歴史の渦の中で 日本の近代建築 空白の10年!?・・・建築の1940年代、ひろば、2001年3月
孤高の建築家あるいは虚構の建築家 - 白井晟一の視界
1941年 白井晟一 嶋中山荘
山田協太
1.曖昧な建築
嶋中山荘は軽井沢に中央公論社社長、嶋中雄作の別荘として建てられた。一面白の壁面を持ち上に茅葺屋根をのせた平屋寄棟造のつつましい作品であり、かわいらしい民家のように見える。しかし時は1941年。白壁はモダニズムをあらわす当時の先端だったことをふまえるならば、それがどうして茅葺民家風の造形とつながるというのだろうか。
内部のプランニングを見るとき、その困惑はいっそう増すことになる。民家型の外観とは裏腹に内部は和風の構成をとるでもなく、かといってモダニズムの直線を強調するプランニングでもない。洋室と和室がまさに詰め込まれたといった風情で配されている。各室は同じ縮尺とは思えないほど大きさがいびつで、室と室の境界はことごとくゆがめられている。ユーティリティーは北側の突起部に収まらずだらしなく主屋まで広がっているし、第一、木構造だというのに柱の立つラインが不明瞭である。嶋中山荘はモダニズムの建築ではないし、いわゆる日本の様式と呼べるようなものでもない。見ていてすっきりしないとらえどころのない建物である。茅葺と壁面の曲線を見て一番しっくりくるのはむしろ表現主義かもしれない。しかし、嶋中山荘では全体として単純な形態をとっているが各室が外観に表出することはなく、表現主義の主要な傾向ともいえる、内部の各要素を外観にそのまま表出させようとする意図は微塵も感じられない。嶋中山荘の持つ曖昧さは表現主義といってもうまく説明できない。嶋中山荘をとらえる鍵は一体どこに求められるのだろうか。その手がかりを戦前の白井の作歴に求めてみたい。
2.白井の住宅に遍在するもの
白井が初めて建築に携わったのは1935年、義兄近藤浩一路の住宅設計においてであった。当時白井は建築の本格的な修練を積んでいなかったため、住宅の設計は近藤の知りあいの建築家平尾敏也の支援のもと進められた。学生時代から、哲学や運動を通して政治と現実が結びつく場を求めてきた白井にとって、平尾を通じての建築との出会いは決定的なものとなった。以後、白井の建設現場への執着には驚くべきものがあり、建設の際に決まって現地にとどまり、現場の工事から建築を徹底的に学びとるという作業を繰返した。
平尾が英国式住宅の専門家であったため、その補佐を得て西洋式住宅として河村邸を完成させた白井は、二作目の歡歸荘(1937)でも西洋様式を基本とした建築に取り組んでいる。この住宅では奇妙なことに、小さなヴォリュームのなかに東側から順にレンガ造、木造の上から白壁塗り、木と白壁のハーフティンバーという3つの異なる様式が並列するかたちで結合されている。プランは1階が主に和室、2階が洋室であり、外観にあらわれる三つの様式は室の性格とは無関係に決められている。さらに和室がレンガ造の部分にあったり、1つの室が異なる様式にまたがるなどしており、内部と外観は連動していないことがわかる。細部に至っては奇妙な点を挙げればきりがないが、極めつけは北壁面にくりぬかれた、上部の屋根を変形させるほど巨大なアーチ窓であり、ここにいたって歡歸荘はもはや何の様式とは呼べないものとなっている。
振り返って河村邸について当時の雑誌※1を読んでみると「今迄の洋館とか日本館とか茶室とか云ふ純粋さはなく共「近藤浩一路氏を中心とした生活の家」として完全なものであると信じる。」と述べられており、玄関はレンガ造、主屋の他の部分は木造に白い大壁、それに木と白壁によるハーフティンバー造というふうに、この住宅もで何の様式というのではなくさまざまなつくりが折衷されていた。内部には障子が使われている部分や一部和室があるなど、こうした「日本館」的なものも「茶室」の手法も、「台所に於て朝食等簡単なる食堂に兼用さる」といった当時の文化的生活の場面を手がかりに「浩一路氏を中心とした生活」を主眼として組みあげられていた。
続く近藤浩一路旧邸(1940)で白井は一転して日本的な様式を採用する。しかし純粋に伝統的な日本の様式を採用するのではなく(そもそも純粋な日本の様式というもの自体疑わしいが)、大壁による大きな壁面やガラスの一枚板を用いた開口部の簡略化などに見られる簡明さの追求、構成要素の単純化はむしろ吉田の新興数寄屋の試み※2に近いといえる。そして全体が数寄屋風の外観をとりつつ内部には洋間が包摂されている。こうした日本様式とモダニズムを混ぜ合わせる試みは関根邸(1941)でも踏襲された。
1941年、嶋中山荘と同時期の清沢山荘では施主の要望が強く、思うように仕事ができたかは疑問だが、白井は大胆にも建物外観の東半分が構成主義的な雰囲気を持つ日本様式の漆喰真壁で西半分が彩色されたアメリカ風の板張壁という住宅をつくっている。構造的には分裂したまま、棟のずれにも頓着せずに白井はいとも簡単に2つの様式をつぎはぎしてみせる。プランを見ると、和風の外観を持つ部分の内部に板張りの書斎があるなどやはりここでも内部と外観とは一致していないのである。
こうした流れのなかで嶋中山荘はつくられたわけだが、今までの実作を振り返ると白井の住宅には共通して3つの特徴がみられる。1つには、白井は建築の内部と外観の関連に無頓着であるということ。2つ目は内部にしろ外観にしろ時代に関わらず様式というものの一貫性を重要視していないということ。そして最後に、建物はそれが使用された文脈を無視した、断片化した様式のつぎはぎからなるように見えるということである。
3.生活世界全体としての建築
しかし嶋中山荘を読み解くにはまだ手がかりが不足している。鍵は1956年に書かれた「豆腐」※3という文章にある。
その中で白井は、「かく「用」は「常」と善において一体となることを示唆する」と言う。
ここで「用」とは「体系をもって直接生活にとけている」ものであり、「常」とは「日々の生活」を指し、「善」は「永続性のある普遍な」原理といいかえることができる。多少乱暴にいうと、日々の生活に永続性のある普遍的な原理が見いだされるときにはじめて生活の中に直接とけている完全な体系=「用」が実現されるということである。「用」は美も機能も、論理もすべてをその体系の中に含みこむという。「用」とは生活世界全体を構成する体系そのものである。そして白井が「地方の建築」※4において「建築すなわち生活なのだから」というとき、それは直ちに、建築は日々の生活の中から普遍的な原理=「善」をすくい取ることによって生活世界全体を構成する体系=「用」となりうる、ということを意味する。そしてまた、「善」は頭ではとらえられず、「理性は不可欠でありながら、しかもつねに不十分」であり、「用」とはわずかに「経験と習慣を超え」たところにある「生活意志」にあらわれるのであるならば、いかにして建築を生活の中に直接とけている完全な体系=「用」たらしめることができるのだろうか。白井はそのことについてはっきりと述べてはいないが、白井が建築に取り組む姿勢、そこに顕著な現場への執拗なこだわりを見るにつけ、建築が「用」に到達できるとすればそれは「融通無碍の原型」たる日々の生活の現場から「生に順応する尺度」たる生活意志の幻影をすくい取りそれが普遍的原理に至る強度を持ちうるものであるのかを繰り返し試し続けるしかないように思われる。そして白井は言う「概念から逆算されるコンパス・モデュロールと異なり生活の意志は作為をかりず、「用」の中から純粋な均衡を生む」と。以上の観点を総合すると、これまでの住宅に共通して見られる3つの特徴の意味、白井の目指していたことが明確に理解される。白井が目指していたのは建築を生活世界全体を構成する体系=「用」と一体化させることであり、そのために有効なのは生活の中で「用」とかみ合う手段なのであって、様式を現実に照らすことなく演繹的に適用することは全く無意味なことであった。であるから白井の建築ではさまざまな様式が通常では考えられないような仕方で、易々とつなぎ合わされたわけである。白井は断片化された手段のつぎはぎによって建築のあらたな姿をつくり出そうとしていた。建築と「用」との同一化を成し遂げるために様式を一旦分解した後、有効と思われる手法のみを生活に即して統合しなおすことは白井にとって必然の過程であった。そして生活世界全体の体系化を使命とする建築にとって、外観(それは構造から導かれるものであり構造は内部を拘束する)とは生活世界たる建築をアプリオリに規定する無意味なものでしかなく、互いに「矛盾する両方の要求」をつなぎ合わせなければならない建築にとって内部と外観が一致することにいったいどのような整合性があるというのだろうか。
4.「用」への挑戦
嶋中山荘はそのような白井の建築観の一つの帰着点といえる。あらゆる活動に統制が加えられ先行きのわからない日々の中で、意を決して白井はモダニズムを民家風の容貌に託すことによりこれと日本的なものとの統合を果たし、建築による生活の全的体系化に挑んだのではないか。見方によっては、清沢山荘では和と洋の形式が水平に並置されたのに対し嶋中山荘においてはそれが垂直に積み重ねられていたといえるかもしれない。モダニズムの多くの建築家がプランニングの率直な表出による内部と外観の一致、直線によるプランニングのシャープさを追い求めていたのに対し、嶋中山荘における「箱形」、「白い壁」、「連続窓」といった表層的な要素だけが全く異なる文脈で民家の形態につぎはぎされ、サッシュの太さなどディティールの甘さも白で塗り隠せば大丈夫といわんばかりの造形を目のあたりにすると、思わず白井はどの程度モダニズムというものを理解していたのだろうかと愕然としてしまうが、歡歸荘で3種の西洋様式を平然と繋ぎあわせ、清沢山荘では日本の様式と西洋の様式を並置してみせる白井にとって、多少のディティールの甘さや文脈の無視など一体なんだというのであろうか。
嶋中山荘では外観はかつてないほど統一された形態を示し、一方プランニングも洋室、和室をはじめ、室同士の接続部が極端に肥大化することによって、相互の融着を果たしている。そして、それぞれの室が白井の思い入れに連動するかのように肥大化あるいは縮小化し、通常あり得ないような比率を見せながら相互の結合を促進し、内部を移行する者に一つの物語を感じさせる予感をはらむとき、そこからは白井が嶋中山荘にかけた明確な意志、「用」の無垢な原型である日々の生活=「常」の中から「用」の幻影を見いだすことによって生活世界を体系化しようとする決意が伝わってくる。白井は生活の中から普遍性を持って体系化された物語を紡ぎだそうとしていた。
しかし、一なる形態として明確な形を保ち続ける原理が内在していない限り、生活からすくいだされた幻影を詰め込むことによって肥大化あるいは縮小する室同士が融着してできる系では、それぞれの室は互いに自律性をもって変動し、全体としてはもはや制御不能に変形・膨張を繰返す他ない。形態を決定しているのは外形という枠をあたえる、民家風茅葺屋根と白い壁による外在の恣意的原理であり、白井は自身が育て上げた系を建築として現実の世界に定位するにあたって窮極において外からの原理に頼らざるを得なかったのである。嶋中山荘は内部からの膨張力と、それを封じ込める外部からの拘束力との衝突の上に生み出された、一つの統一された系としては成立し得ていないアンビバレントな存在である。嶋中山荘で白井に突きつけられたことは内部と外観の統一が図られない限り普遍的「用」には達し得ないということであり、白井は未だ内在的な統合の原理を持ち得ておらず、結局は自身が拒絶していると思っていた概念的な規定に頼って建築を形づくっていたということである。嶋中山荘は時代にせかされた、あまりに早産な子供であったのかもしれない。白井の試みは脆くも砕かれたのであるが、内部から膨張する生活世界は外観という建築を外から規定する最後の表皮にまで肉薄し、白井は嶋中山荘での矛盾によって自身に不足していた系全体を形成する普遍的な原理である、「善」たりうる内在的な秩序としての構成(構造を含み空間全体を組み立てる体系。モデュールと言い換えることもできるだろう。)を発見するのである。ここにおいて構成はアプリオリなものではなく生活世界全体とつながった内在的で普遍的な構成手法となった。戦後の白井の帰趨は『布野修司建築論集Ⅲ 国家・様式・テクノロジー』※5に詳しいが、戦後白井はまるで自由な手足を得たかのように、一連の住宅を通して構成を「善」として生活世界全体の体系たる「用」を検証・探求してゆく。「華道と建築 日本建築の伝統」※6において建築の構成自体を強調し、「日本の建築の仕事は構成そのものに美的効果を内在させることであり…」付け加えたものである装飾の意味と役割を要求していないと表明することによってその端緒を見せ、「試作小住宅」※7において自身が手がけた建築を、「この構造・衣裳を一体とする「システム」」と言いあらわすとき、1950年代前半の一連の小住宅で構成による「善」の獲得を確信した白井にもはや迷いはない。嶋中山荘は白井にとって重要な転換点であり、白井はその相矛盾する不安定な静寂の中で、外的規定によって建築を形成するという、自身に内面化された偽りの「善」を暴き、不完全な「用」を償却したのである。嶋中山荘には、白井の未だ自覚し得ない「用」の姿が眠っていた。
5.「用」は実現されたのか
白井は構成を手に入れることによって各要素を自覚的に結合して体系化する手法、いうなれば物語を建築に持ち込む手法を見いだした。そのような手法が建築界で一般化するのはポストモダンを待たねばならなかったことを考えるならば、白井と教条主義的なモダニズムを追求する当時の建築界の間に距離が生じるのはいわば必然であったといえる。白井が孤高の建築家と呼ばれる所以である。
しかしそれは白井が「用」に達し得たということとは別の話である。確かに戦後白井がつくり出す建築は破綻なく整っているが、同時に表現に切実さがなくなり、時に意図することが目につき付加的な操作と感じられる危ういものではなかったか。戦後‘孤高’という位置に据えられた、白井の「用」に対する姿勢には油断がなかったといえるのか。自覚的な体系化と「用」は紙一重であるが、恣意的な操作は「用」とは相容れないものである。そして「用」の理論によるならば、自覚的操作は生活世界に育まれたものであることによってのみ恣意性から脱し得るはずである。後の白井が生活世界から離れて日本的特質、伝統的なるもの、あるいは純粋・本質・根茎に対する探求の色を強めてゆくとき、それは果たして「用」へ向かっての表現の成熟であったのか、それとも恣意的な観念性に凝り固まってゆく自壊の過程であったのか。そこでは窮極において、戦後の白井とポストモダンの建築家とを隔てる違いは存在するのだろうか。これらの疑問は非常に興味深いものであり、その考察はまたの機会に試みたい。
※1『建築知識』(1936年5月号)近藤浩一路氏邸
※2数寄屋における近代的な簡明性の獲得を目標とした吉田は1935年に書かれた論文「近代数寄屋住宅と明朗性」で大壁を採用することによる構造と表現の分離を主張し、構造としての柱は壁のなかに隠し表現はもっぱら表の壁面でおこなう近代数寄屋の道を開いた。
※3「豆腐」『リビング・デザイン』(1956年10月号)
※4「地方の建築」『新建築』(1953年8月号)
※51998年、布野修司著。戦後の白井晟一、丹下健三、西山夘三、前川國男ら著名な建築家の動きを追うとともに、運動としての昭和建築の全貌を明らかにしようとする。自身の建築論をまとめた3部構成からなる著作の最終部。
※6「華道と建築 日本建築の伝統」(1952年5月)国学院大学華道学術講座における講演
※7「試作小住宅」『新建築』(1953年8月号)
0 件のコメント:
コメントを投稿