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2021年6月2日水曜日

木之本から:近江環人の行方―レトロ・フィット建築の体系  「オフセット町家」 進撃の建築家 開拓者たち 第25回 大井鉄也(開拓者30)

 進撃の建築家 開拓者たち 第25回 大井鉄也(開拓者30)木之本から:近江環人の行方ーレトロ・フィット建築の体系 「オフセット町家」 201810(『進撃の建築家たち』所収)


開拓者たち第25回 開拓者30 大井鉄也                    建J  201809

 

 木之本から:近江環人の行方―レトロ・フィット建築の体系 

「オフセット町家」

布野修司

 

大井鉄也(図⓪a[1]は、滋賀県立大学環境科学部環境計画(環境建築デザイン)学科の3期生である。大学院に進学、内井研究室に所属した。内井先生が急逝(2002)されるも、生前から決まっていた内井昭蔵建築設計事務所に入所する。僕は、内井先生とは京都大学で3年間同僚としてご一緒した(19931996)。また、滋賀県立大に行かれた後も、京都市公共建築デザイン指針検討委員会(19992000)をお手伝いする機会があった。そして、滋賀県立大学に10年(20052015)務めたが、大井君とはすれ違いである。直接会ったのはごく最近だ。

 僕が京都から彦根に引っ越した20053月に出迎えてくれた4人がー何故か4人とも坊主頭で、「四天王」ならぬ「四坊主」と呼ぶのだけれど(中川君は坊主じゃなかったらしい)-、川井操(滋賀県立大学助教)、中川雄輔(日建設計)、中浜春洋(西倉建築事務所)、中村喜裕(Vans)である。川井・中川が6期生、中浜・中村が9期生である。彼らは、僕の最初の設計演習のTAとなる中村(小島)奈苗さん(Vans)など徒党を組んで、南彦根駅前の「遊楽太郎」という洒落た店の内装工事(セルフビルド)を請負っていた。「遊楽太郎」は度々利用することになるのであるが、京都で修業した若い大将の料理の腕前は相当なものである。

 川井・中川の両君はM1で、すぐさまアジアのフィールドを連れ回ることになる。中川君はいきなりインド・スリランカを一緒に回って[2]、インド洋大津波後のスクオッター地区の復興をテーマに修論[3]を書き、日建設計に就職する。学会の「作品選集新人賞」を受賞するなど将来を期待されている。川井君は、西川幸治研究室出身の西安工程大学の段錬儒教授のところへ留学することになるが、北京、西安、澎湖島、台湾、福建、ハノイ・・・と連れ回り、結局、学位論文[4]の取得までつき合うことになった。この川井操君が、滋賀県大出身の建築家のエースは大井先輩です、と会う機会をつくってくれた(518日)。そして、是非、作品を見に行きましょう、となり、川井夫妻、新婚の中川夫妻、そしてわが相棒も一緒に、木之本に出かけることになった(77日~8日)。

 

  サラダパン

 全ては看板(立体サイン?)から始まったのだという(つるやパン本店改修)(図①abc)。「つるやパン」は実は2度目であった。沢庵をマヨネーズ和えした「サラダパン」[5]は、評判の美味しいパンというので、家族でわざわざ買いに行ったことがあるのである。滋賀県のごく一部の地域のローカルフードが2000年代のご当地グルメブームによってマスコミに取り上げられ、滋賀県発の変わり種パンとして全国的にも知られるようになった。今や渋谷のヒカリエで毎月特売日がある。この看板、抜群の発信力があった。

 大井君の双子の兄福也さん(ANDAND代表、クリエイティブ・ディレクター)と専務((有限会社つるや)西村豊弘さんが虎姫高校の同級生で、本店の改修を依頼されたのが発端、看板のデザインと販売戦略は3人で取り組んだ。高岡(富山県)のアルキャスト・メーカー竹中製作所には随分通った。微妙な皺、曲面を表現するのに苦労したのである。この竹中製作所が将来を期待される建築家である能作文徳・淳平兄弟の実家なのだというから世の中狭い。

 看板製作と本店の改修の後、依頼されたのが「オフセット町家」という豊弘さんの弟、工場長の西村達朗さんの家である。もとは「サラダパン」を考案した祖母西村智恵子(旧姓安達)の実家で、1952年の建設である。そして、並行して、「つるやパン二号店、まるい食パン専門店」の改修を依頼された。店長は従兄弟の西村洋平さんである。看板は、同じ型枠で展開できればと当初思っていたけれど、10年の時を経た長浜の2号店は、まるい食パンをモチーフにすることになった(図②abc)。


 木之本

 内井事務所(20032008[6]から遠藤克彦建築研究所(200812[7]を経て独立する。「つるやパン」のネットワークを中心に木之本町が建築家としての出発点となった。「つるやパン」は木之本の街づくりの核でもある。西村福也さんに工場について説明を受け、街も案内してもらった(図③ab)。

 木之本が東浅井郡虎姫町・湖北町・伊香郡高月町・余呉町・西浅井町とともに長浜市へ編入されたのは2010年である。北国街道沿いの馬市が立った宿場街で、織田信長の眼にとまる名馬を買うお金を差し出した山之内一豊の妻のエピソードは有名である。秀吉と柴田勝家が信長の跡目を争った賤ヶ岳の戦い(1583)もよく知られ、その先陣を切った加藤清正ら七本槍に因む清酒「七本槍」は地元ブランドである。

 歴史的町並み(図④)を維持する木之本であるが、多くの地方都市同様、高齢化と人口減に悩む。滋賀県立大学は「近江楽座」そして「近江環人(コミュニティ・アーキテクト)」という、COC(地域中心)プログラムの一貫でまちづくり支援のプロジェクトを続けてきているのであるが、地域再生の課題は容易ではない。「黒壁」のまちづくりで知られる長浜であるが、全てがうまくいっているわけではない。木之本でも、空き家を安く賃貸して外部から人材を招く事業を展開してきたが、なかなか仕組みとして定着していかない。街角の町家を改修して共同の土産屋(南政宏[8]設計)をつくったが、今は閉鎖されている。川井操研究室でも「近江楽座」の助成を得て、連携を模索しつつあるところという。 





 

 屋根上の休憩所―工場改築

 どうしたらいいのか。近江環人=コミュニティ・アーキテクトとは一体何者か、何をするのか、何ができるのか、近江環人地域再生学座の設立に関り、10年間議論だけはしてきたけれど、奥の手を見いだせたわけではない。実は、20数人市町村長(現在は19市)を育てるということを密かに目的としてきたけれど、既に100人を超える修了生を出した。共通の認識となったのは、近江環人の創意工夫とそのネットワークが鍵となること、ステレオタイプ化したマニュアルは役に立たない、ということである。どこでもやるような観光客誘致策が息切れすることははっきりしていた。

 木之内には、「つるやパン」をはじめいくつかの有力な種がある。時計屋さんの空き家に越してきた陶芸家七尾佳洋夫妻がいる(図⑤ab)。それぞれが自立したサイクルを確立することを優先し、それを重ね掛け合わせるのが基本なんじゃないか、などと話しながら街を歩いたのであるが、西村福也専務の話もまさにそうであった。

 つるやパン工場のすぐ近くに伊香高校の野球グラウンドがある。かつては甲子園の常連校であった。今年一年生大会で優勝したというから名門復活も近いかもしれない。野球部員は、帰りに「つるやパン」本店によってイートイン・コーナーで団欒するのだという。「サラダパン」が全国に知られるようになって、パートも増え、駐車場も必要になった。また、休憩場も必要になった。そこで大井くんが提案してSDレビュー2017に選定されたのが「屋根上の休憩所」である(図⑥)。この屋根上からは伊香高校の野球場が見物できる。

 その後、工場増築から工場見学も含んだ駐車場も一体化する計画へと構想は膨らみつつある。すなわち、「つるやパン」本店と工場を回遊することによって、客を街で受け入れる計画へと展開しつつある。

 そもそも創業者の祖父西村秀敏がいわゆる「ヤリ手」だった。戦後はパン食が主となる、という読みのもとでパン屋を始めるのである。それでいて後には米飯組合も設立したという。教育長も務めた地域のリーダーであった。

 

 オフセット町家

 こうして、看板から始まった活動は、やれること、できたことを積み重ね、拡大していく、近江環人地域再生学のひとつのモデルになりつつように思える。そうした中で、「オフセット町家」は、街並研究会の会合、地元書店による本の読み聞かせの会、展覧会のギャラリーなど、街に開かれた場としても計画された(図⑦abcdef)。










 戦後まもなく1952年に建設された町屋は、骨太の材木で組まれた新町家で、珍しい青(ライトブルー)漆喰や繊細な組子の建具など当時としては洒落た家であったと思う。基本的に大きな変更は加えてはいない。北国街道に面した8畳の続き間2つを土間にした。後方の平屋部分を住居の基本部分(LDK+バス・トイレ)とし、母屋の2階に寝室・居間を置いた。これを小町家といい、町家に小町家を入れ子状に組み込んだ。内井昭蔵仕込みというべきか、新旧材料の取り合わせ、ディテール、卒なくまとまっている。ただ、母屋の土間の天井、2階の小町家という切妻屋根の小屋(2つの寝室)の床下が銀色に塗られていて、いささかブルータルにずれが強調されている。

 オフセットとはカーボン・オフセットのオフセットすなわち「相殺する」あるいは「埋め合わせる」という意味かと思ったのだけれど、どうも違う。図像(イメージ)版と紙が直接接しないオフセット印刷、すなわち「転写する」という意味でもないらしい。基準からずらす、という意味だと、大井君はいう。「閉じつつ開く」「切断しながら関係をつなぐ」ということか。しかし、腑に落ちたわけではない。オフセットという概念が設計の新たな手法に繋がっていくのかどうかは今後の展開を待とう。

 一方、「すでにある」形式を編集する、と大井君はいう。リノヴェーションの仕事を出発点にする若い建築家にとって、既存の建築、「すでにある」空間をどう評価し、どう編集するかは共通のテーマである。

 談話室

 滋賀県立大学に「談話室」という建築学生の組織がある。ゲスト講師による講演会を主とする活動で、1999年に開始されて、現在まで続く。その第68回に卒業生として初めて大井君は招かれた(20171213)。そのタイトルが「「すでにある」形式を編集するープロトタイプとタイポロジーの間ー」である。実は、談話室の活動を開始したのが、大井君と同級生の丹治健太[9]君なのだという。僕が着任した2005年までに19回開催されており、記録集を出すことを条件に旅費を支援し始め、僕も20回から57回(2014)まではほぼ全て参加した。記録集『雑口罵乱』は現在9号まで出版されている。

 木之本の長治庵に一泊、大井君に現在の研究テーマについてあれこれ聞くなかで、談話室の講演で何をしゃべったの?と聞いたら、161枚にも及ぶパワー・ポイントの資料とこれまでの仕事の詳細[10]を送ってくれた。高校生時代から卒業設計「遺跡の現在 安土山遺跡ミュージアム」(大井+丹治の共同設計)(図⑧)、大学院の設計「修道院」、「東京大学生産技術研究所アニヴァーサリーホール」(今井公太郎+遠藤克彦+大井鉄也)そして、木之本の仕事が紹介されている。



 常に仕事を、原点、すなわち卒業設計―「すでにある」遺跡を編集する 復元を否定してみる―に遡って確認しながら、振り返る姿勢には理論家としての資質がうかがえる。ともすると、クライアントの要求、社会の趨勢に身を委ねるままの建築家も少なくないのである。もちろん、建築家の仕事はクライアントがあってのものであり、確たる理論があってそれを応用すればいいというものではない。常に後付けであると磯崎新は言うが、大切なのは、振り返って、自ら、自らの仕事を位置づけ続けることである。

 

 リノヴェーション建築の体系へ

 「形態は機能に従う」(L.サリヴァン)「形態は機能を喚起する」(L.カーン)「形態だけではなく、利用形態(プログラム)まで射程に入れなくては、建築はとらえきれない」(B.チュミ)・・・どういう説明がなされたかは推測するしかないが、講演の冒頭には、建築の世界ではよく知られたアフォリズムが並べられ、「形態は、機能が変わっても、普遍的な価値を得て、その形態は、後の機能にも対応する」とある。最後は、大井鉄也のテーゼであろう。

 プロトタイプとタイポロジーそして編集をめぐっては以下のように考える。すなわち、プロトタイプ(原型)が「何らかの必要から(?)」空間となって出現し、それを編集することによって、住居、学校、工場・倉庫、美術館・・・のような様々な形式(建築類型?)が生まれる、そうして生まれた「すでにある」形式を新たな利用形態を可能にする建築(空間)へとさらに編集する、のである。原初、人々の全ての活動は住居を中心とする未分化な空間において行われていた、その空間はやがて分化し、いくつかの形式(建築類型)が生まれ、さらに近代的制度=施設として成立する。編集とは、その再編成に関わるのである。

 建築を「すでにあるもの」として出発するとすれば、これまでの建築のパラダイムは大きく転換せざるをえない。大井鉄也が考えているのは「レトロ・フィット建築の大系」である(図⑨)。新築(リファイン)―既存(レトロ・フィット)、介入(インテルヴェント)―継承(レスタウロ)で張られる空間に建築行為を位置づけようとする。レトロ・フィット建築の体系というと既存建築の保存度が高いケースが強くイメージされているように思えるが、一般的に求められているのは、建築リノヴェーションの体系であり、サスティナブルな建築システムである。研究者(理論家)としての大井鉄也にはその体系化を期待したい。

 

 こうして、大井鉄也にタイする期待は二分化される。木之本に拘りながら近江環人の行方を突き詰めて欲しいという期待とレトロ・フィット建築の体系を突き詰めて欲しいという期待である。しかし、はっきりしているのは、具体的な実践を欠いた理論は理論に留まる可能性が高いということである。大井鉄也はそのことを十分分かっていると思う。



[1] 1978滋賀県生まれ。2001滋賀県立大学環境科学部環境計画学科環境・建築デザイン専攻卒業。2003同大学大学院環境科学研究科環境計画学専攻修士課程修了(内井昭蔵研究室)。同年内井建築設計事務所入所。2009遠藤克彦建築研究所入所。2012大井鉄也建築設計事務所設立。同年東京大学生産技術研究所特任研究員。2013大井鉄也建築設計事務所一級建築士事務所。

[2] 200507200811 Kolkata Bhubaneswa Puri Chennai Kanchipram Madrai Srilangam Tanjor Nagapatnam Pondicherry Mahabaripuram Chennai, Colombo Galle:布野修司・中川雄輔・前田昌弘。200607150726 Delhi  Lahore Colombo:布野修司・山根周・中川雄輔。

[3] 中川雄輔(2007)『インド洋スマトラ沖地震津波被災地における住宅復興過程に関する研究~スリランカ・南西沿岸被災者の居住環境変容を事例として』滋賀県立大学修士論文。

[4] 川井操(2011)『西安旧城・回族居住地区の空間構成とその変容に関する研究』学位論文(滋賀県立大学)。

[5] 1957年、初代主人の妻が塩気のある惣菜パンのアイデアを思い付いたのが始まりで、当初は「サラダパン」の名の通り、マヨネーズで和えた刻みキャベツを挟んだものであった。その後、キャベツよりもたくあんを挟む方が食感が良く保存も利くことから、現在のスタイルに変更された。しかし、「たくあんも野菜だから、サラダじゃないか」ということで名称は変更されず、現在に至っている。

[6] 内井昭蔵建築設計事務所で関わった主な仕事は、ポプラ社本社屋ビル改築工事(基本設計・実施設計・工事監理)、四谷アパートメント新築工事(基本設計・実施設計・工事監理)、学校法人法輪学園こころ認定こども園新築工事(基本設計・実施設計・工事監理)などである。

[7] 遠藤克彦建築研究所で関わった主な仕事は、ユーキャン代々木別館新築工事(基本設計・実施設計・工事監理)長崎県新上五島町しんうおのめ温泉荘改築工事(基本設計・実施設計・工事監理)、東京大学生産技術研究所アニヴァーサリーホール改修工事などである。

[8] 南政宏君も滋賀県立大学環境建築デザインの出身の2期生である。数々の受賞が示すようにプロダクト・デザインに分野で活躍している。

[9] 1978 年、福島県福島市生まれ。滋賀県立大学環境科学部環境建築デザイン学科卒業。1年間ヨーロッパを自転車で遊学。㈱渡辺富工務店、㈱プラットフォームを経て、2007 年、タンタブル一級建築士事務所設立。

[10] 受賞歴 2000 「遺跡の現在 安土山遺跡ミュージアム」滋賀県立大学 卒業設計優秀賞 ※丹治健太との協同設計。2001年 「遺跡の現在 安土山遺跡ミュージアム」ランドスケープ6大学展 001 ランドスケープデザイン賞受賞。2008年   第一回コミーミラーコンペティション 佳作 [新建築2008/7 掲載]2013   東京大学生産技術研究所アニヴァーサリーホール[日本建築学会 作品選集 2014 掲載] [新建築 2013/3 掲載]設計:今井公太郎(東京大学大学院 工学系研究科 建築学専攻 教授)+遠藤克彦(遠藤克彦建築研究所)※遠藤克彦建築研究所 勤務時 担当2014  釜石市民ホール(仮称)及び釜石情報交流センタープロポーザル  次点 ※矢野青山建築設計事務所との協同設計

2021年6月1日火曜日

武蔵野のベース・キャンパスー目指すは、歌って踊れる建築家!? 「アーツ前橋」進撃の建築家 開拓者たち 第24回 水谷俊博・玲子

 進撃の建築家 開拓者たち 第24回 水谷俊博(開拓者29)武蔵野のベース・キャンパスー目指すは,歌って踊れる建築家!?「アーツ前橋」 201808月 (『進撃の建築家たち』所収)




 

 武蔵野のベース・キャンパスー目指すは、歌って踊れる建築家!?

「アーツ前橋」

布野修司

 

 水谷俊博(図⓪a[1]は、何故かマイケルという。初めて会ったのは1995年の阪神淡路大震災直後である。設計製図の演習で二十歳のマイケルに出会っていたと思うけれど記憶にない。被災地の状況をとにかく見ようと京都大学布野研究室メンバー中心に10人余りで、電車が動いていた西宮から三宮まで徒歩で歩き、三田回りで戻って、何故か混み合う梅田の居酒屋で飲んだ。見慣れない顔があるので、誰だっけ、というと、マイケルと呼んでください、という。以後、マイケルである。


 内井昭蔵研究室所属のM1で、内井先生が定年退職で棄て子になって布野研究室に所属することになったーこういう無責任なことがよくある。かくいう僕も何人か酷い目に合わせた。僕自身も吉武泰水先生が57歳で筑波大に転出、博士課程にいきなさいと棄て子にされた。M2だから1年間で修論を書かないといけない。その頃、韓三建先生(蔚山大学教授)が博士論文を書いていて、膨大な土地台帳データを処理する仕事があった。蔚山で書くのならOK!と、かなり水準の高い修士論文[2]を書いた。

 神戸出身で親父さんが建設会社を経営していたというから、子どもの頃から建築家志望だったのであろう。オープンデスクで行ったのは高崎正治[3]の事務所である。高崎正治はよく知っていた。毛綱さんの事務所にいたことがあるし、渡部豊和さんとも親しかった。いわゆるコスモ派である。内井昭蔵と高崎正治とは作風は対比的に思えるが、高崎正治がなかなか採ると言わない。就職がなかなか決まらない時、たまたま僕に佐藤総合計画で人を探しているという話があった。声をかけると行ってみるか?となった。以来、折々に連絡をもらってきたけれど、東京に戻って近くに住むことになって会う機会が増えた。



 

  みのーれ

 再び会ったのは、大阪府のPFI委員会(大阪府警察寝屋川待機宿舎建替等整備事業に係る選定事業者審査委員会、2004年)である。佐藤総合計画がコンサルタント業務を担当、審査委員の僕と何度か会う機会があったのである。もっとも、度々社内報を送ってくれていて、それまでの仕事の様子は知っていた。佐藤総合計画では、茨城県の「小美玉市四季文化館みの~れ」(図①a)の設計に最初から最後まで関わった。徹底した参加型のプロジェクトでワークショップが楽しそうであった。オープニングの時には、縫いぐるみを着て舞台に立っている(図①b)。これからの建築家は歌って踊れないと駄目なんですよ、という。しかし、それにしても当時の佐藤総合計画の社内報はずいぶん元気がよかった。一緒に編集に当たっていたのはSUEP末光弘和+末光陽子)の末光(中村)陽子さんという。




 大阪府の仕事の際に研究室を訪れている際に、たまたま来ていた松本玲子(当時大林組設計部)さんと出会った。同じ兵庫出身で、とんとんと「みのーれ」となったのか?、知らないうちにー研究室内結婚は何組かあるのだけど、若い男女の機微に鈍感なのだろう、全て、え!であるー生活をともにする運びとなる(2004年)。松本さんはオランダ植民都市研究の一環でカリブ海の小さな島キュラソーのウィレムシュタットについて修論[4]を書いた。フルマラソンも走る才女である。今や事務所の片腕でもあり、武蔵野大学で非常勤講師も務める。

 

 アーチの森―大地の芸術祭

 結婚を機に独立を決意、同時に公募に応じた武蔵野大学に幸運にも採用された。以降、武蔵野キャンパスが拠点となる。毎年、その成果を送ってくれたけれど、学生たちと始めた武蔵野大学の学園祭(摩耶祭)のプロジェクトはわきあいあいと楽しそうである。「Arch Forestアーチの森」と題されたプロジェクトは2007200920102017と続けられる(図②abc)。武蔵野大学の緑に覆われた素敵なキャンパスの中に工房があって、単純な部材であれば容易に制作できる(図②d)。






基本的にセルフビルドによる架構の追求は、「木匠塾」がまさにそうだけれど、学生たちの実践的トレーニングになるし、マイケル自身にとってその後のプロジェクトのベースになる。平行して他流試合として手掛けたのは、大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレへの参加である。これも20092015と採択されている。2009年は、十日町市越後妻有交流館キナーレ内に、カフェ及び団欒スペースと情報ステーション機能を持った「こへびカフェ」(図③a)。2015年は、地元ガイドが来訪者を案内するための拠点として「里山フィールドミュージアムビジターセンター(図③bをセルフビルドで建てた。


小さな木からつくられていく 大きな森のような空間」は一貫して追及される。そして、「移動や変形が可能な部屋や開閉できる窓」など、建築のヴォキャブラリーが増えていく。椅子、ソファー、スツール、ベンチなどのプロダクト・デザインは、作品に実践的に使われていくことになる(図④abcde)。

 

 武蔵野クリーンセンター

 武蔵野大学着任とともに、自治体の仕事、各種委員会、審議会委員を務めるようになる[5]。まちづくりのワークショップに積極的に参加してきたのがきっかけという。佐藤総合計画での「みのーれ」の参加型計画設計の経験が大きい。

 「新武蔵野クリーンセンター」(武蔵野市)への関わりも当初は、ゴミ問題、環境問題をめぐる公開シンポジウムなどへの一市民としての参加であった。力量を認められたのであろう、施設・周辺整備協議会委員となり、事業者選定委員会委員も務め、さらに、デザイン設計の監修者としても関わることになった。設計はKAJIMA DESIGNあり、全体コンサルティングは日建設計である。正直、たいしたものだと思う。「アーツ前橋」(2012年)の実績が評価されたということであろうが、プロフェッサー・アーキテクトとはいえ、小さな設計事務所が、こうした大きなプロジェクトの重要な役割を果たしうる、そうした好事例である。







 竣工したということで案内をもらい、香月真大君(開拓者15)をさそって、西川編集長と一緒に見た(2017616日)。クリーンセンターすなわち清掃工場である(図⑤abcd)。建築の中心はプラント施設であり,根幹となるのは廃棄物処理のエンジニアリングである。しかし、市街地の真ん中にある清掃工場を敷地内で順次建て替える全体計画、「ゴミを通して社会の環境問題にふれる」ための見学・展示空間の設計、そして外観デザインなど建築家が果たすべき少なからぬ役割がある。

 「武蔵野の雑木林」というデザインコンセプトは、議論を積み重ねられるなかで設定されたのだと思う。外装のルーバーのデザインがひとつの解答である。細かい縦のルーバーの配列構成、茶系のベースに緑のツタを這わせる。そしてアクセントカラーとして茶色を微妙に変化させた色を所々に挿入する。既に様々に試みられつつあるが、無機的で無粋な概観をスーパーグラフィックで装うレヴェルは超えている。そのヴォリュームをいささか持て余しているように思えたが、本人に依れば、外観デザインにとどまらず、内部空間にも「武蔵野の雑木林」というデザインモチーフを展開し プラントのヴォリュームに合わせて、見学者の動線空間の高さに変化をつけ、大きな吹き抜け部の壁面に 角度をつけることで雑木林の中に入りこんだような雰囲気を創出しようとしたのだという。

 

 アーツ前橋

「アーツ前橋(前橋美術館)」のコンペ(審査委員長石田敏明、審査委員高橋晶子、池田政治、真室佳武他)に勝ったというニュースは、布野スクールの大きな話題となった。公共建築に携わるチャンスを最初に得たからである。新井久敏さんを中心とした群馬県における若手建築家に門戸を開いた一連のコンペ[6]の仕掛けは実に頭が下がる。竣工(2012年)したと聞いて見に行きたいと思っていたのであるが、京都大学の布野研究室出身で、ヨコミズマコトの富弘美術館のワークショップをはじめ様々なまちづくりにコミットする群馬大学の田中麻里さんと『東南アジアの住居 その起源・伝播・類型・変容』(京都大学学術出版会、20172月)の打合せを口実に高崎を訪問、見る機会を得た(2016422日)。

まずはプログラムと審査委員会がすぐれていた、というべきであろう。130の応募者があったというが、コンヴァージョンということで若手建築家も提案しやすかったと思う。既存建物の緩やかな曲線状の外形は、特注の穴の空いたアルミパネルで覆って衣替えさせた。美術館内部は、既存建物を裸にした上で、全体を周遊する空間構成として、様々なヴォリュームの展示室やプロムナードを巧みに配した。大小の開口部を介して空間相互の関係を視覚的に連結する手法は一貫して追求されている(図⑥abcd




 

 むさし野文学館

 「アーツ前橋」「武蔵野クリーンセンター」を除くと作品は今のところ多くはない。住宅の設計をしながら、コンペに挑戦するのがベースである。そうしたなかで武蔵野大学の中に「むさし野文学館」を設計する機会を得た。竣工したというので渡邊詞男(メタボルテックスアーキテクツ)さんを誘って見学した2018510日)。文学部の教員であった文芸評論家秋山駿(19302013)さんの遺族から寄贈された著作、蔵書約4300冊を収める記念館で、研修施設「紅雲台」の八畳和室を改装した小作品である(図⑦abc



 これはもう「お手のもの」といった作品であった。学生たちとのセルフビルドであり、「アーチの森」シリーズの蓄積がある。本棚によって限られた空間を仕切っていけばいい。ちょっとしたゼミスペース、読書机、展示ケースを巧みに配す。窓を通じた光の導入と外部への視線、本棚の隙間を介した空間の相互貫入、後部利用のためのレヴェル差の活用といった、「石神井台の家」にも共通する、得意な手法がはっきりと見て取れた。

 見学のあと水谷俊博建築設計事務所のある西荻に向かい、マイケルが2005年の着任以来ずっと一緒に設計製図を担当してきた大塚聡さんと飲んだ。大塚さんと渡邊さんは同じ早稲田の歴史研(中川武研究室)出身という奇遇、しかも、大塚さんは芝居好きで今でも、紅テント、新宿梁山泊と関わりがあるという。黒テントを設計した斉藤さんも知っているという。武蔵野大学のこと、早稲田の歴史研究室のこと、テント芝居のことなどで話は盛り上がった。「むさし野文学館」の仕事は文学部の土屋忍教授などから直接依頼されたのだという。学科主任を務めて全く時間がとれないという弱音も聞いたけれど、その活動を支えるしっかりしたコミュニティがあるのは頼もしい。

 

 石神井台の家

 住まい探訪のTV番組 『住人十色』だったと思う。「石神井台の家」(図⑧abcが取り上げられているのをたまたま見た。アルファヴィル(竹口健太郎+山本麻子)の自邸や滋賀県大の連中が豊郷でやった改倉プロジェクトなど、身近な若い建築家の設計がとりあげられるから時間があればチャンネルを合わせることが多かったのである。びっくりしたというか、やるなと思ったのは、「脚長」(図⑧a(a))という2階から3階に突き抜けた椅子に子供が腰かけている映像である。

 是非見たいと思っていて、「むさし野文学館」の前にみせてもらった。大学へは自転車で行ける距離である。中古住宅のリノヴェーションであるが、建築家がそれなりに設計していて、いささか癖のある住宅であった。用途機能ごとに壁で細切れに分節された空間に対し、 柱を残して可能な限り壁を取り払ってゆるやかにつながるワンルームとした上で、家具などで仕切っていく。住宅内の機能を限定せずに曖昧に溶け合わせる、のが設計趣旨である。子どもの成長と共に物も増え、独立性への要求も強まるであろうけれど、子どもにとっては実に楽しい空間である。



 訪問してちょうど一月後、京都大学の同級生のダブル大介(丹羽大介(鹿島デザイン)、伯耆大介(UR都市再生機構))が来るから来ませんかと、声がかかった。後輩の浅野(藤村)真樹(元野沢正光建築工房)ちゃんも誘って相棒とも一緒に出かけて、楽しいひとときを過ごした。談笑する中で、何故、マイケルなのか、わかった。マイケル・ジャクソンのマイケルだという。大学に入った頃からそう自称した。今でも丹羽大介と「親父バンド」を組んで演奏しているという。歌って踊れる建築家というのは口だけではない。

 大学はいまやかつての大学ではない。まるで専門学校化であり就職予備校である。教員も学生も実に忙しい。この国の大学教育研究システムの劣化は著しい。僕もそれなりに対処してきて管理職も務めて言いたいことがやまほどある。マイケルの仕事を振り返って、プロフェッサー・アーキテクトの役割について一筋の光がみえる。大いに期待したい。



[1] 1970年神戸市生まれ,1995年京都大学工学部建築学科卒業,1997年京都大学大学院工学研究科建築学専攻修了,1997年~2005年株式会社佐藤総合計画,2005年水谷俊博建築設計事務所設立,2005年武蔵野大学専任講師。准教授を経て2014年同工学部建築デザイン学科教授。

[2] 水谷俊博「日本植民統治期における韓国の都市変容に関する研究ー地方都市蔚山を事例としてー」京都大学修士論文,1997年。

[3] 1953年鹿児島生まれ。1976名城大学建築学科卒業1982TAKASAKI物人研究所設立。1990(高崎正治都市建築設計事務所。物人建築 主宰、京都造形芸術大学教授王立英国建築家協会名誉フェロー。

[4] 松本玲子「植民都市遺産の保存と活用に関する研究-ウィレムスタッド(キュラソー)を事例として」京都大学修士論文,2003

[5] 武蔵野市第四期長期計画調整計画都市基盤分野市民会議アドバイザー(2006.82008.3)西東京市総合計画策定審議会委員(副委員長)(2007.72008.12),西東京市人にやさしいまちづくり推進協議会委員(2008.52011.5),西東京市産業振興マスタープラン選定委員(委員長)(2009.92011.3),小金井市地域センター施設研究講座講師(2010.72010.9),新武蔵野クリーンセンター施設・周辺整備協議会委員(副会長)(2010.32011.3)など。

[6] 妙義山の公衆トイレ(1998)から富岡市新庁舎(2012)まで,公開プレゼンテーションによる審査は26件に及ぶ。