のどもと過ぎれば,周縁から52,産経新聞文化欄,産経新聞,19900903
52 天水と中水(ちゅうすい) 布野修司
心配された首都圏の水不足も、台風による大雨で一息ついた。というより、もうすっかり忘れ去られたかのようだ。大雨による洪水や崖崩れを心配しながら、一方で雨を歓迎する。奇妙である。つくづく僕らの生活が自然に依拠していることを感じさせられるのであるが、のどもと過ぎればなんとやらで、呑気なものである。
僕らは水はあたりまえのもの、蛇口をひねればでてくるもの、無限にあるもの、とつい思っている。水は従順で、完全にコントロールされたものとして、日常生活において意識されることは少ない。
かって水はこわいものだったし、大切なものであった。治水、利水は全ての基本あった。水を制するものが世界を制す、という言葉もある。水は万物の根源なり、といったのは古代ギリシャ、ミレトスのタレスである。しかし、僕らにとって、水は単なるH2Oでしかない。
水が足りない、地球規模の問題がある、兆候もでている、にもかかわらず、水の大切さが日常的に意識されない。もう少し水を原初的に、根源的に、命や自然との関わりにおいて考えてみる必要がある。そして、流しで洗う、トイレで水をながす、蛇口をひねることがどういう問題につながっているか考えてみることが重要だ。
水に恵まれない地域は世界に多い。毎日、少しづつ水を買って生活している多くの人々が発展途上国の大都市にはいる。僕らはあまりにも贅沢に、無駄に水を使っていはしないか。まだ実現していないのであるが、飲料水以外は、家庭用排水を再利用しようという中水利用のプログラムがある。上水、下水でなく、中水である。そうした身近な工夫をすぐにでも実行すべきではないか。
天水利用も個々の家庭で考えられていい。所詮、僕らの生活は天水依存である。そのことを嫌というほど意識させられるのが毎年恒例の水不足なのだ。
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