このブログを検索

2022年6月16日木曜日

ジャカルターーコロニアル建築「インドネシア1870ー1945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,1994年2月

ジャカルターーコロニアル建築「インドネシア18701945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at19942


インドネシア・コロニアル建築

1870~1945

                                           

Ⅳ ジャカルタ       

                                    京都大学アジア都市建築研究会

 

 バタヴィアのモデルになったのはアムステルダムだと言われる。しかし、その運河のパターンを見るとアムステルダムより、デルフトに近い。オランダの都市計画思想がバタヴィア建設の背後にあるのは疑いの無いところだ。

 ひとりのオランダの都市計画家の名前が浮かんでくる。サイモン・スティーブン              である。彼は一五四八年生まれで一六二〇年に死んだ。コルネリス・ド・ハウトマンが艦隊を率いて西ジャワ、バンテンに到達したのが一五九六年六月であり、オランダ東インド会社総督J・P・クーンがポルトガル支配下にあったジャヤカルタを占拠したのが一六一九年五月三〇日のことである。まさにバタヴィア建設が開始されたその時期に生きた理論家であった。

 サイモン・スティーブンは、理想の港湾都市の計画を発表した。一五九〇年のことだ。バタヴィアの建設に当たってJ・P・クーンらが参照した可能性は大いにある。サイモン・スティーブン自身がバタヴィアの設計を行ったという説もあるくらいだ。彼の専門は港湾都市の計画であり、そのモデルは、アムステルダムやアントワープのような実在の都市であったとされる。

 サイモン・スティーブンのモデルは、長方形をしており市壁で囲まれている。その外側には市壁に沿って堀が巡らされる。街路パターンは、グリッド・パターンである。そして、市内にも運河が引き込まれ、これまたグリッド状に張り巡らされる。港湾都市の繁栄の鍵はウオーターフロントにあるというのが彼の主張であり、運河に沿って商業施設を配するのが基本なのである。運河も市壁も延長可能なように計画されており、運河に沿ってすぐ隣接して市域を拡大できるし、郊外の住宅地へとつなげることもできる。チリウオン川に沿ったバタヴィアの建設もまさにその理念にもとづいている。もちろん、サイモン・スティーブンのプランとバタヴィアのプランが全く同じというわけではない。しかし、運河を縦横に走らすその基本コンセプトは明らかに同じなのである。

 サイモン・スティーブンのモデルは、オランダのみならず、デンマークやスエーデンでも採用される。コペンハーゲンの新たな開発がサイモン・スティーブンに従って開始されたのは一六四〇年のことであり、スエーデン国王、グスタフ二世アドルフスによって新港湾都市建設のキャンペーンが開始され出したのが一六二〇年代のことである。イエーテボリが最初であり、一六四〇年代初頭にストックホルムが再計画されている。バタヴィアは世界最先端の港湾都市として計画されたことになる。

 ストックホルムの場合、グリッド・パターンはオランダの商業覇権を思わせるというので放棄される。それ以後、流行するのは放射状のパターンである。バロックの都市計画が支配的になっていったのであった。

 ジャカルタで今保存が問題になっているのは、この当初建設されたコタ地区である。そして、現在の中心であるムルデカ広場周辺、メンテン地区である。さらにあまり知られないが、もう一地区ある。チョンデットというチリウオン川の上流である。ジャカルタ原住民ベタウィの住む地区である。(布野修司)

 


ジャカルタとその都市遺産 

                              

ウイスヌ・アルジョ(ジャカルタ市都市保存課)

                                                                                

 

 インドネシア共和国の首都ジャカルタは、ジャワ島西部の北海岸に位置し、東南アジアでも最大級の都市である。人口は1千万人以上ともいわれ、インドネシアの政治と経済の中心地であるとともに、対外的にはインドネシアの表玄関であり、その果たす役割は大きい。市街地は南北におよそ20kmにわたって細長く発達し、北のジャワ海に面する。ジャカルタの地図を広げてみると、そのほぼ中心にムルデカ広場を探すことができる。ジャカルタはこの広場を中心に、その周辺の官庁街、その北部の商業・金融地区  コタ      、南部の住宅・文教地区の三つの地域から構成される。各地域とも、大通りに面してはホテルやオフィスといった大型の近代建築が並び、その裏側にカンポン(都市内集落、住宅地)が広がっている。

 ジャカルタを実際に巡ってみると、こうした近代的な建築の間に、ヨーロッパ風のコロニアル建築を見つけることができる。ジャカルタ全体を見ると、コロニアル建築の集中する地域は、北部のコタ地区とムルデカ広場周辺の二ヶ所である。かつてのバタヴィアの中心地と新中心地ウェルトフレーデンの場所である。

 

ジャカルタの形成

 

 現在のジャカルタの都市的発展は、    年にオランダ東インド会社総督J・P・クーンがジャヤカルタの地に商館を建てたことに始まる。 年後、ジャヤカルタを占領、破壊するとすぐさまバタヴィアの建設に着手し、    年にはほぼ完成する。運河と城壁に囲まれた長方形の市街地は、チリウン川によって東西に二分され、北東部には四つの突起を持った星型のバタヴィア城が位置する。ここには事務所、倉庫、上級職員の居住区、兵舎、小さな教会などがあった。市街地内では中世オランダ風の町づくりがなされ、縦横に運河が走り、隣接した建物がそうした運河に面して建ち並んでいた。そしてバタヴィア城を南に下ったところには市街地の中心地として広場が設けられ、それを囲むように市庁舎、教会、病院などが建てられた。

 建設当初は、オランダ人、奴隷、チャイニーズ、日本人、イギリス人などの多くの民族による複合社会が形成されていたが、しだいにオランダ人以外のほとんどの民族は城外に移住させられるようになり、民族ごとに独自のカンポンを形成していった。同時に町から 時間ほどのところにバタヴィアを囲むように要塞が設置され、そこに通じる運河や道路が建設された。東のアンチョール       、南東のジャカトラ         とノードウェイク           、南のレイスウェイク          、西のアンケー       である。    年にはさらに外側に要塞が置かれ、これによりバタヴィアを中心として二つの同心円が形成されたことになる。この頃から現地諸民族やチャイニーズの手によって、後背地の開発が盛んに進められ、バタヴィアの食糧生産地である第一の円と、その外側の輸出用砂糖生産地という構図ができあがる。また、ヨーロッパ人もカントリーハウスを建設し、郊外に居住するようになる。その良い例を、現在の国立公文書館に見ることができる。

 このようにオランダの町すなわちアムステルダムを模倣したとされるバタヴィアは、一時は「東洋の女王」と呼ばれるほど反映を極めるが、    年の突然の死亡率の上昇以降衰退の一途をたどる。もとよりオランダ式の町は、運河が埋まりやすく、住居は換気が悪いといったように、熱帯に適応しにくいものであったが、    年の火山噴火や、砂糖栽培のための後背地の乱開発がチリウン川の排水系を破壊し、バタヴィアの不衛生化をさらに促進する大きな要因となったとされる。

 こうして「東洋の墓場」とまで呼ばれるようになったバタヴィアに代わり、  世紀末には後背地への中心の移動が始まった。ウェルトフレーデンと呼ばれるこの新しい中心地の建設は、総督ダーンデルスによって計画される。中心にウォーターループレイン[現バンテン広場]が設けられ、その前に総督府(    竣工)が建設された。またカトリック教会(    年完成、現存するものは    年再建)や、現在の最高裁判所など、ムルデカ広場を囲む今日のジャカルタ中心部の原型が作られてゆく。途中(    年~    年)、イギリスの統治下に入るが、計画に大きな変更はされていない。残された旧市街地には中国人が残り、チャイナタウンとなって商業地区の性格を強めていくことになる。

   世紀を通じて、町はさらに拡大していく。チリウン川の洪水を制御するために町の東西に新しい運河が建設された。また南部が積極的に開発されると共に、    年には従来の港の キロ東にあるタンジュン・プリオクで新港の建設が始まった。その結果、ジャカルタは南北に長い典型的な直線都市として発達してゆく。    年にはバタヴィア、バイデルゾルフ[現ボゴール]間に鉄道が開通し、郵便局、電信局、電話局といった近代的通信施設も設置された。こうして次々と新しいインフラストラクチャーを備えながら、ジャカルタは近代都市へと発展してゆく。しかし、政府はヨーロッパ人のためにできており、こうした設備の恩恵は彼らのみが享受できるものであった。インドネシア人にとってはカンポンが生活の場であり、運河が日常の便宜を与えてくれるものであった。

  植民地経営を通じて、その宗主国は植民地に多くの問題を残していったが、その反面、良質な建築遺産も形成したのである。開発の波が押し寄せ、そうした遺産が今後の方向性を求められている現在、保存という一つの解答が検討されている。

 現在ジャカルタには、保存が決定され、改修・再利用されている建築がいくつか存在する。カントリー・ハウスであった国立公文書館や、財務局、海運総局などは、国の施設として利用されている。観光と結びついたものとしては、   庁舎であったジャカルタ歴史博物館、倉庫であったバハリ博物館、コタ地区を流れるカリ・ブサール運河に架かる跳ね橋などが挙げられる。ジャカルタ・マスタープランでは、ジャカルタ歴史博物館があるコタ地区東部を保存地区として捉え、地域計画で緩やかな建築の高さ規制などを制定しているが、どれも概念的な提示であり、将来像についての明確な示唆は見られない。現在行われている保存も、断片的に行われており、いきあたりばったりといった感が強い。

 今後の方向性として、体系的な保存が求められるであろうが、そこにはジャカルタ全体の将来像が必要となる。コロニアル建築が、インドネシアの都市を色づける要素として確実に定着したとき、ジャカルタは真にインドネシアの首都となっているのではないだろうか。

 

歴史的地域

 

1.コタ地区

 海に北面したこの地区の範囲は、東西にはチリウン川からアンケ運河まで、南はグロドック地区までであり、建設当初のバタヴィア市域にあたる。現在は、商業地区の性格を持っている。開発があまりなされなかったため、ここにはかなりのコロニアル建築が現存する。特に中央を真っ直ぐに北進するカリ・ブサール(大運河)の両側には各時代のコロニアル建築が隣接して並び、さながらオランダの町並みを思わせるほどである。なかでも最も古い建築は    年代に建てられたトコ・メラ            である。もとはファン・イムホフによって建設された平入り二階建ての邸宅であり、保存状態も良い。このように良好な状態で保存されているものがある反面、取り壊しの危機に直面しているものも多く、町並みとしての価値が薄れつつある。

 カリ・ブサール運河の東部はバタヴィア時代の中心地であり、ファタヒラ広場周辺には、ジャカルタ歴史博物館、芸術絵画博物館                 、郵便電話局、ワヤン博物館といった建築が現存し、歴史的な景観をよく残している。そのすぐ南部にはコタ駅を中心として、インドネシア銀行やブミ・ダヤ銀行といった比較的新しい建築が並ぶ。運河の西部はバタヴィア時代の町割りは残すものの、良質のコロニアル建築はほとんど見られない。北部には倉庫が博物館として活用されたバハリ博物館があるが、全体的には、状態の悪い倉庫群とカンポンで占められている。北部の発展が遅れている理由に、東西に走るジャワ鉄道によって南部と分断されたことが挙げられる。  世紀初頭のVOCの倉庫が現存しているが、保存状態は悪く、対策も施されていない。

 コタ地区南部はチャイナタウンとして完全にその姿を変えている。ピントゥ通りにはショップハウスが軒を並べ、活気のある商業地区を形成している。パンチョラン通りとの交差点には、大型のグロドック・ショッピングセンターがあり、コタ地区の南端を象徴している。

 

2.ムルデカ広場周辺

 今日のジャカルタの政治的中心地であるこの地区には、その政治的機能と結びつく形で歴史的建築が残っている。バンテン広場の東には、広場に面して旧総督府[現財務局]がある。この建築はダーンデルスによって、アンピール様式で計画され、母屋の両側に大きな門でつながれた別棟を持っている。バンテン広場に残るもう一つの建物は    年に建てられた最高裁判所で、ネオクラシック様式である。旧総督府の北側にあたり、前面の神殿風のポーチコが特徴的である。つづいて旧総督府の前の道を北上すると、グダン・ケセニアン通りとポス通りの角に旧バタヴィア劇場が見つかる。これは    年にアンピール様式で建設されたものである。

 コタ地区からガジャ・マダ通りを南に下るとムルデカ広場に出る。この一辺 キロにも及ぼうかというムルデカ広場の北側にあるのが大統領官邸である。正面にはコリント式の柱を備えた幅の広いポーチコが広がっている。この官邸の裏側にはベテラン通りに面して、美しい  世紀のカントリー・ハウスが残っている。ムルデカ広場の東側、ガンビール駅の正面にはイマニュエル教会が位置する。J.H.ホースト設計によるこの教会は、高い基壇の上に円形の平面を持ち、ドリス式の柱がポーチコに並ぶ。さらに広場の西側には、ドリス式のポーチコを備えた典型的なネオクラシック様式の国立博物館がある。

 中心に独立記念塔を備えたムルデカ広場は、もともとは後の開発のために保留された場所であるが、コロニアル建築が現在の国家的な機能を備えてその周辺に比較的数多く残っていることもあり、現在はむしろジャカルタの中心として象徴的な空間を生み出している。

 

3.その他の地域のコロニアル建築

 コタ地区とムルデカ広場周辺以外で特筆すべき建築は、国立公文書館とチキニ病院女子寮である。国立公文書館はコタ地区とムルデカ広場のほぼ中間、ガジャ・マダ通りの西側に位置している。    年建設のカントリー・ハウスで、ヨーロッパ人がバタヴィアから移住し始めた頃の住居の様子を示す良い例である。ド・クレルクによって建設された二階建ての建物であるが、正面に庭園を配し、街道からやや離れるように建設された。オランダのオリジナルと比べると、軒の出が深い上、窓が小さく天井も高くなっているが、これは熱帯の気候に適するように工夫されたものである。

 ムルデカ東通りをしばらく南に下ると、ラデン・サレ通りと交差する。その通りにチキニ病院女子寮はある。スマラン出身の画家、ラデン・サレが    年建てた自邸で、フランス・ネオ・ゴシック様式の建物である。ファサードは非常に装飾的であり、ロマンティクな様相を持っている。

(訳 堀 喜幸)













0 件のコメント:

コメントを投稿