このブログを検索

2021年12月2日木曜日

大東亜建築様式  1942年 丹下健三「大東亜建設忠霊神域計画」 歴史のうずの中で 空白の10年!? 建築の1940年代

 大東亜建築様式   1942年 丹下健三「大東亜建設忠霊神域計画」 歴史のうずの中で 空白の10年!? 建築の1940年代,ひろば,200104


 大東亜建築様式   1942年 丹下健三「大東亜建設忠霊神域計画」

                                    布野修司

 

   太平洋戦争に突入した日本は、この年戦線を南方へと一気に拡大する。前年128日の真珠湾攻撃と英領マラヤ、コタ・バル奇襲作戦によって英米戦艦群に大打撃を与え、太平洋の制海権、制空権を掌握すると、1月2日マニラ、2月15日シンガポール、3月8日ラングーン、9日ジャワと破竹の勢いで占領する。6月のミッドウエイ海戦、8月のガダルカナル海戦以降、後退戦を強いられていくのだが戦況は伏せられた。占領地は次々に地図上で赤く塗られ、日本の領土がアジアに拡大していくイメージが共有された。11月、大東亜建設の遂行を目的とする大東亜省が発足する。大東亜共栄圏建設の理想が戦争遂行を支え、「欲しがりません勝つまでは」と国民意識が大いに昂揚したのが1942年である。

 この年建てられた伊東忠太の俳聖殿については既に触れた1。見るべき作品はそうない。坂倉準三の飯箸邸、今井兼次の航空碑、吉田五一八の青木邸などが数えられるのみだ。東京市内の大工がバラックの建設訓練を行い、各住戸の窓ガラスの補強検査や灯火管制時の住宅換気方法が問題になる時代である。いささか意外な気がするが、関門海底トンネルがこの年開通している。この年を代表する作品となると、やはり丹下健三の「大東亜建設記念営造計画」案だろう。

 

 南方建築ブーム

 『新建築』は、2月号から「南方の建築」という連載を始める。また、「南方建設へ」というコラムを開始している。「泰国の寺院と塔 バンコック・アユチアの古寺」「浮屋と高床家屋のデテール・チェンマイの家」「アンコールの建築装飾・チャムの建築」「ジャワのボロブドウル仏蹟」「バリー島」といった記事だ。南方への戦線拡大が、南方建築への関心を沸き立たせたのがよくわかる。『建築世界』も7月号を南方建築特集号とし、9月号からは南方圏グラフを連載している。『建築と社会』には大東亜建設をめぐる記事は比較的少ないが、それでも「「南方事情を語る」座談会」(3月号)などが組まれている。

日本建築学会の『建築雑誌』は、大東亜建築グラフ(フィリピン篇8月号、マレー、スマトラ、ジャワ、バリ篇9月号)を掲げ、記事も南方建築、大東亜建設一辺倒の感がある。とりわけ9月号は「大東亜共栄圏に於ける建築様式」という座談会、大東亜共栄圏に於ける建築的建設に対する会員の要望(投稿及回答)を含め、「大東亜建築様式育成の一案」(年岡憲太郎)「大東亜建設の根本理念」(笹森巽)「大東亜建築の指導理念」(山田守)「南方共栄圏建設の構想」(大倉三郎)といった記事がずらっと並んでいる。この『建築雑誌』の「大東亜建築特集」は繰り返し読まれるべきだ。建築と政治、建築と国家、建築と民族・・・建築表現の根源に関るテーマが多くの建築家によって考えられ、語られている。最後に見よう。

 

「大東亜建設記念営造計画」コンペ

  全国民の眼が南方に注がれ、南方建築への関心がる中で、日本建築学会は大東亜建設委員会(佐野利器委員長)を設置する(3月)。そして、第16回建築学会展覧会を日本橋高島屋(11月4日~8日)を皮切りに、広島、福岡、大阪、名古屋の百貨店を巡回する形で行う。大東亜共栄圏の具体的な建設は建築家の任務である。展覧会は「恰も大東亜戦争の赫々たる戦果に伴って我国威が南方へ弥が上にも大発展を遂げた。この現実の問題に対し、建築技術を通じて大東亜共栄圏建設と云ふ曠古未曾有の鴻業に翼賛せんとするの意図を以て計画」されたのであった。

展覧会第1部のテーマは「南方建築」で、南方建設に携わるものが知悉すべき事柄として「一般統計」「気象統計」「宗教建築」「民家」「現代建築」という分類に従って展示がなされた。第2部は会員作品、そして、第3部が設計競技「大東亜建設記念営造計画」応募案の展示であった。

展覧会の背景、その意図は明らかであろう。設計競技を情報局が後援したのも翼賛体制確立のための情報宣伝活動の一環と見なしたからである。南方建設は具体的な課題としてあり、南方事情を探求する必要があった。そして、もうひとつ大きなテーマとされたのが大東亜の建築様式をどう考えるかであった。

設計競技は、「大東亜共栄圏確立ノ雄渾ナル意図ヲ表象スル」のであれば「計画ノ規模、内容等ハ一切応募者の自由」であった。応募者の中には30枚を超える図面を提出したものもいる。審査委員長は佐藤武夫。審査委員は、今井兼次、川面隆三、岸田日出刀、蔵田周忠、谷口吉郎、土浦亀城、星野正一、堀口捨己、前川國男、村野藤吾、山田守、山脇巌、吉田哲郎。川面は情報局からの委員で、病欠の堀口とともに二日(10月6日、15日)とも審査に参加していない。最終審査には村野も参加していない。最初の審査で入選佳作圏内19、B級20、C級24が選別された。応募総数は63である。

丹下の一等当選案は、富士山を左肩に仰ぎ見る霞たなびく山麓に神域を描いた透視図でよく知られている。「大東亜道路を主軸としたる記念営造計画:主として大東亜建設忠霊神域計画」というのが正式な名称だ。

 二等は、田中誠、道明栄次、佐世治正の「大東亜共栄圏建設大上海都心改造計画案」、三等は中善寺登喜次の「大東亜聖地の計画 富士山麓」、佳作に荒井龍三「民族の碑」、吉川清「忠霊の庭」、伊藤喜三郎、泉山武郎、金忠國「大東亜首都開門計画」、本城和彦、中田亮吉、薬師寺厚、小坂秀雄、佐藤亮「大東亜聖域計画」、百瀬保利「大東亜戦争記念祭典場」が入った。審査員の参考作品として、岸田日出刀の「靖国神社神域拡張並整備計画」、前川國男の「七洋の首都」、蔵田周忠の「或る町の忠霊塔」が展覧会に出品された。

 このコンペを含め戦前期の設計競技については井上章一の『戦時下日本の建築家』2が詳しい。井上の主張は、このコンペのこれまでの評価の否定(大衆性の欠如、時勢からの遊離)、丹下健三批判の不当性をめぐって執拗である。また、コンペの当落、建築におけるモダニズムとナショナリズムの抗争を学閥や学会内のミニポリティックス、正統と異端の葛藤を絡めて面白可笑しく書いて読ませる。この井上の論考については、「国家とポストモダン建築」3で触れた。ひとつだけ付け加えるとすると、坂倉準三、丹下健三というラインが何故モダニスト陣営から距離を置かれたかはもう少し掘り下げる必要がある。坂倉準三が事務所を拠点に国粋主義的文化人を組織し、西澤文隆らをマニラに送るなど具体的な文化工作運動を展開したことはこれまで必ずしも明らかにされていないのである。

 しかし、ここでの問題は丹下の応募案である。これをポストモダンの先駆けと見るか、モダニズムの挫折転向と見るかが争点である。後者が従来の見方であり、建築のポストモダンの時代に到ってその転倒を試みたのが井上である。

 入選佳作案をじっくり見よう。丹下健三案は確かに目立つ。ひとり切妻の大屋根を用い、しかも九本の鰹木風の突起がある。興味深いのは、ピラミッド状(四角錐台)のモニュメント案が二つある中で、丹下が「上昇する形、人を威圧する塊量、それらは我々とかかわりない」と書いて予め高塔形のモニュメント案を予想し、牽制していることである。「西欧の所謂「記念性」をもたなかったことこそ神国日本の大いなる光栄であり」「ピラミッドをいや高く築き上げることなく、我々は大地をくぎり、聖なる埴輪をもって境さだめられた墳墓をもって。一すじの聖なる縄で囲むことに、すでに自然そのものが神聖なるかたちとして受取られた」と丹下は主旨に記している。

 

  金的の狙い打ち・・・見事に外された核心

審査委員長を務めた佐藤武夫によれば、第16回建築学会展覧会のスローガンは「日本国民建築様式の創造的探究」であった4。前川國男を始め、日本の建築家が真摯に問おうとしたのがこの主題である。浜口隆一の論考「国民建築様式の問題」5が戦前期の水準を示している。大きな焦点は明らかに前川國男である。彼はこの「大東亜建設記念営造計画」コンペに自ら「七洋の首都」と題する超高層ビルの林立する首都計画を示している。しかし、その前川が、翌年行われた(1031日締切)在盤谷日本文化会館コンペ(1944年発表)には丹下様の切妻和風建築で応募(2等入選)したのである。

この転換、あるいは転向についてはあまりにもよく知られているから省略しよう。審査委員長を務めた伊東忠太の、平安神宮以降の150を超える作品を見ると実に様々である。築地本願寺や俳聖殿はむしろ例外といえるかもしれない。伊東にとって建築様式は自らの外にあった。帝冠様式は断固退けたが、それぞれの様式は採用しえた。しかし、内なる様式の一貫性に拘ったのが前川國男を代表とする近代建築家たちである。木造建築であれば勾配屋根となるのは自然だ。屋根の在る無しは枝葉の問題だと前川は当時書いている6。しかし、在盤谷日本文化会館コンペには国際主義的な手法をもって応募したものもいたのだから、前川の転換が転向と写っても致しかたない。事実そう見られてきた。

「大東亜建設記念営造計画」コンペとの違いについて指摘しておくべきは三点である。これは実施コンペであったこと、「我ガ国独自ノ伝統的建築様式ヲ基調」とし、チークを主要軸部構築材とする木造建築であったこと、そして、審査委員会が文化勲章受賞者伊東忠太を委員長とし、横山大観ら芸術院会員ら建築関係者以外を含む構成であったことである。

前川は「第16回建築学会展覧会競技設計審査評」7で、「創造一般が伝統よりの創造であるという命題」を掲げた上で二つの誤謬を予め問題にしている。すなわち、擬古主義の誤謬と「日本建築の伝統精神と謂われる材料構造の忠実な表現に出発する構造主義的所謂「新建築」」の誤謬である。そして、丹下案をこの二つの「錯誤を比較的自然に避け得られる「幸福な場合」であった」という。具体的にはこうだ。「歴史に確認されたる形」である「木造神社建築の母型」を「拠り所」とするが、「聳え立つ千木」も「太敷立つ柱」もなく「勝男木」は天窓に変貌しており、単なる擬古主義ではない。「神社は木造に限るべきもの」という意見もあるが、「祭の形式」が国民的規模で行われる将来には棟高60mの神社も可能である。前川の不満は、丹下が神社建築そのものを対象としたことで「今日日本建築の造形的創造一般のはらむ普遍的な問題の核心も亦相當見事に外らされてゐる」ことにあった。また、敷地計画、都市計画の全体の問題点については妥当な指摘をしている。丹下は前年前川事務所の作品として岸体育館を完成させたばかりであった。前川には心底はぐらかされた思いがあったのだろう。

「よく申せば作者は賢明であった、悪く申せば作者は老獪であった。いづれにせ此の作は金的の狙い打ちであった・・・」というのが有名な科白だ。

 

世界史的国民建築

   前川國男には「世界史的日本の建築的創造はまさに伝統の具体的把握によって、世界史的国民個性に鍛え上げられた建築家の実践によってのみ行はれる」という思いがあった。そして「此の事の中には日本伝統建築の創造的な復興の面と外来異質文明の摂取同化との二つの面のある事を否むわけには行くまいと思ふ」のである。前川についてここで詳細に触れる余裕はないが、そのキーワードは「ホンモノ建築」である8。「日本精神の伝統は結局は『ホンモノ』を愛する心」であり、重要なのは「一にも二にも原理の問題」9であった。

日本の近代建築史において繰り返し現れる「日本的なるもの」をめぐっては繰り返さないが、依然として今日の問題でもある。「我ガ国独自ノ伝統的建築様式ヲ基調」とする規定は風致地区指定や国立国定公園の建築規定、景観条例の中に潜んでいる。

 帝冠様式に代表される擬古主義を否定しながら、近代建築の理念につながる手法を日本建築の伝統的手法に見出す、あるいは日本建築の空間手法、建築的比例を近代建築の技術によって実現する、簡単に言えば、議論はこんなところに落ち着いてきた。しかし、問題は日本である。前川の言う「世界史的国民建築」とは何か。「外来異質文明の摂取同化」に関るのが「大東亜建築様式」をめぐる議論である。

 『建築雑誌』の「大東亜建築特集」の中には実に多様な回答がある10。建築は「其地方の住民即ち土民に対して」「其地方が自国の勢力下にあることを具体的に表示する象徴」であるという伊藤述史(「大東亜共栄圏の建築形式」)は、神社風、寺院風、欧州風の三つが並存するなかで「大東亜式建築を考究し特別形式を案出したい」という。山田守は「創造的進化」という。堀口捨己は「大東亜共栄圏では日本様式でありたいと誰もが思っている」が、「日本様式とはどう云うことかということになりますと」「大きな多くの問題がある」という。佐藤武夫は「欧米の直接の継承」でもなく「一時流行しました国際的な共通のものを目指しても居ない」といって「日本の過去の造形文化の遺産をそのまま復古しようと言ふものでもない」、「大東亜共栄圏内に独自な一つの新しい造形文化を創造していこう」という。「神様の表現」「神様の建築」をしようと紙がかった発言をするのが谷口吉郎である。

 そして、丹下健三の解答はこうだ。

 「神の如く神厳にして簡頚、巨人の如く雄渾にして荘重なる新日本建築様式が創造されねばならぬ。英米文化は勿論、南方民族の既成の文化を無視するがよい。アンコール・ワットに感歎することは好事家の仕事である。我々は日本民族の伝統と将来に確固たる自信をもつことから出発する。さうして新しい日本建築様式の確立は、大東亜建設の必然と至上命令に己を空しうした建築家の自由なる創造の賜として與えられる。」

 そして、その表現が「大東亜建設忠霊神域計画」であった。

 

1  拙稿、「強迫観念としての屋根」、hiroba2001年1月号

2 井上章一、『戦時下日本の建築家 アート・キッチュ・ジャパネスク』朝日選書、1995

3 拙著、『布野修司建築論集Ⅲ:国家・様式・テクノロジー』、彰国社、1998

4 佐藤武夫、「競技設計の審査所感」、『建築雑誌』,194212月号

5 浜口隆一、『新建築』,1944

6   前川國男、「1937年巴里萬国博日本館計画所感」、『国際建築』、1936年9月号(『前川國男文集』、而立書房、1996年所収)

7 『建築雑誌』、1942年12月号

8 拙文、「Mr.建築家 前川國男」、『布野修司建築論集Ⅲ:国家・様式・テクノロジー』所収、彰国社、1998

9 前川國男、「今日の日本建築」、『建築知識』、193611月号

10 拙稿、「近代日本の建築とアジア」、『布野修司建築論集Ⅰ 廃墟とバラック』、彰国社、1998






0 件のコメント:

コメントを投稿