『建築雑誌』9月号特集「建築評論の行方」鼎談
「建築評論をめぐって」
八束はじめ……やつかはじめ
建築家・㈱ユーピーエム代表取締役
1948年生まれ/東京大学卒業/同大学院博士課程中途退学/磯崎新アトリエを経て、1985年ユーピーエム設立/著書に『批評としての建築―現代建築の読みかた』(彰国社)ほか、共著に『メタボリズム――一九六〇年代日本の建築アヴァンギャルド』(INAX出版)ほか/作品に「白石情報センター」「砥用文化交流センター」ほか
布野修司……ふのしゅうじ
京都大学大学院助教授
1949年生まれ/東京大学卒業/同大学院修了/建築計画/工学博士/著書に『戦後建築論ノート』(相模選書)、『裸の建築家――タウンアーキテクト論序説』(建築資料研究社)ほか、編著に『アジア都市建築史』(昭和堂)ほか/作品に「スラバヤ・エコ・ハウス」ほか/1991年学会賞(論文)受賞
土居義岳……どいよしたけ
九州大学大学院教授
1956年生まれ/東京大学卒業/同大学院博士課程満期退学/建築史/工学博士/著書に『言葉と建築――建築批評の史的地平と諸概念』(建築技術)、共著に『建築キーワード』(住まいの図書館出版局)、『対論 建築と時間』(岩波書店)、訳書に『新古典主義・19世紀建築1』(本の友社)ほか
司会
五十嵐 太郎
本号担当編集委員
批評をはじめた経緯
五十嵐 お三方の先生は、批評の批評、すなわちメタ批評的な仕事をされています。布野先生の『戦後建築論ノート』(『戦後建築の終焉―世紀末建築論ノート―』)は批評を含む日本の建築界の言説を概観されていますし、八束はじめ先生の『批評としての建築』は建築そのものの批評性を問う試みでした。土居義岳先生の『言葉と建築』は、もともと連載のタイトルで「メタ批評」という言葉を使っていました。まず個別に批評にかかわった経緯を語っていただきたいと思います。
八束 実は布野さんとはデビューが一緒なんです。75年頃の『建築文化』の連載特集で、一番年上が伊東豊雄さん、一番若いのが布野さん、2番目に若いのが私でした。あのとき、布野さんが私より若いのにあまりにもものを知っていた。私がものを書き始めたというか、その前提になる勉強を始めたのはそのショックからですよ。
布野 若いといったって1歳でしょう。誕生日が一緒だよね。ヨーロッパへ最初に一緒に行ったのがなつかしいね。『建築文化』の会議では、みんな上の世代の作品の悪口をガンガン言うんだよね。石山(修武)さんとか毛綱さんなんかも夜な夜な現れて議論した。まさに批評をしているんですが、それを聞いているのが非常に楽しかった。伊東さんも「東中野の家」が出来る前だし、石山さんはドラム缶(コルゲートパイプ)の「幻庵」、毛綱さんは「反住器」ができたぐらいで、若い建築家は食うや食わずの状況でしたね。やることがないからしゃべっていた。オイルショック直後でモノが建たない時期だったです。
五十嵐 批評を書くことが活動の出発点になるという意識は強かったんですか。
八束 仕事のない時代にそういうことが始まったというのは、スタンスにかなり影響があるでしょうね。川添さんがメタボリを先導したというスタイルの書き方はできようがない時代でした。ただ、まだ大学院生ですから、そんなに戦略があってやったわけでもなく、もちろん設計の仕事なんかいきなり来るわけはないから、差し当たってそういう人たちにくっついて何となく始まったんです。私の場合、長谷川尭さんが審査員の『建築文化』の懸賞論文に応募して入って、それと連載がほぼ同時に出ました。
布野 僕は建築計画の研究室にて何をすればいいのか考えていたんですが、正直やることがないように思えていたんです。戦後、いろいろなコンセプトを出してきたわけですが、どうもそれが役に立たないというか、限界が見えてきた、逆に批判されるような時代だったですね。例えば学校で言うと、学年毎に、先生が黒板を背にして生徒と向き合う形式を前提にしてきたんですが、ノン・グレーディング(無学年制)とかチームティーチング(集団指導)、オープンスクールといった概念が入ってくると同対応していいか分からない。近代的な制度=施設が疑問に思えてくる。みんなで教え合ったほうがいいというのは、寺子屋でやっていたことじゃないか。歴史を見直す必要があるというので、図書館にこもりだした。論文を読むんじゃなくて、明治のはじめからの雑誌を見て、コピーを取っておもしろがっていた。ただ、中心は建築計画学の成立とその起源でしたから、最初にあたったのは西山夘三さんの周辺ですね。戦中の『国民住居論攷』なんかは読んだんです。『満州建築』とか『台湾建築』なんかも眼を通しましたよ。
八束 私の場合、標的はメタボリストにあって、日本の近代の最後のフェーズという感じがあったんだと思います。伊東さんもいわゆる野武士の世代の一人になったし、菊竹さんのお弟子さんですから、師匠殺しのような意識は共有していたのかもしれない。
土居 ちょうど私が学生のころ、毎号雑誌に出ているお二人の文章をかじ取りにしてほかの文章を読んでいく。物差しにしていく。私らはそういう世代ですね。
私は歴史をやるんだけど、批評みたいなことに興味があったのか、歴史の延長でしたね。歴史はアカデミズムで書けることが決まってしまうから、はみ出す部分を批評で書きたいというスタンスでした。しかし、お二人と同じことをやっていたら到底かなわないから自分なりの方法論を考えた。それは歴史の方法論でもあるんですが、『言葉と建築』の原型は学生のころに考えていたんです。上の世代の批判はできないなと感じていて、もう少し距離を取って遠くから構図を一望に収めることで自分の立場ができるんじゃないかと。世代的にも私らはオイルショックの影響で何人か就職浪人が出たりして、結構大変な時代だったんですね。だから、ちょっと早いけど世紀末的な雰囲気が少しありました。
いかに批評を行うか
五十嵐 八束先生と布野先生は、ご自身は批評家ではないと言われましたね。
八束 私も最初は同世代の建築への意識があったけれど、だんだん距離を感じはじめ、ちょっと違うなという気がして批評をやめてしまったんです。当初は理論と実践を一致させようという意識があったんですね。だけどだんだんそれはうそだなという感じになってきて、それが決定的になったのはコールハウスと話をしたときです。「おれは理論のためにデザインをするわけでもないし、デザインするためにものを書くわけでもない。それは全然違う活動だ」と。「あっ、それだな」という気がしてふっ切れたのです。
私は批評というのは基本的に広い意味での近代の営為だと思います。自動的に批評イコール・メタ批評なので、基準がなくなったところに批評は成立しない。要するに、考える基準がない。たぶん「なくなった」と言っていても、自分ではモダニストだと思っているんです。その尾てい骨みたいなものが残っていて、抜けられない。
ジャーナリズムもレビューも成立するだろうけど、批評は成立しないと思っているし、自分も設計の端くれをやっているからなおさら書きづらいということもあるんですが、基本的にはそういうものは書かないと決めています。コンテンポラリーなことをオピニオンリーダーとして引っ張っていくのが批評家の役割だとしたら、私は完全にそうではない。
布野 僕がやってきたのはある種のイデオロギー批判ですね。言説批判ではあるけれど、作品批評は書いたことがない。建築批評は経験を積んで、いわゆる目利きがきちんと言葉を研ぎ済ませて書くものでしょう。建築家なり建築を成り立たせる仕組みや制度、周辺のことに興味があって、それを書いてきました。もちろん、最近の若い人よりはるかに建築を見てますから、多少の目利きだとは思いますけどね。
五十嵐 以前、八束さんは、西澤文隆さんを挙げて、日本的な目利きの批評だと指摘されていましたが。
八束 レビューの最たるものは『新建築』の月評だと思うんです。ディテールに至るまで知悉している人が目利きとして書いている。私はああいうのはやりたくないなと、思ったんですね。たとえば歌舞伎の批評で「6代目はこうやったんだけど、いまのは」というのと同じなんです。つまらないとは思わないし、なるほどねと思うことはたくさんあるんだけど、徹底的にコンセプチュアルな話は何もないわけです。「あそこのひさしがもう少し下がったらよかった」と。そういうのはむしろ建築家が言える話ですが、いわゆる感想批評というのはベテランであろうが若かろうが、建築家でも一般の素人でも誰が言ってもいいんです。批評家がそれに対してアドバンテージを持っているというものではないと思うから、それをやるのはやめようと。
土居 常勤の批評家にはなれないし、なれてもなりたくないというところがあります。つまりほかの定職なり何なりがあって、ときどき批評家精神を発揮するというのが一番私にとってやりやすいというか、あるべきやり方なんですね。
批評というのは自由にものを言える機会が与えられて、そのときに自分より偉い人を相手にして、それにもかかわらずもっと高いところから言うということですが、それはワンタイムパフォーマンスじゃないとおかしい。常に制度的に延々と成り立っているのは、ちょっとおかしいんじゃないかと私は思う。
作品の批評をするときは、端的に言えば褒める批評をしたいんです。それは建築家の意図せざる価値を見つけて、付加するということです。私はよく辛口と言われるけど本当はすごく甘い批評をしたいと思っています(笑)。近代の批評は、つくった本人から他者が作品を奪い取るような批評ですね。そういうことができればとりあえずひとつ批評したことになるという、自分のなかの業績主義ですね。
五十嵐 日本の場合、批評だけで食べていける常勤は難しいですね。
布野 批評家が経済的に自立するかどうかというのは、どの分野でもある問題ですね。建築の世界で生きながら、建築家に嫌われようが思うように批評して、それでも食えるのか。日本では、評論家が自立して食っていく条件がないから食えないんですね。一番に責任を果たすべきは建築ジャーナリズムなんだけど、この間ずっと一人も食わせる力がない。長谷川堯さんも大学の先生になったし、松山巌さんぐらいじゃないですか、今、自立しているのは。それでも建築だけでは苦しい。
八束 とりあえず内容のレベルの話は別にして、美術批評だと展評というのがあるから、常勤の批評家は美術のほうが建築よりも多いですね。
美術の分野だとニューアートヒストリーとかあって、結構元気が良い方だけれど、建築はそれがない。部分的に言えばフェミニズム批評とかコロニアリズム批評が建築に入ってくるのはあるんですけど。
趣味と論争
五十嵐 アメリカだと、新聞社の評論家が活躍していますね。
八束 ゴールドバーガーとかハクスブルグがいますけど、たとえばケネス・フランプトンみたいなのとは何となく違う。
布野 ヨーロッパは、一般ジャーナリズムが建築をきちんと扱うんじゃないですか。伊東さんが言ってましたが、スペインでは、ワークショップみたいなものをやるのが普通だけど、ちゃんと理解してもらえば聞が擁護してくれる。逆にたたかれることもある。風土が違うんですね。
八束 私が磯崎新さんのところでロサンゼルスの現代美術館を担当していたとき、進行中に取材に来て、それがちゃんと新聞に載るんです。アメリカの新聞は全国紙じゃなくて、LAタイムズやニューヨークタイムズのようにローカル紙でしょう。だから建築は社会的な事件で、それに対して報道もするし、クリティックもする。
五十嵐 フランスの場合も、たとえばポンピドゥーやルーブルのピラミッドが登場したとき、社会を巻き込んで議論が出ましたね。
土居 政権交代ができる基盤があるから、権力抗争の政権の具になりうるというところがありますね。それは19世紀の様式論争からあまり変わっていなくて、ゴシックにするか古典主義にするか、要するに保守と革新とどっちが勝つかということです。逆に本質的なデザインの話があまり出ないんです。一方、展覧会は結構シビアに批評されますね。
布野 アジアだと、黒川紀章さんがタイで文化センターをやったら、日本の伝統を押し付けていると大騒ぎされたとかある。金寿恨さんの扶余の文化博物館の門が日本の神社を思わせると叩かれた。勾配屋根とか、帝冠様式のレヴェルの話は少なくない。そもそも建築ジャーナリズムがないから、批評とか建築論も一般的にはほとんどない。
八束 シンガポールのあたりは少しあるでしょう。結局ヨーロッパに行って帰ってきた人たちだけど。漢字文化圏はいま、文化批評でおもしろい人がたくさん出てきているし、建築でもコールハースのハーバードのプロジェクトシリーズをやっていた優秀な中国系アメリカ人が北京に行っています。これから変わってくるんじゃないですか。
布野 中国は、これまで学会の『建築学報』しかなかったのが、いまは清華大学が出している『世界建築』とか、この10年ぐらいで4~5冊新しい「建築雑誌」ができています。
八束 いま中国では、ポスト・ストラクチャリズムの翻訳がどんどん出ています。少なくとも美術までは日本のレベルに追いついていると思います。建築も時間の問題でしょうか。
五十嵐 八束さんは『10+1』という雑誌の創刊にかかわりましたが、建築あるいは都市の批評理論をやるというもくろみですか。
八束 編集者がもともと80年代のニューアカデミズムを牽引した『GS』をやった人で、私のところに相談に見えたんです。私は「建築プロパーの雑誌をつくるのは意味がない。もう少し広い視野で、建築の範囲を広げるなら協力したい」と。私がやめてから建築のほうにシフトしていったけれど。『SD』もなくなってしまったし、建築をやる人で文章を書きたい人が発表するメディアが激減したというのはありますね。もともとたいしてなかったから、それは大きいと思います。
布野 若い人にとってそれがかわいそうですね。言説以前に場所がなくなってしまっている。一般の雑誌は建築を扱ってくれるんだけどね。建築ジャーナリズムがまるっきり衰弱してしまった。『建築雑誌』で若い人にも誌面を開放してくださいという意見が理事会あたりからも出るんです。それぐらい場所が無くなっている。もっとも、若い人はインターネットでやりあってるんでしょうけどね。
五十嵐 確かに、建築の批評は趣味的なものだと思われています。
八束 たぶんわれわれ3人がドロップアウトしているのは、趣味的なものはやりたくないというのがあるからじゃないですか?もともと批評自体が成立しないで、あらゆることが趣味批評になりつつある。趣味の世界に論争はあり得ない(笑)。「おもしろいね」と言うか、「それはつまらない」と背を向けるか、どちらかしかないから。
私は基本的にはポストモダンにメタ批評は成立しないと思っています。それを手を変え、品を変え、主題の不在から始まってテーマ化してきたのが磯崎さんだけど、彼の独走になってしまったのは、客観的な指標になり得ないけれど、語り口のうまさで決まってしまったということじゃないのかな。
布野 僕らの世代は、右に磯崎新がいて、左に原広司がいて、それぞれ理論の展開があった。どう実践するか、追随しながらもそれをどう乗り越えるかということはチェックできたわけですよ。「解体の世代」以降、それこそ中心がなくなってしまった。要するに批評家、建築家を含めて、何をつくったらいいのかという理論なり方法をめぐって言説を吐く人がいないんですね。それに論争というのは若い方が仕掛けるもんでしょう。
土居 日本の論争は多分に世代間抗争みたいなところがあったでしょう。ひとつ上の世代にかみつくわけですね。それが少なくなった。
布野 アピールしたものが一般の世界にも聞こえていくんです。建築の世界で勝たないと世代交代が起こらない。そうすると仕事も来ないという構図になっているはずなんです。バブル期は黙っていても仕事が来たんですね。苦労しなくても下の世代に回っていった。
八束 建築ジャーナリズムに議論を仕掛ける連中がいなくなった。かつてはおもしろがって仕掛けすぎという感じはあったけど、それもなくなってしまったことが大きい。
土居 私も鈴木博之さんや藤森照信さんを批判しましたが、よく読んでくれれば、行間にすごくリスペクトな気持ちがあります。私が心掛けていることは、枠を広げつつ、あるいは高めつつ批判しないとつまらないということです。自分以外のだれかに対して○×をつけるときに、何かネタをそこで考えるということをやっているんです。
ネタを創案したことに自分の業績がある。私の場合は、批評言語を捏造するということができたら人の悪口を言ってもいいかなと。あるいは批判しつつ、よく読んでみると歴史的にすごくいいところに位置づけているとか。相手はそれも嫌かもしれないけれど。
戦争とメタ批評
八束 作家と作品の世界には批評が従属しないといけないのでしょうか。
戦争中、浜口隆一さんは、建築をつくる立場とは独立した格好で建築論をやろうとしました。メタ批評を試みたという点で、浜口は画期的だったと思うんです。ただ、もっと前にたどると、美術史でヴェルフリンとかリーグルが哲学のそのまたメタになっていく時代です。浜口は同級生の丹下健三さんに言説の世界で対抗しようというのがあって、それがあそこで挫折したんでしょうね。それは日本が最大のバックボーンを持とうとした時期だったから。ファシズムの話ですよ。もっとも大文字のストーリーを要求した時期だった。しかし、浜口さんは、戦後に民主主義の建築のはなしになってから話がつまらない。ほとんど剽窃理論ではあるけれど、国民様式の議論で、あれだけの骨格を組み上げたのは画期的だった。
布野 それは批評じゃないでしょう。
八束 私に言わせると、あれが批評なんです。彼はメタ批評にしたかったわけで、レビューはしたくない。あれも日タイ文化会館に引っかけているけど、最初だけで、あとはずっと別の話をするでしょう。ルネサンスの話をみんな引っかけてやるのも、丹下さんの「ミケランジェロ頌」も、板垣鷹穂の押し込みだと思います。岸田日出刀はたいしたものを書いていないけど、弟子の立原道造とか丹下、浜口たちが頑張った。岸田は板垣と親しかったし、弟子も美学研究室に出入りしていた。だから現象学の話もどんどん使う。
伊東忠太は戦前の最大の批評家です。法隆寺とパルテノンは同じレベルで議論ができるとやったときに、メタ理論の枠組みをやったのは建築哲学じゃないですか。建築史家の関野貞なんかはそういうことはしないわけですね。議論は相当粗いけど、そういう意味では、たとえば黒田鵬心よりは、伊東忠太のほうがずっと本格的なメタ批評をやった。学会の国民様式の議論もそうでしょう。ガーゴイルみたいなものがおもしろいという最近の評価には興味がないんだけど、メタ理論家としての伊東忠太はおもしろいと思います。そして堀口捨巳が乗り越えようとして、次に浜口が乗り越えようとした。
土居 世界史の中で日本をどう位置づけるかという永遠の問題があって、日本が一番最後に世界史の中に位置づくことに成功すると大建築哲学ができるんです。ただ、それからあとが続かないんです。
八束 戦争に負けちゃったから(笑)。一番確信的なファシストだったのは坂倉準三だと思いますけど。前川國男もそうだったと思う。昭和の1けたでメタ理論を立てようとしている人たちはみんなモダニストで、その人たちは大なり小なりファシズムに行くんです。ファシズムはメタ理論だから。コミュニズムでもいいんだけど、それがなかったから。
ル・コルビュジエがビシー政府にくっついたみたいなことを含めて、相当剣呑なほうに行っていると思います。これは丹下さんも、みんなそうですね。それを戦争責任という話にいきなり持っていってしまうから、その議論が成立しづらくなっているけど、保守的な連中はそういう議論をしない。帝冠様式をやっていた人たちは理論がないんだもの。
土居 八束さんの話を聞いていて、昔からすごく仕事が一貫しているなという気がしています。モダニズムをどう位置づけるかという話ですね。
八束 よきにつけ悪しきにつけ、とにかくそういう構図が最終的になくなったのが70年万博だというのが私の昔からの持論です。それからあとはポストモダンで、ある意味平和な時代で、せいぜい野武士的な郷土でしか建築が成立しなくなっている。
ポストヒストリーの批評
五十嵐 もう70年で批評は終わっていると。ポスト・ヒストリーということですか。
土居 ヨーロッパの感覚と比べると100年ぐらい遅れているでしょう。そう考えると日本はすごいことをやっていて、100年遅れて始めて、70年ぐらいにもう歴史が終わっている。あっという間に追い越したのか、あるいは到達しないうちに……。
八束 中国はそれをもっと短期間でやろうとしているから、すごいと思うよ。
韓国は日本の植民地であったという事実が、議論を屈折させていますね。結局、日本の伝統論争みたいな話になってしまう。「日本の建築家は近代的な主体を経験したけど、韓国の建築家はそれをやっていないからだめだ」という、日本で言うと近代文学の連中が50年代にやった話をまだ言っているという感じが最近までありました。
ナショナルアイデンティティーにこだわると、そういう話に絶対なってしまうんです。それがなくなったのがポストモダンだと思いますけど。
布野 僕はもう四半世紀インドネシアに通っていますが、非西欧から見るとまた違う見え方がするんですね。ヨーロッパの近代運動の入り方がそれぞれの地域で全然違う。アメリカ建築だってもともとはヨーロッパ世界の植民地建築ですよね。そちら側に視点を置いて歴史の終わりを読んで見せるという作業が要るんじゃないかと思う。その辺りに、日本人の批評家がやれる仕事があるんじゃないかという気がしています。そうじゃないと日本の建築が世界史的に位置づかないでしょう。たとえば現代建築を位置づけるときには何をベースに議論するのか。歴史研究とは言わないけれど、いろいろな見方を提示する役割はどこかにあるし、だれかにあると思うけどね。
五十嵐 他に批評は、どのような必要性がありますか。
土居 メタ批評が終わったんでしょう。だから、もっとベタな批評を(笑)。
単に賞を与えるだけのものだから。その賞によって批評家がいい立場を得る。それは結構大事なことなんでしょうね。学者が論文を一本書くような感じで、世の中では建築家が賞を取るわけだから、そういうメカニズムはありますね。だからベタな批評は、そのあたりでかなり役割を果たすべきだとは思うんです。
布野 批評はすごく大事ですよ。たとえばつくる手掛かりを与えるとか、それを翻訳して一般的な世界に伝えるとかの役割は要るでしょう。建築の世界は、どうしようもなく閉じている。モノつくりには、あ・うんの呼吸というか、「わかる?」の世界があるじゃないですか。これは収まっているとか。可能な限りオープンにして、言葉にしないといけない。
しかし、ジャーナリズムが努力していないし、斜に構える現役もいる。そうじゃないと、たとえばみんなポピュリズムのほうに行くんです。藤森さんにしても、鈴木博之さんにしても、みんな「建築を愛しなさい」とか「こんなに楽しい世界だよ」という言説になっていく。他にも、伝えるべきことがあるんじゃないかなあ。
五十嵐 布野さんが『群居』にかかわられたのは、批評の場をつくるためですか。
布野 建築家が住宅の世界にどう取り組むかということをテーマとして、ああいうメディアをつくったんです。戦後間もなく、建築家にとって最大のテーマは住宅だったんだけれど、それが立ち消えになっているという意識があったんです。ハウスメーカー、住宅雑誌のような閉じた世界、家族の問題とか、住宅に関わる全部をどうクロスできるかを追及しようとしたんですけどね。いろいろな世界をつなぐ言説はどこで成り立つのかに興味があった。広がらなかったから敗北ですね。
八束 『Casa BRUTUS』は売れるんだけど、『新建築』は売れない。それで勘違いして、これだけ建築不況なのに学生が建築学科に押し寄せるから、問題が大きいですね。
アカデミーとコンペ
五十嵐 西洋のアカデミーの系譜から批評を考えるとどうなりますか。
土居 私はかなりさかのぼって古典主義あたりから見てみようという遠大な計画があったんですが、今日の議論で言うと、それは始めがあって、終わりがあって(笑)。
フランスのアカデミズムは、あまり王権にくっついていなくて、権力の側から割と重要視されなかったところがあります。意外と自由で、あそこで建築理論が練られたということを感じています。それで基本的な批評言語が古典主義の時代にできるんですね。
ただ私は、古典主義的な批評というのはあまり批評ではないと思っています。批評の意味は、言っている人が直接の当事者じゃないことが重要です。建築家と施主の間ではなくて、第3の視点で、しかし何か力を持つ。それが力を持つのは、社会の中に公共空間があるから影響力を持つことができるわけで、これは市民社会ができたあとのことですね。建築を論じる場としてのフォーラムみたいなものですね。
陳腐な例ですが、「紙の建築が石の建築を殺してしまった」もメタ批評になりうるようなことを言っている。そういう第3の立場があって、それが社会の中で機能するというのが批評の始まりですね。基本ができたのは19世紀じゃないですか。だから19世紀的な公共空間がなくなりつつあるんでしょうね。
布野 公共空間の成立と建築家という職能の成立とはパラレルでしょう。建築家でRIBAみたいなものができていく。イギリスでいうとほぼ一緒でしょう。彼らが何をしゃべっているかというと、いかにして他を排除して、いかに食うかですね。しかし、パブリックに建築が議論されるというのは、コンペの審査の場合でも、日本ではほとんどないよね。
土居 ところで、グローバル化の中で日本はまだ売れるんだろうかというのがお聞きしたいところです。結局何だかんだ言っても、日本には深いところがあるぞという蓄積をつくったじゃないですか。日本という商品をつくっていて、それを小出しにして売っている人がいます。私はそれはいいことだと思うんです。
八束 たとえば磯崎さんが向こうに行くと陰影礼讃の話にしてしまう。安藤さんの光と壁の建築なんて、日本には伝統的にないけど、あれが日本的だと思われてしまう。一応日本が売り物になっているでしょう。でも、東南アジアの人たちは何を売ればいいのか?
布野 インドネシアで僕のフィールドであるスラバヤにポール・ルドルフの作品がある。ジャカルタにもある。え、こんなところで懐かしい、と思うけれど、同時に考えるのはグローバルなネットワークですね。テクノロジーを握っているのも外資、資本もそうだし、トップのレベルのコミュニティーというか、それが握っている。世界中の首都クラスに建っているのはだいたいアメリカの建築家で、それを例えば、日本のゼネコンがやっている。ポスト・コロニアルと言うけど、デザイン上はコロニアルな状況が続いている。たとえばケン・ヤングが出てきても、彼はヨーロッパ世界とつながっている。昔で言うとグローバル・デザイン・マフィアみたいなものが階層化されている。
八束 マーケットとしては植民地状態が続いているということになるんですね。
アメリカとかヨーロッパに行って、最新のデザインも含めて情報を持って帰っている人が結構いるわけです。たとえばリベスキントの弟子が、イランに帰ってから、超高層をボカッと建てたりするんです。
布野 インドネシアでも、インドでもそうだけど、バラバラで一緒(多様性の中の統一)というのをどう実現するかがテーマなんですね。建築の話にすると、それこそインドネシアはアメリカ合衆国ぐらいの幅がありますから、ヴァナキュラーな建築がいろいろあるんです。民族抗争をやるし、日本よりはるかにヴァラエティーがあります。いまはたがが緩んでキリスト教徒とイスラーム教徒とヒンドゥー教徒がドンパチをやりかねないから、デザインが争点をつくるというのは非常にデンジャラスな状況です。だから、デザインを売りにいくという話は、極めてデンジャラスという気がします。
五十嵐 土居さんの問いかけは、通史特集の問いかけから続いているものですね。
土居 いまはあまり歴史の本質論の時代ではないですね。大学の先生に問いかけられているのは経営者感覚なんです(笑)。いろいろな波及効果を考えて、純粋に論文の数だけじゃなくてということが社会的にはあるわけです。営業的にというか、やらなければいけないことがあると思うんです。社会の中で付加価値をどう与えるか。それが普遍的であればあるほどいい。地方で建築がちゃんと評価されるシステムを素朴なかたちでやらないとということが、いま問われています。それぞれの地域社会の興業主みたいに、学者とか建築関係者がならなければいけない。そうしないと、いかがわしい連中が……(笑)。
布野 実践的に問われているのはコンペで、審査委員で入るときにどれだけ頑張れるかという問題がある。みんなPFIになっていく。建築の価値が点数化されていくんだけど、どれだけ言語で表現できるか。普通の建築屋が入っているコンペとは相当違う言説を成立させないといけない。ポイント制は反対なんだけれどそうは言っていられない状況になってきた。
八束 横浜のフェリーターミナルのときに市の建築セクションがものすごく反対したんですが、最終的に磯崎さんが大演説をぶって、市民代表の審査委員を全部味方に引き付けたんです。市民代表が最初に投票したのは鹿鳴館みたいなのだったんですが、最終的にポロたちの案に行くという、その腕力のすごさはありますね。
布野 坂本龍馬記念館のときもそうでしたよ。しかし、そういう世界が成り立たなくなりつつある。逆転ができないように点数が細分化されるんです。もうひとつの問題は、30年全部担保して、技術的な可能性も含めて審査しろと言われると、われわれプロでもお手上げだということです。国連のコンサルタント契約はみんなそうなっているんです。やっぱりポイント制で、そういうグローバルスタンダードのマニュアルができつつあって、みんなそれをまねしているという話です。だからこそ、建築は批評が大事だとも言えるわけです。
5月24日 建築会館にて
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