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2021年5月29日土曜日

 「物件」に「物語」を! 「住」を「文化」に!-まちをまるごと再生する魔法 「SODACCO」  進撃の建築家 開拓者たち 第22回 大島芳彦(開拓者27)

 進撃の建築家 開拓者たち 第22回 大島芳彦(開拓者27) 「物件」に「物語」を! 「住」を「文化」に!ーまちをまるごと再生する魔法 「SODACCO」 201806月(『進撃の建築家たち』所収)



開拓者たち第22回 開拓者27 大島芳彦(Blue studio)               建J  201806

 

 「物件」に「物語」を! 「住」を「文化」に!-まちをまるごと再生する魔法

SODACCO

布野修司

 

 今や風雲児、飛ぶ鳥を落とす勢い、それこそ「進撃」を続ける大島芳彦(図⓪)[1]の名前を知ったのは、恥ずかしながらごく最近である。東京に引っ越してきた娘が、ブルースタジオBlue studioって知ってる?と聞く。中古マンションをリノベーションして住みたいと関連の本、雑誌、ネットをいろいろ調べたらしい。作品を見ると、マンションの一室に鉄製のらせん階段がぽつんと置かれたり、なかなか格好いい。オープンAの馬場正尊さんなどの名前が一緒にあるから、リノベーションの仲間と直感、面白いんじゃない、と答えた。娘たちは、ブルースタジオ開催のセミナーにも行って、「物件」探しから頼むことになった。


 松村秀一先生の『ひらかれる建築―「民主化」の作法』が同じ頃上梓された(201610月)。かつて一緒に編集をしてきた『群居』[2]の話が出てくる。工業化住宅について長年研究してきた彼が、最近、「箱の産業」から「場の産業」へ、と主張する。さらに、建築学科には最早可能性がない、と言ったりする[3]。『群居』世代を「民主化」の第二世代といい、今後の建築家のあり方を展望するこの新刊本をネタにAForum[4]で議論しようと持ちかけたら、大島芳彦というすごい奴がいるから呼びたいという。「高品質低空飛行」を唱え、同じく第三世代の旗手とされる島原万丈さんと3人で話してもらうことにした(201743日)[5]。この企画が成立した頃、娘が、今度、ブルースタジオの大島さんがNHK(プロフェッショナル 仕事の流儀 2017116日放映)に出るらしいよ、という。ブルースタジオと大島芳彦の名前が結びついたのはこの時である。「廃墟がよみがえった リノベーションの魔法」と題されたNHKの番組は、そのエネルギッシュな活動を活き活きと伝えるものであった。

 多彩な活動の全貌に触れるわけにはいかないけれど、何か見たいと頼むと、「SODACCO」を案内しましょう、ということになった。西川編集長も一緒に出かけていろいろ話を聞いた(327日)。



         

 SODACCO

SODACCOとは、子どもとクリエイターが「育つ」(「育っ子」)という意味の造語である。オイルショック直前(197173年)に建設され、化粧品会社が使用していたオフィスビル(図②before ABCDE)を、代官山を拠点としてきた「地」の企業(Urban Resort Group(株)佐藤商会)が買収、リノベーションした「物件」である。13階は子ども・キッズをテーマとした事業者向けのテナントスペース、46階にコアテナントしてクリエイター専用シェアオフィス「co-lab代官山」が入居する。

ブルースタジオは、大地山博[6]、大島芳彦、石井健[7]という武蔵野美術大学建築学科の同級生3人を核とするが、Co-lab」を立ち上げた田中陽明も学科は違うが同級生である。今や千駄ヶ谷、西麻布、二子玉川、渋谷アトリエ、墨田亀沢、そして代官山の6カ所に展開、コラボレーション誘発のためのクリイティブ・プラットフォーム(シェア・オフィス)をうたう。確実に時代のニーズに応えている。若きクリエイターたちが自転車で通ってきて仕事をする様子は実にいい雰囲気であった。






 代官山でもヒルサイド・テラス方面とは町の雰囲気は異なる。徹底して市場調査をした。地価や家賃などオープンデータを机上で調べる従来型の調査ではない。聞けば、僕らの臨地調査(フィールド・サーヴェイ)と同じだ。歴史的な形成過程を含めて地区の成り立ちを読む。隈無く歩き回ると意外に子ども関連の店が多い。孫を連れたジージ、バーバの姿も少なくない。SODACCOの企画はこうして組み立てられた。それにオーナーが地元の商店街を束ねてきた「地」に根を張った存在であったことも大きい。その本社ビルのリノベも手がけた(図②before After)。

         

 ブルースタジオ

  立川の旧米軍ハウスでのシェアハウス体験が原点と言うからてっきり、武蔵野美術大学の先輩、村上龍の『限りなく透明に近いブルー』(芥川賞、1976年)から採ったと思っていたら、「藍は藍より出でて藍よりも青し」に因るという。「師匠を超える」という諺である。命名したのは、グラフィック・デザインに転じていち早く独立してブルースタジオを設立(1997年)した大地山氏である。昨年は設立20周年であった。大島芳彦が、海外遊学の末に就職した(1997年)石本建築事務所を辞して、家業を継いで大島土地建設株式会社、代表取締役に就任し、同時にブルースタジオに合流したのは2000年である。

 もともとは彫刻家になりたかったという。武蔵美で油絵を学んだ母親の影響がある。美大を目指した仲間に東京芸術大学に入った岸健太(現秋田公立美術大学)がいる。僕が今でもフィールドにしているスラバヤで活動[8]していることはかねてから知っている。世の中狭い。ブルースタジオ設立の頃はごく近くにいた。大島さんは竹山実研究室出身というが、武蔵美の近くに住んでいる縁で僕も非常勤で通ったことがある(「東南アジアの住まい」1986年前期)。長尾重武元学長はまだいなかったはずだから、今でも同じ団地に住む源愛日児先生の依頼だったかもしれない。

 高校生(桐朋高等学校)の時パンク系のバンドをやっていたといい、武蔵美では「いかにひねくれるか、斜に構えるか」が自分の価値だと思い、「全部とにかく否定してやろう」「とにかくまずは疑ってみる」という気持ちだったという[9]20年のタイムラグがあるけれど、僕らの学生時代の気分に似ている。「雛芥子」というのは「武蔵野タンポポ団」[10]を意識した命名だった。元々は「本郷雛芥子団」と名乗った。武蔵美には、兄貴分の「遺留品研究所」(真壁智治、大竹誠、中村大助、村田憲亮)が暴れてまくっていた。

 学生時代に時空を共有(活動を共に)しながら熾烈に議論する、そして、散らばってそれぞれが修業した上で再結集する、クリエイター集団誕生の理想の軌跡に僕には思える。


  海外遊学

 バブルが弾け空白の10年へ突入した1990年代前半、僕が京都大学に赴任した頃最初に出会った建築家たちと同世代だ。学生時代、東欧を含めたユーラシアを歩いた。「真面目に大学教育通りに勉強をしてこなかった」ためにダブった間は、磯崎アトリエで模型づくりのアルバイトもした。ベルリンの壁の崩壊(1989年)、そしてソ連邦の解体(1991年)という転換期だ。森田一弥(開拓者14、連載1213回)が同じ頃ユーラシアを放浪したことを思い出した。森田は、西欧建築ではなくアジアの建築を見たかったといい左官修業に向かうのであるが、大島が向かったのは南カルフォルニア建築大学SCI-Arcである。それでいてロンドン大のバートレット・スクールThe Bertlett UCLにも通ったというので、いきさつを聞くと、SCI-Arcがウィーンの応用美術学校やバートレットなどと交換プログラムを持っていて、サマースクールにP.クックそしてE.ミラーレスが教えに来ていた縁である。

 3年の海外遊学を終え28歳になろうとする時、石本建築事務所に就職する。多少寄り道したかもしれないけれど、堂々たる建築家としてのスタートである。精悍なる風貌、そして、既存の建築のあり方を鋭く批判する姿勢にはなんとなくそぐわないと思って、なんで組織事務所を選んだの?と問えば、散々遊んで親に迷惑をかけたのでちゃんと就職するつもりだったという。本人の意識の上では、真っ当に建築を追求してきたということであろう。NHKの番組でも、不動産業には興味がなく、独創的な建築をつくりたいと思っていた、と述懐している。

 転機となったのは、家業の継承である。

 

 土地のデパート

 ブルースタジオの事務所は東中野の駅に接している(図③a)。ドキュメンタリー映画など単館系の映画を上映する「ポレポレ東中野」の向かい側だ。聞けば、お爺さんがすごい人だったらしい。戦前期に東京さらに関東一円の土地を扱う不動産業の草分けで、関東大震災後の東京復興計画に当たっては後藤新平と渡り合ったという。『政経グラフ』の「特集大島土地号」の表裏表紙はそのすごさをうかがわせる(図③b

 大島芳春、北海道江別出身、上京して早稲田専門学校に在学中,アルバイトで土地分譲会社の星野土地(新宿)に通っているうちに「土地事業こそわが生涯の仕事」と思い定めて中退,1925年に東洋土地を設立(1927年,社名を大島土地と改称)した。当初から、東中野駅前が拠点だ。初期には郊外での造成分譲をしたが,やがて「便利な市街地を・狭くても一般市民が買える価格で」をモットーとして駒込,板橋,目白,滝野川などで分譲事業を進めるようになったという(図③c)。全日本不動産協会創設と宅地建物業法施行に尽力し、初代協会副会長を務めた。

  親父さんがその後を継いだ。そして、その親父さんを継ぐことになる。間違いなく、大島芳彦には大島芳春の血が流れている。建築業から不動産業への転業ではない。建築家の職能を拡張していく可能性を家業の流れに見出していくのである。



 

 リノベーションの世界

 家業を引き継いだ頃、所有管理する物件に借り手がつかない、買い手がいない事態に直面する。リノベーションを始めるのは自然の流れであった。松村秀一らがコンヴァージョン研究会を始めるのが2001年、1968年生まれの馬場正尊が博報堂、石山修武研究室を経てOpen Aを設立したのが2002年、振り返れば、世紀の変わり目に潮目の転換がある。

 当初からリノベーション事業がうまくいったわけではない。「任せる」と言われて、喜んで設計しても、借り手、買い手がつくとは限らないのである。立地・価格・広さで不動産価値が決められ、市場が形成される時代ではないことに気づかされる。

 売り手(貸し手)の思い、買い手(借り手)の思いが一致しなければ動かない。物件に物語を!「この人(=キャスト)、この場(=シーン)、このタイミング(=シナリオ)でなければできない、〝物語〞をデザインする」という方針が確信された。

 リノベーションは一大潮流になっていく。2011年に北九州からはじまり地方都市再生のためのワークショップとして、各地で開催されるようになった「リノベーションスクール」でも、大島は大きな役割を果たしていく。学生と共に都市の木造密集地帯の住みこなし方を考える「木賃アパート再生ワークショップ」を展開する一方、業界を束ねる一般社団法人リノベーション住宅推進協議会では理事副会長を務める。

 

 東京スタンダード

 娘の家族がモデルルームを見に行くというので、スポンサーを装って付き合った。そもそもマンション一室のリフォームの仕事は設計料だけでは割に合わない筈だ。かねてから理不尽と思っているのであるが、宅地建物取引業というのは売り手から3%、買い手から3%、合わせて6%を手に入れる。多大なエネルギーをかけて設計しても、住宅スケールの仕事であれば3%ももらえない実態は昔からそう変わらない。かつて、設計施工を一貫して担うアーキテクト・ビルダーという職能の可能性を展望したのは代願料(建築確認申請のための計画概要書作成代)20万円という時代である。東洋大学時代、理解を得られずあえなく潰されたけど、土地と建物を合わせて企画計画設計、維持管理するリアル・エステート(不動産)学科の設立を提案したことがある。黙っているつもりであったけれど、施工体制が気になって多少プロっぽい質問したら正体がバレた。個人を対象とする業務[11]は石井健氏の担当というが、総勢30名(現在は37名)のうち設計が25名、不動産関係が5名というバランスはどうかと思ったのである。

 基本的には、標準仕様(東京スタンダード)を用意しオプションを加えるというシステムであり、一定の施工業者との提携関係が構築されている。問題は、物件探しである。大手不動産会社が情報を支配しているなかで割って入るのは必ずしも容易ではない。施工そのものは、20坪程度のマンションであれば、実際そうであったが、職人一人で対応できる。娘たちは何度か打ち合わせを重ねて満足できるプランを得たようだ。ブルースタジオのウエブ・サイトには「やわらかくてあたたかいもの」というタイトルで紹介されている[12](図④abc)。





 郊外団地

 NHKプロフェッショナル仕事の流儀」がピックアップしたのは、首都圏郊外の団地再生(「ホシノタニ団地」(図⑤ab)、大東市のまちづくり計画、鹿屋の廃校となった小学校の再生「ユクサおおすみ海の学校」などである。リノベの仕事は、都市計画、アーバンデザインの領域に拡がる。それぞれの場所をフィールド・サーヴェイする様子が印象的であった。前述のA-Forumの研究会での「つかいこなす時代の暮らしの価値」と題した講演では、「ホシノタニ団地」と椎名町のまちづくり「シーナと一平」を紹介してくれたのであるが、「常識を疑え、敷地に価値なしエリアに価値あり、結果に価値無しプロセスに価値あり、暮らしの価値とはコミュニケーションの価値である、価値ある不動産・家・街とは、主体性を持つ当事者による共感によって繋がれた持続性のあるコミュニケーション、価値が無いと思っている日常の風景に、身のまわりの人々に、あたりまえの食卓に今一度目を向けてみよう・・・」と畳みかけるようなアジテーションに圧倒された。

 偉大なる日常に潜む価値を再発見していくのだから、その仕事の広がりはとどまるところをしらない。しかし、いかにカリスマ大島芳彦といえども、あらゆる地域にかかわるわけにはいかない。根底にある基本的な問題は、「あなたでなければ、ここでなければ、いまでなければ」という当事者意識である。一方で、建築家として、まちづくりの仕掛け人として、リノべーションの魔術師としての戦略、ブルースタジオとしての企業戦略は当然ある。

 どうやらひとつのターゲットは郊外団地の再生らしい。大島芳春の大島土地の分譲地の沿線分布図が頭に浮かぶ。一方でチームとしては、マンション再生やSODACCOのようなリノべーションも引き受けていく。また、地域で子どもを育てる「まちのこども園 代々木公園」(2017年)の設計も手がけている。まちの再生、ひいては東京全体の再生が視野に置いた、その仕事の拡がりは頼もしい限りである。






 

 「衣食」は文化として成立している。しかし、「住」は文化になり得ていない、と大島芳彦はいう。全く同感である。建築は「物件」であり続けている。新築にしても相も変わらず数多くの建築が「物件」として設計され続けている。リノベーションとは、そもそも、使われなくなった建物(屍体)を蘇生(Re-Innovation)する行為である。「物件」はそのままであれば死体でしかない。「物件」を共感の環と当事者を生む「物語」へ、というスローガンは全ての建築家に投げかけられている。



[1] 1970年東京生まれ。1993年、武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。19941997年、Southern California Instituteof Architecture(米国)・The Bartlett University College London(英国)。1997年、石本建築事務所入所。2000年、株式会社ブルースタジオ参画、専務取締役就任。

[2] 198212月に創刊準備号、19834月に創刊号を出して、200010月の50号、1231日の終刊特別号まで、51号を刊行。 編集長:布野修司、編集同人:大野勝彦、石山修武、渡辺豊和、野辺公一、高島直之、松村秀一。

[3] 箱の産業から場の産業へ-日本の住宅生産:過去・現在・未来-,2015424日(金),八束はじめ・布野修司対論シリ-ズ 第5ゲスト 松村秀一,『建築討論』005号,日本建築学会,201507

[4]  アーキニアリング・デザイン フォーラム(ArchiNeering Design Forum 略称 A-Forum)」。アーキニアリング・デザイン(AND)とはArchitectureEngineering Designとの融合・触発・統合の様相を意味する。斉藤公男、和田章、神田順、金田勝徳をコア・メンバーとして2013年設立。布野は2015年より「建築の設計と生産(アーキテクト/ビルダー)AB研究会」メンバーとして参加。

[5] 建築家の終焉!?「箱」の産業から「場」の産業へ 第13回けんちくとーろん(AF=Forumアーキテクト/ビルダー研究会Architect/Builder Study Group共催)建築の設計と生産:その歴史と現在の課題をめぐって05 コーディネーター:安藤正雄、布野修司、斎藤公男 パネリスト:松村秀一、大島芳彦、島原万丈.日本建築学会『建築討論』2017 summer/04-06

[6] 鹿児島県生まれ。1993年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業。1995年株式会社INTEC CG1997年ブルースタジオ創業。1998年株式会社ブルースタジオ法人設立・ブルースタジオ代表取締役社長。

[7] 1993年武蔵野美術大学造形学部建築学科卒業19932001年株式会社TIS & Partners2001年〜現在 株式会社ブルースタジオ 執行役員。不動産商品開発と建築設計を中心業務としつつ、関連するマーケティング調査、ビジネスモデル開発、ITプラットフォームの設計などにも従事。特に日本国内の個人実需向けの中古住宅+リノベーション分野においては市場の黎明期より第1人者として活動。

[8] 1969年東京生まれ。東京藝術大学美術学部建築科を卒業後、Cranbrook Academy of Art (ミシガン・米国) 修了。シンガポールの複数の教育機関で実験的なデザインスタジオを指導した後、1999年より日本での活動を開始。2003年より、都市・建築・デザイン・アートの領域を横断する活動拠点として「LWL -Lab for the Wonder Landscape-」を主催している。近年は、インドネシア・スラバヤ市を対象に、新興都市の変化の過程に着目する調査と表現の活動に、現地市民や様々な専門家とともに取り組んでいる。スラバヤでの都市研究組織「OHS -Orange House Studio-」共同代表。

[9] 大島芳彦「新築でもリノベでも構わない。建物やまちに生まれる状況そのものが僕らの作品だと思っている」田中元子インタビュー 『awesome!No.03, October, 2014.

[10] 日本のジャグ・バンド。フォークシンガー高田渡を中心に、吉祥寺のライブハウスぐぁらんに集まるミュージシャンたちで結成された。高田渡、シバ以外のメンバーは流動的で不定だった。1972年の年末まで活動。その後もぐゎらん堂主催のイベントなど折に触れて再結成することがあった。「走れ!走れ!コータロー」の山本コウタローもいた。

 

[11] ブルースタジオは、個人向けサービスを行うCS(コンシューマーサービス)事業部、法人向けサービスを行うCG(コンサルティンググループ)事業部、SD(スペースデザイン)事業部、および不動産事業部の4部署からなっている(2016年当時)。

[12]  キャンプや音楽がお好きで家族でフェスにも行くTさん家族。長男の小学校入学に間に合うならと家づくりを決意し、バスが便利な三鷹エリアでマンションを購入。和のテイストを取り入れたいという希望だったので、寝室と子ども部屋の壁には漆喰を、玄関は洗い出しの床に日本庭園のように飛び石を配置。子どもたちが裸足でその上を跳べるよう、大きさや向きを慎重に配置した。寝室と子ども部屋は引き戸でつながり、すべて開けると、寝室からリビングを通って廊下へ、そして玄関へと、子どもがぐるぐると走り回れるようになっている。http://www.bluestudio.jp/portfolio/po004767.html

2021年5月28日金曜日

 組織と地域の間―C&Dの方へ 「愛知産業大学工業高等学校伊勢山校舎」  進撃の建築家 開拓者たち 第21回 丹羽哲矢(開拓者26) 

 進撃の建築家 開拓者たち 第21回 丹羽哲矢(開拓者26)  組織と地域の間ーCDの方へ 「愛知産業大学工業高等学校伊勢山校舎」201805(『進撃の建築家たち』所収)



開拓者たち第21回 開拓者26 丹羽哲矢                   建J  201805

 

 組織と地域の間―CDの方へ

「愛知産業大学工業高等学校伊勢山校舎」

布野修司

 

 丹羽哲矢(図⓪)[1]は、渡辺菊真(開拓者01)、森田一弥(開拓者14)、平田晃久(開拓者17)の京都大学建築学科の同級生である。すなわち、僕が19919月に京都大学に着任して最初に出会った学生の一人である。この学年にタレントが少なくないことは繰り返し書いてきたけれど、丹羽の場合、組織事務所(久米設計)を経て独立した。佐藤総合計画を経て独立した「アーツ前橋」の水谷俊博も同級生である。もともと川崎清・竹山聖研究室の出身であり、学部時代の印象は薄い。専ら思い出すのは、「シェアハウス」について研究したいと博士後期課程に入学してきた年の夏、一緒に南インドを調査したことである[2]。マドゥライで修士論文を書いた大辻(山本)絢子、ヴァーラーナシーで修論を書いた柳沢究(現京都大学准教授)が一緒だった。思い出すのは調査のことではない。丹羽君がやたらに星に詳しかったことである。マドゥライからシュリランガムを車で往復したときだったと思う。すっかり暮れた南インドの夜空に無数の星が輝いていて、息を飲んで見ていたら、突然、あれは何座だ、これは何座だという。何でそんなに詳しいの?と問えば、小学校時代からの「天文少年」で、プラネタリウムに通ったのだという。


 その頃、僕は、既に天文学を本気で学びたいと思い始めていた。古代都城の設計理念を説き明かすためには天文学の知識が不可欠であることが意識されていたからである。滋賀県大に移っても、そんなことをしゃべり続けていたのだろう、今や宮大工の道に入った飯田敏史くんは、移動日時計である「バラモンの杖」を実際につくってくれた。高橋俊也くん(高橋俊也構造建築研究所:D環境造形システム研究所)に言わせると、渡辺菊真の「宙地の間」(日時計の家)(本連載第3回)にも多少の刺激にはなっているらしい。未だに天文学の入口にもたどり着けないのだけれど、天文少年を心底うらやましい、と思った。僕らは、かつては全てであった古来変わらぬ星の動きを全く意識せずに生活しているのである。 

 



 シェアハウス

 「天文少年」が、何で建築を選んだのか?と多分聞いたと思う。しかし、丹羽の答えは覚えていない。専ら、僕の関心をしゃべったに違いない。星座の見分け方なんかを逆に聞いたのだけれど、にわかに頭に入るわけはない。建築・都市とコスモロジーをめぐっては、渡辺豊和、毛綱毅曠とのつき合い以来の関心事である。実は、わが弟は航空学科を出て、いまでは宇宙開発の最前線にいる。彼は空を見続けながら、僕は地面を見続けながら人生を生きてきたけれど、同じ兄弟ながら、かくも世界が違うのか、とつくづく思うのである。

 しかし、何故、シェアハウスだったのか?

 久米設計(大阪支社)での泉佐野市営松原団地住宅建替事業の設計(2002年)など今後の住宅のあり方を考えたいというのが、休職して博士後期課程に入学する公式な理由であったが、既に独立する決意はしていたのだと思う。結果的に復職して3年で独立することになるが(2008年)、振り返って履歴には、修士修了時に「clublab.活動開始」と記している。布野研究室に在籍時に、町屋の改修である「法然院の家 奥のある住まい」(20034月)(図①提供)、叔父叔母の老後の住まい「岩槻の住宅 空のある住まい」(2004年3月)(図②提供)を手がけている。実質上、この2作品がデビュー作である。




 シェアハウスというテーマそのものにはもちろん異議はない。都市組織研究の中心テーマである。丹羽君は自ら京都でシェアハウスに居住しながら実態調査を開始した。しかし、新しい動向だし、布野研究室に蓄積はない。新たな研究分野の開拓を期待したが、3年で学位論文をまとめられるほど甘くはなかった。

 これについては、僕の方にも申し訳ない事情がある。相変わらずアジアを飛び回っていた上に、2001年~2003年は日本建築学会の『建築雑誌』の編集長を務めた。そして、丹羽君が博士後期課程を単位認定退学する20053月には京都大学を辞してしまうのである。

 20041226日には、スリランカのゴールにいてインド洋大津波に会い九死に一生を得るなど、丹羽君が研究室に在籍した20022005年は、我が人生においても激動の3年間である。今でも語り尽くせない多くの出来事があった。



 名古屋CDフォーラム

 独立して10年、いくつかの作品が実現し、評価も受けてきた。『CD(シーアンドディー)』No.170Vol.482017夏)を送ってもらって、その活躍を改めて知った。巻頭に小特集「いま、活躍するアトリエ系建築設計事務所 言葉にならない 気持ちを捉える clublab.丹羽哲矢」がある。そして、「千種の住宅Horn House」(200911月)「豊田の住宅QUALIA」(200912月)(2014年第46回中部建築賞入選), 「稲沢の住宅STAGE(S)」(20128月)(201345回中部建築賞入選、すまいる愛知住宅賞 名古屋市住宅供給公社理事長賞受賞)「愛知産業大学工業高等学校伊勢山校舎」(20159月)(2016年第48回中部建築賞入賞、北米照明学会(IES)国際照明賞受賞)「清州の住宅」(201512月)(2016年グッドデザイン賞受賞)(年代順)が掲載されている。

 名古屋CD(コミュニティ・デザイン)フォーラム(『CD』)にはその昔強い縁があった。現代表の瀬口哲夫先生も古くからの知り合いであるが、酒井宣良(NOV建築工房、19452008)編集長の時代には結構行き来があった。大島哲蔵(スクオッター(洋書輸入販売)19482002)さんと3人でシンポジウム「変貌する公共性-人と建築と社会と」[3]に参加したことがある。『CD』には「地域に世界を見るメディア」(C&D,名古屋CDフォ-ラム,1994)という文章を書いたこともある。東京―大阪・京都・神戸の間にあって、地域を拠点とした活動を展開するその象徴が名古屋CDフォーラムである。その半世紀に及ぶ活動は実に頼もしい。

 丹羽君とは、この間、それなりに行き来はしてきたけれど、作品を見せてもらう機会はなかった。「機会があれば見てください」という添書きに誘われて、403[dajiba]Architectureの取材の折に、名古屋まで足を延ばした(2017112627日)。

 

 妄想する建築!?

 とは言え、丹羽哲矢の仕事をどう位置づければいいのか、いささか戸惑いがあった。というのも、小特集に添えられた丹羽君の文章にはピンと来るところがなかったからである。そもそもタイトル「言葉にならない気持ちを捉える」は何を言おうとしているのだろう。「体験を妄想し、それを空間の配列や形や大きさや色や素材で建築に翻訳する作業が設計という行為なのだけれど、どこまで奥深く妄想することができるかが、その建築を唯一無二のものにする気がしている」などと書いている。一般(クライアント)には通じない。「建築の時間を妄想する」(建築を考えるということは、時間を考えるということだと思う)「物語のある場を生み出す」「敷地は多くのことを語る」「様々な場を散りばめる」「豊かさを生む仕掛け」「まちに居場所をつくる」「機能だけでは足りない」などといった言葉(小見出し)が連ねられるのであるが、言葉のみが浮遊している印象を受けた。短い文章に無いものねだりであるが、具体的な方法が語られるべきではないか。ところが文章は、「機能的に説明できなかったり、理論的に説明できなかったりする「何か」に住まいが持つべき本質があって、それが物語を生むのだと僕は信じている」と締めくくられている。

 あとは実作を見てくれ!ということか。いかにも「建築家」然とした態度に思えた。

 送ってもらった写真からだけの印象なのだけれど、敷地を無理矢理使おうとする「千種の住宅」(図③提供)「豊田の住宅」(図④提供)の「デコン」風の作品には、「妄想する」建築家?の匂いが感じられたのである。




 

 スキエラ型

 とにかく見て、議論してみようということで、「稲沢の住宅STAGE(S)」(図⑤abc)と「清州の住宅」(図⑥abc)を案内してもらった。丹羽君の設定である。二軒とも夫婦に子供二人という丹羽君とほぼ同世代の家族の住宅である。前者は、田園地帯のコートヤードハウス、後者は都市郊外型の戸建住宅、ともによくできている。こどもたちがのびのびと走り回る平面構成がうらやましい。稲沢の住宅のお施主さんは外壁の汚れと結露を気にされていたけど、丹羽君の経験不足と言えば経験不足である。「建築の時間を妄想する」というのだから、建築が生きていくその過程にお施主さんとともに寄り添っていく必要がある。充分?その後もケアしているということであったけれど。






 うまくできているというのは、敷地の立地、その形に対する素直な解答になっているということである。丹羽君の修論は『イタリア都市住居に関する研究ーその空間構成を通じてー』(1996年)なのである。『世界住居誌』で、丹羽君は、「Ⅴ ヨーロッパ」のpanorama(概説)で都市型住居の原型としての短冊型敷地に建つスキエラ型に触れ、と「V05トゥルッリ、円い石の家」(アルベロベッロ)「V05スキエラ、ポルティコの並ぶ町」(ボローニャ)の2本の原稿とともに、lecture8「家族と住居」について書いている。「シェアハウス」についての関心も一貫している。

 だから欲を言えば、さらにクライアントを挑発?しながら、日本における新たな都市型住宅のあり方への提案を見たいところである。

 

 隙間

 全く急な訪問であったけれど、丹羽君が名古屋在住の何人かに声をかけて、夕刻、名古屋駅近くに集まった。議論に参加したのは滋賀県立大学出身の中川雄輔(日建設計)、井上悠紀(大建設計)、田中孝宣(鞄職人、Herz)、梅谷敬三(大工)、そして柳沢究くんである。

 上に書いたようなことを問い詰めようとしたわけではない。丹羽君がどういう建築家として活動しようとしてきたかに興味があった。独立以後手掛けてきたのは住宅だけではない。「各務原リハビリテーション病院」(2011年)「イーオン中部本校ビル」(2014年)(図⑦)といった作品がある。多い時には数人のスタッフがいたというが、小さなアトリエ事務所がいきなり得られる仕事ではない。聞けば、勤めていた組織事務所から依頼される場合が多い、という。組織事務所の場合、3000㎡以上の規模がないと採算がとれない。設計の仕事にかかるエネルギーは、必ずしも規模に比例するわけではないのである。極端に言えば、小規模な住宅であれ、大規模なオフィスビルである作業量は変わらない。そこで2000㎡程度の建築についてはフリーランス(アトリエ系)の建築家に声がかかるのだという。



 組織事務所とアトリエ事務所の間に隙間がある。議論は専らその隙間をめぐった。石工を目指しながらいい師匠を探しそこね大工を始めたり、建築設計に見切りをつけて皮革職人に活路を見いだしたり、タワーマンションを建てるだけの組織事務所になじめず転職した諸君が議論に加わった。

 隙間をつなぎたい、特に、若手をより大きな仕事の世界へつなげたいと丹羽君はいう。丹羽君は、建築士会の名古屋名東支部の支部長を務め、学生コンペ委員会の副委員長を務めている。僕が感心したのは、たまたま引き受けた非常勤講師[4]の仕事がそうであったからかもしれないけれど、学生たち、それも建築に興味をもつ社会人たちに建築を教えることに実に意欲的であることである。住宅作品も教え子たちの依頼が少なくないという。大学との縁はひとつの仕事に繋がった。

 

 階段広場

 CD』の特集記事の中で、最も興味を惹かれたのは「愛知産業大学工業高等学校伊勢山校舎」の外観写真である(図⑧a)。実際に見て、ミラーグラスをモザイク状に巧みに使って周辺の建物の表情を多彩に反射させるファサード・テクニックと知ったが、単に四角い箱の表面を装うファサード・デザインではない。あくまでも、内部空間の、巧みなシステムがファサードに投影されているのである。

 それにしても、8階建ての四角いオフィスビルのような一棟の建物が1500人の生徒が学ぶ工業高校であることには驚いた。僕が通った田舎の高校も一学年10クラス、ほぼ同じ規模であったけど、広いグランドが隣接していたし、自然にも囲われていた。面食らったけれど、工学院大学のような超高層の大学もあるのだから、ありうるとすぐさま思った。大階段が効いている。その上下左右にうまく諸室が収まっている。所要室を考えると「敷地内に残された余白はわずかだった、そこで大きな階段広場が1階から8階までを斜めにつなぐ構想にたどり着いた」という。自然を直接取り込む仕掛けがあればと思ったけれど、南側全面をほぼ全面開放し、隣接する建物からの視線を巧みに制御している。

 試験期間中の月曜日であったが、午前中で試験が終わって生徒たちが様々な方向に流れていくのは、なかなかの見ものであった。「学校という集団生活をする場所にとって大きな意味の一つは、生徒同士が刺激しあうことだ。互いを見て他の生徒の活動を知り、集団の中で自分を発見する。・・・そこは単なる移動空間にとどまらず、立ち止まったり座ったりできる居場所でもある。階段の幅や向き、飛び石のような場所による地形的変化が流れの中に止まりやすい場所を生んでいる。」と自ら書くが、成功していると思う。

 








 名古屋を拠点としてこられた「まちづくり伝道師」延藤安弘の訃報が届いた。また、山本理顕さんが名古屋造形大学の学長に就任するからよろしくというメールが来た。かつての天文少年の現在と行く末を考えてきたけれど、おそらく、名古屋を拠点とし続けることは決めているのだと思う。C&Dの伝統を受け止めるなかで、その核になって欲しいと思う。



[1] 1971年名古屋生まれ。1996年3月京都大学大学院工学研究科建築学専攻(川崎・竹山研究室)博士前期課程修了。clublab.活動開始。1996年4月株式会社久米設計大阪支社。2002年3月 株式会社久米設計休職。2002年4月京都大学大学院工学研究科生活空間学専攻(布野研究室博士後期課程)進学。2003年9月大阪府立工業高等専門学校 非常勤講師。2005年3月京都大学大学院工学研究科生活空間学専攻博士後期課程認定退学。2005年4月株式会社久米設計復職。愛知産業大学造形学部建築学科講師。2008年3月株式会社久米設計退職。2008年11月一級建築士事務所clublab.開設、管理建築士。2016年4月愛知工業大学工学部建築学科非常勤講師。名城大学理工学部 建築学科非常勤講師。

[2] 200207220801Kansai Singapore インドChennnai Maduraiマドゥライ調査 Chennai Singapore発展途上地域(湿潤熱帯)の大都市における居住地モデルの開発に関する研究:布野修司・丹羽哲矢・柳沢究・大辻絢子

[3] シンポジウム:変貌する公共性-人と建築と社会と,大島哲蔵・酒井宣良・布野修司,建築デザイン会議名古屋,19921121日。

[4] 2006年~愛知産業大学造形学部建築学科講師 (建築造形I/ 建築造形II/建築設計IIー1/卒業研究担当)他。