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2022年6月5日日曜日

布野修司、西山良平、高取愛子 町家de春の京大トーク 京都「歴史」に住まう 『読売新聞』 2015年4月30日

 

町家de春の京大トーク 京都「歴史」に住まう 『読売新聞』 2015年4月30日

▼西山先生講演

 今回の町家トークでは「住まう」ということがテーマになっていますが、「住人」という言葉が初めて史料に出てくるのは985年です。つまり、人が「どこに住んでいるか」ということに重きを置くようになるのが西暦1000年頃ですが、実は平安京の町家も大体、同じ頃に成立したのではないか、と私は考えています。その頃、それまでの平安京とは断絶した、現在の京都の原型を生む非常に大きな転換があった。一言で言えば古代都城が衰滅して、道路と住人の結びつきが強くなったことが、町家が成立した要因なのではないか、ということです。

 その前の時代、平安京では、1町すなわち120㍍四方の大きな空間((まち)が細かく分けられ一般庶民に分け与えられました。そこに小屋あるいは小家と言われた町家当時は町家という言葉は無く、町家の語が使われるようになるのは鎌倉時代)が作られるわけですが、それらは基本的には道路に沿って並ぶわけですし、それぞれの奥行きは小さいですから、必然的に奥に空閑地ができます。これはいわば多目的共用空間というべきもので、井戸やトイレ、洗濯物の干し物といったような空間になる。つまり四面が道に面した区画の内側に共用空間がある、今日私たちが「四面(まち)」と呼ぶものが誕生する。その四面それぞれが自立して「片側(ちょう)」として地縁を結び、さらに向かいの片側町と合体していわゆる両側(ちょう)が誕生する。両側町の誕生はずっと後、応仁の乱の頃と言われますが、いずれにしても、西暦1000年頃に、町家の成立とともに「随近」「近辺」と呼ばれた地縁集団が誕生するわけです。

 これが現在の町内会などと違うのは、刑事事件に対応して自分達で制裁を加えることもある、つまりは現在と比べて広範な権限をもった集団だったということです。時代が下るにつれ、裁判権などは国家の側に移っていきますが、それでも江戸の中頃までは、町家を売買するときには町の了解が要りました。つまり家屋敷の保全が両側町の役割だったわけですね。空間としての町家の特性やその今日的な意味については、高取先生、布野先生にお任せするとして、そうした暮らしをどう保全し、改善し、継承していくかということを考えるとき、町家の成立とともに誕生した地縁、今日の言葉で言えば町内の持つ役割について、平安時代、中世、近世とは自ずと違った形にはなりますが、しっかり考えて行く必要があるのではないでしょうか。

 

 

▼高取先生講演

 私は大学で研究活動をする傍ら、京都はもとより全国で実際の住宅設計をしています。言うまでもなく、生活や文化は地域によって異なるわけですが、そうした差異を個別性や特異性として強調しつつ、それらを包み込むことのできる器としての住まいには、日本中あるいは世界中、不思議なほど共通点があります。中でも京都の町家には、人が心地よく住まうための普遍的な技術が数多く見られます。

 一般に京都の町家では、いわゆる「ウナギの寝床」と言われるような間口に対して、深い奥行きが目立っています。これは間口にかけられた税制度によるものと言われますが、こうした敷地形状の制約が、空間を豊かに見せるための様々な工夫や知恵を生み出しています。例えば、複数の庭を用いた伝統的平面計画は、都市化した街中集合居住への最適解を示しています。また、京町家に入るときは、少し頭を下げるような形で木戸をくぐった瞬間、一気に吹き抜けの垂直空間に投げ出されますが、京町家では、水平、垂直といった対比的な空間を並置することで、空間に抑揚がもたらされているのです。こうしたことは、現代的な課題のひとつでもある極小住宅の設計にも展開可能な事柄と言えます。

 さらに言えば、そもそも時代時代の厳しい要請に応じる形で発展してきたこと、その発展が、住まい手と作り手双方を主体にして行なわれてきたという町家の発展過程そのものにも、今日私たちが質的に豊かな人間生活に立ち返るための、一つの大きな解が示されているように思います。売り手から一方的に供給されるマンションや建て売り住宅のそれとは対局にある、住む事に実直に向き合うことの重要性が示されているのです。

 このような「暮らすための技術」は、空間や関係性に濃度というか、質的な湿り気(あるいはグラデーション)を与えるものであり、このような間(あわい)もまた、様式や形式をこえて、時代を超えた力強さを持っていると考えています。これからも残していくべき「京都らしさ」として、私はこうした点を強調したいと思います。

 

 

▼布野先生コメント

 碁盤目状の都市、すなわちグリッド都市というのは、古今東西に見られます。アジア全体を見ますと、伝統的な都市は、大きく中国とインドの二つの都市形式に分かれますが、中国の形式は、日本、韓国、ベトナム、台湾に影響を与えました。京都は、その中でも大変精密な寸法体系を持っています。世界中を見渡しても、1000年以上の長きにわたってこの規模と繁栄を維持した都市は、京都の他にはほとんどありません。その秘密の一つは、この強いグリッドにあることは間違いありません。もう一つ、世界の住居をおおざっぱに2種類に分類すると、中庭型と外庭型というようなものに分かれます。西山先生のお話しにもありましたが、都市に住むためにはどうしても道路に面して並ばなければならない。そうすると、どうしても風と光をとる空間が必要になる。そこを作業スペースにする。そういうことで必ず中庭が出来ます。大きくいうと京町家もその系列ですが、高取先生が指摘されたように、京都の町家は、都市における狭小な住宅のあり方としては最適な解と言えます。

 私は2004年まで京都大学にいて、京町家再生の活動にも取り組みましたが、そのときびっくりしたのは、巨大な合筆が起こったことです。土地というのは細分化されていくのが歴史だと思うのですが、小学校校区をまたがるような巨大なマンションが建つというような現象が起こった。もう一つ、京町家を今のまま建て替えようと思うとできない。消防法とかもろもろの問題があってそのまま再現するのは相当な壁がある。つまり、グリッドにしても町家に住まう技術しても、京都を今日まで持続させてきた普遍的な力というものが失われかねない。持続的な都市、持続的な都市生活というものを考えるとき、このことは、京都だけの問題ではありません。お二人がおっしゃるように、私たちが、都市に住まうと言うことに主体的に実直に向き合うことが大切になっているのではないでしょうか。

 実は今日の会場になっているこの建物(西村家住宅)は、戦後日本における近世町家建築研究の嚆矢となった、故野口徹先生の研究対象となった建物です。偶然とはいえ、こうした場所で、私たちの住まいと暮らしの未来を考えることが出来たことは、まさしく京都ならではの、貴重な機会だったと思います。

 

 

プロフィール

西山良平(にしやま・りょうへい)

 1951年、大阪府生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科教授。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。著書に『都市平安京』など。

 高取愛子(たかとり・あいこ)

 1975年、岡山県生まれ。京都大学工学研究科付属グローバルリーダーシップ大学院工学教育推進センター講師。1級建築士。

 布野修司(ふの・しゅうじ)

 1949年、島根県生まれ。前滋賀県立大学副学長・理事。『韓国近代都市景観の形成』『グリッド都市』で二度の日本建築学会著作賞を受賞するなど、多数の受賞歴を持つ。





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