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2022年11月30日水曜日

2001年12月 臨戦態勢突入 瓢箪から駒 オール・カラー化へ:大豆インクの使用:『建築年報』廃止 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 200112

臨戦態勢突入

瓢箪から駒 オール・カラー化へ:大豆インクの使用:『建築年報』廃止

 

2001121

 11月末になって、猛烈な勢いでメールが飛び交いだした。いよいよ動き出すという実感がしてくる。まず第一に、原稿が陸続と入稿しだした。遅い!!!、けれど事務局の手が完全に12月号から離れないのだから催促もままならなかった。それが一気に集中する。それでもまだ、ぎりぎり執筆しない先生が身近にも居る。困ったものだ。こう見えても僕は原稿の締切りは守る方だ。忘れていない限り????

出来るだけ月の初めに届けたいのだけれど、この立ち上がりの号についてはいかんともしがたい。前倒しでどんどん発注しているから2月号、3月号と段々早く刊行できればいい、と思う。

 しかしそれにしても、1月号は全てが変わるから、編集事務局は大変である。決定すべき多くのことがある。メールで次々に決定事項が送られてくる。正直、瞬間的に判断するのみだ。大半は事務局の判断を信頼する。

表紙は変えなければいい、という意見もある。シンプルな白地の表紙がなつかしい、と自分でも思う。1月号は建築史関連特集ということで特集も決まっていたのではなかったか。

一方、二年に一度くらいリフレッシュするのも必要かなとも思う。

世相も世代も徐々に変わっていくのだから。少なくともレイアウトには工夫が欲しい。それに紙やインク、印刷技術が大きく変わるという問題がある。大豆インクを使うことは決定だ。環境にやさしい、というからであるが果たしてどうか。再生紙はどうか。一気に決めなければならない。

 大転換の時代だから建築学会の名称、そして建築雑誌の名称を変えようという意見がある。

議事録にあるように、具体的に、建築雑誌は国際化時代だからこの際JABSにしてはどうか、という提案があった。ジャブス、なんとなく音が悪い。議論したけれど、今更横文字にすればいい、という時代じゃない、という意見が大勢を占めた。無視はしないけれどJABSの扱いは鈴木一誌さんに一任することにした。表紙はまだ誰も見ていない。建築雑誌の名を変えるのは反対が多いのではないか。先輩の先生方に愛着が強い。とにかく建築雑誌のままで1500号を迎えたいと思う。

もちろん、問題は表紙や装丁や呼称ではなくて中身である。中身については執筆者に期待するより他はない。続々入る原稿にざっと眼を通す。担当の岩松さん、遠藤さんはフル回転である。読んで、難しい用語をチェックして、解説を書かないといけない。伊藤さんもよろしく。これは結構大変な作業である。担当編集委員は覚悟して欲しい。入校までかなりの時間がとられる。

 

2001122

学会賞作品賞の審査で上京、さらに北上して日帰り。坂本一成先生と色んなことを話せるのが楽しみ。今年の世界一周からすっかりデジカメ党に。フィルムはもう一生使わないのではないか。普通に写真に焼いても問題ないし、スライドにするのも楽だ。世界建築史という講義をもっていて、スライドをよく使うのであるが、むしろこれまで撮った何万枚ものスライドをスキャニングするのだけが大変である。原稿も写真をメールで送れるようになったから随分と楽である。

 

2001124

 宇治市都市計画審議会。これでも会長なのだ。議案は二件、生産緑地を宅地に転換する。宇治からどんどん茶畑が減っていく。委員の上野勝代先生(京都府立大学)が常々嘆かれるところだ。都市計画審議会が単なる形式的議決機関に堕しているのは実感するところ。一昨年四月の地方分権一括法案が通ってから多少の自由度も生まれたからなんとかしたい。規約を新たにつくって部会を設けることにしたのであるが、未だ動かない。案件は以外に意見が数多く出たけれど30分で終了。その他として部会設置を動議、岡田憲夫先生(京都大学防災研究所)を部会長に発足することを認めて頂く。色々アイデアはあるのだけれど、時間がかかる。

 座談会の原稿が入る。ややがっかり。臨場感が伝わらない。生のテープをチェックする暇がない。座談、対談は生に限ると言うことか。

 

2001129

 学会賞作品賞の審査。京都方面ということでいささか楽。地方委員は僕だけで、前回は気の毒がられたけれど、今日は別。京都の町をバスで走るとどこか違う街のように思えた。目線が高いせいか。

 休みであろうと相変わらずメールは飛び交っている。岩松、遠藤両委員が頼もしい。動いているのは14月号同時である。2月号、3月号はもう走り出して止まらない。2月号も原稿がそろったとか。問題は4月号で前回の編集委員会以後、ふらついている。伊香賀委員ひとりにロードがかかって大変だ。ひとつの大きな問題は、総合論文集で「地球環境」がテーマになることがほぼ前提とされており、テーマの調整が必要なのである。編集委員会以降、ラインナップが変わるのは大問題だけれど、変更事項については編集長が決断せざるを得ない。調整については、地球環境委員会の村上副委員長の時間を煩わすことになった。地球環境委員会には4月号の企画にはご不満もあるらしい。しかし、とにかくテーマはわかりやすく、である。京都議定書とは何か。京都議定書によって何が変わるのか。身近に何をすればいいのか。役所の公式見解だけでは面白くない、というのが編集委員会の空気である。編集委員会には編集権がある。同じスクール、同じ顔ぶれで閉じてもらっては困る。執筆にも緊張感は必要だ。 

 

20011211

 学会情報委員会10:00~ 理事会14:00~。早朝のぞみに乗り遅れ、次のひかりで滑り込み。満席で仕方なくグリーン席をとったけれど、名古屋から立っている人がいてびっくり。東京へ朝早く新幹線を使う人はまだまだいるのか。不景気でホテル代の節約なのか。

 まず情報委員会、理事会で問題となったのは、懸案の総合論文集である。その発行組織についていささか疑問があり質した。その後、若干の議論があったけれど総合論文集の発行そのものは本決まりになった。

来年の9 月号は「建築年報」特集となる。多少の頁数オーバーは、口頭だが、川田部長に認めて頂く。検討してみないと何が問題かわからないけれどなんとかなるだろう、・・・と思いきや、もう一つ難題が加わる。論文集委員会が論文のレビューを論文集に掲載することを断念、ついては建築雑誌で研究レビューを考えてくれ、という。1号だけでは研究レビューまではとても無理だろう、というのが直感である。それにしても建築年報、研究年報の時代があって、建築年報だけにしたのが20年前、作品選集、技術報告集が新たに出来て、ついに建築年報がなくなる。確実に何かが変わりつつある、と思う。

 建築雑誌の比重は確実に増しつつある。一年の建築界を総括し、研究動向も総括するのである。編集長冥利につきるではないか、とやけくそで思う(内心本音でもそう思う)。研究レビューは編集委員会マターで、断ってもいい、ということだけれど、論文のレビューの必要はかねてからの僕の主張でもある。さあ困った。編集委員会の議論に委ねるしかない。

 理事会で、京都景観特別研究会の中間報告に、岡崎、高田、門内先生出席。議題が盛りだくさんでうんざりのところにいささか長~い報告でやきもき。というのも、僕も研究会のメンバーなのだ。メンバーながら、提言が100項目を超えるのはどうかと思う。作業をサボっているから烏滸(おこ)がましいけれど、提言は、絶対出来る!、すぐやれること!、ここが最大のネックだ!、の3つぐらいがいいところではないか。また京都については最早提言より実践である。京都については京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の活動もあり、2003年ぐらいに建築雑誌でも採り上げられればいいと思う。長すぎる報告で理事の反発?がなければいいが、というのがヤキモキの理由。各支部ともそれぞれ同じような問題を抱えているのである。幸い好意的な発言が多かったように思う。それにしても、今日は京都大学の建築系教室の忘年会なのに、スタッフが4人も理事会に出席してサボっていいのかいな。

 竹下理事に、では明日、と言われる。

 理事会の後、小野寺さんと片寄せさんと入稿状況、打ち合わせ。

 

20011212

 九州大学大学院で住まいにとって豊かさとは何か・・・アジアの都市と居住モデル」と題して講演。「人間環境コロキウム」といって大学院生の自主運営で今年は「豊かさとは何か」がテーマだという。なかなかすてきな企画である。今のところ単位にはならないが、旅費宿泊費はきちんと出る。僕は二番バッターで、前回は東大の文化(観光)人類学の山下晋司先生。もともとスラウェシのトラジャ族の研究者で昔から知っている。パワーポイントにメニューを一杯持っていったけれど、時間が足りない。足りない分は懇親会でも続けた。学生たちは実にいい雰囲気だ。缶ビールがうまい。講義は相変わらず下手くそであるが、気持ちよくしゃべれた。菊地成朋先生と久しぶりに話す。委員の黒野さんとは兄弟分である。フィールド調査が手堅い。一応これでも僕は両先生の研究室の先輩なのだ。

 驚いたのは助手の池添昌幸さん。なんとこの編集長日誌を読んでいるという。さすがインターネット時代である。大方の眼に触れ出すのは来年からと思っていたから、なんとなくうれしい。しかし、隅々まで読まれていて鋭い質問も受けた。ゼミ室での懇親会を終えると、場所を移した。なんと、青木正夫大先生が待っていらっしゃるというのだ。大感激である。この大先生には昔から可愛がってもらっている。などというと怒られるが、生意気な口を聞いてもにこにこされているのに甘えっぱなしだ。吉武研究室の裏話については今夜も随分聞いた。そろそろ聞き書きを残しておく必要がある。

青木先生の事務所のメイが35周年?とかで、明日は神戸大学の重村力さんが対談に来るという。そういえば二人とも、段々数が少なくなる研究をベースとするプロフェッサー・アーキテクトだ。日刊建設工業新聞の特集だという。編集者は神子久忠さん。僕の処女作『戦後建築論ノート』の編集者でもある。それは残念!というと、もう一晩泊まれ、とおっしゃる。しかし、明日は東京で用事だ。ほんとに残念!であった。

話は盛り上がってどこまでも続いた。するとそこへ竹下先生からTEL。ACB(アシベ)で待っている、ということで、全員移動。奄美大島へ行って来たと言うことで、奄美のお酒を土産にもらう。竹下先生が猛烈に忙しいことは、研究室の積み重なった書類の山を見てよ~くわかった。僕と同い年なのに院長(学部長)でもあるのだ。明日に備えて、と珍しく青木先生が席を立たれても、しばらく宴は続いたのであった。なんと、このACBという店、吉武先生もゆかりの店なのであった。

 

20011213

 博多で眼を覚ますと、そのまま新幹線で東京へ。GA(Glass Architecture)の編集会議。京都に深夜戻る。新幹線で博多→東京→京都である。もちろん、こんなことは初めてだ。実は、飛行機は嫌いなのだ。帰ってメールを見ると特集の最後の原稿が入ったという。誰とは言わないけれど身近な先生だ。原稿はまあまあだからまあいいか。

 

20011216

 学会賞作品賞の審査で上京、日帰り。これで三回連続で日曜がつぶれる。作品賞の審査は楽しいけれど結構大変である。行き帰りの新幹線では、18日の英語の授業City in the 21st Century City Planning and Development The Cities and Housing Problems in Developing Countriesの準備。この一週間、さすがにいささか疲れる。

 実は、この間の最大の問題は、紙面の問題であった。きっかけは11月号だ。土木と建築のコラボレーションの特集は、建築学会、土木学会、全く同じ内容であった。それは画期的な試みなのだが、別な問題が明らかになった。同じ内容なのに、土木学会誌はカラーで読みやすい、という。

 読みやすい、というのは編集委員会でもテーマにし、検討中である。紙面で答えるしかない、というのが最初の反応である。

 しかし、問題は、何故土木学会誌はカラーが可能で、建築雑誌はカラーができないのか、ということになると手に負えない。カラーじゃないほうが学会誌らしくていいじゃないか、などと思う。しかしそうも言っておられないので、知り合いの印刷屋さんに二冊を示して、それぞれ見積もりをつくってもらった。編集長も色々やることがあるものだ。見積もりが出て、事務局に送った。

それからが事務局は大変であった。カラー化への検討メモが小野寺さんから送られてきたのが1129日だ。こちらでは判断のしようがない。週があけて、「首をかけてでもカラー化を断行する」と小野寺さんからメール。紙の質を考えて捻り出すという。えらいことになったと思うけれど後には引けないというのはよくわかる。首にならないことを祈るのみ。

 

20011220

 第6回編集会議、京都で開催。会場は秦家(油小路仏光寺通り下ル太子山町)。年に一度は京都でやりたいと思っていて実現。編集部にとってはかえって大変なのはわかっているけれど、たまには気分を変えたほうがいい。実際、会議も懇親会も話題は微妙に違ったように思う。場所には力がある、と思う。

秦家は京都市の登録文化財にも指定されている一級の京町家である。もともと薬屋さんでファサードのデザインが小気味いい。奇應丸という薬が看板だった奇應丸は、虚弱体質、ひきつけ、吐乳、夜泣き等に効があるとされる丸薬です。ジャコウ・ゴオウ・龍脳・オケラ・ニンジン・沈香の製剤です)。

町家を維持していくのが大変なのは隣に無粋なビルが立っているのでもよくわかる。生活しながら町家を維持するという覚悟の上に、数年前に秦めぐみさんはお母様と京料理のお店を始められた。京町家再生研究会のつてでそのことを知り、無謀を承知で教室(京都大学建築系教室)の忘年会をお願いしたことがあった。今考えても冷や汗が出る思いであるが40人近い参加があった。今回は20人ということだからなんとか、と思うのが厚かましいところ。さらに無理なお願いもしてしまった。出雲生まれの野蛮人は愛想をつかされても居直るあつかましさである。秦さんはやさしく、40人でもやれるという自信になりました、と皆さんの前ではおっしゃってくださったのだけれど、少人数で楽しむのが筋だ。

http://web.kyoto-inet.or.jp/people/hata_ke/を見ていただきたい。

●現在の建物は、京焼け(「蛤御門の変」1864)と呼ばれた大火で焼失後明治2年に再建されたもので店舗・住居・土蔵を二つの庭がつなぐ「表屋造り」と呼ばれる典型的な京町家です。伝統的商家の趣をよく残しているとして昭和58年に店舗・玄関棟部分が京都市登録有形文化財に指定されました。

●「町家」と呼ばれる建物は商いの場として、またこれをとりまく人々の生活の場として永年の歳月を経て現代に姿をとどめています。ここで積み重ねられた暮らしは独自の生活文化を形づくってきました。ここでの暮らしぶりとは贅を尽くした雅やかなものではなく、むしろどこまでも簡素な日常です。正月・節分・節句・祇園祭・盆・彼岸と毎年季節と共にめぐってくる年中行事を変わることなく、変えることなく忠実に繰り返すことの意味の深さは歳月と共に住まうの者の心に積もっていきます。家を、物を、人を、慈しむことをこの家は教えてくれているようです。

四季折々の日誌も綴られている。

128日:十二月の始めになると八百屋はんに顔を出す山田大根。普通のオダイ(大根のこと)と違うて、太短こうて寸胴な形をしてるこのオダイを塩で漬けてオクモジを作る。お正月の祝い膳、お雑煮のあとの口元をすっきりとさせてくれる爽やかなお漬けもんや。4分の1の扇のかたち、厚みは1センチほどに切ってお鉢に盛るのやけど、辞書の解説にも「くもじ」茎から漬けた菜。と書かれてるように、茎も必ず刻んで添える。さっそく、塩で漬けて重石をかけた。「うまいこと漬かるとええな」て願うて、裏の一番寒いとこに樽を置く。ほんのりと淡い黄色に色づいて、口の中ではじけるみたいな歯切れの良さと、シンと舌を刺すような酸味に出来たら上々。我が家の季節の味覚のなかでもこれほどシンプルで、まるで生きてるみたいに刻一刻味の変化する繊細な食べもんはないように思う。なんて言うても樽から出したてが美味しい。寒いのも困り者やけど、オクモジのためにはキンと冷たい空気が大事。オクモジが上手いこと漬かって、新年が気持ちよう迎えられるとええなあ。

122日:おぶったん(仏壇); 座敷にある仏壇は、お光をあげるときにだけその扉を開ける。毎日は炊けたご飯をお供えする時、初物や珍しい頂き物も「そやそや、おぶったんにもあげとかな。」そう言うて扉を開ける。お坊さんの月参りの日は、朝からひとまわり大きなおざぶを置いて扉を開けてお参りを待つけど、終わるとささっと閉めてしまう。なんにも用のないのに、開けっぱなしにしとくことはない。子供の頃は、成績表、卒業証書、お誕生日のプレゼントまで、「ほれ、おぶったんへ持って行っといない」と、言われたもんやった。秋のお彼岸にはいると、我が家のおぶったんの真ん中に居ゃはる日蓮上人のおつむ(頭)に真綿帽子をかぶせるのやけど、あの頃はとにかくその姿が怖おうてしょうがなかった。「まんまんさんへお供えして、おがんでおいで。」と言われて薄暗い座敷へ一人で行く。おぶったんのなかから、ふわーと何が出てきそうに思うた。半分目をつむりながら扉を開けて、頂き物を供えるとチンチンと急いで鐘をたたいて手を合わせ、チョンとお辞儀をしたら、すっとんで居間へ戻った。戻る言うても、真横の部屋には家族の姿も声も聞こえてるのに、「なんや、そのおがみかたは!」て、よう言われた。祖父の好物やった「アチャラ漬け」がうまいこと漬かった。「そやそや、おぶったんにもあげてこう。」懐かしい人の顔が浮かぶようになったこの頃、おぶったんの前での振る舞いもいつのまにか板についてきたみたい。

 

この編集長日誌とえらい“品”の違いである。

 

ところで編集委員会は、5月号「古代世界」(仮)が主テーマである。そして6月号(「木質構造のデザイン」(仮))が議論の焦点となる筈であったが、担当委員の藤田さんが来られなかった。いささか困った。構造系ということで大崎幹事にまとめ役をお願いするが、やや畑違いという。思案のしどころだとおもったけれど、案ずるより生むが易し。黒野委員、山根委員から手が挙がった。意見を出し合って、藤田委員に伝えて頂くことにする。

5月号は淺川委員の独壇場だ。しかし、少しオムニバス過ぎはしないか、などとイチャモンつける。起源を問うことが今最先端であるようなそんなタイトルが欲しいと思う。しかし、早速動き出すということで淺川委員は大張り切りである。青井委員、勝山委員が名乗りをあげる。黒野委員にも続いて担当していただくことになった。田中琢先生のインタビューには是非僕も出席したい。インタビューは生に限る。

そして、問題となったのは建築年報特集である。

また、研究レビューである。

9月号で、20pオーバーぐらいで果たして何ができるのか?

結論は当然持ち越しとなった。

折角の京町家での会食を楽しもうと、そこそこに議論を切り上げたのが真相である。湯豆腐はわざわざ北野のお豆腐を買ってきていただいていた。何故か浅川先生だけは上機嫌で盛り上がっている。浅川先生も秦家は初めてなのだという。宴もたけなわの途中に小野田さんが駆けつけた。コンペの審査、ヒヤリングに山本理顕さんと一緒に出席したのだという。

 

懇親会の後は二次会である。松山さん、高島さん、新居さん、小野寺さんが泊まりだ。急遽北京出張が決まって帰らざるを得なくなった古谷先生もぎりぎりまで参加された。秦家→ピテカ→千萬樹→半分屋という暗号がこの日のスペシャル・コースであった。

 

20011227

文化庁の会議で上京。上京の友は、関黄野さんの『民族とは何か』(講談社新書)。関さんはなつかしい。尊敬する理論家だ。『プラトンと資本主義』『ハムレットの方へ』を興奮して読んだのを思い出す。豊橋に引っ越されたことを知る。

編集委員会終了直後から再びメール飛び交う。翌日大失態を演じたけれどそれは書かない。飛び交うメールは主として6月号をめぐっている。メール様々である。面白くなりそうだ。

前にも書いたけれどメールを使わないのは松山さんのみ。数日して松山さんから葉書を頂いた。京都での接待?の御礼であるが、その実1月号のゲラを見ての反応である。簡単に言うと、短い文章に、「はじめに」も「おわりに」も要らない、という指摘だ。確かにそう思う。限られた紙数だから、ストレートに書いて欲しい気がする。2頁だといささか物足りない気がしないでもない。

 

20011228

京都CDL忘年会。広原、高田、古阪、中林、松岡、岩崎、井上、山根の各先生(成安造形大学の磯野英生先生飛び入り参加)プラス運営委員会の出席で今年度総括。話題は大いに盛り上がる。京都をめぐって建築雑誌の特集いけるかもしれない。メールを覗くと、5月号のインタビュー、座談会のセットで大変だ。浅川先生、メールを飛ばしまくっている。

2022年10月31日月曜日

2001年11月  いざ、出陣 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 いざ、出陣

2001115

 二冊目の本『手の孤独、手の力 松山巖の仕事Ⅱ』が届く。二冊とも装画、装幀は松山さんの手になる。結局、鈴木一誌さんに頼むことになったのであるが、表紙を松山さんに頼むという発想に間違いはなかったと思う。この二冊目は、長めの原稿が収められている。クロニクルの体裁をとったⅠと異なり、Ⅱはしっかりと編まれている。この構成の力も松山さんの本領である。全体はⅠ~Ⅶに分けられ、各章の冒頭に「あなたは天の川を見たことがあるか」と繰り返される。松山さんと違って田舎育ちだから、家の前の空き地で夏の夜、茣蓙に寝っ転がって仰ぎ見た記憶はある。しかし、感動をもって甦ってくるという感じはない。「更け行くや水田の上の天の川」(惟然)などという情景は既に僕らの世代のものではない。最後に収められた文章は「手の孤独、手の秘密」と題されている。手の力、手の仕事についての省察である。その中に、大学四年の時に小さな別荘を手作りで建てた話が出てくる。他の場所でも松山さんは書いているからそのことは知っているのだが、手の仕事への拘りが全ての評論活動の原点にあるのだと思う。

 ちょっと前に、藤森照信先生から『天下無双の建築学入門』(ちくま新書)を頂く。一気に読んだ。これは『住宅術入門』とすべきじゃないかとまず思った。ここにも徹底した手への拘りがある。しかし、藤森先生のこの脳天を突き抜けるような無心の明るさと松山さんの本から受けるある種の重さとの違いは一体どこから来るのだろう。

 

20011110日~11

 駆け足で札幌、函館を回る。研究室出身の三井所隆史君と会って一晩飲む。土日とあって羽山先生尋ねる時間なし。申し訳ありません。

 

20011115

 1月号特集企画、下河辺淳vs.平島治 対談。遠藤和義、岩松準両委員とともに出席司会。上京の新幹線の中で、まず、日刊建設工業新聞の特集「建設産業大改革」にざっと眼を通す。ピントこない。そんなに危機感はなさそうな印象である。そこで送られてきたばかりの古川修先生の遺稿集『建設業の世界』(大成出版社)をじっくり読んだ。古川先生とは京都大学ではご一緒することはなかったけれど不思議な縁である。そのことは「小林如泥のこと」と題して追悼集『獺祭魚』(だっさいぎょ)に書いた。ご存命であれば真っ先に相談したかった1月号の特集である。下河辺淳先生は古川先生と同級生で親友である。遠藤委員は古川先生のお弟子さん、岩松準委員はかつてNIRAで下河辺先生のもとにあった。僕は勝手に「建築産業に未来はあるか」(仮)という特集に最も相応しい人をあれこれ考えて下河辺先生を思いついたと思っていたのであるが、予め多くの縁が今回の対談を導いていたのである。

予め遠藤委員作製のメモを両氏には送ってあるが、まあシナリオ通りには進行しないだろうとは思っていた。それにしても、いきなり下河辺先生に足払いをかけられてしまった。

「建築業というのは何ですか?家具屋さんは建築業ですか?」

びっくりしたけれどうろたえはしなかった。古川先生の本の冒頭(「建設業のはなし」)にその議論があり、読んだばかりであったのである。遠藤さんに振って答えて頂いた。家具を売るだけだと小売業とか卸業であるが、それを据え付けると建築業になる。要するに建築業と言ってもその拡がりはとてつもなく大きいのである。

 「建築業の何が問題なんですか?私には何も申し上げることがないんだけど・・・」

 最初の口頭試問にかろうじてパスすると次はメガトン級の発言である。これにはいささかうろたえた。体制を立て直して恐る恐る日本の産業構造の転換について問うと、これには答えざるを得ないと思われたのか、ビシバシと眼から鱗が落ちるような発言が機関銃の弾のように飛んできた。実に刺激的な1時間半であった。

 乞うご期待である。

 

20011120

 第五回編集委員会。上京の新幹線の中では西垣通『IT革命』(岩波新書)と何故か相原恭子『京都 舞妓と芸妓の奥座敷』(文春新書)。

 編集委員会は、少し余裕が出て来る。段々議論を楽しむようになれればと思う。とは言え、いよいよ出発ということで決めなくてはいけないことが山積している。大きな問題は常設コラムの順序を含めた紙面の構成である。表紙にインパクトある図表を!と決めたのだけれど中身のレイアウト方針が見えない。わかりやすく!が絶対方針であるが、わかりやすくといっても基準があるわけではない。カラー頁をたくさん使えばいい、ということでもないだろう。主だった決定事項は以下の通り。

      建築ソフトのフロンティアをカラー頁として特集の前に置く。

      会告、情報ネットワークの改革の一矢として、青井委員提案の「建築アーカイブス」を末尾に置く。

 二番目は特集以外の頁を使う。頁数削減の中にきらりと光る頁、資料性の高い記事をつくりたい。

 それに加えて、布野編集委員会の方針として、本文用紙は可能な限り再生紙、印刷インクは大豆インクを中心に使用することとした。4月号の京都議定書をめぐる議論のなかから、「隗よりはじめよ」となった次第。再生紙も可能な限り使いたい、と思う。

 3月号「建築の情報技術革命(仮)」の発注は終わり、既に焦点は4月号である

 常置欄について、今のところ、「建築のアジア 世界の植民地建築」は僕の担当である。そのタイトルをめぐって、多少の議論があった。その欄は、要するに、あまり知られない、変わった建築を紹介しようという、歴代の委員会が設けてきたグラビア欄を引き継ぐものだ。「奇想天外の建築」というと力が入るから、「西欧以外の地域を取り上げて、面白い建築を紹介します。いわゆる植民地建築、宗主国の建築と土着の建築の折衷がテーマです」という趣旨を考えた。そこで「アジアの建築」ではなくて「建築のアジア」か。

 アジアという言葉は、アッシリア起源で、古代ギリシャ語、古代ローマ語にも既にある。興味深いのはヨーロッパと対であるということだ。asuに対するerebirib)が語源だという。すなわち、日いづる所(東)asuと日没する所(西)erebという意味でasuが訛ってasiaになった。erebがエウローピュとなりエウロパスすなわちヨーロッパ=キリスト教世界という定式化が行われるのは15世紀のことである。

 ここでいうアジアは非西欧のことです、というと、アフリカもアメリカも入るんですか、と皆さん。入ります、というと怪訝な顔。そこで、「建築のクレオール」という案が出された。クレオールというのは現地生まれの白人という意味である。西欧建築が依然として優位のような気がしないでもない。要するに、西欧建築一辺倒ではない見方で建築を紹介したいということである。

 

20011122

 京都大学にて「建築のあり方を考える会」。お誘いを受けていたけれど、これまでの会には所要で参加できず、初めて出席。古阪秀三(京都大学)、青木義次(東京工業大学)の二人が主唱者。原田(京都大学)、室崎(神戸大学)の両先生が報告。他に浅野史郎(日本大学)、藤井晴行(東京工業大学)の両先生が参加。「建築のあり方を考える会」とは、またなんと漠然とした会だろうと思っていたところ、建築界の問題点がボンボン飛び出す。防災が専門のお二人の報告だけれど、法の問題から建築教育の問題まで話題はどんどんひろがる。キーワードは「倫理」であろうか。編集委員会のネタがごろごろ出てくる。いささか感動である。学会の委員会とは全く関係ない、こんな会があるとは。

 

20011130

 大阪の綿業会館で、高崎正治さんの「RIBA(英国王立建築家協会)名誉会員、2001年ジェンクス賞受賞」記念パーティーに出席。あんまりこうしたパーティーには出ないのであるが、京都造形芸術大学で一緒という縁で渡辺豊和さんに発起人を頼まれたのである。というとちょっと他人行儀であるが、高崎さんはまだ無名の頃から知っている。実にたいしたものだと思う。名誉会員は日本人7人目だという。その作品の評価は二つに分かれようが、異形の建築をつくり続ける力量は大変なものである。

 突っ立っていると、安藤忠雄さんがやってきた。久しぶりである。東大のこと、京大のこと、随分話した。そうしていると長谷川逸子さんが来る。びっくりしたけれど、たまたま講演で來阪したとのこと。これまた久しぶりである。パーティーというのはこうした久しぶりの出会いがいい。永田祐三さんとも久しぶりに話した。宮本佳明さんとは彼が学生以来ではなかったか。中谷礼人さんとは話し損ねた。大阪の主だった建築家は参加されていたように思う。いい会であった。二次会では出江寛先生と話した。結局長谷川さんは大阪に泊まることになった。

 

2022年9月30日金曜日

2001年10月 未だ序走・・・表紙案出来る 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 未だ序走・・・表紙案出来る

 

2001101

住宅総合研究財団(東京世田谷)で『すまいろん』のミニ・シンポジウムに参加。陣内秀信さんと対論。

題して「まちの原風景 すまいの記憶は都市を変えるか」。テーマをよく理解しないまま出席。つい最近の引っ越しまで、我が住宅遍歴を語る。拙著『住宅戦争』に図面も載せてある。つくづく思うのは、わが貧困の住宅遍歴は日本の戦後住宅史そのものである。それぞれに住宅遍歴を語ってもらう、こんな特集もおもしろいかもしれない。大邸宅に住みながらローコスト住宅を、とか、超高層マンションに住みながら町屋をまもれ、とか言っている先生が結構いるのだ。

 

2001102

学会賞委員会。編集委員では小嶋君が一緒。僕より若い建築家のなかでは、なんとなく信頼感がある。深く考えて設計している、誠実な感じがいい。出雲市(島根県)の地域交流センター「ビッグハート」の公開ヒヤリング方式のコンペでは僕は審査委員長であった。竣工後、車椅子が使いづらいと大問題になったが、シンポジウムを開催、きちんと対応しているのが強く印象に残っている。

 

2001108

休日であるが、タイからタルドサック講師(チュラロンコン大学)、ジャトゥロン君(キングモンクット工科大学)を編集委員の田中麻里さんが招いたスケジュールに合わせて、アジア都市建築研究会開催。もう十年近く続けていて48回目になる。題して‘The Role of Gentrification in Urban Conservation : The Case of Rattanakosin Historic Center of Metropolitan Bangkok’である。二人とはこの7月バンコクで会ったばかり。内容はショップハウスの保存の問題。ジャトロン君の先生は東大の西村先生のところで学位をとったとか。また、藤森研究室はラッタナコシン島で悉皆調査を実施中である。東アジア、東南アジアは既に共通に議論すべきフィールドである。

 

2001109

情報委員会。理事会。会員数減少の話題。財政問題は危機的で、『建築雑誌』も頁数削減が必死のようだ。頁数より、統廃合によって委員会の数を思い切って減らすとか、もっと本質的な構造改革があると思うけれど、頁数などが標的になる。総合論文集はどうも実施の方向である。「年内に決定して欲しい」と発言したけれど、覚悟したのは、建築年報は廃止、9月号を建築年報に当てる、である。この際、ユニークな年間総括を考えたい(考えるしかない)。

 

20011010日~11

学会賞委員会。一日作品審査。11日に8作品決定。専ら議論になったのは「重賞問題」である。僕の意見は、「重賞」は否定しないけれど「新人賞」的でいい、ということ。作品賞の性格を厳密に決める必要はない、と思う。常に問われているのは審査委員の見識である。

 

20011019

京都会館で京都CDL(コミュニティ・デザイン・リーグ)の秋期リーグ開催。学生たちはパネルをつくって半年の調査結果を発表。14日は鴨川フェスタに参加、子どもたちを集めて「まちづくりゲーム」大好評。先日の理事会で、仙田会長が大学の地域社会に対する貢献の試みとして高く評価すると発言。うまく成長したら、他の「コミュニティ・ベースト・プランニング」の試みと一緒に『建築雑誌』で紹介できるといい。

建築学会の京都の景観に関する特別研究委員会(岡崎甚幸委員長)も一応の作業を終え、市民へ向けてのシンポジウムを12月に開催予定である。高田光雄さんにそのエッセンスを報告して欲しい、とお願いしたところ、本番にとっておくとはぐらかされた。いずれにせよ、提言より実践の段階なのだと思う。

 

20011025

4回編集委員会。上京の新幹線の中で新書をペラペラとめくる。どこか編集長というプレッシャーがあるのかもしれない。いつもは読まないものでも多少気になる。めくったのは『IT汚染』『公共事業の正しい考え方』『自治体・住民の法律入門』『天皇誕生』『謎の大王 継体天皇』である。後の二冊は、浅川先生の特集案とはあんまり関係ないかも知れない。出雲出身の出雲主義者である僕は、かなり古代史には興味がある。二冊とも天皇の誕生とその存続をテーマとしている。

表紙案4案を持参で鈴木一誌さん登場。いよいよ始まる、の予感。1月号は原稿待ち。二月号は、どたばただけれど、古谷、小嶋、塚本、貝島の4研究室の若い力と完成に大いに期待。3月号はほぼOKだけれど、なかなか発注に至らず大崎さんイライラ。4月号は、超大忙氏の伊加賀さん詰めるに至らず。次回に期待。常置欄は、まちづくりノートが少し遅れ気味。但し、概ね方向性出る。

 

4回編集委員会 議事録

 

<日 時>20011025日(木)14:0017:00

<会 場>建築会館202会議室

<出 席>委員長 布野 修司

     幹 事  石田泰一郎・大崎  純・松山  巖

     委 員 青井 哲人・伊香賀俊治・伊藤 明子・岩下  剛・岩松  準

         黒野 弘靖・高島 直之・田中 麻里・Thomas C.  Daniel

         塚本 由晴・土肥 真人・新居 照和・野口 貴文・羽山 広文

         脇田 祥尚

<議 事>

□布野委員長より、議事録をもとに前回議論の確認を行った。

 

□特集企画について

1月号「建築産業に未来はあるか(仮)」について

 末尾の「建築業界の現在・近未来を読むデータ集」(遠藤委員・岩松委員)において、『建築雑誌』の関連特集や文献紹介をしてはどうか、という意見が出された。

 また、伊藤委員から「諸団体のストラテジー+建築界ストラテジー俯瞰図」執筆するための「建設産業を取り巻く状況等に関するアンケート」について、進行状況が報告された。大まかに分類し統計を取ったうえ、全体的な動向を分析する方針との説明がされた。

 *アンケートは、最終的に依頼346件に対して回答125件がありました(回答率:36%)。

 鈴木一誌氏から、1月号の表紙デザイン案が4点示された。

 鈴木氏より、「この4つのグラフを重ねることで何が言いたいのか(言えるのか)が見えてこないように思われる。読者に何を読みとってほしいかを強調してみたらどうか」との指摘がされ、次の案が示された。

 1)グラフは、2つないし3つぐらいが妥当ではないか。

 2)「○○は××である」といったキャッチコピーか、読み解きを用意したらどうか。

 3)グラフに一般社会的事象を重ね合わせたらどうか

 上記の方針に対して、岩松委員から再度検討いただくこととし、3)については菊岡氏の原稿も見ながら最終チェックを加える方針とした。

 表紙の印刷では、白地を基調にし、予算の範囲で用紙も再検討する。

 本文用紙は、可能な限り再生紙を中心に使用することとした。

2月号「公共空間-なんでこうなるの?(仮)」について

 塚本委員から、特集で取り上げる対象のリストが提出された(ほかに「バス停」が追加された)。誌面は全体を見開きで構成し、左ページは全面写真、右ページはインタビュー記事により構成する方針が示された。取材は、担当委員の研究室に所属する学生さんにお願いする。表紙のアイデアは、担当委員の宿題とした。

 *その後、事務局より、布野委員長+担当委員のお名前による正式な取材依頼状を、各取材先にお送りしました。

 なお、布野委員長より、2月号には「2001年度の大会報告」が掲載されることが説明された。この報告は全体的に画一的・議事録的で、読み物として物足りない面があることから、会員に大会の概要をより分かりやすく伝えるために、今回の依頼では「発言者を羅列した画一的な記録よりも、当日の主要なテーマや、中心となった議論、その結果何が明らかになったのか、をご報告いただきたい」旨を強調して依頼したことが説明された。

3月号「建築の情報技術革命(仮)」について

 大崎幹事から最終企画案が提出され、原案どおりで依頼を行うこととした。

 なお、記事が2ページの場合と4ページとでは原稿の密度に大きな差が出やすいことに配慮し、3ページによる依頼も行って全体のバランスを図る方針が説明された。「CALSの現状」の執筆者は未定であったが、建築研究所に当たる方針で今後調整する。特集の末尾で大崎幹事による総括を掲載することとした。

 表紙は、情報関連用語を羅列したものをデザイン化する方針とした。

 また、この特集では難解な用語が多く用いられる場合も予想されることから、読者の理解を助ける「用語解説」欄を設けたらどうかという案が出され、各執筆のページ内かあるいは別ページとして掲載することとした(レイアウトを鈴木一誌氏に依頼)。

 *原稿依頼において、「執筆内容に関連する用語を一つお選び頂いたうえ、100字程度で説明してください」という依頼をしました。

4月号「京都議定書と建築(仮)」について

 伊香賀委員より企画案が提出され、議論した。出された意見は下記のとおり。

・用語の解説を入れたらどうか。

・用語はそれぞれの誌面で、記事に関連付けて掲載したらどうか。

・議定書の発効に伴い、例えば、いままで使ってきた建材が使えなくなる(使わない方が 良い)といった具体例が挙がると良い

・この特集のポイントを、①用語の解説、②地球環境問題に対してわわわれは身の回りで何をすべきか(何ができるか)の2つに置いたらどうか。

 

7月号「室内空気汚染問題の今」について

 岩下委員から企画案が提出され、議論した。今後議論を継続します。

5月号以降の特集テーマについて

 新たに提案された特集企画は下記のとおり。

 ・「建築コスト7不思議」(岩松委員)

 ・「多民族共生社会」(浅川委員)

 ・「インド建築」「非西洋世界の建築」「アジアから近代建築を考える」(新居委員)

 ・「被害調査の方法論」「木質構造特集」(藤田委員)

 布野委員長より、今後のテーマとして下記の大枠が説明された。

 ・5月号「古代遺跡」(浅川委員)

 ・6月号「木造または構造デザイン」(藤田委員) →大会予告号につき小特集

 ・7月号「室内空気汚染問題の現在」(岩下委員、羽山委員)

 ・8月号(都市関係で、北沢委員に原案作成を依頼)

 ・9月号「建築年報2002

 ・10月号(環境関係で、石田委員に原案作成を依頼)

 ・11月号(構造関係で、福和委員・野口委員に原案作成を依頼)

□特集アーカイブスの提案について

 青井委員から、「過去の類似テーマを総括する」という編集方針に基づき、毎月の特集において『建築雑誌』の過去の議論や作業を総括するという提案がなされた。また、1月号を想定した私案が提出された。議論の結果、新たにページ枠は確保せず、必要に応じて特集の枠内に組み入れる方針とした。

□連載について

  下記の依頼を行うこととした。

  →3月号 小笠原伸氏(テーマ:1960年代クレージーキャッツ映画と高度成長)

  →3月号 宇高雄志氏(テーマ:マラッカ)

  →5月号以降は、岩下・羽山・野口の各委員より企画案を提出していただく。

  →3月号 瀧澤重志氏(テーマ:人工生命関係)

    なお、伊香賀委員から環境工学関連ソフトが紹介された。

  →3月号 小山雄二氏(大阪→新居委員打診)、羽深久夫氏(北海道→支部通信委員)

 Foreign Eyes

  →2月号 Michael Webb氏(その後、多忙により後回しにしてほしいとの要望があり、

   急遽、Miodrag Mitrasinovic氏(アメリカ)に依頼しました。)

  →2月号 天野裕氏

□RILEM小委員会から、紹介記事の掲載依頼について

 RILEM小委員会より、RILEMのテクニカル・コミッティの紹介記事の掲載依頼について、掲載するとすれば「技術ノート」か「活動レポート」になろうという前提で議論した。①「技術ノート」として見ると、企画内容として不十分であるので、全体構成を4回程度の企画案としてまとめていただく。②「活動レポート」であれば、活動報告的な内容で随時掲載する。という2つの選択肢を検討していただくよう、RILEM小委員会に回答することとした。

□「情報ネットワーク」の改変案について

 標記について、情報委員会(編集委員会の上部委員会)で議論されている内容が事務局から報告された。改変の方針として、①分かりやすい誌面を構成する、②情報の多様化を図る、③経費の削減を図る、こととし、具体的なイメージが示された。

 誌面レイアウトについては、それぞれの項目ごとに分けたレイアウトやデザインを鈴木一誌氏に依頼する方針が確認された。

□ホームページについて

 大崎幹事より、進行状況が報告された。

□総合論文誌構想について

 布野委員長より、2002年度から新たに『建築雑誌』増刊として刊行される「総合論文誌」の構想が説明された。この刊行に伴い、「建築年報」の独立刊行を廃止すること、『建築雑誌』9月号の特集を「建築年報」の内容に充てる方針が説明された。

 

会議後、松山さんから、『路上の症候群 19782000 松山巖の仕事Ⅰ』(中央公論新社)を頂く。「何冊でるんですか?」と問うと二冊とのこと。二冊目は長めの論考を集めたという。じっくり読ませて頂こうと思う。

 

20011029

政策科学研究所(東京)に呼ばれ「アジアの都市と居住モデル」と題して講義。「都市における人間とテクノロジーに関する研究会」という。機械学科の先生が主体だけれど社会科学系の先生も多い。こんなテーマであれば建築学会はもっと活躍すべきだ、と思う。

 

2022年8月31日水曜日

2001年9月 序走・・・第2回編集委員会 『建築雑誌』編集長日誌 2001年4月25日~2003年5月31日

 序走・・・第2回編集委員会

200191

 ほとんど何も決定できなくて少々焦る。焦ってばかりだ(ホントはナルヨウニナルサである)。4日から学会のアジア建築交流委員会主催のタイ・マレーシア視察に出掛けなければならない。以下確認のメールを送る。

 

建築雑誌の編集方針について   布野修司            01092001

0 以下、よろしく作業をお願いします。また、全てについてご意見お願いします。

Ⅰ 建築雑誌 20021月号 について

        A特集

表紙に特集に関わるインパクトある図像、図表を用いる

その解説を特集趣旨と合わせて1p、特集頁内で執筆する。

原稿は図、文字数の比率を指定して発注する。

以上、各号共通。

タイトル案「建築産業のストラテジー」(仮)or「変動する建設産業」←最終案は原稿を読んで決定。

        主旨:ピーク時84兆円(内建築投資●●)に達した建設市場は,2001年度,67兆円程度(内建築投資●●)にまで縮小し,この傾向は今後もさらにすすむとの予測がある.また,国内総支出に占めるその比率も低下傾向にあり,とくに民間設備投資の低迷による非住宅建築の縮小が著しい.住宅についても数年先に年間着工100万戸台を割ることが現実味をおびてきた.・・・以下省略。

 →遠藤、岩松、伊藤委員、最終案を至急提出下さい。

 →座談は、下河辺淳インタビューを第一案として、至急設定してください。9月中旬以降早いうちに。日時をアナウンスしますので、出席できる編集委員は出席してください。

 →表紙に使う図表の候補を鈴木一誌氏に出きるだけ早く提示してください。

B 常置欄・連載企画

目次裏

 建築を考えるための24の言葉 1松山委員  構想をまとめて執筆下さい。

口絵 

 表象としての建築 11月号は高島委員執筆下さい。また、シリーズ趣旨、ラインナップを鈴木隆之委員などと相談の上、提出下さい。

 建築博物館 2→塚本、黒野、勝山委員・・・、シリーズ趣旨、ラインナップを相談の上提出下さい。1月号執筆者を編集委員以外から決めて下さい。

 建築のアジア・・・世界の植民地建築 1p →西欧以外の地域を取り上げて、面白い建築を紹介します。いわゆる植民地建築、宗主国の建築と土着の建築の折衷がテーマです。書き手を紹介下さい。第一回は、フィリピンのバハイ・ナ・バト(石の家)---山口潔子(京大AA研)、スペインとメスチーソの生み出した折衷様式ではどうかと思っています。出きるだけ国はダブらないようにしたい。

 まちづくりノート 1→脇田、北沢、土肥委員、シリーズ趣旨、ラインナップを相談の上、提出下さい。1月号執筆者を編集委員以外から決めて下さい。

 歴史のパラメータ 1→ 浅川委員、青井委員・・・、シリーズ趣旨、ラインナップを相談の上提出下さい。1月号執筆者を編集委員以外から決めて下さい。

 地域の眼 2p→新居、山根、田中委員・・・ラインナップを相談の上提出下さい。1月号執筆者を編集委員以外から決めて下さい。

 Foreign Eyes 2p→ T.Danielを軸にしますが、皆さん推薦下さい。テーマは、Japanese Built Environment

コンピューターソフト2p→大崎さん、石田さん、野口さん、勝山さん、岩松さん、・・・ラインナップを相談の上提出下さい。1月号執筆者を編集委員以外から決めて下さい。

技術ノート 24回x6グループで考える。皆さん提案下さい。岩下、羽山、野口、石田、伊加賀、大崎、八坂・・の各委員、それぞれ最低一案提案下さい

 

隙間頁・・・書きためておいて、空いた頁に適宜挿入します。

用語集→特集に絡む用語を解説。新しい言葉の解説。200字~400字。布野が担当します。

 →1月号について、遠藤、岩松、伊藤委員キーワードをリストアップ下さい。

 →各委員、各自の研究領域のキーワードを5づつ送って下さい。執筆は入りません。また、建築の領域に関して、最近耳にして、気になる言葉を5つ送って下さい。

 

 Ⅱ 2月号特集について

 →塚本委員、至急提案の形にして布野当て送って下さい。即作業を開始してください。922日に決定すべくやり取りしたいと思います。小嶋、古谷委員、貝島委員最終とりまとめの責任よろしく。鈴木隆之委員、小野田、勝山委員・・・積極参加お願いします。

 Ⅲ 3月号、4月号について

 →それぞれ相談の上、大崎委員、伊加賀委員を中心に次回再度企画案提出お願いします。

 Ⅳ 5月号以降について

 →各自最低一案、次回編集委員会前に特集企画ご提案下さい。

 →具体的に提案されています浅川案は、前向きに検討させて頂きます。ご意見下さい。

 

マレーシア・タイ建築交流視察団:多民族共生の知恵-マレーシア・タイ縦断:バスの旅-

200194日~12

 あわただしく日本を発った。今回は編集委員長としての仕事も大いにある。アジアの都市建築については力を入れたいと思う。古谷幹事などからは、「布野さんならアジアでしょう」などと言われている。古谷先生はいまや大教授だけれど、学生の頃から知っている。原(広司)さんのところで勉強会なんぞしていたのがなつかしい。建築交流視察団の趣旨は以下のようだ。

 

「第4回国際アジア建築交流シンポジウムは、20029月に中国・新彊で開催されます。中国、韓国、日本の三学会の協定に基づくこのシンポジウムへの参加を求め、今後のアジアの建築交流をさらに拡大するためにマレーシア、タイの大学、研究機関との交流を行います。

 多民族共生、歴史の重層がテーマでしょうか。ひとつは土着の民家の現況があります。伝統的住宅は急速に姿を消しつつありますが、それでもヌガリ・スンビラン州のミナンカバウの住宅、ペナンの「マレーシアで最も美しい村」などをご案内できます。ポルトガル来航以降の歴史も興味深い点です。マラッカがそのハイライトとなります。また、シンガポールのラッフルズ、マラヤのC.C.リード、ペナンのフランシス・ライトなどの植民都市建設の跡をたどります。現代建築では、世界一の高さを誇るペトロナス・タワー、空調のないオフィスビル(ケン・ヤング)のあるクアラルンプールがびっくりするほどの展開を見せています。バンコクはそう時間がありませんが世界遺産となったアユタヤの古都へは行けると思います。

 布野は植民都市研究の一環として、宇高とともにマラッカの調査を展開中です。また、マレーシア版エコ・ハウスモデルを目指すマレーシアと京都大学との研究プロジェクトに参加しつつあります。宇高は長年にわたって、マレーシアの居住問題に取り組み、近年では歴史的環境の保存の問題を探求しつつあります。バスで地上を移動しながら様々なフィールドをご案内します。」

 

 ターゲットのひとつはケン・ヤングである。彼の作品は結局5つぐらい見た。まるで、ケン・ヤング・ツアーである。クアラルンプールでは彼の事務所を訪問。ちゃんと『建築雑誌』への原稿依頼をしてきた。マラヤ大学では学科をあげて歓迎されたのだけれど、『建築雑誌』の宣伝もしっかりしてきた。

 

2001912

 明日は帰国という夕べ。簡単な打ち上げ会を終えてホテルに戻ると二機目が突っ込むところであった。目の前で超高層ビルが崩れ落ちるという信じられないような光景が起こった。その時のことを以下のように綴った。

 

■見聞録17:世界貿易センター(WTC)の悪夢:呪われた建築家、ミノル・ヤマサキ:現代技術の盲点

布野修司

ミノル・ヤマサきという建築家はよくよく呪われている。一九七〇年代初頭、彼のプルーイット・アイゴー団地(セントルイス)が爆破解体され、近代建築の失敗の象徴とされた。そして今度の、超高層建築技術の象徴、世界貿易センタービルの一瞬の消滅である。

建築学会の視察を終えて明日は帰国という夜、バンコクの宿でテレビをつけると、二機目が突入する直前であった。眼は釘づけだ。まもなく信じられないような光景が出現した。超高層ビルがまるで砂のように崩れ去ったのである。何度見ても一棟が忽然と消えてしまっている。そして二棟目も崩れ落ちた。

こんなことがありうるのか。隣で同じように固唾を飲んで全てを目撃していた建築家に叫んだ。彼は建築構造の専門家だ。咄嗟の答えとして、衝突直後低層部に仕掛けられた爆弾が破裂した、という。しかし、いかに周到に計画されたテロでもそこまではできない。第一、正確に、しかも相次いで二機も、合衆国の象徴、世界資本主義の象徴である世界貿易センターに突っ込んだ段階でテロリストの目的は達成しているのである。

十分ほど考えた後、彼は答えてくれた。飛行機の衝突によって切断された上部がダルマ落としのように巨大な荷重として下部にのしかった。加えてジェット燃料による火災で、鉄骨の温度が六百度以上に上がり強度を失った。その結果、各階の柱と梁が次々に荷重を支えきれなくなり崩れ落ちた。

冷静に考えれば納得するが、誰が、超高層ビルが瞬時に崩れ落ちると思うであろうか。痛ましいのは、救助に向かった消防士、警察官である。彼らは夢にも思わなかったであろう。テロリストですら、ここまでの成果?は想定しなかったに違いない。

起こってしまったことは説明できる。しかし、起こる前にその可能性を専門家でも考えたことがない。巨大な盲点が現代技術の体系には潜んでいる。

 

帰って(乗った飛行機は米国行きであったが関空までは予定通り飛んだ。ものすごく厳しいチェックであったが、手荷物のカッターナイフはフリーパスであった)原稿を送ると、最早鮮度がない、もう少し距離を置いて書いて、と井手和子さん。読み直すと、なんたる駄文か。興奮している割に何も言っていないような気がする。何故超高層ビルが倒壊したかなんて最早みんな知っている、のである。そこで書き直したのが下の原稿。未だに文章修行である。(興味があれば)読み比べられたい。

 

■見聞録17:世界貿易センター(WTC)の悪夢:呪われた建築家、ミノル・ヤマサキ:現代技術の盲点:最適設計の美学

布野修司

ミノル・ヤマサキという建築家はよくよく呪われている。彼が設計したプルーイット・アイゴー団地(セントルイス)が爆破解体されたのは一九七〇年代初頭であった。近代の理想の団地もスラム化がひどく壊すしかなかったのである。その爆破の写真は、近代建築の失敗の象徴としてしばしば取り上げられる。そして世界貿易センタービルの一瞬の消滅である。その設計思想の破綻が白日の下にさらされたのである。

それは信じられないような光景であった。超高層ビルがまるで砂のように崩れ去ったのである。建築のことはひと通り学んだつもりの僕でも、こんなことがありうるのか、と眼を疑った。超高層にジェット機がぶつかることなどそもそも想定されていないと言えばそれまでである。しかし、ぶつかって火焔を上げている超高層ビルが次の瞬間に崩れ落ちると予測した人が何人いたであろうか。

事件からしばらくして、予想通りの美しい壊れ方であったと嘯く専門家がいると聞いた。最も経済的に最も合理的に設計された建築物は全ての部位が同時に破壊されるのが理想だという。最適設計の理論である。そんな理論など一般の人は知らないだろう。超高層ビルがそんな思想で設計されていると知っていたら、多くの消防士や警察官は救助に向かわなかったであろう。そして命を落とすことはなかったであろう。

超高層はそもそも不要だ、あるいは不自然だ、などとは言うまい。それ以前に、何があろうと、建造物があのように崩れてはならないと思う。一本の柱でも一本の梁でも壊れずに残れば多くの命が救われた筈だ。全て同時に壊れるのではなく、わざと弱いところをつくっておいて、他を救うという考え方だってある。問われているのは設計の思想である。

超高層ビルを生んだ二〇世紀の設計思想が恐ろしいのは、それがいかに危ういか、を知りながらそれを隠していることではないか。

 

建築学会大会(本郷)・・・第3回編集委員会

2001913

 帰国早々、神戸芸術工科大学の斎木さんが組織した「新田園都市国際会議2001 神戸会議」に雇われ司会で出席。送ったはずの原稿が掲載されておらず調子狂う。講演者、パネラーの数が多すぎ捌きかねる。さすがに体調悪く早々に失礼する。しかし、来年はE.ハワードが『明日の田園都市』を出版して100年になる。『建築雑誌』で特集を組んでもいい。渡辺俊一先生の日本の田園都市をめぐるキーノート・スピーチは圧巻であった。

 

2001920

 竹下輝和学術理事から、総合論文集に関する委員会にオブザーバーとして出席を求められる。総合論文集と『建築雑誌』の位置づけが問題になるという。確かにそうだ。しかし、僕に言わせると違いは予めはっきりしている。建築雑誌はジャーナルである。論文集と言うからにはアカデミックでなければならない。ジャーナリズムとアカデミズムの違いである。ジャーナリズムはジャーナルの中にエターナルなものを目指すのである。しかし、話を聞くと、なんだか『建築雑誌』と似ている。『建築雑誌』でもやれそうなテーマが並んでいる。これはちょっと違うんじゃないか、というのが直感である。

 竹下理事は、建築学をインターディシプリナリーに開く編集方針のようである。現在の『建築雑誌』=若山委員会でも、建築学の周縁に眼を向ける、のが方針である。一般に開くというのは異議ないけれど、無防備に出ていっていいのか、という気がしないでもない。建築学の武器とは何か、その根底を確認するのが先決ではないか、と僕は思う。

 総合論文集という前に、現在の論文集をきちんとレビューする必要がありはしないか。専門分化している、それでは困るというけれど、総合論文集の刊行によって、その問題点は果たして突破できるのか。審査員名の公開などやることは別にありはしないか。こう見えても、論文集にも論文は書いている。若い世代のプロモーションに要求されるからである。問題の根はわかっているのだからそれを掘り下げるべきだ。

 理事会への提案を引き継ぐといっても止めるのも見識である。担当理事になって止めるというと無能と見なされるからやる、というのはおかしい。まさに、組織が自己増殖する何とかの法則?である。

 竹下理事とは気心が知れているから、以上のようなことを勝手に言わして頂いた。しかし、どうやら、総合論文集の影響は『建築雑誌』を直撃しそうである。

 

2001922

 年の一度の大会である。今年は東京大学が会場だ。久しぶりの本郷である。藤井恵介さんにたまたま会うと、卒業設計作品展を絶対みるように言われて早速見た。なつかしくていつも通った正門前の喫茶店ボンナに行く。30年にもなるからマスターはさすがに歳をとった感じがするけど、ママは変わらない。ジーンズ姿にはびっくりである。「案の定、誰か居ると思った」と愛知工大の曽田先生が入ってきた。

山上会議所で第3回編集委員会。出席は23名。学会大会と言っても、皆さん忙しいから、東大の野口委員、北沢委員と雖も出席できない。というより、本部で忙しいから余計出席できない。大会会場で編集委員会をやるのは、第一に、旅費節約のためである。第二に、大会は、『建築雑誌』のネタの宝庫だからである。議事は以下の通りである。

 

3回編集委員会 議事録

<日 時>2001922日(土)14:0017:00

<会 場>東京大学山上会館 会議室201/202

<出 席>委員長 布野 修司

     幹 事  石田泰一郎・大崎  純・古谷 誠章・松山  巖

     委 員 青井 哲人・浅川 滋男・伊香賀俊治・岩下  剛・岩松  準

         遠藤 和義・貝島 桃代・勝山 里美・黒野 弘靖・小嶋 一浩

         高島 直之・田中 麻里・Thomas C.  Daniel  ・塚本 由晴

         土肥 真人・新居 照和・羽山 広文・福和 伸夫・藤田 香織

         八坂 文子・山根  周・脇田 祥尚

<議 事>

□布野委員長より、議事録をもとに前回議論の確認を行った。

□特集企画について

1月号「建築産業に未来はあるか(仮)」について

 遠藤委員から進行状況が報告された。主旨文に、建設市場の金額うち建築分野の占める金額を併記することとした。また、関連文献・資料の充実を図ることとし、特集末尾の「データ集」に組み入れることとした。

2月号「買える、読める、カスタマイズできるデザイン(仮)」について

 塚本委員からの企画案をもとに、古谷幹事から説明された。塚本委員、小嶋委員、貝島委員から補足説明がされた。企画案が40ページの構成になっているが、2月号は小特集につき24ページに再編することを念頭に、議論した。その結果、「買える、読める、カスタマイズできるデザイン」はいずれ改めて特集とすることとし、今回は、身の回りを構成する要素でありながら使う人への配慮に欠けた「ダメなデザイン」を中心に構成することとした。今後関係委員を中心に企画を固めていただき、依頼原稿ではなく、ルポ的な作業を通じて誌面構成をしていただくととした。

3月号「情報技術と建築の将来(仮)」について

 大崎幹事から企画案が提出され、議論した。次回委員会で最終決定する。

4月号「京都議定書と建築(仮)」について

 前回委員会に提出した資料が再提出され、伊香賀委員より再度説明された。アフガン攻撃で京都議定書の行方が定まらなくなっているなかで、現在の動向をきちんと押さえることにも配慮すべきではといった意見が出された。また、行政の宣伝臭があまりに強くならないように、全体のバランスを見て配慮することとした。

5月号以降の特集テーマについて

 浅川委員から「古代世界」の説明がされた。

 鈴木委員から「思考の実験場としての建築」「芸術の一ジャンルとしての建築」の案が提

        出されたが、鈴木委員が御欠席につき、議論は次回に持ち越しとした。

 脇田委員から「市民社会の計画論」が説明された。

 田中委員から「子どもと住環境教育シリーズ」が説明された。

□連載について

  下記の連載について、担当委員より執筆候補のラインナップを揃えて頂くこととした。

●目次裏

<建築を考えるための24の言葉>

 →松山委員が2年間を通じて依頼

●口絵

<表象としての建築>

 →1月号は、高島委員が執筆

<建築のアジア>

 →1月号は、山口潔子氏に依頼

●記事中連載

<建築博物館が欲しい!>

 →黒野委員からのメモをもとに議論した。最初はおもに海外の博物館におけるプログラ

  ム紹介などが中心になりそうだとのことで、カラーではなくモノクロ掲載の方針とし

  た(2ページ)。また、仙田会長から提案されている作品紹介ページ(資料6)に対応

  する役割も担うこととする。さらに、日本の建築博物館に納めるべき作品とその位置

  づけ、学会が進める「建築博物館構想」の紹介なども紹介していくこととした。

<技術ノート>

 →14月号に「建築教育の情報化委員会」からの提案を連載

<遺跡漫遊>

 →1月号は、浅川委員が執筆

<建築史のパラメータ>

 →2月号は、青井委員が執筆

<建築のためのソフトウェア紹介>

 →大崎委員が順次打診

<地域の眼>

 →1月号は新居委員(徳島)、田中委員(群馬)

 →2月号は黒野委員(新潟)、末吉栄三氏(沖縄)

Foreign Eyes> テーマ: Japanese Built Environment

 →1月号は、ダニエル委員が執筆

 →2月号は、Michael Webb氏に依頼

<まちづくりノート>

 →脇田委員から候補者が挙げられたが、決定にいたらず。

<用語集>→連載枠とは別枠として、誌面の空いたスペースに随時掲載することも検討する。

*<世界の住宅事情>は、全体ページ数の関係で見送ることとした。

□仙田会長からの提案について

 資料6による仙田会長の提案について、布野編集委員長が仙田会長と面談した結果をふまえ、下記のような方針が報告された。

・英文誌名の略称「JABS」は、ないがしろにはしないが、前面には出さない。

・建築設計に携わる会員に対しては、個々の特集で配慮するとともに、作品紹介的な連載

 として建築博物館を充てる。コンテンポラリーな作品紹介は難しいとの判断。

・情報ネットワークのあり方は全面的に見直し、分かりやすいデザインに改めるとともに、

 情報収集機能を強化し、記事の多様性を図る。

RILEM小委員会から、紹介記事の掲載依頼について

 野口委員の意見を伺ったのち考慮することとした。

□総合論文誌構想について

 布野委員長から、総合論文誌検討小委員会への出席報告が、次のようにされた。

 ①来年の刊行を目標に上記論文誌の構想が進んでいること、②テーマ別主集方式を採るので『建築雑誌』との棲み分けが問題になること、③刊行形態は『建築雑誌』の臨時増刊となる可能性が高いこと。また、予算が限られていることから、「建築年報」の見直しを行うことで対処する可能性もあることが説明された。

 

 懇親会には12名、環境系の伊加賀、羽山、岩下先生が参加。環境系のテーマについてすこし突っ込んで議論できたのが収穫。二次会、三次会、最後は、松山さんと高島の三人、新宿だった。松山さんが火災で焼けた雑居ビルを見たい、と言いだして夜の新宿を彷徨った。最後に入った飲み屋で、西部邁先生と佐伯啓思先生とばったり。何かの研究会の流れらしかった。西部先生はテレビでお馴染み。なんと佐伯啓思先生は僕の同級生だ。18で上京して入った寮で前の部屋だった。いま、京都大学で一緒だけれど、なかなか会う機会はない。東京で会うとは面白い。

 松山さんは僕のデジカメをもって夜の街へ飛び出しては撮れない、と言って戻ってくる。酔っても好奇心旺盛である。

 

2001929

 尼ヶ崎でグループ・ハウスを見学。三浦研(京都大学)さんの案内でいくつかのコレクティブ・ハウスを見せてもらう。阪神淡路大震災後はどうなっているのか、また、介護の問題高齢社会の問題、『建築雑誌』でとりあげる必要があるのではないか、と思う。しかし、コレクティブ・ハウスには問題が多い。以下感想である。

 

見聞録18:コレクティブ・ハウスの行方:新しい共同住宅のあり方を求めて:使われない共用空間!?

布野修司

 

阪神淡路大震災以後、コレクティブ・ハウスと呼ばれる共同住宅のあり方が追求されつつある。ヨーロッパでは、血縁関係のない単身者が台所、食堂、居間などを共用する住宅のことである。同世代が一緒に住む場合が多いが、シェア・ハウスと呼ばれる形式もある。日本の場合、今のところ、独居老人が一緒に住む形式が一般的である。

この「グループ・ハウス尼崎」は中でも先進的な一例である。個室が九つずつ左右にあり、真ん中に共用の居間、台所、浴室が配されるだけのシンプルな間取りであるが、居住者が実に生き生きとしている印象を受けた。面白いと思ったのは、僕がインドネシアで手掛けたコレクティブ・ハウスの間取りとよく似ていることだ。

もともと二つのケアつき仮設住宅を統合してつくられたのがこの施設である。知られるように震災後の仮設住宅では独居老人の孤独死が相次いだ。こうした共同施設の必要性が痛感されたのである。しかし、これはあくまで仮設住宅でその存続は危ういという。一方、厚生労働省が制度化したグループ・ホームは痴呆性高齢者に限定されている。

問題はこうした新たな共同住宅が必要なのは高齢の単身者に限らないことだ。女性の社会進出、少子化もあり、日本の家族のあり方は遥かに多様化しつつある。

いくつかのコレクティブ・ハウスを見せて頂いていささか暗然とすることがあった。いわゆる共用空間が全く使われていないのである。極端なところでは、共益費にお金がかかるというので共用室の蛍光灯が取り外されていた。そして、何よりも活気がない。全く状況は異なるが、インドネシアの場合、共用室は子供たちの遊び場でもあり、実に賑やかである。

高齢社会とはいえ、各世代がともに棲むのが街だ。各世代が棲む共同住宅の形が我が国にも欲しい。