このブログを検索

2021年12月23日木曜日

室内室外 09こんなコンペなら無い方がまし,室内,工作社,199005

 こんなコンペなら無い方がまし,室内,工作社,199005

公共建築はなぜ駄目か 

                            布野修司

  今回はいささか支理滅裂である。今回も、というべきか、いささかでいいのか、よくわからない。屈辱的な思いにかられながら、その怒りを誰にぶつければいいのか、考えがまとまらないまま筆をとったところである。予感としては、またしても天に唾することになりそうだ。

 今年になって早々、ある市のある公共建築の建設のためにコンペ(設計競技)が行われ、様々な経緯があって審査員を引き受けることになった。屈辱的な思いは、その顛末の故にである。最初の打診の段階でいったんは断わったのであった。断わっておけばという後悔の念が強い。しかし、断わっていたとするとこの原稿はもう少し気楽に書けたかもしれない。そう思うとまず複雑である。

 最初の段階で断わった理由は、まず、あまりにも指名料が安いからである。そして、あまりにも設計期間が短いからでもある。総工事費十数億円の建築の設計案を求めるのにも関わらず、設計者に対する指名参加報酬がたったの六〇万円である。設計のプログラムを提示されて、設計案を提示するまでがわずか一ケ月である。こんな馬鹿なことはない。心底そう思って即座に断わったのである。

 というと格好いいのであるのであるが、実際格好つけたのである。これほどひどいとは思わなかったけれど、そうした実態があるのは聞いて知っていた。だから、もう少しどうにかならないのか、こんな条件では審査員やるのも格好悪いと格好つけたのである。

 聞けば、これでも精一杯だという。この市では、コンペをやるのは二度めで、最初の体育館の場合は、指名参加料は三十万円だったのである。これじゃああんまりだというので、事務局としては百万円を要求したのだけれど、議会で六十万円に削られたのだという。慌てて各地のいくつかの自治体に確認してみると呆然である。どうもこんなものらしいのだ。

 設計期間については、自治体の場合、予算年度があって、実にどうしようもない。決まるのが遅く、年度内に執行しなければならない。そのくせ、年度末になると、予算消化のためにそこら中の道路をほじくり返すのである。腹がたつ。長期的なプログラムは、選挙のサイクルもあってたてにくい。日本の地方自治と公共建築は、拙速を尊しとする、そんな仕組みの上に成り立っているのである。

 問題はもちろん以上の二点だけではなかった。誰を指名するのか、審査員の構成はどうするのか、という問題がある。さらに最も重要なのは、どういうコンペとするか、建築の内容、プログラムをどうするかである。今回の場合、結果的に何もタッチできるわけではなかった。いろいろ意見を言おうにも、時間がまったくないのである。

 誰を指名するのか、というのは指名者の勝手といえば勝手である。指名者というのは、この場合、市民を代表する市長ということになろうか。しかし、指名者の勝手であるとすれば、なにもコンペをやる必要はないのだ。はっきり言って、僕はコンペ主義者ではない。とにかくコンペをやればいいのだとはとは決して思っていない。疑似コンペならやらない方がいいのはあきらかだろう。匿名のほうがすっきりする。事実、こんな条件であれば、指名コンペより匿名のほうがいいのではないか、指名料や審査員料を含めたコンペの費用を基本設計料に回したほうがまだいいのではないか、という意見を述べた。問題は、いい建築をつくることであって(いい建築とはなにか、誰にとっていい建築なのかが常に問題なのだけれど)、手続きの公正さを装うことではないのである。

 今度の場合、指名者は指名願いの出ている業者から選んだという。この指名願いというのがくせものである。設計者の側から言わすと、出入り業者を選んでやるという感覚である。全国三千数百の自治体があるのである。設計者がすべての自治体に予め指名願いを出しておくのは不可能だ。いちいち出向かなくてはならないのである。断わって置くけど、僕自身は、地方のことをよく知りもしない中央の建築家が地方の仕事をするより、むしろ、タウン・アーキテクトというかたちで各地にすぐれた設計者が生活している方がいいと思っている。しかし、指名についてはもっとオープンであっていいではないか。人口数万の市に常にすぐれた設計者がいるとは限らないのである。仕事を秘かに配ってやるという感覚ではなく、日頃から各自治体のことを考えてくれる設計者を育てていく姿勢がむしろ必要なはずだ。指名の条件はというと、実績という。実績とはなにか。これまで、そうした規模の工事を手掛けたことのある設計者でなければならないとすると、若い設計者に公共建築の仕事の機会は永久にない。組織事務所だけがその対象とされるのが一般的である。しかし、口をすべらして言うと、こうしたどうしようもないシステムの上に安住(?)しながら、実態としてはおそらく文句を言えずに、くだらない(?)公共建築を設計しつづけているのはむしろ組織事務所なのである。短期間に仕事を流す感覚で指名コンペに参加する業者(これは業者である)が大問題なのだ。

 審査員の構成については、過半数は建築家とするというのが新日本建築家協会(JIA)の原則である。ほんとに、そう思う。しかし、あわてて脱線すれば、建築家とは何か、が問題である。新日本建築家協会であれば、その会員が過半数とすればすっきりするだろう。しかし、そうはいかない。僕にいわせれば、そんなことを言いながら、会員の多くがその条件に合わない指名コンペに参加しているような協会なんて信頼は置けない。「建築家」については、かねてから、「施主と施工者の間にあって施主の利益を養護する」というプロフェッションの理念やフリーランスのアーキテクトの理念が、現実的には多くの場合破綻しており、そうした幻想を振りまいてきたことが事の本質を覆い隠し、欺まんをはびこらしてきたことにおいて、むしろ有害だと思ってきた。しかし、多数決で決めるのであれば、「建築を理解するもの」(?)が少なくとも過半数いるべきだと思う。このあたりから頭はますます混乱してくる。

 具体的に審査の様子を書いたほうがいい。以上のような問題が事前にわかっていたにも関わらず結局審査員をなぜ引き受けたのかは言い訳になる。できるだけ指名料に見合うよう(?)設計者の負担を軽くし(模型の作成や過度のプレゼンテーションを求めない)、プロポーザルに主体を置くコンペとするという条件が受け入れられたことと、以上のような問題点を審査の席で指摘してもらわないといつまでも変わりません、というひとことにふとその気になったのである。

 三案あった。五社指名したのだけれど二社は辞退したのだという。建築界は忙しすぎるのか、あまりの条件に拒否したのか、後者であれば救いである。困った。三案とも建って欲しくないのである。三案を見て瞬間に思ったことは、過去のコンペの不祥事である。審査員長が結局実施設計をしてしまった例とか、規定違反の作品が選ばれたりという例である。建って欲しくない案は阻止すべきだ、という悪魔のささやきが聞こえたのである。

 しかし、もちろん、阻止する程、度胸があるわけはない。審査員を引き受けたからには次善の策を選ぶしかない。これは、比較的たやすかった。建築的なまとまりという点で、破綻が少なく、また、面接における柔軟な対応能力をみて、まあ選んでもいいというのが一案だけあった。後は駄目である。学生の製図でも、少なくともわが大学では絶対「優」はつけない。しかし、屈辱的な結果は、僕がこれしかないという案が多数決で圧倒的に敗れたことであった。 

 もちろん、その結果を云々しようとは思わない。その点は、自らの意見を説得力をもって展開できなかった僕の批評家としての能力を恥じるしかない。全面的に押せる案がなく、発言に迫力が欠けたことも事実である。しかし、それにしても、「どの案でも一緒なんですよ」、「予算内で管理がしやすければいいんです」、「三階建ては駄目です」、「○○は、絶対一階でないとだめです、それは○○学の常識です」、「平らな屋根は雨が漏るから駄目です」、もうのっけから有無をいわさぬ断定的な、以上のような発言が相次ぎ、うんざりなのである。

 しかし、問題は、どの案でも一緒だと平気で言うような、建築を理解しない審査員が多かったということだけにあるわけではない。公共建築の設計が実にイージーに決定されていくプロセスと仕組みに今さらのように驚くのだ。恥ずかしながら、僕は、戦後公共建築の設計に大きな影響を与えたとされる研究室をでた。しかし、これは何なんだ。学校、病院、図書館、等々、建物種別にモデルとなる案は提案されてきたかもしれない。しかし、公共建築の設計が決定されるプロセスについては、ほとんど、手つかずではないか。一体、先輩達は何をしてきたのであろう。標準設計という思想がそもそもこのシステムと無縁ではないのではないか。設計者も設計者だ。黙って、このシステムを容認し続けるのか。審査員の先生方もそうだ。イージーに決定されるプロセスに安易にも偉そうに参加し続けていらっしゃるのではございませんか。



室内室外

01公開してはどうかコンペの審査記録,面白いのは決定までのプロセス,室内,工作社,198901

02語りのこされた場所「皇居」,昭和が終って浮かんできたもの,室内,工作社,198903

03国際買いだしゼミナ-ル,建築見学どこへやら,室内,工作社,198905

04博覧会というよりいっそ縁日,建築が主役だったのは今は昔,室内,工作社,198907

05山を見あげて木をおもう,どうして割箸なんか持ちだすの?,室内,工作社,198909

06住みにくいのはやむを得ない,そもそも異邦人のための家ではない,室内,工作社,198911

07建築の伝統論議はなぜおきない,日本の建築界にもチャ-ルズがほしい,室内,工作社,199001

08職人不足はだれのせい,室内,工作社,199003

09こんなコンペなら無い方がまし,室内,工作社,199005

10宅地は高いほうがいい,室内,工作社,199007

11秋田杉の町能代を見る,室内,工作社,199009

12再び能代の町に行ってみて,室内,工作社,199011

0 件のコメント:

コメントを投稿