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2023年7月31日月曜日

2002年8月  メールの飛び交う夏  居所定まらず 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 『建築雑誌』編集長日誌                                  布野修司


20028    

 メールの飛び交う夏

 居所定まらず 

 

200281

早朝に関空に着いて京都の自宅に直行。少し寝る。夕方金沢に。車中で、松山巖さんの書き下ろし童話『ラクちゃん』(偕成社)を読む。

都会の超高層ビルの谷間に突如現れた駱駝のラクちゃんをめぐる一大騒動。子ども心に帰ってどきどきしながら読んだ。知っているから、松山さんが住んでいる虎ノ門、愛宕界隈が舞台だとピンとくるけれど、こどもたちにとっては奇想天外のファンタジーに思えるだろう。胸躍るに違いない。現代密輸に絡むミステリーの赴きもある。金沢駅前のホテルでバタンキュウ。

 

200282

日本建築学会大会第一日。設計競技「外国人と暮らすまち」の公開審査が仕事である。10時からの入選作品のプレゼンテーションに出席。先月の予備審査の時にも書いたけれど、学会の大会開催時に公開審査を行うのは初めてだという。若い諸君を中心にかなりの盛況であった。

みんなとにかくプレゼンテーションがうまい。「パワーポイント」が全盛だけれど、詩の朗読のようなスタイルもあった。12組の発表を十分楽しんだ。パネルのみの審査では見落とししていたことも確認でき、提案者の意図はより深く理解された。

午後から優秀賞の選定である。三宅理一委員長は、打ち合わせを行わず全てオープンにやるという。それも面白い、と審査員全員がのった。問題発言もあり、優秀賞を何点にするかの思惑の違いも明るみになり、スリルに満ちた公開審査になった。審査経緯と結果は『建築雑誌』12月号に掲載予定である。

夕刻から三宅理一、宇野求の両先生と大会懇親会へ。顔見知りの先生方と楽しく話した。出席できなかった協議会のエッセンスなどもちゃっかり仕入れた。理事の先生方とはわりと真面目な議論もできた。全て編集の肥やしである。

鈴木成文先生にもお会いした。宇野君も一緒だったから、なんだか7月20日からずっとしゃべり続けているような気になった。宇野君が7月の時の写真を送ってくれた。東雲のモデルルームで山本理顕さんが熾烈な?議論をしているところである。

懇親会の後、三宅、宇野両先生と金沢の夜へ。三宅君!とは同級生で随分と久しぶりであった。彼の金沢での顔の広さにびっくり。久々いい酒をくみかわすことができた。

  

200285

 久々研究室へ貯まった仕事を片づける。も片づかず。片づくわけがない。
 8月号ドーシの校正ゲラが出る。8月号は扉、表紙デザインについて新居さんから注文が出ている。随分時間がかかったけれど最後のつめをよろしくお願いする。インド建築界の重鎮ドーシの原稿、またG.ミッチェルの原稿をとれたのは大収穫である。

 

200286

  14回編集委員会。上京の友は青井博幸著『ビールの力』(洋泉社)、川村俊一著『昆虫採集の魅惑』(光文社)。『ビールの力』は、我が意を得たり、の本。著者は変わり種といっていい。京大工学部を卒業し、大手エンジニアリング会社に入社して世界をまたにかけて飛び回る内にビールにはまってしまう。そして地ビール会社を起こすのである。ビール飲みには多くの蘊蓄があるが、地ビール業界の悪戦苦闘も伝わってくる。夏休みだからか、つい手を出したのが『昆虫採集の魅惑』である。その昔、ドイツ文学者で日本昆虫学会の副会長をなさっていた岡田朝雄先生をインドネシアにお連れした時、インドネシアの島々が如何に昆虫の宝庫かと聞かされて、いつかその魅惑に触れてみたいと思ったことはある。本書には昆虫こそ命という世界が描かれている。そして、昆虫の分野にもある種の業界が成り立っていることを知ることが出来る。

 

編集委員会は1月号特集公共建築の設計者選定」(仮)が中心であった。しかし、細々としたことも少なくない。今回は小野寺さんの議事録を借用しよう。

 

<議 事>

□布野委員長より、議事録をもとに前回議論の確認を行った。

□特集企画について

11月号「都市の行方-都市空間のスケッチ」: 進行状況を確認した。

12月号「光環境-科学と設計の接点を探る」:石田幹事より、進行状況の説明がされた。なお、巻頭鼎談は出席の内諾が得られており、9月中か10月初旬に開催予定であることが確認された。

●1月号「公共建築の設計者選定」:小野田委員より、企画案が提出された。なぜ設計入札なのか、なぜ設計入札は悪いのか、海外の事情はどうか、といったことを念頭に企画を練り直した旨説明された。また、学会の「良い建築と環境をつくるための社会システム検討特別調査委員会」はまだ審議継続中であるので、学会の取り組みを含め資料編でまとめる方針とした旨説明された。

 出された意見は下記のとおり。

○対談について・参加者は、国交省よりも公共建築協会のほうが良いのでは。

○資料編について・前回委員会で提出された「脇田チャート」をどこかに掲載してはどうか。 →それも含めて資料編を充実させてはどうか。仙田会長には座談会に出ていただかなくても、過去の主張(朝日新聞記事)の再録もありうるのでは。

○アンケートについて・アンケートは2ページで十分か?・アンケートの掲載個所は企画案どおりで良いか? →資料編としてまとめる方法もあるのでは。

○「設計入札はなぜなくならないか」について・端的には、数行あれば説明できるの内容ではないか。

○「実例レポート」「事例の読み方」について・両者の関係が明快でない印象を受ける。・「事例の読み方」をビルディングタイプ別にする必要はあるか? →各事例をサポートしている論客に執筆いただく方法もあるのでは。・「実例レポート」「事例の読み方」が1ページ単位で14ページも続く構成は、誌面のメリハリの点で疑問を感じる。

○その他・オークション・ゲーム理論による科学的・数理的な検討を加えてはどうか。・事例として、島根県安来で住民投票をした事例もある(伊藤委員の情報)。

○全体構成について・最初に、なぜ設計入札が行われているかの「根拠」を明らかにする必要があるのでは。 それがないと、読者が全体を通して読んだとき議論が空転している印象を受けるだろう。・やはり「脇田チャート」を巻頭で示したい。さらに、設計入札をめぐる経緯・年表などを加えて、その「根拠」を明らかにしておく必要があるのでは。・入札・非入札に、それぞれメリットとデメリットがあるはず。善悪を付けるのはおそらく難しいであろう。クライアントにとってメリットとなる設計入札があれば、ぜひ示してほしい。・海外で設計入札制度のある国はあるか?→おそらく日本だけであろう。・各国の設計者選定方法を紹介してはどうか。(ダニエル委員に調査を依頼)・アンケートは、既資料があるのでは? 資料をもとに論考を執筆いただく方法もあるのでは(伊藤委員に検討を依頼)・アンケート先は何カ所にするか? →多数のアンケートを行うのも、学会の意思表示をする良い機会となる。

 以上の議論をもとに、全体フレームを下記の方針として再検討することとした。メールで企画案を詰めていただき、原稿発注を行うこととした。

1.脇田チャートを中心とした資料編 →設計入札はなぜなくならないかの構図を示す。

2.座談会の可能性

3.システムとしてみた設計者選定

4.実例レポート+事例の読み方 →具体的事例を取材した解説記事とする。

   大学院生を中心に取材を依頼するが、内容密度についてはよくチェックする。

2月号(1500号記念)「アジアのなかの日本建築」

 布野委員長より、企画案が提出された。①5本の座談会については、フレームが決まったら、内容・人選・開催は各担当者の見識にお任せすること、②各界アンケートはメールで候補者を絞ること、が説明された。

座談会について

1.「アジアとの建築交流」は、アジアの建築交流国際シンポジウム(9/1719、中国・ 重慶)での座談会またはインタビューの可能性を探る(→布野委員長)。

2.「アジア・建築デザインの最前線」は、古谷幹事を中心に企画立案。

3.「アジア住居集落研究の課題」は、技術協力的なことよりも、居住環境整備を重視した座談会とする。候補者として、畑聰一、佐藤浩司、菊地成朋、陣内秀信、藤井明、曲渕 英邦の各氏が挙げられた。また、田中委員より、座談会の案と過去の関係資料が提出された。田中委員を中心に企画立案。

4.「アジア建築史の構想」は、アジア建築遺産の保存修復と技術協力をテーマにする。浅川委員を中心に企画立案。

5.「アジアの環境エンジニアリング」は、石田幹事を中心に企画立案。

6.「アジアの構造エンジニアリング」は、アジアの技術援助をテーマに幅広く議論する方針とし、大崎幹事を中心に企画立案。候補者として、魚本健人、和田章、翠川三郎の各氏が挙げられた。

○各界アンケート:布野委員長から、建築界、建築以外の執筆者を織り交ぜて依頼してはどうか、という提案がされた。これに対して、「特集テーマを考えれば、日本・中国・韓国を前面に出したらどうか」という意見が出された。そこで、日本に来ている留学生に、日本の建築について執筆(アンケート?)依頼する方針とした。一人1/2ページで計32人。テーマは「日本建築の将来」。できる限り日本語での執筆とする。

 なお、「アジアのなかの日本建築」を内向きで捉えるのか、外向きで捉えるのか、という全体方針に対する疑問が出されたが、明確な結論までは至らなかった。

●3月号「巨大地震を前にして」について

 福和委員より、執筆候補者には、大会中にかなり承諾を頂いたこと、また先週新しい法律ができたので対応も必要であろう、との説明がされた。4章「防災」のなかの「地震火災」の執筆者は、野口委員に建築研究所のかたを紹介いただくこととした。

●7月号「建築形態の数理」(小特集)について

 大崎幹事より、企画案が提出され、旧企画案の「建築の大スパン」は省いて再構成したこと、高木氏(形の科学会会長)をメインにしたいことなどが説明された。企画案に対して、特集の筋を通すべく大崎幹事が特集内で執筆をしてはどうかとの意見が出された。また、「宇宙構造物の形態」「多面体」の執筆者については、企画主旨との関連で疑義が出され、再検討することとした。

□連載について

  下記の依頼を行うこととした。

表象としての建築:1月号 粉川哲夫氏(批評家)

建築ソフトのフロンティア 1月号 加藤直樹氏(計算幾何学)

○建築のアジア 1月号 山本麻子氏(ヴェトナム)

○建築博物館に期待すること:建築博物館を意識した作品紹介に際し、紹介作品のアンケート結果が事務局から提出された。また、黒野委員より「紹介する作品は、編集委員会の責任で選べば良いのでは。アンケートで挙がった作品から12作品を選んではどうか」との提案がされた。しかしながら、アンケート回答者の少なさが気になるところであった。

 出された意見は下記のとおり。

 ・博物館を意識する以上、12作品だけというのは物足りない。・目配りの効いた執筆者を12人選び、博物館に収めるべき作品を挙げてもらってはどうか。挙げる作品数に制限はつけず、なかでも強調したい作品を大きく扱うやり方もあるのでは。リレー方式というやり方もある。・テーマを「私ならこの作品を選ぶ」としてはどうか。対象となる範囲は明確にする必要があろう。・「建築作品を博物館に収蔵することとは?」というテーマもあるのでは。執筆候補者として、下記が挙げられた・林 昌二氏(建築博物館館長)、鈴木博之氏、八束はじめ氏……。・外国人に執筆いただいてはどうかとの案も出された。

 以上の議論をもとに、黒野委員、青井委員で案を詰めていただくこととした。

 ○地域の目

 1月号 晴永知之氏(鹿児島)→岩下委員打診

     勝部民男氏(岩手) →野口委員打診

 なお、9月号予定の福留脩文氏の原稿について、高知からの報告依頼に対し、挙がってきた内容は群馬のものであったことから、取り扱いを議論した。群馬は既出であるので、10月号予定(島根)を9月号に繰り上げることとした.さらに、福留氏の原稿には宣伝臭もあることから、提案者の新居委員から、書き直しの可能性を打診頂くこととした。

○まちづくりノート:1月号から予定どおり「アジアのまちづくり」編とするのか、質問が出された。

○遺跡漫遊 1月号 青柳正規氏(ポンペイ)

Foreign Eyes 1月号 Nadim Karam(レバノン)

歴史のパラメータ:2月号 岩田 衛氏

□投稿について

1) 環境情報デザインWG主査・渡邊朗子氏より、「技術ノート」の連載企画案が提出された。「技術ノート」は、確定まで至ってはいないものの、来年の予定はほぼ出来上がっているので、次回「建築設計ブリーフ特別研究委員会」「建築システム情報化特別研究委員会」の資料等と比較したうえで、再度検討を行うこととした。

2)南一誠(総務省郵政事業庁)よりの投稿「ライフサイクルコスト調査結果にもとづく公共工事の総合的コスト縮減に関する考察」については、内容が研究・報告的な論文であることから、「論文集」あるいは「技術報告集」への投稿を勧めることとし、『建築雑誌』では採用しないこととした。

□他学会との共同編集について

  事務局から提出された資料をもとに、布野委員長より説明された。

 7/4開催の建設系7学協会会長懇談会において、他学会との機関誌の共同編集が話題になったことから、その可能性について懇談した。意見としては賛否両論あったが、実現の可能性については、布野委員長が検討することとした。

(以上)

 

200287日~19日 オランダ・スペイン・ポルトガル行

200287

昨晩遅く帰京。慌ただしく関西空港を飛び立った。アムステルダム・スキポール空港直航便。デン・ハーグの常宿のパーク・ホテルで荷を解いた。今回の主目的は五年続けた植民都市研究の補足調査が主目的である。まずは近い将来上梓されるべき『オランダ植民都市研究』の前書きを書いた。

 

オランダ植民都市研究:Studies on Dutch Colonial Cities

植民都市の起源・変容・転成・保全に関する研究

Field Research on Origin, Transformation, Alteration and Conservation of Urban Space of Colonial cities

はじめに Preface

 オランダ船リーフデ(Liefde 慈愛)号が豊後の臼杵湾に漂着したのは、1600(慶長5)年419日のことである。関ヶ原の戦いの半年程前のことであった。オランダと日本の歴史的な出会いである。

5隻の船隊がフレイGoeree港を出帆したのは1598627日。船隊はマゼラン海峡経由で東インドを目指した。しかし、1隻は途中で引き返し、1隻はチリでスペイン軍に投降、1隻は太平洋で沈没、さらにモルッカ諸島に辿り着いたもう1隻はポルトガル人に皆殺しにされた。悲惨な航海となった。

唯一日本に到達したリーフデ号とて悲惨さは同じである。上陸したのは総員110名のうちわずか25名、5名は直後に死亡、生存者は船長ヤコブ・ヤンツ・クワケルナークJacob Jansz Quaeckernaeck、操舵手ウイリアム・アダムス(三浦按針、英国人)、書記メルヒオル・ファン・サントフォールトMelchior van Santvoort、ヤン・ヨーステン・ファン・ローデンステインJan Joosten van Lodensteyn20名にすぎなかったのである。

 この20名の命からがら辿り着いたリーフデ号の乗組員たちが徳川家康の庇護を受け、幕府の顧問として、通詞として、また、貿易商人として活躍したことはよく知られる。ヤン・ヨーステンの名は「八重洲」という地名として残っている。日本側に資料は残されていないが、家康は、リーフデ号の武器を使い、オランダ人を砲手として使った。そして、オランダの日本における貿易活動を準備したのはリーフデ号の乗組員たちであった。

クワケルナークが家康から朱印状を与えられ帰国を許されるのはようやく1605年になってからである。彼はパタニのオランダ商館に行き、ロッテルダム出身のいとこ、コルネリウス・マテリーフCornelis Mateliefに会った。歴史の綾とともにオランダ人の世界をまたにかけてのネットワークが既に成立しつつあることがうかがえる。数奇な運命と言うべきか、クワケルナークはジョホール沖でポルトガルと戦闘中に死亡、帰国を果たしていない。

1609年、ローデ・レーウ・メット・ペイレン号とグリフィウーン号の2隻が平戸に入港し、マウリッツ公の書簡が届けられた。リーフデ号の漂着から10年たって、公式の交易関係が樹立されることになった。オランダ東インド会社の会社業務の責任者として日本に残ったジャック・スペックスはヤン・ヨーステンとともに、自らシャムの商館との貿易を展開するために中国のジャンク船を購入して艤装した。また、平戸の密貿易商の頭目であるカピタン・チナ(李旦)とともに中国貿易に従事した。このスペックスが平戸に出入りした12年間にオランダと日本の貿易関係の礎が置かれることになる。

ところがスペックスが去り、後任のレオナルト・カンプスLeonard Campsが着任する頃からその関係は悪化する。1621年の休戦協定が終わり、オランダとスペインとの緊張関係が高まったことが大きい。オランダが台湾に交易拠点としてゼーランディア城を築いたことも幕府を刺激した。そして、キリスト教布教に対する弾圧の流れが決定的となった。 1639年のポルトガル人追放、1641年のオランダ商館の出島移転に至る徳川幕府の海禁政策の結果、いわゆる「鎖国」体制が敷かれるのである。

こうして、オランダは日本にとって唯一世界への窓口となった。

科学技術、医学など、「鎖国」体制においてオランダが日本にもたらしたものは果てしなく大きい。蘭学は日本の近代化を用意したと言っていい。とりわけ強調すべきは、17世紀がオランダの黄金の世紀であったことである。最先端の情報がオランダを通じてもたらされたのである。

 

17世紀は、世界史的にみて「オランダの時代」である。独立国家として呱々の声あげたオランダはたちまち「ヨーロッパ世界経済」の中核となる。I.ウォーラーステインの世界システム論に拠れば、資本主義的世界経済の歴史において最初のヘゲモニー国家となったのがオランダである。ヘゲモニー国家とは、世界市場の最も自由な状態において、最も競争力を持ち、最も利益を享受しうる国家のことである。17世紀になって、生産、流通、金融のそれぞれの次元においてオランダは圧倒的な優位にたった。

 実はリーフデ号の日本漂着以前に日本を訪れたオランダ人がいた。ポルトガル船の砲手としてゴアに滞在していたエンクハイゼン出身のディルク・ヘリッツゾーン・ポンプDirck Gerritsz Pomp15441604)である。1585年にゴアから中国、日本を訪れているのである。この時の経験を買われてポンプもリーフデ号の艦隊に乗り組んでいるが日本には至っていない。このポンプがヤン・ハイヘン・ファン・リンスホーテンJan Huyghen van Linschhoten 1563-1611の盟友であった。そして、波乱に満ちた航海の末ともにゴアからエンクハイゼンに戻っている。

 リンスホーテン、そしてポンプがオランダの海外進出に果たした役割はよく知られていよう。1580年のスペインによるポルトガル併合によって、ポルトガルの港湾から閉め出されて以降、海外拠点を求めてオランダがとった方針は、第一にスペイン・ポルトガル連合王国の勢力の及ばない地点を探すことであった。そして、彼らのようにポルトガルで働くオランダ人船乗りによってまず多くの情報が収集され、オランダにもたらされるのである。二人とも東洋におけるポルトガル植民地についての情報を地図や海図と共に出版している。有名な神学者で地理学者であったペトルス・プランチウスPetrus Plancius (1552-1622)は、ヘラルド・メルカトールGerard Mercatorの弟子であった時代に、スペイン王のための地図製作者であったバルトロメウ・ラソを通じて、西インド、アフリカ、中国についての情報や詳細な海図を密かに手を入れていた。

そして、「遠国会社"Compagnie van Verre"」による1595年の最初の航海が行われた。コルネリス・ド・ハウトマンを艦長とする4隻の艦隊がオランダ独自の東インド航路を開くことになる。そして、1602年にオランダ東インド会社が設立される。それ以前に、こうしたいわゆる先駆諸会社"フォールコンパニーエンvoorcompagnieën"が航海を企て、その経験が連合オランダ東インド会社(VOC Verenigde Oost Indische Compagnie)の活動の基礎になるのである。VOC以前、いわゆる先駆諸会社が派遣した船団は計9回、34隻になる。そのうち帰国できなかったのはリーフデ(Liefde 慈愛)号が参加した船団のみであった。

VOCは1603年にジャワのバンテンに商館を建設し、1605年にマルク諸島のアンボンAmboina、テルナテTernate、ティドーレ Tidoreを押さえる。そして、各地に交易拠点、そして植民都市を建設していくことになる。

本書は、17世紀から18世紀にかけてオランダが世界中で建設した植民都市についての論考を集めたものである。主要な関心はそれぞれの植民都市空間の形成、変容、転成の過程である。オランダ東インド会社、西インド会社による多くの植民都市の中で、出島は唯一の例外であろう。平戸に商館を建設するが、すぐさま解体を命じられている。出島を建設したのは長崎の有力商人達である。オランダ人たちの生活は、江戸参府の機会を除いて、出島の小さな空間に封じ込められるのである。オランダ人にとって出島はいわば監獄のような空間であった。

しかし、一方、オランダ人は広大な世界を支配しつつあった。本書は、オランダ植民都市の空間編成を復元しながら、おそらく当時の日本人が思いもかけなかった17世紀から18世紀にかけての世界の都市のつながりを活き活きと想起してみる、いささか壮大な試みでもある。

 

例によって早起きして、後を書き継いだ。

アムステルダムのタウンハウス(運河住宅)についてかなり写真を撮った。オランダ植民都市の都市住居を比較するためにはその原型を知る必要があるからである。

以下本来の旅行日記が続く。編集長日誌はお休みである。

 

200288

ところが、お休みとはいかない。小野寺さんから、9月号の座談のゲラ(ゲラというのだろうか)が送られてくる。時差ぼけの中で手をいれた。

ロンドンにいるヤンから原稿催促。彼がフランスで出す本に、磯崎新の『空間へ』について簡単な紹介をしろ、ということで前から依頼されていたのだが、「フランス語にするから完全な英語でなくていい」といってくれるけれど、書く時間がない。

Thank you so much for your help...I didn't put any writing of Arata Isozaki in The book, because I think your article will give a good report about him. Thank you so much again.
Please take care. The article don't need to be written in very good English, anyway. I will do my best for the translation in French
best regards
yann

 

こともあろうに、すぐ近くのライデン大学のナス先生からメール。

Dear Dr. Funo,
As you will remember we invited you for the December workshop and asked you
 to deliver a paper on the directors of urban change in Tokyo. You asked for some time to decide, but now we urgently need a decision as we are in need of a paper on Tokyo and have to invite another scholar in case of your
withdrawal. Please be so kind to inform me about your final decision at your
earliest convenience but before the 10th of August, so that we can draw up
 the final program.
Sincerely yours,
Peter Nas

 

これまでにも書いたが、12月のワークショップに参加するかどうか最終決断をしろという。アジアとヨーロッパの巨大都市の比較がテーマで、他に適任者がいると思いながら決断を先延ばししていたのであるが、ビールの勢いもあってやけくそで返事した。11月中旬までに論文を書く必要がある。

 

Toshio OjimaChief Editor, JAABEProfessor and Dean, Waseda Universityより論文採用の知らせ。素直にうれしい。
 We are pleased to inform you that your paper No. 203803 entitled:
"Typology of Kampung Houses and Their Transformation Process- A Study on Urban Tissues of Indonesian Cities," has been accepted for publication in the Journal of Asian Architecture and Building Engineering vol. 1 no. 2  November 2002. Thank you very much for submitting this interesting work to JAABE. The attached files in PDF format are  the referee(s)' report(s) made on your paper. For the preparation of the final manuscript, please look over them and consider the referee(s)' comments and suggestions, and deal with them as you see fit.

 

京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の運営委員長渡辺菊真君よりメール。10月のシンポジウムが迫ってくる。また自由に使える活動拠点を確保しようという話が出ている。

 

運営委員会幹事のみなさん

  次回運営委員会のご案内です。お盆あけの821日です。 

次回までに決めるべきこととしましては拠点場所候補地の決定があります。

この日の拠点候補地が何もあがらない場合は原則として拠点の話はもうなしということになりますのでそれは困るという方は是非、物件を見つけてください。

 あとの議題としては秋季シンポの議題具体化です。京都女子大学の上野さんの活躍で龍池小学校の講堂が使えることになりそうです。あとは企画と展示方式に関してなどの話し合いをしていきましょう。 ではえらく暑くて死にそうですがよろしくお願いいたします。 

渡辺菊眞

 

1月号特集の企画についてメールが飛び交っている。

大崎京都大学の大崎です:ご苦労様です。下記のところですが,丹沢安治先生に数理的なことも書いていただければ,一つにまとめてもいいということだったような気がしますが,確認をお願いします。まずは,脇田先生のお考えが大事かと思います。もちろん,数理関係の執筆者を推薦することは可能です。あるいは,建築でそのよう なことを書いてもらえる人がよろしければ,それも可能だと思います。
 経営モデルとしての正しい設計発注方法(2):プリンシパル・エージェント理論から    丹沢安治(専修大教授)
 数理理論から見た設計入札(2):オークション・ゲーム理論から           

 

伊藤:先日の編集委員会を欠席して、申し訳在りませんでした。協力は十分しますが、小野田さんの書かれた資料提供のイメージがわからないので、教えてください。それから、布野先生:広島県の府中市長が、設計入札について言いたいことがあるようなので、寄稿を希望すれば、書かせてもよろしいですか?

 

脇田:島根女子短大わきたです。先日の委員会、欠席して申し訳ありませんでした。議事録、ならびに田中委員からの状況説明を個別に受けて、改訂案を考えてみました。よろしくお願いします。
 
プリンシパル・エージェント理論はゲーム理論に内包されると考え、プリンシパル・エージェント関係を踏まえたゲーム理論から建築の設計者選定に関して文章を書ける人を大崎先生から推薦していただくのがよいのではないかと思いました。
 
アンケートに関しては、個々の自治体の設計者選定の状況を把握することを目的としたい。アンケートの答えをみて、いくつかの自治体をピックアップし、どういうバランスで設計者選定を行っているのか、その実態が伝わるような記事にできればと思っています。県と町村をはずして、全市693自治体を対象としたアンケートを私の原案とします。
 
座談会をなくして、各団体の提言の欄を設けました。後半2つの扱いは議論の余地アリだと思っています。入札をしない建築家の会は92年の建築雑誌でも取り上げられているので、再録になります。資料整備という点で再録もありかなと思っています。海外の事例は、AIAに原稿依頼して、それのみで終わりにするという案でもあります。
 
最後の実例レポートに関しては、事例と論評は基本的に切り離すという案です。事例を論評するというかたちにすると、必要な情報と個人的な意見がごちゃまぜになってしまい、例えば自治体関係者が実態を知りたい場合などに、わかりにくくなるのではないかと思い、切り離すことにしました。原案は前半12頁が論評、後半6頁が事例という案ですが、上段3分の2が論評、下段3分の1が事例、それが18頁続くといった構成でも良いのではないかと思っています。
 
議論が、行きつ戻りつして、申し訳ありません。よろしくお願いします
1月号特集 公共建築の設計者選定
 
巻頭レポート:設計者選定をめぐる議論と提言・・・16頁
設計入札・設計者選定を考える基本的視点(4) 編集部
アンケート:自治体の設計者選定の実態(4) 編集部
各団体等の提言
 建築学会の取り組み(1) 日本建築学会長 仙田満
 AIAの取り組み(1) 発注担当小野田
 JIAの取り組み(2) 建設産業基本問題委員会設計入札問題WG
 国土交通省の取り組み(2) 営繕課長
 入札をしない建築家の会(1) ?
 設計入札はよくないと考える市民の会(1) 東孝光
 
設計者選定システムの理論・・・6頁
 
良い建築をつくるシステムとして(2) 古谷誠章or古阪秀三
 
公共財としての価値を保つためのデザイナー選定(2) 佐々木雅幸
 
ゲーム理論からみた設計者選定(2) 大崎委員推薦
 
計画プロセスのマネージメントと設計者選定方式の今後・・・18頁
 資質評価方式の課題と展望(2) 松原忠策(JIA関東甲信越支部長)
 コミッショナーシステムの今後(2) 磯崎新
 自治体職員による設計者選定システム改善の動き(2) pmf
 透明性を高めるための試み(2) ?
 地域の建築家による良質な公共建築の計画へむけて(2) ?
 計画プロセスへの市民参加(2) 延藤安弘
公共建築の計画プロセス事例(6) 編集部
 横須賀市美術館(QBS)、熊本アートポリス作品(コミッショナーシステム)、
広島西消防署?(コミッショナーシステム)、岡山CTO作品(コミッショナーシステム)、中里村新庁舎(公開)、富弘美術館(市民発意)、智頭町総合医療・福祉・
保健センター(参加のシステム)、斐川町立図書館(透明性)、邑楽町役場庁舎(参
加)、博多の町民センター(参加)他

 

200289

1月号についての議論は続く。時差のせいで僕の応答はいささかずれる。

小野田:小野田です:前回はちゃんと詰め切れなくてごめんなさい。脇田さんの案、大筋はいいんじゃないでしょうかね。若干意見として
 特集のトーンについてですが印象としてJIAとかの言ってることは内輪的で外向きの説得力が弱いと思ったので(この前のシンポも聞いていて頭がいたくなってしまった)そのあたりは全部、この前脇田メモを膨らまして第三者的に整理して扱うのが面白くていいかなと思ってました。会議でもそういうスタンスについては共感を受けたように思います。
そういう意味もあって、社会資本の経営者的視点を入れたかったので佐々木+丹治を入れました。丹治さんとは面識はありませんが訳されたプリンシパル・エージェントの本が結構面白かったので経済活動を行う組織論から、この問題が解けそうだなと感じた次第です。そういうアイデアがゲーム理論でより発展的に書けるのであれば、それでいいでしょう。
でも、乾いた論文が続いて、とても設計入札の特集とは思えないつっこんだ編集も個人的には好きです。
 
アンケート
 アンケートって国でもうなんかやってるんじゃないのという話があって伊藤さんに確認ということになったように思いますがやり切れるのであれば、提案の通りで良いと思います。
 
海外
 海外の扱いは、枠だけ切っておいて、ダニエルさんの内偵結果を待っても良いのではちなみにUCLAのワインスタイン教授(MOMA空中権譲渡の仕掛け人、設計者選定に多数)にこの前あったときにこの件について意見を聞いたらアメリカは色々だからなあ、俺はあんまり書きたくないなあ、AIAに聞くのもあるけ
....という感じで否定とも肯定ともつかない答えでした。だったので瀬口さんに代弁してもらおうというのが前回の意図です。
 
論評については
委員会に出した案に少し戻ったような...もうちょっと明確な仕切が必要かもしれません。資質評価方式の...(2) 松原さんも良いけど担当の高田課長はこれ以外に色々やってるしQBSにかかるロードとかにも詳しいですよ
 
コミッショナーシステム...(2) くまもとは磯崎さんのあとを継いだ高橋、伊東コミッショナーがコミッショナーシステムを発展的に継続されてます
 
自治体職員による設計者選定システム改善の動き(2) pmf
 
計画プロセスへの市民参加(2) 延藤安弘
 伊藤さんから広島県の府中市長の推薦もありますがどうします個人的には重要なのにも関わらずうさんくさい学校設計者選定 長沢悟 は入れて欲しいです。
 透明性を高めるための試み(2)?地域の建築家による良質な公共建築の計画へむけて(2) ?  これらは?? 
 
事例:ロードが大きすぎるので事例は1頁、2件程度にして取材は軽めにするの案には賛成です。布野さんは各大学にお願いした徹底取材が面白いとおっしゃってましたが....。住民投票の安木町とか入れなくてイイですか?

大崎:京都大学の大崎です。第一候補として,京都大学経済研究所の岡田章教授を推薦したいと思います。面識はないですが,紹介はしてもらえます。もちろん断わられる可能性も高く,他の人を推薦される可能性もありますが,いかがでしょうか。ホームページは下記のとおりです。また,プリンシパル・エージェント理論について詳しいかどうかは良くわかりません。「設計入札」の本質的問題について情報提供は必要だと思います。ご検討ください。

伊藤:建築センターの伊藤です。 自治体へのアンケートの件の趣旨は理解しました。前例があれば調べるということですね。やってみます。実績がわかれば参考になるかと思います。 でも、せっかく学会がやるのだから、国交省または公共建築協会が行うのとは違うことがわかるといいですね。
 以下老婆心ながら
 まず、人口、予算規模、営繕予算、年間発注件数、自治体内建築関係組織、建築職員数等 書かせること。国がやる場合、だいたいのところを知っていてアンケートを行うので、きかないことも多いが、これがないと分析できない。アンケートに誰が答えるのか、念頭に置くこと。首長を指名しても、よっぽど奇特でない限り自分ではやらない。営繕担当課長くらいが妥当か。記述式は、書いてもらえないと思った方がいい。多少乱暴でも選択肢をつくって、をしてもらう方が傾向が表れる。要するに、何がわかりたくてアンケートをするのか、はっきりさせること。編集委員会、欠席したのがいけないのですが、メールされてくる資料では、何を浮き彫りにしたいからアンケートをするのか、わからないのです。
 よろしく。それから、私が情報をもたらした安来市の件は、忘れていただいて結構です。島根の案件なので、布野先生がご存じかな、と思っただけですから。

脇田:わきたです。逐一コメントします。読みづらいと思いますが、よろしくお願いします。
> ●
特集のトーンについてですが
>
印象としてJIAとかの言ってることは内輪的で外向きの説得力が弱いと・・・
 それなら、それでOKだと思います。>
> ●
アンケート
>
アンケートって国でもうなんかやってるんじゃないのという話があって・・ 個々の自治体の設計者選定の実態(例えば、コンペはビッグプロジェクトのみで、何千万以上はプロポーザルで内部審査、何千万以下は入札)が、浮かび上がればいいと思いますが、そういう情報が、過去の建設省の調査データから引き出せるのかは伊藤さんの調査を待つしかない、と思います。ちなみに官公庁施設の設計業務委託方式の実態調査の報告が建設大臣官房官庁営繕部建築課より雑誌「公共建築」の142号(1994.10)と152号(1997.4)に掲載されています。各自治体の採用している設計者選定方式にかんする調査ですが全体の状況しかわかりません。
> ●
海外の扱いは、枠だけ切っておいて、ダニエルさんの内偵結果・・・・
 アメリカ、イギリス、フランスというように、個々の国に2ページずつ割くといった扱い方はしないということが前提で、日本が特殊であるということを示すことができればよく、そのために2ページ程度割く、というイメージです。ダニエルさんの内偵結果を待ちます。
> ●
論評については
>
委員会に出した案に少し戻ったような・・・

高田さんでもよいです。
> ○
コミッショナーシステム...(2
 現在現場に関わってないことで、客観的記述が可能になるのでは、と思いました。
>
 伊藤さんから広島県の府中市長の推薦もありますがどうします
 自治体アンケートと絡めて、最初の部分で扱えればと思っています。コラム的扱いか、実態の紹介として取り上げるいくつかの自治体の一つとして扱うか。
>
 個人的には重要なのにも関わらずうさんくさい学校設計者選定・・
 教育委員会が聖域化しているので、建築課が変わっていったとしても、最後まで教育委員会が変わらず残ってしまうのではということで学校設計者選定を取り扱うと認識していますが、自治体内部の部署との関係で設計者選定を読み解くというフレームを用意すればいいのではないかと思いました。
しかしこれは自治体職員による設計者選定システム改善の動き(2) pmf
の中で指摘してもらうか、巻頭のレポートの部分で記述すればよいのでは、と思い削除しました。
>
透明性を高めるための試み(2)

透明性を高めるための試みは、中里村新庁舎を念頭におきながら、提案したテーマです。中川武先生にお願いしてはとも思いましたが、この部分の原稿は個別の事例に対しての論説をイメージしていないので、思いとどまった次第です。様々な事例も挙げていただきながら、透明性を高めるための試みについて広く論評して頂ける方がよいと思います。
>
地域の建築家による良質な公共建築の計画へむけて(2) ?

タウンアーキテクトが、自分の生活する地域の公共建築に対して責任を持てる環境を作り出すためには、タウンアーキテクトに、設計者選定のレベルで、仕事を出すしくみが必要なのですが、現状では必ずしもうまくいってません。そこらへんのバックボーンを押さえておく必要があると思いテーマとして挙げました。
> ●
事例> ロードが大きすぎるので事例は1頁、2件程度にして・・・
 事例は、こちらでフォーマットを決めて、データとしてまとめるというイメージです。名称、機能、規模、設計者選定のスケジュール、設計者選定の形式、委員会構成、設計者写真、コメント(100200字)1頁3~4件でもいいかもしれません。例えば、過去3年間(5年間)に「新建築」に掲載されたコンペから、
特徴的だと思われるコンペを選定して、まとめるという作業で、どこか1つの研究室に発注すればよいのでは?早稲田?京大?東北大?

 
追伸:伊藤です。脇田先生のメールを拝見しました。自治体へのアンケートについて都道府県を除いたら、多分、金額ごとにきちんとコンペやプロポーザルが行われているのは政令市ほか、大きな市だけだと思います。ですから国の全公共団体相手のアンケート結果で、それをつかむのは困難でしょう。小さい市町村なんて、多分、首長の思いつきですよ。ですから結果について再集計しなければならないでしょうが、それをさせてもらえるとは思いません。もし、アンケートの目的がそれであるなら、県庁所在市のみを対象に、少し丁寧なアンケートを行ってはどうですか?あるいは、アンケート表を作成し、各支部の方にヒアリングに行っていただいてもいいでしょう。
>
住民投票の安木町とか入れなくてイイですか?
 先日簡単にレポートしたように、どちらかというと悪い例なので、取り扱いにくいと思い、はずしました。

 

2002810

誕生日である。何歳かはもう言いたくない歳になった。このところ誕生日に日本にいたためしがない。家族から「おめでとう」のメール。

小野寺さんから、トラブル発生のメール。新居さんが最終段階でさらにレイアウトに凝りだし、鈴木さんと若干衝突したらしい。締め切りすぎているから慌てる。最終的には鈴木さんの判断を優先してください、と小野寺さんにメール。

バルセロナに移った。海洋博物館の質が高いのにびっくり。コロンブスの時代を活き活きと展示している。バルセロナで原稿一本書いた。

 

二一世紀のユートピア・・・都市再生という課題⑩ バルセロナ

都市再生とは何か。何を再生するのか。都市再生デザインの行方を探る

 

ガウディの生き続ける街

地下に眠るローマの都市遺構

ウォーターフロント・バルセロネータの再開発

バルセロナ:

布野修司 

 

バルセロナと言えばガウディである。今年はガウディ生誕150周年、ガウディ年ということで、とりわけ街はガウディ一色の感があった。グエル公園のガウディ博物館のみならず、バルセロナ市歴史博物館、カサ・ミラなど至る所でガウディ展が開かれているのである。バルセロナは三度目、前回訪れたのはフェリペⅡ世生誕四〇〇年の一九九八年だが、四年経ってサグラダ・ファミリアは随分と工事が進んだ。グエル邸もカサ・ミラも世界遺産に登録されて随分と整備が行われた。ふたつとも初めて内部を見ることができたけれど、やはりガウディはただものではない、と思う。

ところで、着工後100年を超えて猶未完であるサグラダ・ファミリアのようなシンボルを持ち、カテドラルや王の広場の地下にはローマ時代の都市核遺構を埋蔵するバルセロナのような都市において、再開発はどのように考えられるであろうか。どこかに再開発プロジェクトはないかと探していて、たまたま『バルセロナ・プラス』(二〇〇二年夏 No.22)という雑誌の中に「ラ・バルセロネータ:海の見える地区」という小さな記事を見つけた。一九九二年のバルセロナ・オリンピックを機にウォーター・フロントの再開発が開始され、様々な施設の建ち並ぶ海岸線が甦ったという。確かに、新しいガイドブックを覗くと、ニュー・スポットとしてウォーター・フロントが紹介されている。

早速、「コロンブスの塔」辺りから歩いた。まず、14世紀の王立造船所を改造してつくられた海洋博物館の規模と展示の質の高さに舌を巻いた。バルセロナは海に開かれた街であったのだと今更のように思う。モンジュイックの丘から海を望むとコンテナヤードが延々と広がっている。ウォーター・フロントは、濃密な中世のゴシック・クオーター、また、セルダが計画した整然としたグリッドの新市街とはまた別のバルセロナの顔だ。

バルセロネータを地図で見ると、平行に建物が並んで、まさにコンテナヤード、あるいは貨物車の引込線のようだ。記事(無署名)によるとバルセロネータは市壁外に出来た最初の街区だという。一四七七年に始まる港の建設とともに宅地が築かれてきたが、スペイン継承戦争の際の都市陥落に伴い、フェリペⅤ世によって中心街から移住させられた人々が住みついたのが地区の始まりである。一八世紀前半、一五列の住居列を直行する三本の通りが分割する、味気ない地区設計に当たったのは軍事技師フアン・マーチン・セルメーニョと建築家フランシスコ・パレデスである。

最初の一家族用住居は八.四メートル四方の敷地に二階建てであった。現在もいくつか残っているというが確認はできなかった。しかし、人口増加に伴い、敷地は二分割され、さらに二分割された。それぞれ半分住宅(カサ・デ・メディオ)、四分の一住宅(クアルト・デ・カサ)と呼ばれた。一八三八年に高さ制限が取り払われ、五階建てまで可能となる。かくして建詰まった地区は極く最近まで通風や日照など居住環境の悪化に悩んできたのであった。

二世紀以上の歴史を持つこのバルセロネータは大きくその姿を変えつつあった。かつては漁業や手工業が中心の地区であったというけれど、マリーン・スポーツやレクレーションのための施設が増えつつある。また、今のところパセイグ・ホアン・デ・ボルボとパセイグ・マリティンの二つのプロムナードが中心であるが、シーフード・レストランが数多く建並び多くのツーリストを引きつけている。尤も、変貌は海岸線沿いの一皮のみで、地区の居住環境改善の課題は残されている。しかし、海との関係をツーリズムとリンクさせて確実に回復展開させるプログラムがバルセロネータにはあった。

 

2002812

バルセロナ。小野寺さんからメール。8月号がようやく目途が立ったとのことまずは一安心である。しかし、いささか心外な別件のメール転送。送信者は“夢-幻想”とおっしゃる。

別件。下記のメールが届きました。商売しているわけではないので、そこまで言われる筋合いはないと思いますが、お伝えだけしておきます。
「先日の全国大会のPDのようにいろいろな論争がある中……」の論争内容は、私には分かりません。


----- Original Message -----
送信者 : "夢-幻想"
宛先 : <info@aij.or.jp>
送信日時 : 2002 8 12 月曜日 午前 11:46
件名 : 編集長日誌に関して
>
いつも貴会のHPを利用させていただいております。
>
時間があれば,編集長日誌を読ませていただき,ご苦労ぶりを心密かに楽しんでおりますが, 今回ばかりは納得できません。
>
京都げのむ第2 号ついに発刊!!! 定価 800 円(創刊号より2 割値下げ)
>
に続く記事です。
>
おそらくこの編集長日誌は,編集委員長が何を書いても良いことになっているのでしょうが,
>
営利を目的にしていないとはいえ,一部の人の利益につながる大宣伝です。
>
これだけは,どうしても納得できません。
>
学会には,いろいろな方がおられますが,基本姿勢は,個人や特定の団体の営利につながることは避ける,という点では一致していると思っていました。
>
どんなに自由が認められていても,やはり限度があるのではないでしょうか。
>
編集長日誌にファンとして,とても悲しく思いました。>
>
先日の全国大会のPDのようにいろいろな論争がある中,これをやってしまっては, 「やはり意匠・デザイン系の人の利益につながる雑誌編集の姿勢であったのか」
>
と,今まで弁護側にいた私でさえ考えさせられました。>
>
このHPに対して責任のある方の,迅速なる対応を願います。

 

編集長としてここでお答えしたい。

京都CDLが営利団体かどうか、この編集長日誌を当初からお読みになって判断していただければと思います。この運動については、編集長日誌の冒頭から折りに触れて書いてきております。ファンとして読んできていただいたのであれば、理解していただけると確信します。また、『京都げのむ』については是非手にとって読んだ上で御批評いただきたいと思います。住所氏名をお知らせいただければ無料で送付させて頂きます。

京都の景観問題については特別研究委員会が報告書をまとめ、パンフがつくられています。7月号にその内容は掲載いたしました。京都CDLは、その方針に従った活動であると考えております。

「全国大会のPDのようにいろいろな論争」とは何か、ご説明下さい。「やはり意匠・デザイン系の人の利益につながる雑誌編集の姿勢であったのか」とおっしゃる意味が理解できません。「デザイン系の人の利益」とは何かさらに説明下さい。                             布野修司

 

2002814

マドリード。8月号がぎりぎりまで悪戦苦闘である。用語解説を書きすぎて削らないといけない。山根先生が最後まで大奮闘である。

 

学会の鎌田さんから設計競技「外国人と暮らすまち」の講評依頼。僕の担当は一人で200字だから、即書いた。大阪の寄せ場周辺をテーマにした案だった。最後まで推したけれど優秀案とはならなかった。

 

佳 作

正会員

尾野 友美

関西大学大学院

寄せ場周辺を対象地域として選んだのはこの作品だけであった。今回の課題は、基本的には、「外国人」に対するサービスの体系を問うものであり、寄せ場に着目するのは慧眼である。ふらっと訪れてもその日から暮らせるその体系が街に存在しているからである。それを指摘する街の特性についての分析の眼に大いなる共感を覚えた。しかし、新たな提案がリサイクルショップだけとなるといささか弱い。「建築(空間)」として何が提案できるのかという試行が欲しかった。

 

ライデン大学のナス先生からメール。今度出版する本の最終段階で図面を直せという。

Dear Dr Funo,
Reading the manuscript another time I saw that in the picture on the
constellation of karang it is written karan. Obviously the g is lacking.
Another problem is with the picture on karang, pura and villages in
Cakranerara. In this picture it is written three time karangs with s while
in the whole book it is just karang. Please could you be so kind to send me
corrected pictures at your earliest convenience.
Peter Nas

 旅行中だから帰ってからでいいかと書いたらThat is OK. Peter Nasと返事が来た。

 

小野寺さんからメール:

布野先生:今度はヨーロッパですね。お疲れさまです。北沢先生に進めて頂いている11月号磯崎・伊藤対談は、8月28日(水)16:0018:00、於:学会、で実現できそうです。磯崎先生はOK。伊藤先生に今晩確認できれば確定です。よろしくお願いします。建築学会 小野寺

 

京都大学の大崎です。
ゲーム理論についてですが,岡田先生は入札の専門家でないということで,東京都立大の渡辺先生に書いていただくことにしました。渡辺先生は,私の手元にある「ゲーム理論で解く」という本の「「オークションをゲーム理論で解く」という章を書いておられる先生で,最適任者だと思います。
渡辺先生からのメールを下記のとおりお送りします。ところで,「設計入札」の特徴,特集の趣旨,読者が期待していること,などについて教えてほしいということですので,脇田先生,小野田先生,田中先生から,情報を提供していただけないでしょうか。

 

  常置欄、建築博物館が気になり、黒野、青井両委員にメールを送った。新しい常置欄はここだけで、もう発注しなければならない。仙田会長から「作品レビュー」的なものを!というアイディアをもらっていたけれど、「博物館」で通した方がいい、という判断に編集委員会は傾いた。

 

2002816

マドリード。

黒野委員からすぐ返事。

建築博物館の企画案をお送り下さり、ありがとうございます。いつもお手数をおかけし、すみません。案をつくり次第、布野先生と青井先生にお送りします。

続いて案が来る。
 布野先生の案をもとに私案をつくってみました。 前回アンケートを反映してあります。 ご意見いただければ幸いです。
 「建築博物館がほしい」作品レビュー
・建築博物館に収めるべき作品を挙げ、活動についてのイメージを書いていただき、本人の関わった作品一つについて、図面資料を沿えて紹介していただく。
・全12
1920年代世代
 1.林昌二(「パレスサイドビル」か「私たちの家(自邸)」)
 2.磯崎新(「水戸芸術館」か「北九州市立中央図書館」)
 3.槇文彦(「代官山集合住宅」か「スパイラル」)
 4.菊竹清訓(「スカイハウス」)
 5.篠原一男(「白の家」)
1930年代世代
 6.原広司(「原邸」)
 7.高橋鷹志(「管の家」か池辺陽「立体最小限住居No.3」)
 8.宮内嘉久
1940年代世代
 9.藤森照信(「ニラハウス」か「タンポポハウス」)
 10.安藤忠雄(「住吉の長屋」か「タイムズ」)
 11.伊東豊雄(「中野本町の家」か「シルバーハット」)
 12.松山巌
 主旨
 自由に列挙していただいた場合、重複があったり、マイナーなものばかりになったり、連載としての一貫性が失われる危険性が高いと思います。とくに建築家や高名な評論家の場合には、そうなりがちと思います。そこで、あえて、「本人の関わった作品一つについて、図面資料を沿えて紹介してください」と加えました。
 歴史的にも意味のある資料となると思います。 1960年代以降の世代は、またの機会にしてもよいのではないかと思います。
 問題点
 依頼の難しそうな人が並んでいる。とくに2.磯崎新3.槇文彦4.菊竹清訓5.篠原一男10.安藤忠雄の各氏には、お願いできるものなのかどうか。検討の余地ありと思います。 この人選は、出身大学に偏りがあります。それは問題と思っています。なお、1910年代世代として、丹下健三「国立代々木屋内総合競技場」もありうると思います。建築家の自邸という路線もあろうかと思います。広瀬謙二「SH1」、東孝光「塔の家」など。

 

小野寺さんから応答:

黒野先生:早速にありがとうございます。あえて自作に拘った案、面白く拝見しました。が、実際書けるでしょうか?? あるいは書く気になるのかどうかが、私には分かりません。建築家の先生方なら書くのかもしれませんが……実現できれば面白いと思いました。
・当初は「作品レビュー」的なイメージでした。自作ですと、「レビュー」とはニュアンスが異なりますね。
・自作となると、存命のかたの作品しか取り上げられないことになりますね。
・松山さんは、「地図を描く」にすべての思いを込めたいとおっしゃっていましたので、外したほうが良いと思います。宜しくをお願いいたします。建築学会 小野寺

 

青井委員からの応答:

黒野先生
今日から台湾に来ております(9月5日帰国予定)。メールはいつものアドレスでやりとり可ですので、よろしくお願いします。この連載のねらいとしては……具体的な収蔵作品を想定しつつ、「建築博物館」の像を出してもらう、そうすれば僕らや読者の建築博物館イメージが具体的になり、あるいは柔軟になり、広く議論がしやすくなる、雑誌としてはそういうことを考えればよいのではないかと思います。とすれば、とりあげられる作品には偏りや重複があってもよいのではないか。また、自分の作品を収蔵する前提で建築博物館に期待することを書く、というのはちょっと書きづらいというか、成立しないのではないでしょうか。そうすると、近代建築「名品12」みたいな感じになるのではなく、極端にいえば建築博物館のイメージを喚起するような作品をどう選ぶか、それが執筆者に問われるような連載になればよいのでは。それに堪えられる目を持っている人を、色々な目が出揃うように、12人選べばよいのではないでしょうか。近日中に案出します。

 

10月号の原稿が入り出している。

 

2002817

 リスボン:

黒野委員からの応答:

建築学会 小野寺様CC: 布野先生、青井先生
 早速ご返事ありがとうございます。いかに私案に無理があるかよくわかりました。とはいえ、編集委員会として、さらに案を出して、共通認識を得て行かなくては、とうてい進まないと痛感します。その意味で、ご意見ありがたく思います。>・が、実際書けるでしょうか?? 
 たしかに私が挙げたビッグネームは、書いてくださるかどうか、たいへん心許なく思います。林昌二氏は、館長さんだから書いてくださるでしょうけれど。現実的な人選を再検討したいと思います。
>
・当初は「作品レビュー」的なイメージでした。
 とりあげる意図をはっきりさせたいと思い、設計者にしました。意図がはっきりしたレビューであれば、かまいません。編集の一貫性があれば。
>
・自作となると、存命のかたの作品しか取り上げられないことになりますね。
 今しかできないデータを集めることが重要と判断しました。これもあまりこだわっていません。
>
・松山さんは、「地図を描く」にすべての思いを込めたいとおっしゃっていましたので、外したほうが良いと思います。
 はい。そうします。単なる評論家ではなく、実作のある方にお願いしたいと思い、松山氏のお名前を挙げました。

黒野委員

青井先生
CC:
布野先生、小野寺様、片寄様
 海外ご出張中にお邪魔してすみません。早速のお返事をありがとうございます。編集委員会として、さらに案を出して、共通認識を得て行かなくては、とうてい無理と痛感しています。ご質問にお答えします。
>
この連載のねらいとしては……
具体的な収蔵作品を想定しつつ、「建築博物館」の像を出してもらう、
 はい。おっしゃるとおりと思います。この12回にわたり、中原まりさんが担当されている連載では、海外の事例を通じて、きわめて具体的に、「建築博物館」像を提出しておられます。これからの12回は、それとは、ちがった出し方でなくてはいけないと感じています。
>
とすれば、とりあげられる作品には偏りや重複があってもよいのではないか。
 偏りはともかく、重複は避けたいと思います。編集委員会が機能していないことになるからです。編集意図を明確に示して、それに沿った方針で書いていただける人でなくては、と思います。
>
また、自分の作品を収蔵する前提で建築博物館に期待することを書く、
>
というのはちょっと書きづらいというか、成立しないのではないでしょうか。
 はい。ですので、編集委員会の方で、その人に紹介してもらう作品をあらかじめお伝えしたいと思いました。フリーハンドでは、先方も何を書いたらいいかわからないでしょうし、思いつきのようなことを書かれても、困るのではないかと思います。
>
それが執筆者に問われるような連載になればよいのでは。
 執筆者に問いかけられる依頼が大切と言うことですね。
>
それに堪えられる目を持っている人を、色々な目が出揃うように、
>
12人選べばよいのではないでしょうか。
 12回の連載全体を通して、一つの主張が感じられることが大切と思います。中原さんの連載のように。
 とここまでお答えして、やはり、私が挙げたビッグネームばかりというのは、無理があると思います。
 林昌二氏は、館長さんだから書いてくださると思います。現実的な人選を再検討したいと思います。
 また、修正案をご連絡します。よろしくお願いします。
 

 

2002819

 台風が心配だったけれど、朝早くほぼ予定通り成田に着く。お盆明けで、関空着の飛行機がとれなかった。新幹線で京都へ。さすがに疲れる。

 

2002820日~25日 岐阜県加子母村、木匠塾参加。

 木匠塾の設立は1991年である。その年に書いた文章がある。

  

飛騨高山木匠塾(仮)構想                  布野修司

 今年の一月末、ある秘かで微かな夢を抱いて、飛騨の高山へ向かった。藤澤好一、安藤正雄の両先生と僕の三人だ。新幹線で名古屋へ、高山線に乗り換えて、高山のひとつ手前の久々野で降りた。道中、例によって賑やかである。ささやかな夢をめぐって期待と懐疑が相半ばする議論が続いた。

 久々野駅で出迎えてくれたのは、上河(久々野営林署)、桜野(高山市)の両氏。飛騨は厳しい寒さの真只中にあった。暖冬の東京からでいささか虚をつかれたのであるが、高山は今年は例年にない大雪だった。久々野の営林署でその概要を聞く。久々野営林署は八〇周年を迎えたばかりであった。上河さんに頂いた、久々野営林署八〇周年記念誌『くぐの 地域と共にあゆんで』(編集 久々野営林署 高山市西之一色町三ー七四七ー三)を読むとその八〇年の歴史をうかがうことができる。また、未来へむけての課題をうかがうことができる。「飛騨の匠はよみがえるか」、「森林の正しい取り扱い方の確立を」、「木を上手に使って緑の再生を」、「久々野営林署の未来を語る」といった記事がそうだ。

 木の文化、森の文化を如何に維持再生するのか。一月の高山行は、大きくはそうした課題に結びつく筈の、ひとつのプログラムを検討するためであった。もったいぶる必要はない。ストレートにはこうだ。上河さんから、使わなくなった製品事業所を払い下げるから、セミナーハウスとして買わないか、どうせなら「木」のことを学ぶ場所になるといいんだけど、という話が藤澤先生にあった。昨年来、しばらく、その情報は、生産組織研究会(今年から10大学に膨れあがった)の酒の肴となった。金額は、七〇〇万円、一五〇坪。いくつかの大学か集まれば、無理な数字ではない。とにかく行ってみてこよう、というのが一月末の高山行だったのである。

 雪の道は遠かった。寒かった。長靴にはきかえて、登山のような雪中行軍であった。中途で道路が工事中だったのである。野麦峠に近い、抜群のロケーションにその山小屋はあった。印象はそう悪くない。当りを真っ白な雪が覆い隠している中でひときわ輝いているように見えた。

 それから、三ケ月、どう具体化するか、折りにふれて議論してきた。しかし、素人の悲しさ、議論してもなかなか具体的な方策が浮かばない。そのうちに、とにかく、わが「日本住宅木材技術センター」の下川理事長に話しをしてみろ、ということになった。頼みの藤澤、安藤の両先生は、ユーゴでの国際会議で出張中。塾長をお願いすることになっている東洋大学の太田邦夫先生と以下の趣旨文を携えて下川理事長にお会いすることになった。

 「主旨はわかります。しかし、どうして大学で「木」のことを教えることができないんですか」

 いきなりのメガトン級の質問に、太田先生と二人でしどろもどろに答える。

 「五億円集めて下さい。維持費が問題なんです。」

 絶句である。七〇〇万円のつもりが五億円である。言われてみれば当然のことである。どうも、いいかげんなのが玉に傷である。あとのことは、払い下げてもらってから考えればいい、なんて気楽に考えていたのだ。プログラムは、立派なつもりなのだけど、どうにもお金のことには弱いし縁もない。

 その後、建設省と農水省にも太田先生と行くことになった。生まれて初めての陳情である。しかし、陳情だろうと思いながら何を頼んでいいのかわからないのだから随分頼りない。

 しかし、乗りかかった船というか、言い出してしまったプログラムである。とにかく、賛同者を募ろう、というので、五月の連休あけに山小屋をまた見に行こうということになった。新緑の状況もみてみたかったのである。

 メンバーは、当初、太田邦夫、古川修(工学院大学)、大野勝彦(大野建築アトリエ)の各先生と藤澤、布野の五人の予定であったのだが、望外に、下川理事長が忙しいスケジュールを開けて下さった。全建連の吉沢建さんがエスコート役である。総勢七人+上河、桜野の九人。大いに構想は盛り上がることとなった。冬には行けなかったのであるが、新緑の野麦峠はさわやかであった。 さて、(仮称)飛騨高山木匠塾のプログラムはどう進んで行くのか。その都度報告することになろう。以下に、その構想の藤澤メモを記す。ご意見をお寄せ頂ければと思う。

 

飛騨高山木匠塾構想

テキスト ボックス: 千葉大学作品設立の趣旨:わが国の山林と樹木の維持保全と利用のあり方を学ぶ塾を設立する。生産と消費のシステムがバランス良くつりあい、更新のサイクルが持続されることによって山林の環境をはじめ、地域の生活・経済・文化に豊かさをもたらすシステムの再構築を目指す。

テキスト ボックス: 京都造形大学 2000年度作品設立の場所:岐阜県久々野営林署内・旧野麦製品事業所ならびに同従業員寄宿舎(この建物は、昭和四六年に新築された木造二棟で床面積約四八三㎡。林野合理化事業のため平成元年末に閉鎖され、再利用計画が検討されている。利用目的が適切であれば、借地権つき建物価格七〇〇万円程度で払い下げられる可能性がある)

設立よびかけ人: メンバーが建物購入基金を集めるとともに運営に参加する。また、塾は、しかるべき公的団体(日本住宅・木材技術センターなど)へ移管し、管理を委譲する。

学習の方法: 設立に参加した研究者・ゼミ学生と飛騨地域の工業高校生が棟梁をはじめ実務家から木に関するざまざまな知識と技能を学ぶ。基本的には参加希望者に対してオープンであり、海外との交流も深める。

テキスト ボックス: 京都造形大学 2002年度作品 ここでの学習成果は、象徴的な建造物の設計・政策活動に反映させ、長期間にわたり継続させる。例えば、営林署管内の樹木の提供を受け、それの極限の用美として「高山祭り」の屋台を参考に、新しい時代の屋台の設計・製作活動を行うことも考えられる。製作に参加した塾生たちが集い、製作中の屋台曳行を行うなど毎年の定例的な行事とすることも考えられる。また、地元・高根村との協力関係による「施設管理業務委託」やさまざまな「地域おこし」も可能である。

 その後、紆余曲折があって、加子母村に移ることことになった。

テキスト ボックス: 芝浦工業大学作品 その頃の報告(1995年)は以下のようだ。

 第五回インターユニヴァーシティー・サマースクール:かしも木匠塾開塾              布野修司

テキスト ボックス: 芝浦工業大学作品 木匠塾の第五回インターユニヴァーシティー・サマースクールは、七月三一日~八月九日の間、岐阜県の高根村および加子母村の二ケ所で行われた。参加団体は、千葉大学、芝浦工業大学、東洋大学、そして茨城ハウジングアカデミーの関東勢に、京都造形大学、成安造形大学、大阪芸術大学、大阪工業技術専門学校、京都大学、奈良女子大学の関西勢を加えて一〇にのぼる。参加者数は、最大集結時で一三六名、延べ人数は優に一五〇名を超え、二〇〇に届かんとした。今年も大盛況、大成功であった。

 しかし、問題が無くもない。こうまで大勢になると施設の限界がはっきりしてくる。また、運営が難しくなる。食事の準備だけでも大事業である。会計だって大変である。かなりの金額を扱うことになる。

 人数が多いとグループ単位で行動することになる。今回から、朝食については、地元の商店の協力を得て、各グループ毎に食材を調達し、作ることにした。昼食は弁当とし、夕食は当番制である。見ていると、なかなか面白い。実に統率のとれたグループもあれば、てんでばらばらのグループもある。幹事役は大変である。各グループから幹事を出して幹事会を構成し、全体を運営する。木匠塾の目的は、自然に恵まれた環境の中で生活をしながら、木について学ぶことにあるのであるが、第一の意義は、集団で生活し、集団で交流するところにある。集団生活のルールを学ぶことも大切である。

テキスト ボックス: 京都大学2000年作品 施設については、宿泊スペースが足りない。余裕をもって宿泊するにはせいぜい数十人がいいところであろう。寝袋や車の中や、実習でつくった仮設小屋の中で寝ることになる。それはそれで楽しいらしいのであるが、明け方は相当冷えるから風邪をひいたりする。最も問題なのは風呂である。車で二〇分のところにある旅館、あるいは露天風呂を使わせて頂いているのであるが、大勢で迷惑かけ放しである。時間を決めてグループ毎に利用するのであるが、ルール破りが出てくる。続いて報告するように千葉大学が昨年からシャワールームをつくったのであるが、水が冷たすぎて利用者が少ない。何日か風呂を我慢することも必要になるのであるが、最近の若い学生たちは綺麗好きで、毎日シャワー浴びないとたまらないらしい。

 お酒を飲み、開放的にもなると、いろいろトラブルもおこる・・・等々、山の一〇日間の生活はなかなか大変である。

テキスト ボックス: 京都大学2001年作品 ところで、今年のプログラムを見てみよう。

 まず、特筆すべきは東洋大学のゲル(包・パオ)のプロジェクトである。正確にゲルの構造をしているわけではないのであるが、ゲルの形態を模した仮設の移動シェルターを建設するのが今年の東洋大学の実習内容である。高根村から加子母村に移動するのがヒントになったらしい。

 建設資材がユニークだ。垂木と壁材の主要構造部材は直径三センチほどの丸竹であるが、天蓋に使うのはタイヤ部分を除いた自転車の車輪である。また、天蓋部分には、スチール製の灰皿やビニール製の傘を使う。屋根と壁を覆うのはビニールシートである。組立にかかる時間はわずか三〇分足らず。文句無く傑作であった。十人近くが寝れる。おかげで宿泊スペースも少しカヴァーできた。

テキスト ボックス: 京都大学2002年建前風景 同じく、シェルター建設をテーマにしたのが、京都造形大学と成安造形大学である。京都造形大学は、昨年の丸太による原始入母屋造りを発展させた。また、今年初参加の成安造形大学は樹上住居の建設に挑戦である。なかなか楽しい出来映えであった。

 大阪芸術大学は子どもたちのための木製の屋外遊具の制作をテーマとした。六〇センチ立方のキューブを各自がつくって組み合わせようというプログラムである。

 大阪工業技術専門学校は、音の出る階段とか、雛の声を聞く巣箱とか、サウンドスケープに関わる作品群がテーマであった。

 千葉大、芝浦工業大学は、日常施設の整備と修理にかかった。千葉大学は、昨年に続いて、浄化槽つきのシャワールームを組立てた。芝浦工業大学は、床の抜けた部屋の修理や保冷庫の整備を行った。

 また、茨城ハウジングアカデミーは、昨年一昨年に続いて、日本一かがり火祭り(八月五日)の屋台の組立に腕を奮った。

 そして、京都大学・奈良女子大学のグループは、昨年に続いて登り釜と陶芸に挑戦である。昨年は、釜を作るだけであったけれど、今年はいよいよ焼く段取りである。まずは、粘土をこねて、陶芸作品を作るところから始めた。空いた時間に陶芸教室が昨年までに完成した「蜂の巣工房」で開かれ、他のグループも大勢加わった。思い思いの作品をつくるとそれを乾かす。若干乾燥の時間が足りないけれど、火を入れることになった。ほぼ一昼夜、薪を焚いた。うれしかったのは、登り釜がちゃんと機能したことだ。火は登り釜を伝わって煙突まで確実に達したのである。今年は、釉薬を塗らず、素焼きの形にしたのであるが、本格的にやれそうである。来年度以降が楽しみである。製材で余った木片を薪にした陶芸も木匠塾の売り物になるかもしれない。

 ところで、今年は、八月八日には加子母村の渡合(どあい)キャンプ場に移って、第一回のかしも木匠塾の開塾式を行った。今年の一月、五月と続けてきたかしも木匠塾フォーラムの延長で、今後加子母を拠点とした構想をさらに練るためにである。加子母村は、東濃ひのきの里として知られる。神宮備林も営林署の管内にある。また、産直住宅の村として知られる。その加子母村が、木の文化を守り育てる拠点づくりの一環として、木匠塾を誘致したいという。有り難い話である。

 しかし、これまでの木匠塾であるとするといささか荷が重いかもしれない。パワーアップが必要である。それにしても、高根村にまさるとも劣らない自然環境である。しかも、施設用地も提供して下さるという。もちろん、木匠塾のみで利用するのではないにしろ、夢膨らむ話である。具体的には、バンガローを一戸づつつくる話がある。学生参加のコンペにし、優秀作品を実際に作ろうというアイディアも出始めている。また、研修施設としての製品事業所の改造、新たな建設のプログラムもある。一朝一夕には出来ないであろうが、かしも木匠塾も今後具体的な可能性を様々に追求していくことになる。

 

2002820

 16:30研究室のパントさんと待ち合わせして加子母村へ。加子母村の木匠塾はもう12年目。この五年間は参加できなかったけれど、久々の参加である。昨19日が開校式。参加校は、芝浦工業大学、千葉大学、東洋大学、京都造形大学、立命館大学、京都大学の6校。最近は、加子母村の村民のリクエストに答えて、各チームがデザイン・ビルドで設計施工する。京都大学への依頼はバンガローから始まって、農機具小屋兼茶室、お稲荷さんの拝殿、そして今年は夕涼み台である。学生が図面を書かないのには心底怒ったけれど、なんとか立ち上がった。学生たちは31日まで仕上げに従事するけれど、25日に引き上げる予定。26日からは大学院の試験である。

 

2002826

不思議なことに、日本でメールがつながらなかった。以下届いていたメールである。

820

青井です。お返事ありがとうございました。12回のラインナップの前に、基本的な方向性を議論する必要があると思います。
「建築博物館」をめぐる連載として、何を意図するか。
A.黒野さんのお考えは、

何か収蔵品になるようなもののデータを集めること重視する、よって、建築家をターゲットにする。ということでしょうか。この場合、
(1)どのような「データ」を期待するのか。
   図面・模型などの有無(?)
(2)建築家本人に書いてもらうのではなく、
   建築家のところへ取材に行くかたちにすべきではないか。
B.もうひとつの方向性は、
日本で建築博物館とはどんなものでありうるかを考えるということでしょう。
この場合、
(1)博物館像を出してもらうことが基本で、とりあげる建築は事例としての扱いになる。
(2)どんな建築を選び、どんな博物館像を描いてもらえるか、執筆者の視点に期待し、それを読む。という性質の記事になると思います。まず、このA・Bのいずれの方向性で行くかを決めないと議論が進まないと思います。前回委員会で出た委員長提案は、Bだと思います。「目利き」を選んで書いてもらうということでした。それでいくなら、あとは目利きを12人揃えるだけです。(もちろん依頼意図を明確にして)
もしAで行くなら、僕は取材方式でやるべきだと思います。その時は僕は取材したいんですが、12回は大変です。委員+外部で、取材チームを組むなど、それなりに準備する必要があるでしょう。ついでに、会長の「作品レヴュー」的なものへの期待は、この際考えなくてもよいと僕は思います。AでもBでも、あんまり満たされないでしょうから。僕自身は、AでもBでも(担当者の一人として)やります。が、どちらかといえば、Bの方を記事としては読みたいような気がします。建築家から何を引き出すか、僕にはあまりイメージできないからです。
ご意見ください。青井哲人

 

黒野委員

 青井先生
CC:
布野先生、小野寺様、片寄様
 考え方を示していただき、ありがとうございます。 重要なことをありがとうございます。青井さんの枠組みにしたがって、自分の意見を整理してみました。私は、もちろん分類のA.です。ただ、前回とは少し変わってきましたので、それをお伝えしたいと思います。
A.黒野の考えは、
 何か収蔵品になるようなもののデータを集めること重視する。
この場合、
(1)建築家のところへ取材に行くかたちにしたい。
(2)編集委員会側で、具体的な作品候補名を挙げ、それについてのコメントをもらいたい。
(3)とくに建築博物館がこれからの建築界に対して、どのような記録や資料を保管していくべきかについての、考えをお聞きしたい。
(4)図面の保存、写真の保存、掲載雑誌や所内の資料、建設の経緯などについて、学会の建築博物館へのヒントをもらいたい。
(5)建築学会の博物館構想委員会へもそれが伝わるようにしたい(フィードバック)。
 そのためには、
第1回 仙田満会長あるいは藤岡先生へのインタビュー(布野先生による)とする。そこで、建築学会の博物館構想の趣旨を一般会員に広く知らせる。
第2回 林昌二館長へのインタビュー(布野先生による)から始めたいと思います。
 とくに、現在の建築学会の博物館構想は、一般会員の知らないところで進んでいます。よいことなのですから、偉い人に大きく紹介していただきたいと思います。
第3回 以降は、誰に何を聞くのか、編集委員会で具体的な項目を検討する必要があると思います。まずは編集委員会のアンケートを充実させ、作品候補リストをつくることと思います。
私がA.にこだわる理由は、
1.
図面や写真を多くしたい。
2.
布野先生はインタビューが得意。
3.
個人ではなく編集委員会が主体となった企画としたい。
などです。
 B.よりもたいへんなことはわかっています。一人ではできないこともわかっています。ただ、「建築博物館」はそれだけの価値があるのではないかと思います。
 やはりまだ無理でしょうか。
 お考えをお聞かせいただければと思います。

 

 R.ホームから ‘Foreign eyes’の原稿が入る。

 

The international transferability of Japanese land readjustment

 

by Dr. Robert Home

(Reader in Land Management, Anglia Polytechnic University, United Kingdom)

 

Japan’s kukaku-seiri or land readjustment (LR) technique for urban development has been deservedly praised. Successfully exported to other Asian countries (eg South Korea, Taiwan, Indonesia, Nepal, Thailand and Malaysia), it supports a biennial international conference, and was the subject of a recent workshop at the Lincoln Institute for Land Policy in Cambridge, Mass., held in March 2002. The world, however, seems to divide between those countries where it is well known and regularly used, and those (particularly in the English-speaking world) who hardly know it exists and have no legal provisions for it. With present-day global pressures of population growth and urbanization, such variable application of a potentially powerful tool for planned urban development seems strange, and worth exploring.

 

LR in essence facilitates urban development by combining the assembly and reparcelling of land with financial mechanisms which recover infrastructure costs and redistribute  the financial benefits of development (usually known as betterment) between the land-owners and the development authority.  The LR procedure may be complex and take many years, but can be summarised in six stages:

(1)         Initiation (usually by petition from a majority of property-owners to the local authority).

(2)         Declaration of the boundary limits of the scheme.

(3)         Preparation of a redevelopment scheme (determining future uses and re-planning the road and plot layout).

(4)         Measurement of plot areas before and after readjustment, often using computer programmes to locate the readjusted plots.

(5)         Valuation of the market price of all saleable plots, retaining a proportion as reserve or cost-equivalent land, for sale by the agency to recoup development costs as the project proceeds.

(6)         Reallocation of plots back to landowners (typically 60% of the land area contributed to the project, located as nearly as possible to the originally position). 

 

Japan adopted the technique from Germany in 1919 legislation, and first applied it after the Great Kanto earthquake of 1923. After 1945 it became a mainstay of post-war reconstruction and planning, as the only way of ensuring adequate basic infrastructure at reasonable cost, and making land owners bear some of the costs through their land contribution. Under the 1954 Land Readjustment Act and the1963 New Towns Act LR has been responsible for replanning a third of Japan’s urban areas.

 

It is often stated that LR originated in Germany with the 1903 Lex Adickes in Frankfurt-am-Main, and it was extensively used for reconstruction after the Second World War. Its roots can, however, also be traced to the Middle East, Islamic inheritance law and specifically the Ottoman land code of 1858. This provided for betterment tax, land expropriation for public purposes, and periodic repartition of customary joint ownership in villages. From these Ottoman roots (via British Mandate legislation, the Palestine Town Planning Act of 1921), LR was incorporated into Article 7 of the 1965 Israel Planning and Building Law, and is now widely used to facilitate urban development in that densely populated country.

 

LR has been applied to varying extents in the European Union (for example in the Netherlands, and for planning Louvain Nouvelle University in Belgium), but in the English-speaking world it is little used or known. There are a few examples of its practice  -  George Washington and others devised a form of LR for the US new federal capital, Japanese immigrants introduced it in Hawaii to upgrade inner city areas, and in Western Australia land pooling legislation passed in 1928 assisted the suburban development of Perth  -  but generally attempts to introduce the method failed because of lack of understanding or political support.

 

In the United Kingdom (a pioneer in modern town planning) the technique is virtually unknown, for various reasons. The Lex Adickes was discussed in professional town planning circles, but at the time of hostility and war (1914-18) with Germany, which made it unpalatable. Property inheritance by primogeniture, and the enclosure of agricultural holdings, generally avoided land fragmentation, so that urban development was typically undertaken on large estates. Planning schemes by local authorities were regulated by the so-called Model Clauses, one of which concerned land exchange and boundary adjustments. Roads and drains could be constructed either by the local authority or the developer: under the Public Health Act 1875 and Private Street Works Act 1892 the local authority could undertake the work and recover the costs. Private developers in Britain, accustomed to assembling the land and providing infrastructure, were disinclined to share their betterment gains with the local authority, and the nationalisation of development value in 1947 was short-lived. The British government is currently reviewing its compulsory purchase law and procedures, and a version of LR (assisted land pooling) has been proposed, but so far attracting limited support.

 

With LR missing from UK town planning legislation, it is not surprising that, when similar legislation was transferred to Britain’s colonies in Africa and Asia from the 1930s, LR provisions was not included, with planning advisors probably unaware of its existence. Occasionally it was used: Palestine has already been mentioned, and in the Bombay Presidency the 1915 Bombay Town Planning Act included LR, which was applied to suburban housing development, and kept after independence in the successor states of Maharashtra and Gujarat.

 

In recent years, even in the land of its success, Japan, LR has found landowners increasingly reluctant to share their betterment gains.  Many projects are abandoned because of intense and effective opposition by landowners. In Germany, while still a well-recognised procedure, its use is declining in favour of planning agreements.

 

With the global pressures to convert land for urban development, LR still has great potential, in certain situations: peri-urban areas lacking planning or infrastructure, urban regeneration sites where land assembly may be difficult, so-called ‘antiquated subdivisions’ (where higher densities are sought), environmental protection zones (eg coastal areas), and after disasters (earthquakes, fires, wars) with displaced populations and confused ownerships. It offers real benefits of orderly development, sharing the costs of public land and infrastructure, and economies of scale for large projects. It counters excessive land speculation by discouraging withholding of land for future gain. It would seem to offer particular potential in the rapidly urbanizing areas of sub-Saharan Africa. With increasing opposition to compulsory purchase, LR allows land-owners to benefit from urban development, while meeting their wider social obligations.

 

There are certain pre-requisites for LR to work. It should be politically acceptable to land-owners, with an established (and rising) land market operating with recognized valuation rules. There should be public confidence in the implementing agency (usually a municipality). Land ownership should be validated through a formal land titling system, now being promoted by the World Bank and the writings of Hernando de Soto.  And finally, the legal machinery and sufficient supporting technical expertise should be in place.

 

821

「建築博物館」をめぐって

青井委員

黒野さん、メールありがとうございました。とてもよく分かりました。
僕は基本方針として異存ありません。
「データ」というのは基本的には誌面に載る図面や模型写真と考えればよいでしょうか。建築家+作品 のリストアップと、取材チームの編成 が必要ですね。きっと大変な連載になります。頑張ります。

 

さて方針はまとまったようだけれど、大丈夫かなと思う。

 

8月22

11月号 伊藤滋、磯崎新の超大物対談の日程が合わない。北澤先生もこんなの初め多田とおっしゃる。

 

北沢です。
上記について、困っています。磯崎さん伊藤さんの調整を行っていますが、
前回セットした28日が流れて、以降の調整が二人の渡航の予定が定まらずに今まできてしまいましたが、本日両者の予定がはっきりして、調整を行いましたが、残念ながらあう日程がありません。ぎりぎりの1010日前後まで調整しましたが。そこで、予定を変更する必要があります。
代替え案としては
1,
それぞれにインタビューする。
2,
組み合わせをかえる。
/槙ー伊藤
/磯崎ー簑原
この場合は、両者にせっかく了解をもらっているのでちょっと困ることになります。2つやるのもこれはこれで大変かと。私としては、1、ですが、2の場合には、磯崎さんの予定がつまりすぎているので、伊藤さんを軸にと思います。
御意見をください。

 

 ライデン大学のナス先生から校正の要求。すっかり忘れていた。慌てて送る。

 即返事。校正全て完了。あとは出版を待つだけとのこと。

 

8月23

 京都CDLの渡辺菊真君からメール。

 布野修司先生
木匠塾、お疲れ様です。
唐突で申し訳ないのですが、CDL秋季リーグの件です。会場の龍池小学校なのですが講堂のみ借りる事ができるという状況で、最大収容人員は200人だそうです。しかしながら、受け付けや展示スペースのことを考えると120人から150人が限界だと思います。ややすくない収容人員ではありますが、春季リーグの出席者を考えると逆にこの程度の規模のほうが偽りの熱気を演出することが可能な気もします。最大のメリットとしては会場費がタダということ。そして何日か借りることが可能ということです。ですので3日ぐらい借りてその間にパネル審査をすることも可能ですし、市民にアピールできる時間もとれるのではないかと思います。いまから他の会場を押さえるのもきついですし、この会場でやるという方向で進めて行きたいのですがよろしいでしょうか。ただし、その場合には「まちせん」と共催というかたちをとることになります。

 

2002830

 メールの量異常。全く対応できず。9月4日の編集委員会で決着するしかない。

 夕刻から、「大学コンソーシアム京都」(キャンパスプラザ京都)で「変革期にある大学に対する施策」(京都市委託研究)に関する会議に出席。京都大学から一人呼ばれた。京都CDLの活動が評価されてのことらしい。大学が連合して何が出来るのか、先駆的機関である「大学コンソーシアム京都」での議論が楽しみである。

 

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