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2023年8月17日木曜日

八束はじめ 『スラバヤ』読後感 応答

 布野さん


『スラバヤ』読了させてもらいました。
大著なので読み通せるかどうかと思いながらページを紐解いたのですが、
結局一日50ページづつという読み方で、読了に漕ぎ着けました。

いやはや、エンサイクロペディア的なお仕事ですね。巻末の方に布野さん
のこれまでの軌跡が記されており、感服しながら読ませてもらいました。
僕らのやってきたことは互いに随分と距離がありますが、それでもなるほどと
いわせないではおかないテクストでしたね。
『汎計画学』(読めよという圧力を感じないでいいですから)が、広大とは
いってもロシア一国の、それも十数年のことしか扱っていないのに、『スラバヤ』
は、ほとんど地球と歴史の三分のニくらいはカバーしているのではないでしょうか?

これを読んでからだったら、先だっての『世界建築史』の講話は話しにくかった
かもしれませんね(布野さんはどう思って聞かれていたのでしょう?)。
とはいえ、他の話し方はできなかったでしょうが。

まさか我々の最初の欧州旅行に絡むアムステルダム派の話から大東亜共栄圏まで
広がっていくとは予想もできませんでした。エンサイクロペディアたる所以ね。
布野さんの異分野からの共同研究者の方々もそんなには広がらないのでは
ないでしょうか?布野さんの研究者生活の精華ということでしょうか?
研究者魂みたいなものを感じましたよ。天晴れというべきか。

僕は植民地に関しては、北アフリカ(モロッコ、アルジェリア)、ベトナムなどの
旧仏領や日本の大陸進出は多少調べたことがありますが、布野さんのフィールドとは
あまり重なりませんが。芝浦では、この本でも引用されている畑聡一先生とは仲が
良かったこともあり、彼の研究室の人たちの(ほぼラオスとタイ)仕事は見ていたり
修論の副査をしたりしていたし、インドネシア(バンドン工科大学)からの留学生と
付き合っていたこともあるので(今はそこで教えているアースウィン君ー大変優秀
でした)、少しだけ接点はあるのかもしれません。アースウィン君はカンポンの生活
みたいなのをプレゼンしてくれましたが、コンピュータで街並みのスタディをする
とか博論も空間体験をデジタライズするとか新時代の研究者です。

あと、昔オーストラリアの建築家及び造園家の協会の大会(於タスマニア)に呼ばれ
た時に、老齢のオランダ人の建築家(名前は覚えていません)が来ていて、南太平洋
では大物だったらしい、とか、そういえば、レム・コールハースの父親はインドネシア
にいて(レムはそこで生まれた(、終戦後独立運動に加担したとかいう話は知っていま

が、布野さんのお仕事から見れば残り香程度の物ですね。

ご存知かもしれませんが、原研に席を置いていて、博士を取りながら僕の研究室でも
リサーチアシスタントをしてもらっていた田村順子さんという人がいて(現明治)、
『ハイパーデンシティ』(2011)で軍艦島と九龍城砦の記事をやってもらいました。
彼女はこういう集落をモデル化することに関心を持っている人で、本当は国連とかで
リサーチをしたいといっていました(メタボリ・グループなどのリマのコンペの
後日譚を調査したりもしていた)。僕の教え子で豊橋技術大学で教えている水谷君
というのが、上記のアスウィン君や田村さんと一緒に作業をしていました。デジタル仲
間みたい。

ちなみにカンポンの改善事業で、コアハウスという手法は僕にはメタボリズムを思わせ

ものがありました。面白いですね。強いていえば、この辺の事柄はもっと詳しく載せて
欲しいという気はしました。知っている人たちには十分かもしれないけど、知らない
人間には、小さな図や写真だけでは分かりにくいのです。例えばP.434の改善前と後の
比較写真では、あまり違いが分からない。綺麗になったかな、というくらい。

でも全体として感銘深い本でしたよ。お礼を言います。また話しましょう。

八束

八束さん

 『スラバヤ』丁寧に読んでくださり、ありがとうございます。
 また、話す機会があれば、ゆっくり説明したいと思いますが、これまで、京都大学学術出版会から出してきた『近代世界システムと植民都市』『曼荼羅都市』『ムガル都市』『大元都市』『グリッド都市』など10冊の本の大半は、学術振興会JSPSの研究成果公開促進費(出版助成 学術図書)の助成を受けて出版したものです。助成を受けるに当たっては、審査があり、「学術書」に相応しい組立て、起承転結、テーマ立ての階層性がチェックされます。『スラバヤ』は、序に書いたつもりですが、その規範を破る試みでした。よく通ったと思います。
 現在、「学術書」としては最後になるであろう『アジア海域世界の港市 異文化共生の原理』を書きあげ、お盆明けに助成申請をしようとしています。昨日書き上げた計画書添付します。最近は、見積書などとともにほぼ完成原稿(PDF提出)を求められます。

 『汎計画学』は、もちろん、読ませていただきます。ただ、以上の他に何冊か抱えており、しばらく時間ください。
 ロシア革命史をおさらいしながら読もうと思いますが、アメリカ篇のことを想うと、基本的に資本主義論、資本主義の未来をめぐって読むことになるとおもっています。経済学は苦手で、敬して?(よくわからんと)遠ざけてきましたが、最近のマルクス再評価と重ねて読むことになると思います。

 布野が東京に帰って八束さんと学会で行った連続セミナー?はまとめてあって、出版社に持ち掛けたことがあるのですが、フォロー、プッシュするのを怠るうちに、立ち消えになりつつあります。
 『汎計画学』をめぐって、対話のようなことができればと思っています。

布野さん

お誕生日、お互いにおめでとう(たくはないか?)。

まだまだ書くのね(笑)?大したものです。負けそう。

経済学は、理論経済学は要するにモデル議論なので面白いです。
実態の経済は断ち切るというのが凄い。
昔はあれほど退屈な学問はないとか毛嫌いしていましたが。

学会誌の絡みで15講にも登場した江本弘さんにインタビューされることに
なりました。15講の議論と『汎計画学』を束ねた議論になるといいなと
思っています。
青井さんのいう「モンスター」の知見との交わり、なかなか楽しみです。

ただ、30年以上の友人だったジャン・ルイ・コーエンが急死して
いささか気落ちしています。ハチだかあぶだかに刺されてショック
らしいけど、彼は布野さんと同じ歳よ。
知らなかったのだけれど、彼のお父さんはレジスタンスのレジェンドで、
お母さんはアウシュヴィッツの生き残りだったらしく、驚いています。

ちなみに、彼には、前妻のモニック・エレーブ(住宅の専門家、社会学的な人)
との共著で「カサブランカ」という植民都市の研究書があります。
いい本ですよ。ちなみに「みかん組」のマヌエルはこの二人の弟子だったらしい。

八束


2023年2月25日土曜日

日本のカンポン、雑木林の世界83,199607

 日本のカンポン、雑木林の世界83,199607

雑木林の世界83 

日本のカンポン

布野修司

 

 不思議なつながりから、大阪の西成地区のまちづくりのお手伝いをすることになった。西成地区と言えば、全国でも有数の「寄せ場」釜ケ崎がある。まちづくりの対象地区は、その西、西浜地区を中心とする日本でも有数の被差別部落(全国最大の都市部落)だった地区である。「大阪市総合計画21」にもとづいて西成地区のまちづくりが本格的に開始されることになったのである。

 同和地区のまちづくりについては、東洋大学の内田雄造先生とそのグループが多くの実績を挙げている。東洋大学時代に、その側にいて、色々教えを乞うたのであるが、同和地区のまちづくりについては、お手伝いする機会はなかった。今回も真っ先に相談するところなのであるが、関西のことでもあり、まずははじめてみようというところである。いささか心許ないけれど、後ろに内田先生がいると思うと心強い。いろいろと教えて頂くことになるであろう。

 まずは二日にわたって地区内を歩いた。とにかく地区を知らなければ話にならないであろう。まちづくりの方針もフィールドの中からいろいろと得ることができるのである。

 歩き出すとすぐにわくわくしてきた。まちの雰囲気がインドネシアのカンポン(都市内集落)に似ているのである。僕が親しいスラバヤのカンポンは平屋が主体で、もちろん、佇まいは異なるのであるが、ぎっしりと建て詰まり、路地の細さや曲がり方が似ているのである。

 いろいろな店が町中に点在しているのも似ているし、人が多くて活気のあるのもいい。そして、コミュニティがしっかりしているのがわかる。解放同盟の組織、町会や民生委員の区割り図が方々に掲げられている。そして、街区の中には地蔵堂が点々とある。

 調査は、いわゆるデザイン・サーヴェイである。まず歩いて、建築形式(階数、構造、建築類型など)、施設分布、井戸や地蔵堂などの分布、植木や看板・消火栓・自販機など外部空間を地図上にプロットしていくのである。インドネシアでもインドでも台湾でも同じように調査をするのであるが、まちを身体で理解するには歩き回るにしくはない。今回は述べ四〇人ほどが参加したであろうか。調査をもとにいろいろと気づいたことを議論するのが調査の醍醐味である。

 地区の歴史は、『焼土の街からー西成の部落解放運動史』(部落解放同盟西成支部編 一九九三年)にまとめられている。また、その歴史については、『大正/大阪/スラム』(杉原薫・玉井金五編 新評論 一九八六年)の「第三章 都市部落住民の労働=生活過程ー西浜地区を中心にー」が詳しい分析を行っている。後者の本は、以前書評したことがあったのであるが、再読することになった。もちろん、読むべき文献は「都市部落の生成と展開ー摂津渡辺村の史的構造ー」(中西義雄 『部落問題研究』4号 一九五九年)など数多い。地区を知るには文献研究も不可欠である。

 しかし一方で、早急にまちづくりの方針を定めなければならない。いくつかの具体的なプロジェクトは動きだそうとしているのである。まず、大きなテーマとなるのは住環境整備である。反射的に思ったのは、地区のコミュニティの構造を大きく崩さずに再開発することができないか、ということである。

  地区を歩いていると、改良住宅に建て替えられた地区が何故か寂しく活気がない。一階など有刺鉄線で囲われたりして、閉鎖的である。既存の活気ある街区がそうなるのは大問題である。

 既にカンポンで考えたことだ。共用空間を最大限に取り、店などを組み込んだ都市型住居をここでも実現すべきだ。単身の老人も多いことからケア付きのコレクティブ・ハウジングも考えられてよい。

 また、道路が拡幅されて街が分断されるという問題がある。そこには街の核となる施設が必要ではないか。芸人が育った街であり、若い芸人の登竜門となるような演芸場をつくったらどうだという話が出だしている。また、職人が多いのだから、職人大学もいいんじゃないか。皮革産業を基盤としてきたことから「靴の博物館」の構想もある。

 もちろん、施設計画だけではない。ソフトな仕組みを含めて日本で最先端のまちづくりをしようという意気込みが解放同盟に満ちている。同和地区のまちづくりが先進的なのはまちづくりの主体がしっかりしているからである。

 解放同盟は、大阪市に対する一〇〇項目の具体的要求をまとめつつある。街づくり政策、住宅政策、道路・交通・環境政策、教育・保育政策、福祉・健康政策、産業・労働政策、人権・啓発政策に分けられているが、その全体構想は壮大である。というより、まちづくりは総合的なアプローチが不可欠であり、個々の要求項目をどう相互関連のもとに総合的に実現するかが問われるのである。

 西成地区まちづくり委員会の育成と法人化、街づくり会館の建設、ボランティア活動支援センターの設置等々、まちづくり運動の拠点となることが目指されている。

 また、地区内はすべてバリアフリーとする、そうした障害者にやさしいまちづくりをめざすことが目指されている。

  さらに、マルティメディア利用など、最先端の技術をビルトインしたまちづくりが目指されている。

 要するに、日本一のまちづくりが目標なのである。日本一遅れていたが故に、それは可能なのだ


2023年1月20日金曜日

講義:環境市民サスティナブル・コミュニティ研究会 本当に豊かな住まいとは共に生きる・自由に生きる アジアの都市と居住モデル 2002年1月15日

講義:環境市民サスティナブル・コミュニティ研究会 本当に豊かな住まいとは共に生きる・自由に生きる アジアの都市と居住モデル 2002115

環境市民
サスティナブル・コミュニティ研究会(SC研)連続公開講座
本当に豊かな住まいとは・・・共に生きる・自由に生きる

アジアの都市と居住モデル

2002115

 布野修司(京都大学)

 

 はじめに

   ・建築計画→地域生活空間計画

  ・カンポン調査(東南アジアの都市と住居に関する研究)

  ・「イスラームの都市性」研究

  ・アジア都市建築研究

  ・植民都市研究

             

 [1]布野修司:戦後建築論ノート,相模書房, ,1981615

  [2]布野修司:スラムとウサギ小屋,青土社,1985128

  [3]布野修司:住宅戦争,彰国社,19891210

  [4]布野修司:カンポンの世界,パルコ出版,1991725

  [5]布野修司:戦後建築の終焉,れんが書房新社,1995830

  [6]布野修司:住まいの夢と夢の住まい・アジア住居論,朝日新聞社, 19971025

  [7]布野修司:廃墟とバラック・・・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅰ,彰国社,1998510

  [8]布野修司:都市と劇場・・・都市計画という幻想,布野修司建築論集Ⅱ,彰国社,1998610

  [9]布野修司:国家・様式・テクノロジー・・・建築のアジア,布野修司建築論集Ⅲ,彰国社,1998710

 [10]布野修司:裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説、建築資料研究社,2000310

 

[2]布野修司:見知らぬ町の見知らぬ住まい,彰国社,編著,1990

 [4]布野修司:見える家と見えない家,叢書 文化の現在3,岩波書店,共著

[6]布野修司:日本の住宅 戦後50, 彰国社,編著,19953

  [9]布野修司:日本の住居1985,戦後40年の軌跡とこれからの視座,建築文化,彰国社,共著,1985

 [29]布野修司:これからの中高層ハウジング,建設省住宅局,丸善,共著,1993

 [35]布野修司:講座 現代居住全5巻 第2巻 家族と住居,早川和男編,東京大学出版会,共著,19967

 [38]布野修司:21世紀の集合住宅・・・持続可能で豊かな社会をめざして,中高層ハウジング研究会,19983

 

[1]布野修司:環境の空間的イメージーーーイメージマップと空間認識,M.W.ダウンズ ダビット. ステア共編 吉武泰水監訳,IMAGE AND ENVIRONMENT---Cognitive Mapping and Spatial Behavior, edited by Roger M, Downs & David Stea, Aldine Publishing Co. Chicago 1973,曽田忠広 林章 布野修司 岡房信共訳,鹿島出版会,共訳書,1976

[2]布野修司:生きている住まいー東南アジア建築人類学(ロクサーナ・ウオータソン著 ,布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会,The Living House: An Anthropology of Architecture in South-East Asia,学芸出版社,監訳書,19973

[3] 布野修司:植えつけられた都市--英国植民都市の形成、ロバート・ホーム著 ,布野修司+安藤正雄(監訳)+アジア都市建築研究会, Of Planting and Planning The Making of British Colonial Cities ,監訳書, 京都大学学術出版会、20017


本当に豊かな住まいとは・・・共に生きる・自由に生きる

・・・これからの住まい:日本の課題

 

  住まいと町づくりをめぐる基本的問題

 

  ●論理の欠落ーーー豊かさのなかの貧困

   ◇集住の論理    住宅=町づくりの視点の欠如

            建築と都市の分離

              型の不在 都市型住宅

              家族関係の希薄化

 

   ◇歴史の論理      スクラップ・アンド・ビルドの論理

            スペキュレーションとメタボリズム

            価格の支配 住テクの論理

            社会資本としての住宅・建築・都市

 

   ◇多様性と画一性  異質なものの共存原理

              イメージの画一性 入母屋御殿

              多様性の中の貧困 ポストモダンのデザイン

              感覚の豊かさと貧困  電脳台所

 

   ◇地域の論理   大都市圏と地方

            エコロジー

   ◇自然と身体の論理:直接性の原理

            人口環境化 土 水 火 木

              建てることの意味

 

   ◇生活の論理

    「家」の産業化

    住機能の外化 住まいのホテル化 家事労働のサービス産業代替

    住宅問題の階層化 社会的弱者の住宅問題

 


アジアの都市と居住モデル

 

•Ⅰ.東南アジアの都市居住・・・都市カンポンの構成

      :スラバヤについて

•   ○スラバヤの都市形成過程とその構造

•   ○カンポンの構成

•   ○カンポン住居の類型と変容プロセス

 

•Ⅱ.東南アジアのハウジング・プロジェクト

•   ○東南アジア各国の住宅政策

•   ○セルフヘルプによるハウジング

•   ○インフォーマル・グループの試み

•   ○カンポン・ススン

 

•Ⅲ.スラバヤ・エコハウス

 

 

•Ⅳ.アジアの都市型住居

 

 . 東南アジアの民家

 

 

21世紀の集合住宅 3つの供給基本モデル

?モデル設計の5つの柱 

   スケルトン分離

  オープンシステム

  居住者参加

  都市型町並み形成

  環境共生

?供給モデル

  o型 one owner

  a型 association

  b  bond

?スケルトンモデル

   O型 柱列型 column

   A型   壁体スケルトン wall

  B型 地盤型スケルトン base

*(OAB)x(abc) 

 

 住居をめぐるいくつかのアクシス

  所有形式(所有-無所有、定住-移住、恒久-仮設)

  集合形式(独居-群居、男性-女性、複数家族ー核家族)

  空間形式(有限-無限、限定-無限定、自由-不自由)

  環境形式(場所-無場所、自然-人工、地下-空中)

  技術形式(画一性-多様性、自己同一性-大衆性、地域性-普遍性)

  象徴形式(生-死、コスモス-カオス、永遠ー瞬間)

 

 


地域生活空間計画研究フレーム

 

 

 Ⅰ 居住空間システム

 

 [8]布野修司,田中麻里(京都大学):バンコクにおける建設労働者のための仮設居住地の実態と環境整備のあり方に関する研究,日本建築学会計画系論文集,483,p101-109,1996.05

[17]田中麻里(群馬大学),布野修司,赤澤明,小林正美:トゥンソンホン計画住宅地(バンコク)におけるコアハウスの増改築プロセスに関する考察,日本建築学会計画系論文集,512,p93-99,199810

 

  ◎ヴァナキュラー建築 住居の原型? 集合の基本形式

 [7]脇田祥尚,布野修司,牧紀男,青井哲人:デサ・バヤン(インドネシア・ロンボク島)における住居集落の空間構成,日本建築学会計画系論文集,478,p61-68,1995.12

 [9]脇田祥尚(島根女子短期大学),布野修司,牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):ロンボク島(インドネシア)におけるバリ族・ササック族の聖地,住居集落とオリエンテーション,日本建築学会計画系論文集,489,p97-102,199611

[14]山本直彦(京都大学),布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),三井所隆史(京都大学):デサ・サングラ・アグン(インドネシア・マドゥラ島)における住居および集落の空間構成,日本建築学会計画系論文集,504,p103-110,19982

 

 

  Ⅱ カンポン・ハウジング・システム

 

 [1]布野修司,前田尚美,内田雄造:「インドネシアのスラムの居住対策と日本の経験との比較」  第三世界の居住環境とその整備手法に関する研究 その1,日本都市計画学会 学術研究論文集 19,1984

 [2]布野修司,前田尚美,内田雄造:「インドネシアのカンポンの実態とその変容過程の考察」  第三世界の居住環境とその整備手法に関する研究 その2,日本都市計画学会,学術研究論文集20,1985

 [6]布野修司:カンポンの歴史的形成プロセスとその特質,日本建築学会計画系論文報告集,433,p85-93,1992.03

  ・カンポン・インプルーブメント・プログラム(KIP) 

    ・ルーマー・ススン

[12]布野修司,山本直彦(京都大学),田中麻里(京都大学),脇田祥尚(島根女子短期大学):ルーマー・ススン・ソンボ(スラバヤ,インドネシア)の共用空間利用に関する考察,日本建築学会計画系論文集,502,p87~93,199712

    ・スラバヤ・エコハウス

 

  Ⅲ 街区組織と都市型住居 Urban Tissues

    グリッドThe Grid  

    コスモロジーCosmology 

    イスラームの都市原理 Hindu City & Islam City 

    棲み分けSegregation 

    街区組織と地域社会Block Pattern and Community Organization 

    Urban House Prototype

 

    Cakranegara---Jaipur

    Katumandu(Hadigaon, Patan, Thimi) Lahore ---Ahmedabad---Delhi

    Beijing--- Kyoto

    Taipei

    Ulsan--- Kyongju   

 

[10]布野修司,脇田祥尚(島根女子短期大学),牧紀男(京都大学),青井哲人(神戸芸術工科大学),山本直彦(京都大学):チャクラヌガラ(インドネシア・ロンボク島)の街区構成:チャクラヌガラの空間構成に関する研究 その1,日本建築学会計画系論文集,491,p135-139,19971

[11]布野修司,山本直彦(京都大学),黄蘭翔(台湾中央研究院),山根周(滋賀県立大学),荒仁(三菱総合研究所),渡辺菊真(京都大学):ジャイプルの街路体系と街区構成ーインド調査局作製の都市地図(1925-28)の分析その1,日本建築学会計画系論文集,499,p113~119,19979

[19]山根周(滋賀県立大学),布野修司,荒仁(三菱総研),沼田典久(久米設計),長村英俊(INA):モハッラ,クーチャ,ガリ,カトラの空間構成ーラホール旧市街の都市構成に関する研究 その1,513,p227~234, 199811

[20]黒川賢一(竹中工務店),布野修司,モハン・パント(京都大学),横井健(国際技能振興財団):ハディガオン(カトマンズ,ネパール)の空間構成 聖なる施設の分布と祭祀,日本建築学会計画系論文集,514,155-162p,199812

[22]竹内泰,布野修司:「京都の地蔵の配置に関する研究」,日本建築学会計画系論文集,520,263-270p,19996

[23]韓三建,布野修司:「日本植民統治期における韓国蔚山・旧邑城地区の土地利用の変化に関する研究」,520,219-226p,19996

[25]闕銘宗(京都大学),布野修司,田中禎彦(文化庁):新店市広興里の集落構成と寺廟の祭祀圏,日本建築学会計画系論文集,521,p175181,19997

[28]トウイ,布野修司:北京内城朝陽門地区の街区構成とその変化に関する研究,日本建築学会計画系論文集,526,p175-183,199912

[29]Mohan PANT(京都大学),布野修司:Social-Spatial Structure of the Jyapu Community Quarters of the City of Patan, Kathmandu Valley, カトマンドゥ盆地・パタンのジャプ居住地区:ドゥパトートルの社会空間構造 ,日本建築学会計画系論文集,527,p177-184,20001

[30]根上英志,山根周,沼田典久,布野修司:マネク・チョウク地区(アーメダバード、グジャラート、インド)における都市住居の空間構成と街区構成,日本建築学会計画系論文集,535,p ,20009

[31]正岡みわ子,丹羽大介,布野修司:京都山鉾町における祇園祭と建築生産組織,日本建築学会計画系論文集,535,p ,20009

[32]トウイ,布野修司,重村力:乾隆京城全図にみる北京内城の街区構成と宅地分割に関する考察,日本建築学会計画系論文集,536,p,200010

 

 

 Ⅳ 世界都市史研究

 

 植民都市研究 All cities are in a way colonial

      Pretolia New Delhi Canberra

      Munbai Chennnai Calcutta

      田園都市計画







 

2022年8月2日火曜日

カンポンとコンパウンド Kampung and Compound、traverese22、202203 


https://repository.kulib.kyoto-u.ac.jp/dspace/handle/2433/270130

 traverese22 

カンポンとコンパウンド

Kampung and Compound

 

Shuji Funo

布野修司

 

 「ある都市の肖像:スラバヤの起源 Shark and Crockodile」(traverse19,2018)で予告した著作をようやく上梓することができた。タイトルは、『スラバヤ物語―ある都市の肖像 時間・空間・居住』(仮)としていたが、最終的に『スラバヤ 東南アジア都市の起源,形成,変容,転生―コスモスとしてのカンポン 』(京都大学学術出版会,2021年)(図①)となった。

タイトルは一般に編集者すなわち出版社の意向を尊重することになるが、本書のサブタイトル「コスモスとしてのカンポン」は、京都大学学術出版会の鈴木哲也編集長(専務理事)の強い薦めがあった。本書は鈴木さんと組んだ11冊目の本になる。鈴木さんには『学術書を書く』(鈴木哲也・高瀬桃子共著,2015)『学術書を読む』(2020)という2冊のベストセラーがある。『学術書を読む』には、「良質の科学史・社会文化史を読む」「「大きな問い」と対立の架橋」「古典と格闘するー「メタ知識」を育む」「現代的課題を歴史的視野から見る」という「専門外」に向けての4つの指針が挙げられている。是非手に取ってみて欲しい。


『スラバヤ』は、建築計画学を出自とする著者の建築計画学批判に関わるひとつの決算の書(解答書)である。19791月、はじめてインドネシアの地を踏んでバラックの海と化したカンポンに出会い、戦後日本において建築計画学が果たした役割を思い起こしながら、ここで求められているのは日本と同じ解答ではない、と直感した。以降、毎年のように通い、調査を継続してきたのがスラバヤであり、この40年間に学んだことの全てを盛り込んだのが本書である。スラバヤで活躍したオランダ人建築家の近代建築作品など、スラバヤ、インドネシアそして東南アジアの住居・集落・都市についての基本的情報は収めてある。

「ある都市の肖像」のグローバルな射程については「結」に記した。「時間―空間―居住」「起源・形成・変容・転生」の重層的構成、長めの注カスケードCascadeによる時空の拡張、QRコードによる動画の組み込み(図②)など、起承転結型の学術書を超える挑戦的試みを評価して頂ければと思う。

 

コンパウンド

 ところで、『スラバヤ』がキーワードとする「カンポンkampung」とは、インドネシア(マレー)語で「ムラ」という意味である。「カンポンガンkampungan」というと「イナカモン」というニュアンスで用いられる。そして、カンポン(ムラ)は都市の住宅地について用いられる。「都市村落urban village」というのがぴったりである。

 このカンポン、実は、英語のコンパウンドcompoundの語源だという。 コンパウンドには通常2つの意味がある。第1は,他動詞の「混ぜ合わせる,混合する」,形容詞の「合成,混成の,複合の,混合のcomposite,複雑な,複式の」である。そして,第2は,名詞で「囲われた場所」である。

英英辞書を引けば、compoundnoun)は,an area surrounded by fences or walls that contains a group of buildingsと簡潔に説明される。フェンスや壁によって囲われたsurrounding領域がコンパウンドである。英語で「包む」は、wrap, pack, encase・・・、「取り巻く」はsurround, enclose, circle…などがあり、それぞれニュアンスが異なるが、コンパウンドについて考えることは、<我々(建築)を包み、取り巻くもの>を考えることになる。人間社会を構成する最小の居住単位としての1軒あるいは何軒かの住居の集合体がコンパウンドである。英語には、コンパウンドの他、ホームステッドhomested、セツルメントsettlementが用いられる。他にも,移動性の高い場合はキャンプcamp、さらに,エンクロージャーenclosure,クラスターcluster,ハムレットhamlet,そしてヴィレッジvillageなどがある。

 

カンポン 

学位論文『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究ーーーハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学,1987年)のエッセンスを一般向けにまとめた『カンポンの世界 ジャワの庶民生活誌』(1991)を書いた著者として、その不明を恥じたが、カンポンがコンパウンドの語源であることは、東京外語大学の椎野若菜さんから「「コンパウンド」と「カンポン」―居住に関する人類学用語の歴史的考察―」(『社会人類学年報』262000年)という論文を送って頂いて初めて知った。

椎野論文は、サブタイトルが示唆するように,人類学者として「居住」に関する英語の語源を確認することを目的としている。そして、その骨子は,コンパウンドは,マレー農村を指す「カンポン」を語源とする説が有力で,その英語[1]への借入過程には,西欧諸国の植民地活動の軌跡が関わっている,ということである。


 オックスフォード英語辞典OEDは,コンパウンドは植民地時代以降の慣例にみられるとし,異説を紹介した上で,マレー農村を意味するカンポンがインド英語Anglo-Indian Englishを経て伝わったとするユールとバーネルYule, H. and Burnel, A.C.(1903, William Crooke(ed.)[2]の説を紹介している。コンパウンドは,(1)囲い込み(enclosure,囲い込まれた空間,あるいは,(2)村(village),バタヴィアにおける「中国人のカンポン」のような,ある特定の民族(nationality)によって占められた町(town)の地区を意味する。(2)の例として,1613年のポルトガル人の著書にcamponという綴りが見られるという[3]

 ポルトガル語のcampoの転訛という異説[4]を含めた議論の詳細は『スラバヤ』(Space FormationⅠデサ/村落4カンポンとコンパウンド)に譲ろう。カンポンについて考えることは、世界中のコンパウンドについて考えることに繋がるのである。

 

デサ

現在のインドネシアの行政単位は、農村部(カブパテンkabupaten)はデサdesa(行政村)である。農村部も都市部(コタマジャkotamadya)も下位単位クチャマタンkecamatanからなり,農村部ではデサがクチャマタンの構成単位となる。デサはさらに下位単位ドゥクーdukuhによって構成される。都市部では,クルラハンkelurahanがクチャマタンを構成し,その下位単位となるのがRW(エル・ウェー)(ルクン・ワルガRukun Warga)とRT(エル・テー)(ルクン・タタンガ)である。

デサは,もともと,ジャワ,マドゥラの村落を指す言葉であった。14世紀に書かれたマジャパヒト王国の年代記『デーシャワルナナ』(『ナーガラクルターガマ』)は「地方の描写」という意味である。サンスクリット語で都市コタkotaに対する地方、村落がデサだから、その歴史は古い。それに対して,スンダ(西ジャワ)では,クルラハンが村落という意味で用いられていた。そして,カンポンというのはカルラハンを構成する単位であった。

ジャワの伝統的集落デサについては、『ジャワ・マドゥラにおける現地人土地権調査最終提要』(以下『最終提要』)全3巻(18761889年)[5]という大きな資料がある。土地権についての調査を主目的とするものであったが,調査項目総数は370に及ぶ[6]。これを基にした19世紀以降のデサの特質についての議論も『スラバヤ』に譲るが、結論だけ記すと、共同体的な要素を濃厚に残してきたジャワのデサは,植民地化の過程において、むしろ、その共同体としての特性を強化してきた可能性が高いということである。20世紀初頭の植民地政府の原住民自治体条例によって再編成されたデサは,共同体(ヘメーンシェプgemeenschep(ゲマインシャフト))ではなく、ヘメーンテgemeente(自治体)として規定されている。しかし,資本制生産様式との接触が伝統的な社会構造を弱体化させるのではなく,むしろ共同体的性格は変形強化されたのである[7]

 

隣組と町内会

  このデサが、デサ的要素を色濃く残しながら,都市において再統合されたものがカンポンである。C.ギアツは、ジャワ社会を,デサ,ヌガラ(国家 政府官僚制),パサール(市場)をそれぞれ中核とする3つの社会層からなるとして、インドネシアにおける都市化の歴史を構造的に解き明かすのであるが、都市化の過程で都市に再統合された居住地をデサと区別することにおいて,カンポンと呼ぶ。カンポンは,基本的に「都市村落」であるというのがC.ギアツである。

 C.ギアツは,「カンポン・タイプの居住区はジャワのどこでも都市的生活の特性をもつが,同時に何らかの農村的パターンの再解釈を含んでいる。より密度高く,より異質性が高く,よりゆるやかに組織化された都市環境へ変化したものである。」という。 C.ギアツは,カンポン・セクターの地図を示している(図③)。ブロックを囲むように並ぶ白い四角がレンガ造・石造の家であり,黒い点がバンブー・ハウスである。

 そして、実に興味深いのは、このカンポンの住民組織と日本の隣組・町内会制度が共鳴を起こしたことである。

日本は大東亜戦争遂行のための総力戦体制を敷くために,戦時下の大衆動員の施策として,内務省は19409月に「部落会・町内会等整備要綱」(内務省訓令17号)を発令し,隣保組織として510戸を1組の単位とする隣保班を組織することを決定する。この隣組・町内会制度は,日本軍政下のジャワにも導入される。この隣保組織のありかたは,カンポンのコミュニティ組織として戦後にも引き継がれていくことになるのである。


日本軍軍政当局が隣組tonarigumi制度を導入したのは太平洋戦争末期になってからにすぎない。1944111日に,全ジャワ州長官会議で全島一斉に隣保組織を設立することを発表し,これに続いて「隣保制度組織要綱」(Azas-azas oentoek Menjempoernakan Soesoenan Roekoen Tetangga)(『KANPOONo.35-2604)が出されるのである[8]

軍政監部は,1月から数ヶ月間,各地で説明会や研修会を各地で開催し,モデル隣組がつくられた。研修会では,江戸時代の五人組制度の歴史についての講義も行われたという。一般住民に対しても,隣組がジャワ社会の伝統であるゴトン・ロヨンの精神に根ざすこと,また,イスラームの教えにも一致するものであることなどが宣伝された。組織は瞬く間にジャワ各地に広まっていった。19444月末の調査に拠れば,ジャワ全域の住戸数は8967320戸,隣組数は508745組,字常会数は6477764,832),区の総数は19498であった(表Ⅳ2③)。隣組は平均17.6戸,区(デサ)は平均33字常会ということになる。隣組はジャワの隅々にまでつくられたことになる(倉沢愛子(1992)『日本占領下のジャワ農村の変容』草思社。)。

 

RT/RW


「隣保制度組織要綱」は,隣組を「施策の迅速で適正な浸透ならびに深刻な住民相互間の対立摩擦の削除をおこない,民心を把握し住民の総力をあげて戦力の維持,存続をはかるための,行政単位に基づき行政機関と表裏一体である強力で簡素な単一組織」と規定する(吉原直樹(2000)『アジアの地域住民組織―町内会・街坊会・RTRW』お茶の水書房)。隣組tonarigumi,字aza,常会joukaiは,日本語がそのまま用いられるが,隣組すなわちルクン・タタンガRTは,「ジャワ民族において以前から受け継がれている相互扶助精神に基づく住民間の互助救済など共同任務の遂行に勤めなければならない」(第13項)という。 ルクンとは,ジャワの伝的概念である「調和,和合」を意味する。タタンガは,隣人である。相互扶助精神とは,ジャワではゴトン・ロヨンと呼ばれ,インドネシアの国是とされている。

太平洋戦争末期,わずか1年余りの期間にジャワ全島に及んだ隣組組織が現在のRTの起源である。日本では,戦後1947年になって,連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって隣組制度は禁止される。隣組制度が総力戦体制,体制翼賛体制を支えた「支配と強制」の装置となったが故に禁止する,というのである[9]

一方,インドネシアの隣組制度はどうなったのか?これも詳細は『スラバヤ』に委ねざるを得ないが、RTそして,字azaはルクン・カンポンrukun kampung=airka’エルケーRK’として存続する。税の徴収,住民登録,転入転出確認,人口・経済統計,政府指令伝達,社会福祉サーヴィスなどの役割を果たすのである。ただ,公式な政府機関とはみなされてこなかった。1960年にRT/RWに関する地方行政法(Peraturan Daerah Kotapradja Jogjakarta no.9 Tahun 1960 tentang Rukung Tetangga dan Rukun Kampung)が施行されたが,基本的には引き続き,RT/RKを政府や政党からは独立した住民組織として認めるというものであった。RT/RKを政府機関に組み込む動きが具体化し始めるのは,1965930日のクーデター以降の新体制になってからであるSullivan, John (1992) Local Government and Community in Jawa: An Urban Case Study, New York: Oxford University Press.)。

RT/RKは次第に独立性を失っていくが,ひとつの画期となるのは1979年の村落自治体法(Village Government Law 5)の制定である。地方分権化をうたう一方,中央政府権力の村落レヴェルへの浸透を図るものであった。大きな変化として導入されたのがルクン・ワルガRWという,RTをいくつか集めた新たな近隣単位である。この時点で、RT/RWは,国家体制の機関として組み込まれたのである。

インドネシアの場合,以上のように,強制的に組織化されたRT-RWではあるけれど,自律的,自主的な相互扶助組織として存続してきたのは,デサの伝統と隣組の相互扶助の仕組みが共鳴し合ったからである。しかし,それは再び開発独裁体制の成立過程で,再び,国家体制の中に組み込まれることになるのである。カンポンの生活を支える相互扶助活動と選挙の際に巨大な集票マシーンとなるのは,カンポンに限らない共同体の二面性である。

 

<包むもの/取り囲む>ものという言葉は、ある領域の境界、そしてその外部と内部をめぐる普遍的問いを突きつける。日本の隣組-町内会制度は,戦後改革の過程で解体されてきたように思える。しかし、災害がある度に、そしてCOVID-19のコロナ禍において、共同体における相互扶助と内部規制という二重の機能が孕む基本的問題は問われ続けているのではないか。



[1] そもそも英語の成立自体が興味深い。英語は,古英語,中英語,近代英語に時代区分されるが,中世中期英語以降,ラテン語・フランス語をはじめとして,世界中の諸言語から借入を行っており,英語本来の言葉は20パーセントに満たないという。それ故,コンパウンドの語源もさまざまに詮索されるが,OEDOxford English Dictionary)に依れば,第1義は,中英語(古英語,中英語,近代英語に区分される)の時代から存在するのに対して,居住に関わる第2義は,17世紀後半に英語に借入された,という。

[2] Hobson-Jobson: A Glossary of Colloquial Anglo-Indian Words and Phrases and of Kindred Terms, Etymological, Historical, Geographical and Discursive, Delhi, Munshiram Manoharalal.

[3] Manuel Godinho de Erédiaor Emanuel Godinho de Erédia (16 July 1563 – 1623)‘Description of Malaca, Meridional India, and Cathay (Declaracam de Malaca e da India Meridional com Cathay)’1613).

[4] ポルトガル語campanhacampoの転訛,フランス語のcampagne(country田舎)の転訛という異説もある。フランス語起源説は根拠が明確ではなく,似たような言葉はない。ポルトガルの使用例campanaは,近代ポルトガル語ではcampaignか,campagna(ローマ周辺の平原)であり,使用例champ(1573年の旅行記)campo(イタリア人の文献)は,「広場」「マイダーンmaidan」の意味で用いられており,居住地の意味はないという。ただ、ユールとバーネルは,カンポンというマレー語がポルトガルとの接触以前から存在していたかどうか確かではなく,ポルトガル語の転訛である可能性を全く否定はできないとする。すなわち,ポルトガル語campoははじめcampの意味をもち,それから,囲われた地域,の意味をもつにいたったか,ポルトガルcampoカンポンという2つの言葉は,相互作用した可能性があるとする。カンポンという言葉の語源やポルトガル接触以前の存在は確認できず,ユールとバーネルもこの点は実証できていない(椎名論文註(8))。

[5] Eindresume van het bij Guevernments Besluit dd.10 Juni 1867 No.2 bevolen Onderzoek naar de rechten van den Inlander op den Grond op Java en Madoera, zamengesteld door den chef der Agdeeling Statiseiek ter Algemeene Secretarie.  1830年以降,ジャワ(マドゥラ)は,中部の王侯領を除いて,全てオランダの直轄領となっていたのであるが,植民地政庁は,この直轄領内の808村を選んで186869年にはじめて本格的な土地調査を実施した。その結果まとめられたのが『最終提要』(18761889年)である。土地調査の大きな目的は,私企業プランターの進出を可能にする方向を含めて,土地所有権および利用権を確保することである。その調査は,結果を1870年における農地法の制定に結びつけようとするものであった。

[6] 内藤能房「『ジャワ・マドゥラにおける原住民土地権調査最終提要』全三巻について」,『一橋論叢』,第76巻 第4号,1976年。

[7] まず指摘されるのは,デサにおいて土地の「共同占有」の形態が数多くみられることである。『最終提要』は耕地の占有形態を「世襲的個別占有」と「共同占有」とに大きく二分しているが,「共同占有」形態とは,耕地の使用の主体は個人であるが所有権はあくまでデサに属し,個人による相続や処分が不可能な占有形態である。『最終提要』に依れば,「共同占有」の形態が集中するのが中東部ジャワである。「共同占有」の形態においては,その「持ち分」保有者となる資格が厳しく規定されているのが普通であり,その資格を満たすことにおいてデサの正式のメンバーとして認められる。持ち分については定期割替えが行われることが多い。こうした耕地の「共同占有」形態に象徴される共同体規制は林野についてもみられる。ただ,林野の場合は対外的な規制のウエイトが大きく,デサの構成員については幾分ルースである。

[8] 「郷土防衛,経済統制等の組織および実践単位とし,地方行政下部組織として軍政の浸透を計るものもので,ジャワ古来の隣保相互扶助の精神(ゴトン・ロヨン)に基き住民の互助共済その他の共同任務の遂行を期する」ことを目的とし,「デッサ内の全戸を分ち概ね十戸乃至二十戸の戸数を以って一隣組とする,隣組に組長を置くがその選任は実践的人物を第一とする,隣組は毎月一回以上の常会を開く。さらに字(カンポン)に字常会を設け毎月一回以上の常会を開く,字常会は字長および隣組長その他字内の有識者をもって構成する」という組織化を行うものであった(倉沢愛子(1992))。

[9] GHQがまとめた『日本における隣保制度―隣組の予備的研究』(1948)(GHQ/SCAP, CIE, A Preliminary Study of the Neighborhood Associations of Japan, AR-301-05-A-5, 1948(吉原直樹(2000))。)は,「隣保組織の歴史的背景」(第1章)を幕藩体制下の「五人組」,さらには大宝律令(701年),養老律令(718年)が規定する「五人組制度」まで遡って振り返った上で,「1930年代以降における隣保組織の国家統制」(第2章)そして「東京都の隣保組織」(第3章)を具体的に検証したうえで,「隣保組織の解体」(第4章)を結論付けている。