歴史のうずの中で 日本の近代建築 空白の10年!?・・・建築の1940年代,
強迫観念としての屋根
布野修司
はじめに
21世紀である。
新たな世紀を展望するために、この1年かけて、歴史を振り返ってみよう。
京都グランドヴィジョン・コンペ(1998年)に「京の遺伝子」という面白い提案があった。京都に遷都が決まった794年から順に1年に起こったことを想い起こす。1ヶ月に1年を想い起こすとすると、1年で12年振り返ることができる。21世紀にかけて、100年で1200年分の遺伝子を確認しようというプログラムである。
それに倣ってみよう。とりあえず、この1年で10年を振り返るのはどうか。焦点を当てるのは1940年代だ。
日本の近代建築は、一般には、日本の近代建築運動の先駆けとされる日本分離派建築会の結成(1920年)から「白い家」と呼ばれたフラットルーフ(陸屋根)の住宅作品が現れ出す1930年代後半にかけて成立したとされる。
しかし、それに続く1940年代には、未だ語られないことが多い。焦点を当てる大きな理由だ。60年というのは還暦である。1930年代は、『悲喜劇 一九三〇年代の建築と文化』*[1]で振り返ったことがある。その確認によれば、1940年代には今日につながる重要な問題が隠されているという予感がある*[2]。
書かれた歴史
1940年代は、日本の近代建築の歴史の「空白の10年」と言われる。その前半は太平洋戦争のために、その後半は敗戦による混乱のために、ほとんど建設活動が行われなかったからである。日本の建設活動(建設投資)は1938(昭和13)年にピークを迎え、以降下降し、戦前期の水準を回復するのは戦後の1953年頃である。
しかし、全く建設活動が停止したわけではない。建築雑誌を振り返ってみると細々とではあれ作品は発表し続けられている。空白というのは嘘である。
「空白の10年」には別の理由がある。「空白」とする、ある意思が働いてきた。戦後を全く新たな出発と見なす「戦後民主主義」のイデオロギーにとって、戦前期は暗い、否定すべき過去なのである。
日本の近代建築の歴史を初めて体系的に書いた稲垣栄三の『日本の近代建築』*[3]の最終章は「一五 合理主義の方向転換」と題されている。
「戦争が逼迫するにつれて、建築家自身のなかに近代建築の造形に対する深刻な疑問が萌しはじめた。・・・近代建築をささえるものがそれを標榜する建築家だけとなり、建築家が完全に孤立したとき、これまで近代建築のたどってきた道は一挙に崩壊したのである。」*[4]
日本の近代建築は、稲垣によれば、戦争によって奇形化し、その道は崩壊した、のである。そして、引き合いに出されるのが「大東亜建設記念営造計画」(1942年9月)と「在盤谷日本文化会館」(1943年9月)という二つの設計競技である。いずれも「戦後建築」をリードすることになる丹下健三が一等当選を果たした。
「もはやかつて前川らの推進しようとした近代主義----国際建築という名のコスモポリタンな造形は認めることができない。多かれ少なかれ、日本や東洋の建築の歴史的な様式が復活し、全体もしくは部分をおおうようになっていた。ここに現れた作品の群は、近代建築の信条をむりやりねじまげた苦渋の姿である。」*[5]
日本の近代建築の成立の過程は、こうして、しばしば前川國男の軌跡に即して語られる。
一九三〇年にコルビュジエのもとから帰国して以降、全てのコンペ(競技設計)に応募する。そして、落選し続ける。「日本趣味」「東洋趣味」を旨とすることを規定する応募要項を無視して、近代建築の理念を掲げて、わかりやすくは、近代建築の象徴的なスタイルとしてのフラットルーフ(陸屋根)の国際様式で応募し続けた。この過程が、日本の近代建築史上最も華麗な闘いの歴史とされる。
しかし、その栄光の歴史は1940年代に入って挫折する。もっともらしく語られてきた物語はこうだ。敢然と近代主義のデザインを掲げてコンペに挑んだ前川國男は、ついには節を曲げ、自らの設計案に勾配屋根を掲げるに至った。パリ万国博覧会日本館(1937年)の前川案には確かに勾配屋根が載っている。また、在盤谷日本文化会館のコンペ案は、あれほど拒否し続けた日本的表現そのものではないか。コンペに破れ、志も曲げた。前川國男は二重の敗北を喫したのだ。
排泄物=キッチュとしての帝冠様式
こうして、日本の近代建築は定着した途端に挫折したことになる。確かに奇妙な歴史のエアポケットだ。1940年代は、あるべき歴史の不在であり、挫折であり、奇形化であり、方向転換である。
1960年代末から70年代にかけて極めて明快に近代建築批判を展開したのが長谷川堯である。彼は、「昭和建築」=近代合理主義の建築と規定し、それに先行する「大正建築」を再評価する構えを採った*[6]。しかし、困ったのが昭和戦前期の建築である。「建築の「昭和」の中央を汚す傷のようにかなりの数の歴史様式の建築と、さらにはあのファシズムの横行に付随したいわゆる帝冠式といわれる建築が分断している」が故に「「昭和建築」を戦後建築に顕著な合理性に基づく近代的な建築の流れとして総合的に把握し、ひとつのカテゴリーとすることに無理があるように思われる」からである。
そこで長谷川がひねりだしたのが「排泄物」理論だ。「昭和のはじめに国際的に起こった近代合理主義運動のなかで、特にそれが後発工業資本主義国において展開するとき、ある歴史的必然から生ずるいわば正常な排泄物に近いものが歴史様式特に帝冠様式ではないか。」
こうして1940年代の大きなテーマは、「歴史様式」あるいは「帝冠様式」の評価である。フラット・ルーフvs帝冠様式(あるいは勾配屋根)という対立構図は確かにわかりやすい。
「帝冠様式」はもともと「帝冠併合式」という。下田菊太郎が帝国議事堂の競技設計(1918年)において具体的に提示し、自ら命名した建築様式が「帝冠併合式」である。簡単には、躯体は西欧式、屋根は日本の伝統建築、社寺仏閣の様式を併用する様式だ。より一般的に、架構形式とは別に屋根の形だけを考える様式、もう少しストレートに、鉄筋コンクリート造のラーメン構造の躯体に切妻や寄せ棟など勾配屋根を王冠のように載せる様式を「帝冠様式」という。
この「帝冠併合様式」についての近代建築家、当時の新興建築家の評価は低い、というか無視に等しきものであった。既に、大正期はじめから虚偽構造(シャム・コンストラクション)の是非をめぐる議論があり、構造と意匠を別に考える立場は批判されている。構造は素直に表現する、という近代建築の理念にとって「帝冠併合式」は受け入れがたいものであった。にもかかわらず、前川圀男ですら「勾配屋根」を採用するに至った。だから敗北であり、挫折である、というわけだ。長谷川堯も、「排泄物」にすぎないと言い切った。
ところがこの「帝冠様式」を日本の近代建築史の流れのなかに「正当に」位置づけようとしたのが井上章一の『アート・キッチュ・ジャパネスク---大東亜のポストモダン』である*[7]。「帝冠様式」の建築は、競技設計のみ追っかけてみても、明治神宮宝物殿(1915)、日清生命保険会社(1916)などをはしりとして、神奈川県庁舎(1928年)、名古屋市庁舎、日本生命館、軍人会館(1930年)、東京帝室博物館(1931年)、日本万博建国記念会館(1937年)・・・と続く。井上は、「帝冠様式」の問題を軸に、忠霊塔(1939年)と大東亜記念営造計画(1942年)、さらに「在盤谷日本文化会館」(1943年)というコンペをめぐる建築家の言説と提案を徹底的に問題としている。建築の1940年代の問題を正面から取り上げた書物は、そう他にはない*[8]。
井上章一が全体として主張しようとするのは、前川國男に代表される日本の近代建築家の全体が究極的には転向、挫折していること、従って、戦中期の二つのコンペによってデビューすることになった丹下健三のみが非難されることは不当であること、さらに、帝冠様式は強制力をもっていたわけではなく、少なくともファシズムの大衆宣伝のトゥールとして使われたわけではないことなどである。要するに「帝冠様式」はキッチュであって、ことさらファシズム体制と結び付ける必要はない、というのである。「大東亜のポストモダン」というサブタイトルが暗示するように、この一書はポストモダンの建築が喧伝されるなかで書かれた。戦時体制下における帝冠様式をポストモダン建築の源流とさえいう。
帝冠様式は日本ファシズムの建築様式である、という暗黙のテーゼを転倒する意識のみが透けて見え、戦時下における建築表現への強制力(「屋根の強制力」といってもいい)についての過小評価が気になってコメントしたことがある*[9]。いたくお気に召さなかったらしい。そのコメントについての批判は、復刻された『戦時下日本の建築家』のあとがきに長々と書かれている。
ドイツ、イタリアに比べれば、日本のファシズム体制が建築の表現に関する限り脆弱であったことはこれまで指摘されてきている。しかし、日本的表現の問題、日本建築様式の問題が建築家の意識の問題としてファシズム体制に対する態度決定を迫る大きな問題であったことは無視されてはならないだろう。戦時下、浜口隆一が「日本国民建築様式の問題」*[10]を書いて、日本の近代建築の孕んだ問題を指摘していたことはよく知られている。「日本的建築様式の問題」、「戦争記念建築の問題」によって、日本における近代建築の潮流が危殆に瀕し、多くの建築家が近代建築思想を放棄し、脱落したという見方は一般にも共有されているのである。記念建造物や市庁舎建築のデザインを単にキッチュといってすまされるのか。また、ファシズム体制を建築様式の問題としてのみ問うのにも不満が残る。特に、ポストモダンの源流が戦時体制下の帝冠様式にあるということになると、日本の建築モダニズムは移植される以前に超えられていたことになる。といったところがコメントの真意だ。
俳聖殿
こうして予め大きな問題を確認できる。「帝冠様式」の問題は現代でも決して無視し得ない問題だ。発展途上国には「帝冠様式」もどきの建築を数多く見ることができる。否、ポストモダン建築を賞揚した先進諸国にも「帝冠様式」もどきの建築は跋扈している。
そして、屋根の問題は完全に今日的テーマだ。景観問題が大きくクローズアップされるなかで、屋根の形態を規制する動きが方々で見られる。公共建築の競技設計に勾配屋根を条件とする例もある。屋根のシンボリズムはわかりやすいが故に力をもつ。地域の、町のアイデンティティの表現として、伝統的建築の形を模すやり口は至る所にある。
建築の問題は決して屋根の問題、様式(スタイル)につきるわけではない。前川國男も「私の・・・主張せんとする所は決して所謂「屋根の有無」と云った枝葉な問題ではない」*[11]とはっきり書いているのである。
日本の近代建築史は、あまりにも様式史に偏している。日本の近代建築の大きな問題は、木造建築をフラットルーフにしたように(「白い家」)、近代建築の理念をまずスタイルとしてのみ導入したところにある。様式選択史観は捨てた方がいい。幸か不幸か、建築のポストモダニズムが全てを白紙還元してくれた。
1940年代の建築として、これまで全く注目されてこなかったひとつの作品をあげよう。伊東忠太が設計指導した俳聖殿である。松尾芭蕉の生誕300年を記念して、川崎克が私財を投じて、出身地の三重県上野市に建設した八角二層の木造建築だ(1942年9月2日竣工)。余談であるが、川崎は西洋建築の席巻を憂え、伊賀上野城を再建した人物である。
異形の屋根は編笠をイメージした、という。キッチュと言えばキッチュだ。しかし、帝冠様式とは言わないだろう。俳聖殿は、日本の近代建築史の流れのなかにどう位置づけられるのか。少なくとも、フラットルーフvs帝冠様式といった構図とは異なった系譜が必要とされるのではないか。
伊東忠太(1867-1954)の数多くの作品には様々な様式があり、いくつかの系列が認められる。様式が外にあるか、内にあるか、という区別をすれば、すなわち様式を選択すべきものと考えるか一貫すべきものと考えるかを区別するとすれば、伊東にとって様式は外にあったと言えるかもしれない。しかし、この俳聖殿や築地本願寺のような作品は単純にそうとは言い切れないのではないか。インド・サラセン建築の影響を受けたJ.コンドルのいくつかの作品にしてもそうだが、西欧の建築文化とは別の脈絡をアジアに求めたのが伊東忠太である。彼の進化主義なるものは再度検討されていい。伊東忠太を軸に日本の近代建築史を読み直すとするとどうなるのか。
伊東忠太が建築界で初めて文化勲章を受けたのは、俳聖殿が竣工した翌年(1943年)のことだ。
俳聖殿 伊東忠太 1942年9月2日竣工 三重県上野市
*1 同時代建築研究会編、現代企画室、1981年
*2 同時代建築研究会 「国家と様式 一九四〇年代の建築と文化」、『建築文化』、1984年9月号
*3 SD選書、鹿島出版会、1979年。初版、丸善、1959年。
*4 同上、稲垣栄三、『日本の近代建築』p368-369
*5 同上、稲垣栄三、『日本の近代建築』p369-371
*6 長谷川堯、「大正建築の史的素描」、『建築雑誌』、1970年1月号、『神殿か獄舎か』所収。
*7 青土社、1987年、『戦時下日本の建築家』、朝日選書、1995年
*8 西山卯三の『戦争と建築』頸草書房、1983年があるぐらいである。
*9 拙稿、「国家とポストモダニズム建築」、『建築文化』、1984年4月号、布野修司建築論集Ⅲ『国家・様式・テクノロジー』、彰国社、1998年所収
*10 『新建築』、1944年。
*11 前川國男、「1937年巴里萬國博日本館計画所感」、『国際建築』、1936年9月号
0 件のコメント:
コメントを投稿