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2021年12月4日土曜日

公営住宅の胎動ー建築士の誕生1949年

 公営住宅の胎動建築士の誕生1949,歴史のうずの中で 空白の10年!?ー建築の1940年代,最終回,ひろば200112


 公営住宅の胎動ー建築士の誕生1949

  

 1949年

 1949年は僕の生まれた年である。しかし、『仮面の告白』(三島由紀夫)の作者のような天才ではないから、生まれた年の記憶なぞない。年表をめくると、何の縁だか既に20年以上もつき合うことになったインドネシアが独立したのがこの年だ。インドネシアは817日が独立記念日である。西欧列強の植民地はそれぞれ独立へ向けて動き始めている。インド、パキスタンが分離独立したのが1947年、ビルマ共和国、セイロン自治国が成立したのが1948年だ。そして、この年、中華人民共和国が成立している。昭和24年生まれは中華人民共和国と同い年ということになる。また、ドイツ連邦共和国とドイツ民主共和国が分かれて成立したのがこの年で、大韓民国、朝鮮民主主義人民共和国の分離成立は前年だ。翌1950年には朝鮮戦争が勃発する。北大西洋条約機構(NATO)が条約調印されたのが1949年である。世界は冷戦体制へ向けて、東西対立を決定的にしつつあった。

 日本では、敗戦から4年経たけれど、下山、三鷹、松川事件など列車転覆事故が相次いで起こり、世相は未だ騒然としていた。しかし、19463月から行われていた都会地への転入抑制制限がこの年11日解除されるなど、戦災復興は軌道に乗りつつあった。湯川秀樹のノーベル物理学賞受賞、フジヤマのトビウオ古橋広之進の活躍など明るい話題もある。法隆寺金堂の壁画が焼失したのがこの1949年であり、日本にも旧石器時代の存在を確認する岩宿遺跡(群馬県)が発見されたのがこの年である。

 

戦後住宅地の原風景

建築界は復興へ向けての助走を開始しつつあった。

まず、住宅の復興がある。3月、戸山ハイツ(東京・新宿)が竣工している。米軍兵舎用の払下げ資材による木造二戸一タイプ全1052戸の住宅団地だ。また、前年の東京都営高輪アパートについで、戦後、東京で二番目の鉄筋コンクリート(RC)造集合住宅、4階建て14棟の戸山ケ原アパートが竣工したのが8月である。この年の代表作を上げるとすれば、こうした公営住宅の胎動をまず上げるべきであろう。木造平屋の公営住宅は全国各地に建設され、戦後住宅地のひとつの原風景となった。





僕が育ったのはまさにこの1949年に建てられた公営住宅である。この我が公営住宅は増改築を繰り返して今日に至っている。当初は、4畳半に6畳、板の間に台所の最小限住宅で、風呂はなかった。ダイニング・キッチンを提案し、戦後日本の住宅モデルとなる1951年の公営住宅標準設計51C型の登場前である。物心ついた頃、父が庭先にセルフビルドで風呂場を建てるのを手伝った記憶がある。僕の住宅遍歴については、『住宅戦争』にさりげなく書いた[1]。つい最近も、「すまいの原風景は、都市を変えるか」と題したミニ・シンポジウム[2]に呼び出され、再び、自らの戦後住居史を振り返る機会があったが、四間取りの民家で生まれ、市営住宅、寮、下宿、アパート、民間マンション、公団住宅、官舎・・よくもまあ色んなタイプの住宅に住んできたなあ、と思う。しかし、なんともヴァリエーションがない、とも思う。戦後日本の貧しい住宅史を自ら身をもって体験してきたという実感がある。


 

全日本造船労働組合会館と新日本文学館



鉄筋コンクリート造のアパートが立ち始めたものの、多くの作品は木造である。清家清の「うさぎ幼稚園」(目黒区洗足)など木造のシェル屋根を使ってつくられた。基準などなく、実物大の模型で実験した上での建設であった。この連載で取り上げたMID同人によるプレモスも池辺陽ら一連の最小限住居も木造である。そうした中に、NAU(新日本建築家集団)による全日本造船労働組合会館(設計:今泉善一)がある。また、新日本文学館(設計:東京建築設計事務所)もこの年である。翌年の八幡製鉄労働組合会館(設計:池辺陽、今泉善一)もNAUのデザイン部会による。

戦前大森ギャング事件に連座したことで知られる今泉善一の全日本造船労働組合会館は、2階建て片流れ屋根の木造であるが、いかにも初々しいモダニズムを感じさせる瀟洒なデザインだ。前川国男・丹下健三の岸体育館(1941年)を思わせる。

 戦後まもなく相次いで結成された諸団体を統合するかたちで設立された(1947年)新日本建築家集団(NAU:The New Architect’s Union of Japan)については7月号で触れた[3]。NAUは、約800人を集めた建築界の大組織であった。初代委員長が高山栄華、第二代委員長が今和次郎、戦後の建築界を背負って立つことになる主要メンバーは参加している。丹下健三もまたNAUのメンバーであった。この大組織が一方で具体的な設計を展開したこと、また、それを目指そうとしていたことはあまり知られていないかもしれない。

 NAUの設計グループの流れは、「所懇」(建築事務所員懇談会、1952年)に受け継がれ、「五期会」の結成(1956年)に結びつくことになる。

 

 農村建築研究会

NAUを中心とする戦後の建築運動の評価、また、浜口隆一の『ヒューマニズムの建築』を中心とする戦後建築の指針をめぐっては他に譲ろう[4]。様々な綱領、スローガンは確認済みである。問題は、既に、戦後建築の初心がどう生きられたかである。

NAUは、1951年には活動を停止してしまう。関西に、NAUKがつくられ、さらにその流れを汲む「新日本技術者集団」が結成されるのであるが、NAUが結成まもなく崩壊したのは事実である。以降、NAUが孕んでいた方向は拡散して行ったと見ていい。もちろん、その背景には、GHQの圧力によるレッド・パージがあり、日本共産党内における路線対立があった。また、朝鮮特需によるビル・ブームが建築家の時間と関心を奪ったという見方も核心をついている。

ところで、この194912月にNAUの下部組織として「農村建築研究会」が設立されている。今和次郎、竹内芳太郎など戦前の民家研究の流れを踏まえながらも、若手研究者が中心となって活動を開始するのである。この研究会から、青木正夫、浦良一、持田照夫など多くの農村建築研究者や民家研究者が育っていくことになる。

戦後の公共建築の設計指針に大きな影響を及ぼすことになるLV(エル・ブイ Le Vendredi(金曜日)に由来する)(東京大学吉武研究室を中心とする研究会)が始動するのは翌年であり、研究者の運動は、建築研究団体連絡会の発足(1954年)に結びついていく。

この時機に何故「農村建築」か。戦後まもなく、日本の全人口の6割は農業人口であった。「山村工作」という日本共産党の革命戦略もその背景に指摘されるけれど、農村復興も大きな課題として意識されていたのである。

こうした農村への関心の流れの中で、例えば、稲垣栄三の「山村住居の成立根拠」が書かれる。農村の変化、その自立の根拠を見続ける眼が存在したことは記憶されていい。日本の戦後は、農村を蹂躙し、日本列島を大きく「土建屋国家」へと改造することになるのである。

 

建設業法の公布

この年の出来事でもうひとつ、建築界の基盤に関わるのが建設業の公布である。

建設業界もまた波乱万丈の1940年代であった。明治以降、殖産興業のための基盤整備によって成長を続けてきた建設産業は、第二次世界大戦によって決定的な打撃を受けた。建設投資は1938年にピークを迎え、以降減少し続ける。1940年代は右肩下がりの時代であった。

敗戦が建設業界に未曾有の大混乱をもたらしたことは言うまでもない。戦時中の建設ブームを支えていた軍施設工事の全面的停止による配給資材の闇ルート流出などの問題に加えて、戦災復旧の応急工事、進駐軍家族のための住宅団地建設、軍接収ビルの修理工事などの膨大な建設需要が混乱に拍車をかけた。ひとり建設業界の好景気に新規参入業者が相次いだ。「雨後の筍のごとく“建設業者”は誕生して、戦前から名の通った大業者を尻目に、俄仕立ての業者が数億円の工事を簡単に獲得するという事態も生まれた」(全建史)のである。1949年の『建設白書』によれば、194711月ごろの進駐軍住宅工事の常時入札参加者101社のうち47社が、また、19485月現在の建設業者472社のうち42.4パーセントの200社が、いずれも、1945年以後創業の新興建設業者で占められていたのである。

 そうした混乱状況にGHQによって建設業界の民主化要求が出される。戦時体制下の「建設工業統制組合」が「建設工業会」として改組発足(1947年)するのであるが、即閉鎖機関に指定される。とりわけ問題になったのは、建設業の親方制度、徒弟制度、下請制度である。GHQの担当官コレットは全国の現場を回り、手厳しい指摘を続けた。要するに、直傭制を執拗に求めたのである。これを「コレット旋風」という。

 そうした背景の中で成立したのが建設業法であった。NAUが「建築界全般を覆う封建制と反動性を打破する」(綱領三)とうたい、丹下健三が論文[5]で、全ての問題が「建設工業機構の封建制」とそれに結びついた「都市の封建的土地支配」にあると書いていたように、建設業界の積年の課題は充分意識されていた。果たして戦後の建設業界はこの課題を克服し得たのであろうか。疑問なしとしない。

 

 建築士の誕生

 日本の建設業は、しかし、驚異的な復元力を示した。1950年代初めには戦前の経済水準を回復した日本の経済復興の進捗とともに、1955年までには戦前の水準を確保するのである。

1940年代から1950年への変わり目は、日本の近代建築史の流れにおいても大きな閾とみていい。そのいくつかの指標が、建設業の公布であり、翌年の、1919年以来の市街地建築物法を抜本改定する建築基準法の制定そして建築士法の制定である。とりわけ、建築士法の制定は、戦後における建築家のあり方を方向づける決定的意味をもつことになる。

 近代日本における建築家の職能をめぐる歴史の詳細は他に譲るが[6]、歴史的な議論の果てに、職能法ではなく資格法として建築士法が成立したのである。

 1949年はまさにその決着がついた年である。争点は、戦前における、いわゆる「第六条問題」、兼業禁止をめぐる問題であった。西欧における建築家像を理念とし、職能(プロフェッション)の確立を支える法・制定を目指す、当時の日本建築士会が兼業の禁止を主張し続けたのは当然である。GHQのプレッシャーもあり、戦後の混乱を反映するように、議論は右へ左へと揺れ動いた。歴史に「たられば」はないにしろ、万が一、職能法として建築士法が成立していたとすれば、戦後日本の建築家のあり方そして建築のあり方は大きく変わったということは出来る。建築士の公布は1950年の524日、施行が7月1日だから、1949年にはその決着はつけられたのである。

 

 おわりに

 当初、この連載を1950年代へ向けて2年間続けるつもりであったが、編集委員会の意向で打ち切られることになった。いささか残念である。

成功したかどうかは読者の判断に委ねられているが、一年一作品によって一月ごとに歴史を振り返る試みはアイディアとして面白いと今でも思う。

 もうひとつ、編集委員会との約束として、出来るだけ分かり易く、具体的な設計に即して書くという方針があった。可能な限り、これまであまり知られなかった作品を取り上げたい、という希望もあり、期待もあった。

 この希望と期待について、約束を果たし得たかというと、はっきりそうは言えない。監修者の怠慢といっていいが、新しい作品を充分に発掘し得たかどうかは疑問である。特に、関西圏から新たな発掘をという期待に答えることが出来なかった。

 それでも、と言い訳を二つお許し頂きたい。ひとつは、海外神社や防空壕など新たな視点で取り上げたものがあるということ。また、どの建築家のどの作品をどの年にとりあげるかの工夫もそれなりにしたつもりであること。実はこの組み合わせの妙が楽しい。ふたつめの言い訳は、そもそも1940年代には、残された、論ずるに足る作品が決定的に少ない、ということである。1950年代以降であれば、もっと組み合わせの妙が楽しめるであろう。

 若い書き手に期待したこともあって、分かり易く、という点については、編集委員各氏に度々研究室に足を運んでいただくことになった。誠に恐縮至極である。身近な書き手の原稿には全て眼を通し、書き直してもらった原稿もあり、監修者としては全体に自信はあるが、難しいと言われれば、そうかもしれない。編集部から、東京方面では存外評判がいい、と聞いたのが救いである。

 いずれにせよ、自前の足で,自前の写真で、設計する立場からという点については力不足であった。取材に関わる費用や時間については言うまい。見に行けるものが少なかったのである。編集委員会では、来年一年かけて1940年代を再度見直す方針である。以上の点をリカヴァーして頂けることと思う。連載の機会を与えて頂いた編集委員会には感謝したい。また、楽しみに読んでいただいた読者諸氏にはお礼を申し上げたい。

20世紀後半は既に教科書として書かれる時代に達しているのではないか。監修者としては、いつかどこかにまた機会があれば、同じ方式で、1950年代、60年代と続けて一冊の本をものしたいと思う。



[1] 拙著、『住宅戦争』、「第2章 欲望としての住まい」「3それぞれの住宅事情」、彰国社、1989年。

[2] 住宅総合研究財団『すまいろん』主催。陣内秀信、布野修司、中嶋節子。2001101日。

[3] 拙稿:戦後建築のゼロ地点:1945年8月15日:原爆ドーム、『ひろば』、2001年7月号

[4]  拙著、『戦後建築論ノート』、相模書房、1981年。『戦後建築の終焉 世紀末建築論ノート』、れんが書房新社、1995

[5]  丹下健三、「建設をめぐる諸問題」、『建築雑誌』、194811月号

[6] 日本建築学会編:第12篇「職能」、『近代日本建築学発達史』、丸善、1972







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