このブログを検索

2021年12月6日月曜日

青井哲人 群衆と祭典の空間 戦時下の神社境内: 歴史の渦の中で 日本の近代建築 空白の10年!?・・・建築の1940年代、ひろば、2001年6月号

 歴史の渦の中で  日本の近代建築 空白の10年!?・・・建築の1940年代、ひろば、2001年6月号

群衆と祭典の空間 戦時下の神社境内


青井哲人(あおい・あきひと)

●都市生活の戦時体制

 『写真週報』という雑誌がある。1938年、内閣情報部により創刊され、1940年以降はこれを改組した内閣情報局が出していた。言論・マスコミの統制にあたった機関だ。要するに『写真週報』は、戦時下の国家が国民に提供した情宣グラフ誌だった。

 誌面を埋める記事と写真を眺めていると、そこには一種の遠近法ともいうべき構図が透けて見えてくる。まず、はるか彼方の戦線の光景。1944年といえば、3月に開始されたインパール作戦が7月に中止。すでに守勢に転じていた南方戦線も次々に米軍勝利に帰し、10月のレイテ沖開戦以降は米軍の本土直接攻撃と日本の絶望的抗戦という段階に突入する。にもかかかわらず『写真週報』は戦争を楽天的に伝えるほかなかった。それに対し、日常生活に直接かかわる記事が誌面をつくる一方の基調となっている。残飯を使った食用豚の飼育とか、芋の栽培方法などなど。

 しかし、223日付『毎日新聞』の「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ」という記事に東条首相が激怒するといったお寒い状況にあって、国民一人一人のなかに日常と戦線とが直結しているのだという疑いなき「実感」をつくり出すのは難しかっただろう。だから、総動員体制を支えるこの「実感」をつくる何かが、遠近両極のあいだに位置づけられねばならなかった。それは、膨大な数の兵士や群衆を集めておこなわれる集団的儀礼、あるいは大衆祭典ともいうべき行事の数々だったろう。様々な訓練、集会、出征壮行会、国家的祭日など。『写真週報』の一枚一枚の写真はどこかコミカルな調子すら帯びているが、こうした遠近法に気づくと戦慄を覚える。では、建築や都市の状況はどうだったか。

 日常の極には、むろん住宅がある。たとえば燈火管制の問題。夜間に室内の光が漏れぬよう、縁側に雨戸をはめ、欄間にも何らかの覆いをするよう指導された(図3)。空襲警報発令時の行動マニュアルのなかには、障子や襖をすべて取り外す、とする項目がある。家族の避難行動をスムースにするためだ(図4)。これらはいずれも日本住宅の特徴を反映していて興味深い。

 一方には深刻な住宅不足があった。低コストの規格化住宅を大量に供給することが内外地にわたる共通の課題となり、その方法的特質は終戦後の住宅供給にもそのままつながっていく。

 他方、最前線はともかくとして、内外の要地には軍需工場や格納庫などの構造物が大量につくられ、女子や学徒も動員された。国民徴用令は1944年から朝鮮にも適用されている。37年からの鉄鋼使用の制限は都市景観を木造バラックに塗り替えていったが、軍需施設でもその大架構を木造トラスに頼らざるをえなくなった。44年には、建物疎開と称して、延焼防止の空地創出のために都市内の建物が強制的に撤去されはじめるが(これが戦後の大幅員街路になる)、その古材を使って木造架構をつくり、そのうえに土を被せて地下工場とする、などという何とも頼りない提案すら見られる(図5)。

 こうした住宅供給や工場建設、都市防災などが、建築学者の専らの研究課題となった。研究の多くには極端な視界の狭さと高度な技術主義とが共存していた★1

 そして、日常と戦争とを媒介する大衆祭典。明治以降整備されてきた公園や運動場が、群衆の劇場と化した。学園紛争を経験した世代の人々がいうように、空間とは、あるいはその規模とは、たしかに怖ろしいものなのかもしれない。

●戦時期の神社造営

 群衆を集める機能を担ったもうひとつの空間に、神社の境内がある(図1)。明治政府によって、神社はあらゆる宗教に超脱した国家祭祀としての地位を占め、国の管理下に置かれていた。しかし、大衆の身体に直接働きかけるという意味での実効的な機能を、国家が神社に期待していくようになるのは戦時期になってからであるといってよい。日本の総建設量が下降しはじめる頃から、神社の建設量はむしろ増大しはじめる。1937年は日中開戦の年でもあり、この頃から膨大な数の参列者を集めた神社祭典が活発化し、むしろ日常化していくのだが、それにふさわしい空間的しつらえをもった神社が、この頃から内外地で大量につくられるようになるのである。筆者が資料をもとに追跡した台湾・朝鮮では、両者をあわせた数で、37年から45年までの神社創建数は68。これは植民統治期全体の総数の実に45パーセントに及ぶ。さらに、それ以前につくられた神社の社殿や境内も、この頃からの機能的要請に応えられるよう、大々的に改築や整備がなされていくから、神社の建設量は戦中期に極度に肥大化したことになる★2。内地でも神社造営の活発化は同様であり、こうして戦中期に創建ないし改築整備された神社境内が、戦後に受け継がれるのである。

●群衆の空間、国民的イベント

 1940年代の建築家の足跡としては、わずかの実作の他にコンペや計画案の提示がある。丹下健三がデヴューを飾った「大東亜建設記念営造計画」も、神明造風の建物の前に膨大な数の大衆を集めるもので、それが戦後の広島の計画にもつながる。また当時建築家たちの創作意欲の数少ないはけ口となった各地の忠霊塔の場合も★3、あまり論じられないが、垂直のモニュメントの前には茫漠たる地面が拡がっていた。参列した兵士や大衆は塔を見つめただろうが、それは自分と同じようにその場を埋める無数の人々の頭越しにであった(図6)。

 もちろん神社でも、時局の影響は避けられず、資材や人夫に大きな不足が生じていた。しかし、そうした状況はむしろ大衆を巻き込む理由にすら転化された。この時期の神社造営では、日本国政府や各植民地総督府、あるいは地方庁などが国庫や地方費から総工費のいくらかを補助し、残りについては大々的に寄付を募るのが一般的だった。工事も、土地造成などに大衆の「勤労奉仕」が投入され、学校や役所もその組織的動員に協力した。こうしたプロセスそのものが、国ぐるみの、あるいは地方をあげての大イベントであったし、新聞もこうした勤労奉仕を美談として報じた。

●官僚技術者のモダニズム

 1944年時点でも、史上最大級といってよい神社造営事業が進行中だった。この点では国内より植民地の方が華々しく、創建では扶余神宮(朝鮮扶余)、関東神宮(関東州旅順)、改築では台湾神社(台湾台北)などが筆頭にあげられよう。これら三社はいずれも国家神道体制下の最高の格付にあたる官幣大社であったが、これにつぐ社格の造営事業はさらに多かった。三社のうち関東神宮は4410月に盛大な鎮座祭を挙行しているが、他の二社は完成にいたらず終戦を迎える。

 ここでは台湾神社の場合をみておく。この神社は元来、日本が初の海外植民地として台湾を獲得した際、その全島の守護神社として1901(明治34)年に創建されたものである。設計は平安神宮(1893年)の時と同じ伊東忠太と木子清敬(指導)のコンビで、武田五一も共同設計者であった。台北市街をのぞむ丘陵地の稜線上に、奥行き方向に細長い敷地をとり、これに伊勢神宮風の社殿が配置された。しかし1930年代も半ばを迎える頃になって改築計画が浮上する。境内は隣接する谷筋のなだらかで広い傾斜地へと移され、創建時とは全く異なる、横の拡がりをもった敷地がとられた。そこに大きな外部空間を組み込んだ新しいタイプの社殿および境内がつくられる。残念ながらその全体を示す写真がないが、すでに内地で1940(昭和15)年に竣工していた近江神宮(滋賀県)や橿原神宮(奈良県)がほぼ同様の空間構成を持つので参考に掲げよう(図7・8)。先にあげた関東神宮や扶余神宮も、大きくは同じ型に属す。

 台湾神社改築の工事は、日本人・台湾人民衆の勤労奉仕を大量に動員して、1944年秋までにほぼ完成をみる。ところが、遷座祭を数日後に控えて、旅客機の墜落により社殿を焼いてしまう。このニュースは内地にも伝えられたが、翌日の『朝日新聞』をみてもその扱いはまことに小さい。不吉な徴として忌避されたに違いない。

 ついに竣工することのなかった二代目台湾神社の設計は、台湾総督府の技術者たちによって行われた。伊東忠太の名も、創建時設計者への敬意からか、いちおう顧問格に並んでいる。しかし、実質的な指導者だったのは、神祇院(情報局設置と同じ1940年に、内務省から外局として独立)の造営課長、角南隆(1887-1980)だった。角南と彼の傘下の組織的コネクションがつくり出した神社については、その特質を論じたことがある★4

 まず機能主義。祭典にかかわる人々の動作がスムースに演出され、かつ膨大な参列者が祭典の成り行きの一切を見守れるよう、社殿と境内の空間構成が検討された。神社はいわば劇場として捉え直されたのである。この明確な目標の下で、プランの標準型とバリエーションが開発されていった。なお、戦時期には各府県や植民地で一斉に護国神社が整備されたが、これは神話上の神でも天皇・皇族でもなく、膨大な数の戦没者、つまり一般民衆を神として祀る神社であり、遺族や兵士など均質な群衆を数千人のオーダーで集めることが必要な施設であった。この護国神社には、「コ」字型平面で群衆を抱え込む、一種の標準プランが用意されていた(図1)。

 しかし一方で、神社は建てられる場所から自然に生え出たようなものであるべきだとする一種の自然(じねん)の論理を、角南は繰り返し主張した。実際には、地域の建築的特徴が調査・採取され、設計に積極的に採用された。

 角南の思想にあっては、こうした論理は海外にもまったく同じように延長されるべきものであった。プランは地域に左右されないが、たとえば満洲ならば鎮守の森など不要で、土の壁で囲まれた閉鎖的で構築的な社殿をたちあげ、防寒の設備を施し、凍り付いてしまう手水のかわりに清めの香を焚くのがよい、というのが角南の考えだった。実際には保守的な政府や軍部の賛同を得るのは容易でなかったようだが、朝鮮江原道に、社殿様式をことごとく朝鮮建築風とし、床にオンドルを用いたという江原神社(1942、図2)がつくられ、これは、扶余神宮(前出)など後続の神社の実験台として想定されていた。

 戦時下にこうした思想が官僚機構の内部に確立され、しかも実現に移されていたことは実に興味深い。これは従来ほとんど知られてこなかった事実と言ってよいが、40年代論のみならず、日本の近代建築史全体にとっても重い意味を持つのではないか。

 1944年といえば、浜口隆一のデヴュー論文「日本国民建築様式の問題」が発表された年でもある。浜口はこの論文のなかで、ウィーン学派の始祖アロイス・リーグルなどを参照しながら、西洋の構築的な建築のあり方から、日本本来の行為的な建築のあり方へと我々の「建築意欲」をシフトすべきだとした。人々の行為が自ずと規定し生成させていく空間。角南らの神社は、「行為的空間」に通ずる志向性を持ちながら、モニュメンタルな形式性を同時に求め、しかも具体的な建築がたちあがるプロセスには地域の特性があずかって力を発揮するべきだと考えた。機能性と形式性と、そして地域によって姿を変える驚くべき柔軟性。そのすべてを肯定する角南ら技術官僚たちの方法は、前川国男の「苦渋」をらくに飛び越えて新しく、強靱であり、むしろ若き丹下健三のそれに近かった。

●何が遺されたか

 さて、国家神道体制そのものは、GHQによって間もなく解体される。しかし表向き野に下った角南も神社界との結びつきを維持し、官民にわたる戦中期の彼のコネクションもほぼそのまま戦後に生き続ける。護国神社のプランも、戦没者の遺族という社会的集団が残る以上、そのコンセプトを改める必要はなく、むしろ戦後復興期には同じ方向で洗練すらされていく。

 一方、旧植民地に遺された神社境内はどうなったか。ごく一部の例外をのぞき、建築はやはり失われている。しかし、雛壇状の地形や石段、燈篭などが残るケースは意外に多く、脱植民地下の地域環境のなかで場所の機能や意味を転じている。それは、「植民地とは何だったのか」という問題に対する人類学的あるいは社会学的なアプローチの素材たりうる。いずれ機会をあらためてレポートしてみたい。

1 日本建築学会編『建築学の概観(19411945)』(日本学術振興会、1955)などが参考になる。

2 植民地の神社造営については、青井哲人『神社造営よりみた日本植民地の環境変容に関する研究-台湾・朝鮮を事例として-』(京都大学博士論文・私家版、2000年)を参照。

3 忠霊塔については、井上章一『アート・キッチュ・ジャパネスク』(青土社、1987)の検討を参照されたい。忠霊塔では設計競技そのものが国民的イベントとしてファッショ的宣伝効果を持ったことが指摘されている。また、本稿の冒頭にふれた戦時体制と建築のかかわりについても同書は示唆するところ多い。

            なお、少なくとも現時点では同書を踏まえずに40年代論を考えることは不可能だろう。ありうべき40年代論は、井上の帝冠様式-キッチュ論を抱え込んだうえで日本様式論を発展させるか、従来のような視野の狭い「建築家の軌跡」的史観を離れて40年代的テーマを多角的に掘り下げるしかないだろう。神社の問題は、その双方に接続する批評的なテーマたりうるように思われる。

4 青井哲人「角南隆-技術官僚の神域」(『建築文化』20001月号)

1 日本建築学会編『建築学の概観(19411945)』(日本学術振興会、1955)などが参考になる。

2 植民地の神社造営については、青井哲人『神社造営よりみた日本植民地の環境変容に関する研究-台湾・朝鮮を事例として-』(京都大学博士論文・私家版、2000年)を参照。

3 忠霊塔については、井上章一『アート・キッチュ・ジャパネスク』(青土社、1987)の検討を参照されたい。忠霊塔では設計競技そのものが国民的イベントとしてファッショ的宣伝効果を持ったことが指摘されている。また、本稿の冒頭にふれた戦時体制と建築のかかわりについても同書は示唆するところ多い。

            なお、少なくとも現時点では同書を踏まえずに40年代論を考えることは不可能だろう。ありうべき40年代論は、井上の帝冠様式-キッチュ論を抱え込んだうえで日本様式論を発展させるか、従来のような視野の狭い「建築家の軌跡」的史観を離れて40年代的テーマを多角的に掘り下げるしかないだろう。神社の問題は、その双方に接続する批評的なテーマたりうるように思われる。

4 青井哲人「角南隆-技術官僚の神域」(『建築文化』20001月号)

図版キャプション

図1 台湾護国神社の例祭

『台湾日日新報』より

図2 江原神社の神門・手水舎

『朝鮮と建築』より。木部を朱塗りとし、朝鮮瓦を葺いた。社務所にはオンドルが採用されたという。

図3 灯火管制マニュアルの一例

『写真週報』より

図4 空襲警報発令時の行動マニュアルの一例

『写真週報』より

図5 建物疎開古材を使った地下工場建設の提案

『写真週報』より。この後屋根を葺いてから、土を被せて地下工場とする。

図6 新京忠霊塔の大祭

『満洲の記録』(集英社、1995)より。満映フィルムの映像。茫漠たる空間を膨大な数の群衆が埋め尽くしている。

図7 近江神宮の境内平面図(一部)

『官幣大社近江神宮御造営写真帖』(1944)より。

図8 橿原神宮の境内


青井哲人

1970年生まれ。’92年、京都大学工学部建築学科卒業。95年、同大学院建築学専攻博士課程中退。神戸芸術工科大学助手を経て、現在日本学術振興会特別研究員、近畿大学・京都造形芸術大学・神戸芸術工科大学非常勤講師。

共著:「アジア建築研究」(村松伸監修、INAX出版)など。

論文:「神社造営よりみた日本植民地の環境変容に関する研究」(京都大学博士学位論文・私家版)など。

0 件のコメント:

コメントを投稿