秋田杉の町能代を見る,室内,工作社,199009
インター・ユニヴァーシティー・サマースクール 張天に想う
布野修司
秋田県能代に行ってきた。総勢四八人。芝浦工業大学(藤澤好一研究室)、千葉大学(安藤正雄研究室)との合同合宿である。恒例となりつつあるインター・ユニヴァーシティーのサマースクールだ。今年は五大学に拡大しようと思っていたのだけれど、残念ながらスケジュールの調整がつかなかった。
市営球場で野球大会をしたり、法被を借りて飛び入りで祭りの山車を曵いたり、充分楽しんだ。遊んでばかりいたわけではない。秋田杉の森林(仁鮒水沢スギ天然生林)を見たり、工場見学(相澤銘木 大高銘木)もやった。市役所の人たち(能代市役所自治研部)と能代と秋田杉をめぐるパネルディスカッションもやったし、もちろん、ゼミもやった。ロシアン・ルーレット方式のゼミだ。大勢だから、全員の発表を聞く時間がない。皆レジュメを用意しておいて、それを見ながら多数決で聞きたいテーマと発表者を決める。教師は横着だけれど、学生にはスリルがある。時間がくれば終わりだけれど、それまでいつ当たるか気が気でない。それで、誰かが恐怖のロシアン・ルーレット方式と呼び出したのだ。
学生はどう思ったのか知らないけれど、なかなかに充実した合宿だったと思う。僕が最も強烈な印象を受けたのが張天(はりてん)である。つくづく考えるのはまたしても木のことであった。
張天とは何か。本誌の読者であればご存じの方も多いであろう。「目透かし張り天井板」のことだ。というより、誰でも知っている。部屋の天井を仰いでみればいい。和室の天井は、ほとんどが張天である。他にも業者がいるのであるが、能代で七割はつくられているという。この張天には、「内田賞」という賞(建築における実績として、構法技術開発に関して影響が顕著であったものを評価する賞)が与えられている。いつか工場を見たいと思っていたのだが、今度初めて全工程を見ることができたのであった。
張天が登場したのは四〇年ほど前のことだというのであるが、それまでの天井板というのは昔ながらの無垢の板である。二分三厘(約七ミリ)に一枚一枚鋸で挽いてつくった。かってあちこちで見かけた外壁の杉の下見張りの厚さが二分三厘である。しかし、張天というのは、ベニア板の上に薄い杉の板というか皮というか、紙のような杉を貼ったものを使う。その薄さたるやすごいものである。現在では、一分厚(約三ミリ)の単盤材から最高二五枚の「杉紙」をスライスできるのだという。一枚の厚さが〇・一二ミリである。
紙といえば、印刷した杢目だってある。それはラミ天(ラミネート天井)という。もちろん安い。木が紙になって、ラミネート印刷されてベニア板の上に貼りつけられる、変な気がしないでもない。それに比べて、張天は、いくら薄くたって本物の秋田杉だ。限りなく無垢天井の素材感に近づける、というのが唱い文句である。中杢、中板目、笹杢、上杢、源平、純白と一応そろっている。知ったかぶりして、書いているのであるが、もちろん、どう木取りをすればそうなるのかも含めて、今度能代でならったのである。純白というのは樹皮近くを木取りする。源平杢というのは、その次を取る。両端に白味がでて、中央の赤味と紅白になるからそう呼ばれるのだ。
この張天があっという間に普及したのは、目透かし張りという構法による。それまでの天井というのは、天井板を載せるために竿縁が必要であった。しかし、目透かし構法というのは目板でつないでいくだけであっという間に施工できる。三六(さぶろく 三尺六尺)のベニアをつないで二間(にけん)の天井板ができたのも大きい。普通の部屋なら並べていけばいいのだ。かなりの省力化なのである。
だがしかし、驚いたのはその見事な構法にではない。驚くのはなんといっても、表面材である「杉紙」の薄さにである。何故、こんなにも薄くしなければならないのか。それだけ沢山の天井板がつくれるからである。しかし、それだけではない。なんと省資源のためだという。一瞬耳を疑ったのであるが、このまま伐採を続けていくと、あと九年で、天然の秋田杉はなくなってしまうというのだ。
工場の倉庫で在庫をみるたびに聞いてみた。国産材の割合は、せいぜい数パーセントである。張天の主材料といっていいベニアは、ほとんどカリマンタンのサマリンダから送られてくる。木の都(みやこ)、木都(もくと)を標榜する能代においてこうなのだ。
秋田杉というのは、つくづく思うに、造作材である。決して構造材ではない。柱もそうだ。工場をみて痛感するのは、木材が工業材料となったということだ。木などもうどこにもない。木片のみが存在するという感じである。木片が、しかも、ほとんど輸入材である木のピースが、フィンガージョイントとよばれる接合法で(両手を組み合わせるように端部をギザギザに切った木を組み合わせる)、次々につながれる。そして、接着剤で張り合わされる。そうすると大きな断面の木材ができあがる。木のモザイクである。そして、再び必要に応じて、その木の塊を切り分けるのだ。
なんでこんな面倒なことをするのか。その方が強いし、狂わないのである。木を切ったり貼ったりして固めたものを製品の寸法に再び裁断する。それでできるのが芯材である。そして、その上に化粧が施される。すなわち、薄い「杉紙」がはられるのだ。
僕らが木と思っているのは、いまや、ほとんどがこうだ。木の香とか、本物の木というけれど、みんな中は木のパッチワークである。木というのは、不均質で、強度もバラバラでしょうがない、本当は工業材料を使いたいのだけれど資源がない、と木造亡国論が主張された戦後まもなくのことを思う。まさに隔世の感がある。木材はついに工業材料になったのである。森林浴天井板「森の精」という商品がある。臭いまで人工的につけられるのだ。集成材というと一般の人は嫌う。偽物のような気がするのである。しかし、性能的には集成材の方が遥かに上なのだ。
木都の悩みは大きい。人口は減りつつある。木材産業が製造業全体に占める割合は異常に高い。従業員数で六割、出荷額で七割を超えるのだ。それが振るわないのだから当然だろう。秋田木材通信社の薩摩さんに頂いた、加賀要次郎さんの『秋田杉とともに』を読むと能代の町の歴史は秋田杉とともに波乱万丈である。戦前においても原木不足の時代があり、樺太材やシベリア材、沿海州材、さらに米杉も輸入されているのだ。関東大震災直後のことである。しかし、そうした歴史の中でも、天然杉がなくなろうとする今、能代という町は最大の転機を迎えつつあるようである。
パネルディスカッションで明らかになったことがいくつかある。ひとつは、町が秋田杉のブランドに頼りすぎてきたということだ。また、外材に頼っている体質も問題とされる。さらに張天に代表されるような、和室回りの造作材の生産に偏っていることも指摘される。
九月二三日には、そうした能代の抱える問題をめぐって、「木の住宅部品と地域産業ーー木都・能代の過去・現在・未来」と題したシンポジアム(第一五回木造建築研究フォラム能代)が開かれるという。限られた製品だけを出荷するだけで、地域産業になっていない、問屋に流すだけでエンド・ユーザーの顔がみえない、それ以前に、木材産業というのは加工業なのか流通業なのか、つくるのか流すだけなのか、実に多くの問題が議論されそうだ。もちろん、熱帯降雨林の破壊の問題、地球環境の問題を木材の流通を通して考えるという問題もある。
能代の人たちの真面目さと暗さ、そして、空前の売り手市場でにこやかな学生達の明るさが妙に対比的であった。この暗さと明るさは一体どう共有されるのだろう、なんて思った合宿であった。
さて、恒例のサマースクールをどうしよう。来年は、飛騨の高山でやろう、という話がでた。毎年通って、山車をセルフビルドでつくって欲しい、というプログラムである。なかなかに魅力的だ。議論より実際やってみた方がいいのに決まっている。
その話をロンドンでも一緒だった相澤銘木の網(あみ)さんに話すと、能代はどうするんだ、という。毎年場所を変えるのではなく、もう少し、通ってくるべきではないか、ゲスト・ハウスを建てるからそれも学生達と自力建設でやってみないか、という提案だ。
はて、困った。サマースクールだけではなく、春休み、冬休みにも合宿をやらないと、間に合わないではないか。面白そうだけど、大変なことになりそうだ。体力と気力が続くかなあ。
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