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2021年10月29日金曜日

アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究  Ⅰ  ロンボク島の概要

アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究,科研都城研究(199394)19953


アジア諸都市の都市組織と都市住宅のあり方に関する比較研究

Ⅰ.ロンボク島の概要*1

 

 

1.自然と生態

 ロンボク島は、南緯8度に位置し、東にはバリ島が西にはスンバワ島が隣接している。東西、南北ともに約80キロメートルの幅をもつ 5435km)。インドネシア語でロンボクというと「とうがらし」という意味であるが、もともとは、島の東部のある地域の名であった。原住民であるササック Sasak 族は、サラパラン Salaparang と呼んでいたという。

 知られるように、バリ島とロンボク島の間にはウォーレス線が走る。A.R.ウォーレス(1823年~1913*2)は、鳥類、哺乳類の分布をもとに地球上を六つの地区に分割したが、その東洋区とオーストラリア区の境界が二つの島の間にある。その線の西と東では、植物も含めて生物相に大きな断絶がある。のみならず、人間活動の形態においても大きな境界がある。大雑把にいって、ウォーレス線の西は、稲と水牛の世界であり、東は芋と豚の世界である。

 現在、ロンボクでは、稲作が盛んだが、もともとは、根菜類をベースとした島といっていい。リンジャニ山の麓の盆地は、にんにくが名物である。

 地形はバリ島によく似ている。中央にインドネシア第二のリンジャニ山(3726m)が聳え、大きく三つの地域に分けられる。すなわち、荒れたサバンナのような風景の見られる、リンジャニ山を中心とする北部山間部、豊かな水田地帯の広がる中央部、それに乾いた丘陵地帯の南部である。気候は、1年は乾季と雨季に分かれ、4月から9月が乾季に、10月から3月が雨季にあたる。

 

 

2.歴史

 考古学的発掘に依れば、紀元前6世紀にはロンボク南部に人類が居住していたとされる*3。ベトナム南部およびバリ、スンバなどと同種の人種であるという。また、ロンボク島の主要な民族であるササック族は、北西インドあるいはビルマ(ミャンマー)から移動してきたとされる。しかし、いずれにせよ、17世紀以前の歴史はよくわかっていない。17世紀初期、カランガセム王国のバリ人が移動してきてコロニーを建設し、西ロンボクを支配した。ここではロンボク島の歴史について、バリのロンボク支配を中心に概観したい。

 ロンボク島の歴史においては、3つの大きな外からの影響があった。それは、①15世紀から16世紀にかけてのジャワ文化の強い影響、②17世紀のバリとマッカサールからの政治的影響、③18世紀初めからのバリの政治的支配の強化である。

 ジャワ文化の影響は文化や宗教の両面に見られる。『ナガラ・クルタガマ』の中に、マジャパイトにロンボク島は属しているという記述が見られる。また、ゴリス(Dr.Goris)は、スンバルン Sembalun 盆地に居住している人々は、自分達はジャワ・ヒンドゥーの子孫であると信じている、ということを指摘している*1。もう一つの大きなジャワからの影響は、イスラーム化の波である。社会学者のバン・エルデ Van Eerde によるとササック族の中には宗教的に三つのグループがあるという*1。いわゆる、ブダ(Bodhas)とワクトゥ・テル(Waktu-telu)とワクトゥ・リマ(Wakutu-lima)の三つのグループである。ブダはリンジャニ山のある北部山岳地帯(バヤンあるいはタンジュン)、また、南部山岳地帯の2、3の村に20世紀初頭には見られたという。ブダは言語・文化・民族的にはササック族であるが、土着の宗教を信奉し続けた。ブダはイスラーム化を逃れて山岳地帯に逃げ込んだ人々だとされる。同様に、ロンボク島の年代記によると、服従したが改宗させられなかった人々がワクトゥ・テルであり、服従し改宗させられた人々がワクトゥ・リマである。

 9世紀から11世紀にかけて、ササック族の王国(Negara Sasak)が存在した。ロンボク年代誌(Babad Lombok)によれば、ロンボク最古の王国は、クチャマタン・サンベリアのラエ村にあったという。その後、クチャマタン・アイクメルのパマタンに王国が生まれる。スンバルン盆地であろうと考えられている。そうした前史があって、ジャワの影響が及んでくる。マジャパイト王国の王子ラデン・マスパイトがバトゥ・パランという国を建てたという。この国が、今日、スラパランと考えられている。また、13世紀には、プリギ国という名が知られる。ジャワからの移住であり、ロンボク島はプリギ島と呼ばれた。また、ブロンガスのクダロ国が知られる。ナガラ・クルタガマは、いくつかの小国の名を記している。マジャパイト王国は1343年にバリに侵攻、その勢力がロンボクに及ぶのはその翌年である。スラパランおよびクダロはマジャパイトに隷属することになる。

 マジャパイト王国崩壊の後、小さな国が林立する。その中で著名なのはラブハン・ロンボクのロンボク王国である。そして、17世紀には、バリ人が侵攻してくることになる。バリ人がロンボクに進入してきた同じ時期、マッカサール人が西スンバワの植民地から海峡を渡り、東ロンボクに居留地を建設した。17世紀の大部分にわたって、ロンボク島はバリのカランガセム王国とスンバワを支配していたマッカサールの争いの場となった。17世紀初頭、カランガセムからのバリ人がいくつかの植民地をつくり西ロンボクに政治的影響を及ぼしていた。同時期に、スンバワからのマッカサール人がアラス Alas 海峡を渡って東ロンボクを支配していた。西ロンボクにササック人の社会はあったが、ササックの貴族や王宮は存在しなかった。一方、東ロンボクには、ササック人のスラパランの王宮と貴族が実際に存在した。

 バリとマッカサールとの間の最初の大きな戦いは、1677年に勃発した。この年にバリ人は西と東を隔てている森を越えて、マッカサールと戦っているササックの貴族を助けた。1678年、バリがサラパランの王宮を破壊すると、マッカサールは総崩れになった。しかし、この勝利が東ロンボクに対する完全な支配を意味するわけではない。この地域に対する完全な支配を行うのに、バリ人は150年かかっている。1678年から1849年の間に、バリ人はだんだんと政治的支配を強めたのだ。彼らの主な敵対者はササックの貴族達であった。ササックの貴族は地方では村を支配していた。長いバリとササックとの争いは、4つの時代に分けられる。第1期は、1678年から1740年で、バリ人は東進を続け、彼らは、スンバワにまで勢力を伸ばしたが、失敗した。しかし、ロンボクを支配することには成功した。ババッド・ロンボク Babad Lombok(ロンボク島の年代期)はササック人の貴族の間の不和を描いている。ササックの貴族の中にはバリ人を東ロンボクに招く者もあった。バリ人は、何人かのササック人の助けを得て、全地域を征服したが、同盟していたササック人の支配する地域にも結局は政治的支配を及ぼした。そしてプラヤ Praya やバトゥクリヤン Batukliyang の独立も終わってしまった。これは、1740年の出来事だった。

 第2期、グスティ・ワヤン・テガ(Gusti Wayan Tegah)がロンボク支配した1740年から1775年である。バリ人は支配を強化したので、ササックが独立をする機会は殆どなかった。この時代、バリに対する反乱はなかった。

 第1期から第2期(1678年~1775年)の時期は、ロンボク島に対するバリ人支配の基盤が整備された時期である。この期間には、多くのヒンドゥー教寺院が建設され、チャクラヌガラ Cakranegara のプラ・メル(Pura Meru)が建設されたのは1720年、またチャクラヌガラのプラ・マユラが建設されたのは1744年建設がなされた。したがって、チャクラヌガラの都市基盤は18世紀初頭から中頃にかけて整備されたと考えられる。しかし、建設当初の姿に関する資料は存在せず、その建設当初の姿は分からない。

 第3期は、1775年から1838年にかけてである。グスティ・ワヤン・テガが1775年に没した後、2つの対立するバリ人の間に争いが勃発した。1800年頃、さらに王宮内での争論が王国の分裂を再び引き起こした。したがって19世紀初めには、4つの対立する公国が西ロンボクに存在した。主要な王国はチャクラヌガラ、マタラム、パガサンガン、パグダンであった。最終期にあたる1838年から1849年、バリは再び統合されたが、この期間、バリの東ロンボクに対する支配力は弱まり、ササック貴族は彼らの地域での独立を果たした。

 第4期は1838年から1849年の間であり、バリ人は再統一を果たした。1838年、敵対する公国の間の対立が最高点に達した。その年の1月、マタラム王国の王、グスティ・クトゥット・カランガセム(Gusti k'tut Karangasem)が、カランガセム軍・イギリス商人の王・ブギス人のイスラム教徒の助けを得て、チャクラヌガラの王、ラトゥ・ヌガラ・パンジ(Ratu Ngurah Panji)に対して戦争を始めた。

 その一方、チャクラヌガラ王は、パガサンガン・パグダン・オランダの商人ランゲ(Lange)・多くのササックの貴族の助けを得た。戦争は、海陸両方で、約6カ月続いた。オランダ商人ランゲ(Lange)の、バリからロンボク海峡を渡ってくる軍隊を止めようとする試みが失敗したために、マタラム(王は戦いで没した)は、徐々に優位になってきた。1838年6月、戦いは決した。マタラム軍は、チャクラヌガラの王宮(puri)を征服し、ラトゥ・ヌグラ・パンジと300人の家来が最後の自殺行為的な攻撃(puputan)で没した。マタラム王は、彼の長男であるラトゥ・アグンⅡ・クトゥット・カランガセム(Ratu Agung2 K'tut Karangsem)に位を譲った。バリの大君主(Susuhunan)であるクルンクンのデワ・アグン(Dewa Agung)が指名したイデ・ラトゥ(Ide Ratu)を空位であるチャクラヌガラ王に据えた。1839年、ラトゥ・アグンは、戦争終結以来、西ロンボクに対する事実上の権力を持っていた。そして、イデ・ラトゥの王位を奪い、その結果、クルンクンのデワ・アグンと敵対した。カランガセム王国のマタラム分王国の下、ロンボクのバリ人が統合されて間もなく、ラトゥ・アグンは、東ロンボクへの進行を行った。そして1849年ついに、王はカランガセムとロンボクの統合を果たした。それは、一方では、オランダ東インド会社との間の紛争を、他方ではクルンクンとブレレン Buleleng ・カランガセムとの間の紛争をうまく利用して、軍隊をバリへ送り、カランガセムのライバルにあたる分家を転覆させ、彼の指名する人物をカランガセムの王位につけたのだ。そして18世紀に存在したカランガセム・ロンボク王国は完全に再構築された。一つ違うのは、グスティ・ワヤン・テガがカランガセム王の領臣で、その上からラトゥ・アグンが支配するということである。

 その後、18世紀終わりには再び東部のササック人の反乱が始まった。バリ人の統治に対する不満も原因の一つであったが、ロンボクの王とクルンクン王の間の争いが最大の原因である。ロンボク王はササック人に対して軍隊をバリに送ることを命令した。1891年、それに反抗してロンボク島東部のプラヤのササック人の間に反乱がおこった。それに対してバリ人は軍隊を送るが、失敗に終わり、1891年9月22日、東ロンボクに対するバリの支配は終結する。その結果、バリは東部ロンボクのササック人に対する防衛ラインを設定せざるをえなくなった。第1の防衛ラインは、ババッド川(図3-1-1)、第二の防衛ラインはババッド川とチャクラヌガラ・マタラム、ババッド川とリンサール・グヌンサリを結ぶライン。第三の防衛ラインは、マタラムとチャクラヌガラであった。これらの都市は、二重に竹で囲まれており、その間に2mの間隔があり、そこに茨が植えてあり、また敵が突破しそうな所には、大砲が備えてあった。東部ササック人は、何度も第一防衛ラインに対して攻撃を試みたが、事々く失敗した。その後、バリ人が攻勢に転じた。

 しかし、1894年にはオランダの軍隊が西部ロンボク上陸し、バリ人はその対応に重点を移さざるを得なかった。そして、バリ人の支配は名目上だけになり、オランダの東インド会社が実質上の政治権力を握るようになった。その後、東部・西部のササック人に対してもバリ人が政治力を失うということが分かり、バリ人はオランダに対して反乱を試みた。1894年の8月25日の早朝のことである。はじめ、バリ軍は優勢に戦いを進めるが、その後、劣勢に転じた。11月にマタラム・チャクラヌガラの王宮が占領され、バリ人のロンボクに対する支配は完全に終結する。またオランダ人の命令により、チャクラヌガラの王宮も破壊され、各宅地の周りを囲んでいた土塀の高さも低くされた。この後、オランダ東インド会社の支配が1992年の日本のインドネシア占領まで続くのである。

 

 

3.ロンボク島の社会

 ロンボク島の原住民はササック族である。全人口は約300万人(1991年)に及ぶのだが、その約9割を占める。残りの1割で主要なのはバリ人である。バリ人は、ほとんどがチャクラヌガラを中心とした西ロンボクに住んでいる。他に、少数だが中国人、ジャワ人、アラブ人、マッカサール(ブギス)人、スンバワ人などがいる。港町、アンペナンには、カンポン・アラブ、カンポン・ブギス、カンポン・ムラユ(マレー)などの名前が現在も残っている。中国人は、アンペナンの他、マタラム、チャクラヌガラを中心に居住している。

 

 

 3-1 19世紀の社会構造

 19世紀末の正確な人口は不明であるが、その時代のオランダ人が概算した数値がある。ウィリアムスティン(Willemstijn)が行った調査では総計656,000人(ササック人60万人・バリ人5万人・その他ブギス人、マドゥーラ人、アラブ人、中国人6千人)であった。テン・ハベ(Ten Have)が行った調査では、総計40万5千人(ササック人38万人、バリ人2万人、ブギス人・中国人5千人)であった。バン・デル・クラン(Alfons van der Kraan*1によると実際のところは、この2つの調査の中間で、総計53万人(ササック人49万人・バリ人3万5千人・その他5千人)であったとされている。19世紀のロンボク島ではバリ人の王とバリの支配階級であるトリワンサ(triwangsa)が強大な勢力を所有し、共同体のすべて財産権は王の手にあった。耕作されていない土地の権利は、王の物であった。従って、新しく開墾しようとする農民は王の許可を得なければならなかった。農地には、大きく分けて2つの種類があった。一つは、ドゥルベ・ダレム(druwe dalem)と呼ばれる王が直接所有している土地、もう一つはドゥルベ・ジャベ(druwe jabe)と呼ばれる王宮外に住む人が所有する土地である。ドゥルベ・ダレムには3種類ある。① プンガヤ(pengayah)と呼ばれる土地は、毎年一定の税と賦役の労働という条件で農民が耕していた。そして、土地の譲渡は禁止されていた。② プチャトゥ(pecatu)と呼ばれる土地は、税を納めなくてもよいが賦役のある小さな扶地である。王は、バリの農民(sudra)と信頼できるササック人に与えた。またこの土地の所有権は、王の警護人や職人等にあった。この土地の1年以上の譲渡は禁止されている。③ワカップ(wakap)と呼ばれる土地は、税も賦役も無い扶地である。王はこれらの土地を寺院やモスクや潅漑組織に与えた。そこの生産物は、それらの施設の維持に充てられた。譲渡は禁止されていた。

 ドゥルベ・ジャベにも2つのタイプがあった。① ドゥルベ・ジャベ・バリ(Druwe jabe Bali)は、王がバリの貴族に与えた大きな扶地であった。王は、その土地から税と賦役は集めなかった。さらに、バリの貴族達は税を集め、自分の目的の為に賦役を利用した。② ドゥルベ・ジャベ・ササック(Druwe jabe Sasak)は、ササック人の貴族が所有する土地であり、条件はバリのものと同様であった。

 このような土地所有の方法は、ロンボクの社会に重要な結果を及ぼした。1番目は、西ロンボクでは、バリの権力は2世紀の間に渡って存続していたので、社会政治機構としての村は無くなり、バリの王や貴族が土地を直接統治していた。東ロンボクでは、近年バリの権力が再構築されたところであったので、村はまだ社会政治機構として存在し、ササックの貴族である村の長がいた。それらの長は、バリの地方長官(punggawa)の税徴収人よりも衰退した。2番目は、ササック人の農民の社会的地位が農奴的になったということ。3番目は、バリのスードラ(sudra)には無税の土地があてがわれるというように、ササック人よりバリ人の方が土地の所有に関して優遇されていた。

 このような土地所有制度から、19世紀ロンボク島の社会は、王を頂点にバリのトリワンサ(triwansa)・バリの農民とつながるピラミッドと、敵対関係にはあるがバリの王を頂点にササックの貴族・ササックの農民とつながるピラミッドのふたつのピラミッドから構成されていたことが分かる。しかし、相対的にはバリのピラミッドの方が高い地位を占めていた、と考えられる。また、西ロンボクと東ロンボクでは異なった統治方法が取られていた。西ロンボクの場合、ササックの貴族は存在せず、バリの王および貴族の直接支配であった。一方、東ロンボクの場合、ササックの貴族が存在し、ササックの貴族による支配と、バリの地方長官による支配の二通りの統治機構が存在した。

 このような、バリの帝国主義的な政策のため西ロンボクにおいては19世紀には、ササック人の村落共同体的な集落は存在しなくなっていた。

 

 

 3-2 人口構成

 1990年現在、インドネシア政府の人口統計*2によるとロンボク島の人口は表3-1-1に示すようになっており、合計で858、996人である。また、この表からロンボク島の人口密度がわかり、高い順にマタラム(5718人/k㎡)・アンペナン(5625人/k㎡)・チャクラヌガラ(3519人/k㎡)であり、また最も低いのが北部のスコトン・トゥンガ Sekotong Tengah(113人/k㎡)である。

 次にクチャマタン・マタラム、クチャマタン・アンペナン、クチャマタン・チャクラヌガラからなるマタラム市の人口構成について考察する。表3-1-2は、職業別人口構成でありある。これを見ると農業従事者の数は減少傾向にあり、その他は増加傾向にある。このことからマタラム市は都市化の傾向にあると考えられる。表3-1-3は、過去5年間の人口動向と今後25年の人口予想である。マタラム市では人口増加率を年間3.29%と予想しており、2015年には612733人になると予想している。したがって、人口密度は9985人/k㎡に達する。これは、明らかに超過密状態であり、緊急に対策を講じねばならないと考える。

 以上が、ロンボク島の人口構成である。ロンボク島全体の人口分布は南高北低型であり、また原住民であるサッサク人以外は、西テンガラ州の州都であるマタラム、バリの植民都市であるチャクランガラ、かつてはロンボクの主要港であったアンペナンに住んでいる。また都市部では農業以外の職業に就いている人も増加してきている。

 


2021年10月28日木曜日

アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究 目次 はじめに

アジア諸地域における格子状住区の形態と構成原理に関する研究,科研都城研究(199394)19953


アジア諸都市における格子状街区の形態と構成原理に関する比較研究

 チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)を中心として

 

目次                                                                     

 

はじめに                                                                

 

Ⅰ ロンボク島の概要

 1.自然と生態                                                     

 2.歴史                                                              

 3.民族と社会                                                   11

  3-1 19世紀の社会構造                                  11

  3-2 人口構成                                                13

 

Ⅱ チャクラヌガラの構成原理

 1.チャクラヌガラの空間構成                               14

  1-1 街路パターンと宅地割                               14

   12 住区構成ーーーカラン                                15

  13 祭祀施設と住区構成                                  16

  1-4 王宮の構成

 2.チャクラヌガラの住み分けの構造                       18

  2-1  人口構成と住区組織                                 18

  2-2  住民構成と施設分布                                 19

  2-3  住み分けの構図                                       19

  2-4  居住空間の構成                                       22

 3.チャクラヌガラの空間構造とコスモロジー            22

 

Ⅲ ロンボクの都市・集落・住居の構成原理

 1.ロンボク島のコスモロジー                               24

   プラの構成とオリエンテーション

   プラ・リンサール

   プラとオリエンテーション

   プラ・スラナディ

   プラ・ナルマダ

 2.都市ーーーインドージャワー比較                         27

 

Ⅳ グリッドの構成原理・・S.コストフの『形づくられた都市』より

 序                                                                 30

 1.直線による計画の性質                                   30

   グリッドと政治

   “よりよき秩序”か、型にはまった手法か

 2.歴史的回顧                                                  37

   古代世界のグリッド

   中世のニュータウン

   ヨーロッパにおけるルネサンス

   アメリカへの道

 3.グリッドの配置                                              49

   敷地

    調査官と理論家

   芸術家としての都市計画家

 4.都市と田園とを調整する機構                             55

   田園のグリッド

   グリッドの延長

 5.閉じたグリッド:骨格、強勢、空地                    59

   壁で囲まれた骨格

   広場の分割

   ブロックの構成

 6.20世紀におけるグリッド                               70

 

Ⅴ アジアの格子状街区パターン

 1.日本の格子状街区パターン                               75

  2.比較考察                                                   83

   都城の計画

   「藤原京」と中国の都城

   条坊制の変化

   平城京と長安城の相似点

 3.東アジアの格子状街区パターン                           87

   都城の理念

    『周礼』考工記にみる都市計画

    『周礼』考工記の影響

    『周礼』考工記に対する批判

   「風水」思想による古代の都市計画

    都城の数字に関する考察

 4.中国に於けるグリッドパターン                           94

 

Ⅵ.ヒンドゥーの都市計画

 1.古代インドの都市

 2.ヒンドゥーの建築書

 3 インドの空間構成 ー都市と王宮ー

 

 


はじめに

  

 本研究は、住区構成のための基本原理を得ることを大きな目的とし、アジア各地の都城の格子状街区パターンを取り上げ研究対象とする。

 具体的には、東南アジアの都市、特にジャワ・バリ・ロンボクの諸都市に焦点を当て、インドとの比較を試みる。また、それを踏まえて、大きく中国・日本との比較考察を試みる。ひとつのねらいは、日本の都城、特に京都における住区構成の比較都市論的視野からの位置づけである。

 大きな視点とするのは、住区構成の基本原理とその変容パターン、そして都市形態とコスモロジーの関係である。格子状パターンといっても、ブロックや道路の規模や配列によって様々である。また、時代とともに理念型としての基本型は変化していく。本研究では、平安京以降の京都の街区パターンとその変遷を一方で念頭に置きながら、格子状パターンのアジアにおけるヴァリエーションを明らかにすることを目的とする。

 インドネシアのロンボク島にチャクラヌガラという極めて明快な格子状の都市がある。極めて特異な例といっていい。その構成原理を明らかにすることを最初の目的とし、バリ、ジャワ、東南アジア、インド、中国と順次比較の視野を広げたい。

 格子状の街区パターンの対極に考えられるのがイスラーム圏の迷路状の街区パターンである。イスラーム圏であるインドネシアをまず焦点とするのは、その特徴をより明快に把握できると考えるからである。 

 格子状の街区パターンというのは、古来、エジプト、ギリシャを始め、各地に見られるのであるが、アジアの場合、その形態は宇宙観と結びつけられる場合が多い。本研究の独自な点は、都市形態とコスモロジーの関係に着目し、これまでにない広い視野で都市の住区構成パターンを比較考察することにまずある。具体的な視点、仮説の特徴は次のようである。

 第一、王権を根拠づける思想、コスモロジーが具体的な都市のプランに極めて明快に投影されるケースとそうでないケースがある。その違いを明らかにする。

 第二に、都市の理念型として超越的なモデルが存在し、そのメタファーとして現実の都市形態が考えられる場合と、実践的、機能的な論理が支配的な場合がある。前者の場合も理念型がそのまま実現する場合は少ない。また、都市構造と理念型との関係は時代とともに変化していく。この関係について考察する。

 第三に、都城の形態を規定する思想や理念は、その文明の中心より、周辺地域において、より理念的、理想的に表現される傾向が強い。具体的にアジアの広がりにおいておいて実証したい。

 本研究は一見壮大であるが、格子状住区パターンに的を絞り、具体的な都市同士の比較を積み重ねていくことを特徴としている。

 

 

 管見する範囲では、本研究のような着想の研究はまだない。インドネシアでは、最近、ジャワ北岸(パシシール)地域の諸都市についての研究が開始されつつあるが、緒についたばかりである。本研究を、インドネシア研究者との緊密な連絡のもとに展開し、その刺激になることを役割としたい。

 日本国内では、アジア諸都市についての研究が本格化しつつあるが、今のところ東アジアが中心である。また、南アジア、特にパキスタンについての蓄積が若干ある。本研究を、中国、インド、東南アジアを視野に収めた研究の端緒としたい。

 中国・日本の「都城」については、膨大な蓄積がある。本研究は、先行研究を応用したい。インドについても、ある程度国外研究者による研究がある。中国、インドについての先行研究は、本研究遂行の大きな背景になっている。

 『シルパシャストラ』、『マナサラ』、『ナガラクルタガマ』といった本研究の鍵となる文献は一応翻訳がある。日本でも一九五〇年代後半にその紹介がなされている。本研究では、さらに関連資料を収集しながら、読解する予定である。『マナサラ』の記述とボロドゥールのようなインドネシアのチャンディー建築を突き合わせる研究は、その保存に絡んでなされているが、都市計画についてはこれからのテーマである。


2021年10月27日水曜日

レジュメ: 九州大学 人間環境コロキウム 住まいにとって豊かさとは何か・・・アジアの都市と居住モデル 2001年12月12日

 九州大学

人間環境コロキウム
住まいにとって豊かさとは何か・・・アジアの都市と居住モデル

20011212

 布野修司(京都大学)

 

 はじめに

   ・建築計画→地域生活空間計画

  ・カンポン調査(東南アジアの都市と住居に関する研究)

  ・「イスラームの都市性」研究

  ・アジア都市建築研究

  ・植民都市研究

             

 [1]布野修司:戦後建築論ノート,相模書房, ,1981615

  [2]布野修司:スラムとウサギ小屋,青土社,1985128

  [3]布野修司:住宅戦争,彰国社,19891210

  [4]布野修司:カンポンの世界,パルコ出版,1991725

  [5]布野修司:戦後建築の終焉,れんが書房新社,1995830

  [6]布野修司:住まいの夢と夢の住まい・アジア住居論,朝日新聞社, 19971025

  [7]布野修司:廃墟とバラック・・・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅰ,彰国社,1998510

  [8]布野修司:都市と劇場・・・都市計画という幻想,布野修司建築論集Ⅱ,彰国社,1998610

  [9]布野修司:国家・様式・テクノロジー・・・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅲ,彰国社,1998710

 [10]布野修司:裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説、建築資料研究社,2000310

 

[2]布野修司:見知らぬ町の見知らぬ住まい,彰国社,編著,1990

 [4]布野修司:見える家と見えない家,叢書 文化の現在3,岩波書店,共著

[6]布野修司:日本の住宅 戦後50, 彰国社,編著,19953

  [9]布野修司:日本の住居1985,戦後40年の軌跡とこれからの視座,建築文化,彰国社,共著,1985

 [29]布野修司:これからの中高層ハウジング,建設省住宅局,丸善,共著,1993

 [35]布野修司:講座 現代居住全5巻 第2巻 家族と住居,早川和男編,東京大学出版会,共著,19967

 [38]布野修司:21世紀の集合住宅・・・持続可能で豊かな社会をめざして,中高層ハウジング研究会,19983

 

[1]布野修司:環境の空間的イメージーーーイメージマップと空間認識,M.W.ダウンズ ダビット. ステア共編 吉武泰水監訳,IMAGE AND ENVIRONMENT---Cognitive Mapping and Spatial Behavior, edited by Roger M, Downs & David Stea, Aldine Publishing Co. Chicago 1973,曽田忠広 林章 布野修司 岡房信共訳,鹿島出版会,共訳書,1976

[2]布野修司:生きている住まいー東南アジア建築人類学(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,学芸出版社,監訳書,19973

[3] 布野修司:植えつけられた都市--英国植民都市の形成、ロバート・ホーム著 ,布野修司+安藤正雄(監訳)+アジア都市建築研究会, Of Planting and Planning The Making of British Colonial Cities ,監訳書, 京都大学学術出版会、20017


住まいにとって豊かさとは何か・・・これからの住まい:日本の課題

 

  住まいと町づくりをめぐる基本的問題

 

  ●論理の欠落ーーー豊かさのなかの貧困

   ◇集住の論理    住宅=町づくりの視点の欠如

            建築と都市の分離

              型の不在 都市型住宅

              家族関係の希薄化

 

   ◇歴史の論理      スクラップ・アンド・ビルドの論理

            スペキュレーションとメタボリズム

            価格の支配 住テクの論理

            社会資本としての住宅・建築・都市

 

   ◇多様性と画一性  異質なものの共存原理

              イメージの画一性 入母屋御殿

              多様性の中の貧困 ポストモダンのデザイン

              感覚の豊かさと貧困  電脳台所

 

   ◇地域の論理   大都市圏と地方

            エコロジー

   ◇自然と身体の論理:直接性の原理

            人口環境化 土 水 火 木

              建てることの意味

 

   ◇生活の論理

    「家」の産業化

    住機能の外化 住まいのホテル化 家事労働のサービス産業代替

    住宅問題の階層化 社会的弱者の住宅問題

 


アジアの都市と居住モデル

 

Ⅰ.東南アジアの都市居住・・・都市カンポンの構成

      :スラバヤについて

   ○スラバヤの都市形成過程とその構造

   ○カンポンの構成

   ○カンポン住居の類型と変容プロセス

 

Ⅱ.東南アジアのハウジング・プロジェクト

   ○東南アジア各国の住宅政策

   ○セルフヘルプによるハウジング

   ○インフォーマル・グループの試み

   ○カンポン・ススン

 

Ⅲ.スラバヤ・エコハウス

 

 

Ⅳ.アジアの都市型住居

 

 . 東南アジアの民家

 


地域生活空間計画研究フレーム

 

 

 Ⅰ 居住空間システム

 

 [8]布野修司,田中麻里(京都大学):バンコクにおける建設労働者のための仮設居住地の実態と環境整備のあり方に関する研究,日本建築学会計画系論文集,483,p101-109,1996.05

[17]田中麻里(群馬大学),布野修司,赤澤明,小林正美:トゥンソンホン計画住宅地(バンコク)におけるコアハウスの増改築プロセスに関する考察,日本建築学会計画系論文集,512,p93-99,199810

 

  ◎ヴァナキュラー建築 住居の原型? 集合の基本形式

 [7]脇田祥尚,布野修司,牧紀男,青井哲人:デサ・バヤン(インドネシア・ロンボク島)における住居集落の空間構成,日本建築学会計画系論文集,478,p61-68,1995.12

 [9]脇田祥尚(島根女子短期大学),布野修司,牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):ロンボク島(インドネシア)におけるバリ族・ササック族の聖地,住居集落とオリエンテーション,日本建築学会計画系論文集,489,p97-102,199611

[14]山本直彦(京都大学),布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),三井所隆史(京都大学):デサ・サングラ・アグン(インドネシア・マドゥラ島)における住居および集落の空間構成,日本建築学会計画系論文集,504,p103-110,19982

 

 

  Ⅱ カンポン・ハウジング・システム

 

 [1]布野修司,前田尚美,内田雄造:「インドネシアのスラムの居住対策と日本の経験との比較」  第三世界の居住環境とその整備手法に関する研究 その1,日本都市計画学会 学術研究論文集 19,1984

 [2]布野修司,前田尚美,内田雄造:「インドネシアのカンポンの実態とその変容過程の考察」  第三世界の居住環境とその整備手法に関する研究 その2,日本都市計画学会,学術研究論文集20,1985

 [6]布野修司:カンポンの歴史的形成プロセスとその特質,日本建築学会計画系論文報告集,433,p85-93,1992.03

  ・カンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP) 

    ・ルーマー・ススン

[12]布野修司,山本直彦(京都大学),田中麻里(京都大学),脇田祥尚(島根女子短期大学):ルーマー・ススン・ソンボ(スラバヤ,インドネシア)の共用空間利用に関する考察,日本建築学会計画系論文集,502,p87~93,199712

    ・スラバヤ・エコハウス

 

  Ⅲ 街区組織と都市型住居 Urban Tissues

    グリッドThe Grid  

    コスモロジーCosmology 

    イスラームの都市原理 Hindu City & Islam City 

    棲み分けSegregation 

    街区組織と地域社会Block Pattern and Community Organization 

    Urban House Prototype

 

    Cakranegara---Jaipur

    Katumandu(Hadigaon, Patan, Thimi) Lahore ---Ahmedabad---Delhi

    Beijing--- Kyoto

    Taipei

    Ulsan--- Kyongju   

 

[10]布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)の街区構成:チャクラヌガラの空間構成に関する研究 その1,日本建築学会計画系論文集,491,p135-139,19971

[11]布野修司,山本直彦(京都大学),黄蘭翔(台湾中央研究院),山根周(滋賀県立大学),荒仁(三菱総合研究所),渡辺菊真(京都大学):ジャイプルの街路体系と街区構成ーインド調査局作製の都市地図(1925-28)の分析その1,日本建築学会計画系論文集,499,p113~119,19979

[19]山根周(滋賀県立大学),布野修司,荒仁(三菱総研),沼田典久(久米設計),長村英俊(INA):モハッラ,クーチャ,ガリ,カトラの空間構成ーラホール旧市街の都市構成に関する研究 その1,513,p227~234, 199811

[20]黒川賢一(竹中工務店),布野修司,モハン・パント(京都大学),横井健(国際技能振興財団):ハディガオン(カトマンズ,ネパール)の空間構成 聖なる施設の分布と祭祀,日本建築学会計画系論文集,514,155-162p,199812

[22]竹内泰,布野修司:「京都の地蔵の配置に関する研究」,日本建築学会計画系論文集,520,263-270p,19996

[23]韓三建,布野修司:「日本植民統治期における韓国蔚山・旧邑城地区の土地利用の変化に関する研究」,520,219-226p,19996

[25]闕銘宗(京都大学),布野修司,田中禎彦(文化庁):新店市広興里の集落構成と寺廟の祭祀圏,日本建築学会計画系論文集,521,p175181,19997

[28]トウイ,布野修司:北京内城朝陽門地区の街区構成とその変化に関する研究,日本建築学会計画系論文集,526,p175-183,199912

[29]Mohan PANT(京都大学),布野修司:Social-Spatial Structure of the Jyapu Community Quarters of the City of Patan, Kathmandu Valley, カトマンドゥ盆地・パタンのジャプ居住地区:ドゥパトートルの社会空間構造 ,日本建築学会計画系論文集,527,p177-184,20001

[30]根上英志,山根周,沼田典久,布野修司:マネク・チョウク地区(アーメダバード、グジャラート、インド)における都市住居の空間構成と街区構成,日本建築学会計画系論文集,535,p ,20009

[31]正岡みわ子,丹羽大介,布野修司:京都山鉾町における祇園祭と建築生産組織,日本建築学会計画系論文集,535,p ,20009

[32]トウイ,布野修司,重村力:乾隆京城全図にみる北京内城の街区構成と宅地分割に関する考察,日本建築学会計画系論文集,536,p,200010

 

 

 Ⅳ 世界都市史研究

 

 植民都市研究 All cities are in a way colonial

      Pretolia New Delhi Canberra

      Munbai Chennnai Calcutta

      田園都市計画

 

 

21世紀の集合住宅 3つの供給基本モデル

?モデル設計の5つの柱 

   スケルトン分離

  オープンシステム

  居住者参加

  都市型町並み形成

  環境共生

?供給モデル

  o型 one owner

  a型 association

  b  bond

?スケルトンモデル

   O型 柱列型 column

   A型   壁体スケルトン wall

  B型 地盤型スケルトン base

*(OAB)x(abc) 

 

 住居をめぐるいくつかのアクシス

  所有形式(所有-無所有、定住-移住、恒久-仮設)

  集合形式(独居-群居、男性-女性、複数家族ー核家族)

  空間形式(有限-無限、限定-無限定、自由-不自由)

  環境形式(場所-無場所、自然-人工、地下-空中)

  技術形式(画一性-多様性、自己同一性-大衆性、地域性-普遍性)

  象徴形式(生-死、コスモス-カオス、永遠ー瞬間)