失われた終の棲家──君は何処に棲むのか?
布野修司
家族やコミュニティは、あらゆる人間社会の基本構成要素であり続けた(産業革命以前は、ほとんどの人の日常生活は、古来三つの枠組み、すなわち、核家族、拡大家族、親密な地域コミュニティの中で営まれてきた)。ところが産業革命は、わずか二世紀余りの間に、この基本構成要素をばらばらに分解してのけた。そして、伝統的に家族やコミュニティが果たしてきた役割の大部分は、国家と市場の手に移った。・・・
ところが当初、市場や国家は自らの力を行使しようとすると、外部の介入を快く思わない伝統的な家族やコミュニティに行く手を阻まれることに気が付いた。・・・そこで国家と市場は、けっして拒絶できない申し出を人々に持ちかけた。「個人になるのだ」と提唱したのだ。・・・
このように、コミュニティと家族が破綻を来し、しだいに孤独感の深まる世界に、私たちは暮らしているのだ。・・・
ユヴァル・ノア・ハラリ『サピエンス全史―文明の構造と人類の幸福』[1][f1]
はじめに
「平成」時代(1989~2019年)の日本の住宅を振り返るに当たって、問題となるのは,「元号」というひとりの天皇の在位期間によって,日本の住宅の歴史を区分できるのか,ということである。住宅の歴史は,王朝や王位の興亡によって大きく変わるわけではない。日本の歴史について,一般に「明治」「大正」「昭和」といった「元号」による時代区分が行われるが,「昭和」にしても,戦前と戦中で歴史は大きく異なる。そして,戦後の「昭和」も一括りにはできない。戦後復興から高度経済成長期にかけての1960年代と,2度のオイルショックに見舞われた1970年代とは区別される。そして,1980年代後半からのバブル経済が日本を世界の主役(ジャパン・アズ・ナンバーワン)に押し上げて弾けたという歴史がある。
「平成」の始まりは世界史的大転換の年とたまたま一致する。偶然ではあるけれど,ベルリンの壁が崩壊したのが平成元(1989)年である。そして,ソビエト連邦共産党が解散するのは1991年である。世界史的転換の時代の閾と「昭和」から「平成」への移行は重なっている。そして、バブル経済が弾けたというひとつの区切りがある。もちろん、住宅史の区分がそのまま連動するとは限らないけれど、冷戦構造の崩壊にともなう本格的なグローバリゼーション時代の到来、コンピューター技術や情報通信技術ICTの発達は大きくわれわれの生活を変えていった。日本に住文化を異にする外国人の居住が増加していったのはグローバリゼーションによる国際的労働力移動の結果である。少子高齢化がますます進行し、日本の総人口が減少し始めたのは日本の歴史にとってまったく新たなフェーズである。「平成」時代には、超高層マンション、スマートハウスの登場、空き家の大量発生など、日本の住宅をめぐる新たな動向がある。ここでは、その新たな変化、新たな動向に焦点を当てて「平成」時代を振り返ろうと思う。
しかし、いずれにせよ、「平成」という時代の区切りはとりあえずの仮の設定である。それを確認するのは、後世の時代に属しているけれど、もしかすると、2016年のアメリカ・ファーストのトランプ政権の登場、そして2019年末から2020年にかけての新型コロナウイルスによるパンデミックと1990年4月(バブル崩壊)以来の株価暴落(2020年3月)が次の時代の区切りを予告しているのかもしれない。
住宅はひとつの制度であり、社会に埋め込まれていることにおいて極めて保守的である。変わるものと変わらないものがある。変化といっても、「平成」になって突然に変わったわけではない。これまで何度か戦後日本の住宅について振り返る機会[2]を得てきたが、日本住宅の歴史的大転換期となるのは、1960年代の10年である。住宅革命の10年と言ってもいい。そして、この転換の行きつく先が明らかになったのが「平成」時代であるように思う。日本住宅の歴史を大きく振り返りながら、住宅革命の帰趨を確認したいと思う。
Ⅰ 幻像としての日本住居
バラックの海―戦後日本の原風景
第二次世界大戦後まもなく、日本は廃墟であった。原子爆弾を投下されて一瞬にして焼野原となったヒロシマ・ナガサキがその象徴である。首都東京は,1944年11月以降100回を超える空襲を受け,1945年3月10日の東京大空襲では1日だけで100万人を超える人々が罹災し,5月末でまでにさらぬ4回の大規模な空爆を被った。日本全土で被害を受けた市町村数は430に及ぶ。
東京は一面焼け野原であった。戦後まもなく撮られた写真を見ると[3]、銀座、京橋、日本橋に「焼けビル」が残っているけれど、それ以外は焼けた木造住宅の残骸だけがどこまでも続いている。露店が新宿に出現し、すぐさま銀座、浅草、上野、渋谷、池袋へ拡がった。そして無数のバラックが焼野原を埋め尽くしていった(図Ⅰ1①)。
「豪舎をはじめ人びとはあらゆるところに住みついた。その住むことへの意志は実にしたたかであったといえるであろう。東京都が1945年11月から建設をはじめた応急簡易住宅が、窓ガラスはセロファン、屋根は防水加工の紙ぶきで、なお材料難のため工期に3ヶ月を要すといった状態である。建築許可申請の抽選を待つ余裕もなく、多くが自力で、無断でバラックを建て始めたのは無理からぬことでもあったのである。そうしたなかで貧相であれ、多様住居のスタイルが生み出されていた。東京都交通局の廃車に切妻の屋根をかけたバス住宅。三角ハウス。戦時中製造中止のため不要となっていた川崎の工場の鉄管や釜をあり合わせの新聞紙や木切、布などによって塞いだ鉄管住宅。上野の天幕住宅。ブリキ職人、林三犯は空缶で屋根を葺いた。そのアイディアを千葉県で採用、空缶66個を平たくして1坪につなぎ合わせたものが配給されたのだという。また、銀座・松屋裏に出現した、広告版で屋根を葺き、壁に鉄製の町名表示板を並べて貼った住宅。そして、賃貸(100円/日、1000円/月、10000円/年)の移動家屋、トロッコ住宅。」(「第二章 呪縛の構図-戦後建築の零地点 一 廃墟の光芒」布野修司(1981)『戦後建築論ノート』)
実に多様な創意工夫に充ちたバラック群の出現であった。戦後まもなくのバラックや壕舎は生存のためのぎりぎりの条件のもとで選び採られた表現である(図Ⅰ1②)。それは、建てることと住むこと、そして生きることがまったく同一でありえた位相である。この創意工夫のバラックの海と化した廃墟の光景が戦後日本の原風景である。それは仮の姿であった。やがて、アメリカナイズされた生活様式が日常を覆い始め、「花の団地族」が出現するまでさして時間はかからない。
戦後まもなくの日本において、自ら自分の住宅を建てる経験はそう珍しいことではなかった。もちろん、住宅建設は大工をはじめとする職人の仕事であったけれど、住宅建設の一部始終は身近に見ることのできる出来事であった。しかし、現代日本において、自力で自分の住宅を建てる人はほとんどいない。ディベロッパーや住宅メーカー、建設会社のカタログやちらし、IT情報から選ぶだけでいいのである。住宅へのさまざまな思いを実現すべく建築家や大工・工務店に相談して建てる人びとも少なくなった。そして、住宅を建てる職人さんそのものもいなくなりつつある。住宅だけではない。住宅を建てる土地(宅地)も以前から売買の対象である。そして、投機の対象になって既に久しい。住宅は買い替えたり、住み替えたりするものであって、住み続けるものではなくなりつつあるのである。
日本住居の原像
伝統的な住居の形態は、気候や地形、建築材料、生業形態、家族や社会組織、世界観や宇宙観、信仰体系など多くの要因によって規定され、その立地する地域によってさまざまである。世界には実に多様な住居の形態をみることができる(布野修司編(2005))。住居の形態は、本来、地域の自然・社会・経済・文化の複合的表現である。
日本住宅の起源は、竪穴式住宅と高床式住宅に遡り、その2つの原型がそれぞれ庶民住宅(民家)と貴族住宅(寝殿造、書院造)の流れを形成してきたと日本住宅史は説き起こされる。日本住宅のさらなるルーツ、そのグローバルな位置づけをめぐる詳細は他に委ねるが(布野修司+田中麻里他(2017))、竪穴式住宅は北方系あるいは西方系、高床式住宅は南方系、大きくは、アジアにおける木造住宅の系譜として理解することができる。住宅は、どこであれ、地域で調達できる建築材料、木、草、土、石などの自然材料を用いてつくられるのが基本である。中国あるいは朝鮮半島には、磚(煉瓦)造の系譜が加わるけれど、日本の住居は基本的に木造であった。日本列島は豊かな木造資源に恵まれてきたのである。
日本の木造住宅は、柱と梁で組み立てられる軸組構法(柱梁構造)ー木を横に使ういわゆるログハウス(井籠(蒸籠)組、校倉造)も古来用いられてきたけれど、住宅に用いられることは少なかったー、屋根は和小屋あるいは2本の部材を逆V字形に組む又首(サス扠首)組、茅葺、藁葺の草葺―瓦葺は、特定の階層の住宅に用いられてきたーを基本としてきた。木造住宅といっても、世界中にさまざまな形態と架構方法があるが、日本の木造技術は世界でもっとも洗練されたもののひとつと評価できる。
日本の伝統的木造住宅は、この間、大きく変化してきた。最初のインパクトとなったのは、明治維新以降の西洋化の流れである。西洋の建築技術の導入によって、第一に、木造住宅の構法は、接手仕口による伝統的な切組加工から釘金物を利用した工法に変化していった。第二に、基礎と土台の固定、筋違(斜め材)の導入による耐震化が大きい。耐震性を高めた新たな構法が成立するのは明治末から大正期にかけてであり、「伝統工法」と区別して「在来工法」と呼ばれるようになる。木造住宅の構法は、戦後、新建材の利用やツーバイフォー(バルーン・フレーム)など新たな構法の導入によって多様化していくことになる。そしてさらに、伝統的木造構法の接手仕口の手加工(「刻み」)を機械加工によって自動的に行うプレカット技術の出現によって、「在来工法」も大きく変わることになる。間取りを描けば柱や梁が自動的に刻まれてくるのである。構法の基本原理もまた失われつつある。
北海道から沖縄まで、地域ごとに極めて多様な伝統的木造住宅は、昭和戦前期までは各地に残されてきた(図Ⅰ2①abcd[f2] …)。そして、日本の木造住宅は、その構法は変化したとは言え、地域産材を用い、地域の大工・工務店によって建てられるその仕組みは、少なくとも1960年ぐらいまでは維持されてきた。
地域に生態系に基づく住居システムが崩れ、日本の伝統的木造住宅が衰退していく大きな要因となったのは、鉄とガラスとコンクリートによる新たな構造形式の導入である。鉄骨造、鉄筋コンクリート造(RC造)の建築物が建設されるようになるのは19世紀末から20世紀初めにかけてのことであるが、日本でも1930年には鉄骨造、鉄筋コンクリート造の構造基準が設けられる。15年戦争期(1930~45)には建設されることは少なかったけれど、第二次世界大戦後、木造亡国論が唱えられ、火災に弱い木造住宅よりも、防火性能が高い鉄骨造、鉄筋コンクリート造の住宅が一気に普及していくことになるのである。
未成の共同住宅
西洋の科学技術の導入は日本に産業革命をもたらすが、産業革命による都市化の進展は、まったく新たな住居類型を必要とすることになる。
日本の伝統的住宅の基本型のひとつは農家である。すなわち、母屋、納屋などいくつかの住棟によって屋敷地が構成される分棟型住居である。主屋についてみると、その平面形式(間取り)は極めて単純で、大きくわけると東日本は「三つ間取り」(ひろま+ざしき+へや(なんど)+土間、ひろま型)、西日本は「四つ間取り」(だいどこ+ざしき+おくのま+なんど+土間、田の字型)が基本計型でそれを増築していくのが一般的であった(図Ⅰ3①a[f3] bcde…)。城下町における武家住宅も基本的には同じで、いくつかの建物によって屋敷地が構成される。そして、もう一つの基本型として町屋(都市型住宅)が成立するのは、古代都城の条坊制が崩れていく平安末期から鎌倉時代にかけてのことである。そして、この中庭(坪庭)型の町屋に加えて、連棟の棟割長屋が成立するのは近世の大都市(江戸、京都、大阪)においてである。
幕藩体制下のほとんど流動化のなかった近世社会は大きく変動していくことになるが、農家型住宅すなわち分棟型の住宅は、敷地面積が狭くなるにつれて、一棟のみで周囲に外庭をめぐらす戸建住宅の伝統に引き継がれる。そして、中庭型の町屋は店舗併用住宅の伝統として、木造棟割長屋の伝統は、木造賃貸アパートとして今日に引き継がれる。明治30年代に大都市(東京、大阪、名古屋)に形成された「貧民窟」と呼ばれる下層民が居住する地区を構成したのは、江戸時代の「木賃宿」である。
「明治」時代以降、洋風生活の導入とともに玄関脇に洋間を付加する洋館(図Ⅰ3②)が出現する。さらに、都市俸給生活者(サラリーマン)のための住宅が現れる。その住宅は、基本的には木造伝統構法で建てられ、新たな住宅形式として和室を中廊下で連結する形式=「中廊下型住宅」(図Ⅰ3③)がうみだされた。そして、「文化住宅」と呼ばれる「家族本位」の「茶の間」中心型住宅(図Ⅰ3④)が提唱されるのは、大正デモクラシー期における住宅改良会や生活改善同盟会、さらに文化生活研究会による文化運動の過程においてである。
そうした中で、集合住宅、都市型住宅の伝統が薄い日本に、全く新たなアパートメントハウス(共同住宅)の形式が持ち込まれるのは、大正期から昭和の初めにかけてのことである。そしてその過程は、日本に鉄筋コンクリート造の建築物が導入されるのと並行する。最初の鉄筋コンクリート造アパートメント(共同住宅)が建てられたのは端島炭鉱(長崎県、軍艦島)である(図Ⅰ3⑤、1916年)。一般的に建設され始めるきっかけとなるのは、関東大震災後の同潤会[4]によるアパートメントハウス(図Ⅰ3⑥)である。そのモデルとなったのは、アメリカのアパートメントハウスとされるが、江戸川アパートが示すように、単身者住宅と家族住宅があり、共同浴場、食堂、理容室、社交場のあるまさに共同生活のための集合住宅であった。しかし、共同生活のための集合形式としてのアパートメントハウスは、何故か、戦後に引き継がれることはなかった。同潤会(1923年)は、日本最初の住宅供給機関であり、それを引き継いだのが住宅営団(1940年)であるが、第二次世界大戦中には建設する機会は少なく、鉄筋コンクリート造アパートメントが全面的に建設されるのは戦後になってからである。日本に固有の集まって住むかたちを生み出す課題は未回答のままである。
永遠の仮設住宅
「平成」の日本を次々に襲った大規模な自然災害は、戦後日本の原風景を思い起こさせることになった。災害のたびに、被災者は応急仮設住宅に仮住まいすることになるのである(図Ⅰ4①)。高度成長期のスクラップ・アンド・ビルドの時代に、鴨長明の無常観と彼が住んだ移動可能なプレファブ住宅「方丈庵」、そして、20年に一度建替えられる伊勢神宮の式年造替を念頭に、日本の住宅は、基本的に仮住まいを基本とする、という住居論が展開されたけれど、鉄筋コンクリート造の集合住宅には、予めリサイクルの仕組みは組み込まれていないのである。
阪神淡路大震災(1995年)の6日後、西宮から新神戸まで、西宮市、芦屋市、東灘区、灘区、中央区と、国道二号線を軸に、阪急神戸線、JR東海道線、国道四三号線で挟まれた帯状の地区を縫うように歩いた。そして6日後、新神戸から三ノ宮、元町、神戸、兵庫、長田と歩いた。最も被害が集中した地域である(図Ⅰ4②)。そして次のように書いた。
「瓦礫と化して原形をとどめぬ民家の群。延々と拡がる焼け跡。一キロにわたって横転した高速道路。あるいは落下した橋桁。駅がへしゃげ、線路が飴のようにひん曲がる。ビルが傾き、捻れ、潰れ、投げ出される。信じられないような光景である。新幹線の橋桁が落っこちる、そんなことがあっていいのか。相次ぐ奇怪な街の光景に息をのみ続ける体験であった。横転した家の屋根が垂直になって、真上から見るように眼の前にある。家や塀、電柱がつんのめるように倒れて路をふさいでいる。異様な形の物体がそこら中に転がっている。何もかもが、折れ、転がり、滑り、捻れ、潰れている。平衡感覚が麻痺してきた。どうしたらこんな壊れ方をするのか。・・・まるで戦後まもなくの廃墟のようではないか。廃墟から出発し、五〇年を経て、再びわれわれが眼にしたのはまた廃墟であった。」(Ⅰ砂上の楼閣 第1章 戦後建築の50年)[5]
東日本大震災(2011年)は、さらに衝撃的な大災害となった。M9.0、史上最大規模の地震である。2004年12月26日スリランカのゴールにいてインド洋大津波に遭遇し、危うく命拾いをしたときのことをありありと思い出したのであるが、気がつくとバスや車、そして船が転がっている、ゴールの周辺で500人が亡くなった。悪夢の再現であった。復興支援の番屋建設に何度か通ったけれど、津波で洗い流された南三陸町や陸前高田、女川町の光景は、戦後まもなくの廃墟の光景をさらに剥がしとって、太古の日本列島を露わにするかのようであった。致命的なのは、起こってはならない原子力発電所のメルトダウンである。9年を経て、未だに帰宅困難地区があるどころか、廃炉の問題も目途が立たない。戦後日本を支えてきたエネルギー供給システムが如何に危ういかを思い知らせてくれたのである。2011・03・11は日本の歴史にとって永久に記憶される年月日である。
大規模な自然災害は、阪神淡路大震災、東日本大震災に止まらない。台風や大雨による災害は、日本の住宅とその集合体である村や街の脆弱性を明らかにすることになった。戦後、焼野原から築きあげてきた街が、風雨に洗われ、揺り動かされて、再び瓦礫の積み重なる大地に帰してしまう事態は、否応なく、日本の戦後住宅の歩みを振り返らせる。そして、太古からの大自然の営みの前に日本の現代住宅の拠って立つ基盤がいかに不安定かを思い知らされるのである。
Ⅱ 商品としての住居-住宅生産の工業化
原点としての最小限住宅―51Cと2DK
第二次世界大戦に敗北した日本政府は、1946年5月に「臨時建築制限令」を交付、新築住宅の面積の上限を15坪に制限する。翌年上限は12坪に引き下げられ、その制限は1950年の廃止まで続いた。「12坪の住宅」すなわち40㎡の住宅が、日本の戦後住宅の出発点にある。
建築家たちはこの最小限住居についてさまざまな提案を競うが[6]、それ以前に、住居を失った人々はそれぞれが雨露をしのぐシェルターを建てるのに必死であった。1945年の冬をどう過ごすかは大問題であり、敗戦後まもなく立ち上げられた戦災復興院(1945年11月設立)は、「住宅営団」を通じて「応急越冬住宅」を建設したが、その規模は6畳と3畳の二間のみの6坪2合5勺(14.85㎡)である。それでも、年度末までに目標の30万戸には遠く及ばず、10万戸程度の建設が精一杯であった[7]。
多くは自力で住宅を建てざるを得なかった。そうしたなかに、築地小劇場などの舞台美術家であり、今和次郎とともに考現学の提唱者として知られる吉田謙吉の「12坪の家」(図Ⅱ1①ab、1951年)がある。2018年から2019年にかけて「吉田謙吉と12坪の家 劇的空間の秘密」と題する展覧会が開催(LIXILギャラリー)されたが、今日の眼で見ても「12坪の家」は楽しそうな家である。わずか4間×3間の空間に小ステージ兼アトリエがあり、座卓と机を兼ねるテーブル、家事室兼寝室など創意工夫が随所にある。戦後まもなく、多くの建築家が小住宅の設計に取り組んだが、吉田謙吉の「12坪の家」はそれらにひけをとらない。その代表のひとつである増沢洵の「最小限住宅」(図Ⅱ1②ab、1950年)は建坪3間×3間=9坪というが、2階建てで3坪の吹き抜けがあり、延坪は15坪である。吉田謙吉邸は12坪だが、2階に1坪の2部屋と渡り廊下を設けてほぼ15坪である。立体構成もよく似ている。
しかし、日本の戦後住宅の歴史は、この吉田謙吉の「12坪の家」の創意工夫の方へは流れなかった。新たな流れをつくったのは鉄筋コンクリート造の集合住宅である。1946年に入って、「応急越冬住宅」は8坪の「復興住宅」に規模を拡大されたが、その一方で、戦災復興院によって鉄筋コンクリート造の積層アパートの建設が提案されるのである[8]。モデル住宅として建設されたのが東京都営住宅「高輪アパート」(1947、48)である。そして、内務省の解体に伴い戦災復興院を引き継いだ「建設省」(1948年7月設立)は、「国庫補助住宅」の建設を全国展開することになる。そして、鉄筋コンクリート造の住戸モデルの標準設計として1949年にはABC[9]そして続いて1951年にはABCとMB[10]のタイプが用意された。日本の戦後住宅のモデルとなったのが1951年のC型、いわゆる「51C」(図Ⅱ1③)である。
設計に当たったのは吉武泰水研究室である[11]。51C(51C型の住戸プラン)の設計過程については鈴木成文(2006)が詳細に明らかにするが、その空間構成の基本的な設計指針とされたのは、西山夘三が「住宅営団」で行った膨大な住宅採集調査から引き出された「食寝分離」そして「就寝分離(隔離就寝)」という原則である[12]。要するに、最小限の住居においても「食べる場所」と「寝る場所」は分離する、「基本寝室」(主寝室、マスターベッドルーム)と一定年齢に達した子どもの寝室を分離する原則である。12坪という限られた面積において、この原則によると、解答のヴァリエーションはそうあるわけではない。6畳と4.5畳の2寝室、トイレ、洗面、物置のスペースをとると独立した食事室を設ける余裕はなく、残りのスペースを広めの台所すなわち食堂兼台所(DKダイニングキッチン)とすることがひとつの解答となる。夕食は、DKに隣接するひとつの部屋(寝室)を利用することがあってもいいけれど、朝食はDKで採れるようにする、のである。
1955年に設立された日本住宅公団は、この「51C」を「2DK」型として採用することになる。大きな違いは、「2DK」は、13坪であり1坪広く、浴室を備えていることである。「51C」は、浴室をもたず、近隣の銭湯を利用するのが前提であった。そして、この「2DK」型住宅、その象徴であるダイニング・キッチン(DK)という空間は、日本全体で、日本住宅公団の住宅団地のみならず、都市部のマンションはもとより、農村地域の戸建住宅の基本型ともなる。そうした意味で、「51C」[13]→「2DK」[14]は、戦後日本を象徴する住宅形式である。
プレファブ住宅―住宅革命の1960年代
戦後まもなくの圧倒的な住宅不足への対応として、もうひとつプレファブ(工業化)住宅建設の流れがある。その歴史は、戦前期の乾式工法(トロッケン・モンタージュ・バウ)[15]の移入にさかのぼるが、建築家たちが組立式住宅の量産化に実際に取り組むことになるのは戦後である[16]。その代表はMIDO同人(前川國男設計事務所)によるプレモスPREMOS[17]である(1946~51年、図Ⅱ2①abc)。木製パネルをボルトで接合する組立式住宅で、炭鉱住宅として全国で約1000戸建設された。政府は、「復興住宅」を建設する一方で、産業復興のために石炭・鉄鋼生産を優先し、炭鉱労働者向けの住宅を重点的に建設するのである。
戦後日本の住宅政策の基本は、今日に至るまで一貫して「持家政策」である。住宅の建設取得は国民の自己責任であり、公共住宅の供給は、終の棲家としての持家取得までの仮の経過措置と位置づけられてきた(「橋の論理」といわれた)。住宅政策のもうひとつの柱は融資であり、住宅金融公庫法が公布されたのは1950年である。住宅復興は、基本的には民間に委ねられる。各都市銀行が個人住宅融資を開始したのは1960年である。期を一にして、相次いでプレファブ会社が設立されることになるが[18]、その嚆矢となるのが大和ハウスの「ミゼットハウス」(1959年)(図Ⅱ2②)である。「3時間で建つ11万円の子ども部屋」がキャッチフレーズであり、「プレファブ住宅の原点」と呼ばれるが、4.5畳タイプと6畳タイプがある「子ども部屋」である。爆発的に売れたというが、宅地の庭に「子ども部屋」を増築するというニーズが日本のプレファブ住宅の誕生の背景にあったのである。
1960年の段階で日本に建てられる住宅は、ほぼ100%、「在来工法」による木造住宅であった(91%、1963年)。伝統的な木造住宅は、地域で入手可能な建築材料で、地場の職人たちによって建設されるのが一般的であった。しかし、10年後、戦後最大190.5万戸の新築住宅が建設された1973年には、プレファブ住宅は7.3%を占めるまでになる(内訳は木造住宅58.8%、鉄筋コンクリート造など非木造住宅41.2%)[19]。日本の住宅生産の構造が1960年代の10年で大きく転換したことは明らかである(図Ⅱ2③住宅供給構造図)。
住宅の工場生産化は、すなわち住宅の商品(耐久消費財)化であり、住宅革命と呼びうる一大転換である。プレファブ住宅は、不特定多数のユーザーに向けて設計され、あらかじめ工場生産された部品(プレファブリケーション)によって建設されることにおいて、土地の条件とは切り離された生産システムに基づくことになるのである。
プレファブ住宅は、鉄骨造や鉄筋コンクリート造の住宅構法を採用することにおいて、住宅の多様化をもたらすが、その影響は「在来工法」にも及ぶ。新建材やさまざまな部品や建具の開発、家具や家電、住宅設備の革新は、一般の木造住宅にも取り入れられていくのである。1960年にゼロであったアルミサッシ[20]は1970年には100%普及する。空調設備の普及によって住宅の気密性が求められるのである。こうして、1960年代後半には住宅産業が成立することになる。住宅の建設はさまざまな消費に結びつき、新築住宅の建設は景気動向の大きな指標となるのである。
プレファブ住宅の初期のプランは、住宅金融公庫のメニュー集(1951~1966年)を踏襲するものとなる。興味深いのは、「51C」→「2DK」とは異なり、当初から居間(L)が設けられていることである。1951年のメニュー集には、LDKワンルーム型、LD+K型、全和室中廊下型、茶の間+応接間型が用意されていて、戦前戦後の移行期を示して興味深いが、やがてL+DK型あるいはLDK型が主流となっていく。松下1号型(1961年)は1LDKの平屋であり、ミサワホームフリーサイズ(1962年)は3LDKの2階建である(図Ⅱ2④ab)。この戸建プレファブ住宅の流れには、戦後まもなくの居間中心(ワンルーム・コア)住宅の影響をみることができる。
日本住宅公団は、2DKを中心としながら、さまざまな世帯に対応すべく、1DK(31.63㎡)、2K(39.84㎡)、3K(49.50㎡)、そして3DK(54.97㎡)を用意してきたのであるが(図Ⅱ2⑤)、1966年に「住宅建設計画法」が制定され、「住宅建設五箇年計画」が開始されるとともに、最低居住水準としてのDK型に加えて、平均居住水準としてLDK型を加えることになる。プレファブ住宅として一般化していったのは、このLDK型である。すなわちnLDKという住戸型と住んでいる場所を言えば、およそその住宅のイメージを想像できる、そうした標準化が進行していったのが1960年代である。
マイホームの夢―住宅イメージの商品化
2DK、そしてnLDKという住戸形式が想定したのは核家族である。夫婦とその子ども(n-1人)が居住するのがnLDK住宅モデルである。戦前期に一般的であったと考えられるのは家長を中心とする拡大家族である。戦後、核家族化(世帯分離)が急速に進行していくことになるが、家父長制から核家族が独立していく容器、その受け皿となったのが2DKでありnLDKである。そして、家族から個が自立していく装置がn-1個の個室であり、「一家団欒」の場となるのが居間(L)である。このnLDK家族の容器として、公共住宅そしてプレファブ住宅の住戸モデルが最も相応しい解答であったが故に、広く建設されていくことになるのである。そのことは、日本人のライフスタイルが著しく画一化されていったことの裏返しでもある。
日本全国の住宅数が世帯数を上回ったのは1968年、全都道府県で住宅数が世帯数を上回ったのは1973年である。420万戸の住宅不足を解消するのに四半世紀以上を要したことになる。敗戦後15年の1960年には年間60万戸の新築住宅が建設されているのだから、その時点で住宅不足は解消されていても不思議ではないけれど、そうならなかったのは爆発的な人口増加があり、さらには世帯分離すなわち大家族(三世代同居)から核家族への転換が進行したからである。7215万人(1945年)の人口が1億133万人(1968年)へと2918万人も増加、1968年からの5年間だけでも777万人増加するのである。世帯数は1950年から1970年の20年間で1151(1658→2809)万世帯も増加した。要するに、1571(420+1151)万戸もの建設が必要であったことになる(図Ⅱ3①日本の人口増加)。
全都道府県で住宅数が世帯数を上回った1973年、奇しくも、オイルショックが日本列島を襲う。この年、190万戸も建設された新築住宅は、翌年、115万戸に激減する(図Ⅱ3②新設住宅着工戸数の推移)。以降、1970年代から80年代にかけて日本経済は低迷し、それとともに住宅に関わるパラダイムは、量から質へ、高層から低層へ、郊外開発から既成市街地の再開発へ、スクラップ・アンド・ビルドから長寿命・省エネ住宅へ、一転していく。プレファブ住宅も、低価格の量産住宅(現場小屋、安普請のバラック)のイメージを払拭するかのように、さまざまなスタイルのファサード・デザインが付加されるようになる。日本の住まいをめぐる広範な問題を多角的に考える雑誌『群居』[21]の創刊号(1983年4月)は、「商品としての住居」を特集テーマとして掲げ、商品化住宅の「傑作」[22]を挙げるが、70年代に入って流れが変わったことを明らかにしている。これを商品化住宅の様式化と呼ぶが、デザインの差異が住宅メーカー各社で競われ、A型、B型、C型・・・、1号型、2号型・・・と記号で呼ばれてきた住戸型は、「セラピア」(住友不動産ホーム)「アドウェル」(野村ホーム)「フェスタ」(住友林業の家)「ソーブル」(パナホーム)「ライブリィ」(小堀ハウス)「エヴァンス」(旭化成ヘーベルハウス)「ゼフィール」(ダイワハウス)「ビッグジョイ」(NKホーム)「ベルエ」(星和ホーム)などとネーミングされるようになるのである。
各社が売ろうとしてきたのは「マイホームの夢」である。土地や住宅、すなわち、空間の商品化の段階から住宅イメージの商品化へ、商品化のレヴェルは一段階あがったことになる。
住宅のポストモダン―作品としての住宅
戦後間もなくから1960年代にかけて、すぐれた建築家たちは、自邸を含めた限られたクライアントのために近代建築の理念を実現する作品としての住宅を設計していくことになる。しかし、以上のように、一家族に一住宅が量的に確保されていく過程で、建築家の関心は住宅から離れていったように思われる[23]。朝鮮特需によるビルブーム(1951年)から1960年代にかけて、建築家は公共建築や都市計画により大きなエネルギーを注ぎ込むことになる[24]。『モダンリビング』(1951年創刊)『住宅』(1953年創刊)など1950年代にすでに一般向けの住宅雑誌が刊行され、住宅設計に取り組んできた建築家は少なくないが、建築家に住宅設計を依頼するクライアントの一定の層が出現するのは1960年代末のことである。
そして一方、nLDKという住戸モデルに集約される戦後住宅を批判する若い建築家のさまざまな試みが1960年代末から1970年代にかけて開始される。1973年のオイルショック以降、建築家の仕事は激減する。住宅の設計を「最後の砦」といい、「住居に都市を埋蔵する」という方法意識を鮮明に打ち出したのは原広司である。住宅から都市をどう組み立てていくかは若い世代の共通の課題となるのである。『日本の住宅 戦後50年』(1995)は、戦後の半世紀を対象として、①日本の住宅のあり方に影響を与えた思われる建築家、②戦後のそれぞれの時代を象徴する住宅作品を提示した建築家、③住宅形式としてひとつの型を提示しようとした建築家、④住宅生産・流通・消費のプロセス、住宅の設計体制等について何らかの提起をしようとした建築家、⑤住宅の問題に一貫して取り組む建築家、を問うアンケートをもとに50人の建築家と住宅作品を挙げているが、そのなかには、最小限住宅、モダンリビングの流れは明らかに異なる六角鬼丈「家相の家」(1970)、大野勝彦「セキスイハイムM1」(1971)、毛綱毅曠「反住器」(1972)、長谷川逸子「焼津の住宅」(1972)、渡辺豊和「1・1/2」(1974)、Team Zoo「ドーモ・セラカント」(1974)、石山修武「幻庵」(1975)、安藤忠雄「住吉の長屋」(1976)が含まれている。ほかにも伊東豊雄「中野本町の家」(1976)、石井和紘「54の窓」(1975)、坂本一成「代田の町屋」(1976)、山本理顕「山川山荘」(1978)、高松伸「駒井邸」(1977)など1970年代の作品がある(図Ⅱ4①②③④⑤⑥⑦⑧~)。すなわち、多様な住宅のあり方が追及され始めるのが1970年代以降である。
「住宅産業化の流れの中で──建築家の新しい戦略目標は何か」(1985)[25]そして「変わるものと変わらぬもの」[26](1995)と題する論考において、筆者は、それぞれ日本の住宅のあり方の課題をあげて、その未来を展望している。前者は、「もう一つの指針―ハウジング・ネットワークへ」として、「小さな回路」における、住宅の生産流通消費の全プロセスに関わる「アーキテクト・ビルダー」の可能性、「地域に固有なハウジングシステム」の構築、住宅設計から町づくりへの展開、オルタナティブ・テクノロジーの開発、DIY、セルフ・ビルドを組み込んだ住宅システム(プロセスとしてのハウジング)を展望する。後者は、前者に言及したうえで、「これからのすまい:日本の課題」として、多様な家族形態への対応、多様な集合形式の展開、都市型住宅の型の開発、共用空間の多様化、住宅の再生循環システムの構築、地域住宅生産システム、環境共生住宅の開発などをうたう。以下では、その帰趨を問うことになる。
Ⅲ 閉じていく住居-宙に浮くnLDK
「昭和」から「平成」への転換、すなわち、1980年代から1990年代への移行を、グローバルにみると、第一に、ベルリンの壁の崩壊(1989年11月)、ソ連邦の崩壊(1991年12月)すなわち冷戦構造の崩壊がある。ロシア革命(1917年)を起点とする社会主義世界建設という人類の壮大なる実験の失敗が確認されることによって、資本主義世界の優位が明らかになり、以降、アメリカ合衆国が世界全体を主導することになる。そして、本格的にグローバリゼーションの時代が到来することになった。
第二に、情報伝達ICT革命によるネットワーク社会の到来がある。インターネットの歴史は1960年代に遡るが、1989年に地球規模のインターネット(TCP/IP)ネットワークが成立し、1995年には商用利用が開始される。インターネットの利用は瞬く間に世界の津々浦々に普及することになった。そして、パソコン、携帯電話(モバイル・フォン)の進歩と普及も、ネットワーク社会の実現に大きく寄与することになる。第一、第二は大きく関連している。
しかし、アメリカのヘゲモニーに委ねられたかに思えた世界も、必ずしも安定化に向かったわけではない。世界資本主義の進展すなわち資本主義原理の世界隅々への浸透は、いたる所に格差拡大を引き起こした。その結果として、民族ナショナリズムが台頭し、アメリカ流覇権主義に対する反撥がひろがる。イスラーム原理主義のテロが各地で頻発したのは、アメリカのヘゲモニーに対する抵抗である。9.11(2001年)の同時多発テロは、その象徴であり、今日に至るアメリカvsイスラームの対立がますます深刻化する始まりである。
さらに、1990年代以降の世界を大きく規定することになる動因としてあげられるのは、地球環境問題であり、世界人口の爆発的増加である。しかし、貧困の問題、異常気象の問題、原子力廃棄物の問題など地球の存続に関わる事象がますます先鋭化しつつあるにもかかわらず、その解決へ向かうパラダイム・シフトは必ずしも起こっていないように思える。地球温暖化対策に各国の取り組みが積極的ではないことは、スウェーデンの若き環境活動家グレタ・トゥーンベリが厳しく告発するところである。
日本が、この間一貫して、世界経済における相対的地位を低下させてきたことは覆うべくもない。 E.ヴォーゲルの『ジャパン・アズ・ナンバーワン』[27]が出版され、大きな話題になったのは1979年である。それは、戦後復興をなしとげ、高度経済成長を実現させた日本に焦点を当て、日本的経営を高く評価し、サブタイトルにうたうように「アメリカへの教訓」とするものであった。当時、日本経済はすでに減速し、不況に悩みつつあったが、1980年代後半のバブル景気と重ね合わされて読まれた。日本の一人当たり名目GDP(国内総生産)は、1990年代前半には、アメリカ合衆国を抜いて世界一となった。しかし、バブル経済が崩壊した1992年以降、GDPの成長率は年平均1%前後で推移する。「平成」の30年間がまったく新たな時代に移行してきたことは明らかである[28]。吉見俊哉は、「平成」は「失敗の時代」だったといい、「失われた30年」という[29]。
日本社会のこの間の変化は、第一に人口構成の変化が示している。日本の総人口は、1950年に約7200万人、1950~80年(約1億1700万人)は10年ごとに年平均約10%、1980年~90年(1億2400万人)は5%強、1990~2000年(約1億2700万人)は3%強増加してきた。しかし、21世紀に入って、2005年以降、自然増減率はマイナスに転ずる。2050年には9500万人、2100年には4800万人になると予測される。2018年の総人口1億2644万人のうち65歳以上人口は3558万人(28.1%)である。15~64歳人口は、1995年8716万人のピーク以降、減少に転じ、7545万人(59.7%)と6割を切った。一般に、子どもが多く高齢者が少ない多産多死の社会から子どもが少なく高齢者が多い少産少子の社会に移行していくが、日本の少子高齢化の人口ピラミッド構造は、世界で最も先鋭なかたちをとりつつあるのである(図Ⅲ0①)。
そして第二に、産業構造の変化が日本社会の大きな変化を示している。戦後まもなくの日本は農業国家であった。1950年には、就業者のほぼ半数は第一次産業(農林水産業)に従事していた(48.5%)。1950年に21.8%であった第二次産業人口は次第に増え、1960年代半ばに逆転し、 39.6%であった第三次就業者は、一貫して増え、現在は3分の2を超える(67.3%、2017年)(総務省統計局)[30]。すなわち、日本社会は、農業社会から工業社会へ、さらに、ポスト産業社会へ大きく推移していくのである。
そして、バブル崩壊(1991年)以降、グローバルな政治経済に翻弄されてきた日本社会に大きなダメージを与えてきたのが相次いだ自然災害である。とりわけ、1995年の阪神淡路大震災と2011年の東日本大震災は、日本社会の拠って立つ基盤を根底から揺すぶるものとなった。
以上を念頭に、「平成」の住宅を振り返ろう。
おひとりさまの終末住宅-オタクと個室
東京の西の郊外、住宅・都市整備公団が1970年代末から80年代初頭にかけて建設した団地、鉄筋コンクリート造5階建、全11棟(全280戸)の分譲住宅4LD・K(92㎡)に筆者は居住する(図Ⅲ1①)。地方都市で1949年建設の平屋の公営木造住宅(図Ⅲ1②)に育ち、大学入学のために上京して以降の住宅遍歴については別のところで記したことがあるが[31]、その時「もう当分引っ越すことはないだろう」と書いたのだけれど、その直後関西に移住、四半世紀で計4ヵ所に住んで、現在の住居に戻ってきた。引っ越し回数は11回、海外居住の経験はないが、一生の移住回数としては多い方であろうか。結局、nLDKの集合住宅を渡り歩いて、住宅遍歴を終えそうである。
「平成」から「令和」へ元号が替わった2019年の一年、新聞折り込み広告などわが家に配られるビラやチラシ、パンフレット類を集めてみたのであるが、30年前とさして変わらない印象である。間取りの基本はほとんどすべてnLDK型である。分譲マンションの場合、WIC(ウォーク・イン・クローゼット)、WTC(ウォーク・スルー・クローゼット)、SIC(シューズ・イン・クローゼット)、N(納戸)、パウダー・ルーム(化粧室)などが目新しいが、収納スペースの強調である。直下が駅のタワーマンションでも2LD・K+N+WIC(60.05㎡)、3LD・K+WIC(70.25㎡)が基本であり、規模は20坪前後60~75㎡がほとんどである(図Ⅲ1③)。戸建住宅の場合、4LDK~5LDKなどへ規模は拡大するが、2階建のその住宅形式は変わらない。変わらなさをとりわけ印象づけるのは、首都圏最大級という住宅展示場の大型チラシである(図Ⅲ1④)。不動産広告は、すでにインターネットが主要なメディアになっているけれど、実物を体験できる住宅展示場は宣伝媒体として健在である。
もちろん、変化も明らかである。新築住宅として目立つのは、高齢者にターゲットを絞った、ケア付きのシニア向けマンションや老人ホームである。そして、そもそも新築住宅の広告が少なく、圧倒的に中古住宅のチラシが多い。売りに出されるのは、当然、nLDK型住戸である。そして、リハウス、リフォームを勧めるチラシは頻繁である。いささか薄気味悪いのは、わが団地、わが住居を特定したチラシの投げ込みがある。そして、霊園や葬式関連のチラシがしばしば入る。
こうした住宅情報は身近なごく一部の地域に限定されたものだけれど、オープンデータによっても、ある程度確認できる。はっきり指摘できるのは、住宅の供給と需要のずれが蓄積されていること、住宅の供給単位である住戸型すなわちnLDKと居住単位である家族類型とのミスマッチが拡大していることである。平均世帯人数は、3.45人(1970年)、3.01人(1990年)、2.44人(2018年)と一貫して減少してきた。nLDK住戸モデルが想定した核家族は、すでに総世帯数の1/4程度になっている。最新の国勢調査(2015年)によれば、総世帯数5333万世帯のうち、核家族世帯は2975万世帯(55.8%)であるが、夫婦のみが1072万世帯(20.1%)、夫婦と子供という本来の核家族が1429万世帯(26.8%)、片親と子供世帯が475万世帯(8.9%)である。そして、単独世帯が1842万世帯(34.5%)もある。夫婦のみの二人世帯と単独世帯を合わせれば、54.6%にもなるのである。さらに、拡大家族世帯が456万世帯(8.6%)、非親族を含む世帯が46万世帯(0.9%)、統計数字だけからも、世帯の多様化ははっきりしている(表Ⅲ1①)。
マイホームの夢がフィクションと化して久しいのである。数字が指し示すのは一人で終末を迎える住居である。65歳以上の世帯員のいる2171万世帯(40.7%)のうち、夫婦のみ世帯が642万世帯(12.0%)、単独世帯が592万世帯(11.1%)なのである。夫婦のみ世帯はやがて単独世帯となる。nLDK住宅であれ、やがて、おひとりさま(独居)の終末住宅となるのである。
「オタク」という言葉が一般的に用いられるようになったのは、平成元(1989)年の連続幼女殺人事件によってである。ひたすら「閉じた個室」に閉じこもり、マニアックな興味のみにおいて他とつながる「オタク」の存在は1980年代から知られてきたが、犯人Mのヴィデオテープが積み重ねられた部屋は、「オタク(お宅)」の典型とみなされたのである。近年は、「ひきこもり」がしばしば話題になる。中高年のひきこもりは「8050問題」[32]「限界家族」ともいわれる。「個室」に居住し、インターネットのみによって社会とつながる単身者が相当程度存在している。勤労世代でも単独世帯は1250万人(23.4%)にのぼる。経済格差による貧困層の拡大を考えれば、むしろ、「ワンルームマンション」や「木賃アパート」など「個室」居住が一般化している状況が想定される。単純化すれば、大家族からの核家族の自立、そして核家族からの個の自立を理想化してきた日本の近代家族の受け皿としてのnLDK住戸は、個室に解体されつつあるのである。
集まって住むーその多様なかたち
一家族(世帯)=一住宅という形式は、日本における近代家族の確立という流れのなかで現実化されていくが、その問題点は当初から認識されていた。2DK→nLDKにしても、住戸の間取り(平面形式)のみの提案、議論であって、住戸がどう集合するか、その集合の論理は当初から欠落していたのである。階あるいは、予め、段室を挟んで左右5戸ずつ積み重ねるバッテリー・タイプ(階段室型)(ほかに中廊下型、片廊下型、回り廊下型など)、住棟を南面させ、冬至4時間日照を確保できる間隔で隣棟を並行配置する団地形式が暗黙の前提とされていたのである。
超えるべきは、第一にnLDK住戸モデルである。本書で取り上げる事例の多くはnLDKを超える試みである。多様な家族の形に合わせて多様な住宅が提案されるのは当然である。第二に超えるべきは、隣地境界線である。すなわち、住戸と住戸の間にいかに共用空間を確保していくかである。集まって住む多様なかたちについて、この間、さまざまな提案がなされてきた。本書の集合住宅の事例「熊本県営保田窪第一団地」「ネクサスワールド」「NEXT21」「岐阜県営住宅ハイタウン北方」「東雲キャナルコート」「コモンシティ星田」「SAYAMA
FLAT」「Apartment鶉(じゅん)」などは、新たな集合形式を求めようという試みである。また、「森山邸」「島原のシェアハウス」「庭路地の家」などにしても、集まって住むかたちへの提案がある。なかでも、家族のかたちと住居のかたちめぐって一貫して問い続けている建築家の代表が山本理顕である。「山川山荘」(1978)から「GAZEBO」(1986)(図Ⅲ2①)「ROTUNDA」(1987)「HAMLET」(1988)を経て「熊本県営保田窪団地」(1991)「岡山の住宅」(1992)「緑園都市」(1992~94)「東雲キャナルコートCODAN」(2003)などの作品とともに、日本の住宅の驚くほどの画一性とそれを支える生活像、家族像についてのステレオタイプ化された幻想を批判する住居論を展開してきた[33]。
集まって住むあり方はもちろん建築形式だけの問題ではない。集団の形成があって、それに相応しいかたちを求めるのが基本的流れである。前提となる集団への着目としては、1970年代初頭から「OHP(Our Housing Project)」「都住創(都市住宅を自分たちの手で創る会)」といった設計集団によるコーポラティブ・ハウスの建設があり(図Ⅲ2②)、「コープ住宅推進協議会」設立(1978)の歴史もある。さらに公的住宅にも「グループ分譲」という、あらかじめ入居者を募集して、その集団的要求をもとに設計し、供給しようとする試みもあった。
今日では、シェアハウスあるいはコレクティブ・ハウスと呼ばれる単身者が共同居住する形式も一般化しつつある。個別の住宅設計においても、仲俊治「食堂付きアパート」、オンデザインパートナーズ「ヨコハマアパートメント」、ツバメアーキテクツ「牛久の親子屋根」など、地域と共有できるスペース、地域に開かれたスペースを内包させる試みがある。集まって住む多様なかたち求めていくことは果てしない課題である。
空き家-空間資源とリノベーション
住宅が居住のためにのみ使用されるのであるとすれば、すなわち投機の対象として売買されることはないとすれば、また、世帯数の増加がなければ、毎年の新設住宅着工戸数は、住宅の耐用年数に応じてほぼ一定になっていくはずである。しかし、総人口はすでに減少に向かいはじめたにもかかわらず、総住戸数(ストック)はこの間増加しつづけ、結果として、空き家が増えつづけている。新設住宅着工戸数(フロー)については、耐震偽装事件による建築基準法改正(2007年)によって100万戸をきって以降回復することはない[34]。リーマンショック直後には78万戸(2009年)となり、徐々に減って、2030年には約55万戸になると予測されている(図Ⅲ3①)。仮に、世帯数と同じ住戸数が必要であるとして、総住戸5000万戸が50年(耐用年限)に一度更新されるとすれば年100万戸、100年に一度更新されるとすれば年50万戸の新設住宅建設となるから、ほぼそういう方向に推移していると考えていい。
問題は、老朽化した鉄筋コンクリート造の共同住宅の更新システムが成立していないことである。そして、増加しつづける空き家をどう再生し、全国の居住空間をどう再編成するかということである。
1968年に総住宅数が世帯数を超えて以来、空き家は増え続け、70年代末には268万戸(空き家率7.6%、1978年)、平成元年には330万戸、21世紀初頭には846万戸(13.5%、2013年。総世帯数は5099万世帯、総住宅数は6242万戸、その差1143万戸から複数住戸を所有する世帯を除く。さらに別荘などの「二次的住宅」を除けば808万戸)、平成末には1083万戸(17.0%、2018年)と推移し、世帯数の減少も加速して、2033年には2166万戸が空き家となると予測されるのである(図Ⅲ3②)。空き家(2018年)のうち、賃貸用住宅が431万戸、売却予定住宅が29万戸、「二次的住宅」が38万戸、「その他の住宅(世帯主が長期不在、取り壊し予定など)」が347万戸である。また、戸建住宅が317万戸、長屋建が50万戸、共同住宅が475万戸である。
スクラップ・アンド・ビルドの時代からリノベーションの時代への転換は必然である。建設省主導でマンションリフォーム推進協議会が設立されたのは1992年であるが、大きな流れとなるのは21世紀初頭である。リノベーション運動を先導することになる大島芳彦がブルースタジオ(1997設立)に合流するのが2000年、馬場正尊がオープン・エーを設立し(2003年)、東京R不動産を立ち上げたのが2004年である。そして、松永安光、松村秀一、清水義次といったメンバーによって立ち上げられたHEAD(Home & Environment Advanced Design)研究会(2008年設立)が立ち上げられ、その主催によるリノベーションスクールが開始されるのは2011年である。並行して、住宅リフォーム推進協議会(2000年)、リノベーション住宅推進協議会(2009年)など業界団体も設立されていくのであるが、まちづくりに結びついて、居住空間の再編成とともに、地域の再生を目指すリノベーションスクールの運動は目指すべき大きな方向を示している。こうした動きと豊富な事例については松村秀一(2018)が詳しい。また、京都を拠点として、京町家の再生を積み重ねる魚谷繁礼などの注目すべき動きもある。
タワーマンションと木賃アパート
1991年のバブル崩壊以降、それ以前に構想されたプロジェクトを除けば、大規模な都市開発は行われない。都市再生、地方創生が一般的な課題となるのは必然である。しかし、夢見られたのは、高度成長期の1960年代、1980年代末のバブル経済の再現である。環境、防災、国際化等の観点から都市の再生を目指す21世紀型都市再生プロジェクトの推進や土地の有効利用等、都市の再生に関する施策を総合的かつ強力に推進することをうたって内閣府に都市再生本部が設けられたのは「空白の10年」を経た小泉第一次内閣の2001年である。
日本の超高層建築時代の幕開けを切ったのは「霞が関ビル」(156m、36階、1968、三井不動産、山下寿郎)であるが、超高層建築[35]と並行して住居専用の高層住宅が出現する。1976年に建設された「与野ハウス」(66m、22階、住友不動産)が高層分譲マンションの第1号とされる。建築基準法20条が60m以上の建物を「高層」(1号建物)と規定していることによる。その後、環境アセスメント条例が規定する98m以上の高層住宅をタワーマンションと呼ぶようになるが、最高層マンションが「与野ハウス」を超えるのは、バブル期に入ってからである[36]。きっかけとなったのは、斜線制限の緩和を行った1987年の建築基準法改正である。バブルが弾けて、20世紀末から21世紀にかけて超高層住宅いわゆるタワーマンションが急増するのは、容積率を600%まで増加し日影規制の適用を除外とする規制緩和(「高層住居誘導地区」制度)と廊下・階段等の容積率への不算入を行った1997年の建築基準法改正が大きい。
この間、タワーマンションは年々増え、東京、大阪、横浜、名古屋、福岡といった大都市へ広がり、現在、全国で約1600棟のタワーマンションが存在する。ニューヨークやシカゴ、上海や香港のような集積密度はないが、日本の大都市なかでも首都・東京が行き着きつつあるのは、超高層やタワーマンションが林立する巨大都市である。
しかし、その方向が空き家をさらに生んでいくことははっきりしている。タワーマンションがターゲットとしたのは核家族であり、大量に供給したのはファミリータイプすなわちnLDK住戸である。大型タワーマンションの場合、1棟あたり1000戸以上あり、数千人の住民といえば一つの町であり、少なくとも1行政単位となる。その30年後を考えてみて欲しい。今日の老朽化マンション問題が既にその行く末を示している。さまざまな日常生活関連施設を集積するが、すでに初期のタワーマンションでは居住者の高齢化が問題になっているのである。
しかも、タワーマンションには防災上の問題が少なくない。火災に対しては、強力なポンプ車、高層用はしご車が必要とされる。また、広い土地が必要であり、これまで未利用であった河川沿いの土地に立地する例が少ない。首都圏における新しいコミュニティづくりで話題をよんだ「パークシティ武蔵小杉ミッドスカイタワー」が多摩川の洪水に見舞われたことは記憶に新しい。
バブル崩壊以後の「失われた10年」が明らかになるとともに格差拡大の問題が深刻化してくる。日本社会が一億総中流といわれたのは1960年代から70年代にかけてであるが、バブル期における株価、地価の上昇を背景として「持てる者」と「持たざる者」の資産格差が拡大、個人の能力や努力の評価については平等と考えられた日本社会は幻想であることが明らかになるのである。そして、20世紀末のアジア金融危機(1997年)を契機として、大企業による正規社員の削減、非正規社員の増加は、「就職氷河期」(1995~2005年卒業世代)を招き、若年の、職に就けないフリーターや働いても給料の少ないワーキングプア、また就学・就労・職業訓練を行わないニート(NEET)を生んだ。日本の貧困率は、15.7%(2016年)(ひとり親世帯の貧困率50.8%)で、今や世界においても、先進諸国においても高い(図Ⅲ4②:厚生労働省公式サイト)。タワーマンションが林立する一方で、増加しつつある貧困者層の受け皿となってきたのは木賃アパートや「ドヤ街」である[37]。また、ホームレスやネットカフェ(ネットカフェ難民)や車に寝泊まりする人々すなわち住民票をもたない層も増加もしつつある。
プレファブ住宅や公共住宅とは別に、戦後、日本の特に大都市の住まいを支えてきたのが木賃アパートである。1960年代から70年代にかけて、木賃アパートは上京してきた学生たちや若いサラリーマンたちの受け皿だった。当時は「賄い付き下宿」も一般的であり、ワンルームマンションが登場するのは後の時代である。膨大に供給され、住宅ストックとなってきた木賃アパートのリノベーションの動きも当然起こってくる。首都圏のさまざまな大学から学生が集まり、木賃アパートを自分たちの手で、自分たちの住みたくなるようなものに改修しようという「木造賃貸アパート再生ワークショップ」が行われたのは2009年であり、そのワークショップに主体的、主導的に参加した若い学生たちのひとり、連勇太郎らがNPO法人モクチン企画を立ち上げたのは2012年である。このモクチン企画は、「モクチンレシピ」というリノベーションのメニューを用意し、工務店や駅前不動産業者と連携するユニークな事業を展開しつつある。「ドヤ街」については、岡部友彦の「横浜ホステルヴィレッジ」の取り組みもある。
スマートハウスとゼロエネルギーハウス
タワーマンションを可能にした背景には、建築構造技術の発展がある。そして、超高層で住生活が可能となるためには、建築環境設備の発達が不可欠である。超高層とともに、人工環境化していく都市の象徴となるのは、季節や天候に限らず、いつでも試合や催しができる空調設備を備えたドーム建築である。「東京ドーム」(竹中工務店、日建設計)が竣工したのが1988年である[38]。
住宅の気密化が進められたのは、上述のように1960年代のアルミサッシの普及が示しているが、追及されてきたのは、冷暖房を効率化する高気密高断熱の住宅である。断熱材として古来用いられてきたのは大鋸屑や籾殻であるが、1960年代に暖房用の石炭費用の削減そして表面結露を防止するためにグラスウールが用いられるようになる[39]。そして、二次にわたるオイルショックを経て「省エネ法(エネルギーの使用の合理化に関する法律)」が制定されるのが1979年である。以降、省エネ法による住宅の断熱基準と設計施工指針が全国的に用いられるようになり、バブル崩壊後に改正強化される(1992年)。しかし、本格的に推進されるきっかけとなったのは1997年のCOP3(気候変動枠組条約第3回締約国会議)の京都議定書であり、それを受けた抜本的改正強化(1999年)である。ただ、省エネ法はその後現在に至るまでこの改正時のままである。
省エネルギー住宅として、住宅メーカーが1990年代に開発を試みたのは、太陽電池や蓄電池、エネルギー制御システムなどを装備した、創エネ、省エネ、蓄エネ型住宅、いわゆる「スマートハウス」[40]である。日本では、ホームオートメーション、インテリジェントハウス、電脳住宅、マルチメディア住宅、IT住宅などと呼ばれるが、当初主眼が置かれていたのは情報伝達技術ICT[41]の居住空間への導入である。外出先からプッシュホン(現在ではスマートフォン)により電気錠やエアコンの操作を行うことができるテレコントロール、テレビ画面による家電機器のコントロール、ホームセキュリティー・システムなどがあった。この住宅のインテリジェント化は、電話回線からインターネットへ、サービスも電子レンジや洗濯機から、スマートフォンとWebカメラを利用した留守宅や高齢者の見守りシステムなどへ進化してきた。省エネという意味では、住戸内のエネルギー管理システムHEMS(Home Energy Management System)で家電、太陽光発電、蓄電池、電気自動車等を一元的に管理するシステムが想定されている。電力の流れを供給・需要の両側から制御し、最適化できる送電網スマートグリッドとの連結もスマートハウスという概念には込められる。
しかし、地球環境問題は一戸の住宅の断熱性能やエネルギーの効率的制御による省エネルギーのレヴェルにあるわけではない。重要なのは住宅の建設、使用、解体の全過程における地球温暖化ガスの排出量削減であり、再生可能エネルギーを最大化していく方向である。国連が「サステナブル・ディベロップメント」という理念を提唱するのは1987年である。この年は国際居住年IYSH(International Year of Shelter for Homeless)でもあった。そして、国連は現在、貧困の撲滅を第一に掲げる「持続可能な開発目標SDGs(Sustainable Development Goals)」を掲げる(2015年)。建築環境の総合的評価システムとして、英国でBREEAM(Building Research Establishment
Environmental Assessment Method)が制定されたのは1990年、米国のLEED(Leadership in Energy and Environmental
Design)が定められたのは1993年である。日本のCASBEE(Comprehensive Assessment System for Built Environment
Efficiency)は2001年と遅れる。ゼロエネルギー住宅ZEH(Net Zero Energy House)[42]、LCCM(Life Cycle Carbon Minus)[43]が政策目標[44]となるのはごく最近のことである。
この間、工業材料ではなく自然素材を用いた、あるいは自然として樹木を積極的に取り入れる住宅が試みられてきた。藤森照信「ニラハウス」平田晃久「Tree-ness House」などがそうである。象徴的な表現といっていいのであるが、ひとつの目指すべき方向を指し示している。「環境共生住宅」(エコハウス)という言葉も用いられ、機械力に頼るアクティブ・デザインに対して、自然エネルギー、自然環境に依拠するパッシブ・デザインが対置される。「オートノマスハウス(自律住居)」すなわち完全に自給自足の住宅という概念も提出されているが、可能な限り一定の地域において循環系を再生させることが、サステナブル社会への道である。
ヒロシマからフクシマへ──第二の戦後
経済の低迷に加えて、日本列島を立て続けに襲ったのは大規模な自然災害である。1970年代から80年代にかけての自然災害は、死者行方不明345名を出した長崎豪雨(1978年)が最大であった。1995年に起きた阪神淡路大震災(兵庫県南部地震)は死者6433名で、死者数では伊勢湾台風(1959)の4697人を超える大災害となった。都市直下型地震として、高速道路が横転するなど、多くの建築物が倒壊、日本社会に対して、とりわけ建築界に対して大きな衝撃を与えることになった。
戦後50年の節目に当たる1995年は、日本の戦後50年のなかでも敗戦の1945年とともにとりわけ記憶される年である。阪神淡路大震災と「オウム」事件、この二つの大事件によって、日本の戦後50年のさまざまな問題が根底的に問い直されることになったのである。加えて、年末には、バブル経済のツケといっていい「住専問題」(不良債権問題)が明るみに出た。住宅が財テク、投機の対象とされ、一瞬にして価値を失うのである。一体、われわれの生活の基盤はどうなっているのか──日本の戦後社会を支えてきたものが大きく揺さぶられたのが1995年である。
日本列島は、その後も、地震、台風に毎年のように襲われる。2004年には台風23号による風水害と新潟県中越地震に見舞われた。そして2011年3月11日に、東日本大震災が起きた(図Ⅲ6①ab)。マグニチュード9.0の史上最大の巨大地震によって、東北地方は大津波に襲われ、しかも、福島第一原子力発電所(1号炉、2号炉、3号炉)の炉心溶融(メルトダウン)という大事故を引き起こした(図Ⅲ6②)。死者・行方不明者の数は1万8429人、建築物の全壊・半壊は合わせて40万4890戸が公式に確認されている。震災発生直後、停電世帯800万戸以上、断水世帯180万戸以上、避難者は40万人以上におよんだ。原発事故の処理は未だに終わってはいない。どころか、汚染水、汚染土、使用済み燃料の処理を考えれば、気の遠くなるような時間を要する。「平成」末(2019年4月30日)時点でも、避難者の数は5万人を超えている。
ヒロシマ1945.08.06からフクシマ2011.03.11へ、原子力を根幹に据える世界がいかに危ういかを、日本は、そして世界は再び思い知る。原子爆弾による焼け野原と原発事故以後無人となった野原を比べるとき、後者には明らかに展望がない。日本の拠ってたつ基盤を根底から揺るがした原発事故のダメージは計り知れない。3・11直後、多くの建築家たちはすぐさま動いた。「アーキエイド」の建築家の活動や伊東豊雄などの「みんなの家」がその象徴であるが、応急仮設住宅の建設から復興計画の立案へ、被災地支援に通った多くのグループがいる。避難所の間仕切り設置、仮設風呂の建設、竹内泰グループと滋賀県立大学木匠塾グループによる「番屋」建設(図Ⅲ6③ab)、陶器浩一グループの「竹の会所」「浜の会所」(図Ⅲ6④ab)など、戦後まもなく、最小限住居の設計に取り組んだ建築家を思い起こさせる動きであった。
そして、戦後住宅の歩みも再検討されることになる。すぐさま問題にされたのは、建造物の安全性を規定する建築基準法のような法律や基準である。阪神淡路大震災に限らず、大きな地震や災害のたびに問題になる。そして、基準は改定を重ねてきている。全半壊の建物が4385戸、一部損壊建物が8万棟を超えた1978年の宮城県沖地震後、新耐震基準を定める建築基準法の大幅の改正が行われたのは1981年であった。現在でも、1981年以前を旧耐震基準、以降を新耐震基準とする。阪神淡路大震災後に、一部で主張されたのは、新耐震基準を遵守した建物に被害は少なく、旧耐震基準に従うものに被害率が高かった、ということである。しかし、被害の実態はさまざまであって、絶対安全な基準というのはない。高速道路や高架橋が倒壊したのである。2000年には、被害の多かった木造住宅について、地盤調査や接合部の金物や耐力壁の設置などを義務づける建築基準法の改正が行われることになる。しかし、法を守っていればいい、ということではない[45]。
阪神淡路大震災の後、「建築確認・検査の民間開放」を可能とする建築基準法の一部改正(1998年)が行われるが、この第三者検査制度の導入が、「構造計算書偽造」事件(2005~09年)を生むことになる。その後も、さまざま住宅建設に関わる不祥事が続いた。それらは、建設産業の基盤に綻びや空洞が生じていたことを示している。
最大の問題は、住宅生産を支える建築職人が高齢化し、ほとんど消えつつあることである。建設業の就業者数は、1992年には619万人、1997年にピークの685万人となって以降減少が続き、500万人を下回るに至っている[46]。建設業の許可業者数は、1999年にピークの60万業者となるが、47万業者(2018年)に減っている。国勢調査の職業分類でいう建設技術者は、主に住宅などの建築物の建設・改修・維持に従事する建築技術者と、道路・橋梁・河川など土木施設の建設・改良・維持を行う土木・測量技術者からなるが、2000年には前者は39万人、後者は51万人であったものが、2010年にはそれぞれ22万人、24万人に激減する。復興需要が増えた2015年でも、24万人、26万人程度である。そして、とりわけ建築技術者の高齢化と後継者難は、極めて深刻になっている。
こうした建築技術者、建築職人の減少の背景には、2×4(ツーバイフォー)工法やプレカットという機械による加工技術の導入がある。すなわち、戦後から続いてきた住宅生産の工業化の流れによって、伝統的な住宅生産システムが大きく混乱、衰退してきたのである。
おわりに──すべてが建築であり、誰もが建築家である原点
「平成」の日本の住宅をめぐって、住宅モデルと家族モデルがずれてきていること、そのために大量の空き家が出現していること、単独世帯が多数になる趨勢に対して、空間の再編成、そのリノベーションが必要なこと、また、集まって住む多様なかたちが求められていること、格差が拡大しつつあり、タワーマンションが林立する一方で低所得者の住宅が見逃されてきていること、地球環境問題が深刻化しつつあるなかで、真のエコハウスが求められていること、建築職人が激減していること、などを見てきた。全ての歯車が噛み合わなくなってしまっている。われわれは、最小限住宅から出発した原点に戻って、再出発する必要がある。量は既に必要ない。現在手にしている新たな道具(CADやBIM,ICT技術)も援用しながら、全く、異なった出発が可能な筈である。
「平成」入ってまもなく、上述のように(Ⅱの末尾)、住宅革命の1960年代を確認しながら、「小さな回路」における、住宅の生産流通消費の全プロセスに関わる「アーキテクト・ビルダー」の可能性、「地域に固有なハウジングシステム」の構築、住宅設計から町づくりへの展開、オルタナティブ・テクノロジーの開発、DIY、セルフ・ビルドを組み込んだ住宅システム(プロセスとしてのハウジング)、多様な家族形態への対応、多様な集合形式の展開、都市型住宅の型の開発、共用空間の多様化、住宅の再生循環システムの構築、地域住宅生産システム、環境共生住宅の開発などを展望したのであるが、必ずしも、その展望に沿う動きが大きな流れとなったわけではない。「平成」時代が明らかにしたのは、最終的に、不動産を動産化し、空間を商品化し、投機の対象とする住宅産業の行きつく先である。それ故、同じ展望を繰り返すことになるけれど、既にその萌芽はある。そして、その行方を考えさせるのが本書のさまざまな事例である。
発泡スチロールの「家」をかぶって日本をさまよい続ける村上慧の姿が日本の住居の現在を象徴しているようにも思える。日本には、安らかに棲み続ける終の棲家が失われつつあるのである。誰もが、ひとりでは生きていけないのだとすれば、必要とされるのは、身近な居住環境を心地のいい家族や地域コミュニティによって維持管理していくサステナブルな仕組みである。そしてはっきりしているのは、この仕組みをつくり上げようとする試みが、住居を単なる容器に解体してきた巨大な力に対する、果てしなき戦いとなることである。
現代というものは取り決めだ。私たちはみな、生まれた日にこの取り決めを結び、死を迎える日までそれに人生を統制される。この取り決めを撤回したり、その法を越えたりできるひとはほとんどいない。この取り決めが私たちの食べ物や仕事や夢を定め、住む場所や愛する相手や死に方を決める。・・・
現代の取り決めは、力と引き換えに、意味を捨てることを私たちに求める。
ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス』[47]
参考文献
鈴木成文(2006)『五一C白書 私の建築計画学戦後史』住まい学体系101、住まいの図書館出版局
日本建築学会(1981)『日本の民家』1 農家・集落編
日本建築センター(2019)『日本の近代・現代を支えた建築 建築技術100選』日本建築センター
布野修司(1981)『戦後建築論ノ-ト』相模書房
布野修司編(1985)『日本の住居1985 戦後40年の軌跡とこれからの視座』(『建築文化』1985年12月、彰国社)
布野修司編(1995)『日本の住宅 戦後50年』(『建築文化』別冊、1995年3月、彰国社)
布野修司編(2005)『世界住居誌』昭和堂
布野修司+田中麻里+ナウィット・オンサワンチャイ+チャンタニー・チランタナット(2017)『東南アジアの住居 その起源・伝播・類型・変容』京都大学学術出版会
松村秀一(2018)『空き家を活かす 空間資源大国ニッポンの知恵』朝日新聞出版
あとがき
メモ
戦後の住宅をめぐる課題は3つあった。一つは戦災復興および急激な人口増に対応するための大量住宅供給(住宅金融公庫、団地)。2つめは都市の過密化や公害問題に対処するために、居住環境を少しでも向上させる努力(庭付き一戸建て神話、都市ゲリラ住居)。3つめは主に建築家によって追求された、生の表現としての家。これらの課題への取り組みは80年代にひとつのサイクルをひとまず終えた。それまでずっと「住宅を何とかしなくては」と走りつづけてきた建築界においても、80年代になるとそもそも「住宅って何だっけ」と考える余裕が出てきた。この住宅のアイデンティティ・クライシスともいえる問いは90年代以降の住宅論の基調をなしている。すなわち住宅にとって「平成」の30年は、住宅とはそもそも何かという自問自答の時代とも位置づけられる。またこの時期には同時に、住宅をめぐる危機がつぎつぎにやってきた。バブル崩壊、震災をはじめとする天災、伝統的家族像の崩壊、建築家のオタク化、着工数の減少などである。こうして90年代以降の住宅は、ラディカルな問いから批評性のあるさまざまな回答を生むいっぽうで、多くの困難を抱え込んでしまった。しかし、現実が困難な時代にこそ新たな思想が可能になるのが世の常である。今こそ住宅をめぐる30年の苦闘の跡に、新たな住まいの思想の芽を見出すときである。
→平成(大まかに言えば『日本の住宅 戦後50年』以降)の住宅を、建築家の作品としての側面、家族のかたちや生産技術との関係など社会の中での市井の人々にとっての住まいとしての側面双方から、その両面を分断せずに考えることで、迷走の時代の住宅像を多角的に活写する。
[1] Yuval Noah Harari(2014), “Sapiens:
A Brief History of Humankind”, Harvill Secker, 2014. 。ユヴァル・ノア・ハラリ(2016)『サピエンス全史―──文明の構造と人類の幸福』上下、柴田裕之訳、河出書房新社、2016年。引用は、「第18章 国家と市場経済がもたらした世界平和」「第19章 文明は人間を幸福にしたのか」より。
[2] 『日本の住居1985 戦後40年の軌跡とこれからの視座』(布野修司編、『建築文化』No. 470、彰国社、1985年)、『日本の住宅 戦後50年』(布野修司編、彰国社、1995年)など。
[3] 木村伊兵衛らによる『東京・一九四五年秋』(文化社、1946年4月)など。
[4] 1941年設立。関東大震災(1923年9月1日)の義捐金で設立された同潤会の事業を引き継ぐ形で設立された公的住宅供給機関。1946年連合国軍最高司令官総司令部(GHQ)によって解散を命じられた。
[5] 布野修司(2000)『裸の建築家—タウンアーキテクト論序説』建築資料研究社
[6] 『新建築』誌が主催した設計協議には、「十二坪木造国民住宅」(1948年4月)、「新住宅懸賞競技─家庭労働の削減を主体とする」(1948年8月)、「十五坪木造住宅懸賞競技―育児を主たるテーマとする」(1948年12月)、「五〇平方メートルの木造一戸建住宅設計競技―整理・整頓・格納を主題として」(1949年4月号)がある。
[7] 第二次世界大戦後直後、日本全体で420万戸の住宅が不足していたと推計されている。東京大空襲、ヒロシマ・ナガサキへの原子爆弾の投下など、戦災による住宅喪失(約240万戸)に加えて、戦時下に疎開などによって壊されたもの、建てるべくして建てられなかったもの、海外からの引揚者のための住宅が必要とされたのである。
[8] 提案したのは、GHQによって公職追放となった初代会長小林一三に代わって、戦災復興院の第2代総裁となった阿部美樹志である。小林一三は、阪急電鉄、宝塚歌劇団、阪急百貨店、東宝など阪急東宝グループを創業し、率いた実業家、政治家であるが、鉄道事業と一体化した都市開発、流通事業を展開、六甲山麓の高級住宅地、温泉、遊園地、野球場、関西学院等の高等教育機関の沿線誘致などによる日本的田園都市の実現を目指した。阿部美樹志は、鉄筋コンクリート造の専門家で、イリノイ大学で学位を取得した学者であり、国鉄で仕事をしてきた人物であった。、
[9] Aは8畳・6畳・台所、Bは6畳・6畳・台所、Cは6畳・4畳半・台所である。
[10] 51A、51B、51C、51MBの4つのプランで、Aは16坪、Bは14坪、Cは12坪、そしてMBは異なる規模の住戸をミックスしたタイプである。
[11] 建設省から委託を受けたのは建築設計管理協会(後の日本建築家協会)で、具体的に担当したのは、Aは松田・平田設計事務所、Bは山下壽郎設計事務所、Cは久米建築事務所、MBは石本建築事務所である。各事務所からの提案を「国庫補助住宅設計構造審議会」(1950年秋)が審議の上決定するというかたちであったが、その基本設計部会(委員は、平山嵩、木村幸一郎、佐藤鑑、高山英華、武基雄、丹下健三、吉武泰水。)の委員であった吉武泰水が各案について提案、各事務所が実施設計を行うというのが実際のプロセスであった。
[12] 「1.普通の家族構成では(居住期間を考え合わせると)少なくとも2寝室必要で、C型でも2寝室とるべきであろう。2つの寝室のうち1つは「基本寝室」(夫婦寝室)として初めから設計することが望ましく、両者の隔離に注意したい。
2.これまでの住宅は結局1室的で、間仕切りも不完全である。家族人数や家族構成によって居住部分をどう区切るかの要求は異なるが、子どものある家庭では、少なくとも家族全員がくつろげるほどの広さをもつ部分と、勉強、読書、仕事(家事を含む)などが出来る部分をもつことが必要であろう。後者はさほど広くなくてもよいが基本寝室としての条件を備え、前者とは壁で仕切ってもよいのではあるまいか。前者には家族構成や生活の仕方に応じた住み方のできるゆとりが欲しい。この部分は南面させ、台所と直結するかあるいは調理部分を含み、住戸の出入り口や便所につながるように配置したい。
3.「食寝分離」は小住宅では「就寝分離」を犠牲にすることになりやすい。少なくとも朝食の分離が出来るよう台所を広めにとることがよいと思われる。」(日本建築学会研究報告13号、1951年8月)
[13] 「51C」型住宅は、1951年から1957年度にかけて全国で6654戸建設される(規格住宅研究会『アパートの標準設計』住宅研究所、1959年)。すべての都道府県で鉄筋コンクリート造の公営住宅が建設されたわけではなく、東京都、福岡県、愛知県など大都市中心に19都道府県において建設されたことが確認されている。また、「51C」型の標準設計がそのまま使われたのではなく、例えば2部屋の和室を壁で区切るのではなく続き間とした例が多い。福岡県、愛知県、新潟県、愛媛県には2019年に「51C」型住戸が現存している。
[14] 日本住宅公団は、設立された1955年から1973年の19年間に、65万2000戸(賃貸55万4000戸、分譲9万8000戸)を建設するが、そのうち2DKタイプは24万8000戸を占める(日本住宅公団編(1975)『日本住宅公団20年史』)。
[15] 漆喰壁のように左官材料を使わないのが乾式組立構造で、W.グロピウスによって1910年代に提唱された「木製パネル式組立住宅」をいう。これが日本に紹介され、市浦健などがいくつか試作を試みた。そして、戦時中に住宅営団が開発・試作を行っており、これが戦後に引き継がれる。
[16] 工場生産住宅協会が設立されたのは1946年である。1947年には、倉敷絹織「クラケンC型組立住宅」、棚橋諒「桐2号組立住宅」、田辺平学「組立鉄筋コンクリート住宅」、牧野清「パネル式組立住宅」などが発表されている。
[17] PREはPrefabrication、MはMIDO同人、Oは構造担当の小野薫、Sは山陰工業の頭文字。
[18] 永大産業がプレファブ住宅を試作したのも1959年であり、1960年には、永大、大和、松下、積水、ミサワのプレファブメーカーが設立された。
[19] その後、プレファブ住宅の新築住宅に占める割合は増え続け、昭和から平成に移行する時点で15.8%(1990年)となり、1990年代後半には20%程度となる(20.9%、1998年)。そして現在は、プレファブ住宅は14.0%であるが、ツーバイフォー住宅12.7%を合わせれば、26.7%(2018年)がいわゆる住宅メーカーによって供給されている。
[20] 工業化時代になると、開口部の建具は木製建具から金属製建具に代わっていく。スチール製建具がまず用いられるが、軽量で加工が容易であるアルミサッシが開発される。日本で最初にアルミサッシが用いられた建物は1932年の村野藤吾設計の「森五ビル」であるが、このサッシはアルミ被覆のスチールサッシであった。わが国最初の押出成形サッシバーが造られるのは1950年で、一般のビルに用いられたのは1952年の前川國男設計の「日本相互銀行本店」である。住宅用アルミサッシは、まさにプレファブ住宅の登場と並行して開発され、普及していくことになった。
[21] ハウジング計画ユニオンHPUのメンバー、大野勝彦、石山修武、渡辺豊和、布野修司によって、1982年12月に創刊準備号、1983年4月に創刊号を出して、2000年10月の50号、12月31日の終刊特別号まで51号を刊行した。創刊の言葉に「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅=町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題をさまざまな角度から明らかにする新たなメディア『群居』を創刊します。既存のメディアでは掬いとれない問題にできるだけ光を当てること、可能な限りインタージャンルの問題提起をめざすこと、さまざまなハウジング・ネットワークのメディアたるべきこと、グローバルな、特にアジアの各地域との経験交流を積極的に取り挙げること、等々、目標は大きいのですが、今後の展開を期待して頂ければと思います。」とうたう。 編集長を布野修司が勤め、編集同人として、他に野辺公一、高島直之、松村秀一、秋山正一が加わった。
[22] 「大和ミゼットハウス」(1959年)、「松下1号型」(1961年)、「セキスイハウスB型」(1961年)、「ミサワホームコア100」(1969年)、「セキスイハイム」(1971年)、「ミサワホームO型」(1976年)、「大和ハウス“和瓦の味わい”」(1978年)、「三井ホームコロニアル80」(1980年)、「ミサワホーム55」(1981年)、「殖産住宅ミセスピアⅡ」(1982年)を挙げている。
[23] 八田利也(磯崎新・伊藤ていじ・川上秀光)の『小住宅ばんざい』が、戦後まもなくからの小住宅作家の試みを、復興が進むことにおいてすでに実現しつつあるではないか、と揶揄したのは1958年であり、篠原一男が『住宅は芸術である』と宣言するのは1961年である。池辺陽のようにナンバーを付して100を超える住宅を設計し続けた建築家もいるけれど、量の供給という点では建築家の住宅設計が問題とならないことははっきりしていた。
[24] 戦後建築史については、拙著『戦後建築論ノ-ト』(相模書房、1981年)、『戦後建築の終焉』(れんが書房新社、1995年)を参照されたい。
[25] 『日本の住居1985 戦後40年の軌跡とこれからの視座』(『建築文化』1985年12月、彰国社)
[26] 『日本の住宅 戦後50年』(『建築文化』別冊、1995年3月、彰国社)
[27] Ezra Frivel Vogel, Japan as Number One: Lessons
for America, Harvard University Press, 1979. 『ジャパン・アズ・ナンバーワン―アメリカへの教訓』広中和歌子・木本彰子訳、TBSブリタニカ、1979年)。
[28] 日本のGDPは、1955年から1973年までの高度成長期には年平均10%程度の成長を遂げた後、減速するが、それでも1975年から1991年の年平均4%の成長率であった。
[29] 吉見俊哉(『平成時代』岩波新書、2019年)は、世界の企業の時価総額ランキングを1989年と2018年で比較し、平成元年には、上位50社のうち33社が日本企業であったのに、30年後には35位のトヨタ自動車のみであることを指摘する。
[30] 1960年には、第一次産業人口32.7%、第二次産業人口29.1%であったが、1965年には、24.7%、31.5%と逆転する。第一次産業の就業者数は、以降、急激に減り、1970年に2割を切り(13.8%)、1985年には1割を切る(9.3%)。そして現在は、5.1%(2017年)である。第二次産業は、1975年に34.1%となり、1995年(31.0%)まで30%台前半を維持するが、21世紀に入って25%程度となる(25.9%(2017年))。
[31] 「第2章 欲望としての住まい それぞれの住宅物語 3 それぞれの住宅事情 F氏の住宅遍歴」(布野修司(1989)『住宅戦争──住まいの豊かさとは何か』)。
[32] 引きこもりが長期化すれば、若者も中年になり、親も高齢となり、収入や介護などの問題が発生する。これは80代の親と50代の子の親子関係での問題であることから「8050問題」と呼ばれるようになった。
[33] 『住居論』(住まいの図書館出版局、1993年)、『新編 住居論』(平凡社ライブラリ、2004年)、『建築の可能性、山本理顕的想像力』(王国社、2006年)、『家族を容れるハコ 家族を超えるハコ』(平凡社、2001年)、『「51C」 家族を容れるハコの戦後と現在』など。山本理顕の住居論については、「第四章 家族と地域のかたち 二 家族のかたちと社会のかたち 山本理顕の建築論」(布野修司(2011)『建築少年たちの夢)参照。
[34] 新設住宅着工戸数はオイルショック直前、190万戸(1973年)のピークに達し、翌年115万戸に激減した後、120万戸程度にとどまってきたが(123万戸(1985年))、バブル経済の開始とともに、平成元年~2年には、166~167万戸に回復していた。しかし、バブル崩壊によって134万戸(1991年)に落ち込み、消費増税前の駆け込み需要と阪神淡路大震災の復興需要によって一旦163万戸(1996年)に回復するが、以降減少し20世紀初頭にオイルショック時の水準となり、以降、減少していく。
[35] 「世界貿易センタービル」(163m、40階、1970、日建設計、武藤構造力学研究所)「京王プラザビル」(179m、47階、1971、日本設計)「新宿住友ビル」(210m、52階、1974、日建設計)「新宿三井ビル」(225m、55階、1974、三井不動産、日本設計)など、日本一の高さを誇る超高層建築が次々に登場するが、「サンシャイン60」(240m、60階、1978、三菱地所設計、武藤耕三力学研究所)を最後にいったん途絶える。復活するのは、平成初頭の「東京都庁第一本庁舎」(243m、48階、1991、丹下健三都市建築設計研究所)「横浜ランドマークタワー」(296m、70階、1993、光美諸設計、ザ・スタビンス・アソシエイツ)である。現在日本一は「あべのハルカス」(300m、60階、2014、竹中工務店、ペリ・クラーク・ペリ・アーキテクツ)である。この間の超高層建築の推移は(←何か主語があった方が良いかと思い仮に入れてみました)日本経済の動向を示している。200mを超える40棟の超高層建築のうち、6棟は1970年代に建てられ、1980年代は1棟もない。1990年代は1995年以前に8棟、計12棟、21世紀に入って2000年代が12棟、そして2010年代が10棟である。
[36] ベル・パークシティG棟(115.95m、36階、1987)、大川端リバーシティ21リバーポイントタワー(132m、40階、1989)、オークプリオタワーレジデンス(167m、50階、1993)、エルザタワー55(185m、55階、1998)、アクティ汐留(190m、56階、2004)、クロスタワー大阪ベイ(200m、54階、2006)、The
Kitahama(209m、54階、2009)と推移する。階数でこれを超えるのがTHE TOKYO TOWERS(193.5m、58階、2008)、パークシティ武蔵小杉ミッドスカイタワー(203.45m、59階、2009)、ザ・パークハウス西新宿タワー60(208.97m、60階、2017)である。
[37] モクチン=木賃とは、木造賃貸アパートの略語である。「木賃」はモクチンと呼び慣らされる以前はキチンと読まれた。木賃宿のキチンである。本来、江戸時代に宿場制度として街道筋に設けられた安宿、旅籠を意味する。基本的に大部屋で宿泊者が食材を持ち込んで薪代相当分を払って料理してもらった、薪すなわち木を賃料として払ったから木賃宿である。木銭宿ともいった。明治に入って産業革命とともに都市化が進行すると、東京、大阪、名古屋に「貧民窟」が出現、木賃宿は「貧民窟」すなわち労働者や無宿人を畳一枚程度で雑魚寝させる貧民の巣窟の安宿を意味するようになる。この頃「やど」を逆にした「ドヤ」という言葉ができる。この系譜は、ドヤ街につながる。モクチンは、この「ドヤ」の系譜とは異なる。
[38] 平成に入って、「福岡ドーム」(竹中工務店・前田建設工業共同企業体、1993)「ナゴヤドーム」(監修:三菱地所、設計管理:竹中工務店、1997)「大阪ドーム」(日建設計、協力:竹中工務店・大林組・電通、1997)「西武ドーム」(球場建設:早稲田大学池原研究室、設計アドバイザー石山健一、ドーム化工事:鹿島建設、1999)「札幌ドーム」(原広司 アトリエ・ファイ建築研究所、アトリエブンク、2001)と建設が続いた。「西武ドーム」は、屋根のみドームとし、壁のない(密閉しない)ユニークな球場である。「札幌ドーム」は、サッカー場をドーム内に引き入れる、野球サッカー兼用の球場である。もちろん、すべてのドーム球場は、さまざまさまざまな用途に用いられる。ドーム球場以外にも、大館樹海ドーム(竹中工務店、伊東豊雄建築設計事務所、1997)、仙台市屋内グラウンド(シェルコムせんだい、佐藤総合計画、2000)「出雲ドーム」(鹿島デザイン、1992)など、また、ドーム建築に限らず、スライド式の屋根をもつ有明コロシアム、豊田スタジアムなども含めて、数多くの球技が可能な屋根付の大規模建築が、日本列島につくられていった。
[39] 北海道防寒住宅建設等促進法による断熱基準が制定されたのは1969年である。
[40] 家電や設備機器を情報化配線等で接続し最適制御を行う「スマートハウス」は、1980年代にアメリカで提唱され、NAHB(全米ホームビルダー協会)の実証プロジェクトとしてスタートした(Smith Ralph Lee(1988), Smart House:
The Coming Revolution in Housing, GP Publishing, Inc.)。
[41] 住宅情報化推進協議会(ALICE FORUM)が住宅関連の団体・企業を中心に設立されたのは1988年である(2009年解散)。
[42] ZEH(ゼッチ)とは「外皮の断熱性能等を大幅に向上させるとともに、高効率な設備システムの導入により、室内環境の質を維持しつつ大幅な省エネルギーを実現した上で、再生可能エネルギーを導入することにより、年間の一次エネルギー消費量の収支がゼロとなることを目指した住宅」とされる。
[43] LCCM住宅とは、建設時、運用時、廃棄時においてできるだけ省CO2に取り組み、さらに太陽光発電などを利用した再生可能エネルギーの創出により、住宅建設時のCO2排出量も含めライフサイクルを通じてのCO2の収支をマイナスにする住宅をいう。
[44] 地球温暖化対策計画(平成28年5月閣議決定)そしてエネルギー基本計画(平成30年7月閣議決定)において、「住宅については、2020年までにハウスメーカー等が新築する注文戸建住宅の半数以上で、2030年までに新築住宅の平均でZEHの実現を目指す」とする。
[45] 問題が多いのは、旧耐震基準に従う「既存不適格」とされる建築物である。既存不適格建物とは、基準となる法が変わり、現行法では法律に適合しない、現在では建設できない建築物である。「既存不適格」建物は駄目であった、ということになると一体誰の責任になるのか。さらに、設計(書類)上は法や基準を遵守していても、手抜き工事などその通りに施工されない問題がある。誰がそのチェックをするのか、震災以後、検査機関の必要性が叫ばれたのは当然である。実際被害の大きかった木造住宅は老朽化したものが多かった。白蟻や結露、漏水によって部材が腐っていたのである。木造住宅に限らない。どんな建物でも、新築のときには基準を満たしていても、次第に老朽化するのは当然である。要するに、安全は必ずしも法によって担保されるわけではないのである。法や基準は時代とともに変わりうるし、そもそも絶対安全な建築物などはないのである。
[46] 建設投資額は、1960年代から70年代にかけて全投資額の20%から25%を占めるに至り、日本は「土建国家」と呼ばれてきたのであるが、50兆円前後に落ち着いていた建設投資額は、バブル経済によってピークとなった84兆円(1992年)以後、徐々に減り、2000年には66兆円、2005年には51兆円、近年は、東日本大震災の復興投資もあって50兆円程度で推移している。
[47] Yuval Noah Harari, Homo Deus: A Brief History of Tomorrow, Harvill Secker, 2015. ユヴァル・ノア・ハラリ『ホモ・デウス──テクノロジーとサピエンスの未来』上下、柴田裕之訳、河出書房新社、2018年。引用は、「第6章 現代の契約」。
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