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2021年4月19日月曜日

現代建築家批評36 建築の根源 建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道06

現代建築家批評36 『建築ジャーナル』201012月号

現代建築家批評36 メディアの中の建築家たち


建築の根源

建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道06

 

白井晟一という希有な建築家が亡くなって(1983年)、30年近い月日が流れた。日本の近代建築を代表する建築家であった前川國男が亡くなったのはその少し後である(1986年)。二人は同い年の1905年生まれで、晩年仲がよかった。前川國男は、一足先に逝った白井晟一の葬儀で「日本の闇を見据える同行者はもういない」という弔辞を読んだ。

前川國男が亡くなって20年、2005年の暮れから2006年にかけて、前川國男の生誕百年を記念して「前川國男展」が全国各地で開かれた。同じ年の3月、前川國男の弟子であり、ともに戦後日本の建築をリードしてきた丹下健三が亡くなった。丹下健三と言えば近代日本が生んだ最大の「国際建築家」である。

その死によって否応なく時代の終焉を感じていた頃、白井晟一の次男である昱麿さんから電話があって30年振りに会った。何故か偶然、丹下健三の設計したビルの中のしゃれた居酒屋であった。積もる話に時を忘れるようであった。

取り立てて用事はないということであったけれど、白井晟一展の話があまりうまくいっていないこと、「虚白庵」を手放さざるを得ないこと、などが後になって気になった。気にしてもどうなることでもない。ただ、「虚白庵」はどうにかすべきではないかと、前川展を中心的に切り盛りした松隈洋や日本建築学会で頻繁に顔を合わせていた宇野求、早稲田で白井展を手伝ってもいいといっていた中谷礼仁には、相談を持ちかけてはみた。しかし、そのまま時が流れて年が明け、再び昱麿さんから電話があった。最後の梅見になるから虚白庵に来ないか、という誘いであった。松山巖さんに声をかけて、二人でお邪魔して楽しい時を過ごした。暗闇の中で楽しい時間を過ごした。そして、建築を志した頃のことを震えるように思い起こした。

その後の経緯は省こう。小さな声が少しずつ集まって、実行委員会とはとても呼べない集まりが出来て、ひとつの流れになった。そして、白井晟一展が実際に開催されたのである(「白井晟一 精神と空間」群馬近代県立美術館 2010年 9月11日~11月3日)。また、来年には東京のパナソニック汐留美術館でも開かれる(2011年 1月8日~3月27日)。

原点としての白井晟一

白井晟一は、僕の「建築」の原点であり続けている。理由ははっきりしている。僕が「建築」について最初に書いた文章が「サンタ・キアラ館」(1974年、茨城県日立市)」についての批評文なのである。悠木一也というペンネームによる「盗み得ぬ敬虔な祈りに捧げられた(マッ)()―サンタ・キアラ館を見て―」(『建築文化』,彰国社,19751月号)と題した文章がそれである。『建築文化』誌(彰国社)の田尻裕彦編集長が、一体何故、大学院生で「建築」のケの字も知らない、海のものとも山のものともわからない僕を白井晟一という大建築家の作品の批評家として指名したのか、未だに謎である。

 「サンタ・キアラ館」を一日見て、「<求めよ>とささやかに彫り込まれた石の脇を抜けてキャンパスに導き入れられた私は確かに、何か別のある事件の出現を息をつめながら求めて(・・・)いた。・・・(マッ)()の周囲を徘徊する。二つの(マッ)()の交接と見えたものは、そのものズバリの官能的エロスを擽る。楕円の量塊の何ともいえない曲線と(くび)れ込んだ凹部はやけに艶かしい。そういえば私の立っているここは、うら若き乙女たちの園であった。二つの量塊のディアレクテーク。ここでは、アーティキュレートされずに、閉ざされた楕円の赤い塊りに、白い壁面と、大きく開かれた窓をもつ不定形の、鋭角の楔がしっかりと噛み合っている。二つの鮮やかな対照が淡い光の中で、対話(ディアローグ)し、交歓(コレスポンド)しているように見える」などと書いている。読み返して、「建築」に触れたという思いがありありと蘇ってくる。

 以上のみであれば、悠木一也の個人的な体験で終わったであろう。しかし、いま読み返しても恥ずかしさに顔が火照ってしまうような拙い文章が掲載されてまもなく思いもかけないことが起こった。「虚白庵」に来なさい、と声をかけて頂いたのである。出迎えてくれたのは次男の白井昱麿さんであった。本人は不在でいささか肩すかしであったが、かえって「虚白庵」を隈なく見ることができた。なんといっても「もの好きで見たがる人があっても、住居の中の公開は遠慮する」(「無窓無塵」)という「虚白庵」なのである。机の上に、道元の『正法源蔵』が毅然と置かれており、凛とした「暗闇」の身に引き締まる感覚を今でも覚えている。何よりも仰天し感激したのは、どこの馬の骨とも分からない怪しげなペンネームの筆者に、5万数千円もする、上梓されたばかりの限定番号入りの『白井晟一の建築』(中央公論社、1974年)を贈呈して頂いたことである。

 幸か不幸か、その後も白井晟一の肉声に直接接することはなかったが、白井昱麿さんが父・白井晟一を徹底的に客観視するために創刊した『白井晟一研究』(Ⅱ、1979年)に「虚白庵の暗闇-白井晟一と戦後建築」と題した文章を書く機会を与えてもった。白井晟一とその建築そのものを問うというよりも、白井を通じて、日本の「戦後建築」を問う構えをとった論考である。この白井晟一論を核にして、僕は、処女論集『戦後建築論ノート』(相模書房、1981年)を書いたのである。

 

白井神話の誕生

僕が「建築」を志した頃、白井晟一という「建築家」は、謎めいた、神秘的な、実に不思議な存在であった。逝去後30年近い月日が流れた今、稀有な「建築家」であったという思いはますますつのる。

白井晟一が「親和銀行本店」で日本の建築界最高の賞である日本建築学会賞を受賞するのは1968年である。63歳であった。善照寺本堂」で高村光太郎賞を受賞(1961年)しているとは言え、建築界の評価としてはあまりに遅い。しかも、受賞にあたっての評言は「今日における建築の歴史的命題を背景として白井晟一君をとりあげる時、大いに問題のある作家である。社会的条件の下にこれを論ずる時も、敢て疑問なしとしない。」という留保付きであった。

 同じ1905年生まれの前川國男が、「日本相互銀行本社」(1952年)「神奈川県立図書館並びに音楽堂」(1954年)「国際文化会館」(坂倉準三,前川国男,吉村順三連名、1955年)「京都会館」(1960年)「東京文化会館」(1961年)「蛇の目ビル」(1965年)と立て続けに建築学会賞を受賞してきたのに比較して、白井晟一の評価は、それまで薄く、冷たかったといっていい。前川國男は、同じ年、「近代建築の発展への貢献」というタイトルで、1ランク上の日本建築学会大賞を受賞しているのである。

 「日本の近代建築を主導してきた前川國男」VS「近代建築の主流から外れた「異端の建築家」白井晟一」という評価がここにある。こうした構図からはいささか意外に思われるが、ふたりは交流があり晩年も『風声』同人として親しかった。同い年で、同じように戦前に渡欧した経験のある二人の建築家の対比、そして二人が共有していたものは興味深い。

受賞以降、白井晟一は一躍脚光を浴びることになる。「親和銀行」(Ⅰ期Ⅱ期)に続いて「虚白庵」「NOΛビル」「サンタ・キアラ」「懐霄館」と立て続けに傑作が発表されるのである。結果として、白井晟一を「大いに問題のある作家」といった「問題」の内容が問題であり、「疑問なしとしない」といった内容が「疑問」であったことになる。

振り返って1960年代の日本建築をリードしたのは丹下健三であった。建築ジャーナリズムを賑わした1950年代半ばの「伝統論争」において丹下健三と白井晟一は対局的と見なされた。そして、時代を制したのは丹下健三である。「東京カテドラル聖マリア大聖堂」(1964)「国立屋内総合競技場」(1964)「山梨文化会館」(1966)と傑作が次々に話題を呼び、1970年の日本万国博覧会(大阪万国Expo70)のマスターデザインが時代を華々しく表現することになった。1960年代を通じて丹下健三は世界を代表する国際建築家となったのである。

しかし、1960年代末に日本の建築シーンはがらりと変わる。丹下健三の仕事は海外が主となり、日本から消えてしまう。この鮮やかな反転を象徴するのが白井晟一である。この過程を僕らははっきり証言できる。

1968

僕が大学に入学したのが、白井晟一が「公認」された1968年である。「パリ5月革命」の年だ。日本では東大、日大を発火点にして「全共闘運動」が燃え広がり、学園のみならず、街頭もまた、しばしば騒然とした雰囲気に包まれた。東大は6月に入ると全学ストライキに入り、ほぼ一年にわたって授業はなく、翌年の入試は中止された。大学の歴史始まって以来の出来事であった[i]

磯崎について書いたけれど、「私は年齢的には1960年世代だけど、建築家としての思考のしかたは1968年に属している」[ii]と、1968年に拘り続ける建築家が磯崎新である[iii]。磯崎新は、「1968年世代」の「異議申し立て」、「反」「叛」、「造反有理」、「自己否定」に共感し、共鳴し続けるのである。その磯崎新が1968年の初頭に「凍結した時間のさなかに裸形の観念とむかい合いながら一瞬の選択に全存在を賭けることによって組み立てられた≪晟一好み≫の成立と現代建築のなかでのマニエリスト的発想の意味」[iv]という長たらしいタイトルの白井晟一論を「親和銀行本店」をめぐって書いた。この白井論の影響は圧倒的であった。

既に触れたように、丹下健三の事務所URTECを退職して磯崎新アトリエを設立する契機になった「大分県立中央図書館」によって日本建築学会賞を37歳で受賞する。白井の受賞の前年である。翌年には、これまた白井晟一に1年先んじて「建築年鑑賞」を受賞、続いて「福岡銀行大分支店」で文部大臣選奨新人賞を受賞する(1969年)。僕らは、颯爽とデビューした磯崎の白井論を読んで白井晟一を知ったのである。原広司もまた逸早く白井晟一にインタビュー[v]を試みていた。磯崎新の白井論に、宮内康[vi]、長谷川堯[vii]が続いた。原広司の『建築に何が可能か』(1967年)、宮内康の『怨恨のユートピア』(1969年)、長谷川堯の『神殿か獄舎か』(1972年)、そして磯崎新の『空間へ』(1970年)『建築の解体』(1975年)は、僕らの必読書であった。新進気鋭の建築家・批評家がこぞって白井晟一へのオマージュを捧げるのである。これは、明らかに建築ジャーナリズムにおける歴史的事件であった。

聖地巡礼

僕が「サンタ・キアラ館」について書いたのは、こうした白井ブームの渦中であった。

「白井晟一について語ることは必ずしも容易ではない。白井晟一とその作品をめぐる言説を支える一つの出来上がった構造(いわゆる白井神話)があり、あらゆる言説がそうした前提を免れ得ないでいるからである。白井晟一の特異性を支える構造がすでに語ろうとするものの内部に存在しているのである。極端に言えば、白井晟一については、ひたすらオマージュを捧げ完全なる帰依を表白するか、ひたすら無関心を装いつつ完全なる無視を決め込むか、そのどちらかが許されているだけのように思えるほどである。しかし、当然のごとく、後者の吐露が言説として定着されないとすれば、あらゆる言説が白井神話を増幅し、彼を神格化するヴェクトルのみをもってしまうのである。その結果、白井晟一とその作品を相対化し、それなりのコンテクストへ位置づけようとする試みの方がその説得力を欠いているようにみられてしまう。神話に拮抗するだけの言説を産み出し得ないのである。」[viii]

何故、白井神話なのか。不可解だからである。白井晟一とその作品群がわからないのである。第一に、白井晟一の作品が多義的でわかりやすい位置づけを許さない。すなわち、日本の建築が語られてきたこれまでの文脈では理解できないのである。第二に、白井晟一の履歴が不明で、謎に満ちている、ということがある。謎は謎を呼ぶ。結果として、白井晟一とその作品群は多義的なテクストとして読まれ、場合によっては、矛盾を含んだ両義的な位置づけを許してしまう。

あるものはそのコスモポリタニズムを指摘し、またあるものはその日本的なるものの一貫性を指摘する。あるものはその「精神主義」を賞揚し、またあるものは「物質の肉化」をうたう。あるものは、ラディカルな「変革者」を見、またあるものは「反動的な保守主義者」をみる。あるものはその「フォルマリズム」を指摘し、またあるものはその「ラショナリズム」評価する。あるものがその「マニエリズム」を指摘すれば、あるものは「マニエリスト」とは程遠いという。

とにかく「白井晟一神話」によって、1970年代を通じて、白井晟一の作品を巡る「建築行脚」は「聖地巡礼」とも呼ばれ、建築学生あるいは若い建築家たちの必修科目となった。白井晟一の「呉羽の舎」の図面集『木造の詳細3住宅設計編(呉羽の舎)』(彰国社、1969年)は、実際設計製図の教科書だった。高崎在住で、「煥乎堂」「松井田町役場」の仕事に絡んで濃密な付き合いがあった建築家水原徳言のもとには、白井晟一を卒業論文のテーマとする建築学科の学生が度々訪れることになった[ix]

 

建築の根源

以上を枕に、展覧会の図録に、求められるままに白井晟一論を書いた。白井晟一の戦前期についても僕なりに納得できた。白井論を書き上げて、たまたま平戸に行く用事があり、佐世保で親和銀行本店・懐霄館を35年振りに見た。アーケードにファサードを塞がれ、猥雑な景観に取り囲まれながら、少なくとも外見上はびくともしないで建っていた。虚白庵も含めて、戦後建築の名作と言われた作品が次々に建て替えられていく中で、その姿は頼もしかった。建築は、やはり、容易に壊されないという表現の力が必要なのだと思う。

白井晟一について、改めて考えたのは、建築するという精神である。そうした意味で、1933年に帰国して、東京・山谷に二ヶ月暮らした後、建築家として生きることを決断、懸命に建築修行に没頭した時期と、書を始め、虚白庵に篭もった時期にとりわけ興味を引かれる。白井晟一がジャーナリズムを意識してきたことは間違いない。しかし、最終的には建築の根源のほうへ向かっていったように思える。

建築の根源のほうというのは、建築の生み出される現場である。建築の要素となる素材である。さらに、建築を組立てる素材である。

白井晟一の石や煉瓦への拘りは際立っている。「松井田町役場」では、上州で敷石に使われていた多胡石を使っている。「親和銀行東京支店」では四国高松郊外庵治村の花崗岩を使った。流正之の紹介だという。「大波止支店」では、九州産の粘板岩、懐霄館では諫早石が用いられた。地域産材に限らない、韓国や北欧の石も求める。直接仕事のない時には、各地の石材倉庫や石工作業を見て回った。現場の諸職には、常に「きみたちがやっている仕事、つまり建築そのものが施主なんだ。・・いつでも建築はきみたちをまん前からみている。石が、硝子が、壁が・・・みられていない瞬時もないんだよ」(「聴書 歴史へのオマージュ」)といい、竣工式の祝宴などには出なかった、という。

結局、僕が白井晟一に学んだ最大のことは、経験すること、考えること、そうした上で建てることではないか、と思い至った。

「思索と経験なんていうけれど、それは別々のものではないと思うんだ。・・・不断のエキスペリメントの中で自分をたたいていく以外ないよ。手っ取り早くはいかない。」

 



[i] 今年(2010年)417日、東京に雪が舞ったが、41年前の全く同じ日にも、東京に雪が積もったことを思い出す。「東大闘争」は、1969119日の「安田講堂」陥落の後、急速に収縮し始め、4月には授業が再開されていて、大講義室の外に季節外れの雪が積もっていくのを呆然と眺めた記憶が鮮やかである。

[ii] 「メタボリズムとの関係を聞かれるので、その頃を想い出してみた」『反回想Ⅰ』(GA,2001p.20

[iii] 拙稿「磯崎新1968 ラディカリズムの原点」『建築ジャーナル』20106月号、pp.48-51

[iv] 『新建築』19682

[v] 「人間・物質・建築」『デザイン批評』676

[vi] 「近代の告発」『建築文化』19697月号

[vii] 「呼び立てる<父>の城砦」『近代建築』19721月号。

[viii] 虚白庵の暗闇-白井晟一と戦後建築」『白井晟一研究Ⅱ』1978

[ix] 水原徳言「」

2021年4月18日日曜日

現代建築家批評35  建築の継承  世代交代 建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道05

 現代建築家批評35 『建築ジャーナル』201011月号

現代建築家批評35 メディアの中の建築家たち


建築の継承  世代交代

建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道05

 

昨年、還暦を迎え、今年、この原稿を書いている中国行脚の間に61歳になった。昨年秋、東洋大学、京都大学、滋賀県立大学の教え子たちが、京都と東京で、2度にわたって還暦を祝う会を開いてくれた(本誌200911月号に紹介記事)。これまでの業績リストもつくられ、否応なく、自らの軌跡を振り返る年となった。もっとも、ひとつの区切りは、2005年に京都から彦根へ拠点を移してきたときから意識していて、これまでの仕事をまとめる作業はこの間既に続けてきた。『近代世界システムと植民都市』(編著、京都大学学術出版会,2005年)『世界住居誌』(編著、昭和堂,2005年)『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』(京都大学学術出版会,2006年)“Stupa & Swastika”( Shuji Funo & M.M.Pant,  Kyoto University Press+Singapore National University Press, 2007)『ムガル都市--イスラーム都市の空間変容』(布野修司+山根周,京都大学学術出版会,2008年)に続いて、『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』(布野修司+韓三建+朴重信+趙聖民、京都大学学術出版会、2010年)を上梓できた。今年『アジア都市建築史』(昭和堂,2003年)の中国語訳『亜州城市建築史』(胡恵琴・沈瑶訳、中国建築工業出版社、20103月)が出版されたが、今回、上海、天津、南京、杭州、主だった書店には全て並んでいて、なんとなくうれしくなった。『世界住居誌』の中国語訳も既に出ていると書店で聞いた。われながら、集中して仕事してきたと思う。

実は、この連載もその一環として考えてきたところがある。「現代建築家批評」そして「メディアの中の建築家たち」をうたいながら、いささか回顧的なトーンが漂ってきたのはそのせいである。しかし一方、若い建築家の動向にも注目してきた。滋賀県立大学には「談話室」という学生の自主組織があり、年に何回か、建築家を招いて講演会をしている。その内容は『雑口罵乱』(2007年創刊、年刊、現在3号まで刊行)にまとめられている。山田脩二、山本理顕、松山巌といった大御所も含まれるが、学生たちが関心をもつ若い建築家たちを招いて直接話を聞いてきた[i]。例えば、藤本壮介、ヨコミゾマコト、馬場正尊、佐藤淳、西沢立衛、芦澤竜一、森田一弥、坂口恭平、岡部友彦、藤村龍至、山崎亮といった、いずれも30歳台半ばから40歳代にかけての面々である。多くは、最早僕の教え子たちの世代と言っていい。還暦を祝ってくれた研究室出身の建築家としては、森田一弥の他、渡辺菊真、山本麻子、丹羽哲也、丹羽大介、吉村理、黒川賢一、松岡聡、柳沢究、魚谷繁礼、正岡みわ子、水谷俊博、北岡伸一などがいる。

メディア革命・・・1995以後 

藤村龍至(1976-)の「グーグル的建築家像を目指して-批判的工学主義の可能性」という講演は、若い世代の時代認識を伺う上で実に面白かった。『1995年以後次世代建築家の語る現代の都市と建築』(エクスナレッジ2009年)を編んで、同世代の建築家、研究者をオルガナイズする仕掛け人であり、批評家の資質をもった建築家だと思う。この4月から東洋大学講師ということで、32年前、同じように東洋大学に職を得て、育ててもらった僕としては、全く私的なシンパシーを抱いた。

藤村に拠れば、決定的なのは1995年である。携帯電話が一般化し出した年である。携帯電話の前身は、第二次世界大戦中にアメリカ軍が使用したモトローラ製のウォーキー・ターキーWalkie Talkie、すなわちランシーバーである。大阪万博(1970年)にワイアレスホンが出展されていた記憶があるが、実用化されるのは1980年代である。そして、本体に液晶ディスプレイが搭載され、通信方式がアナログからデジタルに移行するのが1990年代半ばである。1995年以後の世代とは携帯で育った世代ということになる。

「グーグル的建築家像」というけれど、グーグルの原型となるバックリンクを分析する検索エンジンが開発されたのが19961月であり、普及は21世紀に入ってからのことである。まさに問題はこれからということだろう。紙を媒体とする建築メディアが力を失ってしまってきたことはこれまで繰り返し触れてきた通りである。今では即時に情報が飛び交う。ツィッターで、この講演、授業、講評会はつまらない、などとやられるのである。140字程度のつぶやきには思考の密度はない。大きな問題を孕んでいると思うけれど、マーケティングの分野、ネットワーキングの分野では武器になる。

ネットワーキング                  

何故、携帯の普及、グーグル検索の普及と建築が絡むのか。コミュニケーション手段の拡大によってコミュニティのあり方は決定的に変わる、ということである。山本理顕の提出した課題に藤村龍至が答えた「地域社会圏モデル-国家と個人のあいだを構想せよ」(INAX出版 2010年)は、その現時点の答えである。

山崎亮(1973-[ii]は、その武器を充分活用しつつあるように見えた。ランドスケープ・アーキテクトとして、「デザインからマネジメントへ」をうたうが、その仕事は様々な分野に広がる可能性がある。地方都市のデパートを再生したり、離島の村おこしを仕掛けたり、まったく正統なまちづくりのアプローチである。加えて、世界中に情報発信し、プロジェクトを起こすスケールをもっている。地域が、小さな企業や自治体が、機動力のあるコーディネーターを欲している。大手のコンサルタント会社や広告代理店、中央の天下り財団が幅を利かせる中で、穴がいくつも開いているのである。

藤村龍至もまた勇ましい。近い将来1000人の事務所にするという。思わず、その昔、石山修武が「ゼネコンをひとつぶっつぶす」といっていたことを思い出したが、その意気やよしである。若い世代も捨てたもんじゃない、のである。藤村の場合、もうひとつ「批判的工学主義」なる、いささか難解そうなキーワードを提示するのであるが、その設計プロセス論の展開に、C.アレグザンダーを思い出して、さらにシンパシーを覚えた。方法に立ち入る余裕はここではないが、着実に設計をまとめる手法の提示がある。CAD時代に、徹底して模型をつくるのもいい。ボトムアップには確実に繋がる手法である。

都市へ

石山修武と言えば、馬場正尊(1968-)[iii]、坂口恭平(1978-)は石山研究室の出身だという。馬場正尊は「都市を使う世代の建築家」、坂口恭平は「都市狩猟採集民の暮らし」をうたう。都市へアプローチするというのは、いずれも共通している。問題はどうアプローチするかである。

馬場正尊の場合、大手の広告代理店(博報堂)に就職した後、研究室に戻った経緯があり、編集者としての顔も持っていて、さらに、建築界のサッカー大会であるA-Cupの仕掛け人、マネージャーでもある。馬場正尊に会って、その昔サッカー少年であったころが刺激され、毎年、ACupに参加するのが楽しみとなった。宮本佳明、中村雄大、小泉雅生、五十嵐太郎、塚本由春、貝島桃代らに会えるのも楽しみであるが、何よりも身体を動かすのがいい。滋賀県立大学(フノーゲルズ)は2008年準優勝である。僕は2008年に続いて2009年もBOPBest Old Player)賞をもらった。参加するだけでいいらしい。

馬場正尊の多彩な活動のなかで、時代を確実に射抜いているのが「東京R不動産」である。不動産業といえばそれまでであるが、コンヴァージョン、リニューアルの時代に中古市場を新たな視点で掘り起こした意味は大きい。ここでもインターネット世界がその発想と事業を支えている。「都市を使う」という発想と個別の設計作業をどう統合していくかが課題となるであろう。ACupや「東京コレクション」がきっかけとなって研究室の石野啓太がオープン・エーに飛び込んだ(入れてもらった)。トップランナーということで朝日新聞の土曜日版に馬場正尊が取り上げられた写真の片隅に入社したばかりの石野君の姿を見出して研究室は大盛り上がりであった。時代は確実に動いていくのである。

坂口恭平は、まるで今和次郎のように、東京を歩く。そして、ホームレスやセルフ・ビルダーの不可思議な物件を発見して回って採集してきた。『バラック浄土』で著作デビューした師匠(石山)譲りである。自らの身体で自らの棲家を建てること、この「建てること、住まうこと、生きること」が同一である位相は、「世界内存在」としての原点であり、建築家の遺伝子として引き継がれていくのだと思う。坂口恭平の場合、採集狩猟したものを「アート」として表現するほうへ向かいつつあるように見える。その行き着く先をみたい。

 

「寄せ場」から

岡部友彦(1977-)の場合、都市の「寄せ場」、具体的には横浜・寿町に直接関わってきた。「コトづくりから始めるまちづくり」をうたうが、馬場はそうではないかもしれないけれど、坂口にしても、都市に建築家として関わるという構えは薄い。それはそれで真っ当である。この間、日本建築学会でも「コミュニティ・アーキテクト」の職能としての可能性を議論してきているが、岡部友彦の場合、既にそれを突破してしまっている。

大阪西成の「あいりん地区」でもそうだが、かつての「ドヤ街」は大きく様変わりしている。ビジネスホテル化してきたのはかなり以前からであるが、「サポーティブ・ハウス」など行政の施策展開とも関連しながら、新たな居住形態とサービスのかたちが、貧困ビジネスも含めて出現しつつあるのである。岡部友彦は、「ドヤ」を改装して、外人バックパッカーや一般の観光客にも部屋をホテルとして提供する事業が地区にのめり込むきっかけとなった。ここでもインターネットによる予約システムが大きな武器になっている。

岡部のプロジェクトは、コンビニで余る弁当などを入手する仕組みを構築、低価格で定食を提供する食堂を経営したり、選挙への投票呼びかけをイヴェント絡みで展開するなど、多彩である。

東洋大学時代の教え子たちが組織する「鯨の会」では、八巻秀房が中心になって、林泰代さんを顧問に「CA(コミュニティ・アーキテクト)研究会」を展開してきているが、多くの若い芽が育っていると思う。京都府宇治市の「ウトロ」地区の居住環境改善に取り組む寺川政司などもそうである。

「ウトロ」には、今年の5月これからのまちづくりを考えるシンポジウム[iv]に呼ばれて話す機会があった。そこで『韓国近代都市景観の形成―日本人移住漁村と鉄道町―』を紹介しながら、「韓国の中の日本」について話した。するとまもなく、韓国から、この本で取り上げた日式住宅が建ち並ぶかつての日本人移住漁村・九龍浦の保存修景、街並み整備計画をめぐるシンポジウム[v]に招かれた。「日本の街並み整備とその諸問題」と題した基調講演の中で「ウトロ」(日本の中の韓国)に触れた。相互に共同作業が出来ないか、と両方で訴えた。アジアを股にかけた仕事がこれからは増えていくに違いない。

迫慶一郎(1970-)、松原弘典(1970-)は既に中国で大活躍である。この9月に滋賀県立大学の布野研究室で学位を取得した川井操(1980-)は迫さんを頼って中国デビューを目指しているところである。

 

マイノリティ・インターナショナル

 森田一弥(1971-)は、修士課程を終えて左官修行に入った。「大文」さんのところに弟子入りした竹村雅行(富嶽学園日本建築専門学校)など変り種が多い布野研究室でも筋金入りである。京都の「しっくい浅原」で、金閣寺, 妙心寺などの文化財建築物の修復工事にたずさわった後、設計を開始した。もちろん当初から建築家を志していたのであり、左官の年季明けには個展を開いている。この学年には、竹山聖研究室出身の平田晃久(1971-)や先に名を挙げた渡辺菊真、山本麻子など逸材が多い。伊東豊雄事務所を経て独立したことで、平田の方が名前が売れているのかもしれないけれど、森田も既に数々の賞[vi]を受賞して、海外からオープンデスクに来る学生がいるほどである。特に、大阪建築コンクールの渡辺節賞 (Shelf-Pod )を若くしての受賞したのは、その才能を多くが認めている証左である。

左官職人としての経験が大きく作用しているといえるだろう。「バードハウス」や「コンクリート・ポッド」などにそれがうかがえる。スペイン留学もあって、カタラン・ヴォールトに今興味があるという。

その森田は、「マイノリティ・インターナショナル」をうたう。いささか分かりにくいが、地域に蓄積された建築の知恵や技能の体系は、インターナショナルに確認し、共有できるのではないか、ということであろうか。工業化構法などによる、あるいは新技術による新奇な形態のみ追いかけるインターナショナリズムではなく、すなわち、グローバルな資本主義の展開に寄り沿うのではない、地域に根ざした、地(じ)の手法をマイノリティといいながら、積極的に押し出そうとするのである。

おそらく、そうした問題意識を共有するのが同級生である渡辺菊真である。その土嚢建築は世界を股にかけ始め、アフガニスタンからウガンダに及び始めている[vii]。ヨルダンでは石造建築を手掛けた。国内では「角館の町屋」があるが、どんな僻地であろうと飛んでいきそうな菊真であるが、高知を拠点に活動を開始し始めてもいる。これからの展開が楽しみである。

建築の自由

「談話室」が招いたアンダー50の中で、ヨコミゾマコト、西沢立衛は別格である。西沢立衛の場合、SANAAで妹島和世とともに建築界のノーベル賞といわれるプリツカー賞[viii]を受けたばかりである。プリツカー賞といえば、日本人としては、丹下健三、槇文彦、安藤忠雄につぐ4(5)人目である。第1回のフィリップ・ジョンソン(1979年)を筆頭にそうそうたるメンバーが並ぶ。大家の道を歩み始めたといえるだろう。「談話室」でのやりとりで、実に感性豊かで理論家肌じゃあないですね、と評したら、「建築設計資料集成」について修士論文を書いたんです、とむきになって反論したのが面白かった。吉武研究室の流れを汲む建築計画研究室の出身だという。まことに勝手にシンパシーを抱いた。確かに、「森山邸」はある型破りの「型」の提案である。この路線には期待したい。

ヨコミゾマコト(横溝真)には初めてだと思ったけれど、「いやあ、むかし一緒に飲みましたよ」といわれて驚いた。伊東豊雄事務所時代、伊東豊雄につれられて新宿の飲み屋でカラオケやっているときにたびたび居合わせたという。1988年から2000年まで伊東事務所にいて、2001年に独立、新富広美術館の国際コンペで勝って本格デビューということになるが、独立以降すぐに手掛けて、HEMFUN2002)、HAB2003年) 、TEMMEMMSH2004年)といった住宅、集合住宅の一連の作品を見せてもらった。ローコストの悪戦苦闘にスマートに答えを出すのがいい。1970年代初頭、安藤忠雄、伊東豊雄、山本理顕・・この連載でとりあげてきた建築家が全て、住宅から出発した頃を改めて思い出した。予算的にも敷地環境にも決して恵まれた条件にはないコンテクストにおいて創意工夫の回答を試みる、その姿勢に共感を覚えた。特に、鉄板を主架構に用いる一連の作品は一つの今日的チャレンジである。「単純な複雑さ」をねらうのだというが、単純でいいと思う。2009年、母校である東京藝術大学の准教授となった。大いなる飛躍を期待したいと思う。

「新しい座標系」を提示する藤本壮介は、最もオーソドックスな建築少年に思えた。とにかく建築が楽しくて仕方がない、といった雰囲気を全身かもし出すのがいい。アイディアを力づくでものにするんだという気迫がある。この連載でとりあげてきた建築家たちはみんな建築少年であった。どこまで建築少年でありうるかが勝負である。

安藤忠雄事務所の出身である芦澤竜一(1971-)は、さらに大胆に「建築の可能性」を追求しようとしている。東京の早稲田大学出身にも関わらず、関西の水があうのだろう。かつての「関西三奇人」を髣髴させるところがある。構造デザイナーとして期待される佐藤淳(1970-)は、任期付きというが東京大学に特任準教授となった。「構造は自由を失わない」と建築士法の改悪に敢然と異を唱える。実に頼もしい社会派でもある。

こうして見ると若い学生たちが話を聞きたいと思う建築家が、それぞれに魅力ある仕事をしていることは言わずもがなのことである。

ゲラをチェックする校正の段階で、編集担当の山崎泰寛さんが「石上純也氏に触れていらっしゃらなかったのですが、何か理由がおありでしたでしょうか。ご存知のとおり、妹島事務所出身の石上さんは、神奈川工科大学の工房をはじめ、展覧会で次々と問題作を発表しています。繊細で感覚的な作風だと言われがちですが、なかなか揺るぎない信念のもとに建築をつくっている方のようにも思います。また、9月にベネチア・ビエンナーレで金獅子賞を受賞したのも、記憶に新しいところです。」とメールをくれた。以上にあげた建築家たちは、「談話室」という学生たちの集団が招いた僕が直接あった建築家たちだけである。それでも多士済々なのである。石上純也はもとより、世界の各地ですぐれた若い建築家たちが数多く魅力ある仕事を試みつつあるに違いないのである。

問題は、その仕事を厳しく育てていく批評であり、そのネットワークであり、そのメディアである。グローバルな視野と鋭い批評眼をもった若い世代の批評家、編集者も出現してもらわねば困る。


[i] 2005年以降のラインナップは以下のようである。

19回   鈴木 喜一 氏 (建築家):第20回   宮城 俊作 氏 (ランドスケープアーキテクト)『庭と風景のあいだ』:第21回   藤本 壮介 氏 (建築家)『新しい座標系』:第22回   山田 脩二 氏 (写真家)『この国の津々浦々、その景観の品格』風化する素材()の品格:第23回   ヨコミゾ マコト 氏 (建築家)『単純な複雑さ』:第24回   山本 理顕 氏 (建築家)『建築をつくることは未来をつくること』:第25回   馬場 正尊 氏 (編集者・建築家)『都市を使う世代の建築家』:第26回   佐藤 淳 氏 (構造家)『構造は自由を失わない』:第27回   中村 好文 氏 (建築家)『Architect at home』:第28回   西沢 立衛 氏 (建築家)『近作について』:第29回   芦澤 竜一 氏 (建築家)『建築の可能性』:第30回   飯田 善彦 氏 (建築家)『assemblage』:第31回   松山 巌 氏 (作家・評論家)『歩き、触れ、考えること』:第32回   森田 一弥 氏 (建築家・左官職人)『マイノリティー・インターナショナルな建築』:第33回   坂口 恭平 氏 (建築探検家・アーティスト)『都市狩猟採集民の暮らし』:第34    岡部 友彦 氏 (建築家)『コトづくりから始めるまちづくり』:第35    藤村 龍至 氏 (建築家)『グーグル的建築家像を目指して-批判的工学主義の可能性』:36    山崎 亮 氏 (ランドスケープアーキテクト)『デザインからマネジメントへ』

[ii] 1992 4 月 大阪府立大学農学部入学/1995 7 月 メルボルン工科大学環境デザイン学部留学(ランドスケープアーキテクチュア学科)/1997 3 月 大阪府立大学農学部卒業(緑地計画工学専攻)/1999 3 月 大阪府立大学大学院農学生命科学研究科修士課程修了(地域生態工学専攻):2006 4 月 東京大学大学院工学系研究科博士課程入学(都市工学専攻):1999 4 ()エス・イー・エヌ環境計画室入社:2005 4 studio-L 設立: 2006 8 ()studio-L 設立:株式会社studio-L 代表取締役、(財)ひょうご震災記念21 世紀研究機構主任研究員、京都造形芸術大学(2005 年-)・大阪工業技術専門学校:(2006 年-)・近畿大学(2007 年-)・京都市立芸術大学(2008 年-)・大阪工業大学(2009 年-)・武庫川女子大学(2009 年-)非常勤講師。技術士(建設部門:都市および地方計画)。一級造園施工管理技士。

[iii] 1968年佐賀県伊万里市に生まれる1994年早稲田大学大学院卒業()博報堂に入社(2001)1998年 「A」を光琳社出版より創刊2001年 早稲田大学大学院建築学部建築学科博士過程に復学同学科満期退学「R-project」を()スタート2002 BABA ATELIER Ltd.を設立(2003Open Aに改称)2002年 家具のデザイン工房(有)ワークショップウェアを沖縄市に設立著書1998年「A」(雑誌[A]編集部)2000R THE TRANSFORMERS R-book制作委員会

[iv]  2010523日、「新しい住環境整備へ!ウトロ調査事業の報告集会」早川和男、布野修司、中村尚司、寺川政司、厳明夫の5人のパネル、司会、斎藤正樹。

[v] 201079日、浦項市。「九龍浦学術セミナー」。

[vi] 2001タキロン国際デザインコンペ 2等(「SHELL-TER」)、JCDデザイン賞2001 新人賞(繭):2002日本建築士会連合会賞 奨励賞(繭):2003 JCDデザイン賞2003 入選(ラトナカフェ):2004日本建築士会連合会賞 奨励賞(ラトナカフェ):20052回コンクリートアートミュージアム 佳作(Concrete-Pod ):2006 JCDデザイン賞2006 銀賞(Concrete-Pod ):2006 AR AWARD 2006 (イギリス) 優秀賞(Concrete-Pod ):2008 INAXデザインコンテスト 入賞 (Shelf-Pod )2009大阪建築コンクール 渡辺節賞 (Shelf-Pod )

[vii] 2002年天理エコモデルセンタ-(奈良県天理市):2002年神戸アフガン交流公園施設 (兵庫県神戸市)2004年双極螺旋計画 (アフガニスタン)2005年角館の町家 (秋田県仙北市)2006年琵琶湖モデルファーム-転生の泥舟(滋賀県大津市)2007年~東アフリカエコビレッジ(ウガンダ共和国)2008年竹の子学園「ハッピーハウス」(広島県広島市)2009年イセゲロ村土嚢モデルドーム(ウガンダ共和国):2009年南シューナ研修施設(ヨルダン・ハシュミット王)2009年~ AFRIKANエコビレッジ(ウガンダ共和国)

[viii] プリツカー賞(The Pritzker Architecture Prize)とは、アメリカホテルチェーンハイアットホテルアンドリゾーツのオーナーであるプリツカー一族が運営するハイアット財団The Hyatt Foundation)から建築家に対して授与される賞である。

2021年4月17日土曜日

現代建築家批評34 建築の持続 それぞれの役割  建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道04

 現代建築家批評34 『建築ジャーナル』201010月号

現代建築家批評34 メディアの中の建築家たち


建築の持続 それぞれの役割 

建築の新しい世紀・・・建築家の生き延びる道04

 

3年に亘って連載を続けてきた。「メディアに頻繁に取り上げられる建築家に焦点を絞り、デビューから現在までの代表作を挙げながら、社会に及ぼす建築の役割および建築思想の変遷に重きをおいて、作品に通底(および変化)する建築思想を探るとともに、社会に及ぼす建築の力について」書いて欲しいというのが依頼であった。「一人の建築家を上、中、下の3号に渡って」というのが編集部の指示であったけれど、さすがに磯崎新についてはそれでは収まらなかった。

当初、編集部(中村文美現編集長)から求められたラインナップは、<現代建築界のトップランナー>1安藤忠雄、2伊東豊雄<デザインの新奇追求派>3妹島和世+西沢立衛、4青木淳<空間の型・建築のこだわり派>5山本理顕(難波和彦)<アンチ・モダニズム・エコロジー派>6藤森照信(象設計集団)であった。妹島和世+西沢立衛(SANAA)、青木淳、難波和彦が残されている。

ただ僕なりの組立てもあり、建築家の選定についてはある程度まかせて頂いた経緯がある。結果として、安藤忠雄、藤森照信、伊東豊雄、山本理顕、石山修武、渡辺豊和、象設計集団、原広司、磯崎新と、とりあげてきたのは全て60歳以上の建築家たちである。まず、僕より年上の建築家、僕が刺激を受けてきた建築家について「片付け」ようと思った。日本の建築のポストモダンの構図を描こうと考えたのである。そうすれば、若手も位置づけることができる。拡がりを考えて、石山修武、渡辺豊和を加えた。そして結果として、原広司、磯崎新にまで遡ることになった。

磯崎新を中心(主題の不在)に張られるアート―歴史軸と原広司の住居・集落・都市・地球・宇宙―空間軸で張られる平面に、建築技術に対するスタンス、自然―テクノロジー軸を垂直軸とする空間にこれまでとりあげてきた建築家たちをプロットすることで、およそポストモダン以後の建築家の位置とヴェクトルはプロットできたと思う。すなわち、近代建築批判の方向は、歴史へ(磯崎新)、集落へ(原広司)、自然へ(藤森照信)、セルフビルドへ(石山修武)、コスモロジーへ(渡辺豊和・毛綱毅曠)、地域へ(象設計集団)、住居へ(山本理顕)、日本へ(安藤忠雄)、形へ(伊東豊雄)といったヴェクトルで目指されてきたという構図である。

オーヴァー60として、さらに気になる建築家として、長谷川逸子、六角鬼丈、鈴木了二、坂本一成、石井和紘、大野勝彦、元倉真琴、高松伸、難波和彦らをあげるべきであろうか。ただ、彼らのメディアへの発信は少なくなりつつある。

 メディアの中の建築家としてとりあげるべきアンダー60は、1950年代生まれのオーヴァー50として、まずは隈研吾、妹島和世‧西澤立衛(SANAA)であろうか。さらに続いて、内藤廣―オーヴァー60の仲間とすべきだろう―、青木淳、竹山聖、宇野求、古谷誠章、小嶋一浩、遠藤秀平らであろうか。しかし、1950年代生まれの現在50歳代の建築家たちは多かれ少なかれ、以上のようなポストモダンの構図の中で仕事をしてきたようにみえる。

 個々の建築家をさらに取り上げるためには紙数は足りない。若い世代の建築家たちについては別のシリーズに委ねることとして、以下の3回で一区切りとしたい。本連載に一貫するテーマは「建築のポストモダン以後―建築家の生き延びる道」であった。

 

建築雑誌の終焉?

 宮内嘉久さんが亡くなったのは昨年1213日のことである。その追悼の会が先だって行われた(626日)。「水脈(みお)の会」[i](入之内瑛、橋本功、藤原千春、永田祐三、小柳津醇、有働伸也、・・・)の呼びかけで、大谷幸夫、内田祥哉などの大先生をはじめとする建築家、平良敬一、田尻裕彦などの編集者、写真家などが集った。

宮内嘉久さんと言えば、一時期顧問を務められていた本誌とも縁が深い。新日本建築家連盟(NAU)の編集部から『新建築』へ、『新建築』問題で退職自立(宮内嘉久編集事務所)、『建築年鑑』、建築ジャーナリズム研究所閉鎖、個人誌『廃墟から』、『風声』『燎火』・・・戦後建築ジャーナリズムをリードしてきた第一人者である。『廃墟から』『少数派建築論』『建築ジャーナリズム無頼』など著書も多い。

宮内嘉久さんとの苦い思い出については、本連載13、山本理顕の節(「制度」と戦う建築家)で触れた。『風声』『燎』を引き継ぐ新たな建築メディア(『地平線』(仮称))を出版する編集委員会で僕とは意見が合わず、決裂した経緯がある。その後、組織されたのが「水脈の会」である。宮内嘉久さんとは、「宮内嘉久著『前川國男 賊軍の将』合評会」(2006729日)[ii]が最後になった。

宮内嘉久さんの建築ジャーナリストとしての軌跡は、「自立メディア」を標榜しながら、同人誌へ、個人誌へ閉じていく過程であった。「開かれたメディア」を目指すべきだ、と「自立メディア幻想の彼方へ」[iii]という文章を書いたのは、宮内嘉久さんと決裂した直後である。宮内嘉久さんは基本的に編集者というより、建築の根源的あり方に拘る批評家の資質を持ち続けた人である。

『群居』を創刊することになった背景にこの決裂があったことも既に書いたが、その『群居』も50号出し続けて、力尽きた(20001231日)[iv]。僕が『同時代建築通信』(同時代建築研究会)『群居』『建築思潮』(1992-97)『Traverse』(2000年創刊―、201011号-)などメディアに拘わり続けてきたのは、おそらく「建築」を断念したこと、批評家あるいは研究者として生きようとしたー生きることを選び取らされたーことと関係があると思う。『建築雑誌』の編集に携われたこと[v]はラッキーであった。

しかし、それにしても「建築雑誌」の時代は確実に終焉へ向けて衰退して、逝きつつあるようにみえる。『都市住宅』の廃刊は198612月である。『SD200012月、『建築文化』200412月、『室内』20063月と廃刊が続いた。19945月に創刊された『10+1(INAX)20083月に廃刊となった[vi]。本誌のような雑誌は実に貴重な稀有の存在である。

戦後、『国際建築』『新建築』を出発点として『建築知識』『SD』『都市住宅』『住宅建築』『店舗と建築』『造景』などを次々に創刊してきた名編集者平良さんの『住宅建築』もついに隔月刊に追い込まれた。「建築ジャーナルが次々に廃刊、建築出版物は「コーヒーテーブル・ブック」あるいは「ヴィジュアルなカタログ」に姿を変えた」(磯崎新)のは日本も海外も同じである。

宮内嘉久さんの追悼の会で最初に挨拶に立ったのは平良敬一さんであった。何人かの大先達のスピーチがあって、こともあろうに最後に予告なく僕にマイクを向けられてうろたえた。その時のことを内藤廣がブログに書いている。

「先週の土曜日、千駄ヶ谷で行われた「宮内嘉久を偲ぶ会」に行って来ました。60年代後半、建築界は全共闘運動に刺激され、又、大阪万博についての是非をめぐって色々な意見が対立し合い、ある意味、活気のある時代でした。・・・今回参加してみて皆さんお元気です。80代~60代までが多かったのですが。最後に若手代表として布野修司さんが指名され、あいさつの中で、このままで終わらないで、紙媒体のメディアで発言していきたいと宣言して、終了しました。」

僕が若手代表というのだからそれ自体何事かを物語っているが、後日、平良さんと「最後の建築雑誌」の創刊をめぐって会った。声をかけたのは、松山巌、宇野求、中谷礼仁、青井哲人である。今のところどうなるか僕自身もわからない。

 

リーディング・アーキテクト

 内藤廣は、早稲田大学出身であるが、現在東京大学の教授を務める。ただ、建築学科ではなく、社会基盤学科(元土木工学科)に属する。早稲田大学吉阪隆正に師事した後、フェルナンド・イゲーラス建築設計事務所に勤務、さらに菊竹清訓建築設計事務所を経て独立(1981年)しているが、建築界では変り種と言えるだろう。招いたのは篠原修(1945 - [vii]である。橋梁のデザインなどシヴィック・デザインを切り開いたと評価されるが、内藤廣にはその分野の強化を期待したのだと思う。「GS(グラウンドスケープ)デザイン会議」をともに組織している。内藤のデビュー作といっていい「海の博物館」(1992年)は傑作である。自らも「普通の建築」をつくるというように大向こうをうならせる建築はないけれど、堅実な作品で知られる。著作も増え、いまやリーディング・アーキテクトのひとりと言えるだろう。東京大学教授という肩書きがそれを後押ししている。

 ただ安藤忠雄のような大物と比較すると線が細いと言わざるを得ない。そういう意味では、安藤忠雄の後任として東京大学の建築学科教授になった難波和彦も同様である。難波和彦は、戦後建築を工業化という路線でリードした池辺陽に師事したが、もともとは吉武研究室の出身である。一年先輩の石井和紘とランディウムを組織していた頃、僕が図面や模型の手伝いをしたことは前に触れた(本連載25)。「箱の家」シリーズが代表作ということになるが、池辺陽を正統に受け継いだ住宅作家というべきだろう。線が細いというのは、インターナショナルな活動と評価が少し弱いということである。

 そうした意味で、東大のプロフェッサー・アーキテクトとして期待されるのは、2009年に着任した隈研吾である。若いときから著作も多く発言を続けて来ているし、海外からの評価も高い。2008年にはフランス・パリにKuma & Associates Europeを設立している。隈研吾については、竹山聖、宇野求らとともに、東京大学生産技術研究所の原広司研究室に所属している頃から知っている。饒舌で才気に走った黒川紀章の後継者のような感じを抱いてきた。ドーリックやM2によってヒストリシズム・ポストモダンの旗手としてデビューした時にはびっくりしたが―その後、葬儀場(東京メモリードホール)に転用された。義父の自宅が近くにあって、その葬式を行った。隈の設計かどうかは不明であるが、あまりに見事に転用されていたことにも驚いた―、その後の展開も、時代の流れの中で表現を組み立てるその資質を示している。いささか嫌味っぽく書けば、いまや自然派、素材派の大家である。一般には変わり身が早い建築家と思われている。しかし、処女作である『10宅論』がそもそも大衆社会における住宅のスタイルを見事に切ってみせたものである。そして、20073月に提出した学位請求論文は「建築設計・生産の実践に基づく20世紀建築デザインと大衆社会の関係性についての考察」(慶應義塾大学博士(学術))というのである。隈研吾は、現在では「メディアの中の建築家」というに最も相応しい建築家といえるであろう。

プロフェッサー・アーキテクト

 何もリーディング・アーキテクトは東京大学にいなくてもいいのだけれど、この間のセルカン・アリニール問題などを聞くにつけ、本誌○○号が問題にしたように、しっかりしてもらいたい、と思う。東京大学に限らず、現在、メディアに注目される建築たちの多くはプロフェッサー・アーキテクトである。これには建築家の側にも大学の建築学科の側にももちつもたれつの関係がある。建築学はなによりも実践の学であり、一線で活躍する建築家の名前と実績が欲しいし、建築家も何らかの肩書きは仕事のプラスになる。

京都大学を見ると高松伸、竹山聖がいる。高松伸については、数年前のスキャンダルが聞いたのかこの間精彩がない。竹山聖は、隈研吾に匹敵する才能の持ち主だけに、もう少し仕事にめぐまれて欲しい。平田晃久など多くの若い建築家たちを育ててきたことは特筆されていい。この四月から、岸和郎が京都工業繊維大学から移ったが、京都大学については何ともよくわからない。

早稲田大学には石山修武、古谷誠章がいて、東京工業大学には坂本一成退官のあと塚本由春が、東京藝術大学には元倉真琴、北河原温、ヨコミゾマコトがいる。・・・こうして挙げていけば、全国の大学の建築学科に優秀な建築家が属していることになるだろう。非常勤講師も含めれば、ほぼ全てが含まれるといっていい。

いまや、プロフェッサー・アーキテクトの時代である。

山本理顕、飯田善彦、北山恒、西沢立衛という最強の布陣を敷くのは横浜国立大学だろう。退任する山本理顕に変わって、小嶋一浩が東京理科大学から移るという。

そして、この間台風の目になってきたのは、仙台メディアテークで2003年から開催されてきた「せんだいデザインリーグ 卒業設計日本一決定戦」[viii]である。「日本一決定戦」は、建築ジャーナリズムが衰退する中で、確実に学生たちに共通に議論する場所を与えてきた。仕掛けたのは、阿部寛史、小野田泰明らである。というより、主催は、仙台建築都市学生会議[ix]+せんだいメディアテークである。現在のアドバイザーは阿部仁史(UCLA)小野田泰明(東北大学)槻橋修(神戸大学)竹内昌義(東北芸術工科大学、みかんぐみ)本江正茂(東北大学)五十嵐太郎(東北大学)堀口徹(東北大学)中田千彦(宮城大学)であるが、彼らが果たしている役割は大きい。合同卒業設計展を直接の動機にした動きであるが、建築界に議論がなくなりつつあることの裏返しの動きと見ることが出来るからである。昨年から京都で「建築新人戦」も開催され始めた。第二回の今年は、記念講演者として原広司が招かれている[x]

 プロフェッサー・アーキテクトのこうした動きとネットワークの組織化はかつて建築ジャーナリズムが果たしていたものである。

サイト・スペシャリスト

 「大文」、大工の文さんこと田中文雄さんの訃報が届いたのは、いまこの原稿を書きつつある中国旅行中のことであった。89日。海外に出かけていて訃報に接することがよくある。大江宏先生の時もそうだったし、立松久昌さんの時もそうだった。

「大文」さんについては、この連載で二度触れた。安藤忠雄の第一回(連載04 ボクサーから東大教授へ、20084月)と磯崎新の第二回(連載29 廃墟、20105月)である。二人の大建築家とつながっていた、この現代の大棟梁については、知る人ぞ知る、であるけれど、実に残念である。

「大文」さんとは、内田祥哉先生に頼まれて「職人大学」(現・ものつくり大学)設立を手伝うために呼ばれ、1990年代を通じてとことんつきあった。藤沢好一、安藤正雄の両先生にも加わって頂いて、SSF(サイト・スペシャルズ・フォーラム)という現場の職人さんたちが集うフォーラムをつくった。

職人を大学なんかでつくれるか、といいながら、建築史学を中心に大学に期待していたのが田中文雄さんである。「職人大学」を東大、早稲田に匹敵する大学に、というのがスローガンであった。

 SSFでは、実に多くの職人さんたちに出会った。すごいのは、とにかく現場監督である。いかに机上の小手先の技術が発達しようと、それを実現する現場の技能者、サイト・スペシャリストがいなければ建築の未来はない。

現場で全てを管理し、差配する能力、それを育てるのはやはり現場でしかない。問題は、その現場そのものが少なくなりつつあることである。




[i] 水脈の会『時代を切り拓く―20世紀の証言 』れんが書房新社、2002年がある。

[ii] 「『前川國男 賊軍の将』をどう読むか」,松隈洋・鈴木了二・辻垣正彦・山口廣・布野修司,『住宅建築』,20072

[iii] 螺旋工房クロニクル,建築文化,彰国社,19789月号

[iv] 0号(創刊準備号) 座談会:箱・家・群居-戦後家体験と建築1982128日:1号 商品としての住居1983425日:2号 セルフビルドの世界1983727日:3号 『職人考』-住宅生産社会の変貌19831029日:4号 住宅と「建築家」1984218日:5号 アジアのスラム1984520日:6号 日本の住宅建設1984825日:7号 住イメージの生産と消費19841225日:8号 ポストモダンの都市計画1985411日:9号 戦後家族と住居1985729日:10号 群居の原像19851125日:11号 住政策批判1986331日:12号 不法占拠1986718日:13号 ウサギ小屋外伝19861130日:14号 東京異常現象1987424日:15号 大野勝彦とハウジング戦略1987921

16号 本と住まいPART1                  19871227

17号 ショートケーキハウスの女たち              1988529

18号 列島縦断・住まいの技術                 1988825

19号 ハウジング計画の表現者                 19881222

20号 住居の空間人類学                    1989426

21号 町場-小規模生産の可能性                1989825

22号 都市型住宅再考                     19891215

23号 それぞれの住宅戦争                   1990520

24号 日本アジア村-外国人労働者の住まい           1990830

25号 増殖する住宅部品                    19901225

26号 「密室」-子供の空間                  1991429

27号 居住地再開発のオルタナティブ              1991825

28号 建設労働                        19911225

29号 X年目の住まい                     1992423

30号 住まいをめぐる本の冒険                 1992912

31号 日本の棟梁                       19921225

32号 崩壊後のユートピア                   1993427

33号 ローコスト住宅                      199385

34号 在日的雑居論                      19931115

35号 中高層ハウジング                    1994327

36号 世界のハウジング                    1994824

37号 木造住宅論攷19941231日:38号 J・シラスとその仲間たち1995616日:39号 震災考19951124日:40号 ハウジング戦略の透視図-51年目のハウジング計画199658日:41号 イギリス-成熟社会のハウジングの行方19961115日:42号 地域ハウジング・ネットワーク1997421日:43号 庭園曼荼羅都市-神戸2100計画1997825日:44号 タウン・アーキテクトの可能性1981122日:45号 建築家のライフスタイルと表現1998521日:46号 DIY-住まいづくりのオールタナティブ1999724日:49号 群居的世紀末2000327日:50 21世紀への遺言20001028日:51号(終刊特別号) 群居の原点20001231

[v] 編集委員会幹事として19871月号~198912月号。編集委員として19931月号~199512月号。編集長として20021月号~200312月号。

[vi] 『国際建築』(美術出版社)1928年創刊。1967年廃刊。: 『室内』(工作社)1961年『木工界』を改名し発刊。20063月廃刊。:『建築文化』(彰国社)1946年創刊 2004年で休刊。以降特集号として隔年で刊行。(ex建築文化シナジー):SD』(鹿島出版)1965年創刊。200012月をもって休刊となり、以降若手の設計者の作品発表の場となっているコンペ「SDレビュー展」は継続し,年1回特集号を発行する。:『都市住宅』(鹿島出版)19675月創刊。198612月をもって廃刊:『群居』1982年―2000年:『10+1(INAX)19945月創刊。20083月廃刊。『X-Knowledge HOME』(エクスナレッジ)200112月創刊。200312月廃刊。以降特別号として隔年発刊。

[vii] 土木設計家政策研究大学院大学教授東京大学大学院修了後、(株)アーバンインダストリー、東京大学農学部助手、旧建設省土木研究所主任研究員などを経て1989東京大学工学部助教授、1991工学系研究科社会基盤学専攻教授。2006に東京大学を退官。専門は、景観デザイン、設計・計画思想史。

[viii] 20023月に『せんだい建築アワード2002』を開催。翌年の第2回せんだいデザインリーグ2003より名称変更し、第1回目の『卒業設計日本一決定戦』としている。

[ix] 仙台建築都市学生会議とは仙台メディアテークが開館した2001年(平成13年)1月、東北大学・東北工業大学・宮城大学の3校の建築を学ぶ学生有志が、アドバイザーとして阿部仁史、小野田泰明、仲隆介、本江正茂を迎え結成。翌2002年(平成14年)より、加盟校の学生ボランティアが主体になって「せんだいデザインリーグ」を開催している。以下は、現在の参加校は、東北大学(宮城県仙台市、東北芸術工科大学(山形県山形市)、東北工業大学(宮城県仙台市、宮城大学(宮城県黒川郡大和町)、宮城学院女子大学(宮城県仙台市)(2008年度より参加)である。

[x] 審査委員長:竹山 聖(京都大学):審査委員:大西 麻貴(東京大学博士課程)中村 勇大(京都造形芸術大学)藤本 壮介(藤本壮介建築設計事務所)宮本 佳明(大阪市立大学)李 暎一(宝塚大学)