このブログを検索

2022年3月5日土曜日

「タウンアーキテクト」制の可能性ー「景観法」の実りある展開をめざして,特集景観まちづくりへのアプローチ,『ガヴァナンス』,ぎょうせい,200406

「タウンアーキテクト」制の可能性ー「景観法」の実りある展開をめざして,特集景観まちづくりへのアプローチ,『ガヴァナンス』,ぎょうせい,200406

 

「タウンアーキテクト」制の可能性―「景観法」の実りある展開を目指して

                         布野修司

 

建築文化景観問題研究会[1]座長(199295年)、滋賀県景観審議会委員(199498年)、島根県景観審議会委員(1996年~)、島根県環境デザイン検討委員会委員(1996年~)、島根景観賞委員会委員(1994年~)、宇治市都市計画審議会会長(1998年~)、京都市公共建築デザイン指針検討委員会委員(19992000年)、宇治市景観審議会委員(2002年~)などを務めさせて頂く中で、いわゆる「景観問題」について考えてきた。

痛感させられ続けて来たのは、「景観条例」なり「景観審議会」なるものがほとんど無力であることである。宇治市では、都市計画審議会と景観審議会の委員を兼任しながら効力ある制度手法を考えてきたけれど、容易ではない。条例違反が官報に氏名公表というだけではあまりに弱いのである[2]。また、「景観条例」なり「景観(形成)基準」なるものがあまりにも画一的で固定的なことももどかしい。原色は駄目、曲線は駄目、高さが低ければいい、勾配屋根ならよろしい、というのは余りにも単純で短絡的である。

そこでこの間考えてきたのが、地区の景観形成の責任と権限をある人物なり機関に委ねる、仮に「タウンアーキテクト」制あるいは「コミュニティ・アーキテクト」制と呼ぶ仕組みである。『裸の建築家―――タウンアーキテクト論序説』(建築資料研究社、2000年)にその構想をまとめ、そのシミュレーション、実験として、京都コミュニティ・デザイン・リーグ(CDL)なる活動を始めた(2001年~)。

今回の「景観緑三法」、特に「景観法(仮)」が規定する「景観整備機構」、「景観協議会」、「景観協定」などには、「タウンアーキテクト」制を実現する大きな手掛かりが用意されているように思える。また一方で、不明な点、危惧もある。以下に、思うところをメモしてみたいと思う。

 

タウンアーキテクトの原型=建築主事

誰が景観を創るのかと問われれば、個々の建築行為である、と答える。無数の建築行為が積み重なって都市景観は成立している。都市景観は、個々の建築行為を支える法的、経済的、社会的仕組みの表現であり、都市住民の集団的歴史的作品である。

日本の都市景観は、西欧の諸都市と比べて、しばしば「無秩序」で「美しくない」と指摘されるが、何も、西欧の、どこかの街のミニチュアのようなテーマパーク的街並みをつくればいい、ということではないだろう。混沌に見えようが、そこに「混沌の美学」があり、景観を生み出す共有化されたルールがあるのであれば問題はないと思う。問題は、個々の建築行為が一定のルールに基づいた街並み景観の創出に繋がっていないことである。

個々の建築行為は、建築基準法や都市計画法などによって、建物の高さや、容積率、建蔽率、・・・などがゾーニング(用途地域性)に従って規制されており、建築主事の「確認」(「許可」制ではない)が要る。単純化すれば、この「確認」に鍵があると思う[3]

日本ほど建築の自由な国はないという。建築基準法など法制度を守っていれば、何を建てるのも自由である。景観条例の諸規定にもかかわらず、建築確認を行わざるを得ないのは、私権を優先する法体系が確固としてあるからである。そうした意味では、「景観緑三法」における法的拘束力の強化は、大いに評価しうる。

しかし、おそらく問題は一歩も先に進んだことにはならないであろう。どのような景観を創り出すのかについて、何らかの基準を一律に予め設定することは不可能に近いからである。赤は駄目だと言うけれど、お稲荷さんの鳥居の色は緑に映える。曲線は駄目と言っても、自然界は曲線に充ちている。同じ都市でも、旧市街と新たに開発された地区とでは景観は異なるし、地区毎に固有の貌があっていい。勾配屋根を義務づければ、勾配屋根でありさえあれば周辺の環境にいかに不釣り合いでも許可せざるを得ないだろう。基準、規定とはそういうものである。

ヴァナキュラー(土着的)な集落が結晶のように美しいのは、使用する建築材料や、構法などに一定の生産システムやルールがあったからである。産業化の論理が普遍化することによってそうした秩序が解体される中で、どう景観創出のシステムを再構築するのかが問われている。全ての原点は、個々の建築行為のそれぞれが地区の景観創出に資するかどうかを問うことである。飛躍を恐れず言うと、個々の建築行為を確認する、地域の建築事情に最も明るい建築主事さんがそれを判断し、誘導すればいいのではないか、というのが「タウンアーキテクト」制発想の原点である。全国におよそ一八〇〇人いる建築主事が、あるいは約三〇〇〇の自治体に一人ずつのタウンアーキテクトが景観創出に責任をもつのである。

 

京都CDLの活動=タウンアーキテクトの仕事

ところが、建築主事にはとてもその能力がない、という[4]。それでは、それなりのセンスをもった専門家あるいはそのグループにその役割を委嘱すればいいのではないか。大都市の場合、とても一人というわけにはいかないだろうから、一万人から数万人のコミュニティ(地区)・アーキテクトが地区毎にその景観を誘導していく。本来、景観審議会は、そうした役割を果たすべきである。様々な自治体で設けられている景観アドヴァイザー制度やコンサルタント派遣制度、景観パトロールなどを実質化すればいいのである。

タウンアーキテクトの第一の役割は、個々の建築行為に対して的確な誘導を行うことである。またそのために、担当する町や地区の景観特性を把握し、持続的に記録することである。また、景観行政に関わる情報公開を行うことである。さらに、公共建築の設計者選定などの場合には、ワークショップなど様々な公開の場を組織することである。場合によっては、個別プロジェクトについてマスター・アーキテクトとして、デザイン・コーディネートを行うことである。・・・等々、『裸の建築家―――タウンアーキテクト論序説』には、タウンアーキテクトのイメージや仕事について想像たくましく書いたのであるが、もちろん、絵空事である。問題は、権限であり、任期であり、報酬である。

しかし、とにかく何かやってみようということで、諸先生方と一緒に始めたのが上述の京都CDLである。京都CDLは、現在14大学24チームからなる[5]京都市全域(上、中、下京区など全11区)を42地区に分け[6]、各チームは大学周辺ともう一地区、あるいは中心部一地区と周辺部一地区の二地区を担当する[7]

 ①各チームが、毎年、それぞれ担当地区を歩いて記録する、そして、②年に二度、春夏に集まって、それを報告する、基本的にそれだけである。具体的には以下のようだ。A 地区カルテの作製:担当地区について年に一回調査を行い記録する。共通のフォーマットを用いる。例えば、1/2500の白地図に建物の種類、構造、階数、その他を記入し、写真撮影を行う。また、地区の問題点などを一枚にまとめる。このデータは地理情報システムGISなどの利用によって、各チームが共有する。また、市民にインターネットを通じて公開する。B 地区診断および提案:Aをもとに各チームは地区についての診断あるいは提案をまとめる。C 報告会・シンポジウムの開催:年に二度(四月・十月)集まり、議論する(四月は提案の発表、十月は調査及び分析の報告を行う予定)。D 一日大行進京都断面調査の実施[8]:年に一日全チームが集って京都の横断面を歩いて議論する。E まちづくりの実践:それぞれの関係性のなかで具体的な提案、実践活動を展開する。始めてすぐに、F 地区ビデオコンテスト:というのが加わった。若い世代には映像表現の方がわかりやすいということである。そして、活動を記録するメディアとして機関誌G 『京都げのむ』[9]が創刊された。

まあ、児戯に近いけれど、具体的な活動の手応えはある。京都であれば、十一区それぞれにタウンアーキテクトが張りつけば相当きめ細かい景観創出の試みが可能だというのが実感である。

 

多彩な景観創出のために

「景観地区」「景観計画区域」の指定は、誰がどのようにして行うのか。「景観重要建造物」は誰がどのような基準で設定するのか。「景観協議会」「景観整備機構」は誰がオルガナイズするのか。「住民」や「NPO法人」による提案を、誰がどういう基準で認めるのか。「景観法」(仮)には、曖昧な点が多い。もちろん、この曖昧さは前向きに捉えた方がいい。現行制度でも、「特別用途地域性」など、やる気になれば使える制度は少なくない。それぞれの自治体で、独自の仕組みを創り上げることが競争的に問われていると思う。

権限と報酬と任期を明確化した上で、個人もしくは一定の集団が都市(地区)の景観形成に責任を負うタウンアーキテクト制は、ひとつの答えになると思う。欧米には、様々な形態はあるが真似をする必要ない。日本独自の、各自治体独自の仕組みを創り上げればいいと思う。

①都市(自治体、景観行政団体)は、まず、都市形成過程、景観資源の評価などをもとに、市域をいくつかの地区に分ける必要がある。同じ都市でも、地区によって景観特性は異なる。また、タウンアーキテクトがきめ細かく担当しうる地区の規模には一定の限界がある。

②全ての地区が「美しく」あるべきである。景観の問題は、「景観地区」「景観計画区域」「景観形成地区」といった地区に限定されるものではない。「景観法」などが規定する地区指定に当たって、住民やNPO法人の発意を尊重するのは当然であるが、それ以前に、自治体(景観行政団体)が、「景観計画」を明らかにし、全市域について地区区分を明確にすべきである。もちろん、住民参加による「景観計画」の策定、地区区分の設定の試みられていい。「景観整備機構」の役割がこの段階に求められることも考えられるが、権限が完全に委譲されることはないのではないか。本来は自治体(景観行政団体)の責任である。

③全ての地区について、望ましい、ありうべき景観が想定されるべきで、全ての建築行為がそうした視点から議論される必要がある。全ての地区が望ましい景観創出のために何らかの規制を受けるという前提でないと、「景観地区」とそれ以外の地区、指定以前と指定後の権利関係をめぐっての調整が困難を極めることは容易に想定できる。

④「景観創出」「景観整備」は都市(自治体)の全体計画(総合計画、都市計画マスタープラン)の中に位置づけられる必要がある。景観行政と建築行政、都市計画行政との緊密な連携が不可欠である。

⑤まず、それぞれの地区について、その将来イメージとともに景観イメージが設定される必要がある。この設定にあたっては、徹底した住民参加によるワークショップの積み重ねが不可欠である[10]。地区の景観についての一定のイメージが共有されることが全ての出発点である。

⑥それぞれの地区の景観イメージの設定以降、地区の景観創出のためのオルガナイザーであり、コーディネーターであり、プロモーターともなりうるのがタウンアーキテクトあるいはコミュニティ・アーキテクトである。地区毎に「景観協議会」を自治体(景観行政団体)が直接組織するのは機動性に欠ける。また、行政手間を考えてもきめ細かい対応は難しいだろう。「景観整備機構」が、各タウンアーキテクトの共同体として、機能することが考えられるが、固定的な機関となるのはおそらく問題である。

⑦問題は、こうして、タウンアーキテクトの権限を建築行政の中でどう位置づけ、保証するかであろう。タウンアーキテクトには、首長や建築行政担当者の任期に関わらない担当年限が保証されるべきであり、一方でその仕事を評価する仕組みが用意される必要がある。

 

ささやかな経験を基にしても、気になることはつきないが、とにかく創意と工夫に満ちた試みを様々に展開することが先決である。制度が可能性を用意するのではなく、制度の隙間に多くの可能性を見いだすことが大きな意味をもつことはおそらく変わらないと思う。

 

 


 京都大学大学院工学研究科
 建築学専攻:生活空間設計講座
 布野修司 
 Dr.Shuji Funo
  Department of Architecture and Environmental Design
  Faculty of engineering
  Kyoto University
 Yosidahonmati,sakyo-ku  yoto,Japan 601-8501
 E-Mail i53315@sakura.kudpc.kyoto-u.ac.jp or     funo@archi.kyoto-u.ac.jp 

 tel.=fax+81-(.0757535776 

606-8106        京都市左京区高野玉岡町1-144

 res. Tel=fax 075-712-3829

 

布野先生
お世話になっております。
ガバナンスのご執筆要領は研究室ホームページのアドレスに、23日に送信いたしましたが、再送いたします。
何卒よろしくお願い申し上げます。
ぎょうせい 田中
 
お世話になっております。
 
お電話で依頼申し上げた月刊「ガバナンス」の原稿ご執筆内容につきまして、メールをお送りします。
 弊誌は全国の自治体職員を主な対象とする専門情報誌です(約5万部)。
 
景観法案が国会に提出されたこともあり、6月号(5月末発売)の特集で『景観まちづくりへのアプローチ』を企画いたしました。企画内容は下記をご参照ください。
 
法案の内容については、まだ、不確定の部分もあるかと思いますが、住民の景観づくりに対する働きかけを積極的に位置づける方向にあるようです。つきましては、CDLなどの実践を通して、住民やNPOなどが景観形成に積極的に関わり、合意形成、ルール化していくプロセスの新しい提案を行っていただきたく存じます。
 
下記の構成案では論文3にあたる部分になります。
 
よろしく 、お願い申し上げます。

 

特集『景観・まちづくりへのアプローチ』
依頼テーマ「誰が景観を創るのか~市民によるルールづくりの可能性」(仮案)
文字量/約4800字(顔写真とプロフィールを添付ください)
締め切り/5月10日(月)
構成案
(論文)
  美しい風景をつくるために、自治体への提言
・景観とは何か。歴史的町並み保存や都市景観創造などの自治体の景観行政への取り組みと経緯をふまえ、景観法の制定の意味とこれからの自治体の景観行政を考える。―――東京大学  西村幸夫教授
  自治体は、景観論争に終止符を打てるのか?
・今回の景観法の位置づけと、都市計画法、建築基準法との関係はどうなのか。自治体の景観条例に法的根拠は与えられるのか。運用上、実効あるものとなるのか。景観計画区域内の開発行為の制限や準景観地区内の建築制限など、先進的な自治体条例が後退を余儀なくされることはないのか。先駆的まちづくりを実践する自治体の現場の視点から、法案の実効性、課題を考える。
 ―――
法政大学  五十嵐敬喜教授
  誰が景観を創るのか自治体と住民の関係、住民協議会、合意形成プロセスなどについて。―――布野修司先生
(全国景観まちづくりリポート)全国5~6か所取材予定(調査中)
                                       
ぎょうせい・月刊「ガバナンス」
                                                   
    田中 泰
                            
〒104-0061 中央区銀座7-4-12
                                       
TEL03-3574-0144
                                       
FAX03-3575-9808
                                以上



[1]  建築教育普及センターによる建設省の若手官僚と建築家(隈研吾、団紀彦、小嶋一浩、山本理顕・・・)による研究会。「アーバン・アーキテクト」制が提起されたが立ち消えになった。仕掛け人森民夫は現長岡市長。団紀彦は軽井沢町のタウンアーキテクトを努める。

[2]  「国立のマンション問題」における階数カットの判決、判例は画期的であるが、条例を優先するという法体系は認められないのではないか。条例で様々な法規定が可能であるとすれば、「景観緑三法」がなくても、各自治体、各地域で、それぞれの実情に即した天界が可能であることは言うまでもない。

[3] 第一にha、建築行為に関わる法・制度が遵守されないという情けない実態がある。遵法度が20%に充たない大都市がある(建築確認通知件数のうち検査済証交付件数を遵法度とすると、大阪(13.7%)、京都(16.7%)、福岡(16.8%)、東京(22.1%)・・である(1996年)。)。充たない建築基準法がザル法と呼ばれ、自治体の建築指導課は、違反建築を取り締まるのに精一杯という状況である。全国一律の法規定の問題など様々な問題はあるが、「法は守るべきもの」という一点を確認した上で、この実態は論外としよう。

[4] 「建築文化景観問題研究会」における当時の建設省の若手官僚の認識であった。

[5] 京都CDLは各チームの代表(監督)および幹事(ヘッドコーチ)からなる運営委員会・事務局によって運営されている。コミッショナー広原盛明、運営委員長渡辺菊真、事務局長布野修司というのが初代の陣容である。

[6] ベースとしたのは元学区、国勢調査の統計区である。約200区を平均4統計区ずつに分けたことになる。

[7] その謳い文句を並べれば以下のようだ。○京都CDLは、京都で学ぶ学生たちを中心とするチームによって編成されるグループです。○京都CDLは、京都のまちづくりのお手伝いをするグループです。○京都CDLは、京都のまちについて様々な角度から調査し、記録します。○京都CDLは、身近な環境について診断を行い、具体的な提案を行います。○京都CDLは、その内容・結果(試合結果)を文書(ホームページ・会誌)で一般公開します。○京都CDLは、継続的に、鍛錬(調査・分析)実戦(提案・提案の競技)を行うグループです。○京都CDLは、まちの中に入り、まちと共にあり、豊かなまちのくらしをめざすグループです。

[8] 初年度は、八坂神社から松尾大社まで四条通りを歩いた。2002年は下鴨神社から鴨川を桂川の合流点まで歩いた。2003年は、平安京の北東端から南西端まで襷掛けに歩いた。

[9] 京都のまちづくりの遺伝子を発見し、維持し続けたいという思いがその名称の由来である。年に一冊4号まで発行されている。

[10] 宇治市(人口18万人)では、都市計画マスタープランの策定に際して、全市を7区に分け、ワークショップを繰り返したが、市民の潜在能力には素晴らしいものがある


2022年3月4日金曜日

エスニック,郵政建築,郵政建築協会,199307

 エスニック郵政建築郵政建築協会199307

 

エスニック

                            布野修司

 

 エスニックあるいはエスニシティー(エスニック・アイデンティティ)という概念に日本人ほど鈍感な民族は世界に珍しいのではないだろうか。

 もちろん、日本人というエスニシティーは常に問われてきたといっていい。日本的なるものとは何か、日本精神(やまとごころ)とは何か、近代日本において、ナショナリズムの台頭とともに大きな主題になってきた。国際関係における危機(日清、日露、第一次世界大戦、第二次世界大戦)において日本のアイデンティティーが問われる度にそうした問いは繰り返されてきたのである。古代史ブームやシルクロード・ブームを見ると、日本人のルーツはどこか、日本語のルーツは何か、日本の民家の源流はどこか、稲作の起源は何か、演歌や民謡の故郷はどこか、将棋や相撲の原型は何か、といった関心は日常的なレヴェルでも根強そうだ。むしろ、日本人はエスニシティーに多大な関心をもっているといっていいのかもしれない。

 しかし、日本のアイデンティティー、日本人のエスニシティーが繰り返し問われているということは、逆に、日本人はそれを捜し当てることに常に失敗し続けていることを意味する。日本人が、かなり珍しい民族だというのは、まずはその点にある。単一民族国家のイデオロギーが日本人の意識をすっかり覆っているのである。

 一方、他の諸国においては、エスニシティーの問題はより日常的で深刻である。世界のどんな都市をみても、様々な民族が居住するのがむしろ一般的である。植民地の経験をもつ発展途上国の大都市は、それこそ植民の歴史的過程において様々な複合社会を形成してきた。東南アジアの諸都市の場合、マレー人、中国人、インド人の三つの大きなエスニック・グループとそれぞれの民族グループからなるのが一般的である。インドネシアの大学で日本の民家について紹介した際、日本にはどのぐらいの民族がいるのですかと問われて苦笑したことがあるのであるが、苦笑するのは向こうであって、多民族が複合的な社会を形成するのは東南アジア世界ではごく当たり前のことなのである。インドあるいは南アジアの諸都市においては、エスニック・グループによる棲み分け(セグリゲーション)が一般的である。カーストによる区別がある。宗教的対立、特にヒンドゥーとイスラームの対立も根深い。様々な言語が話される。当然、風俗習慣も多様である。

 国際的な労働力の移動が一般的な西欧先進諸国においても、様々な民族の混住は当然のことである。日本の場合、80年代において初めて、そうした事態を経験し、エスニシティーの問題を身近に感じ始めたといえるであろうか。エスニック・ブームが巻起こったのも、日本の国際化の動きと無縁ではない。歴史的、民族的、宗教的、文化的背景を異にする人々と同じ町に共に住むという経験は、在日アジア人との不幸な歴史的関係を別とすると、これまでにない歴史的経験である。国際化の問題が日常生活レヴェルで初めて問われ出したのである。

 日本人が海外を旅行するとすぐそれと理解される。団体でパックツアーというスタイルであれば当たり前だが、そうでなくても、眼鏡に、カメラ、服装、あるいは立ち居振る舞いですぐ日本人と認識される。日本人はそうした認識については鈍感である。紅毛碧眼の西欧人や黒人については強く意識しても、目や肌の色では区別がつかないアジア人については驚くほど無頓着である。日本という枠組みのなかで日本人だけの世界で生活してきた社会の特異性だろう。海外旅行や海外滞在の経験が増えるに従って様々なエスニシティーを認識する機会は増えつつあるが、パック・ツアーや日本人村を一歩も出ない海外滞在経験では心許ない限りである。

 大きな問題は、外国人の居住が日本人の社会と切り離される形で進行しつつあることである。東京の池袋のアジア村や新宿の大久保通りのようにそれぞれの民族毎に棲み分けが行われる形が一般的なのであるが、郊外のマンションやアパートに隔離される形で就労するパターンも多い。スーパーで買い物をして仲間だけで生活する。電話やファックスなど様々なメディアやサービス設備の発達でそれが可能なのである。

 外国人の居住に関して、様々なトラブルが報告される。夜中に騒いだり、選択したり、ゴミを決められた日に出さないとか、銭湯に水着ではいるとか、ほとんど生活習慣の違いが原因である。そうしたトラブルはその解決を通じて相互理解の機会とすることもできるのであるが、日常的に日本人が外国人と接触しない形であるとすると、そうした機会もない。日本人の側にエスニシティーに対する理解が欠けているために無批判な拝外主義が醸成されるそんな危険があるのである。

 





 

                                                                                                                                              

第2回アジアの建築交流国際シンポジウム、ISAIA,19980908-09

第2回アジアの建築交流国際シンポジウム、ISAIA,19980908-09




 

2022年3月3日木曜日

ヴァナキュラー建築の豊かな世界,『建築技術』,太田邦夫著『世界の住まいに見る 工匠たちの技と知恵』,2008年2月号

 ヴァナキュラー建築の豊かな世界,『建築技術』,太田邦夫著『世界の住まいに見る 工匠たちの技と知恵』,20082月号

太田邦夫著 世界のすまいに見る 工匠たちの技と知恵 学芸出版社 200711

 

ヴァナキュラー建築の豊かな世界 

布野修司

 

 評者が初めてインドネシアを訪れたのは、19791月のことである。赴任したばかりの東洋大学で「東南アジアの居住問題に関する理論的実証的研究」という研究プロジェクトに参加することになり、以降30年近くアジアを歩き回ることになるのであるが、この最初の旅はとりわけ印象深い。スマトラのバタック諸族そして西スマトラのミナンカバウ族の住居集落は今でも鮮烈である。この旅でご一緒したのが著者の太田邦夫先生である。太田先生は、既に東欧の木造建築を数多く見て回っておられたのであるが東南アジアは初めてであったと思う。

 評者は、以降『カンポンの世界』(パルコ)にのめり込むことになるけれど、その後も太田先生には一貫して教えを受けてきた。『群居』では、本書の前身といってもいい「エスノアーキテクチャー論序説」を連載して頂いた。R.ウォータソンの『生きている住まい』(布野修司監訳、アジア都市建築研究会訳、学術出版社、1997年)を翻訳したのも、『世界住居誌』(布野修司編、昭和堂、2005年)をまとめたのも太田先生の教えに導かれてのことである。

 本著は、170頁ほどであり、実にハンディで読みやすい。しかも、300点もの図版が収められており、ヴァナキュラー建築の豊かな世界、その奥深さを誰もが知ることができる。

 全体は12章からなるが、全体は、「住まいを実際建てる順に従い」「まずは建物の基礎から始め、柱や杭と床との取り合い、柱・壁の捉え方、屋根の架け方、そして屋根と町並みの関係で終わるという順」に構成されている。具体的に焦点を当てられているのは、「工匠たちが現場で採択せざるを得ない、主要な部位の建築手法」である。

 まず1章は「床が横に動く住まい」である。イランのカスピ海の沿岸ギーラン州にあるこの高床式住居の写真を何年か前に太田先生に見せられて仰天したことを思い出す。本書に依れば、太田先生は25年も前からその存在を知っていたと言うが、基礎の部材を縦横に並べて地震のエネルギーを吸収するのは免震構造そのものである。工匠たちは、免震という手法をとっくに思いついて実践していたのである。

 2章は「浮上する高床の住まい」と題される。これも床が動く例である。『水の神ナーガ』を書いた建築家スメット・ジュンサイがタイには「陸生建築」と「水生建築」とがあるというが、筏住居あるいは船上住居は一般的である。しかし、家の四隅に柱を立てて洪水あるいは増水に備えるスラット・タニー県の例はユニークである。タイは随分歩いたけれど全く知らなかった。太田先生の連想はこの事例からウクライナの屋根が上下する乾草小屋、そして四本柱の家に及ぶ。

 3章は井楼(井籠)組の話である(「地震帯に何故井楼組が残っているか」)。木を横に使う井楼組は日本では校倉造りといった方がわかりやすいかもしれない。英語で言えばログ(ハウス)である。この井楼組は当然木材が豊富な地域のものである。そのルーツは黒海周辺と考えられている。この構法は日本にも正倉院の校倉のみならず相当程度建てられてきたと思われるが、掘っ立てではないから跡が残らない。村田次郎は『東洋建築系統史論』において、その伝播経路を南北二系統と説明し、熱帯には及ばないだろうとしたが、太田先生と最初に訪れたバタック・シマルングンの住居の基礎は井楼組であった。そして、本書で太田先生は井楼組が地震と関係があるという。

 こうして、各章「眼から鱗」の話が満載である。設計を志し、愛する我々の必読書と言っていい。



 

土佐派の家、AF賞記念シンポジウム 報告、新建築、199904



 

2022年3月2日水曜日

ポスト・モダニズム建築批判の不遜,KB Freeway,『建築文化』,彰国社,198312

 ポスト・モダニズム建築批判の不遜,KB Freeway,『建築文化』,彰国社,198312


 ポスト・モダニズム批判の不遜

 

  七〇年代の近代建築批判の多様な試みの一切を無化しようとする、いわゆる「ポスト・モダニズム」建築批判の顕在化があって、この一年もまた建築ジャーナリズムは、「ポスト・モダニズム」建築をめぐる議論を軸として展開してきたように見える。しかし、それが極めて皮相なレヴェルから一向に深化されようとしないのも相変わらずである。見るところ、深化されるべき議論の種は随所にあるけれど、単に言葉だけ、それも手垢にまみれた言葉だけにおいて議論が空回りしているところに建築ジャーナリズムのより一層の衰弱がある。そして、その衰弱の大きな原因は、むしろ「ポスト・モダニズム」批判を展開する側の批判の水準にまずあると言い切っておこう。

  「ポスト・モダニズム」建築をめぐる議論として、とりあえず管見する範囲でいくつか挙げてみよう。まず、松葉一清の『近代主義を超えてー現代建築の動向』*[i]がある。いささか大仰なタイトルではあるが、そのものずばり、建築におけるポスト・モダニズムとモダニズムの相克をとらえながら、建築デザインの現況をジャーナリストの眼でバランスよく浮き彫りにしている。表現の幅を拡大することを基調に、双方を相対化し、それぞれへの批判、ことに、モダニズムの側のポスト・モダニズム的表現の曖昧な取り入れへの批判を含んでいるのが大きな特徴である。一般ジャーナリズムといえば、ニュー・ジャーナリズムの旗手、トム・ウルフによる『バウハウスからマイホームまで』*[ii]が邦訳化された。徹底した近代建築批判の書であり、また「ポスト・モダニズム」建築批判の書でもある。建築家による住宅(近代住宅)に対して「われらの家」(アワー・ハウス)を対置するトム・ウルフの議論の平面は、「ポスト・モダニズム」議論がどうしようもなく建築家集団あるいは建築ジャーナリズムのパラダイム(方言)の内に閉じている日本においては考慮されるべきであろう。

  「ポスト・モダニズム」という概念(というより標語)をめぐっては、それをどう規定するかの問題は依然として残っている。それを批判する側がむしろ意図的に、個々の差異を認めない曖昧な全体概念として用いているからである。しかし、一方、「ポスト・モダニズム」の概念規定の問題は、近代建築そのものについてのとらえ直しを要求する。「近代建築をどう理解するか」*[iii]といった議論がそうである。欧米においては、近代建築の歴史をとらえ直す著作の出版が相次いでいる。日本においても同様の作業は続けられているといわねばならないが、必ずしもその成果は上がっていない。それ自体、日本の近代建築の歴史が薄っぺらである一つの証左であるともいえようが、ここでも一つの問題は、建築におけるモダニズムの立場を再確認する立場からの作業が希薄であることである。近代建築の精神なり理念を疑うことなく前提とし、歴史や現実の厚みを内に省みることなく、感覚的な「ポスト・モダニズム」への反発のみが現れていることである。

  「ポスト・モダニズム」建築をめぐる議論と密接にかかわりながら展開されようとしたのが、いわゆる「健康建築論争」である。建築における「健康」という概念をめぐるこの論争は、「ポスト・モダニズム」建築=「不健康」という極めて単純で素朴な決めつけを出発とするものであったが、上空飛翔的な議論に陥りがちな「ポスト・モダニズム」論議を建築家の日常における問題へ引きおろす契機をもつものであったといっていい。事実、論争の軸となった内井昭蔵*[iv]と石山修武*[v]の間の論争にとどまらず、伊東豊雄*[vi]、宮脇檀*[vii]、本多昭一*[viii]、小玉祐一郎*[ix]等を含んだ論争へと広がりを見せようとした。ここで議論の広がりを確認する余裕はないのであるが、基本にあるのは、「健康」という概念が近代建築の精神や理念と密接不可分であり、一方がその概念とそれを支える社会のあり方、ひいては近代建築と建築家そのもののあり方を根底的に問おうとするのに対して、一方は「健康」という概念なり、「健康」な建築をつくる建築家の理念をアプリオリに前提とし、それと現実との落差を問おうとするという構図である。後者の立場は、いうまでもなくオーソドックスな近代建築家のそれであり、そのある種の啓蒙主義なり素朴な市民社会への信頼が疑われようとしない限り、あるいは歴史的な評価を限界を含めて行おうとしない限り、議論はすれ違うことになる。前者の立場にとっては、近代建築家のスタイルについてはすでにあまりにも懐疑的であり、内省のない理念や精神の再確認のみであるとすればアナクロでしかないのである。また、無批判な現実肯定を招くとしか思えないのも確かである。

  内井昭蔵がその「健康建築論」を補足しながら、必ずしもその論が安易な現実肯定ではなく、産業社会のパラダイムそのものの批判をこそ課題とすることを明らかにするとき*[x]0、議論は一つのベースを与えられたといるかもしれない。しかし、CADやTQC、あるいは管理社会の画一化に対置するのが、「健康」であり「個性」であり「イマジネーション」のみであるとすれば、あまりに無防備であり無力であるといるであろう。それはすでにいわれ続けてきたことであり、そのレヴェルにとどまる限り、その限界はすでに明らかであるからである。

  個々の作品をめぐっては、それぞれに議論することがあろう。そこでも「ポスト・モダニズム」論議が大きな影を落としている。例えば、磯崎新の「つくばセンタービル」をはじめとする一連の活動の位置づけは、一つの焦点であり続けているといってよい*[xi]1。建築を自閉的な形態や装飾の遊戯へ追い込み、社会や都市とのコンテクストを見失っているという批判が「ポスト・モダニズム」建築に向けられている以上、都市や社会のかかわりにおいて「ポスト・モダニズム」をどうとらえ直すことができるかは大きな問題であろう。ここでむしろ出発点は、近代都市なり都市計画への批判であり、可能性は「ポスト・モダニズム」の側が握っているといってもいいはずである。

  「ポスト・モダニズム」建築をめぐる問いを、建築における産業社会パラダイム批判の問題としてとらえるならば、さまざまな問題がさまざまな形で指摘されつつある。しかし、そうしたさまざまな問題を掘り下げる視点をほとんど暴力的に根こそぎにしてしまいかねないのが、丹下・篠原対談「ポスト・モダニズムに出口はあるか」*[xii]2に見られる「ポスト・モダニズム」への皮相な理解である。

  丹下健三*[xiii]3は、ときどき来る若い人によくいうのだという。「あなた、あんまりポスト・モダニズムにコミットしすぎちゃいけませんよ。入口は狭いので一回入ったら出てこれませんよ。かと言ってポスト・モダニズムの行く先には何もないんだ、入ってみたら何もないんだ、だけども出てこれませんよ」と。「フィリップ・ジョンソン*[xiv]4みたいに、ときどき冗談みたいにやっては、片一方ではちゃんと普通のものをやっていく、そのようにレッテルを貼られないようなやり方でやらないと行き詰まってしまうかも知れませんよ」という話もよくするのだという。若い人によく話して聞かせるという、このささやきに似た恫喝は一体何を意味するのか。「入ってしまうと出られなくなる」というのは、どういうことなのか。入ってみもしないのに入ってみたら何もないことがどうしてわかるのかと半畳の一つも入れてみたくもなるのであるが、冗談ではできて、一方でちゃんと普通の仕事をしていればよいというのはどういうことか。冗談ならコミットは、出たり入ったりは自由であるようなものの言い方ではないか。篠原一男も口調を合わせるようにいう。「ポスト・モダニズム」は幕間劇としてあってもいい、僕は参加しませんけど、と。一体、ポスト・モダニズムは、参加したり、しなかったり自由自在なものなのか。

  ここで、とても手軽に語られる「ポスト・モダニズム」とは一体何なのか。また、それと区別される普通の仕事とは何か。「ポスト・モダニズム」の作品にもよいものがあるとか、それは何ですか、などということになると、出口がないとか、行く先には何もないとかいうのがどういう意味なのかさっぱりわからなくなる。所詮、こうしたレヴェルで「ポスト・モダニズム」論議がなされるとすれば馬鹿みたいなものである。あるのは、建築ジャーナリズム内的政治だけである。

  もちろん、「ポスト・モダニズム」をさかなにした対談の言葉尻をとらえてもはじまらないことである。丹下健三のいわんとするところは、その対談を通じて浮かび上がっているはずである。要するに、もう少し現実を見よということである。産業社会、情報社会の代弁者であり表現者であることに、建築家の使命が一貫してあるという主張である。日本の近代建築を主導してきた丹下健三らしい状況認識であり、一貫する立場を表明するものといるかもしれない。しかし、問題はその先にある。そもそも、この間の「ポスト・モダニズム建築」をめぐる議論は、産業社会をどうとらえるかにかかわっており、その現実をどう評価するかがそもそもの出発点といっていいからである。七〇年代半ばから多様に展開されようとしてきた近代建築批判の試みが、一般には、単にスタイルやデザインの問題として展開されてきたことは否めないことである。それにはそれなりの理由があったといっていい。近代建築のテクノクラシー支配に対して、その批判のために、現実の問題を提起することが一つの突破口になりうると一瞬信じられたことも事実である。しかし、それはやはり近代建築批判の矮小化でしかなかったといわねばならない。やがて、近代建築批判の多様な模索が「ポスト・モダニズム」という不用意な概念において一括されるに至ったのも、十分な理由のあることである。「ポスト・モダニズム」建築批判の顕在化の背後には、その近代建築批判の水準そのものが露呈していると見ることができるであろう。

  しかし、いわゆる「ポスト・モダニズム」建築批判は、必ずしもそうした脈絡にあるわけではない。近代建築批判を前提としたうえで展開されようとしているわけではない。「ポスト・モダニズム」建築は「不毛」であり「徒花」であり、「不健康」であり、要するに「袋小路」で「出口」のないものであることが、ほとんど一方的に宣言されているだけである。

  そこで対置されているのは何か。端的にいって、産業社会の現実であり、テクノクラシーの体制であり、実務の論理である。そして、それらと密接に結びついたモダニズムそのものの理念や規範である。そこにあるのは批判でも何でもない。「ポスト・モダニズム」がそもそも出発点とした問いそのものを、無化しようとする露骨な意図があるだけである。近代建築の抱えてきた問題を根底的にとらえ直そうとするものにとって、その反批判の水準は極めて政治的であり、犯罪的とすらいるはずである。問いそのものを認めないファッショ的行為といっていいはずである。

  「ポスト・モダニズム建築」に出口がないとすれば、産業社会に変わりうる世界を見い出しえていないからであって、それ以外の理由があるわけではない(情報社会の表現ということであれば、丹下健三がそれを模索しようがしまいが、ポスト・モダニズム建築がすでにその時代の表現たりえようとしているといっていいはずである)。産業社会のリアリティにしがみつき、それを正当化することは自由である。しかし、そのリアリティによって、産業社会のパラダイム・シフトを目指す試みを批判することは全く的はずれといわねばなるまい。産業社会の危機を認識しないものにとって、そもそも「ポストモダン」も「ポスト・モダニズム」もないはずなのである。

  そもそも、丹下をはじめとする建築エスタブリッシュメントたちの「ポスト・モダニズム」批判を支える現実は、丹下が全く認めようとしない第三世界の現実、スクォッター・スラムの世界の評価において極めて明快なものといるであろう。丹下にとって、近代建築の世界制覇、全地球の産業化の道しか眼中にはない。グローバルに見て、どちらにリアリティがあるのか。「東南アジアに仕事が多くなってきているという状態」で、「多少は気をつけますけれどもあんまり考えなくて、日本に建てるものもどこの国に建てるものも気候条件以外はあんまり区別がないんですよ」と言い切るその態度こそが、問題ではないのか。それこそ出口がないのは、産業社会そのもののほうではないのか。丹下健三は一方で、ローテクの活躍する余地を認めようとする。社会的な貢献はするけど、芸術的な貢献はそんなにしないという留保つきで。内井昭蔵は、産業社会批判を話題としながら、I・イリイチを引き合いに出す。I・イリイチのいうように、「インダストリアル社会のパラダイムを根底から否定し、ヴァナキュラーな社会への逆光(?)をなしとげなければ本物の健康の回復にはならないのかもしれない」と。しかし、すぐさまいう。それは極端な危険思想であり、革命的すぎると。こうした言い方で、彼らエスタブリッシュメントたちが守ろうとするものは何か。「ポスト・モダニズム」をめぐる議論は、こうして、不毛な、建築をめぐるどうしようもない問いへ堂々めぐりをはじめつつあるといはしないか。彼らがいかに「大文字の建築」(磯崎)に固執しようと勝手である。しかし、「大文字の建築」を前提とした「ポスト・モダニズム」批判に何の根拠もないことは、はじめからわかりきったことではないか。「ポスト・モダニズム」批判こそ袋小路といるであろう。

  「家、すまい、住、住むことと建てること、住宅町づくりをめぐる多様なテーマを中心に、身体、建築、都市、国家をめぐる広範な問題をさまざまな角度から明らかにする」ことをうたう『群居』という小さなメディアを創刊して、早いものでもう一年になる。故小野二郎*[xv]5の「住み手の要求の自己解体をこそーー住宅の街路化への提案」を巻頭文とした創刊準備号を昨年の暮れに出してその構想の一端を明らかにし、四月に、「商品としての住居」を特集テーマとする創刊号によって華々しくデビュー(!?)を飾って以来、七月*[xvi]6、一〇月*[xvii]7と当初どおり刊行してくることができた。所詮、三刊本の世評もものかは、来年度四冊のプログラムもほぼ固まり、現在は「建築家と住宅」を特集テーマとする第四号*[xviii]8の編集作業に追われつつある。ささやかな経験ではあるけど、その作業は、皮相な「ポスト・モダニズム」論議とは無縁である。出口があろうとなかろうと、産業社会の根底的批判こそが大きなテーマである。『群居』に限らず、このところ僕の知っている範囲では、いくつかの小さな雑誌を刊行しようという試みを見ることができる。『R』*[xix]9、『同時代建築通信』*[xx]0、『TASS通信』*[xxi]1、『極』*[xxii]2などがそうである。『同時代建築通信』については、僕自身、同時代建築研究会の一員としてかかわっており、現在三号まで発行されている。こうした試みは、あるいは限られたものでしかないのかもしれない。たまたま、そうした試みが僕の周辺に見られるだけなのかもしれない。一概に、一般化はできないにせよ、こうした試みの背後には『群居』もまたそうであるように、一つは、「ポスト・モダニズム」をめぐって空転する建築ジャーナリズムへの不満があることは事実である。

  しかし、今さら、建築ジャーナリズム論でも、メディア論でもあるまい。言葉を研ぎすましながら、持続的な作業を続けていくしかないことである。出口がないのはどこでも同じであろう。一方にのみ出口がないと言い放つ傲慢さこそ、不遜の極みである。

 



*[i]  鹿島出版会

*[ii]  諸岡敏行訳、晶文社

*[iii]  『新建築』、八三〇一、八三〇五

*[iv]  『新建築』八〇〇九ほか

*[v]  『都市住宅』八二一〇ほか

*[vi]  『新建築』八三〇二

*[vii]  『新建築』八二〇八

*[viii]  『建築文化』八三〇四

*[ix]  『建築文化』八三〇五

*[x]  「健康の建築をめぐって」『新建築』八三〇七

*[xi]  「つくば/磯崎/建築の現在」『建築文化』八三一一

*[xii]  『新建築』八三〇八

*[xiii]

*[xiv]

*[xv]

*[xvi]  第二号、特集テーマ「セルフ・ビルドの世界」

*[xvii]  第三号、特集テーマ「職人考--住宅生産会社の変貌」

*[xviii]  八四〇一

*[xix]

*[xx]

*[xxi]

*[xxii]

2022年3月1日火曜日

労働者たちの町づくり,山谷の労働者福祉会館建設の意義,望星,東海教育研究所,199012 

 労働者たちの町づくり,山谷の労働者福祉会館建設の意義,望星,東海教育研究所,199012 (布野修司建築論集Ⅱ収録))

山谷労働者福祉会館の竣工

                           布野修司

 

 

 山谷労働者福祉会館が一〇月一三日竣工した。建設に関わった多くの仲間たちが集まり、盛大な宴(落成祝い)が夜遅くまで開かれたのであった。翌、一四日には、日本キリスト教団日本堤伝導所としての献堂式(けんどうしき)も行なわれた。建設の母体となった日本キリスト教団関係者をはじめ、カンパした人びと、釜ケ崎や名古屋の笹島の仲間たちも駆けつけて完成を祝った。その竣工は、奇跡に近い。

 鉄筋コンクリート造、地上三階建てで、延床面積は百坪に足りない。超高層の林立する大都市のなかでは、ささやかな建物にすぎないかもしれない。しかし、その建設に込められた思いはとてつもなく大きい。一階には、医務室と食堂が置かれている。二階には、多目的の広間と事務スペース、相談室、三階には、宿泊もできる和室、印刷室、図書室などが配される。屋上は、休憩スペースである。夏には屋上ビアガーデンともなる。期待される機能の割にスペースが足りないのはいかんともしがたいが、福祉活動、医療活動など労働者のための多彩な活動の拠点として構想されたのが山谷労働者福祉会館である。

 一見、ただの建物ではない。手作りの不思議な味がある。ファサードは、A.ガウディーには及ばないけれど、砕いたタイルで奇妙な文様が描かれている。みんなでひとつひとつ張りつけたのである。また、ファサードには、様々なお面が取り付けられている。笠原さんという女性彫刻家の作品で、人物にはそれぞれモデルがある。山谷の人たちだ。さらに、みんなが思い思いのメッセージを刻んで焼いた瓦がところどころに使われている。カンパを募って開いたコンサートのときに粘土に描いて、淡路島の山田脩二さんのところで焼いたものである。

 山谷に労働者のための会館を建設しようという話が出て、募金活動が始められたのは三年ほど前のことである。山谷に自前の労働者会館を建設するというのは、もともとは、映画「山谷(やま)ーーやられたらやりかえせ」を撮影制作中に虐殺された(一九八六年一月)山岡強一氏の発想であった。その遺志をついで山谷労働者福祉会館設立準備会が設立されたのである。完成された山谷労働者会館のエントランス上部には、一対のお面が掲げられている。山谷に住む夫婦のレリーフなのであるが、山岡氏と同じく虐殺された(一九八四年一二月)映画監督佐藤満夫氏を祈念してのものである。

 八九年一月、山谷の中心に土地を確保することができた。建設そのものが具体的なものとなり、募金活動に拍車がかかった。しかし、それからが長かった。一年半、建設にかかって一年余り、竣工に至った過程は波乱万丈である。設計を行い、設計施工の監理を行ったのは宮内康建築工房である。僕自身は、その身近にいて全プロセスを見守っていたにすぎない。また、「日本寄せ場学会」の一員として募金活動に協力したにすぎない。実際の建設については、学生たちとともに、タイルや瓦を張るのを少しばかりお手伝いしただけである。しかし、それでもその困難性はひしひしと感じることができた。ほんとに奇跡に近いと思う。

 まず、建築の確認申請の問題がある。また、近隣への説明もある。それ以前に建設の主体をどうするか、施設の内容をどうするかが問題であった。近隣の理解も得、諸手続きもクリアした段階で、最大の問題となったのは施工者の問題である。いろいろあたっても引受け手がないのである。三つの建設会社にかけあったのであるが、いずれも断わられた。無理もない。お金は、わずか三千五百万円しかありません、あとはカンパでなんとかします、というのである。また、山谷の労働者を使って下さいというのも大変な条件であった。紆余曲折の上、最終的に採られたのが、直営という方式である。日本キリスト教団を建設主として、一切、労働者自身による自力建設を行うことにしたのである。

 直営方式というのは、建築主が建築材料を支給し、職人さんたちを手間賃で雇って建設する方式で、木造住宅ならそう珍しくはない。今でも行われている地域はある。しかし、大都市で、しかも鉄筋コンクリート造の建築で、直営方式というと極めて特異である。その上、自力建設ということになれば、全く例がない。実に希有なプロジェクトとなったのであった。

 住宅でもいい、全く自分一人で建築することを考えてみて欲しい。ほとんど無数に近いことを考え、決定し、手配をしなければならない筈だ。実際は、トラブルの連続であった。山谷には労働者が沢山いるとはいっても、働きながらのヴォランティアである。また、得手、不得手の仕事もある。スケジュール通りに進むのがむしろ不思議である。ましてやカンパを募りながら、資金調達もしなければならない。ハプニングも起こった。例えば、ある運送会社は、「山谷」というだけで、建築資材である瓦の搬送を拒否したのである。ひどい差別である。

 そうした気の遠くなるような困難を克服し、ともかく完成にこぎつけたのは驚くべきことだ。僕自身、こんなに早くできるとは思っていなかった。正直言って予想外である。未完成の美学もある、永遠に造り続けるのがいい、なんて言い続けて現場の人たちからは顰蹙を買い続けてきたのであった。

 

 山谷といえば、「寄せ場」である。日雇労働者の町として知られる。日本でも有数の「ドヤ街」である。いま山谷は空前の建設ブームの中で仕事は多い。路上で酒盛りする労働者の様子は一見活気にみちているようにみえる。しかし、抱える問題は極めて大きい。

 第一、好況にも関わらず、必ずしも、労働者の賃金は上がっていないのである。職安で日当一万一千円、路上で一万二千円ぐらいが平均であろうか。型枠大工であれば、人手不足で三万円も五万円もすると言われるのであるが、山谷には落ちない。あいも変わらず、中途で抜かれる構造があるのである。高い労務費を支払ってもリクルートの費用に消えてしまう。建設業界の重層下請けの構造、高労務費・低賃金の体質は変わってはいない。山谷はその象徴である。

 第二、生活空間としての山谷はいま急激に変容しつつある。地価高騰の余波は山谷にも及び、再開発のプレッシャーが日増しに強くなりつつあるのである。例えば、ドヤは、次第にビジネスホテルに建て替わりつつある。宿泊費は、当然上がる。宿泊費があがれば、労働者の生活にも大きな影響が及ぶ。日雇労働者も、ドヤ住まいとビジネスホテル住まいとに二分化されつつあるのだ。また、山谷から追い立てられる層もでてきている。

 第三、山谷地区に居住する日雇労働者は八千人から一万人と言われる。その日雇労働者は、どんどん高齢化しつつある。日本の社会全体が高齢化しつつあるから、当然とも言えるのであるが、単身者を主とする寄せ場の場合、また、日雇という不安定な雇用形態が支配的な地域の場合、高齢化の問題はより深刻である。山谷労働者福祉会館が構想されたのは高齢化の問題が大きな引金になっているといえるだろう。

 山谷にも山谷の地域社会がある。日雇労働者だけでなく、その存在を支え、共存する地域社会がある。二年程前、日雇労働者ではなく、地域住民を対象とした調査を「日本寄せ場学会」で行なったことがあるのであるが、ドヤの経営者にしろ、酒屋や飲食店にしろ、日雇労働者に依拠して成立したきた構造がある。日雇労働者を差別する構造もあるけれど、日雇労働者と共存してきた構造もあるのである。しかし、再開発の波が及び、そうした構造そのものが大きく崩れつつあるのが現在の山谷である。

 

 こうして、山谷労働者福祉会館の自力建設の意味が明らかになってくる。再開発によって、地域の生活空間が大きく変わりつつあるのはなにも山谷に限らないはずだ。東京の下町では、地上げによって壊滅してしまった地区がいくつもある。スクラップ・アンド・ビルドを繰り返すだけで果していいのか、自分の住む町をどうするのか、どう考えるのかは、決して人事ではないのである。

 この間の、東京大改造の様々な動きはいまだとどまることをしらないかのようである。膨大な金余り現象の生んだこの首都の狂乱が意味するのは、都市のフロンティアが消滅しつつあることである。東京の改造が大きなテーマとなったのは、少なくとも、都市の平面的な広がりが限界に達したことをその背景にもっていた。都市のフロンティアがなくなることにおいて、新たなフロンティアが求められる。ひとつは、ウオーター・フロントである。海へ、水辺へ伸びて行く発想である。ウオーター・フロント開発は、既にすさまじい勢いで進められている。数々のプロジェクトが進行中である。山谷の立地する隅田川沿いにも再開発プロジェクトが目白押しである。東京湾岸の風景は既に一変しつつある。産業構造の転換で未利用地が多く、都心に近接しながら地価が安かったせいもある。埋め立てによって広大な土地がまとまっていることも大きい。

 さらに新たフロンティアとして眼がつけられるのは、空であり、地下である。二千メートルもの超高層ビルのプロジェクトや数十万人を収用する地下都市開発のプロジェクトが次々に打ち上げられているのがそうである。こうした巨大なプロジェクトは、もちろん、必ずしも具体化されつつあるわけではない。実際に進行しつつあるのは、様々な再開発である。まず、眼がつけられたのが未利用の公有地であった。公務員宿舎や国鉄用地が民間活力導入を口実に次々に払い下げられ、地下狂乱の引金になったことはまだ記憶に新しい筈である。

 東京の再開発の動きはあっという間に全国に波及することになった。投機目的の東京マネーが日本列島全ての土地をそのターゲットにしたのである。リゾート開発ブームもまた資本にとってフロンティアが消滅しつつあることを示すのである。

 こうして日本列島全体がバブル経済に翻弄され、かき回される中で山谷に労働者福祉会館が全くの自前で建設された。余程地に足のついた試みといえるのではないか。この間の地価高騰で、一般庶民にはとても住宅がもてない、という悲鳴が聞こえてくる。しかし、一向にその声は一つにまとまらない。豊かさの幻影のなかで階層分化が進行しているからであろう。資産を持つ層はちっとも困っていないのである。また、資産を持たないサラリーマン層だって、ワンルーム・リース・マンションに投資したりして、住テク、財テクに走っている。目先の、私の利益を求めて争うところには町づくりもなにもないのである。

 東京大改造、再開発を支えるのは言ってみれば山谷の労働者たちである。一度に数多くの建設労働者を集め、職人不足を加速した、東京改造の象徴である新都庁舎にしても、山谷の労働者がいなければできないのである。しかし、山谷のような空間の存在は常に無視され、差別されてきた。若い労働者たちはまだしも、歳をとって病気になり、仕事もままらなくなると、追い立てられ、ボロ雑巾のように捨てられる。そうした、労働者たちが自前の拠点を全くの自力建設でつくった。つくづく、すごいと思う。

 一見豪華に装われた新都庁舎と一見手垢にまみれた山谷労働者福祉会館、実に対比的である。日本の町づくりの方向をその二つのどちらにみるのか、いまひとりひとりに問われているのだと思う。

 

附記

 山谷労働者福祉会館は竣工したといっても、その内容をつくっていくのはこれからである。土地の代金や工事費(材料費)の支払いにもまだまだ苦慮している。また、施設を維持し、福祉活動や医療活動を展開するのに月々かなりの費用がかかる。会館では、その主旨に賛同し、活動を支えてくれるヴォランティアや賛助会員(月額二千円)を求めている。援助の手を差し伸べて頂ければと思う。

 

山谷労働者福祉会館 東京都台東区日本堤1~25~11

          電話 03-876-7073 

郵便振替口座 東京2-178842 山谷労働者福祉会館設立準備会