。レトロ・フィット建築の体系というと既存建築の保存度が高いケースが強くイメージされているように思えるが、一般的に求められているのは、建築リノヴェーションの体系であり、サスティナブルな建築システムである。研究者(理論家)としての大井鉄也にはその体系化を期待したい。

 

 こうして、大井鉄也にタイする期待は二分化される。木之本に拘りながら近江環人の行方を突き詰めて欲しいという期待とレトロ・フィット建築の体系を突き詰めて欲しいという期待である。しかし、はっきりしているのは、具体的な実践を欠いた理論は理論に留まる可能性が高いということである。大井鉄也はそのことを十分分かっていると思う。



[1] 1978滋賀県生まれ。2001滋賀県立大学環境科学部環境計画学科環境・建築デザイン専攻卒業。2003同大学大学院環境科学研究科環境計画学専攻修士課程修了(内井昭蔵研究室)。同年内井建築設計事務所入所。2009遠藤克彦建築研究所入所。2012大井鉄也建築設計事務所設立。同年東京大学生産技術研究所特任研究員。2013大井鉄也建築設計事務所一級建築士事務所。

[2] 200507200811 Kolkata Bhubaneswa Puri Chennai Kanchipram Madrai Srilangam Tanjor Nagapatnam Pondicherry Mahabaripuram Chennai, Colombo Galle:布野修司・中川雄輔・前田昌弘。200607150726 Delhi  Lahore Colombo:布野修司・山根周・中川雄輔。

[3] 中川雄輔(2007)『インド洋スマトラ沖地震津波被災地における住宅復興過程に関する研究~スリランカ・南西沿岸被災者の居住環境変容を事例として』滋賀県立大学修士論文。

[4] 川井操(2011)『西安旧城・回族居住地区の空間構成とその変容に関する研究』学位論文(滋賀県立大学)。

[5] 1957年、初代主人の妻が塩気のある惣菜パンのアイデアを思い付いたのが始まりで、当初は「サラダパン」の名の通り、マヨネーズで和えた刻みキャベツを挟んだものであった。その後、キャベツよりもたくあんを挟む方が食感が良く保存も利くことから、現在のスタイルに変更された。しかし、「たくあんも野菜だから、サラダじゃないか」ということで名称は変更されず、現在に至っている。

[6] 内井昭蔵建築設計事務所で関わった主な仕事は、ポプラ社本社屋ビル改築工事(基本設計・実施設計・工事監理)、四谷アパートメント新築工事(基本設計・実施設計・工事監理)、学校法人法輪学園こころ認定こども園新築工事(基本設計・実施設計・工事監理)などである。

[7] 遠藤克彦建築研究所で関わった主な仕事は、ユーキャン代々木別館新築工事(基本設計・実施設計・工事監理)長崎県新上五島町しんうおのめ温泉荘改築工事(基本設計・実施設計・工事監理)、東京大学生産技術研究所アニヴァーサリーホール改修工事などである。

[8] 南政宏君も滋賀県立大学環境建築デザインの出身の2期生である。数々の受賞が示すようにプロダクト・デザインに分野で活躍している。

[9] 1978 年、福島県福島市生まれ。滋賀県立大学環境科学部環境建築デザイン学科卒業。1年間ヨーロッパを自転車で遊学。㈱渡辺富工務店、㈱プラットフォームを経て、2007 年、タンタブル一級建築士事務所設立。

[10] 受賞歴 2000 「遺跡の現在 安土山遺跡ミュージアム」滋賀県立大学 卒業設計優秀賞 ※丹治健太との協同設計。2001年 「遺跡の現在 安土山遺跡ミュージアム」ランドスケープ6大学展 001 ランドスケープデザイン賞受賞。2008年   第一回コミーミラーコンペティション 佳作 [新建築2008/7 掲載]2013   東京大学生産技術研究所アニヴァーサリーホール[日本建築学会 作品選集 2014 掲載] [新建築 2013/3 掲載]設計:今井公太郎(東京大学大学院 工学系研究科 建築学専攻 教授)+遠藤克彦(遠藤克彦建築研究所)※遠藤克彦建築研究所 勤務時 担当2014  釜石市民ホール(仮称)及び釜石情報交流センタープロポーザル  次点 ※矢野青山建築設計事務所との協同設計