このブログを検索

ラベル 2017 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 2017 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2021年7月6日火曜日

宮殿建築、『インド文化事典』丸善出版、2017

 宮殿建築、『インド文化事典』丸善出版、2017


 宮殿建築 The Rajput Palaces                



古代インドの都城そして宮殿建築については、マウリヤ朝の創始者チャンドラグプタの宰相カウティリヤが書いたとされる『アルタシャーストラ』(実理論)が知られる。ヒンドゥー都城の理念型を示すものとして古来参照されてきたが、それを具体的に体現する王都や宮殿建築については定かではない。現在インド各地に残る代表的な宮殿遺構のほとんどはイスラームの侵入以降のもので、アーグラ、ファテープル・シークリー、ラホール、デリーに残るムガル朝の宮殿がその代表であり、地方勢力として一定の独立性を保ったラージプート諸侯もすぐれた宮殿建築を残している。

 

●ムガル朝の首都と宮殿

初代皇帝バーブルの年代記『バーブルナーマ』を読むとよくわかるが、サマルカンドからカーブルと下ってデリーへ向かう間のムガル朝初期の都は移動するオルド(宮殿)である。すなわち、移動建築ユルトの集合が都であった。その後も、アーグラ、ラホールと都は定まらず、アクバルによって珠玉のファテープル・シークリーが建設されるが長続きしない。帝都が定まるのは「もし地上に天国がありとせばそはここなり」と謳われたシャージャハナバードにおいてである。ムガル朝の宮殿建築の代表がラール・キラLal Qilaである。「バグダードの八角形」と呼ばれる全体は整然としたグリッドを基に計画されており、ヤムナー河からの水が流れる水路、池、庭園も極めて幾何学的である。多様アーチ、ダブルコラム、柱頭・柱身・柱脚の装飾などムガル建築を特徴づける要素をみることができる。

●ラージプートの王都と宮殿

奴隷王朝の成立によってラージプート時代は終わりを告げるが、ラージプートのラージャたちは一定の勢力を保持し続ける。諸侯の宮殿は拠点都市に1つ建設され、男性の領域マルダナmardanaと女性の領域ゼネナzenenaを截然と区別し、全体は小さな部屋と中庭を防御を考えて斜路や階段で複雑な形で構成されるのが一般的である。

現存最古の宮殿建築はチトールのラーナ・クンバ宮殿(1433-68)である。また、グワリオールのキルティ・シン宮殿(1454-79)がある。イスラーム勢力がその王都を破壊し、建築材料を再利用してきたために、その起源を遡るのは困難である。ムガル朝以前のこうした宮殿はラージプート宮殿の特徴を示している。柱頭の持送り、腕木、八角形の柱、四角な柱礎、曲面の屋根、小さな出窓・ジャロカjarokha、斜め庇・チャジャchajja、石のスクリーン窓・ジャリjaliなどはヒンドゥー建築の要素である。

17世紀初頭になると、オーチャのブンデルカンド宮殿、ダティアのゴヴィンド・マンディルなど宮殿の形態は極めて整然としてくる。インドには古来『マナサラ』などヴァストゥー・シャストラと呼ばれる建築書が知られる。建築物の寸法単位、空間の分割パターンを規定し、正方形を順次分割していくパターンについては32種類あげられるが、最も一般的に用いられるパラマシャーイカparamasayika9×981分割)が用いられたとされる。宮殿建築の建設を担ったのは、ヒンドゥー教徒である。

17世紀から18世紀の初頭にかけて建てられた、アンベールをはじめとして、ウダイプル、ジャイサルメル、ビカネール、ジョードプル、ドゥンガルプルなどの宮殿群はラージプート・スタイルの宮殿の成熟を示している。そこには、多様アーチ、バンガルダールbangaldarと呼ばれるベンガル地方の農家の屋根を模した湾曲した屋根、フルーティング(襞飾り)のついた柱などムガル建築の影響が見られる。しかし一方、ラージプート伝統の装飾要素も引き続き用いられ、ペルシャ由来の幾何学的文様との融合をみることができる。また、彩色タイルよりも壁画やモザイクが一般的となり、鏡をモザイク状に張り巡らしたシーシュ・マハルsheesh mahalsと呼ばれる部屋が新たにつくられるようになる。

18世紀になると、ムガル建築の影響は大きくなる。ディグに建設されたバダン・シン宮殿(1722年)そしてスーラジ・マル宮殿(1760年)は、ラージプート宮殿がその独自性を失っていく過程を示している。そして18世紀末から19世紀になるとヨーロッパ建築の影響が見られるようになる。

●ジャイプルの都市設計と宮殿

 ジャイプルはラム・シンの時代(18351880)に色が塗られ、今ではピンク・シティとして有名であるが、その建設は18世紀前半に遡る。ジャイプルおよびその宮殿建設は、ラージプートの歴史の中でも際立つ。アンベールから拠点が移されるが、平地にしかも新たに都城が建設された唯一の例である。そして、その計画的都市建設はヒンドゥーの都城理念を窺う上で極めて興味深い。ファテープル・シークリーそしてシャージャハナバードに勝るとも劣らないといっていい。

 ジャイ・シンⅡ世は、ジャイプルのみならずデリー、ヴァーラーナシーなどにジャンタル・マンタル(天文台)を建設したことが知られるが、中央に王宮と天文観測のためのスペースを設けていること、また、整然とした街区割が一定のコスモロジーに基づいていることは明らかである。軸線が15度ほど時計回りに傾いていること、ナイン・スクエア(3×3分割)の北西の角が架け、南東に一街区飛び出していること、『マナサラ』のプラスターラに基づくという説などをめぐって議論がある。建築家としてヴィディヤダールの名が知られるが、骨格となるバーザール、交差点チョウパル(広場)、街区分割のパターンなど実にユニークである。

 チャンドラ・マハル(1727-30)(図)は、バンガルダールを中央に連続的な突き出しバルコニー窓が印象的な均整のとれたムガル朝を代表する王宮である。また、ユニークなファサードのハワマハル(風の宮殿)(1799年)は、サワイ・プラタープ・シンの建設である。 [布野修司]

参考文献】

[1] Tillotson, G.H.R., The Rajput Palaces, Oxford The Development of an Architectural Style, 1450-1750, 1987

[2] 布野修司、曼荼羅都市・・・ヒンドゥ-都市の空間理念とその変容、京都大学学術出版会、2006


2021年5月23日日曜日

 <からまりしろ>の探求―生命論的建築をめざして 「太田市美術館・図書館」 進撃の建築家 開拓者たち 第16回 開拓者17 平田晃久(前編) 

 進撃の建築家 開拓者たち 第16回 開拓者17 平田晃久(前編) <からまりしろ>の探求ー生命論的建築をめざして 「太田市美術館・図書館」 『建築ジャーナル』 201712(『進撃の建築家たち』所収)

開拓者たち第16回 開拓者17 平田晃久前編                   建J  201712

 

 <からまりしろ>の探求―生命論的建築をめざして

「太田市美術館・図書館」

布野修司

 

 




 平田晃久(図⓪)[1]は、渡辺菊真(開拓者01)と森田一弥(開拓者14)の同級生である。すなわち、僕が19919月に京都大学に着任して最初に出会った学生の一人である。彼らを黄金の世代と呼んでいることは既に書いたが[2]、僕の半年後(1992年)に着任した竹山聖の影響が大きいと思う。「鴨川フォリー」という課題(2回生後期)を出したことも書いたが(連載第2回)、当時の京都大学の設計教育は古色蒼然たる状況であった。ロットリングが普及し、インスタントレタリングやカラートーンが使われだしていた時代であったが、ケント紙に鉛筆仕上げが基本で、その他はご法度であった。振り返ればそれもひとつの見識だったと思うけれど、問題は、一人の教師が卒業まで同じ学生を指導するといった体制であった。また、講評がなく、まるでレポートのように採点がなされていることであった。

 僕はこれでも東洋大学時代には、太田邦夫先生の指導の下、山本理顕、毛綱毅綱、元倉真琴といった錚々たる若き建築家と組んで、設計教育をしてきていた。即日設計、翌週徹底講評という設計演習は楽しかった。「都市に寄生せよ」(『住宅戦争』)、パンテオンを核シェルターにするとか、「反住器」(毛綱毅綱)を5倍にして都市施設として活用せよとか、出版しようと思った数十の課題のストックがある。


 MEDIA ROAD

 平田晃久の作品で記憶に残っているのは卒業設計「MEDIA ROAD」(図①abc)である(1994年京都大学最優秀卒業設計(武田五一)賞)。吉田キャンパスの建物群を曲がりくねった四角い空中回廊のようなチューブでつなぐ作品だ。既存の施設に、全く異質の空間を暴力的に貫入させている。本人に依れば「京都大学本部構内の既存建築群に貫入する形で、新しい建築を埋めこむことによって、大学を活性化し、学部学科の枠を超えた情報や人の流れを生み出そうとするプロジェクト」といういかにも学生らしいセッティングであるが、鋭いのは、「既存の建造物を取り壊し、そこに新しく建設するという蜿蜒と繰り返す破壊と建設のサイクルを超えて、既存の建築群をいわば一つの「地形」あるいは「素材」のようにみなすことによる新しい建築について考えた」ことである。




 竹山聖は、卒業設計作品集のための推薦文(『近代建築』『卒業設計』)に「場面、場面でその都度、場当り的に対応を検討 · 調整・決定してゆくという、まさにアンチ全体計画な、微分方法をとっていることが、このプロジェクトのもっとも魅力的な点である。まさにプロセスそのものの建築化といっていい。全体計画という言策に胚胎される思考の硬匝を打ち破る手だてが、 あらゆる表現のジャンルで試みられている現在、ひとり建築のみが   漫然と、 「 全」という夢想を貪り続けている「全体」などというものはないのだ、という若々しい決慈と直観、そして神型なる悪意が、このプロジェクの光彩の源である。」と評している。

 このアンチ全体計画的な、微分的方法は平田に一貫している

 




 ゲント市文化フォーラム

 卒業設計のことを思い出したのは、「太田市美術館・図書館」のなんとも複雑な空間の連なりを体験したからである(図②abcde)。プランを見て欲しい。図面を見慣れた、トレーニングを積んだ建築家でも、容易に空間全体をイメージできないのである。5つの箱からなっていることに気がつくと、全体の流れるような空間が浮かび上がってくるが、中心に置かれた回り階段は、プランで見ると、何らかの生命体、タツノオトシゴの尻尾のようである(図③)。



 大学院を終えると、伊東豊雄建築設計事務所に就職している。「台中国家歌劇院」(2016年)の洞窟のような空間を想起して問うと、在籍したのは19972005年の8年で関わっていないが、原型となる「ゲント市文化フォーラム」は担当したという。「仙台メディアテーク」(2000年竣工)は、1995年のコンペの結果であり、「台中国家歌劇院」のスタートは2005年である。トッズ表参道ビル」(2004年、図④)は担当であった。


 「ゲント市文化フォーラム指名設計競技」のコンペ(2004)について、伊東は、最初のミーティングで、ポルトガルのコインブラでファドのコンサートを見にいった時のことを話した。

 「街の階段の途中でコンサートが行われました。イタリアのスペイン階段みたいな小広場ですが、もっと小規模なものです。踊り場に小さなカフェがあって、石段の途中に歌手がふたり入れ替わり出てきて歌います。それをカフェのテーブルの椅子に座って聴くか、あるいは石段に座り込んで聴くのですが、歌っている間も街の人が脇を通り抜けていったりしています。そういう自由で形式張らないコンサートはいいよなって思っていました。」(「もののもつ力」、2006年東西アスファルト事業講演会講演録)。

 同じことを平田も、「太田市美術館・図書館」の作品発表に合わせて書いている(「生態系としての公共のはじまり 多数の個を巻き込んで建築をつくる」『新建築』20175月号)。伊東は、コンペではイタリアの建築家アンドレア・ブランジ、構造設計家の新谷眞人、それからベルギーの若手建築家ふたりとチームを組んだというが、空間モデルを様々に検討する中で(図⑤)、ある日スタッフのひとりが一晩中考えてきて「こういう構造はどうですか?」と模型を持ってきて、伊東はその構造[3]に深く共感したという。このスタッフが平田であった。

 

 生命論的建築の研究

 しかし比較すると、明らかに「太田市美術館・図書館」の方が武骨である。かたちを作り出すアプローチも異なる。平田は先の文章で、「台中国家歌劇院」の実現を「これまでの建築の歴史の中で実現されてこなかった夢のかたちが、確実にある」といいながら、「それは同時に、ひとつの時代の終わりを画する建築でもあるのではないか」ともいう。すなわち、平田自身は、「ゲント文化フォーラム」を超える展開を目指しているのである。

 その鍵概念となるのが「からまりしろ」であるが、その背後には積み重ねてきた思索がある。修士論文『百科全書的建築と術<アルス>の系譜』(1997年)は、F.A.イエーツの『世界劇場』『記憶術』に触れていた。芝居好きが昂じて劇場史に興味をもち、シェイクスピアの「グローブ座」に絡んでF.A.イエーツの本は読んでいたから興味深かった。修論発表会の時に「切れるな(頭がいいな)」と思った記憶がある。建築史の高橋康夫先生が「こういう人にはドクターに行って欲しい」と言ったことを覚えている。博士課程にはいかなくてよかったけれど、母校に呼び戻されて、学位請求論文 『生命論的建築の研究―<からまりしろ>の概念をとおして』(20161月)を書いた。その「切れ」をいかんなく発揮した論文である。抽象的な概念をこねくり回す建築論とは一線を画す。建築の実践を通じて、すなわち、その実作品[4]の積み重ねを理論化しようとする論文である。

 ただ、京都大学学術情報リポジトリにUPされた「生命論的建築の研究―<からまりしろ>の概念をとおして ―( Abstract_要旨 )」の「論文内容の要旨」そして「論文審査の結果の要旨」は難解である。成果は、「2. 「生命論的建築」を設計する手がかりとして、人や出来事とかたちがからまることのできる余地を意味する〈からまりしろ〉の概念を提示し、階層構造をなしながら重層する、生きている世界の秩序に接続するような建築の原理となる〈からまりしろ〉の特性としては、①からまりのニッチ性、②からまりの階層性、③からまりの他者性が重要であることを指摘した。」などと書いてあるが、韜晦というか、他分野を煙に巻くというか、建築の分野でも、エンジニア系の研究者にはわからないであろう。

 論文そのものはもう少しわかりやすく素直である。「生命論的建築(Biological Architecture)」とは、「均質空間的な理念とは原理的に対立するもの」であり、「ポストモダニズムとは反対の方向性から建築にアプローチする」ものであり、「形態表現主義的な建築とも異なる」ものである。

 

 <からまりしろ>

 大論文といっていい。テーマは、近代建築批判そのものなのである。「均質空間」という言葉が示唆するように、意識されているのは原広司の建築論である。その有効体理論、BE(ビルディング・エレメント)論、均質空間論、集落(住居集合)論、様相論に学びながら建築について考えてきた僕らの世代には、その引き受け方は頼もしく思える。建築理論の展開が痩せ細って久しいが、平田には建築理論をリードしていく勢いがある。洞窟あるいはチューブを、太田市美術館・図書館」の空間を読み解くきっかけにしようと考えたのであるが、大変なことになってきた。ことは「均質空間」批判である。論の全体については、ひとまず置こう。

 「生命的建築」の鍵概念となる<からまりしろ>とは何か。英語ではなんというの?などと聞いてしまったけれど、Base for Tanglingだという。Tangleとは、巻き込む、もつれさせる、からませる、関り合わせる、といった意味である。<しろ=Base>は「余地」である。<媒介空間>とか、<中間領域>とか、<セミパブリック・セミプライベート>といった既往の概念をなんとなく想起していたが、もう少し、動的で、複雑な概念である。平田が言うのは、アルプスの山肌にぶつかって生まれる雲、海藻のひだの間に産み落とされる魚卵、の例である。そういう空間、場所というのではなく、そういう場面、情景が産み出されるのが<からまりしろ>である。

 概念そのものはまあわかるとして、具体的な建築はどう実現されるのか。平田が 「建築とは<からまりしろ>をつくることである」((現代建築家コンセプト・シリーズ8)、LIXIL出版社)と宣言するのは2011年であり、<からまりしろ>という概念を考える端緒となったのは桝屋本店(2007)である(図⑥)。

 



<からまりしろ>の幾何学

 学位論文で言えば、第4章「植物」を「育てる」ように設計する建築-単体的原理1がそれにあたるが、当初は、<からまりしろ>を誘発する幾何学に集中したように見える。「ゲント文化フォーラム」の延長である。具体的なプロジェクトとしては、「Csh」という椅子(2008)、「animated knot」(2009)、「prism liquid」(2010)といったインスタレーション作品、そして、「Architecture Farm」(2008)(図⑦)がある。平田は、先の文章で、「私が行った比較的初期の試みは、<からまりしろ>の幾何学的側面にフォーカスしていた。たとえば「Architecture Farm」と名付けた台湾の住宅プロジェクトでは、限られた気積の中で表面積を最大化しようとする時に現れるかたちの原理(ひだの原理)を用いて、建築をつくろうとした」という。そして、それは「伊東事務所時代に関わった「ゲント」の批評的乗り越えを模索したものでもあった」。すなわち、「ゲントや台中では、無限延長する建築のシステムをある領域の境界面で切断する」という「生命的原理と反する外側からの操作」に対して、「内発的な原理が自分自身を成長させるようにして」建築をつくろうとしたものであったという。

 


 箱とリム

 しかし、<からまりしろ>の幾何学が太田市美術館・図書館」に用いられるわけではない。一見複雑に思えた全体構成が単純に思えるから不思議である。構成の単位は、大きさの異なる5つの箱(耐力壁付ラーメン構造のボックス)とそれに絡まる鉄骨造のリムである。リムは、ボックスに直行する鉄骨梁とそれを先端で支える鉄骨柱、そして梁間に架けるデッキ・プレートからなる。このリムでつくられる空間が<からまりしろ>である。公開ワークショップの過程では、36個の箱による4案を用意したというが、5個の案が選ばれた。結果として複雑な形態ができあがるのであるが、ワークショップ参加者は、箱をあれこれ並べ替えればいいから、そう難しくはなかったであろうし、空間の生成を楽しんだに違いない。美術館と図書館を融合するプログラムとして、実に、巧妙な仕掛けであった。第一に評価できるのは、この建築が多彩に屋外空間を取り込むことにおいて、面積で測られる規模以上の豊かな空間をつくりだしていることである。それに<からまりしろ>の部分に様々なアイディア、ディテールを容易に取り込んでいることである(図⑧abcd)。そして、図書館と美術館の複合施設を扱う上で、既往の施設計画論を一挙に超える方法の提示がある。山本理顕さんの邑楽町役場庁舎のケースを思い出したが、平田は、邑楽町の均一なレゴ・システムとは違うという。そして、Architecture Farm」も「台中国家歌劇院」も「ある種のアルゴリズムに基づいた、ひとつの形式によって全体を統合する」という意味では共通しており、「建築の設計は、もっと建築をつくるという出来事が織り込まれたものになっていく気がしている」という。

 




 こうして、洞窟とかチューブあるいはひだなるものが、空間として、幾何学として、あるいは身体感覚として選び取られて、表現されているのではないことはっきりする。あくまで平田は理論的である。そして、その建築理論は、設計プロセスのうちに他者を取り込むことにおいて、新たな展開を始めようとしている。折しも、10年かかって「Tree-ness House」が実現した。



[1] 1971年 大阪府生まれ。1994京都大学工学部建築学科卒業1997年京都大学大学院工学研究科建築学専攻修士課程修了1997年~2005年 伊東豊雄建築設計事務所勤務、2005年(株)平田晃久建築設計事務所設立。2008年~2009年 東北大学非常勤講師。2010年~2014東北大学大学院SSD(Sendai School of Design)特任准教授Futureラボ担当)。2015年~京都大学准教授。

[2] この連載は、西川直子編集長から布野の生き様と重ねて欲しいと言われて出発しているから、同級生を何人選んでも問題はないけれど、知ってか知らずか、「太田市美術館・図書館」を見に行きましょう、といったのは西川編集長であった。スケジュールが合わず西川さんは不参加となったが、平田くんが声をかけて、同級生の、妹島和世建築設計事務所を経て独立した桑田豪(桑田豪建築設計事務所)、「アーツ前橋」の水谷俊博(武蔵野大学教授)一家(パートナーの水谷玲子も京大布野研出身)、一年後輩の原広司+アトリエ・ファイ建築研究所出身の吉原美比古(吉原美比古建築設計事務所)、俵山壮史(スティル・リーブル)の面々と一日見学してきた。

[3] グリッド(格子)に分割された二枚の平面に市松に描かれた円を上、下膜で結んでいく、すると三次元の連続面で空間がふたつに分かれます。それをもう一段縦に重ねると不思議な連続体ができます。Bの空間はAの空間の奥で水平に繋がっています。水平にも垂直にも繋がっていく連続体ができるのです。この考え方を応用して、プリミティブなモデルをつくりました。当時はいちばん大きなコンサートホールの空間は真ん中に開けるしかないと考えていたので、真ん中をドーナツのように空けて、その周りを連続体が取り囲んで全体が形成されるというモデルスタディをしました。一方で、ドーナツの中央部を四角いホールで切り取ってみたらどうかという検討もしました。というのもコンペの要項ではホールに対して、ある意味では20世紀的なシステマチックで均質なコンサートホールが要求されていたからです。その要求に沿うには、四角いホールでなくてはならないのではないかという議論があり、スパーンと切られた切断面とアルコーブが一体化されたホールのイメージが提案されました。その提案を見ながら、どうもホールだけが四角で別の空間になったら、当初のコンセプトと外れてくるだろうと思いました。もともと道路が広がっていって、その交叉した広がりの空間がホールだというイメージでしたから。私たちが考えるホールは、要項で求められているシステマチックなホールとはまったく違ったのですが、コンペに勝てなくても面白い方をやろうと割り切りました。

[4] 2004年 House H SDレビュー 2004 朝倉賞2006年 桝屋本店2007年 第19回日本建築家協会JIA新人賞, House S SDレビュー 2006 入賞2007年 sarugaku2008年 イエノイエ, csh(椅子)/2009年 animated knot2010年 alp, one roof apartment, prism liquid2011年 Bloomberg Pavilion, coil2012年 Photosynthesis, Flow-er2013年 Energetic Energies, LEXUS -amazing flow-, MORI TRUST GARDEN TORA42014年 kotoriku2017年 太田市美術館・図書館







2021年5月22日土曜日

善根の精神ー塩飽大工衆の再生へ「HANCHIKU HOUSE」  進撃の建築家 開拓者たち 第15回 開拓者16 斎藤正 

 進撃の建築家 開拓者たち 第15回 開拓者16 斎藤正 善根の精神ー塩飽大工衆の再生へ「HANCHIKU HOUSE『建築ジャーナル』 201711(『進撃の建築家たち』所収)

開拓者たち第15回 開拓者16 斎藤正                   建J  201711


 

 善根の精神―塩飽大工衆の再生へ

HANCHIKU HOUSE

 








斎藤正(図⓪)[1]と初めて会ったのは、フィリピンのレイテ島タクロバンで開かれた台風ヨランダ(201311月)後の復興計画をめぐる国際シンポジウム[2]の会場であった(201586日)(図①ab)。



滋賀県立大学のホアンJimenez Berdejo Juan Ramonさんが中心となって復興支援のための展覧会を企画し、東日本大震災直後に被災者にお風呂を供給した「善根湯」プロジェクト(図②)の展示要請したのがきっかけで、唯一シンポジウムにも参加したのである。プレゼンテーションは、阪神淡路大震災(1995年)のポリタンク支援に始まり、新潟県中越地震(200410月)、東日本大震災(20113月)、そして直前のフィリピン・ボホール大地震(201310月)における支援経験の報告であった。板茂の国際的な災害支援活動はよく知られるが、斎藤正のこうした一貫する支援活動は知らなかった。その活動の中には、エボラ出血熱で苦しむリベリアへの遺体収容袋[3]の送付支援もある(図③)。


  タクロバンの復興支援に関り、修士論文『タクロバン( レイテ、フィリピン) における居住環境と住宅生産システムに関する研究―台風ヨランダとバランガイ37・シーウォールをめぐって―』(20163月)を書いた馬淵好司くんは、タクロバンで斎藤正と会い、その活動に共鳴し、ともにネパール地震(20154月)の支援に出掛けることになる。そして、斎藤正・轂工房に勤めることになった。現在は、西予市で一般社団法人ZENKON-nexの一員として「宇和米博物館 の運営に当たっている。

 斎藤正と知り合った直後、「版築の家」で文化庁芸術選奨文部科学大臣新人賞を受賞した祝賀会の招待状をもらったけれど、いけなかった。そして昨年、日本大学の広田直行研究室のみんなと香川県庁舎、栗林公園、丸亀市猪熊弦一郎現代美術館を訪れながら、時間が合わなかった。今回、徳島へ行く仕事があり、ようやく、その作品を見せてもらう機会を得た。折しも、事務所開設25周年を記念する「轂展」(図④)が開催中であった(829日~93日)。



 

 轂工房

 轂工房、英語でAtlier NaveNaveすなわち轂である。轂(こしき)とは、「車の輪の中央の太い部分で、放射状に差し込まれた輻(や)の集まっている所」をいう。どうして、轂という名前にしたの?と問えば、恩師の澤登宜久先生がこれにしなさい!と有無を言わさずであったという。澤登宜久先生は、早稲田の渡辺保忠研究室の出身である。お会いしたことはないがその名は知っている。日本建築史の専攻で、密教建築研究がその原点である。老子『大道廃有仁義』の「三十輻共一轂。当其無、有車之用。 埏埴以為器。当其無、有器之用。鑿戸牖以為室。 当其無、有室之用。故有之以為利、無之以為用。」[4]を示して、「三十輻共一轂」すなわち、中心は空であるけど、30の矢が集まってくる、そういう事務所になりなさい、と言われたという。老子の有名ないわゆる「無用之用」の条である。

 近畿大学工学部(東広島)の出身である。3年生の時に、古谷誠章(1955年~)が赴任するが、古谷がすぐさま文化庁芸術家在外研修員としてマリア・ボッタ事務所に出掛けたので(1986年)、半年ぐらいしか指導してもらえなかったという。一年先輩の玉置順もそうだという。

 学生の頃は、しかし、自由奔放に走り回っていたらしい。不思議な縁を思ったのは、太田省吾(19392007年)の転形劇場(19681988)の芝居を見に行って、写真家の古舘克明(1947年~2003年)、宮本隆司(1947年~)と知り合ったという。僕も2人とは接点がある。古舘とは、鈴木忠志[5]の早稲田小劇場[6]が利賀村に移って国際演劇祭を開始したころ出会った。宮本隆司とは、同時代建築研究会の『悲喜劇 1930年代の建築と文化』(現代建築企画室、1981年)で知り合った。宮本は巻頭グラヴィアを担当している。いずれも同世代である。しばらく、古舘の撮影助手をしながら全国を駆け回ったという。そして、栗生明(1947年~)の作品(カーニバルショーケース 1988年、兵庫県篠山市)の撮影現場に立ち会った縁で、就職することになる。

 そして、一級建築士の資格を得て、独立する(1992年)。その時、事務所の名前を決めたのが沢登先生というのである。

 

 玉葱栽培

 事務所を立ち上げて四半世紀、その代表的な仕事は「轂展」に展示されていた。最初の仕事は個人住宅(「満濃の家」香川県多度郡まんのう町、1995年)である。コンペで勝った「ロードサイドミュージアムXa104」(広島県三次市、1996年)、馬指の医院(丸亀市、1997年)など、順調なスタートと思いきや、以降、5年間、全く仕事がなかったという。

 様々な出来事があった。バブルが弾け、空白の10年と呼ばれることになる時代である。地域で仕事を獲得するのは容易ではなかった。それにコンペで得た仕事が途中で中止になる不運も重なったという。

 仕事は無くても下請けはするな、というのが師の教えであった。そこで、田圃を借りて、農業を始めた。玉葱栽培である。丸亀は玉葱の産地という。玉葱と言えば、淡路島の玉葱小屋が目に浮かぶが[7]、香川県には、戦後、麦の代作として導入され、丸亀の他、観音寺市、三豊市、善通寺市で栽培される。「みがきたまねぎ」として全国でも高い評価を受け、5~7月の占有率は約1割を占め、113月にも「冷蔵たまねぎ」として数多くの市場に出回っているというが、手掛けたのはこの「冷蔵たまねぎ」という。

 相場を見ながら出荷をコントロールする、農作物の生産消費のメカニズムを学んだという。

 

 表現としてのモダニズム

 30代後半にさしかかる、21世紀を迎えるころから仕事が得られるようになった[8]。事務所設立25周年を記念する「轂展」を一覧すると、明らかに一貫する形態への拘りがある。水平の屋根、庇、横長の箱形は、かなりの作品に共通する。「Vegetation Vol.1(専用住宅、丸亀市、2006)、「ガラスのクリニック」(診療所、丸亀市、2008年)、「うしやまクリニック」(診療所、高松市、2012年)などがそうである。そして、2層以上の場合、一層部分をピロティ状の表現、すなわち、全面ガラスなど素材を替えて上層部を浮いた表現とし、横長の箱形を強調する。「志度の家」(専用住宅、さぬき市、2010年)、「ハレルヤ」(福祉施設、丸亀市、2013年)、「誠心保育園」(保育園、丸亀市、2013年)(図⑤)などがそうである。すべて見て回る時間はなかったのであるが、「誠心保育園」は、通りかかりに見せてもらった。歪んだミラー版が気になって尋ねると園児の地上からの視線を意識したのだという。ファサードの素材は、この間変化しつつあり、視覚的効果が、その都度、意識されていることは理解できた。


 いずれにせよ、斎藤正が基礎としてきたのはモダニズム建築の手法である。栗生明、古谷誠章の系譜に連なると言えるだろうか。今のところの到達点は、自社ビルである「イスノキ」[9](事務所・ギャラリー・ショップ・温室、丸亀市、2009年)である。

 しかしそれにしても、この「イスノキ」の型枠は自ら組んで、自らコンクリートを打ったというから、相当な職人技である。

 

 善根

 洗練された一連のモダニズム建築作品の一方、斎藤正には、何処か泥臭い匂いがある。セルフビルドもそうであるが、災害支援のために何処にでもかけつける、現場の匂いである。災害援助のための母体として立ち上げた社団法人はZENKON-nex[10]という。きっかけは、東日本大震災の復興支援としての善根湯の建設活動である。そして、瀬戸内国際芸術祭2013秋会期に、本島(ほんじま)に土とセメントと水と人力だけで作られた版築建築「とぐろ」を建設したことを契機に「続・塩飽(しわく)大工衆チーム」が集結したのだという。

 善根というのは仏教用語である。辞書を引けば、「よい報いを生み出す原因としての善行。諸善のもとになるもの」「種々の善を生じる根本のこと」などとある。他に善本、徳本ともいい、無貪,無瞋,無痴を三善根という。

 斎藤は、小さい頃、100円玉の入った善根袋を身につけさせられていて、困った人がいたらあげなさいと言われていた。ヴォランティア精神は子供のころから身についたものである。もちろん、単なるヴォランティアではない。エボラ出血熱の遺体袋もそうであるが、熊本地震では、梱包用のベルトを筋交いに使用することを提案するなど、建築家としての創意工夫の提案がある。

 善根湯×版築プロジェクト「とぐろ」を見たいというと、朝早くの本島行につきあってくれた。塩飽[11]大工にはかねがね興味がある。塩飽諸島は、大小合わせて28の島々から成るが(岡山県側は笠岡諸島)、名人大工橘貫五郎(官五郎とも)を生んだ本島がその中心である。行きのフェリーのなかで、塩飽諸島が潮だまりになること、そのため税関また勤番所が設けられていたこと、大岡越前守が漁場争いを裁いた伝説、法然が配流されたこと(讃岐配流、1207年)、大名ではなく、人名(にんみょう)による自治が行われていたことなど、興味深い話を聞かせてくれた。自転車で、笹島伝統的建造物保存地区(図⑥)をはじめ本島の要所を廻ったが、往時を想像することができた。人名墓(図⑦)の奇妙な形はこれまで知らなかった。

             
 


 HANCHIKU

 「とぐろ」(図⑧abcは思ったより小さかった。しかも、瀬戸内芸術祭に参加した際の趣はなく、夢の跡といった風情であった。竣工時の写真を見ると、サウナの前に浅い水が張られている。浴室内にピンホールで瀬戸内大橋を逆さに写す仕掛けがあったという。最初は、朝一番のフェリーで本島に渡って一人で作業をし、最終便で帰宅する日々だったという。そして、やがて多くのヴォランティアの参加を得て、完成にこぎつけた。この建設作業に参加した一人が「版築ハウス」のお施主さんである。


 斎藤の版築は土を固めてつくるいわゆる版築ではない。伝統的な版築は、ほぼ土や石(礫)と少量の石灰や稲藁等の凝固材を混ぜるのであるが、見るからに硬い。セメントが混ぜられている。乾きが遅く、工期を間に合わすためにセメントを使ったという。斎藤正我流のHANCHIKUといっていい。土、砂、セメントの比率は試行を繰り返したという。土は、その土地の土を使う。固まり方はそれぞれ異なるという。

 斎藤の版築は、今のところ、構造材として考えられてはいない。「版築の家」(図⑨abc)は、基本的には木造である。版築壁は、施主自らの手になるという。



 これまで、斎藤は、自然素材、地域産材についての拘りを必ずしも見せてこなかったけれど、HANCHIKUをどう展開していくのかは興味深い。

 

 米博

 斎藤正には、丸亀西中学校の同級生の映画監督本広克行の作品『UDON』のオープンセットのような仕事もある。「建築とは何か。人の生活を外敵から守るバリアとして包み込むもの。その構造体を建築と呼ぶのか?社会そのものに作用するものを建築と思いたい。伝統を守ること。まちを蘇らせること。被災地を支援すること。病気の治療と予防。おいしい食事。私にとって、全てが建築である。」と書く。必ずしも、「建築」の狭い世界に自らを閉じるつもりはない。

 LOCA PROJECTというプロジェクトが西予市で進行中である(図⑩abc)。LOCAとは、廊下+ローカル+スペイン語のクレイジーをかけているというが、旧宇和町小学校をオフィスやレンタル・スペース、カフェとしてリノベーションし、新たな「学び舎」として再生を目指すという。施設は新たに米博(宇和米博物館)とよばれるが、コンペで勝ち、ZENKON-nexが指定管理者として運営に当たる。馬淵雅司くんがその担当である。



 目指すべき建築は見えている、ようである。

 






[1] 1965 香川県生まれ。1988 近畿大学工学部建築学科卒業1989年 株式会社栗生総合計画事務所1992年 齊藤正 轂工房一級建築士事務所 設立。2000 近畿大学工学部建築学科非常勤講師。2005APEC ARCHITECT登録。2007年 事務所名を株式会社齊藤正轂工房に改称。2009 中川幸夫プレ美術館運営委員会設立。

[2] Tacloban City, The University of Shiga Prefecture.., Japan-Philippines Conference for Urban Redevelopment of Tacloban City, 5-6, Aug. 2015.

[3] リベリアでは、人が亡くなった時に遺体を抱きしめ洗い清める習慣があり、それが理由で感染するケースがしばしばあった。一般に使用される遺体袋は分厚く、遺体も確認できないものであったが、透明で薄く、ジッパーで開閉できる気密性の高いものとし、火葬の際に遺体を取り出さなくていいもの自社開発し、香川県とともに送ったヴォランティアである。

[4] 三十の矢が放射状に集まって、一つの車輪の中心部と共にある。そこに無(空間)があるから、車輪の働きをする。 土をこねて、それで器を作る。その器に無(空間)があるこらこそ、それは、器としての用を為すのである。壁をうがって戸口や窓をつくり、それで以って、部屋をつくる。部屋の中に無(空間)があってこそ、それは部屋の用を為す。従って、有が有としての価値がある為には、そこに何らかの 無の働きがあるからなのである。

[5] 1974年 岩波ホール芸術監督、1988 水戸芸術館芸術総監督を経て、1995年 静岡県舞台芸術センター芸術総監督。2000 舞台芸術財団演劇人会議理事長。1994年 テオドロス・テルゾプロス(ギリシャ)、ロバート・ウィルソン(アメリカ)、ユーリ・リュビーモフ(ロシア)、ハイナー・ミュラー(ドイツ)などとともにシアター・オリンピックス国際委員会を結成。1995年、第1回シアター・オリンピックスは、アテネデルフォイで開催。1994年、日中韓3カ国共同の「BeSeTo演劇祭」を創設。 2016年から中国・北京郊外の万里の長城の麓にある古北水鎮で、鈴木の演劇理念と訓練を教えるための演劇塾が開始されている。

[6] 鈴木忠志は、早稲田大学在学中に脱新劇を目指して学生劇団「自由舞台」を創立。大学卒業後、1966「自由舞台」から「早稲田小劇場」と改称した。同劇団には、劇作家の別役実、俳優の小野碩らが在籍し、小劇場運動の旗手としての役割を果たした。1976、活動の拠点を富山県利賀村(現南砺市)に移し、1984には「SCOTSuzuki Company of Toga)」と改称した。

[7] 玉葱の生産は、北海道が5割強、次いで佐賀県兵庫県(主に淡路島)、愛知県長崎県静岡県大阪府(主に泉州地区)が主な産地である。

[8] 満濃の家 (香川県)/ロードサイドミュージアム Xa104 (広島県)/馬指の医院(香川県)/多度津の家(香川県)/上下歴史文化資料館(広島県)/浜名湖花博 国際花の交流館(静岡県)(設計:栗生総合計画事務所+柿内正之+齊藤正)/馬指の医院増築(香川県)/CONSERVATORY(香川県)/VEGETATION(香川県)/NEST-NEST(香川県)/映画「UDON」オープンセット(香川県)/CUREBLOOM(香川県)/KICHI(香川県)/n-OM1(東京都)/サンクリーン歯科(香川県)/舞台「Fabrica10.0.1」舞台装置(東京都)/イスノキ(香川県)

[9] 柞原という地名に由来する。柞(イスノキ)は、玉座をつくる素材で、かつて香川の各地に群生していたという。

[10] 活動内容として以下を挙げる。・激甚災害に備えてのZENKON湯の備蓄普及事業・地域の活性化を促進させるまちづくり事業・塩飽レストランや人命救助講習会などイベント企画運営事業・地域の歴史などを多角的に分析した調査や研究・地域に根ざした職人を育成する職人学校の運営・様々な技術を持ったメンバーたちの商品の販売・災害時にZENKON湯などを被災地に届ける人材の派遣・文化レベルの向上の為の芸術活動の推進やギャラリーの運営・地域の防災訓練などのイベントでのZENKON湯の建て方実演・地域を巻き込んだ新しい農業、酪農、林業の運営

[11] 名の由来は「塩焼く」とも「潮湧く」とも言う。