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2022年6月13日月曜日

スラバヤーコロニアル建築「インドネシア1870ー1945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,デルファイ研究所,199311

スラバヤーコロニアル建築「インドネシア18701945」建築の大航海,京都大学アジア都市建築研究会,at,デルファイ研究所,199311


 

インドネシア・コロニアル建築

1870~1945

                                           

Ⅰ スラバヤ         

                 京都大学アジア都市建築研究会編

 

 日本とインドネシアは様々な歴史の糸で結ばれている。一九四二年から三年に及ぶ日本占領は不幸な歴史であった。日本軍政下の記憶はインドネシアの人々の心に深い傷跡を残している。

 もちろん、日本とインドネシアの歴史的関係ははるかそれ以前に遡る。その鍵を握るのがオランダだ。オランダは、一六世紀末にコルネリス・ド・ハウトマンの艦隊がバンテン沖に到達して以降、世界最初の株式会社と言われるオランダ東インド会社(VOC)を中心にアジア貿易に積極的に乗り出す。当初、バンテンをはじめ、ジャワのグレシク、ジェパラ、マレー半島のジョホール、パタニ、スラウェシのマカッサルなどに商館を建て、根拠地を捜すのであるが、永久的根拠地として選んだのがバタビア(現ジャカルタ 一六一七年占領)であった。

 一方、オランダと日本の出会いも一七世紀初頭のことだ。ロッテルダムの航海会社がアジアへ送ったリーフデ号が遭難し、九州の豊後に漂着したのである。一六〇〇年四月で、航海長がイギリス人ウイリアム・アダムスであった。そして、平戸にオランダ商館が開かれたのが一六〇九年、一六二四年には台湾西岸の安平にゼーランディア城を築いている。様々な経緯を経て、オランダはひとり鎖国後も交易を許されことになる。こうして日本はバタビアを通じて唯一世界へつながることになるのであるが、その交流の跡は、バンテンやジャカルタで発掘される古伊万里などの夥しい出土品が示しているところだ。

 インドネシアの今日の都市の骨格をつくりあげたのはオランダである。その影響は極めて大きかった。ジャカルタ、スラバヤ、バンドン、スマランといった都市には、オランダによる植民地建築が残されており、その歴史を偲ぶことが出来る。特に、近代建築の展開が興味深い。アムステルダム・スクール、ロッテルダム・スクール、デュドックなどの影響をみることができるのである。否、影響と言うのは誤りであろう。オランダ本国と同時に、あるいは先駆けて、近代建築の作品がつくられていたのがインドネシアである。日本もまた日本分離派建築会にみられるように、オランダの近代建築の影響を強く受けてきた。ここでも三角関係が面白いと思う。

 ところで、この間の急速な都市化の波の中で、歴史的な都市遺産の問題がインドネシアにおいて大きくクローズアップされつつある。近代建築の保存の問題はいち早く日本は経験してきたのであるが、インドネシアの場合、植民地建築をどう評価するかをめぐってより複雑である。植民地建築をどう自らの伝統とするかは大問題なのである。

 ハウジングの問題を中心にインドネシアに通い出してもう久しいのであるが、カウンターパートであるスラバヤ工科大学のJ.シラス教授から都市遺産の問題の重要性と日本からの協力の要請を受けたことをきっかけに、とりあえず、主要な都市の現況を共同で考えてみることになった。第一回は、スラバヤであるが、J.プリヨトモ氏に寄稿していただいた。また、冒頭に、基本的かつ重要なポイントをJ.シラス教授にまずまとめて頂いた。                          布野修司
インドネシアにおける都市遺産の保存問題

                                                   

ジョハン・シラス(スラバヤ工科大学教授)

                             

 

 近年、インドネシアは、経済活動において他の多くの発展途上国より大きな改善を成し遂げてきた。それとともに、これまでに到達した次の段階として、古いもの、新しいもの、様々なタイプの建物を含む質的達成が開発において重要視されるようになった。都市発展の先進都市として、ジャカルタはいち早く都市の歴史をきざむ物理的要素を活性化することに努めてきた。一九七〇年代初頭、時のジャカルタ市長は、いくつかの地方自治体条例を発行し、バタビア(現在のジャカルタ)が「フォーマルな」(西洋の)モデルに従い開発された時に遡って往時をしのべる歴史的重要性を持った、住宅建築や公共建築を含んだ、古い、都市の「内部」の保存に努めようとした。しかし、この条例の履行は困難であり、とても効果的とはいえないものであった。

 最近になってインドネシアでは、保存に関する関心が徐々に技術的なものから歴史的な問題へと移りつつある。また、西洋建築を主とする保存から、地方の建築を含むより全体的なものへ、その認識や環境を含んだ保存へと移ってきた。ジャカルタとスラバヤは長い歴史を持つ都市であり、近年、高い経済成長と都市成長を享受している。両都市はヨーロッパ人の入植以前のずっと昔の時期から、    年の独立戦争の時期にいたるまで、独自の歴史を刻み続け、現在におよんでいる。インドネシアの諸都市は、かなり早い時期から自由国家としての目的を果たすために重要な役割を果たしてきた。これは、「近代」インドネシアの歴史の一部であり、一般にこのことが5つの主要な保存問題をもたらす。

 ●全体的な歴史的文脈の理解

 ●歴史における「近代」インドネシアの重要性

 ●手段とコンセプトの欠如

 ●開発と保存の競合

 ●実行と開発の制約

 インドネシアの諸都市は他の国の平均より比較的高い経済成長を続けてきた。そして、徐々に都市計画政策も都市の文化並びに歴史的遺産の保存、活性化を優先するようになってきた。市民団体が結成され、文化および歴史の存在に対する人々の関心が高まってきた。かなり早くから都市文化を扱う手段も発達してきた。しかし、これらが地域社会においてより広く、正しい理解を得られるようになったのはごく最近のことである。過去の文化的遺産を活性化するための真の支持はまだ得られていない。戦前の規則に取って代る文化保存条例(no. /    )の制定は、都市遺産の保護にこれからその効果が期待されるところである。明らかに、この新しい条例が、全体的な開発目的の中で有効に作用しうるためには、より強く明確な政府の規制が必要である。このことは、上述した問題点を議論するなかで、より練り込まれていくであろう。

 

 ●全体的な歴史的文脈の理解

 

 インドネシアの都市開発の歴史について現存する文献の多くは、ヨーロッパ人によって、インドネシア(オランダ領東インド)の現存する古記録に基づいて書かれたものである。これらの資料は町の発展の歴史、特にヨーロッパ人の到着に先立つものを、ほとんど考慮にいれていない。この観点からいえば、たとえばジャカルタは、オランダ人が現在の都心部に建設した部分をもって、初めて生まれたことになる。しかしながら、ジャカルタの歴史はヨーロッパ人がバタビアに足を踏みいれるはるか以前から刻み続けられている。この地にジャヤカルタ王子がしっかりとした集落を築きあげ、そして、その民達はオランダ人がこの地域の支配を目論んだ際、非常に激しい抵抗を示したのだ。

 他方、スラバヤはより長い歴史を持っている。    年、地方の長ラデン・ウィジャヤは、強力なフビライ・ハーンによって送られた軍隊を苦節の末打ち破り、追い返した。この出来事をもって、スラバヤが公式に設立された日とみなす。   年前のことである。それゆえ、スラバヤはインドネシアで最も古い、現存する都市である。しかし、ジャカルタと異なり、スラバヤはその名を維持し、町は同じ場所で発展し続けた。  世紀初頭には、オランダ人旅行者による記述によると、スラバヤは 万もの世帯、言い替えるならば約 万の人口をかかえていた。つまり、日本やヨーロッパ、アメリカの都市に匹敵する大都市であったといえる。

 同時に重要なことは、植民都市政府が、政府自身の必要と民間の商業のために住居と都市施設の開発に関心をはらったにもかかわらず、地域の住民は、多くの住居と施設を土着の伝統的なやりかたで計画し、建設した点である。さらに大事なことは、都市の文化的遺産への全体的なアプローチは、つくる人間や構築された環境のみではなく、それを知覚する人間や遺産として与えられた自然をも含むものなのである。

 

 ●歴史における「近代」インドネシアの重要性

 

 もし保存が戦前の法規や新しい保存法に基づいたものなら、インドネシアの歴史上の重要な部分を見逃すことになるだろう。つまり、今世紀初頭の解放運動からインドネシアが自由な国家を形成する能力を問われた  年代に至るまでの、インドネシアの「近代」の歴史である。特にスラバヤは、当時、 つの重要かつ最新の建築物の建設により、具体的な段階へと踏み出していた。市場(ウォノクロモ)、「国際的」ホテル(オリンピック)、そしてスラバヤの戦い(        日~  月 日)とそれに続く戦闘による 万人を越える犠牲者を弔う英雄モニュメントである。

 この業績の重要な点は、西洋の支配から解き放たれたインドネシア人の「建築家」達、特に市の行政機関で働く人々によって果たされた役割であったことである。彼らはまた、この時期に、世界の他の地域では知られていない独創的でユニークな建築様式を生み出した。強い熱帯の建築原理と「近代的」建設法を持ったいわゆるヤンキーあるいは「イェンキ」        建築である。アールヌーボーにも似て、この建築様式は中に備え付ける家具の様式や色彩計画、(近代的な)合成材料(プラスティク)の多用などにも影響を及ぼした。これらの建物の多くは現存するが、その大部分は荒れ果て、放置された状態にある。

 

 ●手段とコンセプトの欠如

 

 手段の欠如の問題は3つの異なる角度から認識される。すなわち、建築の所有権、保存に対する援助、そして保存のための専門家と専門的技術である。古い建物の多くは政府に所有されていない。特に、地方の建築はそうである。政府所有の建物は、いまだその役割が必要とされていて、保存のために妥協することは困難である。もし建物が地価の高い地域に立地するのなら、この状況はより複雑になる。政府の政策は、文化的または歴史的価値を有する建物の所有者になんらかの形で保存を行うよう刺激するほど強くはない。普通、古い建築は新しい機能に適応させるため、またエアコンといった新しい設備を取り付けるためなどといった目的で、破壊的なやりかたで改修される。

 保存への興味関心と足並みを揃えて、公共並びに政府が適切な維持管理を行うことは、これらの努力を支援するための公共予算がほとんど得られないために、ますます困難になってきている。当然ながら、民間のの建物も同様の問題に直面している。民間人は、今だ、その建物を自分自身で維持しなければならない。この状況においては、保存はいかなる利点も持ち得ない。はるか「近」未来においても、その重要性にもかかわらず、保存を行うための財政上の手段はまだ確立されていないであろう。それ故、民間部門を保存に巻き込むことは奨励されるべきであり、計画的に活用さるべきである。

 他方、財源に関わらない重要な手段として、効果的で能率のよい建物保存を行う専門家と、専門技術があげられる。その最前線には、ほとんどが植民地支配者によって建てられた(恒久的な)古い建物のみに興味を払う、といった保存を行う際の誤った認識の問題がある。結局のところ、植民地化の歴史にまつわるヨーロッパ建築の保存は、インドネシアの国家としての歴史にとって重要性を持たない保存の努力となるだろう。多くの人々にとって、インドネシアの歴史の「暗い」側面を保存することは受け入れ難く、また反対にナショナリズムへの興味を生み出すのである。この論理は先に論じられた最初の問題と緊密な関係を持ち、全体的な歴史的アプローチを通じて解決されるべきものである。

 先に述べたように、保存についての既存の知識は、ほぼ恒久的な構造を持つ西洋の建築様式に関するものに限られる。他方、たいていが開放的で恒久的な材料を使っていない「熱帯」建築の保存に関する取り扱いの方法はほとんど発展してこなかった。この建築様式はインドネシア文化の基礎をなす、環境的な要求をみたすという概念の一部であり、ダイナミックに成長し続ける社会の、機能に対する変わりゆくニーズに効果的に適応するものである。非恒久的な材料を使うことが質の悪さを示すという見解が熱帯建築に対する正しい評価を抑圧したが、バリやそのほかの地域の「伝統的」建築がそうではないことを証明しているのである。

 

 ●開発と保存の競合

 

 いうまでもないが、急激な経済成長を経験した国の都市はすべからく、「新しい」重要な経済的需要に対応すべく古い建物が道を譲らなければならない、という問題に直面する。第一に、ほとんどの経済人は、文化的、歴史的遺産を活性化することの持つ、長い目で見た重要性にほとんど全く気づいていない。そして、気づいたときにはもう遅すぎるのである。最初から、政府もまた安定した経済成長を確実にすることに傾倒し、特にそれが直接な国民の関心を得ていない場合には、古い建物の存続に対し不利になるような立場に立ってきた。現状は変わりつつある。しかし、それは非常にゆっくりとしたペースである。

 こういった状況の背景にある主たる原因は、一方では、経済見通しが、いまだ短期間の展望に備えたものであると受け止められていることであり、他方では、ビジネスマンが、限られた理解力しか持ち得ず、国の社会的、政治的安定性を確固たるものにする国民としての強い自覚が、長期にわたって求められるべきであるという観点に乏しいという点である。徐々に変化は現れるだろう。しかしそれは、二度と繰り返すべきでない大きな犠牲のもとにである。特に、経済成長を始めたばかりであり、多くの歴史を刻む古い建物を残す都市においてはそうである。

 もし、専門家や専門技術の果たす役割が開発により深くかかわっていたのなら、古い建物も経済の必要性を満たす競争力を持ち得るし、現に持っているという理解が衰退することはなかっただろう。実際は、わずかに古い建物が商業目的に効果を発揮した限られた例を残すばかりである。  年代後半に銀行が急速な広がりを見せたとき、古い建物が利用された。しかし、これは保存というよりも商業上の考慮の下になされたものにすぎない。これらの建築の多くは賃貸を基本としており、わずかな経費で最大限に外観を整えるために、保存的なアプローチが最も安くついたのだ。建物が入手されると、保存の原理とは相矛盾して、徹底的な「修理」がなされる。もとの建物はほとんど残らない。一方で、ジャカルタやスラバヤにおいては、いくつかの公共の建物が、新しくよりよい機能に適合する形で保存されている。

 

 ●実行と開発の制約

 

 新しい保存法が作られ、意識の高い市民が数の上でも地域的にも増えてきている。政府の支援もますます大きくなっている。しかし、真の保存計画は未だ実行に移すべき具体的な(実験的な)計画案を持たず、準備中のままである。上に述べてきたような制約の多くは近い将来でも未解決のまま残されているだろう。この状況は発展が最も急進行していた  年前の都市発展の状態に似ている。多くの都市のマスタープランが、海外のコンサルタントのみならず、インドネシアからの「専門家」の助力を得て、準備された。新たなマスタープランが用意されるべき時までには、多くの初期の計画が、真に示唆的な開発の手段であったというよりも、官僚的な査定によってのみ評価され得るものであった、という評価結果が明らかになった。

 明らかに、この状況が繰り返されることは避け難く、克服も困難である。現在重要なことは同じ間違いを繰り返さないことと、保存政策とそのプログラムの、開発と実行を「習得する」過程を短縮することである。大多数の拘束と困難は未だ官僚制の中に潜んでいる。この点に関しては効果的な国際的支援が必要とされ、また効果的な役割を演ずることができる。しかし地方のグループの専門技術とのより強力な関わりあいもまた必要である。現在インドネシアの都市間に存在するネットワーク、特にジャカルタとスラバヤ間のものは、京都やベルリン、パリといった他の国々の都市との友好関係をも巻き込んで、利用されるべきである。(訳 堀 喜幸 坂根智)

 

 

 
スラバヤのコロニアル建築 

                                    

ヨセフ.プリヨトモ(スラバヤ工科大学講師)

                                       

 

    世紀の終わりから、スラバヤは都市として発展してきた。例えば、    年のこの都市の地図をみると、ヨーロッパのコロニアル建築の集中した地域が二ヶ所あることがわかる。ひとつは、ジュムバタン・メラ               (赤い橋)地域、もうひとつは、トゥンジュンガン-シムパン                   地域である。記録によると、このスラバヤの都市計画の責任者は、ダーンデルス         (オランダ-インドネシア政府総督、         )となっている。ジュムバタン・メラ地域は、城壁に囲まれていた地域で、その内側の地域は比較的稠密である。カリマス         川は、この地域を二分しており、オランダ人は自分達のためにカリマス川の西側の地域を確保する機会を得、また、東側の地域は中国人とアラブ人のために確保されている。オランダ人居留地は、市庁舎、事務所、工場、孤児院、住宅などが建ち並ぶスラバヤの都心になる。トゥンジュンガン-シムパン地域は、カリマス川の上流に位置し、そこもまた、人口が増加し始めている。この つの地域を結ぶ道路があるにも関わらず、カリマス川は依然としてスラバヤの重要な輸送路であり、ほとんどの建物のファサードが川に面しているのも不思議なことではない。オランダの歴史学者達は、この時期の建築様式を「帝国様式」すなわち「ラントハァィス         様式」と呼んでいる。それは、広大な敷地の真ん中に立つ新古典主義様式の建築のことである。主屋の両側には、その後部に連なって、馬小屋、馬車置き場、奴隷小屋といった機能を持つパビリオンがある。グラハディ         ・ビル、すなわち  世紀初めから今日まで存続している総督官邸は、まさにそのいい例である。。写真(図 )は、本来はその建築物の裏側にあたる。かつてはそのファサードはカリマス川に面していのである(現在のスラバヤ市長は二つのファサードを設けるという案、すなわち一方は通りに面し、もう一方は川に面する、という案を持っているといわれている)。    年代の取り壊しによって、ジュムバタン・メラ地域には、実際にはこの様式の建築物は存在しない。ジュムバタン・メラ地域のカリマス川東側には、改変された別の建築様式をみることができる。中国人は、新古典様式と中国の様式を結合させた建築様式を用いて建設するのである。こうした建築物の機能は、オランダ人のものとは異なる。一般にショップ-ハウス(上階が住居で下階が店舗もしくは事務所)として知られているものである。この種の建築物もこの地域に完全なものはほとんど残っていない。

   年後の    年、スラバヤは城壁を破壊する。トゥンジュンガン-シムパン地域が北へ発展していくのに対し、ジュムバタン・メラ地域は現在南へ発展していく。この つの地域は、 つのより大きなスラバヤ市へと溶解し始めていくのである。かつて城壁の西側部分であった場所は、現在スラバヤ港へと導く鉄道線路となっている。いまだに建築様式の記録が全く発見されていないので、建築様式にいかなる発展もみられなかったということを我々は推測するしかない。我々は建築家の名前も見いだすことができない。ハンディノト          は次のように述べている。おそらく、この時期の建築家は、スラバヤで実践を始めた完全な職業建築家ではなく、ジャカルタ出身、あるいはオランダ出身の建築家である。あるいは勤務外の時間を使った公共事業部の職員のどちらかであり、彼らが設計・建設の委任を受けたものと思われる。

  スラバヤが「建築様式の戦い」といわれる中で、トゥンジュンガン-シムパン地域の南部を発展させたのは、  世紀建築における最初の  年間のことであった。州及び市行政の中心は、ジュムバタン・メラ地域からそれぞれ別の離れた場所へ移動した。州行政官庁は現在、パラワン          通り(ジュムバタン・メラ地域の南外縁部)に位置し、スラバヤ市行政官庁はトゥンジュンガン-シムパン地域に位置している。ジュムバタン・メラ及びトゥンジュンガン-シムパン地域は、双方共に商業地域として発展してきた。この独特なコロニアル建築の時代の新しい住宅地域はダルモ       地域(トゥンジュンガン-シムパン地域南部)とクタバン          地域(市庁の周辺)である。ンガゲル        地域、特にカリマス川流域は、現在工業地域として確保されているため、港とこの工業地域を繋ぐカリマス川の機能は維持されている。

 「建築様式の戦い」について述べよう。我々は、この戦いが異なる建築家たちの間だけでなく、一人の建築家の中でも行われたことがわかる。次の二者が挙げられる。フルスウィット,フェルモント&エド・キュイペルマ                              建築事務所と建築家C.シトロエン          である。ジュムバタン・メラ地域にあるジャワ銀行                (現在は地方開発銀行)の事務所のために、ハルスウィット,フェルモント&エド・キュイペルマ事務所は屋根窓やヨーロッパ建築の装飾的要素を用いた精緻な新古典様式の建築物(        年)を設計した。一方、今日では   ビル(ムラッワ通り)として知られている   砂糖精製会社)の事務所のために、この建築事務所は中央ジャワのヒンドゥー教-仏教寺院から借用した装飾モチーフで飾られた近代主義的建築を設計している。また、ダルモ地域において、この建築事務所は、上述した建築物とは全く異なった様式で三つの建築物を設計した。それは、セントルイス学校及び修道院サンタマリア学校及び修道院、そしてカトリック大聖堂(すべて    年代に設計)の三つである。それらは、我々に一種のアールデコ様式、あるいは一種の新古典主義から近代への過渡的な様式を想起させる、幾何学的帯飾りや繰形で装飾された近代的建築物である(この建築様式は、ジュムバタン・メラ地域の外縁部に位置し、これらよりは新古典主義的な趣が強いが、今日ではニアガ-パウラワン銀行ビルとして知られる事務所の設計においても実践されている)。こうした独特の近代建築様式のアレンジは、    年に公式に祝典が行われた(最初の設計は         年になされているが、変更を受けてきた)G.C.シトロエンによるスラバヤ市庁の設計にも見られる。シトロエンは建築様式の多様性という点において、上述の建築事務所と類似している。ダルモ地域のある病院における彼の設計は、実質的には無装飾であり、装飾や繰り形はこの建築物においては全く目立たない。州政府ビル      を設計した建築家レメイ       もこういった建築家の範疇にはいる。彼の設計は、デュドックによるヒルベルスム市庁舎に非常に類似しており、確かにヘンリー・マクレーン・ポント                     設計の   (バンドン工科大学)とかなりの類似点を示すマランの高校における設計とは著しく対照的である。

 そのスタイルに強い一貫性を持った建築家達も大勢いる。我々は、ジョブ&スプレイ             建築事務所や   建築事務所、あるいはウィースマ          や B.V.デ・ビスタリニ                  そしてレメイといった個人建築家達を挙げられるだろう。ジョブ&スプレイ建築事務所は見たところ、インドネシアの伝統的建築を非常に好んでいる。彼らのデザインは近代的かつ伝統的である。実例として、かつては銀行役員の住宅として設計されたが、現在は博物館(タントゥラール          博物館)に改造されているものやタマン・ビントロ               通りの住宅が挙げられる。そこには美しい様式の結合がある。   事務所は、今日、インテルナシオ            として知られる貿易会社事務所の設計にみられるような近代主義的様式がいっそう強い。装飾はきわめて乏しく、建物の機能的要素(           や換気装置のような)に対する必須の解決法としてのみ表現される。バスキ・ラマット               通りにあったこの建築事務所の設計によるもののひとつは取り壊されている(今日、そこには多層階の銀行がある)。それは、美しいキュービズム様式で設計された事務所だったが、波状のプランとファサードを持ち、キエフホーク          ハウジングにおけるアウト     のデザインと多くの類似点を持っていた。このキュービスト的方法は、グンテンカリ             通りのクラブハウス(現在、バライ・サハバット               として知られている)やエムボン・ウング              通りのキリスト教学校を設計したB.V.デ・ビスタリニによっても実践されている。学校におけるデザインはよりキュービスト的であるが、クラブハウスはそれほどキュービスト的ではない。ビスタリニはシトロエンが建築物の設計において実践した対照的な表現を行ってはいない。近代様式として分類されるこうした建築家達の名前や作品は、         年代に設計・建設された。しかし、それは建築家ウィースマにはあてはまらない。彼の設計は実質的には  世紀の最初の  年から始まっているが、彼はグラハディのちょうど   メートルほど東に位置するバライ・ペムダ              ビル(    )とジュムバタン・メラ地域のカトリック教会(    年建設)の両方共に新古典様式からのモチーフを豊富に用いている。

 オランダ人建築家による建築作品目録を作成する際に、こうしたコロニアル建築に関して、現在二つの問題を指摘しておくことが適切だろう。  世紀、スラバヤの建築物は公共事業部の職員、またはジャカルタか、あるいはオランダで実際に設計している建築家のどちらかによって設計されていた、と述べた。建築物の設計は職業建築家のみに認可された仕事ではなかった。この慣習は  世紀に入ってずっと続いている。  世紀前半のカンポンやスラバヤ郊外の村落において、都市の中心地の建築物と共通点のある新古典様式の建築物の存在を目撃することができる。問題は、こういった建築物が職業建築家によって設計されたのか、それともその州の行政部職員によって設計されたのか、ということである。前者は実質的には行っていない。一方、後者についても上述の地域へのアクセスの可能性があったかどうかがいまだに疑問である。最もありそうなのはスラバヤの現地の人々がデザインしたということである。建設労働者として自分自身で経験し、建築物を注意深く観察して質を高めることによって、こうした現地の人々は、カンポンの住民や村民の中で一種の職業建築家になった(この方法は今日でもまだ実際に多くみられる)。その結果、例えば、カンポン・ブブタン         とプンガンポン           などでは新古典様式の要素が豊富なのである。第二次世界大戦の終わりまでスラバヤの外部の村落であったシワラン・クルト              ,クラムピス・ンガセム                とグバン        でも、同様の建築物をみることができる。こういった村落の建築物のいくつかは、新古典的要素と伝統的要素を結合させようとさえしている。上述の証拠はすべて、ある建築様式を実践する技術がオランダ人でない建築家から学ばれ、実践されていることを示しているのである。

 こうした能力については、インドネシア独立の為にオランダ人建築家が徹底的に減らされた時代である    年代に著しい証拠を残している。エムボン・プロソ              通りの住宅やパサール・ウォノクロモ                (ウォノコロモ市場)はイェンキ様式             (すなわちヤンキー様式 )として知られ、特色づけられている。この様式は、インドネシア人独自の発明であった。これには、スラバヤ、更にインドネシアのオランダ人が表現したあらゆる建築様式がほとんど参照されていないのである。    年代以後、インドネシアの近代建築はオランダ近代主義を置き去りにし、アメリカ近代主義へとその方向を転換した。さらに驚くことに、この様式はアメリカ人でなくインドネシア人によって導入されたのであった。現在、コロニアル建築はその破壊と記憶が主題となりつつある。そのことは我々をコロニアル建築の第二の問題、つまり、建築物の保存へと導くのである。

 スラバヤにおいて、保存はまだその初期段階にある。スラバヤの         年のマスタープランでは、保存の資格を有する建築物をリストに挙げているが、実質的には実際の活動は全く真剣に行われていない。その結果、重要な建築物は取り壊され、ダルモ地域のような環境は、高層建築の建設と機能の変化によって脅かされてきた。保存に関する実際の活動は、 度の調査と 度の修理が    年に始められたのみである。   (スラバヤ工科大学)と        (スラバヤ観光事業発展委員会)間の協力によってジュムバタン・メラ地域とトゥンジュンガン地域の一部の  の建築物が調査され、リストが作成された。現在、このリストはスラバヤの保存活動をする立法会議のための基礎データの一部となっている。    年代のクンバン・ジュプン               通り(この地域の主要幹線道路の一つ、「日本の花」という意味)の拡張や現在のバスターミナルのちょうど北にあるスーパーブロックの建設のため(このバスターミナルは新しい場所に移動される予定で、その位置はこのスーパーブロックの街区になるだろう)、ジュムバタン・メラ地域を保存するのは見たところ困難である。    年初旬、ある民間銀行(ニアガ銀行           )の二つの支店(一つはパウラワン通り、もう一つはラヤ・ダルモ            通りにある)を、また    年にはトゥンジュンガン           通りにある別の銀行(ハガキタ銀行         )を修復するという決定は、スラバヤのコロニアル建築保存を特徴づけている。    年 月、東ジャワ知事とスラバヤ市長がカリマス川沿いに研修旅行を行った。旅行の終わりには、両者ともカリマス川の可能性に感銘を受け、スラバヤにおける輸送手段と観光名物のひとつとしてカリマス川を再生させる、という案に着手した。また、彼らには、カリマス川沿いの建築物のファサードを川に面するようにしよう、という案もある。そして、    年 月中旬、ついに情報相はアムペル・モスク              の修復の仕上げを開始した。現在、スラバヤでは保存に関する叫び声は大きくなっている。それは、    年 月  日に行われるスラバヤ700回記念祝典への貴重な贈り物になっていくのだろうか。(訳 荒 仁 岩本聰)








2022年6月12日日曜日

ホームレス願望!?,21世紀を住む Vol. 19, ハウジングガイド・ネットワーク, 20030710

  ホームレス願望!?,21世紀を住む Vol. 19 ハウジングガイド・ネットワーク, 20030710

ハウジングガイド 21世紀を住む

ホームレス願望?

布野修司

 

一応「住宅建築」の専門家である。卒業したのが、日本の戦後住宅の雛型「2DK」住宅を設計した研究室で、なんとなく住宅を専門に考えることになった。これまで書いてきたのはほとんど住宅に関する本だ。しかし、「住まい」の専門家かというと、いささか恥ずかしい。家のことなど相棒にまかせっきりだからである。それにあんまり住宅に執着がない。

『住宅戦争』という本を10年以上も前に書いたけれど、「人生のために住宅があるのではなく、住宅のために人生がある。全く転倒してしまっている。どこかおかしい。」というのがテーマだ。その本にこっそり自分の住宅遍歴を書いたのだが、「藁葺き屋根の民家」で生まれ、「公営住宅」で育ち、大学入学後は「寮」、「賄い付き下宿」、「設備共用のアパート」、結婚して、「鉄筋賃貸アパート」、「民間マンショ」ン、「公団分譲住宅」と住み替えてきた。俗に「方荘号字(ほうそうごうじ)」といって、「○○様方」→「○○荘」→「○○号」→「字○○」というのが「住み替え双六」で、どこかに庭付きの一戸建てを建てれば、一応「あがり」の筈であった。ところが、京都に移って「宿舎」住まいということで「振り出し」に戻ってしまった。今は借家だけれど、共用庭を囲む「テラスハウス」に住んで、専用庭で人参やオクラをつくるまで戻った。しかし、この先どうするのかあんまり展望はない。

若い頃、発展途上国の住宅事情に触れたのが大きいのかもしれない。カンポンと呼ばれるインドネシアの住宅地に通いだしてもう四半世紀になる。貧しいけれど活気がある。コミュニティ組織がしっかりしていて、相互扶助の仕組みがちゃんとある。仕事も分け合う、今風に言うと、ワークシェアリングが行われている。感心したのは、コアハウスと呼ばれる水回りと一室だけの、しかもスケルトン(骨組み)だけの住宅をまず建てて、徐々に住宅を完成させていくやり方である。住宅を所有することのみに固執するのは間違いではと思った。柳田国男に「人間必ずしも住家を持たざること」(「山の人生」)という文章もある。

『カンポンの世界』では、カンポンの貧しいけれど豊かな世界について書いた。カンポンとはムラという意味で、カンポンガンというとイナカモン(田舎者)というニュアンスである。大都市のど真ん中の住宅地もカンポンという。このカンポン、なんとコンパウンド(囲い地)という英語の語源である。以来、世界中の様々な居住地を見て歩いている。

時々、理想の住宅とは何か、と考える。答えは「ホテル」である。全てのサーヴィスが完備していて、自由に暮らせる。世界中を泊まり歩けたらどんなに素晴らしいだろう。しかし、大金持ちならいざしらず、普通の人はそうはいかない。ホテルに住むためには、例えば、昼間は他人の家に行って、ベッド・メイキングしたり、掃除をしなくては生計が成り立たない。ホテル住まいは容易ではない。いっそ気ままに家を出て街をさまようのはどうか、などと思って、口を手で押さえる。

 

建築評論家。アジア各地で住宅、都市に関する調査活動を展開。一九四九年、島根県生まれ。東京大学工学部建築学科を卒業して、同助手、東洋大学助教授などを経て、現在京都大学大学院助教授。生活空間設計学専攻。主な論文・著作物に、『カンポンの世界』,パルコ出版,1991:『住まいの夢と夢の住まい・・・アジア住居論』,朝日新聞社,1997年:『裸の建築家・・・タウンアーキテクト論序説』,建築資料研究社,2000年:『布野修司建築論集Ⅰ~Ⅲ』,彰国社,1998年:『インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究---ハウジング計画論に関する方法論的考察』(東京大学、学位請求論文),1987  日本建築学会賞受賞(1991)』など。

 




2022年6月11日土曜日

建築の夢と夢の建築,渡辺豊和論,建築文化,彰国社,198706




 

講義:インドネシアの集合住宅について,APEX,関西APEXセミナー,19961109

 講義:インドネシアの集合住宅について,APEX,関西APEXセミナー,19961109

 

第五回関西APEXセミナー

インドネシアの集合住宅について

1996年11月9日  18:0020:30

 

 

布野修司(ふのしゅうじ)

京都大学工学部助教授/工学博士

 

 

経歴

1949年 島根県生まれ

1972年 東京大学工学部建築学科卒業

1976年 同大学院博士課程中途退学 同助手

1978年 東洋大学講師

1984年 東洋大学助教授

1991年 京都大学助教授~至現在

「インドネシアにおける居住環境の変容とその整備手法に関する研究」(学位請求論文)で、日本建築学会賞(論文賞)受賞(1991年)。現在、建築フォーラム(AF)、サイト・スペシャルズ・フォーラム(SSF)などで活動。建築同人誌『群居』編集長。

 

 

 

著書

『戦後建築の終焉・・・世紀末建築論ノート』      れんが書房新社  1995

『戦後建築論ノート』                                     相模書房      1981

『スラムとウサギ小屋』                                   青土社        1985

『住宅戦争』                                             彰国社    1989

『カンポンの世界』                                       パルコ出版   1991

『これからの中高層ハウジング』              丸善          1992

『建築・町並み景観の創造』                              技報堂    1993

『十町十色』                       丸善          1994

『戦後建築の来た道行く道』         東京都設計者厚生年金    1995

『見知らぬ町の見知らぬ住まい』(布野修司編)       彰国社    1990

『現代建築ーーーポスト・モダニズムを超えて』       新曜社    1993

『見える家と見えない家』                 岩波書店    1981

『建築作家の時代』(布野修司 藤森照信 柏木博 松山巌)   リブロポート  1987

『悲喜劇・1930年代の建築と文化』 (同時代研究会編)  現代企画室  1981

『作法と建築空間』(日本建築学会編)                     彰国社    1990

『新建築学体系1 建築概論』(大江宏編)                 彰国社        1982

『建築計画教科書』(建築計画教科書研究会編)             彰国社        1989年他

 

専門

 地域生活空間計画(建築計画 都市・地域計画)


第五回関西APEXセミナー

インドネシアの集合住宅について

1996年11月9日  18:0020:30

 

 

Ⅰ インドネシアのカンポン

 

Ⅱ 東南アジアの集合住宅

 

Ⅲ カンポン・ススン

 



2022年6月7日火曜日

2022年6月6日月曜日

新井葵+新藤恒樹+中島柚季+吉田奈由+小野美史+北原啓司+砂土原聡+布野修司+濱本卓司:聞き手:佐藤淳,座談:東日本大震災について「理系高校生」が知りたいことを「専門家」に聞いてみる,「特集:災害対策研究の新しい起点」,『建築雑誌』2016年3月

新井葵+新藤恒樹+中島柚季+吉田奈由+小野美史+北原啓司+砂土原聡+布野修司+濱本卓司:聞き手:佐藤淳,座談:東日本大震災について「理系高校生」が知りたいことを「専門家」に聞いてみる,「特集:災害対策研究の新しい起点」,『建築雑誌』20163


 




『建築雑誌』20163月号 都立戸山高校SSH生座談会 2部      校正原稿

話者:新井葵×新藤恒樹×中島柚季×吉田菜由×小野美史(戸山高校1年)、北原啓司(弘前大学大学院地域社会研究科研究科長・教授)、佐土原聡(横浜国立大学大学院都市イノベーション研究院教授)、布野修司(日本大学特任教授)、濱本卓司(東京都市大学教授)

 

聞き手:佐藤淳(佐藤淳構造設計事務所)

録音時間:2時間3728秒(実質:2時間2800秒)

収録日 2015128日(火)

第二部については頁割は特に意識しません.6頁そのままデザイナーさんの思うレイアウトで写真と組み合わせて割り付けてください

 

2部全体タイトル案:質問リストを携えて,理系高校生が専門家と議論してみました


避難と建築物の性能のあり方について

――今日は、戸山高校の学生さんたち5名の皆さんと座談会をし、その中で議論したことを先生方への「質問リスト」として作製していただきました。この後半の座談会では各分野の先生方に参加していただき、質問についてより深く考えていきたいと思います。まずは簡単に自己紹介からお願いします。(佐藤)

 

佐土原 横浜国立大学の佐土原と申します。私は建築や都市の環境が専門で、エネルギーについても研究しています。震災の日は、ちょうど建築会館にいて、そのまま一泊しました。

 

濱本 東京都市大学の濱本と申します。私は構造の分野に所属しています。震災の日は大学の研究室にいました。非常に長く揺れていましたが、私は結構鈍感な方で、ずっと研究室内に留まっていました。その後、大学から学生たちに早く家に帰るよう連絡がありましたが、実際は交通機関がみんなストップして帰れませんでした。結局、大学の体育館が開放され、学生たちはそこで寝泊りしました。大学からおにぎりがふたつずつ支給されたと思います。私は自由が丘まで歩き、親戚の家に泊めてもらいました。東京でも帰宅困難者がたくさん出ました。やはり東日本大震災は、「想定外」「未曾有」などの言葉が使われましたが、津波による被害が大きく、建築分野ではそれほど対策が考えられてこなかったことでした。

 

布野 東大助手、東洋大学講師、京都大学助教授、20153月までは滋賀県立大学で、今は日本大学生産工学部で特任教授をしています布野です。国公私立全て経験したのは珍しいかもしれません。分野は建築計画で、まちづくりを専門としています。僕は第二次提言には関係していないのですが、学会の復旧・復興支援部会の部会長を務めました。震災当日は滋賀にいましたが、たまたま仙台の宮城大学に京大布野研究室出身の竹内泰(現東北工業大学助教授)先生がいて、南三陸町出身の学生の実家の支援のために番屋を建てるというので、支援しました。毎夏、インターユニヴァーシティで木について学ぶ「木床塾」でお世話になっている加子母村(岐阜県中津川市)の支援を受けて、全国大学の学生が参加して、連休には完成させました。復興のための拠点になったと思います。「みんなの家」とか「竹の会所」とか、建築家の多くが拠点づくりに参加しました。

 

北原 弘前大学の北原と申します。専門は都市計画やまちづくりです。生まれは三重県伊勢市ですが、親の関係で仙台にいたことがあり、大学も東北大学でした。当日は弘前にいて揺れを感じ、インターネットを見ると東北の地震だということがわかりました。親も仙台に住んでいて、息子が東北大の3年生でしたが、電話がつながらず安否が心配でした。息子はTwitterで無事を知りました。今は岩手県北上市に拠点をつくり、いろいろな街の復興の仕事をしています。

 

小野 私は小学生の頃から建築に興味を持っていて、今も建築家を目指して大学に進学したいと思っているので、このような機会はとても嬉しいです。

 

吉田 私は数学をやっていて、建築についてはあまりわからないのですが、よろしくお願いします。

 

新藤 僕もあまり建築に関してあまりよくわからないのですが、身の回りに関係する話題が多いなと思っています。

 

中島 震災後に疑問に思ったことなどを直接専門家の方に聞けるので嬉しく思います。

 

新井 これまで建築の分野がこれほど震災に関係しているとは思っていませんでしたが、よろしくお願いします。

 

――それでは、高校生の質問リストから,先生方の気になるものから順に話ができればいいかなと思います。いかがでしょうか。(佐藤)

 

佐土原 ここは都心ですが、質問リストの「高層階で被災した時の避難方法」というのはどういう意味の質問ですか。

 

新藤 当時小学5年生だった頃に、友だちが住んでいた高層マンションが大きく揺れていました。災害時にエレベーターが止まったり、階段に人が集中したりした場合、どう避難するか,また、避難方法があっても本当に安全かどうか証明されているのか疑問に思っています。

 

濱本 まず構造分野からの意見です。建物を設計する時には、どんな地震が来るのかをあらかじめ考えています。たとえば新宿に建っている建物は、今回の震災を経験する前に設計されていて、その当時の知識によって建てられています。ですが、東日本大震災は想定と違っていて、すごく遠くからやってきて、非常にゆっくりとした揺れでした。地面の振動数と構造物の振動数が一致する「共振」によって、すごく揺れたのです。そのような長周期の揺れだと、高層階では身動きが取れませんから、避難できない状況でした。その時その時の最先端の知識で設計されているはずですが、新しいタイプの地震が起きる度に、その経験をフィードバックしてより安全なものをつくっていこうとしています。かつて建てられたビルも、長周期の地震に耐えられるよう、レトロフィットという改修をしています。

東日本大震災は1000年に一度とか、500年に一度と言われていますが、自然現象としては同じような地震は過去にも繰り返し起きているのです。社会の記憶からは消えてしまっているだけで、やはり、今回の最も大きな教訓は、自分たちはちゃんと自然のことを考えながら新しいものをつくってきたのかもう一度見直すべきだということです。

 

布野 高層マンションだけでなく,高層の業務商業複合のビルで劇場のような多数の人を集客する施設を高層階につくっているのは,問題です。避難のシミュレーションをしてみると結構大変だと思います。建築計画としてまずおかしいですね。

 

北原 落ち着いて逃げれば本当は大丈夫でも、全員が整然と階段を降りるはずがないですし,余震も来ますから、やはりパニックになると思います。大人数が高層階にいる建物からの避難ということで,人間の心理的な側面が集団行動にどう結びつくか予測不可能な面もあります。

 

佐土原 建築会館でも、揺れが収まると一斉に人が降りてきたので,混雑して動きが取れないような状態になりました。実は超高層の中にいる人たちがみんな外に出てきてしまうと、足元のスペースは足りないのです。ですから、一斉に降りなくても大丈夫という情報をちゃんと出し、ビル内に留まってもらうようにするにはどうするかを考えているところです。そのあたりは今回の震災で考え方が変わった点のひとつです。

また、ビル内に留まるとすると水道、電気、ガス、そして情報というライフラインが問題になります。当時は,超高層マンションで、本来はより価格の高い高層階が売れなくなっていました。

 

小野 私は震災当時、小学校の校庭に避難したのですが、上からガラスが落ちてきたりすることもあるし、避難経路に割れたガラスが落ちていたら避難しない方が安全なのかなと思いました。

 

佐土原 高層ビルは柔構造といって揺れやすくつくられていますが、窓枠とかは固くできていますね。

 

北原 僕の学生時代に宮城県沖地震があったのですが、建物の玄関のガラスが落ちました。また、ブロック塀が倒れて、僕のすぐ側にいた小学生が亡くなりました。それ以前は、倒れないということが重視されていましたが、以来、ガラスの固定などを含め、新耐震基準ができました。でもやはり自然はそれを超えてきますから、安心はできません。小学校の避難訓練なんかでは、座布団みたいなものを頭に被って守りますよね。

 

――非構造部材、つまり柱や梁などのメインの構造ではない、窓ガラスなどが壊れるということをもっと検証しようということですよね。(佐藤)

 

布野 今回はあまりなかったのですが、阪神淡路大震災の時は、家具が倒れたり、飛んだりして、相当の人が亡くなっています。

 

 

――続いて,避難に関連する項目がいくつか質問リストに挙がっていたので,順に高校生の方から質問の内容を教えて下さい。(佐藤)

 

新井 携帯電話を持っていない小学生の登下校時に地震が起きたら安否確認をどうするのか気になりました。

 

小野 私も,震災以後、家族で避難場所を話し合うようになりました。

 

吉田 私も小野さんと同じで、家族で避難場所を決めています。

 

中島 家の近くにはちゃんとした避難所があるのですが、学校にいるときは、耐震がしっかりしているので学校にいなさいと言われています。

 

――こんなふうに,高校生の皆さんは家族で避難するときに「災害があったらどこに集まろう」みたいな話をされていて,とりあえずの集合場所として地域の広域避難場所をあまり目標にはしていないということがよくわかりました.もちろん地震をイメージしているか津波をイメージしているかで違うと思うのですが,都市計画的な観点からいかがでしょうか。(佐藤)

 

北原 いわゆる避難と聞くと公共的な建築物とか大きな空間にみんな逃げるイメージがありますが、東日本大震災では津波によって体育館などに集まった人が全員亡くなっています。一方、大船渡のある地域では、高台にある神社に避難して全員が助かりました。明治の津波の時以来、地震が来たら神社に逃げろと言われていたそうで、長く歴史が残っているところは比較的安全なのです。

 

布野 関東大震災の時も、避難のためにみんなが集まった場所に、火災が及んで、たくさんの方が亡くなっていますね。

 

北原 まず逃げる場所として津波がない場合は学校などに避難するのは正しいと思います。安全が確保されてから、水の支給などがある広域避難場所に家族で行くという二段階になりますね。集合場所を家族で決めておくのも良いと思います。神社は最初に避難する場所ですね。

 

佐土原 広域避難場所とは安全確保のための大きな空き地などで、避難生活をするところはまた別ですね。直後に避難する一時避難場所と、広域避難場所、防災拠点の3種類があります。

 

吉田 学校など避難所となる建物の安全性は確かなのでしょうか。

 

――特に学校などの公共的な建物は国の予算が付いていて、耐震診断と対策が進んでいます。耐震補強がされた建物とまだされていない建物を区別する表記・表示があるべきかもしれません。(佐藤)

 

減災か防災か,その前に生活できる経済基盤か

 

佐藤 そういえば高校生からも火災の話は出ていましたね。

 

中島 自宅が住宅密集地にあり、古い建物とか木造の建築が多いので、震災が起こったときの木造住宅密集地の火災対策をお聞きしたいです

 

佐土原 一例ですが公的な補助をしながら、建て替えの時に不燃化を進めています。面で広がってしまう火災を断ち切っていくものです。

 

北原 東京の墨田区とか足立区のあるエリアでは、木造の雰囲気を残すために、自主組織をつくり、防火用水を用意して訓練もし、初期の消火を自分たちでやろうとしているところもあります。そうしたコミュニティの力によって乗り切ろうという地域もあります。

 

佐土原 1923年の関東大震災の時は火災旋風が起きてしまいました。当時の報告書を読むと、本当に竜巻のように火が走っていたようです。ですから、その後の東京の対策は、基本的に火災対策として、安全な場所の確保をやってきました。たとえば、大きな団地を開発するときに、広域避難場所をつくるなどです。

 

濱本 1995年の阪神淡路大震災でも、やはり木造密集地帯が火事になってしまいました。初期消化のための道が、崩れた建物で塞がれてしまっていたことも大きな問題でした。火災対策だけではなく、倒れないようにちゃんと建築をつくっておくことも大切です。

 

新藤 いままで逃げ方の話だったのですが、それに関連して「防災と減災の具体的な違い」についてはどうでしょうか。これまでは「防災」が意識されてきたと思うのですが、最近学校で「減災」という考え方が出てきていると聞いたのですね。でも、どのように変わってきているのかということがよくわからなくて。具体的に身の回りでどのように変わってきているのか教えていただければと思います。

 

濱本 構造分野からお話します。防災は英語で「prevention」で減災は「mitigation」と言われていますが、イメージしやすいのは、風に耐える松と、受け流す柳です。今回の津波については、やはり受け流すような建物の方が良かったのかなという話が出ています。構造的には,自然に対してひたすら真正面から立ち向かい対抗するより、ある程度自然の力を受け入れながら、それを弱めて被害を最小化し安全を確保することを設計に取り込むような考え方であると思います。巨大な防潮堤は防災を前提にしたものですが、陸と海がつながった豊かな生活や日常的な暮らしにとってはマイナスになります。嵩上げも、そのためには山が削られ緑や生態系が失われています。震災直後は特に「とにかく守る」という短絡的なところがありましたが、減災はもう少し引いた視点で全体像を見ながら災害に対応しようというものです。

 

北原 都市計画では、災害が起きることを想定し、それを技術や訓練も含めてさまざまな方法でできるだけ小さくしようという考え方です。たとえば、今、青森県で歴史的な町並みを残す仕事をしていますが、木造の雁木による積雪時の道、いわゆる「こみせ」は木造だから良いのであって、同じ形をコンクリートでつくっても興冷めしてしまいます。文化財としてではなく、使いながら残すために消火栓などを埋め込んだりしています。災害はゼロにはできないので、そこで生きたいという人たちのための減災を考えています。

 

佐土原 阪神淡路大震災や東日本大震災でわかったのは、防災技術を求めても、それを乗り越えて物事は起こるということを前提に考えておかないと対応が後手後手に回ってたくさんの人の命が失われてしまう。想像を超えた状況であっても被害を減らす対応を検討しておくという意味で、減災は大きな転換だと思います。

 

北原 あとは、防災か減災かという話以前に,これからその土地でどうやって食べていくか。堤防や嵩上げだけではまちづくりになりませんし、農業や商業にしても、産業が成り立たなければ復興になりませんので、災害対策とあわせての復興にはまだまだ時間がかかると思います。

 

布野 東北地方は少子高齢化が進んでいて、日本の将来の縮図と言われていたんですが、今回2万人もの人が亡くなり、一気に2050年の人口規模になりました。被災地の問題は、日本のあらゆる地方は同じ問題を抱えているわけです。少子高齢社会、人口縮小社会で、どうサステイナブルな社会をつくっていくか、わかりやすく言えば、それぞれの地域がどうやって食べていくのかが大問題です。

 

北原 岩手の大槌町で、ワークショップに地元の高校生に参加してもらっています。おそらくみんな大学や就職で仙台とか東京に行ってしまいますが、自分たちが関わってつくった公園に戻ってきたいという気持ちを持ってもらおうとしています。20年後に効いてくるのかもしれません。

 

――私は防災の嵩上げや防潮堤に反対なのですが、皆さんは率直にどう思いますか。(佐藤)

 

中島 街自体がなくなってしまったので、わざわざお金をかけて防波堤をつくるよりは、安全なところでまちづくりをしていく方がいいと思います。

 

新藤 嵩上げしても津波の被害は絶対あると思います。減災という考え方は、単にものを築くことだけではなく、教育やワークショップによって人から変えていくことの重要性ともつながっていると思いました。

 

北原 1000年に一度の災害に耐えられるようなものをつくっていますが、われわれの人智を超えた5000年に一度の災害だって起こり得るわけです。最近になってようやくみんながあのスーパー堤防で誰を守るのだろうかと考え始めましたが、震災直後は誰もそんなことを言えませんでした。国の復興予算が付いていて、既に発注まで終えてしまっています。石巻では、今復興庁のお金で再開発がいくつか動いていますが、それらはなかなか完成が見えません。一方で、たった4人で発起した「COMICHI石巻」という小さなプロジェクトは復興交付金をもらわずに完成し、イタリアンレストランやお寿司屋さんが入っています。大きな計画よりも、やりたいという意思を持った人たちが自力でやっていったほうが動くということがわかってきています。

 

佐土原 減災にとっては日常と災害時の連動が大切ですね。1000年に一度を想定して防潮堤で防災をしても、それが本当に機能するかどうかが問題です。

 

 

――少しトピックを変えて、「仮設建築の必要形態」という質問を書いた人は。(佐藤)

 

小野 建築学科に通う大学生の知人が、ゼミが陸前高田の方で、仮設住宅に住む人たちに話を聞いたそうです。その時に一番多く耳にしたのが、地域の人たちとコミュニケーションできる公的な建物がほしいということでした。誰も利用できるような図書館のような建物が必要なのかなと思いました。

 

北原 阪神淡路大震災や中越地震の経験もあったので、ボランティアのNPOの人たちもかなり入り、仮設団地の集会室が機能しているところもあります。一方で今問題なのは空き家の戸建住宅に被災者が入った「みなし仮設」です。仮設団地であればイベントもできますが、バラバラの戸建住宅に突然入った人たちはコミュニティがありません。潜在的にどれくらいいるかも把握できていませんし、大きな問題ですね。

あと、仮設団地でも財力のある人は出ていきますから、だんだん歯抜けになっていって、焦燥感や諦めが生まれてきます。そうするとコミュニティが崩壊していきます。

 

布野 阪神淡路大震災の時にはくじ引きで仮設住宅の入居者を決めたんですね。あまり、入居者のコミュニティを考慮しなかった。店屋や集会施設なども考慮しなかった。その経験を踏まえて、東日本大震災の時には、様々な工夫もなされ、集会所もつくられています。

 

北原 集会施設はあっても、図書館みたいな空間はないですね。公的な動きとしては、まず住宅が優先になるので難しいかもしれません。また、仮設住宅を規定する災害救助法は、厚生労働省関連なので、「まず収容しよう」という発想からつくられたものなのですが、本来ならば、ひとりひとりが自立した生活を営めるようなまちづくりの考え方が必要です。

 

マスメディアの切り口について

 

――今まだ「震災後(最中)のメディア」「省エネによる節電」などがまだ話題に出てきていませんがこれを書いてくれた高校生は?(佐藤)

 

新藤 テレビなどでは「省エネ」がかなり言われていると思います。たとえば蛍光灯がLEDになったり、技術によって実現できているところもあると思いますが、学校などのエアコンの設定温度など、人びとの意識には根付いていない気がします。何か策はあるのでしょうか。

 

佐土原 計画停電を経験すると、電気の大切さはよくわかると思います。建築学会の大きな取り組みとしては、照明の電力使用量についての研究があります。近年、企業による宣伝などによって、どんどん照明が明るくなってきていますが、いろいろ調査すると約半分までは落としても問題ないという結果が出ましたので、そうした提言をしています。東日本大震災後、電力の消費量を落とし、さらにLEDになってきたことで、冷房の負荷も下がっています。照明についての認識は大きく変わっていきています。

また、HEMSHome Energy Management System)やBEMSBuilding and Energy Management System)といったマネジメントや、スマートエネルギーシステムが出てきていますが、現状ではまだメーカーによる押し付け的なところがあり、本当に生活に馴染ませるにはどうするかが大きなテーマになっています。たとえば、健康や高齢化の問題と一緒に断熱のことを考えるとか、人が自発的に関われるような節電になればと思っています。

 

新藤 今、多くの原発が止まっていて、火力に頼り続けている状態ですが、どうやって再稼動させていくのか、もしくはもう使わないという方向なのか、どちらなのでしょうか。

 

佐土原 あれほど巨大で複雑な設備をこの災害多発国の日本で将来にわたって使っていくのかはやはり考えるべきです。今どうするかという一時的な問題と長期的な問題を分けて考えなければいけません。

 

新井 「震災後(最中)のメディア」についてなのですが、震災後、どのテレビ局も似たような情報が流れ、同じ会社の同じCMが何度も流れていました。情報発信という意味では無駄が多いようにも思えたので、例えば、地域やチャンネルを限定して、必要な情報を選べるようにしたり、見たくない人が避けられるような改善はできないかと思いました。災害時のメディアのあり方について新しい知見があれば教えていただきたいです。

 

濱本 東日本大震災後、SNSが注目されました。やはりある種マスメディアの限界が見えたのだと思います。

 

布野 米軍がものすごく活躍しても、CNNなんかでは流しているけど、日本では流さない。地元の工務店や建設会社が死体処理をしているとか、そうした活躍のことはほとんど放送されませんでしたね。

 

北原 沢山のテレビ局で同じようなニュースを繰り返されてもあまり意味がなくて、たとえばフジテレビは岩手、日テレは福島などを徹底的にやってもらった方がありがたいです。情報番組であることをもっと意識してもらいたかったという話をお聞きしました。また、FMラジオでは他の番組を止めて徹夜で安否や状況を放送していて、役に立ちました。阪神淡路大震災の時も長田区あたりでは、コミュニティFMができて海外から来ている人たちにも安心感を与えるような放送をやっていました。ラジオは今また見直されてきていますね。

 

佐野原 阪神淡路大震災と東日本大震災を比べると、YouTubeにアップされた映像など、視覚的な情報がすごく沢山あり、多くの人の災害に対する理解を助けています。たとえば、液状化については一般の人でもかなり理解が深まったと思います。

 

――東日本大震災の当時に,メディアについて私が感じたのは、例えば体育館の中に間仕切りをつくったり、簡易に組み立てられる仮設建築物を供給したり、建築分野の関係者がさまざまな活動をしたのですが、メディアには、一部の成功した事例が取り上げられるわけです。だけど、うまくいかない例もあったわけです。「こんなみっともないものをもってきてくれるな」と言う人もいたらしいのです。でも、あのときは本当に何がうまくいくか誰もわからないから、失敗して責められてもしょうがない、という覚悟でみんな取り組んだのであり、それも含めて伝えてくれないと真実を伝えたことにはならない。先に自分たちでおきまりのストーリーを描いておき,そこにはめ込んで報道しようとしたメディアにも問題があるように思いました。(佐藤)

 

座談会を終えて(高校生の感想)

 

――最後に高校生の皆さんに感想や考えていることなどを一言ずつ述べていただけますか。(佐藤)

 

新井 建築の専門家の方々が沢山震災に関わっているということを知ることができてよかったです。ありがとうございました。

 

中島 震災だけを考えるのではなく、普段の生活から防災を考えていくということが心に残りました。とても勉強になりました。

 

新藤 減災という考え方がとても響きました。人の気持ちや行動なども重要だということがわかって、これからそういった視点を広げていけたらいいなと思いました。

 

吉田 震災復興は今もうメディアにあまり出てこなくなってきていて、もう終わったかのように感じていましたが、今日お話を聞いて、長期的なスパンで見なくてはいけないものだと知りました。これから私が大人になっていく上で何かしら貢献できたらいいなと思いました。

 

小野 建築は、いろいろな専門分野が総合されている学問だと深く感じました。いろいろな分野を学ぶことで、震災復興などの社会的な貢献にもつながるのだと思いました。

 

2015128日、ハロー貸会議室田町にて]

 

 

2022年6月5日日曜日

布野修司、西山良平、高取愛子 町家de春の京大トーク 京都「歴史」に住まう 『読売新聞』 2015年4月30日

 

町家de春の京大トーク 京都「歴史」に住まう 『読売新聞』 2015年4月30日

▼西山先生講演

 今回の町家トークでは「住まう」ということがテーマになっていますが、「住人」という言葉が初めて史料に出てくるのは985年です。つまり、人が「どこに住んでいるか」ということに重きを置くようになるのが西暦1000年頃ですが、実は平安京の町家も大体、同じ頃に成立したのではないか、と私は考えています。その頃、それまでの平安京とは断絶した、現在の京都の原型を生む非常に大きな転換があった。一言で言えば古代都城が衰滅して、道路と住人の結びつきが強くなったことが、町家が成立した要因なのではないか、ということです。

 その前の時代、平安京では、1町すなわち120㍍四方の大きな空間((まち)が細かく分けられ一般庶民に分け与えられました。そこに小屋あるいは小家と言われた町家当時は町家という言葉は無く、町家の語が使われるようになるのは鎌倉時代)が作られるわけですが、それらは基本的には道路に沿って並ぶわけですし、それぞれの奥行きは小さいですから、必然的に奥に空閑地ができます。これはいわば多目的共用空間というべきもので、井戸やトイレ、洗濯物の干し物といったような空間になる。つまり四面が道に面した区画の内側に共用空間がある、今日私たちが「四面(まち)」と呼ぶものが誕生する。その四面それぞれが自立して「片側(ちょう)」として地縁を結び、さらに向かいの片側町と合体していわゆる両側(ちょう)が誕生する。両側町の誕生はずっと後、応仁の乱の頃と言われますが、いずれにしても、西暦1000年頃に、町家の成立とともに「随近」「近辺」と呼ばれた地縁集団が誕生するわけです。

 これが現在の町内会などと違うのは、刑事事件に対応して自分達で制裁を加えることもある、つまりは現在と比べて広範な権限をもった集団だったということです。時代が下るにつれ、裁判権などは国家の側に移っていきますが、それでも江戸の中頃までは、町家を売買するときには町の了解が要りました。つまり家屋敷の保全が両側町の役割だったわけですね。空間としての町家の特性やその今日的な意味については、高取先生、布野先生にお任せするとして、そうした暮らしをどう保全し、改善し、継承していくかということを考えるとき、町家の成立とともに誕生した地縁、今日の言葉で言えば町内の持つ役割について、平安時代、中世、近世とは自ずと違った形にはなりますが、しっかり考えて行く必要があるのではないでしょうか。

 

 

▼高取先生講演

 私は大学で研究活動をする傍ら、京都はもとより全国で実際の住宅設計をしています。言うまでもなく、生活や文化は地域によって異なるわけですが、そうした差異を個別性や特異性として強調しつつ、それらを包み込むことのできる器としての住まいには、日本中あるいは世界中、不思議なほど共通点があります。中でも京都の町家には、人が心地よく住まうための普遍的な技術が数多く見られます。

 一般に京都の町家では、いわゆる「ウナギの寝床」と言われるような間口に対して、深い奥行きが目立っています。これは間口にかけられた税制度によるものと言われますが、こうした敷地形状の制約が、空間を豊かに見せるための様々な工夫や知恵を生み出しています。例えば、複数の庭を用いた伝統的平面計画は、都市化した街中集合居住への最適解を示しています。また、京町家に入るときは、少し頭を下げるような形で木戸をくぐった瞬間、一気に吹き抜けの垂直空間に投げ出されますが、京町家では、水平、垂直といった対比的な空間を並置することで、空間に抑揚がもたらされているのです。こうしたことは、現代的な課題のひとつでもある極小住宅の設計にも展開可能な事柄と言えます。

 さらに言えば、そもそも時代時代の厳しい要請に応じる形で発展してきたこと、その発展が、住まい手と作り手双方を主体にして行なわれてきたという町家の発展過程そのものにも、今日私たちが質的に豊かな人間生活に立ち返るための、一つの大きな解が示されているように思います。売り手から一方的に供給されるマンションや建て売り住宅のそれとは対局にある、住む事に実直に向き合うことの重要性が示されているのです。

 このような「暮らすための技術」は、空間や関係性に濃度というか、質的な湿り気(あるいはグラデーション)を与えるものであり、このような間(あわい)もまた、様式や形式をこえて、時代を超えた力強さを持っていると考えています。これからも残していくべき「京都らしさ」として、私はこうした点を強調したいと思います。

 

 

▼布野先生コメント

 碁盤目状の都市、すなわちグリッド都市というのは、古今東西に見られます。アジア全体を見ますと、伝統的な都市は、大きく中国とインドの二つの都市形式に分かれますが、中国の形式は、日本、韓国、ベトナム、台湾に影響を与えました。京都は、その中でも大変精密な寸法体系を持っています。世界中を見渡しても、1000年以上の長きにわたってこの規模と繁栄を維持した都市は、京都の他にはほとんどありません。その秘密の一つは、この強いグリッドにあることは間違いありません。もう一つ、世界の住居をおおざっぱに2種類に分類すると、中庭型と外庭型というようなものに分かれます。西山先生のお話しにもありましたが、都市に住むためにはどうしても道路に面して並ばなければならない。そうすると、どうしても風と光をとる空間が必要になる。そこを作業スペースにする。そういうことで必ず中庭が出来ます。大きくいうと京町家もその系列ですが、高取先生が指摘されたように、京都の町家は、都市における狭小な住宅のあり方としては最適な解と言えます。

 私は2004年まで京都大学にいて、京町家再生の活動にも取り組みましたが、そのときびっくりしたのは、巨大な合筆が起こったことです。土地というのは細分化されていくのが歴史だと思うのですが、小学校校区をまたがるような巨大なマンションが建つというような現象が起こった。もう一つ、京町家を今のまま建て替えようと思うとできない。消防法とかもろもろの問題があってそのまま再現するのは相当な壁がある。つまり、グリッドにしても町家に住まう技術しても、京都を今日まで持続させてきた普遍的な力というものが失われかねない。持続的な都市、持続的な都市生活というものを考えるとき、このことは、京都だけの問題ではありません。お二人がおっしゃるように、私たちが、都市に住まうと言うことに主体的に実直に向き合うことが大切になっているのではないでしょうか。

 実は今日の会場になっているこの建物(西村家住宅)は、戦後日本における近世町家建築研究の嚆矢となった、故野口徹先生の研究対象となった建物です。偶然とはいえ、こうした場所で、私たちの住まいと暮らしの未来を考えることが出来たことは、まさしく京都ならではの、貴重な機会だったと思います。

 

 

プロフィール

西山良平(にしやま・りょうへい)

 1951年、大阪府生まれ。京都大学大学院人間・環境学研究科教授。京都大学大学院文学研究科博士課程単位取得退学。著書に『都市平安京』など。

 高取愛子(たかとり・あいこ)

 1975年、岡山県生まれ。京都大学工学研究科付属グローバルリーダーシップ大学院工学教育推進センター講師。1級建築士。

 布野修司(ふの・しゅうじ)

 1949年、島根県生まれ。前滋賀県立大学副学長・理事。『韓国近代都市景観の形成』『グリッド都市』で二度の日本建築学会著作賞を受賞するなど、多数の受賞歴を持つ。





2022年6月2日木曜日

2022年6月1日水曜日

コメンテーター:コミュニティ・アーキテクト研究会「『ソーシャルデザインと地域再生』ー寿町再生プロジェクトー」,講師:岡部友彦,林泰義,くじらの会,東京芸術劇場会議室,12月7日

コメンテーター:コミュニティ・アーキテクト研究会「『ソーシャルデザインと地域再生』ー寿町再生プロジェクトー」,講師:岡部友彦,林泰義,くじらの会,東京芸術劇場会議室,2007年127