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2022年6月14日火曜日

バンドンーーコロニアル建築「インドネシア1870ー1945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,デルファイ研究所,199312

 バンドンーーコロニアル建築「インドネシア18701945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,atデルファイ研究所,199312


インドネシア・コロニアル建築

1870~1945

その2 バンドン

                京都大学アジア都市建築研究会編

 

 ハーマン・トマス・カールステンとヘンリ・マクレーン・ポントといっても、もちろん知る人は少ないだろう。二人はインドネシアの近代建築の歴史に大きな足跡を残したオランダの建築家である。インドネシアで活躍した建築家というと、前回に挙げたC.シトロエンやEd.キュイペルス、その他いくつかの事務所が挙げられるが、なんといっても代表はこの二人である。    年、H.P.ベルラーヘがインドネシアを訪れ、「オランダの近代建築の発展に匹敵するほど重要となるであろう、来るべきインドネシア建築に全てを捧げた二人の建築家」として言及したのがこの二人である。二人は、実は、デルフト工科大学の同級生であった。

 H.M.ポントがインドネシアを訪れるのは    年、  才の時のことである。しかし、もともと彼が生まれたのは、ジャカルタである(    年)。本国で教育を受け、デルフト工科大で建築を学んだのち、いわば帰ってくるのである。    年に卒業した後、アムステルダムの建築事務所で二年実務に携わった後、ジャワへ赴くのである。この仕事を終えた後、H.M.ポントはスマランに個人事務所を開設する。そして次第に仕事が増えていく。そこで、招いたのがH.T.カールステンである。H.T.カールステンがスマランにやってきたのは    年の暮れのことであった。

 しかし、二人のパートナーシップは、わずか二年しか続かない。性格が合わなかったらしい。H.T.カールステンは、アクティブであり、H.M.ポントはどちらかというと学究肌である。それに、H.M.ポントの健康がすぐれなかったことも大きい。彼は、    年にオランダに戻り、    年まで戻らない。    年には、H.T.カールステンに事務所の権利を売ってしまう。その後、二人は別々の道を歩むことになったのである。

     年、帰国中のH.M.ポントは工科系の教育機関の設計を以来される。    年に竣工した、現在のバンドン工科大学(ITB)である。 H.M.ポントは、インドネシアに着いて以来、時間をみつけてはインドネシア中を旅行し、土着の建築について調べている。余程魅せられたのであろう、その探求は徹底していた。やがて、ジャワ建築の研究にウエイトを移したほどである。H.M.ポントは、ジャワ建築の起源を探り、その本質を明かにしようとする。その架構の原理を解明し、それを現代建築に生かそうとする。伝統的建築の空間構成の方法を読み取り、それをうまく用いようとするのである。

 ITB以降の彼の作品は、そうした試みの積み重ねである。    年から    年まで、彼は東ジャワのトゥラウラン(       )に住んだ。マジャパイト時代について、考古学的、歴史的研究を行うためである。このためポントは、結果的に建築の仕事から遠ざかることになるのであるが、それでも珠玉のような作品を残している。トゥラウランの野外博物館の建物がそうである(    年)。そして、何よりも傑作だと思うのが、東ジャワのクディリの近郊にあるポサランの教会である。H.M.ポントの最後の作品である(         年)。        布野修司


バンドンとその都市遺産 

                               

ストリスノ・ムルティヨソ(アディチャワルマン工科大学講師)

                                                                       

 

 

1. 歴史

     年に極東におけるイギリスに対する拠点としてジャワを強化するために、当時のオランダ国王ルイ・ナポレオンの詳細な指示を携えて、オランダ総督H.W.ダーンデルスがジャワへ到着した。彼は鎖状につながる軍事防衛ユニットを考案し、これをジャワ北部の海岸に沿って効率的な交通手段で互いに連結した上で配置した。

しかし、バタビアとチレボンの間の海岸は全域に渡って湿地帯であったため、彼は南回りの道をとる方が容易であると判断した。これがプリアンガン高地を横断するグロートポスト道路(大幹線道路)                                 である。この道路は当時のカブパテン(県)の首都クラピャック         のバンドンの北、約    のところを通っていたことが判明した。 ダーンデルスは率直にブパティ(首長)にその道のそばへ移るように指図した。

 ブパティのウィラナタクスマル二世                       Ⅱは、古代の女神 ニイ・クントリング・マニック                    によって守られているとされるスムル・バンドン               と呼ばれる一対の聖なる泉に近いチカプンドゥン             川の西側の土手の、その道の南の敷地を選び、そこに彼はダレム(宮殿)とアルン・アルン          (広場)を造った。伝統に従って西側にはメスジッド・アグン             (大モスク)、東側には伝統的な市場(パサール)が置かれた。このようにして 花の都は誕生した。

   世紀の初頭以来、マタラム         の支配者によって、ジャワ西部はバタヴィアに引き渡されていたが、オランダは積極的にこの状況を利用しようとせず、やっと    年に エンゲルハート           がプリアンガン          でコ-ヒ-を栽培しようと試みただけであった。  世紀半ば頃カークホーフェンス            が、アッサムから紅茶の見本を輸入し、ユンフーン          が南アメリカからキナ皮          を紹介した。世紀末までに、プリアンガン高地は、コ-ヒ-、紅茶、キナ皮、ゴムの最も広く豊かな産地になっていた。

 こうして生まれた新興の富豪達は、彼らの週末の社交の舞台となる場所を必要とした。彼らは、自然に、街の中心で、かつ主要な道路に近いバンドンに集まることになった。    年代までに既に彼らは、シカプンダン川の東岸近くに 社交クラブを造りあげていた。その付近には、ホテル、パン屋、小売店、劇場、クラブハウス、そしてあらゆるはやりの娯楽施設が出来ていった。やがて今世紀の初めの十年のうちにパックス・ネルランディカ                 (「オランダの平和」)が宣言され、軍事政権から市民政権への移行をもたす。新政権は中央政府の行政負担を軽くするために非中央集権

政策をとった。最初に    年にバンドン自治体が設立された。当然の事ながら、こうした事情の変化は、都市としてのバンドンの表情に大きな影響を及ぼすことになった。

 ブラガ       通りの北端のさらに先に、中央から独立した新自治体政府を収容するための市役所が建設された。その後まもなく    年頃、こうした開発の動きは、軍司令部がバタビアからバンドンへ移された時点で、より大規模に行われるようになり、市民ホ-ルの東側の敷地に最高司令官の官邸、様々な役所、兵舎、住宅地区が建設された。  年代初めまでに、熟練した技術専門家の養成の必要から、バンドンの市民によって工業高校が設立された。時を同じくして 蘭領インドの首都をバタヴィアからバンドンへ移す計画が立てられ、街は、北に向かって拡張されることになった。

 首都地域は北東部に位置し、大通りが、名高いグヌン・タンクバン・プラフ                        に面しながら、南端に グドゥン・サテ              、他方の端に巨大なモニュメントを配して     の長さに渡って計画された。この大通りの両側の建物に植民地政府の本部が置かれることになったのである。

 シカプンダン川の東岸に沿って、現在のダゴ      通りと平行に、今なお見られる自然の風景のなかに工科大学のキャンパス、寄宿舎、職員用住宅がある。キャンパス内の古い建築物と外溝造園計画の巧みさには、その著名な設計者である ヘンリ・マクレーン・ポント                     の才能が感じられる。北西部には古いキナ皮工場に隣接して、市民病院とパスツ-ル研究所のための用地が確保された。

 こうした開発は、配置計画のレベルに止まらず、建築物、ひいてはメンテナンスの詳細についてまで丹念に計画された。戦争の直前の数年間はバンドンの黄金時代であった。老人や当時の都市計画者達は、今もそのときのことを懐かしく語る。それは我々全てにとって今なお古き良き時代              である。

 独立後は困難な時代だった。東プリアンガンで政治的に不安定な状態が、頂点に達し、その結果、人々は治安の保たれたバンドンに集まった。人口は、    年の  万人から、    年までに   万人に跳ね上がった。ところがこれで収束がついたわけではなかった。  年代のオイルブ-ム後の経済発展は人口増加をさらに加速し、    年には人口   万人に達したのである。

 独立後の時代の第一段階は、大まかに区切れば    年ぐらいまでで、古い建物の外装工事などを除いて、目立った建設活動は余りされなかったと言っていい。しかし新しく建物が建てられない代りに、古い建物が壊されることもなかった。    年以後の第二段階では、開発は郊外へ著しい拡がりを見せ、宅地開発は実質的に政府の管理を超え外れて激しく進んだ。主な通りでも道路幅の拡張計画が原因で、それに面した数え切れないほどの建物のファサードが、野蛮にも壊されることになった。

   年代中頃までに、それまで幾分安全だった古い市街地が今度は開発の波にさらされ始めた。経済の好景気はより広い場所と地位の象徴としての新しい建築的語彙を必要とするようになる。政府はこうした状況への対応策をたてるまでには至らず、社会も未だ意識的でなかった。しかし、商業論理は一人歩きを続け、結果として多くの儀性が出た。この間に今世紀初めの四半世紀の代表的な都市建築物がいくつか永遠に失われたのである。ごく最近の傾向としては、主に財政や銀行業務に関連する政策に拍車をかけられ、オフィス空間(主に銀行)が、著しく求められる。グロート・ポスト通り別名ヒガシ ヤマト通り(アジア・アフリカ通り)に沿って高層建築が建ち並んだ。今日ではバンドンはどんどんジャカルタに似てきている。もう一つ、どことも解らないようなメトロポリスができることになるのだろうか?

 

2.歴史的地域

2.1 中核地区

 この地区は東西には、レンコン・ブサ-ル                 通りからアスタナ・アニャ-ル               通りあたりまでで、南はバスタ-ミナル(クボン・カラパ             )、北は鉄道線路がその境界である。この内側がもともとの市街の中心であり、広場(アルン・アルン)もこの中にある。近代の中心商業地域は東側に、伝統的な商業地域(主に中国人所有)は、西側へ拡がる。南の地域は土着のカンポンであり、カンポン改善事業の残した跡が現在もみられる。また有名なブラガ通りもここにある。

 この中核地区は、近代化に伴う開発によって、最も多くの犠牲を払っている場所である。プンバングナン(建設)のために近隣の住宅地区さえすべて破壊されている。伝統的に一市街地の構成は周辺部をとりまき道路に面した商業建築物と、その背後に隠れたカンポンからなっている。無秩序な開発は、致命的にも商業部分が街区の内側にむかって侵食することにつながり、街区内には、ところどころに通りとの直接的な関係を絶たれた離れ島のようなカンポンが残っている。

 土着の建築物はこうした共食いとも言える状態の下で、最も苦境に立たされている。ダレム・カブパテンでさえすでに、自治当局自身の建物によって侵食されており、プンドポのみで分けられている。ダレム・カウム            とその近くの カパティハン           は、高層のショッピングプラザに変わってしまった。パサール・バル付近の古い中華街には、興味深い所もある。辛抱強く、そして少し運が良ければ、今でも奥まった所や間隙を縫うような所に、おもしろい家が見つかる。

 しかし、現存する重要な建築物を見るのにより適した場所は、東部である。建物の正面の多くはモダーンな看板で覆われてしまっているが、ブラガ通りがそのいい例である。昔の雰囲気を守りたいと言う多くの要望に答えて、市長はこうした場所に特別な注意を払っている。ブラガ通りがアジア・アフリカ通りにぶつかる付近は、最も良く町並みの保存されている場所である。地図を参照されたい。

 

2.2 官庁街

 市役所は、ヨ-ロッパ街の最も古い場所にある。しかし、建物は新しく、ほとんどの部分は  年代に建てられ、  年代から残っているのは、中央ホ-ルと市長公邸だけである。この複合建築は、市役所とそれを取り巻く公共建築物の前に位置する公園のあるもともとの市の中心と向かい合うように意図された。

 東南の角地にはカトリック教会があり、その建築様式は新ロマン主義である。ブルガ通りに面して、公園の南西の角を占めるのはインドネシア銀行であり、その反対側にブトル        教会が位置する。そして銀行と教会の間に、公立、私立の有名な学校が挟まれている。さらに北に進むと、軍の最高司令官の住居をちょうど越えた所に美しく保存された郊外住宅(ラントハァィス          )がある。その住宅の向かいのプルナワルマン             通りの角に現在はモスクに転用されている郊外住宅が、もうひとつある。

 アチェ通りを通って東へ行くと 軍事複合施設があり、最初にみえるのは、旧司令官の邸宅、次に美しいラル・リンタス             公園を囲むように国防省がある。さらに東には、今はスポ-ツグランドとして使われているマルク公園があり、そこからやや南に下った所に以前、年度行事に使われていた建物がある。その間を埋めるように将校のための住宅、兵舎と兵站、指令部の建物が建っている。こうした建築物のほとんどは、今もそのまま残されているが、内部に入る事は出来ない。

 北部はいわゆる首都たるべき場所で、    年代の不況によって計画が中断した時点では、たったひとつの建物しか出来ていなかった。それが有名なグドン・サテで、現在は、西ジャワ州の州知事の役所となっている。バンドンを訪れた際には、この美しい建物を是非、見ていただきたい。    年にJ.ゲルベル          によって設計された時は、平面図で左右に対称な翼廊が造られる事になっていたが、片翼のみが完成に至った。

 この建物の周りには公務員の住宅があり、高級将校の邸宅は、チラキ        通りとチサンクイ           通りに挟まれた川の土手部分にある。少し小さい規模の住宅は、チマヌック         通り、チルタヤサ           通り、バンダ       通り沿い付近に、最低ランクの住宅は、一般にもとからそこに居住していた人々のものだが、道を介して素晴らしい袋小路と接する環境のゲンポル        複合施設を与えられた。一部、全体的な景観に無配虜に、建物が修繕されたり、建て直されたりした事は惜しむべき事だが、なおかつこの場所は、訪れるに値するだろう。

 

2.3 科学公園

 今世紀初頭、オランダ領インドネシアは、科学研究活動の中心地としてその名をわ挙げていた。ほとんどの研究施設は、バタビア、バイテンツォルク            (ボゴール)とバンドンに集中していた。こうした施設のうち、バンドンにおける例としては、パスツール研究所と工業高等学校が挙げられる。

 パスツール研究所は、東方での医学的治療の必要を満たすために設立された。この美しい建物は、両側に塀を廻らした短い通りにある。この研究所は、市立病院の隣に建てられた。病院の正面部分はもとからのものだが、他の部分は後に付け加えらたものである。病院に勤める職員のための居住施設は、インドネシアで最も素晴らしい通りのひとつであるチパガンティ           通りに沿って建てられた。古いマホガニーの樹に覆われ、規則的な形態と壁面の深い彫りをもつ家々は静寂な印象をかもしだし、あたりの雰囲気に似つかわしい。

 パスツール研究所は川の西側に位置し、工科大学はその東側に位置する。

学校の一番の魅力は、キャンパスの一番主要な建物であり、デザインと技術に真に秀でたものである。その形態は、幾重にも重なった屋根と彫刻を施された庇を持つ、よく研究された伝統的なジャワの様式が用いられており、辺りの風景と完全に調和している。

 マクレーン・ポントの才能が本当に評価されるべきは、その内部空間においてである。建物全体が、鉄筋コンクリートの基礎の上に、鉄板、ワイヤー、ボルトで繋がれた集製材による近代的な構造で支えられている。この建物の周りに住宅施設があり、そのなかでも上等なものは、ダゴ通りに沿って造られている。現代建築家によって建てられた郊外型の住宅がここには多くある。その中でもウォルフ・シューマッハー                   が本当に素晴らしい住宅を建てている。

 

3 重要建築物

   中核地区

1A グドゥン・ムルディカ              

 この威風堂々とした建物は、社交クラブとして公式に使われた。独立後は、議会              がこれを利用したが、大きな行事が行われたのは    年のアジア・アフリカ会議が開かれたのが最初だった。

1B ホテル・グランド・プレアンゲル                    

 ウォルフ・シューマッハー による    年代に建てられた豪華なホテル 。シューマッハーハインド・ヨーロッパ・スタイル を追い求め、インドネシアとヨーロッパの様式を融合したスタイルで建てられた。    年代に、趣味良く改装された。

1C ホテル・サヴォイ・ホマン                 

 伝説的なホテルの再現として近代表現主義により建てられたが、近年、大幅に改装された。しかし、偉大なる  年代の雰囲気をいまだに伝えている。

1D ブラガ南通り                 

 その黄金時代の有名なショッピング・ストリートの古い部分であるが、ほとんどの建物は、他地域のものより新しい。ブラガホテル、サリナデパート、角地の前のデニスビル(現在の州立銀行)などがある。

1E ブラガ北通り                 

      年代に念入りな計画のもとに造られた。第二次大戦の少しあとまで、高級品を扱う商業の中心地であった。この敷地を改善し、保存しようとする計画は、技術的、法律的な問題に直面している。

 

3.2 官庁街

2A グドン・サテ             とその周辺

 官庁街の中心として大通りの南端に計画された。  最近になって現代的な趣になった。大通りには、西ジャワ記念碑、イスラムセンターができる予定である。

2B  ゲムポル        の住宅

 植民地政府の職員を収容する広い敷地の一部にこの美しい住宅はある。設計を担当したP.E.ウェナー           が、インドネシア人の一般の職員のための植民地住宅のデザインにおいて、土着の建築語彙を使用したことは興味深い。

2C 市役所 

  現在のような複雑な姿は近年の開発によるものだが、この区画は、もともと デ・ロー        により    年代に ムルデカ公園(旧                公園)と統合されたかたちでデザインされた。

2D 軍司令部

 最高司令官の堂々たる邸宅、国防省、年度行事の行われる広場をともなう大規模な複合施設で、その敷地内には美しい公園が散在する。

2E インドネシア銀行

 主要な建物は、エド・キュイペルス            によってジャワ銀行として設計された。現在は、中央銀行であるインドネシア銀行として使われており、最近になって東側に拡張された。

 

3.3 科学公園

3A ビオファルマ         (パスツール研究所)

 古典的な熱帯の大通りの例であるパスツール通りのそばにパスツール研究所は位置している。まだ完成までに  年以上を要するのはいたしかたないが、その古い敷地はもともとのデザインを残している。

3B 市立病院

 市街中心部のその前身である病院が、拡張の必要にせまられたときに、北西部郊外に病院を移転した。現在は、ハサン・サディキン                病院と呼ばれているが、より新しい設備を伴い、依然としてその役割を果たしている。

3C  チパガンティ通り               

  もともとの広がりは、パスツール研究所          と市立病院をその中心に据えた科学公園を収容する大きさであった。

3D バンドン工科大学                          

 インドネシアで最も古い、技術に関する第三段階の教育施設であり、静かな雰囲気が、ヘンリ・マクレーン・ポントによってデザインされた古い方の敷地に広がっている。しかしここでも、近代的な諸設備が、既に全体の計画を破綻させている。

3E ダゴ通り          

  まさにヨーロッパ地区の中心であり、依然として最も権威のある住宅地区として、その威光を放っている。近代の野蛮な建物の建設や商業施設の侵入を伴う無秩序な開発は、その存在を脅かしている。

 












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