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2023年9月14日木曜日

作法の美しさ―「昭和設計のアイデンティティと明日を拓く設計活動」―、建設通信新聞、2007

 作法の美しさ―「昭和設計のアイデンティティと明日を拓く設計活動」―

平成十九年五二十二

 

【布野】まずは、五十周年おめでとうございます。ちょうど十年前、四十周年記念のときにも、「なみはやドーム」などいくつか見せていただいて、昭和設計への期待のようなことを書いたことがございます。今日も五作品ほど見て、大変楽しませていただきました。組織事務所としてプログラムをきちっと解いた作品ばかりですね。「八尾市民病院」は、実に刺激的でした。建築計画学の出なんですが、新しい病院のあり方を感じます。「フジテック」も新しいオフィスのあり方を提示されています。「あべのルシアス」も、大変な仕事だと思います。組織事務所は、まずは組織力が第一です。しかし、十年前にも書きましたけど、組織事務所には、常に組織と個人、組織のアイデンティティと個性という、テーマがある。まずは、最年少の竹内さんから、昭和設計のアイデンティティとは一体何かということで口火を切っていただけますか。

組織の総合力

【竹内】 建築部門と水工部門、土木部門とが一緒になっている事務所は、そうないことなんですよね。水処理施設にしても、上屋はどんなものをつくれるんだろうとか、期待を持って入社したんです。土木の中でも構造とか電気設備、機械設備とか、いろんな分野が部門としてちゃんあって、それで仕事が成り立っているというところに、昭和のアイデンティティを非常に感じます。下水処理場なども、新しいものを整備するのではなく、つくったものをどう長生きさせるか、耐震診断やリニューアルがテーマです。昭和設計は自社ですべて対応できるんです。

【布野】 総合性、総合力に魅力を感じている。そこを押していけばいい。

自由と哲学

【石井】 入社した一九九〇年頃は、比較的若い社員がわりと自由にできる雰囲気がありました。それがまだあるとしたら、アイデンティティにつながると思います。また、前社長の三宗顧問の文章をたまたま目にしたんですが、建築を現象学とか哲学でもって語るそんな人がいるのも魅力的でした。組織事務所ですので、ある一定のレベルを保つことは当然必要なことですが、作品のテイストとかカラーみたいなものはばらばらでいいと思っています。それぞれの個性が出ればいい。

柔軟性と寛容

【久保】 自由にある程度できる環境は、十分感じます。提案に対する柔軟性というか、寛容さをこの事務所は持っている。顧客のおっしゃられることに対してもそうです。何か案をつくって出すと、全否定されることはない。もうちょっとこのほうがいいとか、あかんもんはあかんとか言われるけれど、改善すればいい。コンセプトの立て方が間違っていれば、違いますよと言われるけれども、全部が全部外されるわけではない。これはおもしろいんじゃないか、これは生かしていったらいいんじゃないか、これはこう生かせるねと発展的にどんどんできる。

【石井】 彼が入ったときに私が上にいたものだからほっとしているんですけど、頭ごなしに脅かすということはまずなくて、私がそうされてきたので、私も下にはそうしようと思っていたんです。

ほっとする楽しい空間

【布野】 提案して、全否定はされないけど、まとまっていくものの中にどういうテイストとかカラーが残るかですね。

【久保】 そこに来ていただく人が楽しいと思ったり、ほっとしたり、感覚の部分に訴えられるものが一番いいと思います。何か迫力を感じても素通りするものじゃなくて、ちょっと足をとめるようなほっとした空間。

【小平】 僕はちょうど入った年が四十周年の年で、まさに、新入社員の君たちは昭和設計をどんな会社と思っているかと質問されまして、何も考えていなかったのか素直なのか、会社の名前が軽いというイメージですねといったんです。当然、どういうことかと突っ込まれました。会社の看板が重たく感じられるとか、そこから受けるプレッシャーとか、あまり感じないと言いたかったんです。具体的な作風とか、それ以前の話ですけれども。創業者の岡本会長がそもそも岡本設計を昭和設計にしたと後から聞きました。

【布野】 最近は、一年でやめちゃうとか、そういう学生がいますけども。

【小平】 そういう意味では、楽しく仕事はできますし、ぼろかすに言われることはありません。

手堅い水工分野

【布野】 水工分野を持っていらっしゃるというのは強みだと思うんです。

【水田】 水工は、土木、建築、電気、機械、あとプラントの機械、電気という部門が一緒になって一つの仕事をつくり上げていくわけです。上の方も下の方も一つのチームになるといろいろまざりますので、意見のやりとりもやりやすい。水処理施設なので、どれだけ水をきれいに処理できるのか、機械とか設備がうまく機能するか、運転できるか、そこが重要なんですよね。維持管理する人については動きやすさとか、動かしやすさというのがある。公共事業ですので、できるだけ無駄がなくて必要最小限、どちらかというと創造性というよりは機能的なものを満たす。それで顧客に満足してもらう。そういった機能重視の設計にはなってきますね。

建築は悪?―地球環境というキーワード

【布野】 これからの建築のテーマということでは何をめざしますか。

【矢澤】 建物を建てていく上で地球環境問題に何かできるかと思います。再生材料を使うとか、環境に優しい材料を使うとか、リサイクルですね。環境問題から見ると、建築をつくること自体すごい悪だと思うんです。破壊する側にしかいない。設計にどう生かしていったらいいのかすごく難しい。自分でも答えがちゃんと出ていないですけれども、じゃ、建築は建てないほうが地球にとって優しいと言い切ってしまえるのかとは思います。人は生きていかなきゃいけないですから、建築はシェルターとしての必要最小限の建物としてではなくて、もっと人の精神面みたいなところに働きかけていけるような、そんな建物をつくっていく。それを構造設計としては、それをいかに見せるかとか、壊れないで長く使っていけるかとか、環境問題に間接に役に立っていけるのかなという思いはあります。

【布野】 すごいことを言いますね。確かに建築するということは地球を傷つけることですね。ただ、人類にとって建築は必要だし、ずっと建ててきた。しかし、それが地球環境にも決定的なインパクトを与えるほど巨大化したり、高度化したりすることが問題ということでしょうか。

【石井】環境問題については、ISOの14000をとって、会社として紙を節約するとか、照明を節約するだけじゃなくて、設計手法の中に環境配慮手法を組み込んで、どんなプロジェクトでも一通りの環境の負荷を下げるような手法を検討するというのが、一応設計のプロセスの中には組み込まれています。

景観形成の仕組み

【岸田】 都市計画をしばらくやって、最近ランドスケープをやるようになってきたんですが、一つは、ものとか形をつくるだけじゃなくて、そこではぐくまれる営みとか、それを支える仕組みみたいなものも考慮しながら景観をとらえていかなければいけないのではないかと思います。もう一つは、時代の流れの中で変容していったある空間の佇まいを再構築することが大事だと思います。都市景観は、小さなきっかけを大事にしていかなきゃいけないと思っています。

【布野】 仕組みとは?

【岸田】 でき上がった場所を、時間の流れの中でどう維持管理していくのかという仕組みです。また、最近の言葉で言うと協働ですね。実際の設計ではなかなかそこまで踏み込めないけれども、空間の支え手というものを頭の中に置きながらやっていく。時間とともに変わっていくことに関しては、ルールを規定するということよりも、むしろ使い方を固定し過ぎない、そういう場所のつくり方が重要だと思います。

周辺環境を取り込む再開発

【大古田】 地方都市の再開発計画に携わってきました。一つ一つの建物はみんなそれぞれ違うけれど、まち全体として見たときには、何となく画一化されて、イメージの似通ったまちが多い。経済性とか合理性とかを極端に追求し過ぎているというところがある。普段仕事をしながら実感することは、事業性がいつも問題。極端な話、建物の形を単純化して、既製品のパネルを使ったり、量産部材を使ったり、乾式工法で組み立てたり、そういった大きな流れがある。特に地方都市で中心市街地とか駅前とかの再開発ビルは、そのまちにとっては大プロジェクトで、景観に与える影響とか、まちのイメージをつくる上ではとても重要なんです。再開発事業は、鹿屋市のように、敷地内だけではなくて、周りを取り込む、手づくり感のあるような、その敷地ならではの施設を心がけています。

【矢澤】 確かに、合理性とか経済性を追求するばかりに、設計工期ですとか工事工期、工事費がものすごく絞られたり、ゆっくり取り組みたいけれども時間がなくて、目の前の仕事に追われて流れ作業的になったり、類似物件をそのまま使っていくようなことがとてもさみしく思ったりもします。そうしたことは、結局、そのまちの建物、景観がつまらなくなっているのにも影響していると思います。あとは、建築を建てようとする人の意識をもうちょっと変えていけるようなPRができたらいいなと思います。地球環境問題に関しても、特別な工法とか材料を使うのはすごいコストアップにつながることばかりですので、お施主さんの理解がないと採用できないことが多いんです。

【布野】 事業性は設計計画にとっては基本的問題ですね。

【大古田】 お施主さんの求めているものは、事業が成り立つかどうかということです。それにこたえていくというのはもちろん根底になければならないですが、うまいさじ加減で、どうするかですね。

【布野】 社是というのはあるんですか。あまり大上段に、大言壮語はしないということでしょうか。

【石井】 強いて言えば、顧客満足度という指針があります。しかし、計画をしていく上でこういうものを目指せとか、上からどーんと降ってくることはなくて、まさにプロジェクトごとにそのチームで考えてやっていく。

【小平】 一つ一つをこつこつとしっかりやっていこうというスタンスですね。

曖昧な空間とフレキシビリティ

【石井】 プロジェクトごとに決めていくのですから、会社のアイデンティティとしては、変な言い方ですけど、緩さみたいなものがあると思う。学校で、例えば、教室と廊下の間仕切りを自由に変えられるようにする。ここを増やしたいとか、この部屋はこっちからも使うけどこっちからも使えるとか、そういうフレキシビリティ。都市に対しても完全にかたく閉じるんじゃなくて、境界というのはできるだけ緩くして、曖昧にしていくというところで魅力みたいなものが出てくるんじゃないか。

【布野】 再開発前の、ごちゃごちゃしていたスラムみたいなほうがよかったり。

【石井】 するんですね。再開発しちゃうと、大体味気なくなってしまう。この線からこっちが自分の家とか、そういうのはあまりなくて、道に植木鉢が置いてあったり、洗濯物を干していたり、そういうのがまちの活気とか魅力をつくっていたりする。防災面の問題とかはあるんですけど。

【久保】 具体的には、自然環境をどのように取り入れるかということがあります。博物館、美術館は、エントランスホールがあって、徐々に閉じていって、展示室が一番閉じられた空間になる。部屋の間に共用部、アトリウムを設けて直接外気に接するように建物のすき間をとる。

【布野】 緩さとか曖昧さとかすき間とか、大分キーワードが出てきました。

【小平】 個人的に常々思っていることは、中心でないもの、独立でないもの、名乗り出る必要がないもの、自己中心的なものはとにかく腑に落ちない。それは、往々にして事業主さんの意図とは反する場合もあります。例えば、自社のアイデンティティの高いものが要求される。

【布野】 そういう場合はどうするんですか。

【小平】 まだ模索中なんです。

設計者の責任

【石井】 姉歯問題で建築基準法が改正されて、確認申請の審査が厳しくなる。建築士の責任というのがますます重くなる。ただ、変な方向に行っているなという気がする。建築士が責任を果たすのは当然ですが、果たすだけの権利が与えられていないというのが現状です。権利というのは、すなわち設計料、それから設計期間ですね。義務を果たすのなら権利も保障しろというのが本音です。国に頼っていても絶対何もしてくれないというのがわかりましたので、設計者みずから働きかけていくしかないと考えています。設計事務所単体では無理なので、業界団体が力を持つしかないすね。業界が今すぐ統合するのは無理としても連合するということは可能だと思います。経済界のように連合会みたいなものを早急につくって発言力を持つということが非常に重要です。初代会長は安藤忠雄。

【布野】 面白いですね。ただ、設計者に責任を果たす能力があるかどうかですね。設計瑕疵が起こったときに、昭和設計はある程度担保できるかもしれないけど、一般的には責任がとれない。基本的に保険のシステムを入れないと駄目だと思う。ユーザーも、設計者も、ゼネコンも保険に入る。そういう仕組みにしない限り、もろもろ起こる事態にとても対応できなくなっている。

【石井】 セットだと思います。

公共性の問題

【岸田】 最近自治体の財政状況が悪化してくる中で、例えば、公園なんていうものにはもうお金を出さないことが一方である。ほんとうに必要なものとそうでないものとの仕分けで、次の世代とかのことを考えたときにほんとうはやらなきゃいけないのに、今できていないんじゃないかということがある。民間の会社としてはそれが設計料とかに当然はね返ってきますので、そういう中でどこまでできるのかという問題がありす。

【大古田】 再開発は業務範囲がほんとうに広い。図面をかく時間は全体の二割とか三割程度で、それ以外のことがほとんどですね。資料づくり、お金の調整、権利者の調整、住民説明、そういったもろもろです。発注者は公共、自治体です。何でもとりあえずは設計者のほうに依頼してという考え方を当然とります。何でもかんでもというのはしんどいですね。

PFIの問題

【布野】 組織事務所も設計者も、相当今曲がり角に来てますね。公共発注がPFI的なものになってきて、コンペもなかなか成立しない。

【小平】 PFIに参加したことがあるんですが、我々の立場として一番微妙だなと思ったのは、設計者の存在する意義がどんどん薄れているということです。主導権はゼネコンに移行していっている。我々は基本設計レベルぐらいしかタッチできない。

【石井】 まさしくそうですね。アドバイザリーに入っているコンサルタントが、まずポンチ絵をかく。そのポンチ絵に基づいて要求水準書をつくりますから、それに従っていくと、ポンチ絵に近づいていくわけですね。ものすごくもったいないですね、時間と能力が。何をやっているんだろうと思いながらいつもやっているわけですけど。それでいいものができるわけがない。要求水準を緩めたらどんなものが出てくるかわからない。結局、価格で勝負をしたところがとってしまう。PFIにすごく疑問を感じています。

まちづくりの限界

【岸田】 まちづくりは地元に入っていくやりかたが本来ですけど、組織事務所ではまず無理だと思っています。計画とか調査のフィーが実は曖昧なルールぐらいしかない。出てくる地元の方は、いわばボランティアというような立場で関わってこられる。きっちりとした職能として社会的に認められるようなシステムがないと駄目です。もう少し小回りのきくような事務所であれば可能でしょうけど。

【布野】 でも、やらざるを得ない。

【岸田】 そうです。昔は営業的な要素があるのである程度はやらざるを得ない。

デザイン・レビューと個性

【布野】 デザインレビュー(DR)をやられているそうですが。

【石井】 ここ一年ぐらい、デザインレビューのが明確化されまして、一つのプロジェクトに対して何回かやらないといけない。まず、プロジェクトが始まった時、何をテーマにしないといけないか、どういうことに気をつけないといけないかということをやる。基本設計の最後にもう一回。初期でに摘されたことがちゃんと確認されているか、生かされているか、この段階でやる。次は、実施設計の段階で、七〇%DRで、図面が七割方かけた段階でさらにやる。図面チェックです。最後、成果品DRで合計四回。

【布野】 DRで個性が消されていくようなことはないんですか。

【石井】 技術的にこういうことを検討しないといけないのにしていないじゃないかとか、そういうチェックはあるわけですけど、これは四角になっているけど、丸いほうがいいなとか、そんなチェックはないんですね。

【布野】 最近は、各事務所ともデザインレビューを厳しくやっておられますが、どれぐらい個人のテイストが生きていくかというのが興味ありますね。

組織事務所の顔

【布野】 例えば、チーフアーキテクト制は採ってないんですか。

【石井】 。私は採ればいいと思います。もっと設計者の顔が表に出るべきだと思う。組織事務所なので、一つのカラーで事務所の作品をつくるのはちょっとどうか、逆に選べるというのがいいところかなと思う。お客さんが、今回はだれだれ君に設計してほしいなとか、名指しで仕事が来るようになれば一番いい。

【久保】 上司によってテイストは違いますし、仕事のやり方も全然違う。そういう面ではやっぱり個々人が研さんしていく中で、チーフになれるだけの技術なり、デザイン力なり、そういうことを含めてですけども、持たないといけないというのはありますね。

【小平】 会社組織としては、誠実だとか堅実だとか、そういう対外的なイメージを持たれているという意識はあるんですが、今、大きな問題は、競争力ですね、企業としての。はっきりした顔が、だれかの考えが明快に出ているほうが信頼感が増しますし、発注する側も頼りがいがあるんじゃないかと思います。

美しい国土、美しい地域を目指して

【布野】 デザインの地域性をどう考えますか。これから目指していく地域の景観、都市のランドスケープのあり方、美しい国土づくり、美しい地域づくりというような時代のキーワードの中で、時代性をどうとらえて作品化していくか、その姿勢というか、攻め方はいかがですか。

【岸田】 都市景観の美しさというのは何かというと、それは作法の美しさだと思います。アート的な美しさではない。多分漠然とした感じなんですが、つくり込み過ぎないとか、周辺環境を犯さないような空間のあり方とか、そういうふうなことというのが大切なんじゃないかなという気がします。

【布野】 作法の美しさって、キャッチフレーズとしていいですね。アート的な美しさじゃなくて作法の美しさ。

【石井】よく言うんですけど、社会人は人間性の勝負なんです。いかに格好いい絵がかけても、それを実現しようと思ったら、人間性がないとだめなんですね。実現できない。絵にかいたもちでしかな。施主にちゃんと説明して、納得してもらって、現場が始まったら工事業者に説明して、そのとおりにつくってもらわないといけない。そのコミュニケーション能力、つまり人間性がないと、実現できない。クライアントと話をするのは、医者が患者さんに問診をするのと同じで、会話をすることによって、この人は何に困っているかを引き出すわけです。何が問題かがわかれば、あとはそれに対する解決方法を考えればいい。

【布野】 最後に、五十周年を迎えて、あと五十年昭和設計はどう仕事をしていくのか、社長のつもりになって、お願いできますか。

関西からの発信

【小平】 五十年先じゃなくて、今、昭和設計の抱えている課題の一つとしては、東京に支社がありますが、そのウエートをどうするか。僕は、神戸発祥、関西、大阪に拠点を置いた会社というスタンスを一つアイデンティティとして持っていったらいいんじゃないかと思う。一つのカラーとして、それを売りにして何かを構築できないか。それを持って、東京なり、海外なりに出ていくという方法はないか。東京一極集中で、世の中が平均化している。我々は東京だけじゃなくて地方のほうにどんどん出ていこうとしている。東京に対する大阪という一地方にいて地方の可能性を見出して、こんなことをやれている。よその地域に行っても、あなたのところではこういうことができるんじゃないですかと、そんな話をしていけるようなスタンスを持てたらいいなと考えています。

軽いフットワーク

【大古田】異論があるかもしれないですけど、僕が個人的に思っているのは、いろいろ仕事をとって、ばりばりやって、会社の規模がどんどん大きくなって、例えば、日建設計とか日本設計みたいにどんどん大きくなっていくという方向性よりも、組織事務所としてのある程度の規模を保ちながら、フットワークが軽くて気がきいて、技術的にもしっかりして、ちょっと一目置かれるような、そういった専門家集団というか、そういった組織になっていけたらいいんじゃないかなと思っています。

一本の柱

【水田】 昭和設計は、内部では個人的な意見が通ったり、いろいろアイデアも出るような事務所ではあるんですが、外に対して考えると、もう少し一本柱があるような感じで攻めるような会社になったほうがいいかなと思っています。個人が表に出るんじゃなくて一つ中心をつくって、その人がやっぱり表に立っていくほんとうの組織として、一つのグループとして仕事に当たっていくというようなスタイルがとれたらと思っています。

提案力

【竹内】 昭和設計というか、水工設計の将来像としては、これからはやはり地球環境が重要なキーワードになってくるので、そういった面で新たな提案力をつけていけたらと思います。

コラボレーション

【矢澤】 技術力という点で言いますと、ゼネコンさんとか、土の専門とかコンクリートの専門とか、ほんとうに狭い範囲の専門家がたくさん寄り集まっている大きい団体がありますが、組織事務所は、それだけの人材は確保できない状況だから、浅く広くやらないといけない。新しいものを提案していこうとなると、やっぱり外の人たちとか、異業種の方とかとの交流を大事にしながら新しいものを提案していきたい、目指していきたいと思っています。

クライアントとの協働

【久保】 クライアントの要求を聞くのは当然なんですけども、クライアントも一緒に建物をつくっているんだという意識を持ってもらえるような仕事の進め方をしたい。もちろん専門家として我々が持っているものというものを提供しながら一緒になってつくり上げていく、そのつくった建物に愛着を持っていただいて、ずっとその建物を育てていけるような関係というのをそこで構築できるような仕事の仕方をしたいなと考えています。

国際化―アジアのフィールドへ

【岸田】 これから要求されてくる能力の幅とか水準はどんどん複雑になったり、多様化していくと思うんです。コラボレーションは当たり前の話になっていると思いますし、いろんな分野の人間が関わってくるようなつくり方というのが長い目で見た方向性としてある。もう一つは、中国の仕事を幾つかやってきたんですが、会社の経営的なことは別にして、一技術者として、日本という国が体験してきたことを中国に伝えてあげる、失敗とかですね。それが何かの役に立つというのはすごい、私はうれしいことだと思う。むしろそういうことを積極的にやっていきたい。今後、昭和設計という組織の中でもいろんな越えなきゃいけないハードルはあるけれども、どんどんアジア圏とかに出ていってもいいんじゃないかと思います。

競争力

【石井】 設計者の顔をもっと出して、お客さんに選んでもらえるような体制というのが望ましい。コラボレーションも絶対重要です。一昔前は、同じものを大量につくる時代だったけれども、最近は複雑で多様なものをより短い時間でつくらないといけない。それを実現できるための体制をすぐ構築できる。しかもそれが安くできる。安くできるというのは、工事費が安くできることと同時に、設計料も安くできるというのが競争力だと思っています。そのためには、社内の専門分化みたいなことも必要ですけども、ほかの専門業種との連携というのが欠かせない。そういうネットワークというのが素早く組織でできる体制、それをまとめ上げるだけの知見を持った人間がどんどん育っていくことが必要だと思います。

【布野】 ありがとうございます。最後から始めればよかったですかね。皆さんほんとうに仲がよさそうで、楽しそうで、長々とお話して頂いて、ありがとうございました。

午後五十九分終了)

2023年7月10日月曜日

座談会「建設産業の明日へ生かすこと」,松村秀一・中城康彦・赤沼聖吾・布野修司・和田章建築雑誌特集「建築産業は何を経験するか」,2012年5月号

座談会「建設産業の明日へ生かすこと」,松村秀一・中城康彦・赤沼聖吾・布野修司・和田章建築雑誌特集「建築産業は何を経験するか」,2012年5月号

建設産業の明日へ生かすこと

 

松村秀一

Shuichi Matsumura

東京大学教授/1957年生まれ。東京大学卒業。同大学院修了。建築構法計画・建築生産。工学博士。著書に『住に纏わる建築の夢―ダイマキシオン居住機械からガンツ構法まで』『宇宙で暮らす道具学』ほか。2005年日本建築学会賞(論文)受賞

 

中城康彦

Yasuhiko Nakajo

明海大学教授/1954年生まれ。名古屋工業大学卒業。同大学大学院修士課程修了。建築経済。共著に『コモンでつくる住まい・まち・人―住環境デザインとマネジメントの鍵』『住まい・建築のための不動産学入門』ほか

 

赤沼聖吾

Seigo Akanuma  

鹿島建設専務執行役員東北支店長、日本建設業連合会東北支部支部長/1946年生まれ、東北大学工学部建築学科卒業。東北支店青森営業所長、東北支店営業部長・営業部統括部長・副支店長を経て現職

 

布野修司

Shuji Funo

日本建築学会副会長、滋賀県立大学教授

 

和田章

Akira Wada

日本建築学会会長、東京工業大学名誉教授

 

 

聞き手

 

安藤正雄

Masao Ando

千葉大学教授

会誌編集委員幹事

 

竹内泰

Yasushi Takeuchi

宮城大学准教授

会誌編集委員

 

東淳子

Junko Azuma

大林組

会誌編集委員

 

小田嶋暢之

Nobuyuki Odajima

竹中工務店

会誌編集委員

 

野田郁子

Ikuko Noda

三菱地所設計

会誌編集委員

 

青井哲人

Akihito Aoi

明治大学准教授

会誌編集委員長

 

◆前半本文(3ページ) 17×276L程度。最大322

 

安藤――本特集の第4部では展望編として建築産業に詳しく、被災地の状況にもよく通じている方々にお集まりいただき、今後の復興に向けての課題を明らかにしたいと思います。前半では住宅、ゼネコン、不動産という立場から3名の方にプレゼンテーションいただきます。

 

●岩手県沿岸部の被災状況と

仮設住宅の建設について

 

松村――今回の震災では、5万戸強の応急仮設住宅(以下、仮設住宅)が建設されました。仮設住宅はプレハブ建築協会が独占的にメーカー各社への発注を決める、という見立てがしばしばなされますが、そこには誤解も含まれています。半数以上がプレハブ建築協会の規格建築部会に属するメーカーが建設しています。しかし彼らは工事現場の仮設建築物などを建てるメーカーで、住宅産業ではありません。リース方式のため自社在庫を持っており、災害への即時対応が期待されているのです。ただし今回は仮設メーカーが供給できる数をはるかに上回る発注があったため、足りない分をプレハブ建築協会の住宅系の部門に属するハウスメーカーが担いました。プレハブ建築協会以外にも日本ツーバイフォー建築協会、日本木造住宅産業協会といった団体に属するメーカーも建てています。したがって今回は在来木造や、普通の住宅の仕様に仮設住宅の共通仕様を利用した仮設住宅が結構な数できました(図1)。福島県と岩手県では地場の工務店にも発注がなされたほか、国の予算によらない仮設住宅もできています(図2)。そして今回、仮設住宅の代わりに空き室を活用する仕組みが登場しました。昨年4月中旬に発表された、被災者が仮設住宅の代わりに空き室に暮らし家賃を国が肩代わりする「みなし仮設」という制度です。災害救助法に明記されていない方法に予算をつける道が、仮設住宅の建設が間に合わない状況から開けたわけです。

 ところで仮設住宅建設の議論でしばしば聞かれるのが、地場の工務店に建設を依頼しないと地域にお金が落ちない、ということです。しかし短期間で一定数の仮設住宅の建設に対応できる工務店は限られています。さらに仮設住宅の建設のために地元の技能労働者がフル活用され、足りない分は応援がきていた、というのが実態です。地域にお金は落ちていたのです。岩手県の新設住宅着工数は年間約5,000戸。しかし仮設住宅は約5ヶ月で14,000戸建てる必要がありました。岩手県の年間予算は約5,000億円です。14,000戸の仮設住宅建設には、概算で700億円ほどかかるでしょう。県下だけでは対応できない上に、仮設住宅は瞬間的な需要のため、日常的な住宅建設に影響を及ぼすわけではありません。

 いま被災地の工務店はフル稼働しています。国の予算による復興事業はこれからですが、民間住宅の建て替え・修復需要が出てきているからです。しかし現地の工務店が心配しているのは、復興予算がつく時期が終わった後のことです。そこで新しい地域生活産業を興すパイロットプロジェクトとして、2つのアイデアを紹介します。1つは既存建物のリノベーションやリユースを通じ、ビジネスに転換するきっかけをつくることです。今回空き家活用のアイデアとして面白く思ったのが「仮住まいの輪」という試みです。空き物件と被災者をネット上で結びつけるアイデアは、全く新しい別のビジネスに展開する可能性を秘めています。2つ目は、高齢者向け施設の建設や、暮らし支援ビジネスです。在来工法の建物ならば地元の工務店でも対応できます。復興とともに需要が出てくるさまざまな建物の建設を地場の工務店が引き受けられるよう、在来工法でつくるのです。そして仮設住宅では孤独死など、さまざまな問題があります。コミュニティ活性化のために、外部空間に屋根をかける、新聞をつくって配布するなど、さまざまな支援活動がなされています。単なるハコを暮らしの場に仕立てる仕事は仮設住宅のみならず、社会全体で求められています。

 今回の災害で被災後の切実なニーズに基づく支援などのノウハウが貯まりました。整理すればビジネスにも結びつく可能性があると思います。

 

●復興まちづくりと

プロパティ・マネジメント

 

中城――復興とプロパティ・マネジメント上の課題を千葉県浦安市を事例として紹介します。地域の3/4程度が埋立地の浦安市では、9,000戸ほどの住宅で液状化被害がありました。従来の被災認定の基準では液状化被害を受けた家屋が認定されないので、浦安市は国にアピールし新基準を獲得しました。被災の程度ごとに多くの生活支援金がもらえるようになりました。行政によるマネジメントの成果です。しかし負の影響もありました。浦安は危ないという価値観を広め、民有地の資産価値が落ちたのです。経済的価値におけるマネジメントの失敗です。広義のプロパティ・マネジメントが欠けていたのです。この状況を解決するために「浦安環境未来都市コンソーシアム」を結成しました。これは落ちたブランド回復と、安心・安全・持続可能・未来型のまちづくりを提唱し、官産学共同で都市間競争に負けない地域づくりを行おうというものです。

 では、地域の資産価値を維持向上させるものはなんでしょうか。土地建物に対する需要、つまり利用者の存在です。復興まちづくりでは官の特需だけに頼らず、市場を通じて利用を促進・誘導することが大切です。建設市場には大きく分けて、生産、所有、利用、マネジメントという4つのプレイヤーがいます。そのうち建築産業が大きく関わるのは生産の立場です。これまで請負いの立場にありましたが、今後は生産者の強みを活かしながら利用市場を誘導し取り込む必要があるのではないかと考えます。

 しかし利用市場を阻害する要因があります。たとえば一建築物一敷地の原則。これにより複合的な空間利用を立体・水平的に拡大したくてもできないというケースが生まれます。そして権利の硬直化。建物が所有権、借地権、借家権といったものに区分されているため、実効性のある利用権設定ができません。共同体による土地の共有と利用を認める入会権という権利があります。現在は排除される傾向にありますが、いまこそ見直すべきではないでしょうか。建築産業も発注者の土地のみにとどまらず広域を視野に、時間的な長さや利用権の広さなど、権利の中身まで踏み込み、たとえば入会権のようなものをアレンジする視点を持つべきではないでしょうか。

 土地の利用権を整理し、建物の敷地の外側を活用しながら不動産価値を高めた事例を紹介します。こちらはロンドンの事例です。民有地を遊歩道が通っています(図3)。遊歩道の敷地は公的な買収によるものではなく、ある種の入会権のようなものを活用しています。日本でも、優良賃貸住宅の建設とともに隣接の使っていない民有地を市民農園として、エリアの価値を高めた事例があります(図4)。また、イギリスのレッチワース(図5)ではディベロッパーの継続的管理が行われています。規範を守る主体による緑豊かな住環境の保全により、高い経済的価値を認められている住宅地です。小規模でも、たとえば路地状敷地の効率の悪い敷地に小公園をつくることで価値を高める方法があります(図6)。こうしたアイデアを建築業界主導で進めることも十分可能と考えられます。復興事業にも活用できる方法ではないでしょうか。

 建築業界は地域市場をにらみ、生産者の立ち位置だけにこだわらない多面性を備えることが結果的に自分たちのためになるのではないでしょうか。建築への深い洞察をベースに、ブルドーザーとダンプカーを操り、緊急時にはセーフティネットに、平常時には公共の新たなコアメンバーとして社会貢献する、というのがプロパティ・マネジメントから見た建築業のあり方ではないかと思います。

 

●復興に向けた課題と解決策

 

赤沼――まずは復興予算とその対象となる都市の面積から、今回の震災がいかに大変なものかお話します。政府系投資額は、全国のピークが平成10年、東北のピークが平成11年です。平成21年にはピーク時に比べ、全国が51.1%、東北が43.9%まで落ち込んでいます(図7)。震災復旧復興関連予算は10年総額23兆円、必要に応じて上乗せすると発表されています(図8)。ピークが平成26年の6.9兆円で、平成21年の東北に対する政府系投資額の約4倍、同年の全国に対する政府系投資額の約40%が東北に投下されるわけです。東北における被災(津波浸水)市町村の割合は15.3%。平成21年の4倍の工事を東北の約15%の面積で行うということです。

 次に復興計画です。各自治体の復興計画策定は平成2312月末に完了ということになってはいますが「土地利用計画」「イメージ図」レベルで本格復興に向けての作業量は膨大です。被災土地の扱いが未解決なこと、南の平野部と北のリアス式沿岸部で復興計画に大きな違いがあること、産業の復興が遅れ人口流出が始まっていること、といった問題も復興計画の具体化を妨げています。一方で地元建設業界では、10年で建設投資が半分以下になり、各社は体制を縮小しています。そこに震災が起き、マンパワーが不足しています。瓦礫処理や復旧工事で手一杯な状況です。地元向け公共工事で入札の不調・不落が続いています。早期の復旧・復興より長期の経営安定を、というのが地元の本音です。

 復興計画の主体は、現行法規では基礎自治体です。首長の判断力や組織力により大きな差が出ます。各職員のほとんどは未曾有の災害対応に現法規を当てはめるのが精一杯で、復興を射程に動くのは困難な状況です。復興計画には防災・減災・インフラ整備に重点がおかれ、アーバンデザイナーやランドスケープデザイナーが入っていけていません。復興まちづくりの全体像が見えていないことが問題です。

 宮城県の震災復興会議の委員である岡田新一さんは「グランドデザインアーキテクト(以下、GDA)を各自治体に置くべき」という提言(図9)を昨年7月に発表しました。ここで言うアーキテクトとは、幅広い要素を統合し、パブリックに対する深いコンセプトを持ち、それらをシステムとして結び付けられる能力を持つ人を意味します。自治体首長と同格のGDAを置き、専門家集団を束ねる、というイメージです。この案は復興会議の小宮山委員長などが押していたのですが、最終的には盛り込まれませんでした。

 現状の状況では、まちづくりがバラバラになるのではないかと思います。そこで私の復興支援案を紹介します。産官学から選ばれた人たちがGDAの代わりになり、専門家チームを組織する、というものです。復興事業には建設産業を総動員する必要があります。膨大な工事量をこなすために、短期間で事業者を決定できるように発注方法を工夫する必要があります。そこでマスタープランをつくり、それを元に被災市町村をいくつかのエリアに分割し、事業者を決定するのです。事業者決定は、コンサルタント、設計事務所、建設会社による土木・建築を横断する異業種JVによるデザインビルド方式のコンペによるものとします。実施にはスピードを重視し、復興を発信し続け被災地に希望と勇気を与えること。これが人口流出を最小限に防ぎ、かつ災害を忘れさせないことにもつながります。建設産業は裾野が広く、波及効果が大きい産業です。やり方によっては、景気回復に大きく貢献できるはずです。

 

図版キャプション(それぞれ撮影or図版提供or出典を明記する)

図1)住宅メーカーの仮設住宅(屋根・基礎以外一般住宅仕様)。宮古近郊。職人は岩泉泊、監督は盛岡泊で遠距離を通う。(撮影:松村秀一)

 

図2)地元産材と地域の技術を活用してつくられた住田町の仮設住宅。国の予算によらず、町長の独断から仮設住宅の建設に踏み切った。(撮影:松村秀一)

 

図3)ロンドンにある、遊歩道のために地表部分を公開した建築物。(撮影:中城康彦)

 

図4)農住組合事業と市民農園の一体化。(撮影:中城康彦)

 

図5)イギリス、レッチワースの住宅地。一貫したマネジメントにより変わらない外観。(撮影:中城康彦)

 

図6)ある住宅地の共用地および協定用地。(撮影:中城康彦)

 

図7)政府系投資の全国と東北の比較。(出典:●●●●)

 

図8)震災復旧復興関連予算。(出典:●●●●)

 

図9)グランドデザインアーキテクトの定義。建築家・岡田新一氏の提言(平成23713日)より。

 

////ディスカッション4ページ、17×450525行または25×300350行)

 

●地元建設業のポテンシャル

 

安藤――ここから和田会長と布野副会長にも参加いただき、ディスカッションに移ります。建設産業が復興事業に向けて果たす建築的・都市的役割、そして来たる新たな災害への対策について議論を深めて参りたいと思います。まずは震災後、建築業に何ができ、何をすべきだったか、ということを和田会長からコメントいただきます。

和田――明治以降、日本の地域は全体に西洋文明を当てはめていくような発展の仕方をしてきました。国土の70%以上が森、100本以上の川が流れている地域にまったく違う場所で育った文明を持ってきていました。いま、建設業そのものが社会からあまり信用されていない中で、強いイニチアシブを発揮するのは難しいのではないでしょうか。まずは自然の営みを活かし地域ごとにうまく循環していたシステムを壊してきたことを、ひとたび振り返る必要があるかと思います。

 米田雅子慶応義塾大学特任教授による『大震災からの復旧 ~知られざる地域建設業の闘い~』という書籍があります。実際に被害を受けた地元建設業の方や、他地域からタンクローリーを運転して来られた方など、思いの強い建設従事者たちに焦点を当てて復旧の取り組みを紹介している本です。地元建設業の方はこの林道がどこにつながっている、あるいはこの崖は崩れやすい、といったことを熟知しています。瓦礫を処理し、車が通れるように整備する中で、こうした知恵が生かされていたのです。しかし仮に数年後に地震が起きていたら、地場の建築産業の体力は今よりさらに失われているため、今回のような対応はできなかっただろうと指摘されています。日本の風土を大事にする上でも、地場の建築産業の取り組みは、見捨てるわけにはいかないと思います。

赤沼――「くしの歯作戦」を支えたのは地元建設業の方たちの目覚しい努力でした。おかげで物資輸送も早期に復旧しました。

布野――消防団と同じように災害時には地元の建築従事者が何をすべきか契約しておく必要があり、さらに地域メンテナンスの主体は地域にいてもらわないと困る、ということですね。

 

●グランドデザインアーキテクトの是非を問う。

 

竹内――これまでのお話から「担い手」というキーワードが浮かびます。建築産業の誰がどういう立場で復旧・復興に関わっていくのか、という論点です。

布野――グランドデザインアーキテクト(以下GDAについて、阪神・淡路大震災後、かつて私が提起したタウンアーキテクトに近い役割かもしれませんが、タウンアーキテクトの役割は、あくまで、自治体と地域住民のまちづくりを媒介することです。欧米で先行する制度ですが、その立場はさまざまのようですです。副市長格で日本における都市計画局長的な立場の人をつけるタウンアーキテクトにする例もあります。また、この役割の担い手は赤沼先生がおっしゃるとおり、一人でなくてもよいと思います。ただ現在の制度ではアーバンデザイナータウンアーキテクト的な人材が復興計画の提案に関与できない仕組みとなっているのが問題なのです

赤沼――仮にGDAの制度を実行するとした場合、現在の法律では誰をどう選ぶかが難しいですね。競争原理を入れずに自治体が任命できるのは都市再生機構(以下UR)だけです。しかしURは近年、新しい計画を担うことが少なく、大きな計画をできる人材が減ってきています。そこでURを軸に大学の先生などが加わっていく、という方法もありえるのではないでしょうか。

布野――システムはそれでよいのですが、危惧しているのは地形や配置の問題です。復興計画にランドスケープを読むセンスが欠けてしまう可能性があるような気がします。

中城――浦安では、あるエリアについて産官学が知恵を結集する、ということに市役所もゴーサインを出しています。これは小ぶりな地域でのGDA制度のようなものといえるかもしれません。

赤沼――実際の計画はエリアごとに行えばいいのですが、隣の自治体と全然違う、ということも起こりうるので統一ルールは必要です。

中城――復興のデザインを描く、という意味では統一ルールは必要です。しかしエリア同士の食い合いにならないよう、エリアごとに特徴や価値を出していくことも大事なのではないでしょうか。

 

●仮設住宅を地場産業に

いかに結びつけるか。

 

布野――松村先生の応急仮設住宅に関する話についてですが、状況分析については、その通りだと思いました。しかし違和感があるのは、仮設住宅の建設と地場産業との関わり方についての見解です。陸前高田市で気仙大工の方々に会ったときに言われたのは、大工集団が湾ごとに違うので、仮設住宅建設の仕事がまったく落ちて降りてこないということでした。阪神・淡路大震災などの経験から、今回は抽選の方式や集会所、コモンのつくり方などに工夫がなされている事例も若干見られますが、それでもほとんどの仮設住宅は地域特性に十分配慮できず、断熱対応などが後対応になりました。仮設住宅の段階から地域産業を捉える視点はあっていいと思います。たとえば仮設住宅の再利用を考える、木造で仮設住宅をつくり公営に切り替える、といった方法も考えられます。そこでの担い手は、地場の大工・工務店ではないでしょうか。

松村――少し補足します。仮設住宅は、復興住宅と避難所の間をつなぐものです。仮設住宅にはその段階に必要なものがあり、それを吟味する必要があると考えます。また、非常に集中的な生産であるため、地域の産業振興に結びつきにくい性質があることは否めません。

布野――阪神・淡路大震災を機に仮設市街地研究会というものができました。そこで生まれた提案とは仮設住宅を元の住宅とは別の場所に供給するのではなく、瓦礫を処理し、元の住宅があったエリアにそのまま仮設市街地をつくるというものです。そのような柔軟なあり方があってもいい。また、建築産業は自治体からの発注を受け、即座に仮設住宅の建設へと向かいましたが、制度的対応の時間を待てば「みなし仮設」のようなストック活用のへの道も開け、建設のみの対応に翻弄されることもなかった可能性があります。現在の災害救助法の枠を完ぺきに見直し、今後に向けて準備する必要があるのではないでしょうか。

松村――仮設住宅を地域の新産業や復興につなげる導き方はありえますね。今後整理していきたい課題です。ところでこれから気を付けたいのは“引き波”です。典型的なのが住宅産業。宮古にはかつて大手住宅メーカーの拠点がかつて5つあったのですが、震災前には1つだけになっていたそうです。ところがここ半年ですべてのメーカーが戻ってきました。復興の需要に対応する際に大手が活躍するのは問題ないと思います。しかし5年後には、またいなくなるでしょう。地域で“業”を営む者だけが残るんです。地域の工務店は後継者不足です。なくなるのも市場原理だから仕方ない、という考え方もできますが、各大学の建築学科が卒業生を送り出しているのに、その先には仕事が何もない、というわけにはいかないと思います。

赤沼――農業と建設産業は今までセットで捉えられてきました。国の予算が常に入り続けて地域を守る、大きな仕組みとなっています。別の方向へとシフトする時代の流れはわかるのですが、そこが主流となることを思うと絶望的な気持ちになることもあります。

布野――水産業など別の産業にはシフトできないのでしょうか。たとえば法的な枠があるので現実的には難しいのですが、被災地の湾をひとつ買いたいとシンガポールから打診があった、という話を聞いたことがあります。別の産業と協力しながら建築産業のノウハウを活かし、地域振興に取り組んでいくこともできるのではないでしょうか。

 

●次世代に向けて何ができるか。

 

安藤――今の議論にあったように、課題は復興特需が終わった後です。建設・生産から関連産業へと、どう広げていけばいいのでしょうか。

中城――地元の建設業には元々後継者の問題があり、工務店も設計事務所も社長が60歳を超えていることが多くあります。こうした組織が復興特需後も事業を継続している可能性は高くないため、次世代には異なるフィールドが必要です。復興し、立ち上がろうという時には60歳前後の方に仕事を与えられるか、ということではなく、35歳くらいの人ができることにどう投資を振り向けられるかが重要ではないでしょうか。

和田――仕事がない建設従事者の受け皿は、かつては農業でした。日本には森も耕作放棄地もある。たとえば木を切ったり機械をオペレートしたりすることに違和感のない建設業が農業・林業も担う、ということもあるのではないでしょうか。元々の産業の担い手に対して継続的に仕事を生み出しながら、若い方々に機会を与えることを両立させるような方程式を解いていかないとなりません。

中城――地元の建築産業はこのままでは、復興特需に対応することで手一杯になる可能性も高いです。お金が出ているうちに、次世代型のビジネスモデルを考えられる人材を育成する必要があります。

松村――被災地には、いま地域以外の人がたくさん入り込んでいます。さまざまな仮設住宅地の運営にも、大学など多彩なチームが入っています。たとえばアーティストとシナリオライター、建築家などの異業種混合チームで仮設住宅地の生活を支援する「わわプロジェクト」というものがあります。こうした地域外の人々と出会うことは、発想の多様な発展につながり被災地の産業機会にとってもよい影響があると思うんです。異業種のメンバーが寄り集まって何かを成し遂げる経験は、地元の建築関係の方にとってもよい経験になるかもしれません。建築分野に閉じこもっていては、ニーズに総合的に答えられません。従来の建築の役割とは異なることをし始めた人を勢い付ける方法はないものでしょうか。東北で出てきた芽が経済的な枠組みに組み込まれ、産業として成立する職能へとシフトして日本の新しい仕事のモデルになるといいんですが。

布野――いま、復興住宅に対する組織的な取り組みが出てきています。岩手県のある職員による先導で、県ごとに「地域型復興住宅連絡会議」(注1)という組織が設立されました。イメージとしてはかつてのHOPE計画に近いものです。「地域型復興住宅 設計と生産システムガイドライン」という手引書もできています。これについては、学会からもモデルを出して欲しいと言われています。

赤沼――市町村によっては、地元の建築家と地場産材による取り組みも数多くはありませんが登場していますよね。

布野――昨年5月に当選した北上市の市長が以前は建築家で、NPOの活動を10年されてから市長になった方です。まさに地域活動から市長に、という方が現れました。本誌2月号でも紹介(注2)されていますが、緊急雇用対策事業費で大船渡市の仮設住宅地の生活支援の取り組みを主導している方です。大船渡でのサポートシステムがうまくいったので、大槌町でも進めるそうです。仮設住宅の支援システムは、岩手県が進んでいるという印象があります。

 

●復旧・復興の時間をどう経験するか

 

青井――復興特需を含むこの先10年、20年をどう経験するかという問題を、地元の建設業界はどう捉えているのでしょうか。

赤沼――予算がつけば仕事は間違いなく来ます。しかし防潮堤や港湾整備は進んでも、そこにまちづくりがうまく絡まないと大変なことになります。計画をまとめないとうまく復興ができず、しかし急がないと人口が減っていきます。大手建設会社には復興に向けて全体を統合する力はあるので、そこに地元の皆さんが入っていただけるといいと思うのですが。

安藤――マスタープランがなくとも、あるいは公的資金が後付けでも、地元の建築産業を巻き込み、たとえば住宅地の自力造成などを民間ベースで動かすようなことはできないのでしょうか。

赤沼――集落によっては自分たちで山を開き、インターネットで状況を発信している事例があります。全国から届いた砂利を、自分たちで敷いていくというような作業をされています。

青井――復興はチャンスにもなりえますが、負の経験を残す可能性もあります。不安要素と、それを乗り切る方法をそれぞれの立場からお話ください。

赤沼――正確な人口予想。それが復興に向けた一番の課題です。そして人口を引き止める職場の整備が必要です。

松村――いま、自発的に被災地に通い、仮設住宅地運営の支援などに奔走している若い方がたくさん、それこそ数千人単位でいます。やりがいを感じ、地元からもありがたがられていますが、お金にはなっていません。そうした活動が、どうにか市場に乗るよう仕組みをつくる必要があるのではないでしょうか。これほど自発的な動きが組織化され、どんどん動く状態というのは見たことがありません。このポテンシャルを何とか産業に結びつけられないものでしょうか。

中城――もともと震災直後には自発的で多様な対応をしていた地域の建設業にも、あまるような仕事が来てしまい受け身な“請負い”になってしまいます。すると瓦礫の処理のようなごくシンプルな仕事に戻ってしまい、せっかくの芽生えていたエネルギーの元が途絶えてしまうことが心配です。

布野――復興を担うNPONGOにはお金が結構集まります。基金を積めるような仕組みを用意し、学会などがサポートする、ということはできるかもしれません。また、国土エネルギー計画や産業政策は再編される方向で動いて欲しいという希望はありますが、そうは進まない予感もしています。震災特需をなかなかうまく使えない仕組みが前提としてすでにあるためです。そのような状況で言い続けているのが、とにかく若者は被災地に行け、そこで体験しろ、ということです。いいことも、悪いことも経験して考えるのはプラスにもマイナスにとにかく出発点になります。大人は彼らの経験を増やす仕掛けをつくる義務があります。

和田――先日、土木と建築の業界団体が融合し、日本建設業団体連合会(日建連)となりました。同じように建築学会と土木学会も一体化してはどうか、と言われたこともあり、私も土木学会に顔を出す機会が増えています。交流は盛んになりつつありますが、オフィシャルな場では率直な議論を交わすシビアな交流になかなかならないのです。そこが課題だと感じています。

布野――自治体レベルでは、復興計画に対し建築土木で横断的に議論できているところもあります。たとえば名古屋市が陸前高田市に職員を長期的に派遣しているように、自治体同士の連携も行われています。また日本の国土・社会・産業基盤に関わる24学会の合同と日本学術会議での、分野をまたがる議論もはじまっています。実務レベルでの連携を通して経験を蓄積していくことが将来につながるのではないでしょうか。

竹内――震災とこれまでの復旧・復興の経験から、今後の可能性の芽が出てきつつあります。建築産業、そして学会はその芽を見出し、積極的に捉え、どう活かすか、その方法を見つけることが必要と考えます。本日はありがとうございました。

201224日、建築会館にて)

  

注1)被災者向けに、地場産材を活用した在来工法による、長期優良住宅の性能を持つ住宅の建設を想定したモデルプランを民間で検討しよう、という組織。201111月設立。

 

注2)本誌20122月号 東日本大震災 連続ルポ1 動き出す被災地「自治体間連携による仮設住宅支援員配置事業―大船渡市と北上市による新しい連携のかたち」菊池広人











 

2023年7月9日日曜日

鼎談「建築評論をめぐって」,布野修司,八束はじめ,土居義岳,五十嵐太郎:建築雑誌,200409

鼎談「建築評論をめぐって」,布野修司,八束はじめ,土居義岳,五十嵐太郎:建築雑誌,200409

建築雑誌9月号特集建築評論の行方」鼎談

建築評論をめぐって

 

 

八束はじめ……やつかはじめ

建築家・㈱ユーピーエム代表取締役

1948年生まれ/東京大学卒業/同大学院博士課程中途退学/磯崎新アトリエを経て、1985年ユーピーエム設立/著書に『批評としての建築―現代建築の読みかた』(彰国社)ほか、共著に『メタボリズム――一九六〇年代日本の建築アヴァンギャルド』(INAX出版)ほか/作品に「白石情報センター」「砥用文化交流センター」ほか

 

布野修司……ふのしゅうじ

京都大学大学院助教授

1949年生まれ/東京大学卒業/同大学院修了/建築計画/工学博士/著書に『戦後建築論ノート』(相模選書)、『裸の建築家――タウンアーキテクト論序説』(建築資料研究社)ほか、編著に『アジア都市建築史』(昭和堂)ほか/作品に「スラバヤ・エコ・ハウス」ほか/1991年学会賞(論文)受賞

 

土居義岳……どいよしたけ

九州大学大学院教授

1956年生まれ/東京大学卒業/同大学院博士課程満期退学/建築史/工学博士/著書に『言葉と建築――建築批評の史的地平と諸概念』(建築技術)、共著に『建築キーワード』(住まいの図書館出版局)対論 建築と時間』(岩波書店)、訳書に『新古典主義・19世紀建築1(本の友社)ほか

 

 

 

 

 

司会

五十嵐 太郎

本号担当編集委員

 

 

 

批評をはじめた経緯

五十嵐 お三方の先生は、批評の批評、すなわちメタ批評的な仕事をされています。布野先生の『戦後建築論ノート』(『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』)は批評を含む日本の建築界の言説を概観されていますし、八束はじめ先生の『批評としての建築』は建築そのものの批評性を問う試みでした。土居義岳先生の『言葉と建築』は、もともと連載のタイトルで「メタ批評」という言葉を使っていました。まず個別に批評にかかわった経緯を語っていただきたいと思います。

八束 実は布野さんとはデビューが一緒なんです。75年頃の『建築文化』の連載特集で、一番年上が伊東豊雄さん、一番若いのが布野さん、2番目に若いのが私でした。あのとき、布野さんが私より若いのにあまりにもものを知っていた。私がものを書き始めたというか、その前提になる勉強を始めたのはそのショックからですよ。

布野 若いといったって1歳でしょう。誕生日が一緒だよね。ヨーロッパへ最初に一緒に行ったのがなつかしいね。『建築文化』の会議では、みんな上の世代の作品の悪口をガンガン言うんだよね。石山修武)さんとか毛綱さんなんかも夜な夜な現れて議論した。まさに批評をしているんですが、それを聞いているのが非常に楽しかった。伊東さんも「東中野の家」が出来る前だし、石山さんはドラム缶(コルゲートパイプ)「幻庵」、毛綱さんは反住器ができたぐらいで、若い建築家は食うや食わずの状況したね。やることがないからしゃべっていた。オイルショック直後でモノが建たない時期だったです。

五十嵐 批評を書くことが活動の出発点になるという意識は強かったんですか。

八束 仕事のない時代にそういうことが始まったというのは、スタンスにかなり影響があるでしょうね。川添さんがメタボリを先導したというスタイルの書き方はできようがない時代でした。ただ、まだ大学院生ですから、そんなに戦略があってやったわけでもなく、もちろん設計の仕事なんかいきなり来るわけはないから、差し当たってそういう人たちにくっついて何となく始まったんです。私の場合、長谷川尭さんが審査員の『建築文化』の懸賞論文に応募して入って、それと連載がほぼ同時に出ました。

布野 僕は建築計画の研究室にて何をすればいいのか考えていたんですが、正直やることがないように思えていたんです。戦後、いろいろなコンセプトを出してきたわけですが、どうもそれが役に立たないというか、限界が見えてきた、逆に批判されるような時代だったですね。例えば学校で言うと、学年毎に、先生が黒板を背にして生徒と向き合う形式を前提にしてきたんですが、ノン・グレーディング(無学年制)とかチームティーチング(集団指導)、オープンスクールといった概念が入ってくると同対応していいか分からない。近代的な制度=施設が疑問に思えてくる。みんなで教え合ったほうがいいというのは、寺子屋でやっていたことじゃないか。歴史を見直す必要があるというので、図書館にこもりだした。論文を読むんじゃなくて、明治のはじめからの雑誌を見て、コピーを取っておもしろがっていた。ただ、中心は建築計画学の成立とその起源でしたから、最初にあたったのは西山夘三さんの周辺ですね。戦中の国民住居論攷』なんかは読んだんです『満州建築』とか『台湾建築』なんかも眼を通しましたよ。

八束 私の場合、標的はメタボリストにあって、日本の近代の最後のフェーズという感じがあったんだと思います。伊東さんもいわゆる野武士の世代の一人になったし、菊竹さんのお弟子さんですから、師匠殺しのような意識は共有していたのかもしれない。

土居 ちょうど私が学生のころ、毎号雑誌に出ているお二人の文章をかじ取りにしてほかの文章を読んでいく。物差しにしていく。私らはそういう世代ですね。

私は歴史をやるんだけど、批評みたいなことに興味があったのか、歴史の延長でしたね。歴史はアカデミズムで書けることが決まってしまうから、はみ出す部分を批評で書きたいというスタンスでした。しかし、お二人と同じことをやっていたら到底かなわないから自分なりの方法論を考えた。それは歴史の方法論でもあるんですが、『言葉と建築』の原型は学生のころに考えていたんです。上の世代の批判はできないなと感じていて、もう少し距離を取って遠くから構図を一望に収めることで自分の立場ができるんじゃないかと。世代的にも私らはオイルショックの影響で何人か就職浪人が出たりして、結構大変な時代だったんですね。だから、ちょっと早いけど世紀末的な雰囲気が少しありました。

 

いかに批評を行うか

五十嵐 八束先生と布野先生は、ご自身批評家ではないと言われましたね。

八束 私も最初は同世代の建築への意識があったけれど、だんだん距離を感じはじめ、ちょっと違うなという気がして批評をやめてしまったんです。当初は理論と実践を一致させようという意識があったんですね。だけどだんだんそれはうそだなという感じになってきて、それが決定的になったのはコールハウスと話をしたときです。「おれは理論のためにデザインをするわけでもないし、デザインするためにものを書くわけでもない。それは全然違う活動だ」と。「あっ、それだな」という気がしてふっ切れたのです

 は批評というのは基本的に広い意味での近代の営為だと思います。自動的に批評イコール・メタ批評なので、基準がなくなったところに批評は成立しない。要するに、考える基準がない。たぶん「なくなった」と言っていても、自分ではモダニストだと思っているんです。その尾てい骨みたいなもの残っていて、抜けられない。

 ジャーナリズムもレビューも成立するだろうけど、批評は成立しないと思っているし、自分も設計の端くれをやっているからなおさら書きづらいということもあるんですが、基本的にはそういうものは書かないと決めています。コンテンポラリーなことをオピニオンリーダーとして引っ張っていくのが批評家の役割だとしたら、私は完全にそうではない。

布野 がやってきたのはある種のイデオロギー批判ですね。言説批判ではあるけれど、作品批評は書いたことがない。建築批評は経験を積んで、いわゆる目利きがきちんと言葉を研ぎ済ませて書くものでしょう。建築家なり建築を成り立たせる仕組みや制度、周辺のことに興味があって、それを書いてきました。もちろん、最近の若い人よりはるかに建築を見てますから、多少の目利きだとは思いますけどね。

五十嵐 以前、八束さんは、西澤文隆さんを挙げて、日本的な目利きの批評だと指摘されていましたが。

八束 レビューの最たるものは『新建築』の月評だと思うんです。ディテールに至るまで知悉している人が目利きとして書いている。私はああいうのはやりたくないなと、思ったんですね。たとえば歌舞伎の批評で「6代目はこうやったんだけど、いまのは」というのと同じなんです。つまらないとは思わないし、なるほどねと思うことはたくさんあるんだけど、徹底的にコンセプチュアルな話は何もないわけです。「あそこのひさしがもう少し下がったらよかった」と。そういうのはむしろ建築家が言える話ですが、いわゆる感想批評というのはベテランであろうが若かろうが、建築家でも一般の素人でもが言ってもいいんです。批評家がそれに対してアドバンテージを持っているというものではないと思うから、それをやるのはやめようと。

土居 常勤の批評家にはなれないし、なれてもなりたくないというところがあります。つまりほかの定職なり何なりがあって、ときどき批評家精神を発揮するというのが一番私にとってやりやすいというか、あるべきやり方なんですね。

 批評というのは自由にものを言える機会が与えられて、そのときに自分より偉い人を相手にして、それにもかかわらずもっと高いところから言うということですが、それはワンタイムパフォーマンスじゃないとおかしい。常に制度的に延々と成り立っているのは、ちょっとおかしいんじゃないかと私は思う。

作品の批評をするときは、端的に言えば褒める批評をしたいんです。それは建築家の意図せざる価値を見つけて、付加するということです。私はよく辛口と言われるけど本当はすごく甘い批評をしたいと思っています(笑)。近代の批評は、つくった本人から他者が作品を奪い取るような批評ですね。そういうことができればとりあえずひとつ批評したことになるという、自分のなかの業績主義ですね。

五十嵐 日本の場合、批評だけで食べていける常勤は難しいですね。

布野 批評家が経済的に自立するかどうかというのは、どの分野でもある問題ですね。建築の世界で生きながら建築家に嫌われようが思うように批評して、それでも食えるのか。日本では、評論家が自立して食っていく条件がないから食えないんですね。一番に責任を果たすべきは建築ジャーナリズムなんだけど、この間ずっと一人も食わせる力がない。長谷川堯さんも大学の先生になったし、松山巌さんぐらいじゃないですか、今、自立しているのは。それでも建築だけでは苦しい。

八束 とりあえず内容のレベルの話は別にして、美術批評だと展評というのがあるから、常勤の批評家は美術のほうが建築よりも多いですね。

美術の分野だとニューアートヒストリーとかあって、結構元気が良い方だけど、建築はそれがない。部分的に言えばフェミニズム批評とかコロニアリズム批評が建築に入ってくるのはあるんですけど。

 

趣味と論争

五十嵐 アメリカだと、新聞社の評論家が活躍していますね。

八束 ゴールドバーガーとかハクスブルグがいますけど、たとえばケネス・フランプトンみたいなのとは何となく違う。

布野 ヨーロッパは、一般ジャーナリズムが建築をきちんと扱うんじゃないですか。伊東さんが言ってましたが、スペインでは、ワークショップみたいなものをやるのが普通だけど、ちゃんと理解してもらえば聞が擁護してくれる。逆にたたかれることもある。風土が違うんですね。

八束 私が磯崎さんのところでロサンゼルスの現代美術館を担当していたとき、進行中に取材に来て、それがちゃんと新聞に載るんです。アメリカの新聞は全国紙じゃなくて、LAタイムズやニューヨークタイムズのようにローカル紙でしょう。だから建築は社会的な事件で、それに対して報道もするし、クリティックもする。

五十嵐 フランスの場合も、たとえばポンピドゥーやルーブルのピラミッドが登場したとき社会を巻き込んで議論が出ましたね

土居 政権交代ができる基盤があるから、権力抗争の政権の具になりうるというところがありますね。それは19世紀の様式論争からあまり変わっていなくて、ゴシックにするか古典主義にするか、要するに保守と革新とどっちが勝つかということです。逆に本質的なデザインの話があまり出ないんです。一方、展覧会は結構シビアに批評されますね。

布野 アジアだと、黒川紀章さんがタイで文化センターをやったら、日本の伝統を押し付けていると大騒ぎされたとかある金寿恨さんの扶余の文化博物館の門が日本の神社を思わせると叩かれた。勾配屋根とか、帝冠様式のレヴェルの話は少なくない。そもそも建築ジャーナリズムがないから、批評とか建築論も一般的にはほとんどない。

八束 シンガポールのあたりは少しあるでしょう。結局ヨーロッパに行って帰ってきた人たちだけど。漢字文化圏はいま、文化批評でおもしろい人がたくさん出てきているし、建築でもコールハースのハーバードのプロジェクトシリーズをやっていた優秀な中国系アメリカ人が北京に行っています。これから変わってくるんじゃないですか。

布野 中国は、これまで学会の『建築報』しかなかったのが、いまは清華大学が出している『世界建築』とか、この10年ぐらいで45新しい「建築雑誌ができています。

八束 いま中国では、ポスト・ストラクチャリズムの翻訳がどんどん出ています。少なくとも美術までは日本のレベルに追いついていると思います。建築も時間の問題でしょうか。

五十嵐 八束さんは『101』という雑誌の創刊にかかわりましたが、建築あるいは都市の批評理論をやるというもくろみですか。

八束 編集者がもともと80年代のニューアカデミズムを牽引した『GS』をやった人で、私のところに相談に見えたんです。私は「建築プロパーの雑誌をつくるのは意味がない。もう少し広い視野で、建築の範囲を広げるなら協力したい」と。私がやめてから建築のほうにシフトしていったけど。SDもなくなってしまったし、建築をやる人で文章を書きたい人が発表するメディアが激減したというのはありますね。もともとたいしてなかったから、それは大きいと思います。

布野 若い人にとってそれがかわいそうですね。言説以前に場所がなくなってしまっている。一般の雑誌は建築を扱ってくれるんだけどね。建築ジャーナリズムがまるっきり衰弱してしまった。『建築雑誌』若いにも誌面を開放してくださいという意見理事会あたりからも出るんです。それぐらい場所が無くなっている。もっとも、若い人はインターネットでやりあってるんでしょうけどね

五十嵐 確かに、建築の批評は趣味的なものだと思われています。

八束 たぶんわれわれ3人がドロップアウトしているのは、趣味的なものはやりたくないというのがあるからじゃないですか?もともと批評自体が成立しないで、あらゆることが趣味批評になりつつある。趣味の世界に論争はあり得ない(笑)。「おもしろいね」と言うか、「それはつまらない」と背を向けるか、どちかしかないから。

私は基本的にはポストモダンにメタ批評は成立しないと思っています。それを手を変え、品を変え、主題の不在から始まってテーマ化してきたのが磯崎さんだけど、彼の独走になってしまったのは、客観的な指標になり得ないけれど、語り口のうまさで決まってしまったということじゃないのかな。

布野 僕らの世代は、右に磯崎がいて、左に原広司がいて、それぞれ理論の展開があった。どう実践するか、追随しながらもそれをどう乗り越えるかということはチェックできたわけですよ。「解体の世代」以降、それこそ中心がなくなってしまった。要するに批評家、建築家を含めて、何をつくったらいいのかという理論なり方法をめぐって言説を吐く人がいないんですね。それに論争というのは若いが仕掛けるもんでしょう

土居 日本の論争は多分に世代間抗争みたいなところがあったでしょう。ひとつ上の世代にかみつくわけですね。それが少なくなった。

布野 アピールしたものが一般の世界にも聞こえていくんです。建築の世界で勝たないと世代交代が起こらない。そうすると仕事も来ないという構図になっているはずなんです。バブル期は黙っていても仕事が来たんですね。苦労しなくても下の世代に回っていった

八束 建築ジャーナリズムに議論を仕掛ける連中がいなくなった。かつてはおもしろがって仕掛けすぎという感じはあったけど、それもなくなってしまったことが大きい。

土居 私も鈴木博之さんや藤森照信さんを批判しましたが、よく読んでくれれば、行間にすごくリスペクトな気持ちがあります。私が心掛けていることは、枠を広げつつ、あるいは高めつつ批判しないとつまらないということです。自分以外のだれかに対して○×をつけるときに、何かネタをそこで考えるということをやっているんです。

ネタを創案したことに自分の業績がある。私の場合は、批評言語を捏造するということができたら人の悪口を言ってもいいかなと。あるいは批判しつつ、よく読んでみると歴史的にすごくいいところに位置づけているとか。相手はそれも嫌かもしれないけど。

 

戦争とメタ批評

八束 作家と作品の世界に批評が従属しないといけないのでしょうか

戦争中、浜口隆一さんは、建築をつくる立場とは独立した格好で建築論をやろうとしました。メタ批評を試みたという点で、浜口は画期的だったと思うんです。ただ、もっと前にたどると美術史でヴェルフリンとかリーグルが哲学のそのまたメタになっていく時代です。浜口は同級生の丹下健三さんに言説の世界で対抗しようというのがあって、それがあそこで挫折したんでしょうね。それは日本が最大のバックボーンを持とうとした時期だったから。ファシズムの話ですよ。もっとも大文字のストーリーを要求した時期だった。しかし、浜口さんは、戦後に民主主義の建築のはなしになってから話がつまらない。ほとんど剽窃理論ではあるけれど、国民様式の議論で、あれだけの骨格を組み上げたのは画期的だった。

布野 それは批評じゃないでしょう。

八束 私に言わせると、あれが批評なんです。彼はメタ批評にしたかったわけで、レビューはしたくない。あれも日タイ文化会館に引っかけているけど、最初だけで、あとはずっと別の話をするでしょう。ルネサンスの話をみんな引っかけてやるのも、丹下さんの「ミケランジェロ頌」も、板垣鷹穂の押し込みだと思います。岸田日出刀はたいしたものを書いていないけど、弟子の立原道造とか丹下、浜口たちが頑張った。岸田は板垣と親しかったし、弟子も美学研究室に出入りしていた。だから現象学の話もどんどん使う。

伊東忠太は戦前の最大の批評家です。法隆寺とパルテノンは同じレベルで議論ができるとやったときに、メタ理論の枠組みをやったのは建築哲学じゃないですか。建築史家の関野貞なんかはそういうことはしないわけですね。議論は相当粗いけど、そういう意味では、たとえば黒田鵬心よりは、伊東忠太のほうがずっと本格的なメタ批評をやった。学会の国民様式の議論もそうでしょう。ガーゴイルみたいなものがおもしろいという最近の評価には興味がないんだけど、メタ理論家としての伊東忠太はおもしろいと思います。そして堀口捨巳が乗り越えようとして、次に浜口が乗り越えようとした。

土居 世界史の中で日本をどう位置づけるかという永遠の問題があって、日本が一番最後に世界史の中に位置づくことに成功すると大建築哲学ができるんです。ただ、それからあとが続かないんです

八束 戦争に負けちゃったから(笑)。一番確信的なファシストだったのは坂倉準三だと思いますけど。前川國男もそうだったと思う。昭和の1けたでメタ理論を立てようとしている人たちはみんなモダニストで、その人たちは大なり小なりファシズムに行くんです。ファシズムはメタ理論だから。コミュニズムでもいいんだけど、それがなかったから。

 ル・コルビュジエがビシー政府にくっついたみたいなことを含めて、相当剣呑なほうに行っていると思います。これは丹下さんも、みんなそうですね。それを戦争責任という話にいきなり持っていってしまうから、その議論が成立しづらくなっているけど、保守的な連中はそういう議論をしない。帝冠様式をやっていた人たちは理論がないんだもの。

土居 八束さんの話を聞いていて、昔からすごく仕事が一貫しているなという気がしています。モダニズムをどう位置づけるかという話ですね。

八束 よきにつけ悪しきにつけ、とにかくそういう構図が最終的になくなったのが70年万博だというのが私の昔からの持論です。それからあとはポストモダンで、ある意味平和な時代で、せいぜい野武士的な郷土でしか建築が成立しなくなっている。

 

ポストヒストリーの批評

五十嵐 もう70年で批評は終わっていると。ポスト・ヒストリーということですか。

土居 ヨーロッパの感覚と比べると100年ぐらい遅れているでしょう。そう考えると日本はすごいことをやっていて、100年遅れて始めて、70年ぐらいにもう歴史が終わっている。あっという間に追い越したのか、あるいは到達しないうちに……。

八束 中国はそれをもっと短期間でやろうとしているから、すごいと思うよ。

 韓国は日本の植民地であったという事実が、議論を屈折させていますね。結局、日本の伝統論争みたいな話になってしまう。「日本の建築家は近代的な主体を経験したけど、韓国の建築家はそれをやっていないからだめだ」という、日本で言うと近代文学の連中が50年代にやった話をまだ言っているという感じが最近までありました。

 ナショナルアイデンティティーにこだわると、そういう話に絶対なってしまうんです。それがなくなったのがポストモダンだと思いますけど。

布野 はもう四半世紀インドネシアに通ってますが非西欧から見るとまた違う見え方がするんですね。ヨーロッパの近代運動入り方がそれぞれの地域で全然違う。アメリカ建築だってもともとはヨーロッパ世界の植民地建築ですよね。そちら側に視点を置いて歴史の終わりを読んで見せるという作業が要るんじゃないかと思うその辺りに、日本人の批評家がやれる仕事があるんじゃないかという気がしています。そうじゃないと日本の建築が世界史的に位置づかないでしょう。たとえば現代建築を位置づけるときには何をベースに議論するのか。歴史研究とは言わないけど、いろいろな見方を提示する役割はどこかにあるし、だれかにあると思うけどね。

五十嵐 他に批評は、どのような必要性がありますか。

土居 メタ批評が終わったんでしょう。だから、もっとベタな批評を(笑)。

単に賞を与えるだけのものだからその賞によって批評家がいい立場を得る。それは結構大事なことなんでしょうね。学者が論文を一本書くような感じで、世の中では建築家が賞を取るわけだから、そういうメカニズムはありますね。だからベタな批評は、そのあたりでかなり役割を果たすべきだとは思うんです。

布野 批評はすごく大事ですよ。たとえばつくる手掛かりを与えるとか、それを翻訳して一般的な世界に伝えるとかの役割は要るでしょう。建築の世界は、どうしようもなく閉じている。モノつくりには、あ・うんの呼吸というか、「わかる?」の世界があるじゃないですか。これは収まっているとか。可能な限りオープンにして、言葉にしないといけない。

 しかし、ジャーナリズムが努力していないし、斜に構える現役もいる。そうじゃないと、たとえばみんなポピュリズムのほうに行くんです。藤森さんにしても、鈴木博之さんにしても、みんな「建築を愛しなさい」とか「こんなに楽しい世界だよ」という言説になっていく。他にも、伝えるべきことがあるんじゃないかなあ

五十嵐 布野さんが『群居』にかかわられたのは、批評の場をつくるためですか。

布野 建築家が住宅の世界にどう取り組むかということをテーマとして、ああいうメディアをつくったんです。戦後間もなく、建築家にとって最大のテーマは住宅だったんだけれど、それが立ち消えになっているという意識があったんです。ハウスメーカー、住宅雑誌のような閉じた世界、家族の問題とか、住宅に関わる全部をどうクロスできるかを追及しようとしたんですけどね。いろいろな世界をつなぐ言説はどこで成り立つのかに興味があった。広がらなかったから敗北ですね。

八束 『Casa BRUTUS』は売れるんだけど、『新建築』は売れない。それで勘違いして、これだけ建築不況なのに学生が建築学科に押し寄せるから、問題が大きいですね。

 

アカデミーとコンペ

五十嵐 西洋のアカデミーの系譜から批評を考えるとどうなりますか。

土居 私はかなりさかのぼって古典主義あたりから見てみようという遠大な計画があったんですが、今日の議論で言うと、それは始めがあって、終わりがあって(笑)。

フランスのアカデミズムは、あまり王権にくっついていなくて、権力の側から割と重要視されなかったところがあります。意外と自由で、あそこで建築理論が練られたということを感じています。それで基本的な批評言語が古典主義の時代にできるんですね。

 ただ私は、古典主義的な批評というのはあまり批評ではないと思っています。批評の意味は、言っている人が直接の当事者じゃないことが重要です。建築家と施主の間ではなくて、第3の視点で、しかし何か力を持つ。それが力を持つのは、社会の中に公共空間があるから影響力を持つことができるわけで、これは市民社会ができたあとのことですね。建築を論じる場としてのフォーラムみたいなものですね。

 陳腐な例ですが、「紙の建築が石の建築を殺してしまった」もメタ批評になりうるようなことを言っている。そういう第3の立場があって、それが社会の中で機能するというのが批評の始まりですね。基本ができたのは19世紀じゃないですか。だから19世紀的な公共空間がなくなりつつあるんでしょうね。

布野 公共空間の成立と建築家という職能の成立とパラレルでしょう。建築家でRIBAみたいなものができていく。イギリスでうとほぼ一緒でしょう。彼らが何をしゃべっているかというと、いかにして他を排除して、いかに食うかですね。しかし、パブリックに建築が議論されるというのは、コンペの審査の場合でも、日本ではほとんどないよね。

土居 ところで、グローバル化の中で日本はまだ売れるんだろうかというのがお聞きしたいところです。結局何だかんだ言っても、日本には深いところがあるぞという蓄積をつくったじゃないですか。日本という商品をつくっていて、それを小出しにして売っている人がいます。私はそれはいいことだと思うんです。

八束 たとえば磯崎さんが向こうに行くと陰影礼讃の話にしてしまう。安藤さんの光と壁の建築なんて、日本には伝統的にないけど、あれが日本的だと思われてしまう。一応日本が売り物になっているでしょう。でも、東南アジアの人たちは何を売ればいいの? 

布野 インドネシアで僕のフィールドであるスラバヤにポール・ルドルフの作品がある。ジャカルタにもある。え、こんなところで懐かしい、と思うけれど同時に考えるのはグローバルなネットワークですね。テクノロジーを握っているのも外資、資本もそうだし、トップのレベルのコミュニティーというか、それが握っている。世界中の首都クラスに建っているのはだいたいアメリカの建築家で、それを例えば、日本のゼネコンがやっている。ポスト・コロニアルと言うけど、デザイン上はコロニアルな状況が続いている。たとえばケン・ヤングが出てきても、彼はヨーロッパ世界とつながっている。昔で言うとグローバル・デザイン・マフィアみたいなものが階層化されている。

八束 マーケットとしては植民地状態が続いているということになるんですね。

 アメリカとかヨーロッパに行って、最新のデザインも含めて情報を持って帰っているが結構いるわけです。たとえばリベスキントの弟子が、イランに帰ってから、超高層をボカッと建てたりするんです。

布野 インドネシアでも、インドもそうだけど、バラバラで一緒(多様性の中の統一)というのをどう実現するかがテーマなんですね。建築の話にすると、それこそインドネシアはアメリカ合衆国ぐらいの幅がありますから、ヴァナキュラーな建築がいろいろあるんです。民族抗争をやるし、日本よりはるかにヴァラエティーがあります。いまはたがが緩んでキリスト教徒とイスラム教徒とヒンドゥー教徒がドンパチをやりかねないから、デザインが争点をつくるというのは非常にデンジャラスな状況です。だから、デザインを売りにいくという話は、極めてデンジャラスという気がします。

五十嵐 土居さんの問いかけは、通史特集の問いかけから続いているものですね。

土居 いまはあまり歴史の本質論の時代ではないですね。大学の先生に問いかけられているのは経営者感覚なんです(笑)。いろいろな波及効果を考えて、純粋に論文の数だけじゃなくてということが社会的にはあるわけです。営業的にというか、やらなければいけないことがあると思うんです。社会の中で付加価値をどう与えるか。それが普遍的であればあるほどいい。地方で建築がちゃんと評価されるシステムを素朴なかたちでやらないとということが、いま問われています。それぞれの地域社会の興業主みたいに、学者とか建築関係者がならなければいけない。そうしないと、いかがわしい連中が……(笑)。

布野 実践的に問われているのはコンペで、審査委員で入るときにどれだけ頑張れるかという問題がある。みんなPFIになっていく。建築の価値が点数化されていくんだけど、どれだけ言語で表現できるか。普通の建築屋が入っているコンペとは相当違う言説を成立させないといけない。ポイント制は反対なんだけれどそうは言っていられない状況になってきた。

八束 横浜のフェリーターミナルのときに市の建築セクションがものすごく反対したんですが、最終的に磯崎さんが大演説をぶって、市民代表の審査委員を全部味方に引き付けたんです。市民代表が最初に投票したのは鹿鳴館みたいなのだったんですが最終的にポロたちの案に行くという、その腕力のすごさはありますね。

布野 坂本龍馬記念館のときもそうでしたよ。しかし、そういう世界が成り立たなくなりつつある。逆転ができないように点数が細分化されるんです。もうひとつの問題は、30年全部担保して、技術的な可能性も含めて審査しろと言われると、われわれプロでもお手上げだということです。国連のコンサルタント契約はみんなそうなっているんです。やっぱりポイント制で、そういうグローバルスタンダードのマニュアルができつつあって、みんなそれをまねしているという話です。だからこそ、建築は批評が大事だともえるわけです。

 

                            524 建築会館にて