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2023年7月7日金曜日

「丹下健三」の読み方 そしてそれを乗り越える戦略は?,座談,建築ジャーナル,磯崎新・平良敬一・古谷誠章, 建築ジャーナル,199512

「丹下健三」の読み方 そしてそれを乗り越える戦略は?,座談,建築ジャーナル,磯崎新・平良敬一・古谷誠章, 建築ジャーナル,199512

「丹下健三」の読み方そしてそれを乗り越える戦略は」『建築ジャーナル』1995.12pp.43-57

磯崎新 Arata Isozaki 

平良敬一 Keiichi Taira 

布野修司 Shuji Funo 

古谷誠章  Nobuaki Furuya 

 

「浜口「国民様式」論文を 口火とし 

●建築ジャーナルでは、戦後50にあたる今年、いろいろな角度から戦後建築を検証する集企画をけてきました。そのしめくくりの12月号では、戦後建築のチャンピオンである丹下健三をとりあげ、その軌跡を批にたどることは、戦後建築の総括となり同時建築界自己批判につながると考えてます。まずは発言者兼進行役をお願いしている平良さんから口火を切っていただきたいと思います。

 

平良:日は、戦後建築の総括と丹下健三というたいへんなテーマなんですが、特にストーリーは考えていませんので、自由発言いただきたいと思います。

まずは、それぞれの丹下さんとのかわりというところから始めたいと思いますが、ぼくは、戦後建築というけれど、戦前のことから見ていかないといけないと思う。 

今年の始め、浜口隆一さんが亡くなって、その著作をずっと調べているんだけれど、浜口さんの「日本国民建築様式の問題」(1944)、あれは、戦前の丹下さんを考えるうえで最の手がかりになると思うんだな。 

丹下さんは変わったように見えるけれど、ぼくには、ずっと一貫して日本国家とともに歩んできたように思える。ぼくもうかつだったんだけど、臨海副都心だって、丹下さんはちゃんともう建ててるでしょう。1960には「東京計画1960」ですね。その次に東京計画を出したのは1986年。東京湾上に交通をはりめぐらせた海上都市の延で着々と前進して、もう臨海副都心にもきあげてしまっている。いやあたいへんなんだなあという印象を改めて持っています。 

丹下さんの戦前のコンペの問題と浜口さんの「日本国民建築様式の問題」について、ずばっと言ってのけていのは磯崎さんだけでしょう。とにかく戦後50年だけを切り離してしまうと、全然位置づけできないですよ。なくとも昭和全史の中で見ていかないと。特に若い人たちには、丹さんの戦前のコンペの問題やら何やらをはっきりしたかたちで分析していかないと伝わらないですよ。われれも、ちゃやってこなかった反省がある。布野さんは少し触れているようですが。

 

布野:戦時中の丹下さんの問題、浜口さんの論文もふくめて今日の大きなテーマになると思います。

 

磯崎:あの「日本国民建築様式の問題」は、ぼくは、比較的早期に読んでいました。50代半ばです。

 

平良:ぼくと丹下さんとの関係というか、かかわりはといいますと、ぼくも丹下さんのところで卒論書いたんです。だけど何も指導をうけてませんけど住宅の問題、ほとんどその当時の共産党の住宅政策をなぞったよなものですけど。 それからのちは、特に新建築の編集部にいたときの接触です。例の新建築問題のきっかけの一つでもあったんですが、かなり丹下さんの造形力にぼく自身感心というか、まいっていて。いろんな可能性を丹下さんのなかに感じていたわけですね。 

その当時感いたのは、今とはまったくかけはなれて、丹さんの方がずっと突っ走っていってしまったというか。 

 

座談会の席を蹴っ「事 

磯崎:確か平良さんが「建築」の編をやっていたとき、丹下さんをよんで座談会をやったら、丹下さんがおこって、この座談会はさないというんで、部キャンセルになったという噂話聞いたことがあるんですけど。あれはどういう話だったんですか。

平良:清水市庁舎がとにかく話題になっときでしたよ出席者は、ぼくが司会で、浜口さんと林昌二と丹下さんだった。直接のテーマはぼくもちょっ忘れんだけど、それを議論していくうちに、水市庁舎の中庭のことで、林昌二がかなり丹下さんの神経を逆なですような発言をしたんですねうしら丹下さんが突然座談会のなかで真っ青になっておこって。この座談会は発表を禁止しますと。(笑) 

 

磯崎:というのが記録さるのはいいすね

 

平良:初めてぼくもそういうのに直面て、丹下さんという人の恐い一面を見た。三人ともあっけにとられて、しないといって、途中だったけどそれ以上すすめるのはやめて、ボツしちゃった。そういう事件でしよ。

 

磯崎:れはぼくは中身は知らなかったんだけど、そういう事件が一回あったという噂話は聞いていましたから。中身は聞きただす機会がなかったんで今やっとわかったという感じです。

 

良:話したことも全部忘れたよ。この一言だけ覚えている。

 

布野:記録れるだけでいいんです。(笑)それは戦時中話がきっかけですか。

 

良:それは前段で、浜口さんが例によってちくちくはじめたと思うんですよ。林さんはそれとは関係なく、この清水市庁舎のあの中庭はなんですかって言ったもんだから。(笑)

 

磯崎:ところで佐々木宏さんがペンネームで丹下健三論の本を近代建築から出しているでしう。あの本はどういう価になっているんですか。

 

平良:あれに対する丹下さんの反応もぼくは聞いていないですけど。

 

磯崎ぼくも丹下さんからは聞いていないんですが、芦原さがあんなこと書かれて、下さんよく平気でいられるなという感想をぼくに言ったのは覚えている。芦原さんはそういう細かいことを気にする人だから。あれだけ戦争中のことをほじ返されては、かわないと思ったんでしょう

 

平良:そういう出版物で言わても丹下さんは全然平じゃいですか。もう超越的だから。

 

磯崎:昔はそではなかったかもしれないけれど、今は平気ですね。今はもと別のひどいことを言われているからね。それも平気だから。はじめに平良さんがおっしゃった国民建築様式についての浜口論文ですが、ぼくは学生のときに東大の建築の図書館で読んで、常におもしろかったとうか、ある意味でいうと日本の建築論のなかで、革新的な視点を出した論文だというようにったんです。

つまり、それまでのいわゆる様式義的な発想そのものを、ウィーン学派の芸術論にもとづいて、組み立て直すところから、はじめているわけですから。 

主題が、全部国家主義的だったといことで、戦後は一切ふたをされたような状態になっていた時期がったと思う。浜口さんも触れたくないというところがあったと思うんです。

 

平良:事実、戦後浜口さんは触れてないんだよ。「日本国民建築様式の問題」の後に、前川国男建築設計事務所で出していた「プラン」で「機能主義とヒューマニズム」とタイトルで書いたのが1947年ですからその間わずか3年しかたっていないんです。にもかかわらず、それに触れていないんです。 

 

言の変化と作品の変性 

磯崎:ぼ論文丹下さんのとこにして1954年に大学を出て、丹下研究室に入ったんですね。それか数年間はべったりくっついていて、そして、「東京計画1960」をやって。しばらくしてぼくは独立した、といういきさつがあるわけです。 

ちょうど入ったときは、広島のビースセンターの展示館きあがったぐらいの年ですねだ両側の建物はなかった。向かって右手の建物の実施図面の一部を、じっくり描かされたというような時期に入ったわけです。香川県庁をやり、それから倉市庁舎があ今治市庁舎があり、それにずっとつき合って、独立するのはオリンピックのコンセプトがまとまったくらいのころです。 

ぼくが丹下さんに感じるのは、戦前の二つの作品と、その後オリンピックで一貫して作品は何ら変わっていない。とこが伝統論民衆論、それか、近代建築論、戦後民主主義論まで含めて論じられる主題は、いつも変わっているわけです。 

作品のほうは変わっていない。スタートは戦後あるわけではなくて、に根がある。その戦前の根の問題を整理して、新しい戦後の、特に50年代の後半に日本でできてきた近代建築と、その伝統といようなものを組み合わた視点というのは、ちょうど浜口さんの論文が10年から、15後に形になってあらわれたように思える。 

だから、浜口論文は東京代々木オンピック競技場を予言した論文であったといように、ぼくは思えます。 

つまり国民建築様式というのは要するに、言い換えれば日本の新しい形の国家様式を論じたと思われるんですね。浜口さんの国民建築とい言い方と国家様式という言い方と、どう違うのかなということがあるんですけどおそらく、それより前の帝冠様式が日本的な国家様式だとすると、新しい国家の様式は国民にした方がよいということじゃないか。 

とえば、見え方もあったのかもしれないけど、多かれ少なかれ、後の共産党にしてすべて国家は議論の根底にあるわけですよ。国家のを追していくという意味では、浜口論文からオリンピックまでというのが、ぼくはひとつの筋書きにのるんじゃないかなと思う。たまたまその間に敗戦というのがあったけど、あの敗戦という変動はこの関係にはかかわっていないように思ったんです。 

そのこたえていない状態というのは、西山理論もそうだし、吉武理論もそうだし、高山論もそうだし、このへんの人たちは、全部戦争前の昭和10代に大学にいて、ある助教授になって理論を組み立てていったのが、たまたま戦争でばさっと切れた。しかし、戦後になっからの彼らの発想といのは全部戦争中研究によるものだと思うんです。そして戦後民主主義に、それが適用されていくんです。

 

布野:ちょっ整理させていただいいいですか。丹下さんの場合には、それこそ宮内嘉久さん流の言い方がありますね。転向した、その変わり身の早さがいかがわしい。大東亜を記念し、英霊をま神殿をやった建築家が10たたずに次の平和のシンボルをつくってる。ヨーロッパでは考えられない。そういう言い方が触れてはならない戦後のある種のタブーとして存在していたと思うんですよ 

それに対して、今礒崎さんがおっしゃっように、丹下さんは全然変わっていないということがある。するに戦時中にすでに、たえば建築の構成の方法としては、モダニズムの方法論をにつけていた。作品を見る限、あきらかに連続してるわけです。こういう見方は、えば稲垣栄三先生はかなり早い段階で、もう書かれているわけです。

 

戦前の出発点の謎 

磯崎:そう。稲垣さんはそう言っているんだけど、なぜか「日本の近代建築」1960)を終戦で止めている つまり稲垣さんは、そこまで見通していながら、見通してないがごとくに受けとめられてしまったんです。

 

布野:丹下さんは戦前戦後で変わらなかったとすると、その丹下さんの戦前の出発点はどういことだっかということが問題になるわけです。 

堀口捨己さんにしろ、丹下さんにしろ、あるレベルの建築家は、帝冠様式というのは、あれは論外という意識があって、ほとんどぼくは問題ていなかったと思うんです。 

ぼくは、どうし丹下先生が、つまり、どこから確に満ちて近代建築ら出発したのかということについて、ちょっとよくわからないんです。 

たとえば、前川先生の場合はやっぱりサボア邸を見たというインパクトはある。いずれ日本の建築の行く末はうなるというのは、一瞬見えたと思うんですね。 

ですけれど、丹下さんの出点というのは、まだ解けていないところがあんですね。

 

磯崎:ぼくは生田勉さんに、親友だった立原道造の話を聞いことがあるですよ。立原道造は生田勉んによると、あの人ほどあの時代にドイツ的な血と土の形、つまり、アルバート・シュペアーがヒトラーのイメージを具体化したというような形で出現した、あの建築なイメージ確に理解でき人はいなかったというんです。 

その立原道造が、丹下さんに非常にった手紙を書いているんです。丹下さんは、立原より1級下ですが、常に強面でとおっていたらしい。連のコンペに浜口隆一さん応募して、間に合わないから大連まで持っていった立原は浜口さんのこの行を、戦賀のための二重橋参拝の行為に結びつけて、そをなぜか丹下健三あに書いています。詩人で病弱だった立原が、ロマン派的なものを通じて、新しい国家社会的なものへ傾倒してくのもかるような気がします。

 

布野:うーん。たとえば西山さんが、ナチ的な国家社会主義的なところへ行くというのはわかります。血とか、民族、土というものから、民衆の方へ吸よせられていくというのは一つの転向の形です。 

立原道造についてはよくわかりませんが、卒業設計なんか見てみると壁のある美術館で、もしかしたらそういうチ的な気分を持っていたのかもしれない。 

けど丹下さんの卒業設の日比公園に建つ美術館は、完全にコルビュジェの丸コピー。ついでに浜口隆一さんの卒業設計の工場もコルビュジェのコピーですから。サイロみたいなのがドカンと建っていて、コルビュジェのセントロソーユースを3つ並べたようなのでしたね。

 

磯崎:大連の市庁舎のコンペは前川さんが一等になったのでしょう。浜口さんが落ちて、10日か20日くらい魂抜けたようになっていたって話を聞いたことがある。

 

古谷:ぼくも戦前から戦後を通じて丹下さんが本的には変わってなくて、きれいに連続していたんじゃないかと、そう思うんですね。 

下さんは時代が求めそうなものを、うまく題材にするという感覚、あは嗅覚というか、ういうものをお持だったという気がします。 

それは最近の新都庁舎まであてはまるかもしないんですけど、それは時代の本当に求めるものとは少し違ってて、でももうすぐ求めそうだというものをうまくつかまえ自分の考をなかに盛りこんでいく。 

そういう点でみると大東亜建設記念営造計画は戦後の50年代後半に、ほとばしるように出てくる実作にも共通した性格を持っているように思います。そういう意味で変わらなかったのかなといます。 

 

モダニズムを国家様式にする戦略

平良:やっぱり、日本ファシズムの運は、もう昭和の初年というか大正の期からはじまってるんですよ。それがいろんな戦争をしなら、どんどん拡大して、そういうイデオロギー的な大きなインパクトというか、圧力のなかで起こった日本主義建築、あるいは日本主義というのがありますね。それと丹下さんの考え方というのは、すごく共鳴するところがあって、日本国民建築様式の浜口さんが評価するような線まで、のぼりつめたんですよね。 

同じようにあの論文の中で浜口さんは、前川、丹下というようにならべて応援しているんです。そこに微妙な差があって、川については丹下さんほど、あそこにのぼりつめたというよりは、何かへんなところに来たという感じもあるんです。

 

磯崎:そんなこと言うと、宮内さんにれそうですが。

 

平良:しかし、前川さんが在盤谷日本文化会館コンペで入選しているのは、歴史的事実なんだから、はっきりとそういう事実は認めなきゃいけない。 

 

浜口さんの論文は、丹下案より、前川案の方を評価しているようにませんか。丹下案は粛な儀式行なわれるのにふさわしく、前川案は人々が集うりにふさわしいと

 

磯崎:いやむしろ、あの2つ以外の何か、残りの95%への抵抗と考えたほうがよいでしょう。

 

平良:しかし、やはり丹下さんの日文化会館は、日本ロマン派とおおいに関係あるといわざるをえないですよ。あれはやはり古代へのあこと、自分が持つモダニズムの思想というものがストレートに結びついたというのかな、接続した。 

この中には大きな飛躍があったと思うんだ。前川さんの案には、その飛躍がないんですよ。

 

磯崎:今言っように帝冠様式の日本調、あいは東洋風のようなものを、誰もほとんど疑っていなかったような時代があったんですね。コンペの歴史で必ず語られる帝国博物館に前川さんがモダニズムで出という。これも、もうひとつの読み方としては、それに対してコルビュジェ的なものが国家様式になる、つまり近代建築を国家様式にたりうるものにさせなけばならないという、そういう義務感で前川さんは応募したんだとも言える。

 

布野:そを言うと久さん、怒るでしょうね。(笑)

 

磯崎:つまりあれは反国家ではなく、国家様式としてこれを採用してもらおうという形で募したとも考えられるんです。

 

布野:するとイタリアファシズム路線みたいな形になるわけですね

 

磯崎その前川さんの路線を丹下さんは実に疑いもなく受け取っていて、これを国家様式にするんだ。しかもそれが、近代建築の持っている部分と、日本的な空間構成概念の統合というのがどこかでありうるという戦略を、そこで丹下さんは考えたんじゃないかと。 

 

屋根のない柱離宮の秘密 

布野:丹下さんについての一貫性はそれで理解できますね。でも、前川さんについてはちょっと違ます。 

ルビュジェのところに行った世代は、これが近代建築だといのがあるんです。日本との落差がつねに意識されてい相当たいへんなことだという冷めた意識がある。一生かかっても日本にそういうものが根づくというのは、ありえないかもしれないという出点があって、だけど俺はるぞというのが断固としてある。川さんの場合、すべてのコンペに応募しつづけという覚悟をして帰ってくるわけです。 

常に欠如感がずっとあるし、そういうなかで、もまれながら自分は行くぞということである。前川さんの場合、ちょっとまちがえて屋根のっけたというわけじゃなくて、覚悟しながらという感じがしているんです。

 

磯崎:丹下さんと前川さんの、たとえば在盤谷日本文化会館をくらべると、前川さんのは屋根をすっとばしても雁行型のレイアウトで、これは成立するんです。ところが丹下さんのは屋根なくしたら、ありえないんでよ。建築にならないんですよ。大東亜記念営造物でも、シンメトリーで完璧にそうなっていますし、一方、前川さんの在盤谷のはアシメトリーです。 

ぼくは、丹下さんの屋根のけ方というのは、いわゆるもともと全体の空間構成概念のなかに最初からあって、前川さんは無理してつくったような気がします。 

 

●在盤谷日本文化会館の雁行したアシメトリーなプランは、前川さんでは、戦後の神奈川県立図書館・音楽堂につながっています、丹下さんのシンメトリーなプランは、広島ピースセンターになっていきますね。

 

磯崎:ところが、在盤谷の丹下さんのプランは、前川さんの大連市庁舎のプランとそっくりなんです。 

 

布野:在盤谷のコンペは、ちゃんと誰も指摘していないけれど、コンペ条件が木造なんですよ。木造だから合理的に考えれば、勾配屋根がでてるということで、大東亜の場合と違うんです。前川さんも屋根が問題じゃいとずっと書かれているんですよ。 

弁護しようと思えば、最後前川さんが屈して屋根をのっけというのもちょっと不正確です。

 

磯崎:だけどその頃、前川さんの事務所で丹下さんが担当した岸記念体育館というのは、木造でいかにも屋根がないごとくに見せている。くは非常にあれはよいデザインだと思うのですけれど。 

川さんはコルビュジェ平面で考えて平面から出くる空間を考けれど、ぼくが丹下さんのところで図面を引いていて思ったのは、最初から屋根を含めた立体構成というのを考えた。それが日本的な構成のなかにつながっているというがするんですね。 

石元泰博さんと丹下さんがつくった「桂離宮」という写真集がありますね。あれを見るとかるんですよ。丹下さがトリミングをして、屋根を全部ばしてないんですよ。屋根があってもなるたけ写らないようにという感じで撮った写真ばっかりが選んである。 

広島の平和会館右側にある陳列館要するにあの木割をコンクリートにしたようなのは、屋根がないと本当はプロポーションでいうと不思議に見えるんです。 

というのは、日本の木割というのは屋根の重さをえているときにテンションが出てくるんです。ところがそれをすっとばした木割なんですよ。 

戦争中にやった屋根を近代建築に合わせるにはなんとかして消さないといけない、そういう思いがかなりあっと思いますね。 

もともと前川さんのようなレベルでスタートしてら、屋根なんかとっちゃえばデザインできるんですけどそうじゃなかった。 

丹下さんのところに行って図面を引いているときに、柱とかのプロポーションばかり考えていけですよ。とろが、あのファサードのデザインのこれが、決める基準がはっきりしない。なぜこの屋根の重さなしで、プロポーションが成立するのかという疑問があっんです。それで結局あの屋根のない桂離宮写真集に行きついたのです。 

 

「国家」の内にあるか、外にある 

布野:わわれには、なかなか理解できないんですが、屋根をかけるか、かけないかで、すごいプレッシャーがあっんですね。 

 

磯崎:50代には、それがあったと思ますよ。そして、そのときに吉田五十八さんとか、谷口吉郎さんが、藤村記念館などで瓦屋根に転向するわけです。 

うような屋根というのが、50年代にぱーっと出てき時に浜口隆一さんが「三味線も悪くない」と言っちゃった。あの人素直だからね。それで浜口隆一さん、まます況に立ったんじゃいかと思うんだな。 

丹下さんはそのへんやっぱり老獪ですよ。自邸なんて完全に屋根が乗っているんですから。

 

平良:さっき磯崎さんが言ったことで、川さんを弁護したいんですけど、前川さんは上野の帝国博物館のコンペで、コルビュジェ流のモダニズムで向かていった。しかし、あれを国家様式にすべくというのは、前川さんの意識のなかではなかっと思ます。

 

磯崎:もちろん、前川さん自身には、いう考えはない思います。だけどあれは、枠組みとしたら、国家様式を組み立てるためのコンペであって、それに応募するというは、モダニズムが国家の様式になっいくということになるんじゃなかな。

 

平良:前川さんには、国家様式として、という意識はなかったかもしれないけど、少なくともそれが日本でも普遍化できると、日本の建築としてそういうつもりでいたことは間違いないよね。

 

磯崎:それはだって戦後共産党が反政府、体制的な仕組みを組み立てとしても共産党がもし天下とったら、っぱり国家をつくったと思うんですね。人民権力とったときに何をするかといえば、国家をつくるんです。 

だからあらゆる意味で国家という概念のなかでしか想がきてない要するに、その関係を切り抜けた人というのは、国家に対して鈍感な人だけですよ。建築界でも90%ぐらいがそうで、そういう人たちは国家もへったくれもない。金さえあればいいというような形で動いている、意外に長谷川評価するような仕事をする人もまれてくるわけです。

 

平良:こんなこと言うとあとで怒られな。(笑)現在の国家体制に何も疑問を持たない、鈍感というか無意識なんです。

 

布野:国家様式をつくろうとも思わない。そういう意識をもった建築家はいないし、考えたこともない。

平良:流行としての帝冠様式とか日本趣味とか東洋趣味とか、いろいろ言われると、さっとつくるわけ。

磯崎:だから渡辺仁なんて人は、原美術館のアールデコであろうが、第一生命であろうが、帝国博物館であろうが、一人の建築家がつくったとは思えないほど、右から左まで、ぜんぶやっているわけですね。それで、それぞれレベルが高い

 

布野:それを長谷川堯さんはこういう言い方をします。様式が自分の外にある建築家と内にある建築家がいる 

するに様式が外にある建築家はなんでもできちゃうし、もらってこられるわけです。それをどう評価するかはでも大テーマだと思うんですけど。

 

平良:だから、ナショナリズムは、戦後も消えてないよ。

 

磯崎:統論争のあった50年代の終わりなんて、最高にナショナリズムでしたよ。安保闘争といのも、左翼の視点のナショナリズムだったと思うし。

 

平良:ぼくらは、「新建築」で川添登を中心に伝統論争をやったでしょう。それはアメリカ的モダニズムに対する抵抗としてのナショナリズムだという自覚がぼくにはありました。モダニズムを推進しなければならないと思いつつ、民族の問題は無視できないと考えていた。ただ、丹下さんを主役に持ってきたけれど、それでいいとは必ずしも思っていなかったんす。磯崎さんは、伝統論争をどう見ていたのかな。 

 

コンクリートの造形性に傾く 

磯崎:ぼくは、50年代の終わりは、丹下さんのところでじっとしていたんだ 

けど、60代になって、建築界から抜ほうがいいんじゃないかと思って、美術関係に近づいていったり 

それから、伊藤ていじさんとつきあって、デザインサーベイの始まりみたいな「日本の都市空間」の調査にも参加した。それは、日本的なものというよりも、都市論であって、「見えない市」につながっていくわけです。 

日本について発言することはしなかったし、戦略的に丹下さん流の空間構成でなくて、空間概念であり、その違いなんだと言いかえていくうにしていまし 

ぼくは、一度独立したんだけど、手が足りないから戻ってこいといわれて、スコピエのコンペをやったんですよ。それが一等に当選してしまったけれど、向こうに行ってもあまりうまくいかない。帰ってきたら今度は万博ですよ。丹下さんのところのグループにぼくが入り、西山さんのところには、上田篤川崎清、指宿真智雄がいた。反万博運がその頃あって、ぼくは、それはもっともだと思っていたし、表でお国の仕事、夜は反万博派と裏で付き合いをしていて、上と下、表と裏、昼と夜じゃ、話が違う。もうメチャクチャなわけですよ。それでくたびれ果てたっていうのがいきさつですね 

丹下研究室の場合普通建築家が自分スケッチして形にするんですけれど、そうじゃなくて、大学の課題と同じにスタッフが案を出して、丹下さんがんでいく。ですからスタッフよってまったく違うものが入りこむ可能性があるわけ。ぼくは香川県庁舎や今治市庁舎を担当しいたけれど、その時代時代で、誰が担当していたかによって、丹下さの仕事が違って見えてくるというのはあると思います。

 

平良:丹下んの戦後の変化を見るとね、広島からはじまって、香川までは何となく同じような感じで持っていっいるでしょ。とこが倉敷市庁舎とか、日南市文化会館の辺りから極端コンクリートを使ったトーチカみたいのが出てきりしますね。それから高松の香川立体育館。あれが変形て、オリンピックの代々木に集約されていくんじゃないかと

 

磯崎:おっしゃるとおり、ぼくの感じでは、たとえば1950から1965年の15年間くらいというものは、おそらく二かれると思う。たしかに倉敷市庁舎ありで変わったといわれてますけど、どっちにしても主題は日本的なものであること違いはないと思いますね 

 

●屋根をかけずに日本的なものを表わす。広島ピースセンターも香川県も同じ流れにあると。

 

磯崎:もちろんそうです。だから香川県庁舎も本来ならば五重の塔になるはが、根を平らにしたわけですね。 

 

●伝統論争にかかわりなくですか。

 

磯崎:ええ。二期のほうは平良さんがおっしゃるように非常にコンクリートっばい。その原因というのはそらく、インドのチャンディガルのコルビュジェ派の影響があったのではないかと思いますね。前川さんの東京文化会館みいに、日本の全体のムードがコンクリートの造形性に非常に魅力があるものと見えていた。

 

布野:ロンシャンがやっぱりきっかけになったんじゃないですか。

 

磯崎:ロンシャンじゃない。むしろチャンディガル、やっぱりロンシャンのときはかってにとらえただけ。あれは無理だ

 

平良:「国際建築」で旅行して帰った丹下さんと前川さんの対談があるんですよ。そのときに丹さんはアメリカ傾倒していた

 

崎:ぼくの記憶では52年にロンドンでCIAMの大会があっときですね。

 

平良:あ、それそれ。

 

磯崎:その帰りにね、マルセイユへ行ってピロティまでできていた建設中のユニテを見ている。それが広島の本館になり、アメリカ体験旧東京都庁舎になる。

 

平良:そのあとで丹下さんは、「機能主義ら構造主義へ」というのを書くんですよ。代々木の国立競技場の前ですね。

 

チャンディガルとサーリネンの影 

磯崎:61年ですね。その構造義ってのは文化人類学でいってる構造主義ではなて、フィジカルな、するに彫的な表現に変わっていとを正化する意味の構造主です。

古谷:そのとき多少メタボリズムに対して釘をさすようなことをいっている。都市には、絶え間なきメタボリズムと、所的なメタモルフォーゼがあるんだ。断絶して変化するのがあるんだということを言っている。

 

磯崎:そのときに丹下さんのいちばんのライバルはサーリネンだったんです。要するに世界でいちばんのモダニズムのはやりは何かっていうと、どうやって新しい構造形式彫刻的なものができるかっていうことがあったんです。 

おもしろかったのは、丹下研究室に本屋さんが外国の雑誌を持ってくるんだけど、丹下さんの代々木の技場が出てますよと言って持ってきたのが、サーリネンのホッケーリンクだった。(笑) ぼくらの意識は、サーリネンがやったらこちらもやり返せって。(一同笑) 

つねに負けてたわけじゃないですよ。丹下さんの方がサーリネンより早いのもあったし、サーリネンのほうが先のもあった。ちょうど競り合ってるって感じでした。サーリネンのディア・ファンデーションのコールテン鋼の建物なんかは、サーリネンが香川県庁舎を見て、帰ってきて全部案を変えてあれにしたっていう話もありますから。逆に影響も与えてることは確かですね。 

とコルビュジェのチャンディガルとが、どうもからんでるようにぼくは思いますけど。残念ながらサーリネンがんじゃったから、つまり競争相手が消えちゃったんですね。だから最後になってI.M.イとどっちが高いのをつくるか競争してというのが、今の状態だと思いますけどね。 

それとね、良さんがおっしゃった、丹下さんの伝統論から民衆論へっていう変化があったと思うんで。伝統論っていわれてるものは、50年代初期のジャポニカをもうちょっときちんとした定義づをして、おそらく香川県庁舎に至る、日本的な近代建築というものに持っていく。 

それに対して、民衆論というのは平良さんの世代から丹下さんの貴族趣味が批判されたわけですよ。それで丹下さんはそれならばって、当時岡本太郎なんかとつきあってて、これまでは弥生で、今度は縄文の民衆エネルギーというか、縄文的なるものでいこうと。

 

 

布野:白井さんは縄文的で、丹下が弥生的だというのが、『新建』のセットでした。

 

磯崎:だけど丹下さんは倉敷市庁舎以降は縄文論を民衆論にしちゃうんですよ。

 

平良:ぼくの解釈でいうと倉敷では、大空間が出てくるんだね。それは丹下流の民衆論でよ。民衆の圧倒的なエネルギーを包み込むような空間。やっばりヒューマンスケールなんか超えていくようになると、ああいうマスですよ。だから、その後の大衆社会論でいう大衆を包み込むような、あるいは大衆と対応するような空間というものをイメージしてつっている。

 

布野:その段階で広場論も出てくる。ぼくは68入学ですから、東大闘争以後なんですが、アーバンデザインという講義で丹下さんから広場論を聞いたことがあります。しかし、内容は、ロストウの経済発4段階論なんです。そのときに印象に残っているのが、その段階説によると、もうじき建設はだめになるという話なんです。80代はだめだというんです。実際オイルショックでそうなったわけだけれど、80代にはバブルが来た。 

 

ロストウ経済理論から中東へ 

磯崎:つまり、東海道メガロポリス論っていうのもロストウのテイクオフと4段階説で順に変化していくわけですね。要するに後進国から先進国なっていく近代過程っていうのが4段階。この理論ですよね。 

そのときにアメリカでゴッドマンのアメリカの東部がつながったっていうメガロポリス論があり、これを日本に合わせて輸入したわけです。ですから、いわば一種のはやりの経済理論と都市論、両方合わせてもってきて、日本の国土軸にすると。 土軸っていう言葉がはやって、結局それが田中角栄新全総にぴったりつながっているて気がする。

 

布野:要するに、丹下んは最後までそういうフロンティ主義成長主義ですね。離陸してしまって、バブル期に帰ってきわけです。新都庁があって、東京フロンティアがあって完結する予定だった。だけどそうはいかなかったんじゃないですか。

 

磯崎:それについては、まったく疑いを持っていなかったと思います。

 

:ということは何はともあれ、田中角栄と、その部分ではメンタリティはぴったり合ってるのではないかと思いますね。

 

布野:ぼくは戦後50のちょうど真中の1970年で、建築が変わったと思っている。丹下さんはそこで消えてるわけです。というか、あとの25年は丹下さんはちろんそれ圧倒的にグローバルには根づいていってますよ。しかし、少なくと70年代丹下さんは日本では仕事がほとんどなかっ。とこが第三世界ではびっくりするくらいやっている。 

おもしろいのは、ちょうどこの頃、長谷川堯さんが出てて、丹下、磯崎をたたいて、村野さんを持ち上げたとですね。近代建築の保存という時代が始まった。われわれ学生からすると、丹下さんはもう引っ込んじゃって、むしろそれをどう乗り越えるかが出発点だったんです。 

ぼくはさっき「SD」の丹下特集を全部見てきたんだけれど、70年代以降の外国での開発プロジェクトはひどいというか、全然おもしろくない。みんな同じ。丹下のバナキュラー化といか、要するにどっかの巨大な組織がやっててもいい作品ばかり 

とにかく、シンガポールでもサウジアラビアでもアルジェリアでも、みんな同じなんですから。やっぱり70年以降、丹下っていうのは消えて、おもしろいのは万博までだったという気がしますね

 

磯崎:丹下さんの仕事の具体的な建築の評価は、ぼくもまっく同じなんですけれども、要するになぜ万博まで丹下さんがよかったかというとね、日本国家いうものがまだ、そのときまではけっこうよかったんです。経済発展の誇示っていう意味での万博は、国家的な祭典だったし、広島、オリンピック、万博ときたら、日本の戦後最大の国家イベントですよね。丹下さんはこれを全部おさえて、それを形にしてきた人だったというように思います。 

ころが、おそらく万博のあと、70代の始まりのときに日本国家の影が、んだん薄くなってきんですね。その原因というのは、ぼくの勝手な解釈ですが、田中角栄出てきますね。本っていのは、要するに無限に経済開発可能であるということを、政治家が言った。それに官僚がなびいた。ということは、日本を国家としてまとめるのではなく、日本株式会社としてをまとめというのが、田中角栄功績というか、事件です。そうすると、日本国家が役に立たなくなって、要するに経済の方が重視されて、財界の方が強なってしまった。 

その関係に長谷川堯がねらいをつけて、東大的な国家に対して早稲田的な商業というか商人の建築、国家の建築に対して人の建築、東大対早稲田というのを出したと考えられる。70年代は国家の権威が没落して丹下さんとう人は国家の建築家としることがないわけだから、国家の建築を必要とするオイルカントリーに呼ばれてい。だからちょうど70年代下さんの日本国家の建築家の役割は完全に終わったといえますね。それは確実にると思います。 

問題は商人建築家の代表で村野藤吾が浮かんだというところから、ある意味で日本の建築界にいろんな無理がまた発生して、だけどそれは、そのままずっと流れてバブルにいく。バブルというのは完全に経済優先の時代ですから。 

くは商人建築家にはなれないし、そうかといって日本国家というものセレブレートする建築家というものを否定するという立場ってきたときに、さてどうするかっていうことで、その戦略を70年代以降組み立てようとしたわけですけれど。 

 

商業建築家としての帰還 

布野:ぼくにとってすでに下は軸にならなかったわけです。左右に磯崎と原広司をおいて出発したんですよ。

 

磯崎:だから70年以降、早稲田が強くなったはずです。(笑)

 

布野:丹下さんには意識してなくても、世界建築家みたいな概念があったと思うんです。つねに高みに立って、神のごとく白紙の上ビジョンを描いて、実現可能性あるいは技術的な可能性を問うという建築家像ですね。世界をデザインするというとが基本的にある。 

日本の国の中ではオリンピックやって万博やって、要するに戦後復興っていうか、国際政治の舞台に上がるまでのプロセスは終わった。次は、世界建築家とては世界一へ向かう。そううスタイルで、今日に至るまで一貫性を持ってやってきという見方ができると思うんです。

 

平良:丹下さんも戦後、新しい近代の民主主義というものの緊張感がある間は、緊張感が続くんです。それから日本の国家が変質するわけだよね。天皇制を、大衆国家に合ったものにして。民族国家っていうのは戦後はまだあったわけですよ。その後、ほんとうに経的な家になって民族主義的なものが希薄になるんです。と同時丹下さんの中から緊張感がなくなっていったんじゃないかな。

 

崎:オイルカントリーから、度は商業建築家として日本に帰還んです。つまり、まで国と組んでいたのを切ったわけですね。 

 

リンスホテルですね。

 

布野:そう。それ以来、そうなっちゃった。最後に東京都舎でしょ。それはやっぱり世都市になってい東京なんだということでしょう。つじつまが合ってるかもしれない

 

磯崎:そこで問題があるわけです。つまり、70代につづいて80代、日本国家というものは空洞化していった。いくらがんばっても国家をセレブレートするものが出てこない。だから、ぼくはつばセンタービルでは、セレレートするのはなくて、意図的に裏返しをやったんです。そううものに日本はなっていく。 

それにもかかわらず、丹下さんは商業建築家をやってみたんだけど、都庁はやり方を変えたんですね。 

家は形をもたなくなっても、国家を形にするのは首都なんです。首都の形家の反映であり、国家の顔である。その顔のシティーホールというのは国家的建築家として、宿命的に丹下さんはやらるを得ないわけ都庁舎というのは、ある意味で丹下さんと日本国家との関係において、下さんの中では大東距記念営造物から都庁まで、一直線にあると思うんです。 

ところ相手のが空洞化している。にもかかわらず、顔をつくるときに都庁舎で何が起こったかというと、バブルで抜け殻になったというか、空洞を空洞としてしかつくらないから、バブルタワーになってしまったというのが、ぼくの意見なんです。 

新都庁のコンペは、誰でも橋をかけたんですけど、ぼくのはものすごく大きい橋だから、道路交通法違反だって落とされた。ぼくはカウンタープロポーザルのつもりだったし、とされるべて落とされたというか。 

 

界の下が世界都市東京 

古谷:さっき早稲田の話に戻りますが、70年代に早田が元気がなきゃいけなかったんですけどね。そのとき、たしかに村野先生の見しがありました。しかし、早稲田でいうと、60年代の終わりから70年代にかけて、よかったのは吉阪隆正ですよ。八王子のセミナーハウスも営々と、つくり続けていましたし、その迫力は象設計集団に受け渡されていくんですが。吉阪先生は早く亡くなってしまったので、もうひとつ先が花開かなかった気がします。その長谷川堯さん流にい「獄舎」や「雌の視覚」は別の意味で、たとえば安藤さん的なものに置き換えられていってしまったと思うんです。たしか長谷川さんは、丹下さんと安藤さんを鳥の目、虫の目と言って比較されたと思うんですけど、本当はもうちょっとアカデミックなところで獄舎づくりが花咲くはずだったのに、どっかから虫の目の論議に入ていって、安藤的なものが礼されていったような気がします。

 

磯崎彼もある意でいうと、大阪商人的な感覚でいってるから、それはそで町屋のレベルでは、いい視点が出きたんだと思います。ところが、安藤さんは最近は鳥の目みたいなのをやてるから、いろいろ破綻が起こってるって感じがするんですよ。

 

布野:なかなか丹下さんを乗り越えるという話にならないんですが、あえて言わなくても消えたっていうのが実感なんですけど。

 

古谷:以前、礒崎さんは本の中で、フィリップ・ジョンソン話をしていましたね。ジョンソンというのは、どこかで視をどんどん変えながら、若い先端的な人と付き合っていった建築家と。それが、あるとき以降の、丹下さんにはなかったんじゃないかと。

 

磯崎らくなりすぎちゃっのかね。ジョンソンというは、そういう意味じゃかなりしたたかな人で、分で、出こいとかなんとか電話けてくるくらいの人ですね。本当にやぶれかぶ先のことをやっちゃおうと言ってて、それがやりすぎてるんで、個性がないというふうに言われてるところもありますけど。 

彼の場合は一歩二歩遅、必ずはやりのところをねらってるという、その鑑識眼は、もう来90歳だけど、いまだに持ってますね。ポストモダニズムに出口はないって言って、自らの出口をふさだ丹下さんと、次から次へと先行って、デコンのま先を今やろうとしてるというジョンソンの、そこらへんに違いがありますね。

 

古谷:丹下さんは常に実践者なんですね。ご身がなさってるっていうか、からイメージがさびついてきときに、ずっと加速し続け状態ができなかっのかなという気がしますけど。

 

野:どうなんでしょうかね。丹下さんの場合、国家か権力あるいは社会の配置とかいうのは、使命的にずっとかかえているけですね。

 

磯崎:それはある意味でいうと、その時代の権力のトップとは何か、中枢はかということを直観的に見て、その点では一貫してるんじゃないですか。ジョンソンには国家的な仕事はあんりこない。むしろ彼はデベロッパーの仕事をもっぱらやってるから、仕事の領域からいったら村野さんに近いよな感じですよ。良:丹下さんは何といっても日本国家のナショナリズムから生まれた人ですからね。それが抜きがたく化されていると思うんですよ。

 

布野:戦後の日本の成長過程で、丹下さんのような人は一人いればよかったわけですよ。「建築ジャーナル」の5月号で川添登さんが、大衆運動をすにはカリスマが必要だったと言っています。意図的に丹下を持ち上げたという言い方をしてたけど、実際川添さんがそうしなくても社会がそううもの要求したということはありますね 

 

磯崎:れは丹下さんがいちばん意識化したわけですよね。主体的に選びとったし、方法化したり理論化したし。そういう意味では戦前から戦後にかけての国家の命運というのは丹下さん見てたら、およそ解るというくらいの、そういう感じがするんですよね。 

 

ポスト丹下とポストモダニズムの後は 

古谷:どうなんですか。ポスト丹下というのは、たぶん磯崎さんしか引き受けないんじゃないでしょうか、という感があって聞いているんですけど。

 

磯崎:ぼくには、それには答えられないけれど、この次、何をどうやらなきゃけないかというようなことは、つねに考えてはいるんです。だけど今ぼくは若干の反省をしている丹下さん国家を考えるな、ぼくは反国家を考えてきたつもりだったけど、国家と国家というのは実は裏表で同じじゃないかという見方もある。そうすると、単純に反国家なのか、それをすり抜けな概念にいるのかどうなのか、ま正確な見とおしはできてません。 

しかし、少なくとも商人的といわれている領域というのは、ほとんど仕事をしていないし、国家の仕事もないんですよでも公共建築、かつ中心でない地方のそういうのが多いんですね。 

外国での仕事も似た感じですね

 

良:反国家的ローカリズムとはならないわけですか。

 

磯崎:地方の権力である地方自治体が中央と対抗するために、あるいは隣と対抗するためによばれる関係どうもあるみたいな気がする。

 

古谷:地方都市が脱国家的なものをめざしてるのと、うまくリンクしているわけですよね。そが地方自治体も丹下さんではなく、磯崎さんのスタイルに何か近いんだと。

 

磯崎:そうであってくれれば、ありがたいんだけれども。 

ぼくにとって、丹下研究室にいたことは、避がたくある。その上でこれをどう見直すかということと、そのをどう組み立てるかということを、ひたすらやろうと思っているんです。少なくとも丹下さんと違ってぼくは、バブルにあまり付き合わなかったんですね。 

つまりみんながいちばんポストモダンをやった時期ですね。ぼく初につくばセンタービルで国家批判みたいなものとして、デザインをやっというつもりだったんだけれど、いまだに外国でも日本でもポストモダンの責任を問われている状態にありますね。下さんのオリンピックと同じように、ぼくも筑波のプラスマイナス両方を問われているのが実情だと思います。だ 

けどぼくにとってみれば、あれはあれで終わって、別なことをやらないといけないと思ってやりはじめているんですが。その過程にバブルがあったけれど、バブルをどうやって避けるかというのが、ぼくにとって課だった。 

バブルでぼくが何をやったかというと、自分でやるよりは人にやってもらった方がいいんじゃないかと思って、ネクサスワールド香椎とかアートポリスとかでプロデュース的な仕事をしてた。そうじゃないとバブルは大変だと思っていた。

 

布野ぼくは丹下さんを世界建築家言ったんですけど、それが気になってましてね。実はぼくは、あるところで丹下さんと出会ってるんです。 

イスラム圏の建築賞にアガ・カーン賞というのがあるんですね。彼はその審査員をやってたんですよ。ぼくが、たまたまこの15年付き合ってるインドネシアのスラバヤの不良住宅の改善事業が、その賞をとったんですよ。あとでいたら、スラム善のような文化性のいものだからというで、下さんが反対したということがありましてね。最終的には全会一致で、それを選んだらいんですけど、そういうやり方をしている、世界で働く丹下さんというのが終わってるのか、生き残るのか、ういうことが気になっているんです。丹下さんの総括というのをもう少しやっておかないといけないんじゃなかな、という気だけはするんです。 

 

大東亜共栄圏の再来 

平良:ぼくは戦前ナショナリズムが彼を生んだと思っている。 

日本文化におけるナショナリズムというのは、日本独特の価値を世界に広げていくという大東亜共栄圏の発想ある。その名残じゃないかと。

 

布野:名残じゃなくて70代以降に反復ということじゃないですか

 

平良:反復といったほうが正確な。70代には、今度はどこも後進国にいけるわけだからね。

 

布野:なんか確信に満ちているんですね。イタリアだろうが東南アジアだろうが、同じ物を建てちゃうという、この確信が、ぼくには気になるんです。この間見つけた文章がちょっとおもしろかったんですけど、戦時中の大東建築様式をめぐるアンケートがありましてね。丹下さんはそこに何を書いてるかというと、アンコールワットに感嘆するのは好事家の仕事だはっきり書いている。ほかのみんなは戦地に行って風土とか俗に触れながら、じゃあどうしうかという問題のたてかたしてるのに、下さんはスパッと抜けてるんです。それは70年代に中東やジア行ったときと全違わないんじゃいかという気がしたんです。

 

磯崎:やっぱりそれはロストゥが言ってる徹底した経済発展段階説ですよ

 

布野:そういう意味は戦前の問題は全然解けていない。

 

良:戦争に学んでいるわけでも、海外へ出て行ってその体験から学んでいけでもない。 

 

崎:オイルカントリーで仕事した10年ほど前には、結ああいうころはロストウのテイクオフの段階で、丹んの持っている一種の近代主義みたいなものとが、ピッタリ合ってたということが言えると思う。谷:オイルダラーの国へ出ていったときも、丹下さんはここで都市ができるって思ったに違いない。日本ではできないけど、ここならが一つはできるかもしれないと思っ、それが丹下さんを突きかしていたと思うんです。ところが手足がついていけなかったという問題があった。

 

布野:それもあるんでしょうけど、構えとか方法の問題ると思う。都市計画とかアーバンデザインとかについても、丹下さんの考え方は全然ゆらいでいないんじゃないかと思うんです。 

 

——都市を創造できるという考え方自体がおかしいというわけですか。

 

布野:おかしいとぼくは思うんです 

だけど丹下さんのスタイルは変わらない。東京計画の限界は、いろんな言いをされているじゃないですか。実際の都市はそれで絶対に動かないわけですよ。でもそのスタイルは全然変わっていない。その可能性を最後まで信てるし、東京都市博なりフロンティアも同じなんです。磯崎:あれはね、バブルの頃、通産省とか建設省とかに運輸省も含めて、自分のころの政策をもういっぺん組みて、バブルにのせようという動きがあったんですよ。それと都庁の鈴木都政とからませて、港湾局もまきこで、ガバッと案をつくった。黒川紀章もまた同じようにつくるわけですよ。それをやっておくと、まるでゼネコンが唾つけるみたいに、一種の利権が発生するんですよ。とにかくビックプロジェクトのありそうなところには、構想の絵をいておくみたいです。 

「東京計画1960のときは実現するなんて思わなかったけれど、30年たってできるかしれいということになったわけです。 

 

ユーアなき都市創造 

布野:中間を抜いて、上からバーッとやればできるという幻想がある。国家的な権力によって上から押さえめば 

計画できるんじゃないかというふうに、丹下さんは思ってたと思うんです。

 

平良:全体主義的計画法なんだよ。

 

磯崎:安藤忠雄も何かの座談会で、上からのファシズムみたなものじゃないと、計画なんかきませんとか言っていましたが

 

布野:丹下さんにしてみば、日本はめんどうくさい、産油国の方が王様にまかされ、自由にできるっていうくいの、そうう意識があるのかもしれません。

 

磯崎:それできたわけですよ。だから宮廷建築家なんですね。

 

布野:た、普通近代建築家には、ある種のユートピア思想とか理想主義があるじゃないですか。丹下さんの場合、ほとんどそれを感じませんね。その辺が不思議だと思う。あれだけえらくなれば理想都市が出きてもいいと思ってるんですが、そんなの最初からまったくないみたいですね。

 

磯崎:たかに生のときに聞いた講義でも、ギリシャのアゴラとかローマのフォーラムは出てくるけど、ユートピアには関心なかったんじゃないかな。コルビュジェの「輝ける都市」みたいなイメージは常に持っていたとしても。 

すると、臨海副都心までいってしまったのは、当然の帰結だ。布野:フロンティア主義であれば当然でしょうね。輝ける都市をあそこに見ていたんじゃないですか。一つ気になっているんですが、旧都庁舎を壊して気だということは、いったいどういうことなんでしょう。丹下先生というのは、自分でつくったものに愛着がないんでしょうか。

 

古谷:つくるまでの計画と竣工でピークを迎るんでしょうか。布野:つくったその瞬間に興味がなくなるタイプの建築家なのかしれない。

 

磯崎:ぼくは旧都庁舎は、ひとつの時代を表わす建築として残しておいてほしかったと思います。しかし丹下さんは竣工写真を撮ると興味がなくなるということを、誰かが書いてましたね良:模がいちばんよて、鉄骨ち上がるところまではいいんだが、できあがってしまうとつまらなくなる。ぼくは、すでに旧都庁舎のころから、そういう感がしていたんです。 

 

●今は、戦時中の丹下健三の壮大な計画から、臨海副都心に至るまでの軌跡に筋をつけることができたと思います。丹下健三を乗り越える戦略についても触れていただきましたが、この問題は、建築をつくる者一人ひとりにつきつけられているのではないでしょうか。ま別の機会でも問いかけていきたいと思います。 

1024日「日本都市センター」にて収録) 


















 

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