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2022年6月14日火曜日

バンドンーーコロニアル建築「インドネシア1870ー1945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,デルファイ研究所,199312

 バンドンーーコロニアル建築「インドネシア18701945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,atデルファイ研究所,199312


インドネシア・コロニアル建築

1870~1945

その2 バンドン

                京都大学アジア都市建築研究会編

 

 ハーマン・トマス・カールステンとヘンリ・マクレーン・ポントといっても、もちろん知る人は少ないだろう。二人はインドネシアの近代建築の歴史に大きな足跡を残したオランダの建築家である。インドネシアで活躍した建築家というと、前回に挙げたC.シトロエンやEd.キュイペルス、その他いくつかの事務所が挙げられるが、なんといっても代表はこの二人である。    年、H.P.ベルラーヘがインドネシアを訪れ、「オランダの近代建築の発展に匹敵するほど重要となるであろう、来るべきインドネシア建築に全てを捧げた二人の建築家」として言及したのがこの二人である。二人は、実は、デルフト工科大学の同級生であった。

 H.M.ポントがインドネシアを訪れるのは    年、  才の時のことである。しかし、もともと彼が生まれたのは、ジャカルタである(    年)。本国で教育を受け、デルフト工科大で建築を学んだのち、いわば帰ってくるのである。    年に卒業した後、アムステルダムの建築事務所で二年実務に携わった後、ジャワへ赴くのである。この仕事を終えた後、H.M.ポントはスマランに個人事務所を開設する。そして次第に仕事が増えていく。そこで、招いたのがH.T.カールステンである。H.T.カールステンがスマランにやってきたのは    年の暮れのことであった。

 しかし、二人のパートナーシップは、わずか二年しか続かない。性格が合わなかったらしい。H.T.カールステンは、アクティブであり、H.M.ポントはどちらかというと学究肌である。それに、H.M.ポントの健康がすぐれなかったことも大きい。彼は、    年にオランダに戻り、    年まで戻らない。    年には、H.T.カールステンに事務所の権利を売ってしまう。その後、二人は別々の道を歩むことになったのである。

     年、帰国中のH.M.ポントは工科系の教育機関の設計を以来される。    年に竣工した、現在のバンドン工科大学(ITB)である。 H.M.ポントは、インドネシアに着いて以来、時間をみつけてはインドネシア中を旅行し、土着の建築について調べている。余程魅せられたのであろう、その探求は徹底していた。やがて、ジャワ建築の研究にウエイトを移したほどである。H.M.ポントは、ジャワ建築の起源を探り、その本質を明かにしようとする。その架構の原理を解明し、それを現代建築に生かそうとする。伝統的建築の空間構成の方法を読み取り、それをうまく用いようとするのである。

 ITB以降の彼の作品は、そうした試みの積み重ねである。    年から    年まで、彼は東ジャワのトゥラウラン(       )に住んだ。マジャパイト時代について、考古学的、歴史的研究を行うためである。このためポントは、結果的に建築の仕事から遠ざかることになるのであるが、それでも珠玉のような作品を残している。トゥラウランの野外博物館の建物がそうである(    年)。そして、何よりも傑作だと思うのが、東ジャワのクディリの近郊にあるポサランの教会である。H.M.ポントの最後の作品である(         年)。        布野修司


バンドンとその都市遺産 

                               

ストリスノ・ムルティヨソ(アディチャワルマン工科大学講師)

                                                                       

 

 

1. 歴史

     年に極東におけるイギリスに対する拠点としてジャワを強化するために、当時のオランダ国王ルイ・ナポレオンの詳細な指示を携えて、オランダ総督H.W.ダーンデルスがジャワへ到着した。彼は鎖状につながる軍事防衛ユニットを考案し、これをジャワ北部の海岸に沿って効率的な交通手段で互いに連結した上で配置した。

しかし、バタビアとチレボンの間の海岸は全域に渡って湿地帯であったため、彼は南回りの道をとる方が容易であると判断した。これがプリアンガン高地を横断するグロートポスト道路(大幹線道路)                                 である。この道路は当時のカブパテン(県)の首都クラピャック         のバンドンの北、約    のところを通っていたことが判明した。 ダーンデルスは率直にブパティ(首長)にその道のそばへ移るように指図した。

 ブパティのウィラナタクスマル二世                       Ⅱは、古代の女神 ニイ・クントリング・マニック                    によって守られているとされるスムル・バンドン               と呼ばれる一対の聖なる泉に近いチカプンドゥン             川の西側の土手の、その道の南の敷地を選び、そこに彼はダレム(宮殿)とアルン・アルン          (広場)を造った。伝統に従って西側にはメスジッド・アグン             (大モスク)、東側には伝統的な市場(パサール)が置かれた。このようにして 花の都は誕生した。

   世紀の初頭以来、マタラム         の支配者によって、ジャワ西部はバタヴィアに引き渡されていたが、オランダは積極的にこの状況を利用しようとせず、やっと    年に エンゲルハート           がプリアンガン          でコ-ヒ-を栽培しようと試みただけであった。  世紀半ば頃カークホーフェンス            が、アッサムから紅茶の見本を輸入し、ユンフーン          が南アメリカからキナ皮          を紹介した。世紀末までに、プリアンガン高地は、コ-ヒ-、紅茶、キナ皮、ゴムの最も広く豊かな産地になっていた。

 こうして生まれた新興の富豪達は、彼らの週末の社交の舞台となる場所を必要とした。彼らは、自然に、街の中心で、かつ主要な道路に近いバンドンに集まることになった。    年代までに既に彼らは、シカプンダン川の東岸近くに 社交クラブを造りあげていた。その付近には、ホテル、パン屋、小売店、劇場、クラブハウス、そしてあらゆるはやりの娯楽施設が出来ていった。やがて今世紀の初めの十年のうちにパックス・ネルランディカ                 (「オランダの平和」)が宣言され、軍事政権から市民政権への移行をもたす。新政権は中央政府の行政負担を軽くするために非中央集権

政策をとった。最初に    年にバンドン自治体が設立された。当然の事ながら、こうした事情の変化は、都市としてのバンドンの表情に大きな影響を及ぼすことになった。

 ブラガ       通りの北端のさらに先に、中央から独立した新自治体政府を収容するための市役所が建設された。その後まもなく    年頃、こうした開発の動きは、軍司令部がバタビアからバンドンへ移された時点で、より大規模に行われるようになり、市民ホ-ルの東側の敷地に最高司令官の官邸、様々な役所、兵舎、住宅地区が建設された。  年代初めまでに、熟練した技術専門家の養成の必要から、バンドンの市民によって工業高校が設立された。時を同じくして 蘭領インドの首都をバタヴィアからバンドンへ移す計画が立てられ、街は、北に向かって拡張されることになった。

 首都地域は北東部に位置し、大通りが、名高いグヌン・タンクバン・プラフ                        に面しながら、南端に グドゥン・サテ              、他方の端に巨大なモニュメントを配して     の長さに渡って計画された。この大通りの両側の建物に植民地政府の本部が置かれることになったのである。

 シカプンダン川の東岸に沿って、現在のダゴ      通りと平行に、今なお見られる自然の風景のなかに工科大学のキャンパス、寄宿舎、職員用住宅がある。キャンパス内の古い建築物と外溝造園計画の巧みさには、その著名な設計者である ヘンリ・マクレーン・ポント                     の才能が感じられる。北西部には古いキナ皮工場に隣接して、市民病院とパスツ-ル研究所のための用地が確保された。

 こうした開発は、配置計画のレベルに止まらず、建築物、ひいてはメンテナンスの詳細についてまで丹念に計画された。戦争の直前の数年間はバンドンの黄金時代であった。老人や当時の都市計画者達は、今もそのときのことを懐かしく語る。それは我々全てにとって今なお古き良き時代              である。

 独立後は困難な時代だった。東プリアンガンで政治的に不安定な状態が、頂点に達し、その結果、人々は治安の保たれたバンドンに集まった。人口は、    年の  万人から、    年までに   万人に跳ね上がった。ところがこれで収束がついたわけではなかった。  年代のオイルブ-ム後の経済発展は人口増加をさらに加速し、    年には人口   万人に達したのである。

 独立後の時代の第一段階は、大まかに区切れば    年ぐらいまでで、古い建物の外装工事などを除いて、目立った建設活動は余りされなかったと言っていい。しかし新しく建物が建てられない代りに、古い建物が壊されることもなかった。    年以後の第二段階では、開発は郊外へ著しい拡がりを見せ、宅地開発は実質的に政府の管理を超え外れて激しく進んだ。主な通りでも道路幅の拡張計画が原因で、それに面した数え切れないほどの建物のファサードが、野蛮にも壊されることになった。

   年代中頃までに、それまで幾分安全だった古い市街地が今度は開発の波にさらされ始めた。経済の好景気はより広い場所と地位の象徴としての新しい建築的語彙を必要とするようになる。政府はこうした状況への対応策をたてるまでには至らず、社会も未だ意識的でなかった。しかし、商業論理は一人歩きを続け、結果として多くの儀性が出た。この間に今世紀初めの四半世紀の代表的な都市建築物がいくつか永遠に失われたのである。ごく最近の傾向としては、主に財政や銀行業務に関連する政策に拍車をかけられ、オフィス空間(主に銀行)が、著しく求められる。グロート・ポスト通り別名ヒガシ ヤマト通り(アジア・アフリカ通り)に沿って高層建築が建ち並んだ。今日ではバンドンはどんどんジャカルタに似てきている。もう一つ、どことも解らないようなメトロポリスができることになるのだろうか?

 

2.歴史的地域

2.1 中核地区

 この地区は東西には、レンコン・ブサ-ル                 通りからアスタナ・アニャ-ル               通りあたりまでで、南はバスタ-ミナル(クボン・カラパ             )、北は鉄道線路がその境界である。この内側がもともとの市街の中心であり、広場(アルン・アルン)もこの中にある。近代の中心商業地域は東側に、伝統的な商業地域(主に中国人所有)は、西側へ拡がる。南の地域は土着のカンポンであり、カンポン改善事業の残した跡が現在もみられる。また有名なブラガ通りもここにある。

 この中核地区は、近代化に伴う開発によって、最も多くの犠牲を払っている場所である。プンバングナン(建設)のために近隣の住宅地区さえすべて破壊されている。伝統的に一市街地の構成は周辺部をとりまき道路に面した商業建築物と、その背後に隠れたカンポンからなっている。無秩序な開発は、致命的にも商業部分が街区の内側にむかって侵食することにつながり、街区内には、ところどころに通りとの直接的な関係を絶たれた離れ島のようなカンポンが残っている。

 土着の建築物はこうした共食いとも言える状態の下で、最も苦境に立たされている。ダレム・カブパテンでさえすでに、自治当局自身の建物によって侵食されており、プンドポのみで分けられている。ダレム・カウム            とその近くの カパティハン           は、高層のショッピングプラザに変わってしまった。パサール・バル付近の古い中華街には、興味深い所もある。辛抱強く、そして少し運が良ければ、今でも奥まった所や間隙を縫うような所に、おもしろい家が見つかる。

 しかし、現存する重要な建築物を見るのにより適した場所は、東部である。建物の正面の多くはモダーンな看板で覆われてしまっているが、ブラガ通りがそのいい例である。昔の雰囲気を守りたいと言う多くの要望に答えて、市長はこうした場所に特別な注意を払っている。ブラガ通りがアジア・アフリカ通りにぶつかる付近は、最も良く町並みの保存されている場所である。地図を参照されたい。

 

2.2 官庁街

 市役所は、ヨ-ロッパ街の最も古い場所にある。しかし、建物は新しく、ほとんどの部分は  年代に建てられ、  年代から残っているのは、中央ホ-ルと市長公邸だけである。この複合建築は、市役所とそれを取り巻く公共建築物の前に位置する公園のあるもともとの市の中心と向かい合うように意図された。

 東南の角地にはカトリック教会があり、その建築様式は新ロマン主義である。ブルガ通りに面して、公園の南西の角を占めるのはインドネシア銀行であり、その反対側にブトル        教会が位置する。そして銀行と教会の間に、公立、私立の有名な学校が挟まれている。さらに北に進むと、軍の最高司令官の住居をちょうど越えた所に美しく保存された郊外住宅(ラントハァィス          )がある。その住宅の向かいのプルナワルマン             通りの角に現在はモスクに転用されている郊外住宅が、もうひとつある。

 アチェ通りを通って東へ行くと 軍事複合施設があり、最初にみえるのは、旧司令官の邸宅、次に美しいラル・リンタス             公園を囲むように国防省がある。さらに東には、今はスポ-ツグランドとして使われているマルク公園があり、そこからやや南に下った所に以前、年度行事に使われていた建物がある。その間を埋めるように将校のための住宅、兵舎と兵站、指令部の建物が建っている。こうした建築物のほとんどは、今もそのまま残されているが、内部に入る事は出来ない。

 北部はいわゆる首都たるべき場所で、    年代の不況によって計画が中断した時点では、たったひとつの建物しか出来ていなかった。それが有名なグドン・サテで、現在は、西ジャワ州の州知事の役所となっている。バンドンを訪れた際には、この美しい建物を是非、見ていただきたい。    年にJ.ゲルベル          によって設計された時は、平面図で左右に対称な翼廊が造られる事になっていたが、片翼のみが完成に至った。

 この建物の周りには公務員の住宅があり、高級将校の邸宅は、チラキ        通りとチサンクイ           通りに挟まれた川の土手部分にある。少し小さい規模の住宅は、チマヌック         通り、チルタヤサ           通り、バンダ       通り沿い付近に、最低ランクの住宅は、一般にもとからそこに居住していた人々のものだが、道を介して素晴らしい袋小路と接する環境のゲンポル        複合施設を与えられた。一部、全体的な景観に無配虜に、建物が修繕されたり、建て直されたりした事は惜しむべき事だが、なおかつこの場所は、訪れるに値するだろう。

 

2.3 科学公園

 今世紀初頭、オランダ領インドネシアは、科学研究活動の中心地としてその名をわ挙げていた。ほとんどの研究施設は、バタビア、バイテンツォルク            (ボゴール)とバンドンに集中していた。こうした施設のうち、バンドンにおける例としては、パスツール研究所と工業高等学校が挙げられる。

 パスツール研究所は、東方での医学的治療の必要を満たすために設立された。この美しい建物は、両側に塀を廻らした短い通りにある。この研究所は、市立病院の隣に建てられた。病院の正面部分はもとからのものだが、他の部分は後に付け加えらたものである。病院に勤める職員のための居住施設は、インドネシアで最も素晴らしい通りのひとつであるチパガンティ           通りに沿って建てられた。古いマホガニーの樹に覆われ、規則的な形態と壁面の深い彫りをもつ家々は静寂な印象をかもしだし、あたりの雰囲気に似つかわしい。

 パスツール研究所は川の西側に位置し、工科大学はその東側に位置する。

学校の一番の魅力は、キャンパスの一番主要な建物であり、デザインと技術に真に秀でたものである。その形態は、幾重にも重なった屋根と彫刻を施された庇を持つ、よく研究された伝統的なジャワの様式が用いられており、辺りの風景と完全に調和している。

 マクレーン・ポントの才能が本当に評価されるべきは、その内部空間においてである。建物全体が、鉄筋コンクリートの基礎の上に、鉄板、ワイヤー、ボルトで繋がれた集製材による近代的な構造で支えられている。この建物の周りに住宅施設があり、そのなかでも上等なものは、ダゴ通りに沿って造られている。現代建築家によって建てられた郊外型の住宅がここには多くある。その中でもウォルフ・シューマッハー                   が本当に素晴らしい住宅を建てている。

 

3 重要建築物

   中核地区

1A グドゥン・ムルディカ              

 この威風堂々とした建物は、社交クラブとして公式に使われた。独立後は、議会              がこれを利用したが、大きな行事が行われたのは    年のアジア・アフリカ会議が開かれたのが最初だった。

1B ホテル・グランド・プレアンゲル                    

 ウォルフ・シューマッハー による    年代に建てられた豪華なホテル 。シューマッハーハインド・ヨーロッパ・スタイル を追い求め、インドネシアとヨーロッパの様式を融合したスタイルで建てられた。    年代に、趣味良く改装された。

1C ホテル・サヴォイ・ホマン                 

 伝説的なホテルの再現として近代表現主義により建てられたが、近年、大幅に改装された。しかし、偉大なる  年代の雰囲気をいまだに伝えている。

1D ブラガ南通り                 

 その黄金時代の有名なショッピング・ストリートの古い部分であるが、ほとんどの建物は、他地域のものより新しい。ブラガホテル、サリナデパート、角地の前のデニスビル(現在の州立銀行)などがある。

1E ブラガ北通り                 

      年代に念入りな計画のもとに造られた。第二次大戦の少しあとまで、高級品を扱う商業の中心地であった。この敷地を改善し、保存しようとする計画は、技術的、法律的な問題に直面している。

 

3.2 官庁街

2A グドン・サテ             とその周辺

 官庁街の中心として大通りの南端に計画された。  最近になって現代的な趣になった。大通りには、西ジャワ記念碑、イスラムセンターができる予定である。

2B  ゲムポル        の住宅

 植民地政府の職員を収容する広い敷地の一部にこの美しい住宅はある。設計を担当したP.E.ウェナー           が、インドネシア人の一般の職員のための植民地住宅のデザインにおいて、土着の建築語彙を使用したことは興味深い。

2C 市役所 

  現在のような複雑な姿は近年の開発によるものだが、この区画は、もともと デ・ロー        により    年代に ムルデカ公園(旧                公園)と統合されたかたちでデザインされた。

2D 軍司令部

 最高司令官の堂々たる邸宅、国防省、年度行事の行われる広場をともなう大規模な複合施設で、その敷地内には美しい公園が散在する。

2E インドネシア銀行

 主要な建物は、エド・キュイペルス            によってジャワ銀行として設計された。現在は、中央銀行であるインドネシア銀行として使われており、最近になって東側に拡張された。

 

3.3 科学公園

3A ビオファルマ         (パスツール研究所)

 古典的な熱帯の大通りの例であるパスツール通りのそばにパスツール研究所は位置している。まだ完成までに  年以上を要するのはいたしかたないが、その古い敷地はもともとのデザインを残している。

3B 市立病院

 市街中心部のその前身である病院が、拡張の必要にせまられたときに、北西部郊外に病院を移転した。現在は、ハサン・サディキン                病院と呼ばれているが、より新しい設備を伴い、依然としてその役割を果たしている。

3C  チパガンティ通り               

  もともとの広がりは、パスツール研究所          と市立病院をその中心に据えた科学公園を収容する大きさであった。

3D バンドン工科大学                          

 インドネシアで最も古い、技術に関する第三段階の教育施設であり、静かな雰囲気が、ヘンリ・マクレーン・ポントによってデザインされた古い方の敷地に広がっている。しかしここでも、近代的な諸設備が、既に全体の計画を破綻させている。

3E ダゴ通り          

  まさにヨーロッパ地区の中心であり、依然として最も権威のある住宅地区として、その威光を放っている。近代の野蛮な建物の建設や商業施設の侵入を伴う無秩序な開発は、その存在を脅かしている。

 












2022年1月14日金曜日

南アフリカの都市と建築 上中下 日刊建設工業新聞 1997

 南アフリカの都市と建築 上,プレトリア:ハーバート・ベイカー日刊建設工業新聞,19971107

 南アフリカの都市と建築 中,ケープ・タウン:アルバート・トンプソンと田園都市パインランズ日刊建設工業新聞,19971121

南アフリカの都市と建築 下, ジョハネスバーグ:ソウェト,日刊建設工業新聞,19971212


南アフリカの都市と建築

  南アフリカ共和国というと、喜望峰(ケープ・オブ・グッドホープ)とアパルトヘイト、それにマンデラ、金にダイアモンド、といった連想であろうか。「植民都市の比較研究」が目的であるが、そんな程度の知識で南アフリカを巡ってきた。行ってみると、都市と建築をめぐるテーマが次々に発見されて大いに刺激を受けた。その一端を紹介したい。南アフリカ共和国の現況については峯陽一のすぐれた『南アフリカ 「虹の国」への歩み』(岩波新書)を参照されたい。

 

①プレトリア:サー・ハーバート・ベイカー

 ハーバート・ベイカーという英国の建築家をご存じだろうか。一八八二年生まれだからグロピウス(一八八三生)、ミース(一八八六年生)、コルビュジェ(一八八七年生)ら近代建築の巨匠達とほぼ同世代だ。しかし、その作風はいわゆる近代建築とは無縁だから、近代建築の歴史において無視されているとしても無理ないかもしれない。

 ベイカーは、ケントで生まれ、ロイヤル・アカデミーのスクール・オブ・デザインで学んだ。そして南アフリカに渡り、数多くの作品を残した。『セシル・ローズ』という著書があることが示すように、南アフリカの鉱山王、イギリス南アフリカ会社の創設者でケープ植民地の首相を務めたセシル・ローズとの関係が深かったせいであろう。ベイカーはその功績によって「サー」の称号を得た。大英帝国においては相当著名な建築家であったとみていい。少なくとも南アフリカで最も有名な近代建築家である。戦前期の『南アフリカ・アーキテクチュラル・レコード』の頁を繰ってみると、ベイカー奨学金などが設けられており、その重鎮振りは明らかである。

 ケープ・タウン、ジョハネスバーグ(ヨハネスブルグ)、プレトリアといった都市を歩いたのであるが、そこら中にベイカーの作品がある。ケープタウンの中心街セント・ジョージストリートには、セント・ジョージ・カテドラルをはじめ数棟のビルが残されている。その骨格はベイカーによってつくられたといっていい。また、ジョハネスバーグにはベイイカー・ヴィレッジと呼ばれる高級住宅街がある。その一角にあるノースワーズと呼ばれる邸宅はナショナル・モニュメントに指定され、その前庭には生誕一〇〇年を記念してその銅像が建てられていた。

 ベイカーの代表作というと、行政首都プレトリアのユニオン・ビルディングであろう。南ア連邦統一のシンボルである。小高い丘の上に建てられ、眼下の市街を両手で抱くように半円形の両翼が配される。堂々たる古典主義建築である。大変な力量を感じさせる。現在は大統領府と外務省が置かれている。

 最初に写真を見た時、この建築はどこかで見たことがある、と思った。ニューデリーのインド総督府である。そう、ベイカーはインドに招かれ、ラッチェンス、ランチェスターとともにその設計に携わるのである。

 大英帝国の中心を担ったのはベイカーやラッチェンスのような建築家である。その正当な評価をめぐって作品集が近年刊行されつつある。

 南アフリカの都市と建築

 

②ケープ・タウン:アルバート・トンプソンと田園都市パインランズ

 

 ロンドンでは南アフリカの資料を集める図書館通いの合間にレッチワースに行って来た。世界最初の田園都市。駅前には、「ザ・ファースト・ガーデン・シティ」を売り物にブティックやショッピングモールなど現代的な装いの活気があった。しかし、周囲にはまるで建設当初の二〇世紀初頭のようなのんびりとした風景が拡がっていた。

 田園都市運動が日本を含めて世界中に大きな影響を与えたことは言うまでもない。しかし、それが大英帝国の植民地にも及んでいることは案外知られていないのではないか。アルバート・トンプソンが設計したケープ・タウン郊外のパインランズは田園都市計画思想の直系の落とし子である。

 というのも、トンプソンはアンウイン・パーカー事務所の番頭さんだったのである。彼がバクストンの事務所に入ったのは一八九七年。一九〇五年、レッチワース計画に参加、一九一四年の事務所閉鎖まで勤めている。そして、その後のリンカーン郊外のスワンポール・ガーデン・サバーブは彼の仕事である。そして、彼は南アフリカへ赴くことになる。田園都市建設理想に共感したスタッタフォードの依頼にアンウインはトンプソンを派遣するのである。一九二〇年のことだ。

 歩いてみると、茅葺きの民家がところどころに残っている。レッチワースのアンウィン・パーカーの事務所は現在博物館になっているが同じように茅葺きだ。アムステルダム・スクールのパーク・メールウク(ベルヘン)の民家群を想い起こした。一期の工事が完成したのが一九二四年。七〇年以上の時が経過しているのに、まるで当時のままで、タイムスリップしたかのような錯覚を覚えた。

 ガーデン・シティ・トラストはやがてカンパニーに名を変え、実は驚くべきことに現在も存続している。一貫してニュータウン開発を続けているのである。

 パインランズの場合、結果的に白人に限定された都市であった。戦後一九五〇年の集団地域法の制定以降も白人地域に指定され続ける。ハワードの基本原理、自給自足、公的所有、周辺グリーンベルトなどが導入されたわけではない。しかし、南アフリカの特殊な背景、ゾーニング思想と文化相対主義の中で島のように存続し続けたのであった。

 トンプソンはその後ダーバンなどで宅地開発に携わった後、一九二七年南アフリカを去り、ナイジェリアへ赴く。三二年に帰国し、ブライトンで事務所を開く。一九四〇年死去。六二才であった。



③ジョハネスバーグ:ソウェト

 ソウェト(Soweto)とはサウス・ウエスト・タウンシップの略である。ジョハネスバーグの南西方向に位置する。一九六七年に住民の全てが強制的に立ち退きさせられたケープ・タウンのディストリクト・シックスとともに南アフリカで最も有名な「スラム」地区として知られる。ソウェトの名を世界的に有名にしたのはアパルトヘイトに対する一九七六年の蜂起だ。その名は微かに記憶にあった。

 アパルトヘイトの時代、集団地域法(一九五〇年制定)のもとで、南アフリカの都市は白人居住区、カラード居住区、インド人居住区、アフリカ人居住区に明確に分割されていた。ジョハネスバーグのアフリカ人居住区の象徴がソウェトである。居住区といっても広大なひとつの都市であり人口は三〇〇万人を超える。

 たまたま、仲良くなった運転手フィリップの案内でソウェトにある彼のお兄さんの家を訪ねた。度肝を抜かれた。インドネシアのカンポン(都市集落)を歩いて「貧困の居住地」には驚かないつもりであったが、全く異なった風景が延々と続いていた。一戸の大きさは二間四方、四角いブリキの箱がびっしりと立ち並んでいるのである。トイレはプレファブ製だ。異様である。ジョハネスバーグの白人住宅街とは余りにも対比的で、別世界だ。

 しかし、活気に満ちたコミュニティがそこにあった。車からの恐る恐るの覗き見では到底理解するところではないのであるが、カンポンの世界とある種通ずるものがあるというのが直感であった。フィリップのお兄さんの家は戸建てで三DKほど。結構広い。他にホステルと呼ばれる単身者向けの長屋建てがある。そして、ここそこに高級住宅街も出来つつある。マンデラ大統領の生家もソウェトにあった。

 一九九四年の総選挙以降、南アフリカは急速に変わりつつある。しかし、長年にわたるアパルトヘイトの後遺症は至る所に残っている。ジョハネスバーグの中心街には超高層のマンションやオフィスが林立する。一見モダンな大都会だ。しかし、その中心街から白人が消えつつある。例えば、ヒルブロウという地区など同じ町のまま完全に黒人街に変わってしまった。治安が悪いというので白人たちは北のサントンと呼ばれる地区にどんどん移住しつつあるのだ。

 多民族共住といっても容易ではないのである。


 



アパルトヘイトの現在

 

 「植民都市の形成と土着化に関する研究」という、いささか壮大なテーマを掲げた国際学術調査を開始することになった。まず対象とするのは大英帝国の植民都市で、南アフリカ(プレトリア)、インド(ニューデリー)、オーストラリア(キャンベラ)が主要ターゲット国である。まずは現地へと、一月余りで、ロンドン、アムステルダム(ライデン、デルフト)を経て、南アフリカ、インド(ムンバイ)に行って来た。最も長く滞在したのは南アフリカで、ロンドン、オランダは宗主国の資料を収集するための行程だ。

 例えば、ケープ・タウン。喜望峰(ケープ・オブ・グッド・ホープ)は、僕らには親しい。一四八八年にバルトロメウ・ディアシュが発見し、一四九二年には、ヴァスコ・ダ・ガマに率いられた船隊がここを抜けてインドへ向かう。大航海時代の始まりと世界史で習う。そのケープ・タウンを最初に建設したのはオランダである。ヤン・ファン・リーベックが一六五二年建設の礎を築いた。しかし、その後ケープタウンの地は一九世紀初頭英国の支配下に入る。ロンドン、オランダが資料収集の場所となる由縁である。

 アジアを歩き始めて二〇年近くになる。日本対西欧という見方ではなく、日本からアジアへ(あるいはヨーロッパへ)、どのように多様な脈絡を発見できるかを視点としてきた。しかし、植民都市ということをテーマにすることにおいて、植民地化の論理、ヨーロッパ側から世界覆う世界史的視座に触れざるを得ない。それは、かなり刺激的なことであった。例えば、ケープタウンの建設。同じ時期にバタビア(ジャカルタ)が建設されている。スリランカのコロンボもそうだ。三つの植民都市を比較する視点も当然のように思える。同じ時期、台湾のゼーランジャー城、プロビンシャー城も造られている(ヨーロッパではあんまり知られていないことがわかった)。例えば、ヤン・ファン・リーベック。彼は長崎の出島にも来ている。二〇歳で外科医の免許を取り東インド会社に雇われてバタヴィアを訪れる。その後トンキン(ハノイ)で貿易に従事。数奇の物語があってケープ・タウンに指揮官として赴任するのである。世界史の文脈に興味は尽きない(オランダには司馬遼太郎の『オランダ紀行』を携えていったのだけれど、池田武邦先生の名前が出ていた。縁は実に面白い)

 ところで、今回の調査旅行で最もインパクトを受けたのは南アフリカの都市政策である。アルバート・トンプソンという建築家、都市計画家をご存じないのではないか。彼はアンウィン、パーカー事務所で田園都市の計画に携わった。その彼は1920年代初期、南アフリカに渡り、田園都市を実現することになった。ケープタウンのパインランズである。まず、田園都市計画運動の世界史的展開を広い視野で見直す必要があると思った。しかし、それ以上にショックだったのは、田園都市思想が一九五〇年の「集団地域法」以降のアパルトヘイト政策の下で、セグリゲーション(人種隔離)の強力な役割を担ったように思えたことである。ホワイト、カラード、インディアン、ブラック。南アフリカの都市は明確にセグリゲートされている。ゾーニングの手法というのを徹底するとこうなる、というすさまじい現実である。田園都市に接してブリキのバラックが延々と立ち並ぶ地区がある。ジョハネスバーグのソエト地区が有名だ。田園都市の理想を徹底するとくっきりとしたアパルトヘイトロシティが成立する。日本の都市計画も本質的に同じ質を持っているのではないかと思うと一瞬背筋が寒くなった。



2022年1月12日水曜日

インタビュー「オランダ植民都市の変容と転成テーマに 『近代世界システムと植民都市』まとめる」,『日刊建設工業新聞』,2005年9月2日

 インタビュー「オランダ植民都市の変容と転成テーマに 『近代世界システムと植民都市』まとめる」,『日刊建設工業新聞』,200592

●日付=神子

◎建築へ/布野修司/近代世界

 

 布野修司氏(滋賀県立大学教授)が『近代世界システムと植民都市』を著した。3年前の『アジア都市建築史』では、ヨーロッパ史観によらない「アジア都市建築史」を初めてまとめた。その先にあるのが「世界都市建築史」だが、今度の研究もその流れにある。「世紀から世紀にかけてオランダが世界中で建設した植民都市は、現代の都市に至るものです。その変容と転成の過程をまとめたものです」。前著の倍近く、こちらも650㌻を超える大部なものである。そして「世界都市建築史」に向け、まもなく『世界住居誌』が上梓される。また、来年2月には『曼荼羅都市―ヒンドゥー都市の空間理念とその変容―』が上梓(じょうし)される。世界にも類例のない日本からの視点による研究書である。

 すべての都市は植民都市

 本書のテーマを簡潔にいうと、次のようになる。

 「ー世紀、広大な世界を支配したオランダが建設した数多くの植民都市とそのネットワークは、領域的な広がりとしてもシステムとしても、後の近代世界の礎をつくった。オランダ植民都市の空間構成を復元し、そのシステムを再検討しながら、世界の都市・交易拠点のつながりと、それぞれの都市が近代に至る変容と転成の過程を生き生きと想起することで、近代世界システムの形成史を視覚的に描き出すこと」

 ここで取り上げられているオランダ植民都市を見ると、世界制覇の広さと、さまざまな都市のつくられ方に驚く。なぜ、それが可能だったのか。布野氏はそれを「はじめに」と「植民都市論ー全ての都市は植民都市である」で論じている。

 出島は唯一の例外

 「近代植民都市の起源は、交易拠点として設けられた商館です。そこでの取引や貿易が、植民都市の第一の機能です」

 オランダ商館といえば、すぐに想起されるのが出島である。ここでは「オランダ植民都市の残滓」として取り上げられている。

 出島の前につくられたのが平戸で、そこに商館が1609年につくられる。その後、徳川幕府によって破壊され、その商館が人工の島、出島に移されてくる。そして1858年まで、出島はオランダ商館の所在地となる。

 布野氏は冒頭で、オランダ東インド会社、西インド会社による多くの植民都市の中で、出島は唯一の例外だった。オランダ人の生活にとって、出島は小さな空間に封じ込められた監獄のようだった。しかし、オランダが支配しつつあったのは広大な世界である、とのべている。その「広大な世界」とはなんであり、それが近代都市にどのように変容・転成されていったを解いたのが、ここでのテーマである。

 産業革命による世界の変化

 「世紀末から世紀前半にかけて、産業革命の進展で世界は大きく変わります。オランダに代わって英仏が中心となる。その結果、都市と農村の分裂が決定的になり、都市への大量の人口流入となる。これが統合化されつつあった世界システム全体に波及していく。それは国内にとどまらず、外国への大量移民となってくる。そのように世界を狭くしたのが、蒸気船と鉄道による交通革命です。その結果、生み出されたのがプライメイト・シティ(単一支配型都市)で、その核になったのが近代植民都市であり、これが近代都市づくりの手法に近く、世界遺産級の都市になっていったのです。今回はその前の時代をおさえたのです」

 「こうした類書はオランダにありますが、出島を入れたのは初めてです。日本独自の視点が不可欠だったのです。まとめるのに、年かかりました」

 『近代世界システムと植民都市』は京都大学出版会。5900円+税。

(了)

【見出し】布野修司氏(滋賀県立大学教授)、『近代世界システムと植民都市』を著す/―世紀、オランダの植民都市をとらえる/現代都市につながる変容

 


2021年10月23日土曜日

韓国近代都市景観の形成:段煉孺・李晶主編:『中日韓建築文化論壇 論文集』中国建築工業出版社

 韓国近代都市景観の形成:段煉孺・李晶主編:『中日韓建築文化論壇 論文集』中国建築工業出版社、20214 


韓国近代都市景観の形成

Formation of Modern Korean Urban Landscape

Spatial Formation and Transformation of Japanese Colonial Settlements in Korea

 

 

布野修司

 

 本稿は、布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民著『韓国近代都市景観の形成-日本人移住漁村と鉄道町-』(京都大学学術出版会,20105月)のエッセンスをまとめたものである。本共著の目次は、大きくは、序章 韓国の中の日本と景観の日本化、第Ⅰ章 韓国近代都市の形成、第Ⅱ章 慶州邑城、第Ⅲ章 韓国日本人移住漁村、第Ⅳ章 韓国鉄道町、終章 植民地遺産の現在、である。第Ⅱ章は、韓三建『韓国における邑城空間の変容に関する研究-歴史都市慶州の都市変容過程を中心に-』(京都大学,199312月)、第Ⅲ章は、朴重信『日本植民民地期における韓国の「日本人移住漁村」の形成とその変容に関する研究』(京都大学,20053月)、第Ⅳ章は、趙聖民『韓国における鉄道町の形成とその変容に関する研究』(滋賀県立大学,20089月)の学位論文がもとになっている。

 

 韓国の中の日本と景観の日本化

『韓国近代都市景観の形成』が対象とするのは, 朝鮮(韓)半島の古都慶州,そして日本植民地期に形成された「日本人町」「日本人村」である。朝鮮王朝時代に各地方におかれていた,慶州に代表される「邑城」が植民地化の過程でどのように解体されていったのか,その伝統的な景観をどのように失ってきたのかを明らかにすること,そして「日本人町」「日本人村」がどのように形成され,解放後どのように変容していったのかを明らかにすることをテーマにしている。具体的に取り上げているのは,かつての王都であり,朝鮮時代に「邑城」が置かれていた慶州の他,日本植民地期に形成された「鉄道官舎を核として形成された「鉄道町」(三浪津,安東,慶州,そして「日本人移住漁村」として発展してきた巨文島,九龍浦,外羅老島である。

『韓国近代都市景観の形成』がテーマとするのは韓国における近代都市景観の形成である。焦点を当てるのは,街並み景観,都市施設のあり方,街区構成,居住空間の構成であり,その変容について臨地調査を基に明らかにしている。

19世紀後半,急速に進んだ「開国」によって,朝鮮半島の社会は大きく変動していくことになる。近代都市の形成もその社会変動の一環である。

朝鮮時代の地方に置かれた「邑城」,開国以降の過程で解体される。もともと,「邑城」は,儒教を国教とした中央集権国家を打ち立て,維持する上で,地方統治の装置として設置された。中心に置かれたのは「客舎」であり,東軒」といった官衙施設であり,その他の宗教施設も商業施設も城壁内には置かれなかった。「邑城」は「地方の中の中央」であった。その「邑城」に植民地化に相前後して日本人が居住し始めると,日本の統治機構のために朝鮮時代の官衙施設などを改築し,あるいは解体新築することになる。そして,土地を取得して,日式住宅」を建て,商店街を形成するようになる。「邑城」,こうして「韓国の中の日本」となった。

「江華島条約丙子修好条約・日朝(韓日)修好条規)」1876227日)によって,釜山を開港させられ,「日本専管居留地」が設置されて以降,元山1879年),漢城,龍山1982年),仁川1883年),慶興1888年),木浦,鎮南浦1897年),群山,城津,馬山,平壌1899年),義州,龍巌浦1904年),清津1908年)と次々に「開港場」「開市場が設けられた。そして,「開港場」「開市場」に設けられた「日本専管居留地」「共同租界」,朝鮮半島にそれまでになかった景観(都市形態,街並み,建築様式)を持ち込むことになった。

 しかし、朝鮮時代の伝統的都市や集落の景観と異なる景観がより広範囲に導入されたのは,半島全域を鉄道線路で結んだ鉄道駅とその周辺に形成された「鉄道町」を通じてである。「開港場」「開市場」が置かれ,その後韓国の主要都市となった都市も含めて,半島の各地域の中心都市となった都市のほとんどは,鉄道駅を中心とする「鉄道町」を核として形成された都市である。「鉄道町」は,朝鮮時代以来の集落や街区とは異なるグリッド・パターン(格子状)の街区をもとにした新たな町として整備された。そして,「鉄道町」の中心には,「鉄道官舎」地区など日本人居住地が形成され,日本人が建てた建物が街並みを形成することになった。

そしてもうひとつ,「日本人移住漁村」もまた,「開港場」とは別に,はるかに一般的なレヴェルで,新たな景観を朝鮮半島にもたらすことになった。海岸部に接して密集する形態をとる日本の漁村と丘陵部に立地し,半農半漁を基本とする朝鮮半島の漁村とはそもそも伝統を異にしていた。「日本人移住漁村」の出現は,伝統的な集落景観に大きなインパクトを与えるのである。

開港期に造られた居留地(租界)の都市構造やそれを構成した建築様式を眼にすることは,朝鮮人にとって「近代」との最初の接触経験である。そして,全国的に広く形成された「鉄道町」や「日本人移住漁村」の「日式住宅」やそれが建ち並ぶ街並みは朝鮮人の都市,建築に関わる理念の変化に最も大きな影響を与えることになる。そして,朝鮮半島の居住空間のあり方そのものを大きく変えることになった。

 

 1 韓国近代都市の形成

 朝鮮半島における都市の起源は,日本同様,中国に求められる。すなわち,朝鮮半島最初の都市は, 三国,すなわち高句麗・百済新羅の王都に始まると考えられる。そして、朝鮮半島の都市の伝統は,朝鮮王朝時代の都城および「邑城」に遡る(図1①朝鮮時代の府・邑・面)。開国とともに出現することになる「開港場」「開市場」は、全く新たな都市である(図1②)。さらに,日本植民地期における近代都市計画導入が朝鮮半島の都市を大きく変えていくことになった(図1③市街地計画令適用都市)。


 

 2 慶州邑城

 慶州邑城の空間構成,その骨格をなす街路体系については,朝鮮末期に描かれたと推測される『慶州邑内全図』(図Ⅱ①)と『集慶殿旧基帖』が手掛かりとしてある。城壁内部の幹線道路は,他の「邑城」と同じく東西南北の城門を結ぶ十字街である。『舊基帖』の表記によると,十字路の中心から東門に至る街路は「東門路」,反対側は「西門路」である。中心から南北方向の道路の名称は確認できない。ただ,邑城の南門から南に延びる道路は「鐘路」と呼ばれたことがわかっている。この道沿いに「奉徳寺の大鐘」をぶら下げた鐘楼があったためである。

  『邑内全図』では小路は「客舎」の周辺に集中している。具体的には「客舎」の西側にある慶州邑城で最も広い街路と,「客舎」の東側にある郷射庁,府司,戸籍所,武学堂などの諸機関とを結ぶ接近路がそうである。

 『邑内全図』と地形図を比較してみると,100年を越える時間差があるのにもかかわらず,大きな変化は見あたらない。

 旧邑城とその周辺部を対象にし,土地台帳と地籍図をもとに変化をみると、邑城内部の東部里には国有地が最も広く分布し、終戦までほとんど所有者が変わらない。国有地には,郡庁舎,警察署,法院支庁,官舎などが立地し朝鮮時代の施設を再利用した。東部里における日本人の所有土地は,植民地時代の全期間において大きく増加した。それに対して朝鮮人の土地は大幅に減少した。終戦時点では,査定時に朝鮮人が所有していた旧邑城内土地の5割が減少し,邑城内に居住していた朝鮮人の半数が押し出されたことになる(図2②)。また,時期が下がるにつれ,日本人地主の出現が見られる。城内でも,朝鮮人が密集して居住していた北部里には,日本人所有地の増加はそれほど見られない。しかし,城外の路東里と路西里は宅地化が進み,終戦の段階でほぼ全てが宅地化される。ここでは,全体的な朝鮮人所有土地面積は減少していたが,宅地は面積が増加している。


 朝鮮時代の「邑城」には地方統治のための施設のみが集中しており,住民もこれらの施設に務める身分の低い階層が大多数を占めていた。「邑城」に居住しながら「守令」と地元住民の中間関係に立ち,地方官庁の実務を担当していた「郷吏」階層でさえ,本来は「邑城」の中では居住することが許されなかった。「邑城」の城門は,毎日決まった時刻に開閉され,用のない人々の出入りを禁止していた。また,僧侶などの「賎民」は「邑城」への出入りが許されていなかった。朝鮮末期の慶州邑城の光景を撮影した写真に,城門の前に,聖なる場所の入り口に建てる「紅箭門」が建てられているのを見ても,「邑城」は精神的な意味でもヒエラルキー的に区別された場所であった。

  朝鮮時代の地方都市,つまり「邑城」や統治施設が集中する地区は,空間的に中央の直接的な支配下に置かれていた。日本による植民地支配が始まると,空洞化した「邑城」の内部に,それまでの朝鮮人官吏に代わって,日本人官吏が入ってくることになった。官庁に務めていた「邑城」内の住民も失業者となり,他の職をもとめて「邑城」を去って行った。 邑城の内部は,朝鮮時代には「地方における中央」であり,植民地時代には「韓国における日本」であった。

 

 3 韓国日本人移住漁村

「日本人移住漁村」は,補助移住漁村」と「自由移住漁村」に分けられる。各府県,水産組合,「東洋拓殖会社」などによって計画的に移住が行われ,建設されたのが「補助移住漁村」であり,日本政府と「朝鮮総督府」は多大な補助と支援を行った。しかし,そうした多大な措置にもにもかかわらず,「補助移住漁村」の大半は,成果をあげることなく失敗している。これに対して,日本人が任意に移住,定着したのが「自由移住漁村」である。民間の漁民,商人,運搬業者などが主体となり,漁業のための生産・流通・商業の拠点として,また居住地として開発したものである。「自由移住漁村」の中には,失敗し衰退した「補助移住漁村」を引き継いだものもある。「自由移住漁村」の多くは,解放後には韓国の主要漁港として発展している。

韓国の伝統的漁村は主農従漁村あるいは「半農半漁」村が多かった。その大半は,丘陵性山地下端部の傾斜地に位置し,居住地は自然地形に従った曲線的形態を取る。これに対して,「日本人移住漁村」は海を生活の場とする純漁村あるいは「主漁従農」村が大半で,漁業,流通業,商業,加工業が複合する形で発展した。居住地は,海岸道路に沿って形成され,道路幅や敷地の規模は基本的に狭く,高密度に住居が建ち並ぶ都市のような形態をとる。すなわち,「日本人移住漁村」は,朝鮮半島沿岸部に,それまでになかった居住地空間と街並み景観を持ち込むことになった。


韓国の伝統的漁村の大半は,丘陵性山地の下端部に位置し,海岸を前にして背後には丘陵を持つ傾斜地形に集落が形成されてきた。伝統的漁村は,農業を基盤として漁業を兼ねている主農従漁村と半農半漁村がほとんどである。近所に農地があり,食物と飲料水を得やすい土地,そして海風が弱い地形を選んで集落が立地するのが一般的であった。居住地は比較的に平坦なところに石垣を部分的に積み上げ,整地してつくられた。居住地内部を貫く路地は自然地形にしたがった曲線形態であるのが普通である。

韓国の「日本人移住漁村」の分布(図3②)をみると,東海岸と南海岸に形成されたものが大半である。その中で,「補助移住漁村」はほとんど南海岸に集中しているが,「自由移住漁村」は南海岸を主としながら東海岸にも分布している。その形成時期をみると,南海岸が最も早く,続いて西海岸,最後に東海岸に立地したことがわかる。2 


「日本人移住漁村」の立地は,前述のように,,海岸,内陸水路の3つに大別される。特に海を生業と生活の場とする島や海岸に位置する漁村の場合,居住地は山のせまった狭隘地につくられる場合が多い。そのため街路や路地が狭く,家屋が肩を寄せるように密集して建てられ,共同井戸を利用して水を得ていた所が少なくない。こうした高密度な空間利用の集落形態が「日本人移住漁村」の特徴であり,それはそれ以前の朝鮮半島にはなかった形態である。「日本人移住漁村」の住宅は,日本の漁村とほぼ同様である。その特徴をまとめると次のようである(3)。


①漁村は生産と生活の場を異にする。漁民にとっては,海上の生活が主で陸上の生活が従である。陸上にある住居は休息を目的に作られているため,屋敷内には庭や菜園などは見られず,家の中に広い土間を持たない。

②漁民は住居を転々と変える傾向がある。それは家に対する観念が船に対する観念と共通しているためとされる。漁民は経済状態により大きな船を買ったり小さな船に変えたりするが,家もまた同様の感覚で住み替える場合が多い。

③漁民にとって,住居は伝統的な格式を示すものではない。家の大小はその時々の盛衰を示すが,漁民は家を通じて先祖を尊び,先祖の徳を誇るようなことはほとんどない。

④漁民の居住様式に,海上生活の様式が取り入れられる場合がある。船は一般に「表の間」,「胴の間」,「艫の間」に分かれているが,このような船に乗っていた漁民の住居には船住まいの様式がそのまま持ち込まれる場合がある。

 

4 韓国鉄道町

韓国のほとんどの地方都市は鉄道の敷設によって形成された「鉄道町」をその都市核としている。「開港場」「開市場」とともに鉄道沿線に形成された「鉄道町」は,韓国近代都市の起源である。日本植民地期に形成された「鉄道町」の街区構造は,伝統的な朝鮮半島の集落や「邑城」とは大きく異なり,それを転換していく先駆けとなる。また,鉄道の敷設とともに建設された「鉄道官舎」地区は,「日式住宅」が建ち並ぶ,朝鮮半島にそれまでなかった街並み景観を持ち込むことになった。


  朝鮮半島における鉄道の敷設は,1899918日のソウル-仁川間の京仁線の開通によって始まる。朝鮮の鉄道網において大きな軸線となるのは,京仁線,京釜線,京義線の3線である(図4①)。「鉄道町」の立地についてみると,まず港湾型・内陸型の2つがある。また,既存集落との関係によって,既存集落混合型・既存集落隣接型・開拓型(新町)の3つのタイプを区別できる。そして,鉄道線路と既存集落,新町との位置関係について,線路挟んで両側に既存集落と新町が形成されているもの,線路と既存集落の間に新町が形成されるもの,鉄道駅と新町が既存集落と離れているものの,3つのタイプを区別できる。

 「鉄道官舎」は,多種多様であったが,基礎となり基準となったのは,京仁鉄道株式会社,京釜鉄道株式会社,臨時軍用鉄道監部による3つの系統である。それらは「朝鮮総督府鉄道局」の標準設計図に集約されていく。大きく,一戸建て型,二戸一型,マンション(集合住宅)型,独身者宿舎型の4つのタイプに分けられる。一戸建て型は,3等級官舎や4等級官舎,そして5等級官舎の一部に用いられた。高級職員向けで,組石造である。最も多く建設されたのは二戸一式型で6等級,7等級甲,7等級乙,8等級官舎として採用された。木造軸組構法で,外装は土壁漆喰塗り,または,板張りで,屋根にはセメント瓦が使われた。このスタイルが「日式住宅」の原型である。


朝鮮半島には,「オンドル」と呼ばれる伝統的な床暖房方式がある。しかし,日本が持ち込んだのは畳の部屋であった。「オンドル」については,朝鮮半島の厳しい冬の気候に対応するために,逆に「鉄道官舎」に用いられる。

「鉄道官舎」は,解放後も鉄道関係の韓国人によって居住し続けられるのであるが,1970年代から1980年代にかけて一般に払い下げられることになる。共通に見られるのが「出入口(玄関)」の変化である。植民地時代に建てられた「鉄道官舎」は,ほとんど全てが北入りであった。しかし,北からの出入りは,韓国の生活慣習には受け入れられず,南入りに変更されるのである。そしてこの出入口の変化は,「鉄道官舎」の空間構成を大きく変えることにつながる。まず,南側に設けられていた庭が「マダン」に変わる。「マダン」も庭と訳されるが,鑑賞主体の日本家屋の庭とは違って,作業も行われる様々な機能をもった多目的な空間が「マダン」である。「マダン」によって,居住空間の構成は,大きく「道路-玄関-「廊下」-部屋-庭」から「道路-「デムン」-「マダン」-玄関-「ゴシル」-各室」へというかたちに変化する。ここで内部に出現した「ゴシル」は,現代的「マル」といってもいいが,吹きさらしの「マル」ではないから,伝統的住宅には無かったものである。

一方,「日式住宅」の要素で,韓国の現代住宅に受け入れられていったものもある。「襖」「続き間」「押入」などがそうである。韓国の一般的な住宅は,部屋の面積が狭く,「押入」のような「収納」空間は設ける余裕がなかった。「オンドル」を用いてきたためでもある。「襖」によって2つの部屋を1つに繋げる続き間は,一部屋当たりの面積が少ない韓国の部屋の問題点を解決した重要な工夫となる。

 韓国の伝統的住宅では,「アンバン」と「コンノンバン」の間の「デーチョンマル」は「マダン」と同様,多様に使われ,特に,法事などの祭事は「デーチョンマル」と「マダン」を利用して行われるなど,極めて重要な空間であった。しかし,「デーチョンマル」のような一定の広さをもつ空間を確保できなくなると,都市住宅では,「鉄道官舎」で導入された「日式住宅」の空間要素である「続き間」が用いられるようになる。「ゴシル」と「アンバン」の間に取り外せる襖を設置し,2つの空間を繋ぐことで,法事などの家庭の行事を行うようになるのである。現在,「続き間」は,都市住宅を始め,農漁村の田舎の住宅まで広く使われている,「日式住宅」の空間要素がして受容された代表的な空間が「続き間」である(図4③)。


 

5 日式住居の変容

「日式住宅」の導入によって韓国の住居は大きく変化した。玄関の出現,便所と浴室の屋内化,台所の変化,押入と続き間などの設置などは,「日式住宅」が大きな影響を与えている。一方,韓国の伝統的住宅本来の機能を保ち続けている空間要素もある。代表的なのは,出入口の位置,「マダン」「ゴシル」の出現と部屋の配置である。また,道路の「ゴサッ」化など外部空間の利用方法である。

① 出入口の位置

植民地時代に建てられた「鉄道官舎」は,ほとんど全てが北入りである。北側からの出入は,「鉄道官舎」だけではなく「朝鮮住宅営団」の公営住宅や解放以後建設された大韓住宅公社,ICA住宅,国民住宅の初期モデルにも採用されている。しかし,この北側からの出入は受け入れられず,1960年代前後からはほとんどの住宅で正面入口として南側に出入口が設けられるようになる。北入りの配置は,韓国の生活慣習には受け入れられなかったのである。

三浪津,慶州,安東の旧「鉄道官舎」では,北側にあった出入口のほとんど全てがその位置を変更している。南側への出入口変更が最も多く,地形的な理由で南側に設けられない場合には,東あるいは西側に設ける。当然,出入口の位置変更によって玄関の位置も「デムン」のある位置に移動される。

韓国の伝統的住居空間では,基本的に南入口を重視してきた。すなわち,寒い冬場に北側からの厳しい風を遮断するため,また,敷地と面している畑などに繋げる勝手口の利用のため,さらには,法事の時,先祖の霊が通る死者の通路と認識されているため,北側以外に出入口を設けるのが一般的だったのである。

②「マダン」

居住空間の変容としては,出入口の位置の変更,庭の「マダン」への転用,主屋の増改築,別棟の増築などが重要である。

出入口は,北側から南側へと位置変更が行われると共に「デムン」という名称に変わる。南側にあった庭は多用途空間である「マダン」に変わる。そもそも「マダン」は,韓国の住居の中心空間であり,各棟を連絡させる空間である。全ての「マダン」は,主屋の前面(南側)に位置し,付属棟によって囲まれL字型,コ字型,ロ字型の構成を採り,各棟を連絡している。

一方,「鉄道官舎」では,「マダン」ではなく庭としての機能が与えられた空間が主屋の南側に設けられていた。そして払下げ以後,出入口の位置変更と共に全ての住宅で庭が「マダン」へと変えられる。

こうした庭の「マダン」への転用は,単なる空間の位置や形態の変化ではなく,その空間の機能と意味の違いによる変化である。すなわち,「鉄道官舎」の主屋の南側に設けられた庭は本来室内から眺め楽しむ空間であり,様々な植物を植えるなどの庭園的空間であったが,多様な作業ができる,オープンな多目的空間としての「マダン」へ,陰陽思想の位置づけとしては陽の空間へ変化するのである。住宅に関わる陰陽思想によると,主屋が陰の空間で,「マダン」が陽の空間である。陰と陽の間の円満な循環を図っているためには,「マダン」に植物を植えることや,大きい物を置くなどはよくないとされてきたのである。「鉄道官舎」に導入された庭のような空間は,韓国人の生活習慣にはあまり適合しなかったと考えられる。

③「ゴシル」の出現

「鉄道官舎」は,中廊下によって部屋を繋ぐ中廊下式住宅である。こうした中廊下の形式は,解放後も1960年代まで使用される。しかし,通路の機能を持った中廊下は,「デーチョンマル」を中心としてきた韓国人の生活習慣にはあまり浸透せず,中廊下を拡張することで「デーチョンマル」の代わりとなる「ゴシル」が創出されることになる。

「デーチョンマル」によって2つの部屋が分離されていた伝統的な韓国住宅は,「ゴシル」の出現と共に,「ゴシル」を中心とし,各部屋が「ゴシル」に面する構成へと変化した。外部空間としての「マダン」は主屋を始め各棟と接している。そして内部空間に「デーチョンマル」の代わりの空間として表れた「ゴシル」は,主屋の中で部屋は勿論台所,ユニットバス,「チャンゴ창고」に直接面し,内部空間の動線をコントロールしている。「ゴシル」は,動線のコントロールだけではなく家族の食事空間,法事,団欒の空間などに使われる複合的な機能を持っている。

以上のように,現代版の「マル」であるゴシルは,韓国住宅において複合的な機能を内在化する独特な空間となるのである。

④道路の「ゴサッ」化

「鉄道官舎」地区は,各宅地が副道路によって囲まれ,「ゴサッ」を創る配慮は全くなされていない。それは,「鉄道官舎」地区だけではなく全国の住宅地でも同様である。街路の「ゴサッ」化は,「鉄道官舎」地区に限らず,韓国の各都市の居住地で見られる。「ゴサッ」は,失われつつあるコミュニティ空間の代償であると考えられる。