植えつけられた都市 The Cities
Planted
植民都市計画とその影響
Colonial City Planning and its
Influence
布野修司
This article discusses the problematique on colonial cities based on
our research work ‘Field Research on Origin, Transformation, Alteration and
Conservation of Urban Space of Colonial cities’, the outcome of which were
published as a book titled “Modern World System and Colonial Cities”. Modern
colonial cities planted by western countries are classified into several types
but basically spatial installations to dominate natives and local resources.
Considerations are lastly leaded to the thesis ‘All cities are in a way
colonial’.
インド洋大津波の日(2004年12月26日)をスリランカのゴールGalleで迎えた。ゴール周辺で亡くなった人は約2,000人、たまたまゴール・フォートの中に居て命拾いした。振り返って、さらにTVなどで現場の映像を見て、改めてゾーッとする経験は未だに夢のようである。その顛末はもとめられるままに書いた別稿[1]に譲るが、つくづく思うのは、ゴールという要塞都市を築いた、低地、湿地、港市を得意としたオランダの築城術のすごさである。1988年に世界文化遺産に登録されたゴール要塞の城壁は津波にびくともしなかったし、城門から浸入した、あるいは城壁を飛び越えて城内を襲った海水はあっという間に引いて、要塞内に居た人々は全員無事であった。要塞内では400年前の排水システムがものの見事に機能したのである。大きな被害を受けたのは陸地側に広がる新市街地である。
この間、「植民都市の起源・変容・転成・保全に関する研究」と題した、オランダ植民都市をターゲットとする植民都市研究を展開してきた。ゴールに居たのは、その調査研究の一環であった。
今日発展途上地域におけるほとんど全ての大都市は植民都市としての経験をもっている。植民都市の歴史とプライメイト・シティ(単一支配型都市)、「過大都市化」の関係は様々に論じられてきたところである。一方、植民都市にはもう一つの重要な類型が存在する。植民地化の早い時期に商館都市として建設され、以後の植民都市拡大また独立以後の都市化の過程において重要な都市核として機能を果たし続けてきた植民都市の存在である。いわば、現代都市に埋もれた植民都市である。そこで浮かび上がってくるのがオランダ植民都市であり、ゴールもそのひとつである。
近代植民都市の全体について、そして具体的な事例については、『近代世界システムと植民都市』[2]に委ねることとして、ここでは、「平和」、「暴力」、「戦争」といった言葉に導かれながら、植民都市あるいは植民都市計画の本質をめぐっていくつかの考察を行いたい。
コロニア
植民地colonyあるいは植民都市colonial cityという言葉は、もともと古代ギリシャ・ローマにおいて、植民あるいは移住によって建設された居住地あるいは都市を意味する。すなわち、ラテン語のコロニアcoloniaに起源をもち、colony(英語)、colonie(仏語)、kolonie(独語)として広く用いられるようになった[3]。人口過剰、内乱、新天地での市民権の確保、軍事拠点の設営などが植民都市建設の理由である。そもそも戦争、すなわち土地の占有に関わる争いごとと密接に関わる。すなわち、植民都市は、単なる移住地というより、ある集団が土着の集団を政治的、経済的、社会的、文化的に支配するために建設する都市を一般的にはいう。処女地に新たな都市として建設される場合も、土着の社会、後背地との間に支配-被支配の関係があり、一定の領域を支配するために既存の都市、集落を奪取、占拠することによって建設されることが多い。
いわゆる「地理上の発見」以降、西欧諸国が海外に建設した近代植民地の場合、支配-被支配の関係は明快である。もちろん、直接的に領土支配を行う場合に限らない。植民地化の「帝国主義的段階」において、「植民地帝国」として問題とされるのは、直接支配する「公式の帝国」のみならず、間接統治、二重統治などが行われる「非公式の帝国」も含めた支配―被支配関係である。西欧列強の進出を受けた地域は、保護国、保護地、租借地、特殊会社領、委任統治領などの法的形態を問わず植民地と呼ばれる。
近代植民都市
古来、人類は大規模な移動を繰り返してきたが、15世紀末以降、世界全域にわたった西欧列強による海外進出ほど大規模なものはない。世界中に植民都市を建設し、支配したのは、少数のヨーロッパ人であり、白人(コーカソイド)であり、キリスト教徒である。そして、植民地建設の中核を担ったのは奴隷貿易である。19世紀中葉以降に世界は「大量移民の時代」を迎えた。
植民地化の段階、産業化の段階、そして、脱植民地化の段階あるいは交易期、植民地期、新植民地期、脱植民地期といった「近代世界システム」の形成を追いながら、西欧列強の植民地と植民都市のネットワークの形成を順に位置づければ、およそ以下のようになる。
1.領域支配を含まない交易拠点のネットワークを形成したのが、ポルトガルのインディアス領である。ポルトガルは、明らかにアブー=ルゴド[4]のいう「13世紀世界システム」(の崩壊)をベースとしていた。
2.土地支配を含み、土着文化の徹底的破壊の上に一定の西欧理念に基づく都市を建設したのがスペインである。スペインの場合、ヨーロッパ世界の拡張と見なせるだろう。スペインは「世界帝国」になることに失敗するのである。そして、
3.沿岸部の港市都市をベースとし、土着社会を取り込む形で、多様な移住者を含み込む形で植民都市の原型を形づくったのがオランダである。オランダは、こうして最初のヨーロッパによるヘゲモニー国家となった。この段階では、しかし、地域内交易がベースであった。そして、1.~3.のシステムの重層の上に、
4.内陸部へ侵攻し、巨大な領土支配に及んだのがイギリス、フランスの二大植民地帝国である。そして、
5.7年戦争を制し、産業革命を契機として、オランダのヘゲモニーを奪ったのがイギリスである。
植民地権力の特質、移住集団の構成とその支配イデオロギーは個々の植民都市の特性に関わる。また、植民地化される社会の特質、民族学的、社会学的構成も植民都市の特性を左右する。宗主国と土着の地域社会の相互関係によって植民都市の類型を考えることができる。
植民地化の手法や組織は、ポルトガル、スペイン、オランダ、フランス、イギリスなど西欧列強によって異なる。土着の社会についてのアプローチは、まず布教をめぐって、ローマ法王の超越的権威への服属を求め各地の文化的、精神的権威を認めないカトリシズムと個人の自発性を重視し、各地の文化や言語に距離を置いたプロテスタンティズムの違いがある。植民地の統治政策についても、間接統治、二重統治方式をとったオランダ、イギリスと副王による直接支配によったポルトガル、スペイン、そして「同化」政策を採ったフランスとでは大きく異なる。土着の社会についても、各地域の都市的伝統の度合いによって、すなわち例えば、都市的伝統の薄いサハラ以南のアフリカや南北アメリカの大半と長い都市的伝統をもつインドや中国とその周辺地域、またイスラーム圏とでは、植民都市のあり方は異なる。スペインは、高度な都市文明を誇ったアステカ帝国、インカ帝国を徹底的に破壊した。また、インディオの社会を絶滅させるに至った。インディアス法にまとめられるかたちで、極めて画一的に西欧都市計画の理論を適用しようとしたのがスペインである。
南アフリカ、中央アフリカでは、都市的生活とは白人的生活を意味するほどであった。要するに、ほとんどの都市はヨーロッパ人によって初めてつくられるのである。また、ポルトガルが西アフリカや中央アフリカで土着の都市を破壊したように、東アフリカの、アラブ起源の都市の多くもヨーロッパ人によって無視された。そして、アフリカ大陸からの黒人の大量移住によって南北アメリカとアフリカの社会は世界史的大変動を被った。
世界資本主義システムの展開が各地域を平準化していく過程においても、様々な点で地域差が存在するのは植民地化以降の過程における以上のような差異が複雑に絡み合っているからである。
火器と攻城法
何故、西欧列強が世界中に植民都市を築き、世界を支配することになったのか。その大きな要因のひとつは「火器」である。航海術、造船技術、測量術、築城術、・・・など、要するに「火器」に象徴される科学技術である。
西洋の城郭は古代ローマ帝国の築城術等を基礎として発達してきた。12世紀から13世紀にかけて、十字軍経由で東方イスラーム世界の築城術が導入され、またビザンツ帝国の築城方式の影響も受けて、西洋の築城術は15世紀には成熟の域に達していたのであった。しかし、中世の終わり頃にヨーロッパにもたらされた火薬と「火器」、「火器」装備船の出現による戦争技術の変化は、要塞や城塞の形態を変える。すなわち、馬に乗った騎士による戦争の時代ではなくなり、中世の城が役に立たなくなるのである。
新しい火器、大砲の出現によって都市が弱体化する15世紀までは、攻撃よりもむしろ防御の方が、ヨーロッパにおける城塞、都市、港湾、住居の形態を決定づけていた。川や谷、戦略にとって大事な地点を見渡せるように、土手や丘や山脈の上に要塞都市は造られた。丘の上につくられた街は、円形や矩形の塔、櫓が建ち上がっている厚い壁によって守られ、跳ね橋や、吊し門や、石落とし装置付きの入口門が設けられた。ヴェニスやブルージェやジュノヴァのような水の都の市壁は海面や湖面から直接立ち上げられていた。
ヨーロッパで火薬兵器がつくられるのは1320年代のことである[5]。火薬そのものの発明は、もちろんそれ以前に遡り、中国で発明され、イスラーム世界を通じてヨーロッパにもたらされたと考えられている[6]。火薬の知識を最初に書物にしたのはロジャー・ベーコンである[7]。戦争で最初に大砲が使われたのは1331年のイタリア北東部のチヴィダーレ攻城戦で、エドワードⅢ世のクレシー(カレー)出兵(1346)、ポルトガルのジョアンⅠ世によるアルジュバロタの戦い(1385)などで「火器」が用いられたことが知られるが、戦争遂行に「火器」が中心的な役割を果たすのは15世紀から16世紀にかけてことなのである。決定的となったのは、15世紀中頃からの攻城砲の出現[8]である。
ヨーロッパで火器が重要な役割を果たした最初の戦争は、ボヘミヤ全体を巻き込んだ内乱、戦車、装甲車が考案され機動戦が展開されたフス戦争(1419~1434)である。続いて、百年戦争(1328/37~1453)の最終段階で、大砲と砲兵隊が鍵を握った。そして、レコンキスタを完了させたグラナダ王国攻略戦(1492)において大砲が威力を発揮した。こうして火器による戦争、攻城戦の新局面と西欧列強の海外進出も並行するのである。植民地建設の直接的な道具となったのは「火器」であった。
植民都市の類型
植民都市が支配-被支配(中心-周縁)関係の媒介(結合-分離)空間であり、異質な要素の重層的複合空間であるとすれば、空間の分離のあり方にまず着目する必要がある。極めてわかりやすく本質的なのは、城壁、市壁など居住地を限定づける境界のあり方である。都市のフィジカルな構成という観点からすると、ロッジ、商館、要塞、城塞、市街というように、様々な呼び方によって区別されるように、そのうちに含む要素によって、植民都市の規模やレヴェル、段階を区別することができる。
O ロッジ lodge
A 商館 factory
B 要塞化した商館あるいは商館機能を含む要塞 fortified factory
C 要塞 (+商館)fort(+factory)+集落settlement
D 要塞+市街 fort+city
E 城塞 castle
F 城塞+市街 castle+city
Aは、交易のみのための最小限の施設である。ポルトガルの最初期の交易拠点は商館のみが置かれるだけのものが多い。専用の商館をもたないロッジの段階Oをこれ以前に区別できる。ロッジは、沿岸部の交易拠点ではなく、内陸の地方市場に設けられたものをいう。F.S.ハーストラは、ロッジ、商館の発展段階を、①土着物産の購入と積み出しの段階、②商品を予約注文し、積み出しまで保管する段階、③商品の供給者に前渡金を供与し、生産管理行う段階、④物産を全て掌中に握る段階に分けている[9]。
商館も現地社会との関係によって防御設備が必要となる。A、Bの区別は必ずしも明確ではないが、要塞の内部に商館機能を含むかどうかで基本的にCとは区別される。要塞とは別に商館が設けられることも少なくない。要塞は戦闘を前提にした防御施設である。基本的には軍隊あるいは兵士が常駐する。平時は使用せず、有事に立て籠もるかたちもある。
商館あるいは要塞の周辺にヨーロッパからの移住者のみならず各地からの移民や現地民などが周辺に居住し始めると、宣教、教化のための教会や修道院など諸施設が建てられる。そして市街地が形成され、全体が市壁で囲われたものがDである。港湾に立地する植民都市の場合、市街によって要塞が囲まれる形より、要塞と市街が連結した形態をとることが多い。そして、要塞と市街が一体化したのがEである。CとEの違いは単に規模の違いではなく、内部に居住区を含むかどうかの違いである。さらにその外郭に一般人(あるいは現地人を含めた)居住地が形成されるのがFである。単純な分類であるが、さらに、既存の集落、現地住民の居住区との関係でさらに分類できる。さらに、全くの処女地に計画されたものと既存の都市ないし集落を基にして建設されたものを区別することができる。オランダの植民都市はマラッカやセイロンの各都市などポルトガルの城塞を解体再利用したものが少なくない。
植民都市という場合、一般的にはD~Fがそれに当たる。しかし、既存の都市あるいは集落にA~Cが付加される場合、それも植民都市と呼べるだろう。都市の起源、その本質をどう規定するかが問われるが、市(マーケット)の機能をその本質的要素とするなら、たとえ商館ひとつの建設でも都市成立の条件とはなる。また、攻撃に対する防御機能を都市の本質と考えれば、要塞の建設は都市建設の第一歩である。
数多くの植民都市の事例を見ると、A→Fは歴史的に段階を踏んで推移するように思われる。また、理念的にもA→Fの過程は、必然的なものとして想定できる。
植えつけられた都市
植民都市の本質は、それが自らの社会とは異なった社会に移植されることにある。植民都市は、まさに、「植えつけられた都市」である。植民都市の本質はまさに「植民」にある。キーワードは、「プラントplant」あるいは「プランティングplanting」である。
コーヒーやサトウキビなど植物を植えつけること、そして、その栽培のための労働力として人々を植えつけること、すなわち、都市を植えつけることが植民地建設である。
単なる移住、移動、移植ではない。人や物が世界規模で移動し始めたことが決定的である。一定の地域で、物の生産、流通、消費が完結していた自給自足的世界、「60日経済」といわれる経済規模であった「ヨーロッパ世界経済」をはるかに超える「遠隔地」が世界経済に繰り込まれるのである。資本蓄積の原動力となるのは「格差」である。あるいは、圧倒的な「量」である。「遠隔地」貿易による時間差、賃金格差、物価、世界資本主義システムは、あらゆる格差を価値増殖に繰り込むシステムである。植民都市はそのシステムを稼働し続けるための装置として建設されたのである。
産業革命によるコミュニケーション手段の「進歩」はそれまでの植民都市の形態を根本から変える。蒸気機関車、蒸気船の登場は植民都市の歴史の上でも決定的であった。鉄道は、港市における植民都市から内陸への展開を可能にした。また、これまでの港市植民都市も港湾の大改造とともに大規模な再開発が必要となった。そして、急速な都市化と都市膨張のために、共通に過密居住による衛生問題、住環境整備の問題、都市基幹設備の問題が課題となった。世界中の現代都市は、そして都市計画は、今日に至るまでその課題を引き継いできている。
脱植民地期において、かつての植民地に巨大都市が次々に出現していった。とりわけ、注目されたのがプライメイト・シティ(首座都市、単一支配型都市)の存在である。「過大都市化」、「工業化なき都市化」といった概念で、その異常、その西欧モデルからの逸脱が論じられてきたが、巨大都市化の動向はさらに拡大しつつある。世界システムのさらなる展開は、世界中の都市を連動させつつあるのである。「拡大大都市圏EMR(Extended Metropolitan Region)」の出現は、世界資本主義システムの加速的展開、グローバリゼーションの進展と情報ネットワーク社会の浸透と関係している。
あらゆる都市は植民都市である
『植えることと計画すること---英国植民都市の形成』[10]において、R.ホームは「全ての都市はある意味で植民都市であるAll cities are in a way colonial」という。I.ウォーラーステインの世界システム論が焦点を当てる世界経済の展開と植民都市の関係こそが主題であるが、それ以前にこのテーゼが前提とするのは、都市を本質的に権力との関係においてとらえる理論である。R.ホームが「都市は、農業の余剰生産物を集積し、サーヴィスを提供し、政治的管理をおこなうために、ある集団が他の集団を支配することによって生み出されるのである」という時、余剰生産物は藤田弘夫のいう「社会的余剰」[11]である。都市は、そもそもその成立、起源において権力の発生と結びついており、「都市は、巨大な権力が目的を達成するために、特定の場所に拠点を設け、そこに目的達成のための施設を建設するなかで形成された」のである。そうした意味で、植民都市は、都市の本質を露わにする都市である。
重要なのは、植民都市という概念が二重の権力関係、支配-被支配関係を含んでいることである。すなわち、都市と農村との支配-被支配関係のみならず、宗主国と植民地、あるいは、ある社会と別の社会との支配-被支配関係の二重の関係において植民都市は成立するのである。この二重の関係性が植民都市の本質に関わる。都市は、歴史的には、地理的に限定された社会において、農業生産物の余剰を奪取し、サーヴィスを提供するために、ある集団が他の集団を支配する権力の働きによって生み出される。そして続いて、その社会の内部に、さらに余剰を作り出し、搾取し、政治的支配を強化する手段として、別の都市が植えつけられる。これが植民都市である。さらに、この論理は、交通手段の発達によって、ある社会の境界を越えて他の領土を組み入れる過程にも拡大される。こうして、植民都市は、現地人に対する支配を確立し維持していくための道具となるのである。
[1] 拙稿、「ツナミ遭遇記」、『みすず』、みすず書房、2005年3月
[2] 布野修司編著、『近代世界システムと植民都市』、京都大学学術出版会、2005年。
[3] ギリシャ語では、植民都市はアポイキア apoikiaといった。
[4] Abu-Lughod,
Janet L., ”Before European Hegemony: The World System A.D.1250-1350”, Oxford
University Press, 1989. ジャネット・L.アブー=ルゴド、『ヨーロッパ覇権以前:もうひとつの世界システム』、佐藤次高・斯波義信・高山博・三浦徹一訳、岩波書店、2001年
[5] バート・S・ホール、『火器の誕生とヨーロッパの戦争』、市場泰男、平凡社、1999. 火器がいつ出現したかについては議論があるが、1320年代にはありふれたものになっており、gun、cannonといった言葉は1930年代末から使われるようになったとされる。
[6] 文献上の記録として、火薬の処方が書かれるのは宋の時代11世紀であるが、科学史家J.ニーダムらは漢代以前から用いられていたと考えている。ロジャー・ベーコン、『芸術と自然の秘密の業についての手紙』(1267)。
[7] ロジャー・ベーコン、『芸術と自然の秘密の業についての手紙』(1267)。
[8] 攻城砲を用いた典型的な戦例となるのがイタリア戦争(1494~1559)である。16世紀前半、イタリアはヴァロワ家とハプスブルク帝国との間の戦場となったが、フランスのシャルルⅧ世の軍隊は機動的な青銅砲と鉄の砲弾を搬送して、イタリアに乗り込み、中世の城郭を次々と撃破した。それまでの攻城戦では、籠城側は人馬だけを拒否すればよく、籠城側が有利であったが、大砲の出現はこれまでの立場を逆転させる。
[9] Gaastra, F.S., “De
Geschiedenis de VOC, Walburg Pers, 1982, 1991.内容はほぼ同じであるがカラー図番を加えた新装版が2002年に出版された。
[10]
Robert Home: “Of Planting and Planning The making of British colonial cities”,
E & FN Spon, London, 1997:『植えつけられた都市 英国植民都市の形成』、ロバート・ホーム著:布野修司+安藤正雄監訳、アジア都市建築研究会訳,京都大学学術出版会,2001年7月
[11]
藤田弘夫:『都市の論理
権力はなぜ都市を必要とするか』、中公新書、1993年
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