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2021年12月3日金曜日

戦後建築のゼロ地点1945年8月15日,原爆ドーム

戦後建築のゼロ地点1945815原爆ドーム 歴史のうずの中で 空白の10年!?建築の1940年代ひろば200107


 戦後建築のゼロ地点1945815日,原爆ドーム 

廃墟とバラック

そして、日本の建築家たちは、1945(昭和20)年8月15日を迎えた。

8月6日の広島への、8月9日の長崎への原爆投下が決定的となった。ポツダム宣言受諾を余儀なくされた天皇の「終戦の詔」(人間宣言)は、戦後生まれの世代もその後毎夏繰り返し聞くことになる。1945年8月15日は、少なくとも昭和天皇の崩御(1989年)まで「戦後」の起点であり続ける。

「戦後建築」の出発点において、建築家たちの眼前にあったのは「廃墟」である。多感な青年期に敗戦を迎えた磯崎新(1931-)は建築の原点としての「廃墟」について繰り返し触れている。また、「焼跡闇市」派を自認するもう少し上の世代も、出発点としての「廃墟」にこだわる。建築評論家、宮内嘉久(1926-)も自らの評論集の一冊を「廃墟から」と冠するように「廃墟」からの出発に拘るひとりである。

戦災を目の当たりにして、どんな建築も「廃墟」と化す、という圧倒的出来事は建築家の心中深く刻まれた。また、建築は「廃墟」から立ち上がる、という新生のイメージも共有された。敗戦がそれぞれの人生において他に比すべくもない強烈な体験であったことは疑い得ないことである。

半世紀の後、阪神淡路大震災(1995年)は、この「廃墟」の光景を思い起こさせることになった。戦後世代も、戦後建築のゼロ地点、原点を追体験することになるのである。

「廃墟」は、たちまち「バラック」の海で埋まり始める。当然である。人々にはシェルターは必要であり、日々の暮らしは一刻も休むことはない。誰もが自力で家を建てた。そこに戦後建築の原点があるといってもいい。

廃車に切妻の屋根をかけたバス住宅、材木が足りないので、叉首(さす)に組んでつくった三角ハウス、工場の鉄管をありあわせの新聞紙や木片、布などによって塞いだ鉄管住宅。様々な天幕住宅。車のついた移動住宅もある。実に多様なバラックの群である。廃品利用など実に創意工夫に富んでいる。

建築は建てられていずれ壊される。スクラップ・アンド・ビルド(建てては壊す)を繰り返してきたのが戦後建築の歴史である。しかし、果たしてそれでよかったのか、という思いが今ある。

今日、フローからストックへ、既存の建造物を長く大事に使うというのが趨勢である。地球環境問題が意識され、資源の有効利用、リサイクルが声高に叫ばれる。戦後まもなくの自力建設(セルフビルド)、あり合わせのブリコラージュは大いに再評価すべきであろう。

建築の死と(再)生をめぐっては根本的に考えてみるべきだ。「永遠の建築」とは一体何か。果たして可能か。「永遠の建築」を建てるためには予め廃墟と化した建築を建てればいいという、ヒトラーの「廃墟価値の理論」を想起してみよう[1]。一体、建築の寿命は何年であればいいのか、という素朴な問いでもいい。「廃墟」と「バラック」には、建築の原点に触れる何かがある。そこからこそ戦後建築は出発したのである。


 

原爆ドーム

戦後建築史の第1頁に掲げられるのは、前川國男(1905-86)の「紀伊国屋書店」であり、谷口吉郎(1904-79年)の「藤村記念館」である。いずれも1947年の作品で、それまでは見るべきものはない。

しかし、戦後建築の出発を象徴する建築作品を振り返って考えて見ると、やはり、原爆ドームをあげるべきではないか。爆心地近くにあった広島県物産陳列館は一瞬のうちに破壊され、そのまま凍結されて、原爆ドームという新たな機能を担い、世界文化遺産として今日までその姿をとどめている。一度破壊され、世界遺産として甦り、永遠に保存される、建築の生と死をそのまま象徴する作品が原爆ドームである。

この数奇なる運命を辿った建築作品の設計者はヤン・レツル(Jan Letzel 1880-1925年)というチェコ人建築家である。レツルは、明治301907)年に来日して、横浜のデ・ラランデ(George DeLalande 1872-1914年)事務所に勤めた後、同じチェコ人のヤン・ホラー(Karel Jan Hora 1881-1973年)とレツル・アンド・ホラー合資会社を設立している。デ・ラランデは、ソウルに朝鮮総督府として建てられ、戦後は韓国国立博物館として使用された後、戦後50年を期して植民地の記憶を清算するために解体されるという、これまた数奇な運命を辿った建築の設計者として知られる。レツルは大正末まで東京に滞在し(1907-1919年、1922-23年)、聖心女子学院本館(1909年)、築地静養軒新館(1909年)、双葉高等女学校(1910年)、松島パークホテル(1913年)、上野静養軒(1917年)など少なくない作品を残している。ただ、現在にまで残るのは、わずかに聖心女学院の正門と原爆ドームだけである。

広島県物産陳列館の設計が依頼されたのは、静養軒主北村重昌の知人であった広島県知事寺田祐之が宮城県知事時代に松島パークホテルを手掛けた縁だという。依頼を受けると(1913年7月)、即設計が行われ、半年後に着工(19141月)、19154月5日に竣工している。

煉瓦造三階建てで、鉄骨で組まれた楕円ドーム(長軸11m短軸8m)は高さ4mあり、中央部は五層分ある。今日の目から見れば、左右対称の構成はとりたてて意を用いているようには見えない。運命の一瞬がなければ、レツルの他の作品同様、その使命を既に終えていたであろう。

竣工後30年経った1945年8月6日午前815分、広島県物産陳列館のほぼ真上で(南東160m高度580m)原爆が爆裂する。館内に居た人は全員即死であった。

戦後しばらくすると原爆ドームの存廃論議が起こる。そして、平和記念公園の構想が具体化する。しかし、原爆ドームの帰趨が最終的に決定するのははるか後のことである。やがて周囲に金網が廻らされ、立入禁止の措置が採られる(1962年)。その後まもなく広島市議会が保存を決定(1964年)、保存募金活動が展開される。第一回保存工事が行われ(1967年)、周辺広場の整備も行われる(1983年)。そして、第二回目の保存工事を経て(1990年)、国が史蹟に指定(1995年)、翌年世界遺産委員会が原爆ドームを世界遺産に登録する、以上が竣工後80年を経て「永遠」の生命を得た広島県物産陳列館の履歴である。


 

戦前・戦後の連続・非連続

戦後建築は、しかし、ゼロから出発したのではない。また、原爆ドームとともに凍結されたままでもない。一個人を考えても、1945815日を期して、がらりと変わってしまうことはありえないことである。「昨日まで八紘一宇を唱えてゐた者が今日急に平和主義者になり切れるものではない。思想上の一八〇度回転は兵隊の廻れ右程たやすい業ではない。」(小坂秀雄[2])のである。

敗戦によって、確かに教育の場は一転する。教科書に黒い墨が塗られ、教師の言うことが一変してしまったことに、いい加減な大人たちの処世を見てしまったのは国民小学校の生徒たちであった。

建築家が敗戦をそれぞれどのように迎えたかは様々である[3]。世代によって、建築界における地位によって受け止め方が違うのは当然であろう。

敗戦による転換を単に外的な条件の変化と見なす態度がおそらく多数であった。「戦時中、わたしはそれに適応した建築のことを色々と考えてゐた。それは戦争が終わってもそのときの構想はある程度まで実現させねばならないであらうとも思ってもゐたが、完全なる敗戦によって日本は平和的文化国家として立ってゆくより外、途がなく、戦争を永久に考へられなくなり、また考へることを許すべきでなくなった今日、戦争があることを予想してわたしが構想した建築様式は殆ど不要に帰した」が故に、「民主主義に立脚した建築様式を構想し、それによって世界文化に寄与するようにしていい」のである(新井格[4])。

もちろん、先に引いた小坂秀雄のように、転換を「並々ならぬ内面的苦悩を経て始めて得られる」と真摯に受け止めていたものも少なくないであろう。しかし、戦前・戦中を通じて、建築界において指導的立場にあり、発言を続けてきた層には概して屈折するところがない。東京帝国大学教授で建築家であった岸田日出刀は、国粋主義や国家主義の台頭で、戦時中は英語が使えず、講義がしにくかったといいながらも、「日本の建築家がその知能のあらん限りをつくして戦争遂行に協力したことは事実であり、またその効果があまりパッとしたものではなかったことも確かであるが、戦時平時を問わず建築は社会と共に生き共に死ぬといふ厳とした事実は、〈太平洋戦争と日本の建築〉という一事象だけからしてからも、はっきりと実証されたわけである」と言い切っている[5]

ヒトラーのお抱え建築家であったA.シュペアが戦後公職を追放され、二度と建築家としての仕事をすることができなかったドイツとは異なり、日本の建築家が永久に追放されるということはなかった。日本とドイツのファシズム体制の差異、建築家の社会的地位の違いが指摘できる。また、建築界においては、戦争責任や転向の問題が表立って問われることはなかった。眼前にはバラックの海が拡がっており、住宅問題への対応は建築家にとって喫緊の要事であった。また、都市復興計画は全力をあげてすぐさま取り組むべき課題であった。


 

ヒロシマ・丹下・村野

広島は戦後日本の出発の象徴である。世界的にもヒロシマ=原爆であり、東西対立が続く戦後の冷戦体制において原水爆禁止、平和運動の象徴でもある。そして、原爆ドームの存在とともに平和記念公園計画が具体化された広島は戦後建築の最初の焦点ともなる。

戦後まもなく、戦災復興院は建築家たちに主だった13都市についてその復興計画立案を委嘱する。戦後日本の都市計画をリードすることになる高山栄華が長岡市、武基雄が長崎市と呉市、そして丹下健三が担当したのが広島市であった。1946年の秋から翌年の夏にかけて作業が行われ、その過程で生まれたのが平和記念公園の構想である。そして1949年に「広島市平和記念公園及び記念館」の設計競技が行われ、このコンペでも一等入選したのは丹下健三であった。

提案された大アーチこそ実現されなかったものの、広島平和記念資料館は19513月に着工、19558月に竣工する。戦後10年を経て、時の『経済白書』は「戦後は終わった」と宣言する。日本が高度経済成長へ向かって離陸する直前であった。この広島のプロジェクトとともに、丹下は戦後建築を主導する地位を占めていくことになる。

丹下健三の軌跡については、既に多くが触れているのであるが[6]、大きなテーマとなるのは、1942年の「大東亜建設記念造営計画」コンペ、1943年の「在盤谷日本文化会館」コンペから「広島市平和記念公園及び記念館」コンペまで、ほんのわずかの時の流れしかないことである。

戦争遂行のための大東亜共栄圏の神域計画を賛美した同じ建築家が一転平和のための祭典広場を計画する。そんなことがありうるのか、無節操な転向ではないか、というわけである。戦前・戦後の連続・非連続の問題は、上で見たように丹下個人のみの問題に帰せられるものではない。日本のファシズム体制、建築界全体の体質に関わる問題がある。しかし、戦前・戦後の体制、イデオロギーを象徴する建造物の設計者に相次いで同じ建築家が一等当選を果たしたことがその体質をよりセンセーショナルに露わにしたのである。

確かに、神明づくりの屋根はない。しかし指摘されるように、100m道路(平和大通り)に直交して(宮島)―平和記念資料館-平和広場-平和アーチ・慰霊碑-原爆ドームを一直線に並べる構成は「大東亜建設記念造営計画」案と変わりはない。丹下健三の戦時中の活動や言動、そのイデオロギー立場は別として(表立って明らかにされているわけではない)、その設計方法については必ずしも断絶はないのである。

「広島平和記念公園計画」に先だって、1948年に被曝焼失したカトリック教会再建のための設計競技が行われる。「世界平和記念聖堂」コンぺである。結果は、1等当選なし、2等丹下健三、3等前川國男、菊竹清訓であった。結局、審査委員長であった村野藤吾が設計に当たり、1954年に竣工する。この不明朗なコンペの顛末については、石丸紀興が詳細に明らかにするところである[7]

時代は下って1970年代初頭、長谷川堯が、丹下健三vs村野藤吾という対立構図によって、戦後建築の流れを総括する。丹下に代表される近代建築家を「神殿志向」として徹底批判し、建築家本来の仕事を「獄舎づくり」として、その代表である村野藤吾を最大級に評価するのである[8]

戦後10年の間に、広島を舞台にやがて評価を大きく異にする二つの建築作品が建てられた。広島が戦後建築の出発において記憶さるべき由縁である。


 

戦後建築運動の展開

戦後まもなく建築家が何を考え、何を目指そうとしたかについてはこれまで繰り返し触れてきた[9]。わかりやすいのは建築運動の展開である。

例えば、戦後まもなく相次いで結成された諸団体を統合するかたちで設立された(1947年)新日本建築家集団(NAU:The New Architect’s Union of Japan)の行動綱領(1948年)に、戦後建築の指針は示されている。NAUは、約800人を集めた建築界の大組織であった。初代委員長が高山栄華、第二代委員長が今和次郎、戦後の建築界を背負って立つ主要メンバーは参加している。スローガンのみからでも、戦後まもなくの意気込みは伝わってくる。

綱領三「建築界全般を覆う封建制と反動性を打破する」は、「一建築生産組織、経営組織の近代化、二建築生産技術の機械工業化、三伝統の正しい批判及び摂取を基礎とする科学的建築理論の確立・・・」などとうたっている。同じ年、丹下健三は「建設をめぐる諸問題」という長大な論文[10]を書いている。丹下は、その論文において、全ての問題が「建設工業機構の封建制」とそれに結びついた「都市の封建的土地支配」にあるといい、極めて冷静な分析を展開している。丹下もまたNAUのメンバーであった。

建築生産組織、経営組織の近代化というスローガンなど今なお問われている問題である。また、工業化の問題については、半世紀の経験を踏まえた総括が現在では必要であろう。産業社会のあり方、建築生産の産業化をめぐっては、近代建築批判の過程で大きな疑問符が投げかけられてきたからである。いずれにせよ、戦後のゼロ地点において、建築を支える全体制が問題にされていたことは留意されるべきであろう。

建築運動の具体的展開については他に譲りたいが[11]、運動自体が大きな成果を上げたとは必ずしもいいがたい。NAUにしても、1951年には活動を停止してしまうのである。その崩壊の直接的な原因になったのはGHQの圧力によるレッド・パージであるとされる。また、朝鮮戦争勃発とその特需によるビル・ブームがその背景にあるとされる。戦後復興が軌道に乗り、建築家たちは具体的な仕事に忙殺されだすのである。

1920年の分離派建築会、1923年の創宇社の結成に始まる日本の近代建築運動は、1930年の新興建築家連盟の結成即崩壊によって一旦終息し、一五年戦争期には翼賛体制といってもいい建築新体制のもとで小会派のほそぼそとした活動に封じ込められてきた。敗戦によって、いくつかの地下水脈が息を吹き返し、NAUによる大同団結が行われるのであるが、その崩壊までそう時間はかからない。NAUは、その後、関西を中心に運動を持続することになるが、建築界の関心は拡散していくことになる。研究者を主体とする建築研究団体連絡会(1954)、スター建築家の後継を目指す五期会(1956年)などがその後の主だった組織である。

 

戦後建築の初心

その帰趨を振り返って批判するのは容易い。批判する若い世代が最低確認すべきは、戦後建築の初心である。廃墟を前にして、ありうべき建築として構想されていたものは何かを明らかにすることである。

例えば、浜口隆一の『ヒューマニズムの建築 日本近代建築の反省と展望』[12]がある。『戦後建築論ノート』でかなりの頁を割いてそれなりの読解を試みた。その後、『ヒューマニズムの建築・再論-地域主義の時代に-』[13]が書かれ、その読解への応答がなされている。1943年に「日本国民建築様式の問題」を書き、『ヒューマニズムの建築』によって戦後建築の指針を示した浜口隆一の軌跡は貴重である。その評論活動の粋は『市民社会のデザイン』[14]にまとめられている。

また、戦後住宅のあり方についての大きな指針となった西山夘三の『これからのすまい』[15]がある。さらに、住宅については浜口ミホの『日本住宅の封建制』[16]、池辺陽の『すまい』[17]がある。西山夘三の軌跡もまた、丹下健三とともに戦後建築の帰趨を見極める上で貴重である[18]

戦後建築のゼロ地点において、既にその可能性も限界も見えるのではないか。例えば、日本の住宅のあり方をめぐって、戦後建築家たちは何を提起し、何をなし得たのか。

若い世代の新たな読解とその深化に期待したい。

 



[1]  拙稿、「廃墟とバラック-建築の死と再生」、布野修司建築論集Ⅰ『廃墟とバラック-建築のアジア』、彰国社、1998

[2]  小坂秀雄、「敗戦から都市再建へ」、『建築文化』創刊号、19464月号

[3]  拙稿、「第二章 呪縛の構図 廃墟の光芒」、『戦後建築の終焉-世紀末建築論ノート』、れんが書房新社、1995

[4]  新井格、「民主主義と建築文化」、『建築文化』二号、19465月号

[5]  岸田日出刀、「建築時感」、『建築文化』四・五号、19468月号

[6]  拙稿、「丹下健三と戦後建築」、布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジーテクノロジー』、彰国社、1998

[7]  石丸紀興、『世界平和記念聖堂 広島に見る村野藤吾の建築』、相模書店、1988

[8]  長谷川堯、『神殿か獄舎か』、相模書房、1972

[9]  拙著、『戦後建築論ノート』、相模書房、1981年。『戦後建築の終焉 世紀末建築論ノート』、れんが書房新社、1995

[10]  丹下健三、「建設をめぐる諸問題」、『建築雑誌』、194811月号

[11]  拙稿、「戦後建築運動の展開 第三章 Ⅱ近代化という記号」、『戦後建築の終焉 世紀末建築論ノート』、れんが書房新社、1995

[12] 浜口隆一、『ヒューマニズムの建築 日本近代建築の反省と展望』、雄鶏社、1947年

[13]  浜口隆一、『ヒューマニズムの建築・再論-地域主義の時代に-』、建築家会館叢書、1994

[14]  浜口隆一、『市民社会のデザイン』、而立書房、1998

[15] 西山夘三、『これからのすまい』、相模書房、1948

[16] 浜口ミホ、『日本住宅の封建制』、相模書房、1950

[17] 池辺陽、『すまい』、岩波書店、1954

[18]  拙稿、「西山夘三論序説」、布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジーテクノロジー』、彰国社、1998 

2021年12月2日木曜日

大東亜建築様式  1942年 丹下健三「大東亜建設忠霊神域計画」 歴史のうずの中で 空白の10年!? 建築の1940年代

 大東亜建築様式   1942年 丹下健三「大東亜建設忠霊神域計画」 歴史のうずの中で 空白の10年!? 建築の1940年代,ひろば,200104


 大東亜建築様式   1942年 丹下健三「大東亜建設忠霊神域計画」

                                    布野修司

 

   太平洋戦争に突入した日本は、この年戦線を南方へと一気に拡大する。前年128日の真珠湾攻撃と英領マラヤ、コタ・バル奇襲作戦によって英米戦艦群に大打撃を与え、太平洋の制海権、制空権を掌握すると、1月2日マニラ、2月15日シンガポール、3月8日ラングーン、9日ジャワと破竹の勢いで占領する。6月のミッドウエイ海戦、8月のガダルカナル海戦以降、後退戦を強いられていくのだが戦況は伏せられた。占領地は次々に地図上で赤く塗られ、日本の領土がアジアに拡大していくイメージが共有された。11月、大東亜建設の遂行を目的とする大東亜省が発足する。大東亜共栄圏建設の理想が戦争遂行を支え、「欲しがりません勝つまでは」と国民意識が大いに昂揚したのが1942年である。

 この年建てられた伊東忠太の俳聖殿については既に触れた1。見るべき作品はそうない。坂倉準三の飯箸邸、今井兼次の航空碑、吉田五一八の青木邸などが数えられるのみだ。東京市内の大工がバラックの建設訓練を行い、各住戸の窓ガラスの補強検査や灯火管制時の住宅換気方法が問題になる時代である。いささか意外な気がするが、関門海底トンネルがこの年開通している。この年を代表する作品となると、やはり丹下健三の「大東亜建設記念営造計画」案だろう。

 

 南方建築ブーム

 『新建築』は、2月号から「南方の建築」という連載を始める。また、「南方建設へ」というコラムを開始している。「泰国の寺院と塔 バンコック・アユチアの古寺」「浮屋と高床家屋のデテール・チェンマイの家」「アンコールの建築装飾・チャムの建築」「ジャワのボロブドウル仏蹟」「バリー島」といった記事だ。南方への戦線拡大が、南方建築への関心を沸き立たせたのがよくわかる。『建築世界』も7月号を南方建築特集号とし、9月号からは南方圏グラフを連載している。『建築と社会』には大東亜建設をめぐる記事は比較的少ないが、それでも「「南方事情を語る」座談会」(3月号)などが組まれている。

日本建築学会の『建築雑誌』は、大東亜建築グラフ(フィリピン篇8月号、マレー、スマトラ、ジャワ、バリ篇9月号)を掲げ、記事も南方建築、大東亜建設一辺倒の感がある。とりわけ9月号は「大東亜共栄圏に於ける建築様式」という座談会、大東亜共栄圏に於ける建築的建設に対する会員の要望(投稿及回答)を含め、「大東亜建築様式育成の一案」(年岡憲太郎)「大東亜建設の根本理念」(笹森巽)「大東亜建築の指導理念」(山田守)「南方共栄圏建設の構想」(大倉三郎)といった記事がずらっと並んでいる。この『建築雑誌』の「大東亜建築特集」は繰り返し読まれるべきだ。建築と政治、建築と国家、建築と民族・・・建築表現の根源に関るテーマが多くの建築家によって考えられ、語られている。最後に見よう。

 

「大東亜建設記念営造計画」コンペ

  全国民の眼が南方に注がれ、南方建築への関心がる中で、日本建築学会は大東亜建設委員会(佐野利器委員長)を設置する(3月)。そして、第16回建築学会展覧会を日本橋高島屋(11月4日~8日)を皮切りに、広島、福岡、大阪、名古屋の百貨店を巡回する形で行う。大東亜共栄圏の具体的な建設は建築家の任務である。展覧会は「恰も大東亜戦争の赫々たる戦果に伴って我国威が南方へ弥が上にも大発展を遂げた。この現実の問題に対し、建築技術を通じて大東亜共栄圏建設と云ふ曠古未曾有の鴻業に翼賛せんとするの意図を以て計画」されたのであった。

展覧会第1部のテーマは「南方建築」で、南方建設に携わるものが知悉すべき事柄として「一般統計」「気象統計」「宗教建築」「民家」「現代建築」という分類に従って展示がなされた。第2部は会員作品、そして、第3部が設計競技「大東亜建設記念営造計画」応募案の展示であった。

展覧会の背景、その意図は明らかであろう。設計競技を情報局が後援したのも翼賛体制確立のための情報宣伝活動の一環と見なしたからである。南方建設は具体的な課題としてあり、南方事情を探求する必要があった。そして、もうひとつ大きなテーマとされたのが大東亜の建築様式をどう考えるかであった。

設計競技は、「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スル」のであれば「計画ノ規模、内容等ハ一切応募者の自由」であった。応募者の中には30枚を超える図面を提出したものもいる。審査委員長は佐藤武夫。審査委員は、今井兼次、川面隆三、岸田日出刀、蔵田周忠、谷口吉郎、土浦亀城、星野正一、堀口捨己、前川國男、村野藤吾、山田守、山脇巌、吉田哲郎。川面は情報局からの委員で、病欠の堀口とともに二日(10月6日、15日)とも審査に参加していない。最終審査には村野も参加していない。最初の審査で入選佳作圏内19、B級20、C級24が選別された。応募総数は63である。

丹下の一等当選案は、富士山を左肩に仰ぎ見る霞たなびく山麓に神域を描いた透視図でよく知られている。「大東亜道路を主軸としたる記念営造計画:主として大東亜建設忠霊神域計画」というのが正式な名称だ。

 二等は、田中誠、道明栄次、佐世治正の「大東亜共栄圏建設大上海都心改造計画案」、三等は中善寺登喜次の「大東亜聖地の計画 富士山麓」、佳作に荒井龍三「民族の碑」、吉川清「忠霊の庭」、伊藤喜三郎、泉山武郎、金忠國「大東亜首都開門計画」、本城和彦、中田亮吉、薬師寺厚、小坂秀雄、佐藤亮「大東亜聖域計画」、百瀬保利「大東亜戦争記念祭典場」が入った。審査員の参考作品として、岸田日出刀の「靖国神社神域拡張並整備計画」、前川國男の「七洋の首都」、蔵田周忠の「或る町の忠霊塔」が展覧会に出品された。

 このコンペを含め戦前期の設計競技については井上章一の『戦時下日本の建築家』2が詳しい。井上の主張は、このコンペのこれまでの評価の否定(大衆性の欠如、時勢からの遊離)、丹下健三批判の不当性をめぐって執拗である。また、コンペの当落、建築におけるモダニズムとナショナリズムの抗争を学閥や学会内のミニポリティックス、正統と異端の葛藤を絡めて面白可笑しく書いて読ませる。この井上の論考については、「国家とポストモダン建築」3で触れた。ひとつだけ付け加えるとすると、坂倉準三、丹下健三というラインが何故モダニスト陣営から距離を置かれたかはもう少し掘り下げる必要がある。坂倉準三が事務所を拠点に国粋主義的文化人を組織し、西澤文隆らをマニラに送るなど具体的な文化工作運動を展開したことはこれまで必ずしも明らかにされていないのである。

 しかし、ここでの問題は丹下の応募案である。これをポストモダンの先駆けと見るか、モダニズムの挫折転向と見るかが争点である。後者が従来の見方であり、建築のポストモダンの時代に到ってその転倒を試みたのが井上である。

 入選佳作案をじっくり見よう。丹下健三案は確かに目立つ。ひとり切妻の大屋根を用い、しかも九本の鰹木風の突起がある。興味深いのは、ピラミッド状(四角錐台)のモニュメント案が二つある中で、丹下が「上昇する形、人を威圧する塊量、それらは我々とかかわりない」と書いて予め高塔形のモニュメント案を予想し、牽制していることである。「西欧の所謂「記念性」をもたなかったことこそ神国日本の大いなる光栄であり」「ピラミッドをいや高く築き上げることなく、我々は大地をくぎり、聖なる埴輪をもって境さだめられた墳墓をもって。一すじの聖なる縄で囲むことに、すでに自然そのものが神聖なるかたちとして受取られた」と丹下は主旨に記している。

 

  金的の狙い打ち・・・見事に外された核心

審査委員長を務めた佐藤武夫によれば、第16回建築学会展覧会のスローガンは「日本国民建築様式の創造的探究」であった4。前川國男を始め、日本の建築家が真摯に問おうとしたのがこの主題である。浜口隆一の論考「国民建築様式の問題」5が戦前期の水準を示している。大きな焦点は明らかに前川國男である。彼はこの「大東亜建設記念営造計画」コンペに自ら「七洋の首都」と題する超高層ビルの林立する首都計画を示している。しかし、その前川が、翌年行われた(1031日締切)在盤谷日本文化会館コンペ(1944年発表)には丹下様の切妻和風建築で応募(2等入選)したのである。

この転換、あるいは転向についてはあまりにもよく知られているから省略しよう。審査委員長を務めた伊東忠太の、平安神宮以降の150を超える作品を見ると実に様々である。築地本願寺や俳聖殿はむしろ例外といえるかもしれない。伊東にとって建築様式は自らの外にあった。帝冠様式は断固退けたが、それぞれの様式は採用しえた。しかし、内なる様式の一貫性に拘ったのが前川國男を代表とする近代建築家たちである。木造建築であれば勾配屋根となるのは自然だ。屋根の在る無しは枝葉の問題だと前川は当時書いている6。しかし、在盤谷日本文化会館コンペには国際主義的な手法をもって応募したものもいたのだから、前川の転換が転向と写っても致しかたない。事実そう見られてきた。

「大東亜建設記念営造計画」コンペとの違いについて指摘しておくべきは三点である。これは実施コンペであったこと、「我ガ国独自ノ伝統的建築様式ヲ基調」とし、チークを主要軸部構築材とする木造建築であったこと、そして、審査委員会が文化勲章受賞者伊東忠太を委員長とし、横山大観ら芸術院会員ら建築関係者以外を含む構成であったことである。

前川は「第16回建築学会展覧会競技設計審査評」7で、「創造一般が伝統よりの創造であるという命題」を掲げた上で二つの誤謬を予め問題にしている。すなわち、擬古主義の誤謬と「日本建築の伝統精神と謂われる材料構造の忠実な表現に出発する構造主義的所謂「新建築」」の誤謬である。そして、丹下案をこの二つの「錯誤を比較的自然に避け得られる「幸福な場合」であった」という。具体的にはこうだ。「歴史に確認されたる形」である「木造神社建築の母型」を「拠り所」とするが、「聳え立つ千木」も「太敷立つ柱」もなく「勝男木」は天窓に変貌しており、単なる擬古主義ではない。「神社は木造に限るべきもの」という意見もあるが、「祭の形式」が国民的規模で行われる将来には棟高60mの神社も可能である。前川の不満は、丹下が神社建築そのものを対象としたことで「今日日本建築の造形的創造一般のはらむ普遍的な問題の核心も亦相當見事に外らされてゐる」ことにあった。また、敷地計画、都市計画の全体の問題点については妥当な指摘をしている。丹下は前年前川事務所の作品として岸体育館を完成させたばかりであった。前川には心底はぐらかされた思いがあったのだろう。

「よく申せば作者は賢明であった、悪く申せば作者は老獪であった。いづれにせ此の作は金的の狙い打ちであった・・・」というのが有名な科白だ。

 

世界史的国民建築

   前川國男には「世界史的日本の建築的創造はまさに伝統の具体的把握によって、世界史的国民個性に鍛え上げられた建築家の実践によってのみ行はれる」という思いがあった。そして「此の事の中には日本伝統建築の創造的な復興の面と外来異質文明の摂取同化との二つの面のある事を否むわけには行くまいと思ふ」のである。前川についてここで詳細に触れる余裕はないが、そのキーワードは「ホンモノ建築」である8。「日本精神の伝統は結局は『ホンモノ』を愛する心」であり、重要なのは「一にも二にも原理の問題」9であった。

日本の近代建築史において繰り返し現れる「日本的なるもの」をめぐっては繰り返さないが、依然として今日の問題でもある。「我ガ国独自ノ伝統的建築様式ヲ基調」とする規定は風致地区指定や国立国定公園の建築規定、景観条例の中に潜んでいる。

 帝冠様式に代表される擬古主義を否定しながら、近代建築の理念につながる手法を日本建築の伝統的手法に見出す、あるいは日本建築の空間手法、建築的比例を近代建築の技術によって実現する、簡単に言えば、議論はこんなところに落ち着いてきた。しかし、問題は日本である。前川の言う「世界史的国民建築」とは何か。「外来異質文明の摂取同化」に関るのが「大東亜建築様式」をめぐる議論である。

 『建築雑誌』の「大東亜建築特集」の中には実に多様な回答がある10。建築は「其地方の住民即ち土民に対して」「其地方が自国の勢力下にあることを具体的に表示する象徴」であるという伊藤述史(「大東亜共栄圏の建築形式」)は、神社風、寺院風、欧州風の三つが並存するなかで「大東亜式建築を考究し特別形式を案出したい」という。山田守は「創造的進化」という。堀口捨己は「大東亜共栄圏では日本様式でありたいと誰もが思っている」が、「日本様式とはどう云うことかということになりますと」「大きな多くの問題がある」という。佐藤武夫は「欧米の直接の継承」でもなく「一時流行しました国際的な共通のものを目指しても居ない」といって「日本の過去の造形文化の遺産をそのまま復古しようと言ふものでもない」、「大東亜共栄圏内に独自な一つの新しい造形文化を創造していこう」という。「神様の表現」「神様の建築」をしようと紙がかった発言をするのが谷口吉郎である。

 そして、丹下健三の解答はこうだ。

 「神の如く神厳にして簡頚、巨人の如く雄渾にして荘重なる新日本建築様式が創造されねばならぬ。英米文化は勿論、南方民族の既成の文化を無視するがよい。アンコール・ワットに感歎することは好事家の仕事である。我々は日本民族の伝統と将来に確固たる自信をもつことから出発する。さうして新しい日本建築様式の確立は、大東亜建設の必然と至上命令に己を空しうした建築家の自由なる創造の賜として與えられる。」

 そして、その表現が「大東亜建設忠霊神域計画」であった。

 

1  拙稿、「強迫観念としての屋根」、hiroba2001年1月号

2 井上章一、『戦時下日本の建築家 アート・キッチュ・ジャパネスク』朝日選書、1995

3 拙著、『布野修司建築論集Ⅲ:国家・様式・テクノロジー』、彰国社、1998

4 佐藤武夫、「競技設計の審査所感」、『建築雑誌』,194212月号

5 浜口隆一、『新建築』,1944

6   前川國男、「1937年巴里萬国博日本館計画所感」、『国際建築』、1936年9月号(『前川國男文集』、而立書房、1996年所収)

7 『建築雑誌』、1942年12月号

8 拙文、「Mr.建築家 前川國男」、『布野修司建築論集Ⅲ:国家・様式・テクノロジー』所収、彰国社、1998

9 前川國男、「今日の日本建築」、『建築知識』、193611月号

10 拙稿、「近代日本の建築とアジア」、『布野修司建築論集Ⅰ 廃墟とバラック』、彰国社、1998






2021年12月1日水曜日

強迫観念としての屋根 歴史のうずの中で❶ 日本の近代建築 空白の10年!?・・・建築の1940年代

歴史のうずの中で  日本の近代建築 空白の10年!?・・・建築の1940年代,ひろば,200101

 

強迫観念としての屋根

布野修司

 

 はじめに

 21世紀である。

 新たな世紀を展望するために、この1年かけて、歴史を振り返ってみよう。

 京都グランドヴィジョン・コンペ(1998年)に「京の遺伝子」という面白い提案があった。京都に遷都が決まった794年から順に1年に起こったことを想い起こす。1ヶ月に1年を想い起こすとすると、1年で12年振り返ることができる。21世紀にかけて、100年で1200年分の遺伝子を確認しようというプログラムである。

 それに倣ってみよう。とりあえず、この1年で10年を振り返るのはどうか。焦点を当てるのは1940年代だ。

 日本の近代建築は、一般には、日本の近代建築運動の先駆けとされる日本分離派建築会の結成(1920年)から「白い家」と呼ばれたフラットルーフ(陸屋根)の住宅作品が現れ出す1930年代後半にかけて成立したとされる。

 しかし、それに続く1940年代には、未だ語られないことが多い。焦点を当てる大きな理由だ。60年というのは還暦である。1930年代は、『悲喜劇 一九三〇年代の建築と文化』*[1]で振り返ったことがある。その確認によれば、1940年代には今日につながる重要な問題が隠されているという予感がある*[2]

 

 書かれた歴史

 1940年代は、日本の近代建築の歴史の「空白の10年」と言われる。その前半は太平洋戦争のために、その後半は敗戦による混乱のために、ほとんど建設活動が行われなかったからである。日本の建設活動(建設投資)は1938(昭和13)年にピークを迎え、以降下降し、戦前期の水準を回復するのは戦後の1953年頃である。

 しかし、全く建設活動が停止したわけではない。建築雑誌を振り返ってみると細々とではあれ作品は発表し続けられている。空白というのは嘘である。

 「空白の10年」には別の理由がある。「空白」とする、ある意思が働いてきた。戦後を全く新たな出発と見なす「戦後民主主義」のイデオロギーにとって、戦前期は暗い、否定すべき過去なのである。

 日本の近代建築の歴史を初めて体系的に書いた稲垣栄三の『日本の近代建築』*[3]の最終章は「一五 合理主義の方向転換」と題されている。

 「戦争が逼迫するにつれて、建築家自身のなかに近代建築の造形に対する深刻な疑問が萌しはじめた。・・・近代建築をささえるものがそれを標榜する建築家だけとなり、建築家が完全に孤立したとき、これまで近代建築のたどってきた道は一挙に崩壊したのである。」*[4]

 日本の近代建築は、稲垣によれば、戦争によって奇形化し、その道は崩壊した、のである。そして、引き合いに出されるのが「大東亜建設記念営造計画」(19429月)と「在盤谷日本文化会館」(19439月)という二つの設計競技である。いずれも「戦後建築」をリードすることになる丹下健三が一等当選を果たした。

 「もはやかつて前川らの推進しようとした近代主義----国際建築という名のコスモポリタンな造形は認めることができない。多かれ少なかれ、日本や東洋の建築の歴史的な様式が復活し、全体もしくは部分をおおうようになっていた。ここに現れた作品の群は、近代建築の信条をむりやりねじまげた苦渋の姿である。」*[5]

 日本の近代建築の成立の過程は、こうして、しばしば前川國男の軌跡に即して語られる。

 一九三〇年にコルビュジエのもとから帰国して以降、全てのコンペ(競技設計)に応募する。そして、落選し続ける。「日本趣味」「東洋趣味」を旨とすることを規定する応募要項を無視して、近代建築の理念を掲げて、わかりやすくは、近代建築の象徴的なスタイルとしてのフラットルーフ(陸屋根)の国際様式で応募し続けた。この過程が、日本の近代建築史上最も華麗な闘いの歴史とされる。

 しかし、その栄光の歴史は1940年代に入って挫折する。もっともらしく語られてきた物語はこうだ。敢然と近代主義のデザインを掲げてコンペに挑んだ前川國男は、ついには節を曲げ、自らの設計案に勾配屋根を掲げるに至った。パリ万国博覧会日本館(1937年)の前川案には確かに勾配屋根が載っている。また、在盤谷日本文化会館のコンペ案は、あれほど拒否し続けた日本的表現そのものではないか。コンペに破れ、志も曲げた。前川國男は二重の敗北を喫したのだ。


 排泄物=キッチュとしての帝冠様式

 こうして、日本の近代建築は定着した途端に挫折したことになる。確かに奇妙な歴史のエアポケットだ。1940年代は、あるべき歴史の不在であり、挫折であり、奇形化であり、方向転換である。

 1960年代末から70年代にかけて極めて明快に近代建築批判を展開したのが長谷川堯である。彼は、「昭和建築」=近代合理主義の建築と規定し、それに先行する「大正建築」を再評価する構えを採った*[6]。しかし、困ったのが昭和戦前期の建築である。「建築の「昭和」の中央を汚す傷のようにかなりの数の歴史様式の建築と、さらにはあのファシズムの横行に付随したいわゆる帝冠式といわれる建築が分断している」が故に「「昭和建築」を戦後建築に顕著な合理性に基づく近代的な建築の流れとして総合的に把握し、ひとつのカテゴリーとすることに無理があるように思われる」からである。

 そこで長谷川がひねりだしたのが「排泄物」理論だ。「昭和のはじめに国際的に起こった近代合理主義運動のなかで、特にそれが後発工業資本主義国において展開するとき、ある歴史的必然から生ずるいわば正常な排泄物に近いものが歴史様式特に帝冠様式ではないか。」

 こうして1940年代の大きなテーマは、「歴史様式」あるいは「帝冠様式」の評価である。フラット・ルーフvs帝冠様式(あるいは勾配屋根)という対立構図は確かにわかりやすい。

 「帝冠様式」はもともと「帝冠併合式」という。下田菊太郎が帝国議事堂の競技設計(1918年)において具体的に提示し、自ら命名した建築様式が「帝冠併合式」である。簡単には、躯体は西欧式、屋根は日本の伝統建築、社寺仏閣の様式を併用する様式だ。より一般的に、架構形式とは別に屋根の形だけを考える様式、もう少しストレートに、鉄筋コンクリート造のラーメン構造の躯体に切妻や寄せ棟など勾配屋根を王冠のように載せる様式を「帝冠様式」という。

 この「帝冠併合様式」についての近代建築家、当時の新興建築家の評価は低い、というか無視に等しきものであった。既に、大正期はじめから虚偽構造(シャム・コンストラクション)の是非をめぐる議論があり、構造と意匠を別に考える立場は批判されている。構造は素直に表現する、という近代建築の理念にとって「帝冠併合式」は受け入れがたいものであった。にもかかわらず、前川圀男ですら「勾配屋根」を採用するに至った。だから敗北であり、挫折である、というわけだ。長谷川堯も、「排泄物」にすぎないと言い切った。

 ところがこの「帝冠様式」を日本の近代建築史の流れのなかに「正当に」位置づけようとしたのが井上章一の『アート・キッチュ・ジャパネスク---大東亜のポストモダン』である*[7]。「帝冠様式」の建築は、競技設計のみ追っかけてみても、明治神宮宝物殿(1915)、日清生命保険会社(1916)などをはしりとして、神奈川県庁舎(1928年)、名古屋市庁舎、日本生命館、軍人会館(1930年)、東京帝室博物館(1931年)、日本万博建国記念会館(1937年)・・・と続く。井上は、「帝冠様式」の問題を軸に、忠霊塔(1939年)と大東亜記念営造計画(1942年)、さらに「在盤谷日本文化会館」(1943年)というコンペをめぐる建築家の言説と提案を徹底的に問題としている。建築の1940年代の問題を正面から取り上げた書物は、そう他にはない*[8]

  井上章一が全体として主張しようとするのは、前川國男に代表される日本の近代建築家の全体が究極的には転向、挫折していること、従って、戦中期の二つのコンペによってデビューすることになった丹下健三のみが非難されることは不当であること、さらに、帝冠様式は強制力をもっていたわけではなく、少なくともファシズムの大衆宣伝のトゥールとして使われたわけではないことなどである。要するに「帝冠様式」はキッチュであって、ことさらファシズム体制と結び付ける必要はない、というのである。「大東亜のポストモダン」というサブタイトルが暗示するように、この一書はポストモダンの建築が喧伝されるなかで書かれた。戦時体制下における帝冠様式をポストモダン建築の源流とさえいう。

 帝冠様式は日本ファシズムの建築様式である、という暗黙のテーゼを転倒する意識のみが透けて見え、戦時下における建築表現への強制力(「屋根の強制力」といってもいい)についての過小評価が気になってコメントしたことがある*[9]。いたくお気に召さなかったらしい。そのコメントについての批判は、復刻された『戦時下日本の建築家』のあとがきに長々と書かれている。

  ドイツ、イタリアに比べれば、日本のファシズム体制が建築の表現に関する限り脆弱であったことはこれまで指摘されてきている。しかし、日本的表現の問題、日本建築様式の問題が建築家の意識の問題としてファシズム体制に対する態度決定を迫る大きな問題であったことは無視されてはならないだろう。戦時下、浜口隆一が「日本国民建築様式の問題」*[10]を書いて、日本の近代建築の孕んだ問題を指摘していたことはよく知られている。「日本的建築様式の問題」、「戦争記念建築の問題」によって、日本における近代建築の潮流が危殆に瀕し、多くの建築家が近代建築思想を放棄し、脱落したという見方は一般にも共有されているのである。記念建造物や市庁舎建築のデザインを単にキッチュといってすまされるのか。また、ファシズム体制を建築様式の問題としてのみ問うのにも不満が残る。特に、ポストモダンの源流が戦時体制下の帝冠様式にあるということになると、日本の建築モダニズムは移植される以前に超えられていたことになる。といったところがコメントの真意だ。

 

 俳聖殿 

 こうして予め大きな問題を確認できる。「帝冠様式」の問題は現代でも決して無視し得ない問題だ。発展途上国には「帝冠様式」もどきの建築を数多く見ることができる。否、ポストモダン建築を賞揚した先進諸国にも「帝冠様式」もどきの建築は跋扈している。

 そして、屋根の問題は完全に今日的テーマだ。景観問題が大きくクローズアップされるなかで、屋根の形態を規制する動きが方々で見られる。公共建築の競技設計に勾配屋根を条件とする例もある。屋根のシンボリズムはわかりやすいが故に力をもつ。地域の、町のアイデンティティの表現として、伝統的建築の形を模すやり口は至る所にある。

 建築の問題は決して屋根の問題、様式(スタイル)につきるわけではない。前川國男も「私の・・・主張せんとする所は決して所謂「屋根の有無」と云った枝葉な問題ではない」*[11]とはっきり書いているのである。

 日本の近代建築史は、あまりにも様式史に偏している。日本の近代建築の大きな問題は、木造建築をフラットルーフにしたように(「白い家」)、近代建築の理念をまずスタイルとしてのみ導入したところにある。様式選択史観は捨てた方がいい。幸か不幸か、建築のポストモダニズムが全てを白紙還元してくれた。

 1940年代の建築として、これまで全く注目されてこなかったひとつの作品をあげよう。伊東忠太が設計指導した俳聖殿である。松尾芭蕉の生誕300年を記念して、川崎克が私財を投じて、出身地の三重県上野市に建設した八角二層の木造建築だ(194292日竣工)。余談であるが、川崎は西洋建築の席巻を憂え、伊賀上野城を再建した人物である。

 異形の屋根は編笠をイメージした、という。キッチュと言えばキッチュだ。しかし、帝冠様式とは言わないだろう。俳聖殿は、日本の近代建築史の流れのなかにどう位置づけられるのか。少なくとも、フラットルーフvs帝冠様式といった構図とは異なった系譜が必要とされるのではないか。

 伊東忠太(1867-1954)の数多くの作品には様々な様式があり、いくつかの系列が認められる。様式が外にあるか、内にあるか、という区別をすれば、すなわち様式を選択すべきものと考えるか一貫すべきものと考えるかを区別するとすれば、伊東にとって様式は外にあったと言えるかもしれない。しかし、この俳聖殿や築地本願寺のような作品は単純にそうとは言い切れないのではないか。インド・サラセン建築の影響を受けたJ.コンドルのいくつかの作品にしてもそうだが、西欧の建築文化とは別の脈絡をアジアに求めたのが伊東忠太である。彼の進化主義なるものは再度検討されていい。伊東忠太を軸に日本の近代建築史を読み直すとするとどうなるのか。

 伊東忠太が建築界で初めて文化勲章を受けたのは、俳聖殿が竣工した翌年(1943年)のことだ。 


 俳聖殿 伊東忠太 194292日竣工 三重県上野市

 

*1 同時代建築研究会編、現代企画室、1981

*2 同時代建築研究会 「国家と様式 一九四〇年代の建築と文化」、『建築文化』、19849月号

*3 SD選書、鹿島出版会、1979年。初版、丸善、1959年。

*4 同上、稲垣栄三、『日本の近代建築』p368-369

*5 同上、稲垣栄三、『日本の近代建築』p369-371

*6 長谷川堯、「大正建築の史的素描」、『建築雑誌』、1970年1月号、『神殿か獄舎か』所収。

*7  青土社、1987年、『戦時下日本の建築家』、朝日選書、1995

*8 西山卯三の『戦争と建築』頸草書房、1983年があるぐらいである。

*9 拙稿、「国家とポストモダニズム建築」、『建築文化』、19844月号、布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー』、彰国社、1998年所収

*10 『新建築』、1944年。

*11 前川國男、「1937年巴里萬國博日本館計画所感」、『国際建築』、19369月号