このブログを検索

2021年4月3日土曜日

現代建築家批評20  イメージの源泉としての異境  渡辺豊和の著作

 現代建築家批評20 『建築ジャーナル』20098月号

現代建築家批評20 メディアの中の建築家たち


イメージの源泉としての異境

渡辺豊和の著作

渡辺豊和は、現代日本の建築家として最も著作の多い建築家と言えるのではないか。「売れる、売れない」は別にするとして、著作(単著)の数は、建築、都市計画分野の著作家として知られる磯崎新、藤森照信、松山巌、陣内秀信、石山修武、鈴木博之、山口昌伴(矢田洋)などと比べて勝るとも劣らない。

私家版の『現代建築様式』(1971)から『和風胚胎』(2007)まで24冊の著作[i]があり、今猶執筆中であるがーと書いたまもなく25冊目の『バロックの王 織田信長』(悠書館、2009年)が届いたー、大きくは3つのテーマ・ジャンルに分けることが出来る。

第一に、建築論・作品論・建築批評に関わる著作群が中心にあり、第二に、古代建築への関心を基底にした古代史に関わる著作群がある。建築史に関わる著作が二つのジャンルを接続し、第三に、建築のコスモロジー、宇宙・世界の幾何学に関わる著作が全体を取り囲んでいる。

『ヤマタイ国は蘇にあった』『発光するアトランティス』『桑国王蘇我一族の真実』洋伝承黙示『安倍晴明<占いの秘密>』といった古代史に関わる一連の著作群は、一般には、古代史ファン向けの著作と考えられている。アカデミックな著作では決してないし、いわゆる「きわもの(際物)」とも見なされてきた。日本各地にピラミッドが残されていたという人工造山説は、何回か週刊誌を賑わせた。『発行するアトランティス』をもとに、アトランティス大陸が何処にあったのかをめぐるTV特別番組もつくられたほどである。

確かに、渡辺古代史を読むといらいらするところがある。根拠が示されず、飛躍が多いのである。僕は、多少論文を書くから、もう少し、註をきちんとしたり、引用文献をはっきりさせたたりした方がいい、などと生意気にアドヴァイスするのであるが、まるで頓着しない。建築のディテールに拘らないのによく似ている。

だから、「アカデミズムは駄目なんだ、学者の論文はちっとも面白くない」と逆襲されてしまう。「古代史には謎が多いし、根拠なんかそう多くないじゃないか」。

渡辺豊和の古代史への関心は、古代都市、古代建築への関心であり、その謎を解き明かす原動力となっているのは、その建築的想像力である。建築的想像力、その直感が渡辺豊和の全てを支えているといっていい。すなわち、古代史に関わる著作群も含めて、著作活動は決して余技なのではなく、その建築的営為の一環なのである。

 

 大和に眠る太陽の都

渡辺豊和の古代史への関心を最初に示した著作が『大に眠る太陽の都』である。「神武帝は大和三輪山に早大華麗な先住民の文化を見た-天香具山の地底に眠り続ける巨大な石造の宮殿<磯城宮>。建築界の鬼才がその鋭い空間認識と古事記・日本書紀から掘り当てた不思議な鉱脈-イメージの古代第一弾」と帯にある。

この本には、ほぼその後に上梓される古代史関連テーマのほぼ全てが記されている。きっかけは大和盆地のど真ん中「餓鬼舎」(磯城郡田原本町)に住むことなったことである。「磯城(しき)」という地名も大きい。そして、『記紀』の記す日本の古代史の舞台が意外に狭いという感慨、大和三山が低い丘にすぎず、古墳とそう変わらない、これは人工の山ではないかという直感(発見)が、この一冊を書かせた。いわく「歴史の研究者でも、況や専門家でもない私が、それ以降奇妙な情熱にとりつかれることになる」のである。「資料もなければ知識もない。あるのは建築家としての地形を読む直感力のみなのだ」。以降、渡辺豊和は、古代のイメージ、イメージの古代に生きることになる。

取り憑かれたのは、「地図遊び」である。地図上に線を引いて様々な幾何学的関係を見出すことに夢中になるのである。きっかけとなったのが、北緯3432分には、太陽に関わる地名や遺跡が並んでおり、これは古代日本の天文観測の主軸線ではないかという、水谷慶一著『知られざる古代―謎の北緯3432分をゆく―』(日本放送出版協会)である。大和三山は、畝傍山を頂点とする二等辺三角形をなし、畝傍山と三輪山頂を結ぶ線が丁度中線となり、しかもそれは冬至の日の太陽の運行線に一致する。この作業は、『縄文夢通信』によって日本列島全体について行われ、『発光するアトランティス』によって世界に拡大される。いわく「地球幾何学」である。

古代における建築、都市が天文学そして宇宙観に大きく依拠して設計計画されたことは疑いがない[ii]。僕自身大いに興味がある。眉に唾しながら、渡辺豊和説につい耳を傾けてムキになって反論したりするのは、何か心の底で共鳴するものがあるからである。

そして、渡辺豊和が当初から拘ってきたのは石である。石造建築、巨石文化である。その古代史に並々ならぬ執念は、イワクラ(磐座)学会を設立(2005)してその会長を現在務めていることにも示されている。

その造形の源、核を解く鍵が、イメージの古代にあることは疑いがない。

 地球幾何学

大和に「太陽の都」が眠っていると言いながら、『ヤマタイ国は阿蘇にあった』という。渡辺豊和は、大和に住みながら「大和」主義者ではない。生まれ故郷である「東北」に遙かに強い拘りをもっている。だから、九州説に立つとしてもおかしくないけれど、実は、ヤマタイ国=阿蘇説は、「大和三山」の配置に見出したような、地球上のいろいろな地点、とりわけ古代遺跡、聖地などが一定の幾何学的秩序のもとに位置するという「地球幾何学」の応用と思えばいい。

あるいは、渡辺豊和の脳を刺激し、疼かせ続けているのが「謎」であると思えばいい。ピラミッド、巨石、アトランティス・・・地球上には、確かに、「謎」、そこにあるはずがない「物体」[iii](どうやってつくったのか容易に理解できないもの)が少なくない。誰もが興味をもつテーマとして、日本古代史最大の謎である「邪馬台国論争」に挑んでみせたのである。

『ヤマタイ国は阿蘇にあった』は、しかし、単なる「地球幾何学」の応用ではない。『魏志倭人伝』をきちんと?読んでみせるのである。すなわち、里程や方位だけを問題にするのではなく、中国古代史に分け入って「倭人」のルーツへの関心を広大な世界へ拡大してみせてくれるのである。「倭人は南米ガラパゴス諸島を知っていた」というのは必ずしも荒唐無稽ではない。モンゴロイドの地球拡散過程についても、まだまだ多くの謎がある。

「カッパ・サイエンス」という大衆向けの小著ではあるが、決して「際物」ではない。渡辺豊和がここで強調するのは、「知的冒険」の大事さであり、「地球外視点」ということである。「地球幾何学」が成立するためには「地球外視点」が前提であるが、要するに平たく言えば、既成の見方に囚われないということだ。建築にとっても、重要なのは「地球外視点」なのだ、といいたいのである。

 

 縄文文明

 『ヤマタイ国は阿蘇にあった』に先駆けた『縄文夢通信』は、縄文時代の日本列島を隈無く覆う太陽光の光通信のネットワークが張り巡らされていて、この光の刺激を受けて各地のシャーマンが相互に夢告し合っており、「地球幾何学」に基づく地点に縄文文明の遺跡があるいうものである。

縄文か弥生か、日本の建築文化のルーツをめぐる、また建築における「日本的なるもの」をめぐる議論がある。渡辺豊和は、明らかに「縄文」派である。どころか「秋田県生まれの私は縄文人の末裔」[iv]とまでいう。実際、安倍禎任の子孫だと父親には聞かされてきた。平安後期に朝廷に十年以上にわたって徹底抗戦し滅んだ陸奥安倍氏については徹底して調べてきた。『東日流外三郡誌(つがるそとさんぐんし)』[v]を素材に『北洋伝承黙示録』を書いたのも縄文の根拠地としての北東日本、そして陸奥安倍氏への拘りを示している。

そして、渡辺豊和の想像力を大いに刺激することになったのが「三内丸山遺跡」の発見[vi]19947月)である。「三内丸山遺跡」をめぐって、メキシコのテオティワカンに思いを馳せたりしている。縄文の火焔土器とマヤ美術の類似も一般的に指摘される。陸続きのベーリング海峡あるいは太平洋を介しての交流は、考古学、言語学、人類学、農学、遺伝学の分野で様々に論じられつつある[vii]。ただ、人口500人程度と推定される「三内丸山遺跡」を「都市遺跡」とみなすのは現在のところ少数意見だ。日本に自生の都市はない、輸入品だという説に僕は与する。しかし、この間、次々に大型建物祉が発見され、日本列島に巨大建築の伝統があったことは最早疑いはない。そして、縄文時代の日本が実に豊かな世界であったことも明らかになりつつある。

 そこで、渡辺豊和が興味をもつべきは巨大な木造建築であるが、何故か、木造架構については、実に繊細である。不思議といえば不思議である。後述するように、中世建築における「森への帰還」(縄文の復活)を指摘しながら、それはそのまま「和風胚胎」だったという。すなわち、放浪貴種の子、武野紹鴎があみだした数寄屋にいきつくという。「和風」を語ることのなかっただけに意外であるが、老境に向かいつつあるいうより、本来、木造作品に一貫する繊細ななまめかしさを思うと、そうした感性をもっていたのではないかと思わないでもない。

しかし、一方期待もある。渡辺豊和は、かつて「出雲大社」の復元案をつくっている。福山敏男による壮大な案が知られるが、三本の巨木を金輪締めにした遺構が発見されて、その謎はますます深まる。さらにいくつかの復元案がつくられたが、「出雲大社」を超える、巨大木造建築についての渡辺豊和の想像力をみたいと思う。

 

 異境魔界

初期の著作として重要なのが『芸能としての建築』である。この日本建築史の系譜も、渡辺豊和の著作集の一本の柱である。

冒頭に置かれた「渡職人考」(1)は、自らの立脚点を定めようとする建築家の職能論である。西欧から移入された建築家の概念の日本における根拠の希薄さ、日本の棟梁・大工システムによるその歪曲を指摘しながら、日本の渡職人の果たした役割に思い入れながら、異境(「空間の詩学」)創出こそ建築家の使命であるとする。

この「異境」創出も渡辺豊和に一貫する。そのいくつかに触れた後で(「異境断片収集録」(2))、「平泉」(「幻の平泉へ」(3))、「舞台と劇場」(4)、「金閣寺」「東照宮」(「黄金の夢」(5))そして「密教寺院」(「弘法大師の系譜(6)」)、「巡礼の空間」(7)、「動く家・動く劇場」(8)が触れられる。いずれも、渡辺豊和が感心を抱く日本建築の系譜である。毛綱モン太の「異形の建築」シリーズ(『建築』1972)、「社寺仏閣」シリーズ(『室内』1978)が意識されていたのだと思う。僕も、後に『住まいの夢と夢の住まいーアジア住居論ー』(朝日選書、1997年)を書くが、毛綱毅曠の『詠み人知らずのデザイン』(TOTO出版、1993年)の扱う建築物にしても重なるところがある。どうも僕の建築趣向は、二人に大きな影響を受けたような気がしないでもない。

『天井桟敷から戸を観る』、『異人・秀吉』、『和風胚胎』は、日本建築史、都市史に関わるこの系譜に属する。

『異人・秀吉』は、『群居』に4年にわたって連載した原稿がもとになっている。住宅をメイン・テーマにする『群居』に、何故秀吉なのか、と思いながら、その想像力の赴くところと、とどめる理由もなく、楽しく読んだことを思い出す。戦国時代を終焉させ、近世への道を開いた信長・秀吉が稀代の建設者であり、近世の城郭、城下町の基礎を築いたことへの関心はもちろんであるが、専ら論じられているのは「異境魔界の現出者」としての秀吉である。

『和風胚胎』は、同じように『群居』連載の「森への帰還」がもとになっているが、丁寧に註が付けられ、随分とアカデミックな体裁が採られていて少し驚く。実に読み応えのある日本中世建築史となっている。自ら『芸能としての建築』の締めくくりだという。建築は芸術ではなく、芸能であること、その担い手は、放浪する工匠たちであることが繰り返されている。「森への帰還」として、もちろん、重源の「大仏様」(天竺様)に触れられる。「和風胚胎」というけれど、渡辺豊和には「重源様式」が相応しいと思う。

昨年(2008年)、不思議な縁で安土城の摠見寺の住職、加藤耕文師に出会い、摠見寺を再建したいという師の願いを知って、コンペを手伝った。渡辺豊和さんに審査員を頼んだのは言うまでもない。審査委員会では、相変わらずの豊和節の全開であった。

 

 曼陀羅都市

 渡辺豊和の建築論は、常に都市論を含んでいる。都市と建築の密接な関係は常に意識されている。独立当初に都市再開発のプロジェクトを数多く手掛けたことが大きいと言えるかもしれないが、本来、建築という営為の背景を描き出そうとすれば、都市との関係がテーマとなるのは当然のことである。

「大に眠る太陽の都」にしても、「アトランティス」にしても古代への関心は、都市であり同時に建築への関心である。秀吉への関心が京都の城下町化(御土居の建設)など都市計画に及ぶのは当然である。

 都市計画プロジェクトも、京都造形大学と京都大学布野研究室の共同作品である「百年後の奈良・仏都計画」(1994)、阪神淡路大震災の復興計画として発表された「神戸2100計画」(1996)「再生平安京」(1998)「北九州プロジェクト」(1998)など発表している。都市計画論をまとめたのが『二一〇〇年庭羅都』である。

 E.ハワード、F.L.ライト、W.グロピウス、M.v.d.ローエ、ル・コルビュジェなどの近代都市計画を批判しながら呈示する「曼陀羅都市」は、C.G.ユングのいう「元型」となる都市像を基層にもち、歴史的には「曼陀羅都市」の系譜に属する[viii]。東西南北格子による地球被覆の主張など「地球幾何学」を想起させるが、曼陀羅の空間的形式をただ当て嵌めたというものではない。「地形不改変の原則」「地形特性の強調」が第一にうたわれ、地区の自立と自給体制を支える交通体系、エネルギー供給システム、居住空間モデルなどが具体的に提案されている。 

 

 ペルシアあるいはイスラーム

渡辺豊和の建築イメージの源泉をめぐって、著作群をみてきたが、もうひとつ触れるべきはペルシアあるいはイスラームである。

「曼陀羅都市」論として、渡辺がひとつのモデルとするのが、ムガル帝国の首都「シャージャハナバード」(オールド・デリー)であり「イスファハン」なのである[ix]。またそれ以前に「飛鳥はきわめてペルシア的様相の濃厚な都市であったことに確信を含めている」といい、「イスラーム圏に旅する機会が多いが特にイランにひかれる」と書いている[x]

イスラーム建築への造詣も深い。京都に移り住んで、大学が近かったこともあって、京都造形大学の大学院の授業を渡辺豊和さんと一緒に10年余り受け持った。前期は毎週のように会っていたことになる。僕は専ら出版したばかりの『生きている住まいー東南アジア建築人類学』(ロクサーナ・ウォータソン著 ,布野修司(監訳)+アジア都市建築研究会,学芸出版社,1997)や『アジア都市建築史』(布野修司+アジア都市建築研究会、昭和堂,2003)を材料にしゃべった。『匠明』や『営造方式』も読んだが、渡辺豊和さんが繰り返し読んだのがアンリ・スチルランの『イスラームの建築と文化』(神谷武夫訳、原書房、1987年)である。渡辺豊和がイスラーム建築の幾何学に魅せられてきたことは間違いがない。その作品の艶めかしい形態が精緻な幾何学に拠っていることはその嗜好と無縁ではないのである。

渡辺豊和の著作に共通するのは、常にユーラシア・スケールでものを見ることである。『扶桑国王 蘇我一族の真実』(新人物往来社、2004年)が「飛鳥ゾロアスター教伝来秘史」を副題としているのがまさにそうであるが、ペルシア(イラン)と日本との交流を様々に読み解いてみせてくれている。ゾロアスター(拝火)教については松本清張の『火の回廊』があり、伊藤義教の『ペルシア文化渡来考』(岩波書店、1980年)もある。古代におけるペルシアと日本の関係はアカデミックにも様々に論じられるところである。蘇我氏に先駆けて安倍氏のルーツをユーラシアに探ったのが『安倍晴明<占いの秘密>』であり、そして秦氏を追いかけたのが新刊『バロックの王 織田信長』である。



[i] 1971 2月『現代建築様式』(私家版)/1981 8月『地底建築』(明現社)/1983 6月『芸能としての建築』 (晶文社)/1983 6月『大に眠る太陽の都』 (芸出版社)/1983 9月『神殿と神』(原書房)/1986 1月『現代建築<空間と方No.26』(同朋社出版)/1986 11月『縄文夢通信』(徳間書)/1987 11月『天の建築、地の住居』(人文書院)/1988 11月『建築を侮蔑せよ、さらばびん』(彰国社)/1991 4月『発光するアトランティス』(人文書院)/1991 8月『天井桟敷から戸を観る』(原書房)/1992 4月『離島寒村の構図』(住まいの図書館出版局)/1993 3月『ヤマタイ国は蘇にあった』(光文社)/1995 5月『癒しの庭』(芸出版社)/1996 3月『異人・秀吉』(新泉社)1997 9月『洋伝承黙示』 (新泉社)/1998 5月『記号としての建築』(昭堂)/1998 9月『空間の深層』(芸出版社)/2000 6月『建築のマギ(魔)』(角川書)/2001 1月『安倍晴明<占いの秘密>』(文英堂)/2004 7月『桑国王蘇我一族の真実』(新人物来社)2004 9月『二一〇〇年庭羅都』(建築資研究社)/2006 8月『文象先生のころ毛綱モンちゃんのころ』(acetate)/200712月『和風胚胎』(学芸出版社)

[ii] インドにしろ、中国にしろ、古代の都城の理念は、そのコスモロジーと密接に関わっている。インドについては『曼荼羅都市・・・ヒンドゥー都市の空間理念とその変容』(京都大学学術出版会,2006年)である程度明らかにしたところである。北京の東西南北には、日壇月壇、天壇地壇が配されている。北魏洛陽の南郊に置かれていた焔台は天文観測装置である。

[iii] OPACOut of Place Artifacts

[iv] 『和風胚胎』あとがき。

[v] 1947年に五所川原市の旧家和田喜八郎家で発見された古文書。江戸中期寛政元年から文政五年にわたって書かれたものとされる。『市浦村史資料編』(1975年)として刊行された。

[vi] 三内丸山遺跡はすでに江戸時代から知られ、最も古い記録として、山崎立朴の『永禄日記(館野越本)』(1623)がある。また、江戸時代後期、菅江真澄が現地を訪れ、『すみかの山』(1799)に、縄文時代中期の土器や土偶の精巧なスケッチと考察を記している。1953年の慶応大学などによる発掘調査、67年、76年、87年の青森市教育委員会による発掘調査によって、縄文時代中期の大人用の墓が56基、大型住居跡が検出された。そして、1992年度から始まった県営野球場建設に先立つ発掘調査で、前例のない巨大な集落跡が姿をあらわし、さらに膨大な量の土器や石器などの生活関連遺物や土偶などの祭祀遺物が出土した。19947月、直径約1メートルのクリの巨木を使った縄文時代中期の大型掘立柱建物跡の発見をきっかけに、遺跡の永久保存と活用が決定された。1997年に国史跡、200011月に特別史跡に指定された。

[vii] P.ベルウッド『農耕起源の人類史』(長田俊樹・佐藤洋一郎監訳、京都大学学術出版会、2008年)、『太平洋 東南アジアとオセアニアの人類史』(植木武・服部研二訳、法政大学出版局、1989年)

[viii] 布野修司、『曼陀羅都市』(京都大学出版会、2006年)参照

[ix] 「イスラーム金剛型」「インド胎蔵型」を渡辺は区別するが、イスラーム都市と幾何学については『ムガル都市 イスラーム都市の空間変容』(布野修司+山根周著、京都大学出版会、2008年)に譲りたい。

[x] 桑国王蘇我一族の真実』おわりに。

2021年4月2日金曜日

現代建築家批評19  建築ポストモダニズムの旗手  渡辺豊和の軌跡

 現代建築家批評19 『建築ジャーナル』20097月号

現代建築家批評19 メディアの中の建築家たち


建築ポストモダニズムの旗手

渡辺豊和の軌跡

 

 実は、今最も気になる建築家は渡辺豊和である。実作は「黒滝外ステージ」(県黒滝村、1996年)以来、ほとんどないから、若い世代には、もうその名も知られないのかもしれない。しかし、渡辺豊和は、今猶、旺盛に書き続けている。

渡辺豊和についても、石山修武と同じように、まず、つくることと書くことの意味を考えさせられる。何故書くのか、そして、著作活動に膨大な時間を割くことにエネルギーを注ぎ続けているのか。

 もともと、建築家よりも小説家になりたかった、そう公言(高言!)するのを何度も聞いた[i]。しかし、死ぬまでにもう一作、最大傑作をつくる、と満を持しているのが渡辺豊和である。

 日本に心底ポストモダンの建築家たらんとしたのは渡辺豊和である。あるいは、渡辺豊和の畏友・故毛綱毅曠である。それにしても、ポストモダニズムの建築、あるいは建築のポストモダンとは、結局何であったのであろうか。何を成し遂げたのであろうか[ii]

渡辺豊和の作品は、結構見てきた。いつもびっくりするのは、その収まり(ディテール)に対する無頓着である。ミリ単位で面や線や隅を収めようとするセンスが渡辺には全くない。渡辺建築の迫力は、圧倒的な「空間」であり、「かたち」である。驚くのは、渡辺豊和が日本の近代建築をリードした山口文象のRIA出身であることである。

 渡辺豊和さんとの付き合いは長い。一回り年下なのであるが、不思議な縁である。初めて会ったのは、相田武文ゼミナールに講師として招かれた時のことである。5回シリーズの初回(1978年)に、同じく講師であった渡辺さんからいきなり質問を受けたことを今も鮮明に覚えている[iii]。『建築評論』、「吉岡112]」(1974年)そして「テラスロマネスク桃山台」(1977年)は知っていたから、感激でもあった。そして、『群居』同人として一緒になった。以来、もう30年の付き合いである。そして不思議な縁で、京都大学に赴任した19919月、設計演習で最初に出会った学年(2回生)が、息子である渡辺菊真である。同じ学年に平田晃久がいて、森田、山本麻子、・・・・・・・・・がいて、今彼らが活躍し始めようとしている。

 

 角館

1938年に秋田県仙北郡角館町に生まれる。空家になった実家に行って昼寝をさせてもらったことがあるが、大江宏(19131989[iv]の「角館文化伝承館」(1978)からそう離れていなかったと思う。角館の武家屋敷の裏手当たりであろうか、決して大きくはないけれど、品のある木造住宅であった。道路拡幅に伴って曳屋をするにともなって離れを設計したのが菊真(D環境造形システム研究所)[v]で、それが彼のデビュー作(「角館の町家」、2005)である。

父親は、女子高校の先生[vi]をしていた。「白人とみまごう顔立ち」だったという[vii]。法学部出身で近代政治史専攻、渡辺豊和にとって偉大な尊敬する絶対的存在である。度々聞かされて、うらやましい父子と何度も思った。故郷角館は、渡辺豊和の頭脳の中心に常にある。彼の著作のテーマは、生まれ育った角館(東北)と生活の拠点とすることになった奈良(大和、関西)に全て関わっていると思う。すなわち、その関心は、自らの拠って立つ根拠、自らのルーツに拘り続けているのである。とりわけ故郷角館を愛し続けていることは間違いない。角館町立西長校の他、住宅作品も角館にある。

角館出身の建築家というと帝冠(併合)様式論で知られる下田菊太郎(1866-1931[viii]がいる。本人に言ったことはないけれど、僕の中では、下田菊太郎と渡辺豊和はダブってみえることがある。二人は秋田県が産んだ異色の建築家である。林青梧著文明開化の光と闇 建築家下田菊太郎伝』(相模書房、1981年)で知られるようになったが、下田菊太郎は、建築界の本流からは無視され続けた。建築界の大ボスとなった辰野金吾[ix]とそりが会わなかったというのは伝説である。渡辺豊和もそうだ、という気はない。その毒舌にも関わらず、多くに愛されていると思う。ただ、豊和が建築界の本流ではないことは認めざるを得ないであろう。

下田菊太郎は、最初に「建築計画論」を書いた((「建築計画」という言葉を最初に用いた))建築家であり、この点もRIAで建築修行した豊和と比較したくなるが、ここでは置こう。

 

 山口文象とRIA

小説家になりたかったのだが、父親は大の文学嫌いで、絵と数学が得意なのだから建築学科に進学しなさいという。渡辺豊和の兄も建築の道に進み大手の建設会社に勤めることになるから、父のオリエンテーションは強力だった。『宝島』の作者ステヴィンソンのような建築家の修業をしながら小説家に転じた例もあるのだから、建築学科に行きなさいと母親に諭されたという。

大学在学中は『新約聖書』とサルトルを愛読し建築における文学的表現の可能性について思索したのだという[x]。大学にはほとんど出てなくて、小説を書いたり、絵を描いてみたりなんてことばっかりしていた、シリから二番目ぐらいで出た、ともいう[xi]1961年に福井大学工学部建築学科を卒業し、RIA建築総合研究所に入所する(6470年)。年表を見ると、卒業と入所の間に3年の空白がある。実は、この間中西六郎建築事務所(大阪)に勉めている。中西六郎(1900-64)は早稲田出身でパリのアンリ・ソバージュ(1873-1932)のもとで学んだ建築家で、上野伊三郎(1892-1972)とともに「インターナショナル建築会」を結成したエリート建築家であったが、渡辺が入所したときは6人の小事務所であったという。3年にして、RIAに移ったのは、中西六郎の急死のせいである。RIAでは、植田一豊、富永六郎に設計教育を受けた。

RIA時代については、渡辺豊和の半生紀でもある『文象先生のころ 毛綱モンちゃんのころ 山口文象 毛綱モン太覚え書』(アセテート、2006年)に詳しい。山口文象との交流、また直接の師という植田一豊(1924―)との関係が活き活きと記されている。

渡辺豊和にとって、山口文象は、次第に乗り越えるべき対象となっていく。そして、衝突が起こった。

「先生のおっしゃることはイエスタデイ主義です」

機能主義は古い、昨日主義だとつい口答えしたのだという。

「そんなことをいうならお前やめてしまえ!」

私物を整理し始めることになった。

「やめろといわれてやめるバカがあるか!」

山口文象の晩年に僕は何度か会う機会があった。「同時代建築研究会」[xii]の仲間たちと自邸を訪れたことがあるし、われわれの研究会にわざわざ足を運ばれたこともあった。「渡辺豊和さんって、どんな感じだったんですか」と聞いたことがある。

「あれは一種の気狂いだね」

このことを渡辺豊和さんに何度か話したが、ずいぶん気にして書いている[xiii]。文象さんは愛情に満ちた笑顔であった。「あれは気狂いだ」と言下に言ったのではなく、「一種の」という枕詞がついていた。

 

 1・1/2 

RIAでの修行を終え、1970年に32歳で「渡辺豊和アトリエ」を開所し、主宰する。しかし、仕事があったわけではなく、しばらく、藤田邦昭が主宰する「都市問題経営研究所」で市街地再開発の仕事をしている。そして、「渡辺豊和アトリエ」を「渡辺豊和建築工房」に改称したのが1972年である。ほとんど知られていないが、この間、「学生下宿」(芦屋市打出浜、1972年)を設計している。木造三階建ての延床面積30坪、腰折屋根トップサイドライト方式の「銭湯スタイル」である。一般には「吉岡邸[1・1/2]」がデビュー作とされるが、実質上のデビュー作は「学生下宿」である。阪神淡路大震災にもびくともしなかったという。自邸である「餓鬼舎」(1977年)にもはるかに見上げるトップライトから光りが落ちてくる洞窟のような空間がつくられているが、渡辺の初期作品のキーワードは「洞窟」であり「隠れ家」である。

RIA時代の末年、渡辺豊和は3歳年下の毛綱モン太(本名:一裕、後に毅曠と改名[xiv])と出会う。そして、その交流は毛綱の死(2000年)まで続く。毛綱の衝撃については、これまで何度も触れてきたが、この出会いの年に、毛綱は「北国の憂鬱」を『都市住宅』に発表する(6910月)。そして、「給水の塔」「日吉台教会」「反住器」と立て続けに傑作が発表される。一方、毛綱に刺激されながら、渡辺も「吉岡邸」でデビューする。この間の濃密な交流関係も『文象先生のころ 毛綱モンちゃんのころ』に活き活きと書き留められている。二人を媒介したのは、毛綱の師である向井正也(神戸大学教授、1918―)である。

「反住器」そして「1・1/2」の後、二人とも、仕事が途切れていた。仕事の依頼は少なくなかったというけれど、提案があまりにも奇想天外で、その異形に施主が二の足を踏んだり、工事費が合わなかったり、だったのである。毛綱は「「天紋」谷口邸」まで沈黙を余儀なくされている。また、渡辺も次作「テラスロマネスク桃山台」は3年後である。この間、渡辺豊和の頭の中を閉めていたのは「1・1/2」をどう理論化するかであった。「変容」、「歪曲」、「芸能」、「不具」といった概念をめぐって「空間変妖術」[xv]「観念的歪曲法序説」[xvi]「芸能としての建築」[xvii]といった論文を書いている。

 

 毛綱モン太

僕が毛綱モン太と出会ったのは1978年だと思う。1976年に神戸大学を辞職し、上京し、「釧路市立埋蔵文化センター」がようやく完成したばかりの頃である。石山修武の紹介で平山明義が一緒であった。まあ二人の口の悪いこと、平山も僕もけちょんけちょんに言われたのを覚えている。神戸大学に居づらくなって東京に移住する直前であった。上述のように、ほぼ同時期に渡辺豊和と出会ったのだが、二人の濃密な関係は知る由もなかった。

不思議だけれど、渡辺さん、毛綱さんと、僕は親しくつき合わせてもらうことになった。渡辺さんとは、日本の古代史をめぐって、会うたびに議論したけれど、古代史をめぐっては、僕は徹底して「出雲」主義者となった。「東北」「北方日本」主義者である渡辺さんとは、多くの主張の違いがあったが、アンチ「大和史観」であることは共通していた。モンちゃんは、二人の話をさらに壮大な世界の古代史に引き込むのである。建築には、それを支える壮大なコスモロジーの世界があるということを、僕は二人から学んだように思う。

毛綱さんにも東洋大学に非常勤[xviii]で来てもらって、一緒に即日設計の課題を何年か担当した。山本理顕さんとやったのも同じ「設計演習ⅡA」という演習である。毛綱さんの繰り出す課題の象徴が「地球の臍をデザインせよ」である。「これは、実は「中心」という概念をどう表現するか、というテーマなんだよ」などと、次々と毛綱さんが思いつく課題を学生たちに翻訳するのが大変だった。この時抜群の設計センスを示した学生のひとりが、毛綱さんの再婚相手、中島(毛綱)智恵子さんである。毛綱さんは、その後、「釧路市立博物館」(1984)「釧路市湿原展望資料館」(1984)「弟子屈アイヌ民俗資料館」()という釧路三部作によって、押しも押されもせぬ大建築家になった。この間、身近にいて、建築というのはすごい、と思った。

 

 建売住宅・標準住宅001

一方、大阪に残された渡辺豊和は、「テラスロマネスク桃山台」「テラスロマネスク穂積台」(1978年)によってちょっとしたハイライトを浴びながら、「餓鬼舎」「伊東邸」(1978)「中野邸(標準住宅001)」(1979)「杉山邸」(1980)と住宅作品をつくっている。曰く「モンちゃんが東京へ去って私はRIA時代に身につけたリアリズムに回帰しはじめていた」のであり、住宅設計の試行錯誤を続けながら「私の役割は当時彼とやろうとしていたことの理論化であり、作品は彼に任せておけばいいと思っていた」のである[xix]。、幸いまもなく教職につくことができ、プロフェッサー・アーキテクトとして出発する基盤を獲得することになった[xx]

「テラスロマネスク」は、いわゆる建売住宅である。当時、建売住宅に手を染める(?)ことが一種のタブーであった建築界において、それは衝撃であった。その後、「住宅作家」と目されていた宮脇檀なども住宅メーカーの団地設計を展開し出すのであるが、大野勝彦の「セキスイハイム」や石山修武の店舗設計の試みなど全く異端視されていたことは間違いない。HPU(ハウジング計画ユニオン)結成、『群居』創刊のモメントは、まさにこの点にあった。

渡辺豊和に言わせると、「テラスロマネスク」シリーズは、「一戸建てを隙間なく建ててきた法規違反が常識のこの世界に建築的工夫を導入したにすぎない」。すなわち、「三階建て連棟方式のアパート二棟を並べ、間に幅4mの通路をとっただけである」。当時、木造三階建ては建築基準法違反であった。接道義務(422項道路)違反の住宅は関西では珍しくなかった。真ん中の通路は、敷地内の空地で建坪率の計算に加えることが出来る。とりたてていうことのない「工夫」というけれど、ひとつの「建築類型」の提案がそこにあった。

また、「標準住宅001」というネーミングが示すように、少なくともこの当時、渡辺豊和には住宅を完結した一個の作品とする構えはない。『群居』同人が一定のテーマを共有していたのは間違いないのである。

 

 書くためのメディア:『建築評論』『建築美』『群居』『極』『建築思潮』

 渡辺豊和の最初の出版は、『地底建築』(明現社、1981 8)である。ただ、これは相田ゼミナールの講義録であり、唯一、話し言葉でまとめられた本である。実の処女著作は『現代建築様式』(1971 2月 、私家版)であり、その10年前、独立に当たって自費出版されている。渡辺建築論のエッセンスは既にこの中にある。

『地底建築論』と同じ年、僕は『戦後建築論ノート』(相模書房)を上梓した。以降、会うたびに「何冊になった」と僕に聞く。年下の布野に負けるわけにはいかないと、次々に著作を出版していくのである。

渡辺豊和は一方で評論家・編集者としてのセンスをもっている。建築学科に進学を決めた頃、渋谷の本屋、大盛堂で『建築評論』[xxi]のバックナンバーを手にして、何冊か購入して、ページの隅々まで読んだ。建築家のランキング表(番付け)などが載っていて、建築の世界への興味を掻き立てられたことを覚えている。この『建築評論』の編集に関わって執筆していたのが渡辺豊和だと知ったのははるか後のことである。

『建築美』[xxii]を出したのは『群居』の前である。普通の雑誌では書かしてくれない文章、書けない文章というのがある、書きたいことを書くために雑誌をつくるというのが渡辺豊和スタイルである。『群居』[xxiii]を手掛けて、おそらく、その路線に飽き足らなかったのであろう、より「建築」に即した論考を主体とする『極』[xxiv]を創刊する。そして、「建築フォーラム(AF)」を結成して、『建築思潮』[xxv]を創刊する。これは、僕が関西に移住した時期に重なり、手伝った。編集の神様、平良敬一先生の「建築思潮研究所」に出かけて、「建築思潮」という名称の使用を許可してもらったのを思い出す。『極』『建築思潮』とも、その発行を引き受けたのは、学芸出版社の京極迪宏さんである。渡辺豊和が、メディアについて極めて意識的であることは、以上の経緯からも明らかであろう。

 

 ポストモダニズムに出口はある

「1・1/2」以降「RIA流リアリズムに回帰」していた渡辺豊和が毛綱の疾走を見ながら、その建築コスモロジーを見定めるのは「藤田<神殿住居地球庵>」(1987)においてである。同じ年の「神村民体育館」(1987)によって日本建築学会賞(1987)を受賞する。西脇市立古窯陶芸館(1982)という小さな公共建築は手掛けているが、初の本格的公共建築である。建築学会賞の受賞に当たって、手続きに不案内な渡辺さんを色々手伝った記憶がある。推薦文を書いたのは大田邦夫先生である。実は、毛綱毅曠の「釧路市博物館・釧路市湿原展望資料館」(1984)も、高松伸の「KIRIN PLAZA OSAKA(キリン・プラザ・大阪)」(1989)も大田先生が推薦文を書いた。笑い話のようだけれど、東洋大学に行ってスライドレクチャーして、大田先生に推薦してもらうと学会賞がもらえるなどという噂があった[xxvi]

渡辺豊和は、「龍神村民体育館」以降の10年に、独自の渡辺建築ワールドを、「ウッディパル余呉森文化交流センター」 (滋県余呉町、1990)「対馬玉町文化の郷」(長崎県玉町、1992)「秋田体育館」(1994)「加茂町文化ホール」(島根県加茂町、1994)などによって一挙に開花させることになる。

しかし一方、「ポストモダニズムに出口はあるか」(丹下健三・篠原一男対談「状況への直言」『新建築』19839月)のようにエスタブリッシュメントからの巻き返しも開始されていた。



[i] 「中学の時に突然、詩や小説を書きはじめ、国語の先生にほめられることも多く、何時か将来は小説家になろうと思うまでになっていた。」(『文象先生のころ 毛綱モンちゃんのころ』pp33-34)。「18才まで生家にて過ごし、ジイド、カミユ、リルケ、芥川龍之介、萩原朔太郎に傾倒し詩と制作をはじめる」(『現代建築様式論』、渡辺豊和略歴)。

[ii] 安藤忠雄、藤森照信、伊東豊雄、山本理顕、石山修武ととりあげてきたけれど、彼らは果たしてポストモダニストと呼べるであろうか、と改めて考える。藤森を除けば、全て近代の建築技術を前提とし、工業社会を前提としながら、建築表現の可能性を追求し続けてきた建築家である。戦うべき問題は、ひとつのシステムが世界を覆うことであり、その具体的な表現としてのステレオタイプである。

[iii] この相田ゼミナールの講義録が『地底建築論』(明現社、1981年)である。

[iv] 秋田県秋田市出身。父の大江新太郎明治神宮造営技師を務め、日光東照宮の修理、および明治神宮宝物殿、神田明神を設計を手がけた。代表作に、東洋英和女学院小学部(東京都港区/1954年)、法政大学5558年館(東京都千代田区/1958年/芸術選奨、日本建築学会賞) 国立能楽堂(東京都渋谷区/1983)など。1985日本芸術会員。1988日本建築学会賞大賞を受賞。

[v] 1998年個展「渡辺菊眞建築展 「風景」・建築-風景」開催/2002年天理エコモデルセンタ-(奈良県天理市)/2002年神戸アフガン交流公園施設 (兵庫県神戸市)2004年双極螺旋計画 (アフガニスタン)2005年角館の町家 (秋田県仙北市)2006年琵琶湖モデルファーム-転生の泥舟(滋賀県大津市)2007年~ 南シューナ研修施設(ヨルダン・ハシュミット王国)2007年~ 東アフリカエコビレッジ(ウガンダ共和国)2008年  竹の子学園「ハッピーハウス」(広島県広島市)

[vi] 『安倍晴明<占いの秘密>』(文英堂、2001年)p8

[vii] 『バロックの王 織田信長』あとがき。

[viii] 旧佐竹藩士下田順忠の次男として、秋田県角館町(現仙北市)に生まれ、秋田中学3年の時に上京し、三田英語学校で語学を学んだ後、1883年に工部大学校入学、1885年(明治19年)工部大学校造家学科進学。同期に横河民輔がいる。1889年にアメリカに渡り、ニューヨークのページ・ブラウン建築設計事務所に就職。1892シカゴ万国博覧会 (1893年)の設計競技にブラウンが当選し、現場管理副主任としてシカゴへ赴任。万博工事総監督のダニエル・バーナムに師事し、鋼骨建築法を学ぶ。1895年シカゴに建築設計事務所を設立して独立。1919年帰国。1918年に帝国議会の設計競技に、洋風建築の上に日本式の瓦屋根を載せる帝冠併合式(後に帝冠様式と呼ばれる)を提案した。

1920年、帝冠併合式意匠の主張を活版小冊子を作って友人や主宰当局や議員らに配布。1920年・1922年の議会で設計変更の請願が採択されたが、建築界からはほとんど無視された。

[ix] 辰野

[x] 『現代建築様式』(私家版、1971)あとがき。

[xi] 『地底建築論』p12

[xii] 同時代建築研究会(当初、昭和建築研究会と称した)を設立することになった(197612月)。設立メンバーは、宮内康、堀川勉、布野修司である。浜田洋介ら宮内康が主宰するAURA設計工房のメンバー、弘実和昭など東京理科大学の教え子たち、「雛芥子」から千葉正継、そして「コンペイトウ」の井出建、松山巌が加わった。 この同時代建築研究会は、『同時代建築通信』というガリ版刷りの通信を出し続けるが(19831990年)、1992103日の宮内康の死(享年55歳)によって活動を停止する。

[xiii] 『文象先生のころ 毛綱モンちゃんのころ』(「事務所をこわすなヨ」)pp.133-134

[xiv] 本人曰く以下である。25歳の時恐山でマリリン・モンローの霊に出会い、そのイニシャルをとってMMを名乗れ、とお告げを受け、イブモンタンの例も思い浮かべながら、ラテン的発音で「いい気なもんだ」に通じると毛綱モン太と名乗る。37歳の頃、夢枕に白髪の老人が立ち、改名の時機到来を告げる。・・・「人の話をよく聞こう」「宇宙建築の毅曠を極めよう」「気功」にも通ずる云々で毅曠とした。

[xv] SD19723

[xvi] 『都市住宅』19733

[xvii] 『都市住宅』1974年秋

[xviii] 『毛綱毅曠 建築の遺伝子』(日本の建築家5、丸善、1986年)の自作年譜によれば、1982年に「大田邦夫先生布野修司の引立てで東洋大学の講師となる」とある。

[xix] 208

[xx] 80年、京都芸短期大客員教授、8190年 京都芸短期大教授、9107年  京都造形芸教授

[xxi] 「『建築評論』という小さな本があって、その本は約三千部ほど出ていた。東京にも少しは流れていたと思うんですが・・・『建築評論』では関西の建築家を取り上げて1回に20枚くらい書いていたわけです。・・・あれは季刊だったんですが、11号まで行きましたから、4年間ほど続いたわけですかね。わりと面白い雑誌だったんです」『地底建築p161

[xxii] 建築美

[xxiii] 198212月~200012月 「群居」150

[xxiv] 『極』

[xxv] 『建築思潮』(学芸出版社)。「未踏の世紀末」01199212月創刊)、「死滅する都市」02199312月)、「アジア夢幻」0319953月)、「破壊の現象学」0419962月)、「漂流する風景[現代建築批判]」05(19973)

[xxvi] 安藤忠雄の「住吉の長屋」(1979)、㈱象設計集団+㈱アトリエ・モビル「名護市庁舎」(1981)、長谷川逸子「眉山ホール」(1985)、伊東豊雄「シルバーハット」(1985)・・高松伸まで、若い世代が次々に日本建築学会賞を受賞し、認知されていく時代となった。

2021年4月1日木曜日

現代建築家批評18  ブリコラージュ・開放系技術・未見の形  石山修武の建築手法

 現代建築家批評18 『建築ジャーナル』20096月号

現代建築家批評18 メディアの中の建築家たち


ブリコラージュ・開放系技術・未見の形 

石山修武の建築手法


 石山修武とは一体何ものか。

研究室内に突如「町づくり支援センター」をつくって各地の物産を売買する「雑貨商」になったりする[i]。もともと、流通をベースとしてD-D方式を業としようとしたのだから、商人のセンスがあるのかも知れない。気仙沼では「貯金箱」をつくったり、「ひろしまハウス」では募金活動をしたり、勧進聖の趣もある。書くことに執着するところは、「作家」と言えばぴったりくるが、書くことのほとんど全てはものをつくることに関わっている。「作家」が何か別に職業を持っているというのではないのである。

稀代の仕掛け人、アジテーター、組織者、運動家であることは疑いない。本人はいずれのレッテルも拒否するであろう。

本人は、「建築家」というだろう。世間的には「教育者」である。ただ、自らをオーソドックスな建築家と思っていないことは言うまでもない。「ぼくのポジショニングだけははっきりしています。多勢に無勢のたとえでいえば、無勢の方で少数派」「ぼくは主流とか、本流というのは徹底的に侮蔑しますからね。」

大学教授になって丁度20年、その仕事を集大成するかのような建築展「建築が見る夢」(2008年6月28日~817日)が開催された。「石山修武と12の物語」ということで「ひろしまハウス」そして「世田谷村」以降、世界各地で計画しつつある12のプロジェクトを紹介する。「世田谷村」に収斂するどころか。石山修武はますます意気軒昂である、というところか。美術館をそのまま仕事場にするなど、実に石山らしい。

ただ、その構図、すなわち、石山の仕事場とその仕事が世田谷美術館に収まっている構図がなんとなくすっきりするようにも思える。

「現代っ子ミュージアム」(宮崎、1999年)をそれと知らずにたまたま訪れて(漆喰壁がズリ落ちて下地が剥き出しになっていたのにはウヘェーと思ったが)、その作品が売られていることを知った。石山修武のドローイングには独特の味があり魅力がある。「電脳化石神殿窟院群」なるエッチング集もある。このところ、出かける旅は「スケッチ旅行」と称される。「芸術家」というと本人は嫌がるかも知れないけれど、ある境地に達しつつあるのではないか[ii]

石山修武は、その生き方そのものを露出し続ける「表現者」なのである。本人も言う。「世田谷村での私の生活は私の表現活動ではないかと気が付き始めたのである」。

  

 「ひろしまハウス」というモデル

 「グアダラハラ計画」「チリ建国200年祭計画」など南米にそのネットワークは広がりつつあるが、石山は、建築を志して以降、アジアに拘ってきた。専らアジアを歩き回って、「アジアの街角で」といった連載をし[iii]、「アジア建築としての日本建築」「ビルディング・トゥギャザーの町」[iv]といった文章を書いている。

 「いまでもそうだけど、僕は意固地なところがあったから、ボスポラス海峡は渡らないと決めていたんです。ヨーロッパなんてクソでもない、ヨーロッパの近代建築は見ないと決めていた。どうしてわからないけどそう決めたんです。」[v]

 ヨーロッパ建築ゼミナールの団長としてヨーロッパに行っている(1984年)から、ボスポラス海峡を渡らないとか、近代建築をみないと決めたというのは嘘である。しかし、アジアに拘り続けてきたことは事実である。

いまのところ海外で実現した唯一の作品もプノンペンの「ひろしまハウス」である。1994年の広島アジア大会を契機とする「ひろしま・カンボジア市民交流会」の活動に石山が賛同して以降の経緯はここでは省くが、「ひろしまハウス」は、大きな美しい物語として語りうる。石山修武はここでは本音を語っているように思える。

「「ひろしまハウス」は原爆投下によって20世紀を象徴する悲劇の一つに遭遇した広島市の市民の皆さんとの共同によって生み出された。・・・大きな共感と使命感を持って取り組んだ。あり得るやもしれぬ市民社会の理想のモデルを一つ端的に表現できたと考える。建築表現とは獲得すべき社会モデルを物質を介して形にする事だ。

ここで石山が行ったのは、鉄筋コンクリートの躯体の設計である。傾いだ柱と仏足跡を抽象化したバタフライ屋根が石山らしい。壁の煉瓦は、ヴォランティアのツアー参加者によって思い思いに積まれた。仏足跡にカンボジア寺院風の屋根を架けたのはウナロム寺院テップ・ボーン大僧正の命である。

「ミャンマー仏教文化センター計画」は政変で中断しているらしいが、石山はカトマンズ盆地のキルティプルを次のターゲットにしつつある。そこで目指すのは、セルフビルドの集団化、組織化!である。

 

 ジープニーの部品システム

マニラのフリーダム・トゥー・ビルド(F to B)を案内した時(1983年)のことは前に少しだけ書いた。驚いたのは、石山修武の眼である。風景が全て部品に見えているのである。広告や車、住宅の屋根や開口部、眼にするもの全てからその流通経路を読んでしまう。風景を読むこと、それはフィールド・スタディの基本であることを後になって学ぶのであるが、当時は石山の商人感覚のように思えていた。

その時、石山が異常に興味をもったのがジープニーである。その時買ったジープニーの本は僕も大事に持っている。ジープを改造した小型の乗り合いバスであるが、実にけばけばしく飾り立てられている。日本の「トラック野郎」のトラック、パキスタンなどアジア・ハイウエイの長距離バスなども同じように派手派手しい。「望風楼」あるいは「つくしんぼ保育園」に即してであるが「建築はジープニーのごとく」[vi]と石山は書く。「典型的なTOKYOの住宅地の風景の中では、・・・ジープニーのごとく・・・満艦飾が望ましい。・・・ギザギザ、ジャラジャラ、ガンガン、バリバリと、建築物は各種の変テコリンな屋根飾りで飾り立てたのである」

このギザギザ、ジャラジャラ、ガンガン、バリバリ・・・というのは石山のデザインに一貫する。

しかし、ジープニーが教えるのは勝手気ままな装飾にだけあるのではない。注目すべきはそのシステムである。ジープニー工場に行こうと引っ張って行かれたのであるが、そこは単なるリサイクル工場であった。何の装飾もないブリキのジープニーが新鮮であった。飾り立てられるのは路上であって、運ちゃんが部品を買って思い思いに改造するのである。

この躯体―装飾システムは、スケルトン-インフィル・システム、コア・ハウス・システムに通ずるものである。「ひろしまハウス」はその延長にある。

 

 素材

世田谷美術館の展覧会のカタログには、石山修武のこれまでの作品から10の作品が収録されて、中谷礼仁が解説を書いている。この10作品に「ひろしまハウス」と「世田谷村」を加えれば、現在までの代表作となるのだろう。10の中には、伊豆松崎町のまちづくりとして10数のプロジェクトが含まれている。また、Wikipediaで石山修武の項目を見ると、あるいは石山の著作を読めば、ほぼ全てのプロジェクトを知ることが出来る。主だったものを拾うと、「ネクサスワールド」(1991年)、観音寺(1996年)、松島さかな市場(1997)、鳴子早稲田桟敷湯(1998年)、東京都北区清掃工場(1998年)、星の子愛児園(2002年)などがさらにある。

根っからのシステム嫌いであるから、躯体や素材に一貫する拘りがあるようには思えない。鉄(コルゲート・パイプ)、木(卵形ドーム)、土・漆喰(伊豆の長八美術館)と徐々に扱う素材とヴォキャブラリーを増やしてきた感がある。「リアス・アーク美術館」では、航空機用のジュラルミンまで自家薬籠中のものとする。

「わたしの建築はときに多様な形態を組み合わせるが、それよりも素材の組み合わせに特色があるように思う」[vii]

確かに、石山の生み出す独特な形と装飾は、フォルマリックな操作によるものではない。素材の本性が石山の感性と職人の手業と混ざり合って引き出されてくるようなプロセスがある。しかも、アルミニウム、木、土、紙、ガラス、鉄・・・と実に多様である。素材と素材の組み合わせ、激突の処理に妙がある。

工業製品を前提としてきた石山が次のようにいうのはひとつの結論である。

「建築の未来は素材のもつ時間性の中にもその可能性を見ていくことになるだろう。すべての素材は大地から得られるものだ。それはまた大地に帰してやるのが一番なのだ。ありとあらゆる素材の故郷である大地を傷めつけてはいけない。ゴミとして大地を傷めぬ素材を見直すべきだろう。」[viii]

鉄も錆びて大地に帰る。問題は地中もっと深くから掘り出される素材である。

 

 ブリコラージュ

 「現場の声を訊け」、「モノづくりの現場から」、石山修武が拘るのが現場である。原型としてのセルフビルドは、基本的には現場で調達可能な素材(地域産材)をもとにし、人間の身体能力(手業)に依拠するのであるから、現場が出発点となるのは当然である。また、建築が本来「地」のものであり、具体的な敷地を前提として成立するのだとすれば、現場から全てを発想するのは全ての建築家にとって当然である。

 現場から発想する場合、全く新たな建築生産システムを持ち込むか、その現場に蓄積されている建築生産システムを前提とするか、で異なる。コルゲート・パイプの住宅、フラードーム、セキスイハイムは前者であり、現場との関係では異質なシステムを持ち込むことにおいては同じであり、それが受け入れられて、地域の生産システムを形成することもある。場合によれば、コルゲート・パイプ住宅の建ち並ぶ町ができることになる。もうひとつは、地域のコンヴェンショナルな建築生産システムを利用することになるが、石山の場合も、福岡の「ネクサスワールド」の集合住宅(1991年)のように、特に一定の規模以上になれば、在来の工法をベースとすることになる。

 大きな問題は、近代的建築生産システムが地域の建築生産システムをずたずたにしていることであり、逆に世界中の建築生産システムが、少なくとも部品・材料のシステムのレヴェルでは利用可能であることである。

 石山の現場で組み立てる手法は、「その場で手に入るものを寄せ集め、それらを部品として何が作れるか試行錯誤しながら、最終的に新しい物を作る」まさにブリコラージュというのに相応しいと思う。ブリコラージュする職人をブリコルールbricoleurという。手元の辞書を引くと「ある物を寄せ集めて物を作る人であり、創造性と機智が必要とされる。また雑多な物や情報などを集めて組み合わせ、その本来の用途とは違う用途のために使う物や情報を生み出す人である。端切れから日用品を作り出す世界各国の普通の人々から、情報システムを組み立てる技術者まで、ブリコルールとされる人々の幅は広い。」などとある。元々「繕う」「ごまかす」を意味するフランス語 に由来する言葉でもある。

 

「世田谷村」というシステム

 阪神・淡路大震災を契機として、石山は「ライトインフラストラクチャー」ということを考え出す。すなわち、災害時あるいは難民キャンプを想定して、最小限の、また、軽い、機動性のある(移動可能な)、インフラストラクチャー(基幹構造物)を考案するのだという。具体的なイメージとして提出されているのは、「使い捨てサニタリー」(ペーパートイレ)、「エネルギーコア(エンジン)」「コンテナ病院」などである。

 また、「開放系技術」ということを言い出す。

 「“技術”というのは自分の中に全部ある。例えば建築技術はゼネコンの側にだけあるんじゃなくて、ゼネコンよりサブコンのほうがいい状態の技術はあると思うけれども、さらに、それを個人の側に引き寄せて自分自身の手元になるべくもっているというのがよい」

 問いは、全体と個をめぐって一貫していると言っていい。英語に訳すとすれば、「インディヴィジュアル・テクノロジー」が最適かもしれないといい、「あるいはもっと端的にオープンテクノロジーか」ともいう。

さらに、「個々人の個別技術への注視とその体系化を目指そうと言い換えてもよい。端的に言ってしまえば個々人の身の回りの環境は、それぞれの個人が考案し、つくるのがよく、そのための技術こそがもっと考案され、開発されるべきだ」といい、「世田谷村」の建設現場がそのための実験場だという。

われわれは、「世田谷村」に石山修武の行き着いた最終的な解答を見ることが出来る。未見の形が新たな生産システムを産む、というのでは明らかにない。「世田谷村」という建築・まちづくりのシステムが開放系として呈示されるのである。

第一に、ここには構造躯体システムについての一般的解答がある。ル・コルビュジエのドミノ・システムとバックミンスター・フラーの吊り構造を共に利用し、最小限の部材で多層の床をつくりだすひとつのシステムが提案されている。また、風力発電機、ソーラーバッテリー、住宅用エンジンなど様々なエネルギー変換装置が組み込まれるシステムが提案されている。さらに、間仕切り、収納、家具、サニタリー、キッチン、証明、・・・など生活部品がデザインされている。多くの部品を世界中から寄せ集められ、それを転用するのはこれまで通りであるが、逆に、「世田谷村」で制作された生活部品、開発された技術が他で利用されることが前提とされている。

全てが石山修武という個人に集中するシステムをどう開いていくか、開放系技術がどう社会化され、根付き、継承されていくかが最後の勝負ということである。

 

 しかし、一方で、「未見の形」に拘り続ける石山がいるような気がしないでもない。石山は、しきりに「夢」という言葉を使う。世田谷美術館の展覧会のタイトルは『建築がみる夢』であり、『夢のまたゆめハウス』(筑摩書房、1998年)という著書もある。この点、同じく、ヴァナキュラーな技術に拘りながら、未だ人類が見たことのない建築を作りたいという藤森照信の「建築少年の夢」と共振するものがあるのだろう。

ここまで書いてきて、石山修武の軌跡も理論も手法も全て一体化していてとても切り離せないことがよくわかる。著書は全て金太郎飴といっていいけれど、新たな経験と表現が記録されていく。揺れを指摘することは出来るけれど、核はぶれてはいない。

 石山の存在そのもの、石山の生き方そのものが表現なのである。

 住むことと建てること、生きることが「世田谷村」では一体化する。

「絵を描いたり、文学したり、芸術らしき作品風を制作したりだけが表現なのではない。屁をこいたり、家族といさかいをしたり、無為の虚無に沈んだりの日常の、それこそ他愛ない限りを尽くす生活が人間の至上の表現なのではないか、もしかしたらの、真理らしきものの入口にようやくにして到達したのである。」[ix]

 



[i] 『建築家、突如雑貨商となり至極満足に生きる』 (デジタルハリウッド出版局1999年)

[ii] 「銅板画や絵はひと山当ててやろうと血走った眼で始めたわけではない。気がついたらやり始めていた。けれども純粋な表現衝動からでもなさそうだ。・・・・」(『建築がみる夢』p.40-41

[iii] 『室内』1984年、隔月。

[iv] いずれも、『「秋葉原」感覚で住宅を考える』所収。

[v] 槻橋修編「石山修武」『旅。建築の歩き方』(彰国社、2006年)。

[vi] 「望風楼」『「秋葉原」感覚で住宅を考える』pp.87-88

[vii] 「素材との出会い」『石山修武考える、動く、建築が変わる』(TOTO出版、1999年)pp.201-203

[viii] 同上。『石山修武考える、動く、建築が変わる』(TOTO出版、1999年)

[ix] 『建築がみる夢』(講談社、2008年)P137