いざ、出陣
2001年11月5日
二冊目の本『手の孤独、手の力 松山巖の仕事Ⅱ』が届く。二冊とも装画、装幀は松山さんの手になる。結局、鈴木一誌さんに頼むことになったのであるが、表紙を松山さんに頼むという発想に間違いはなかったと思う。この二冊目は、長めの原稿が収められている。クロニクルの体裁をとったⅠと異なり、Ⅱはしっかりと編まれている。この構成の力も松山さんの本領である。全体はⅠ~Ⅶに分けられ、各章の冒頭に「あなたは天の川を見たことがあるか」と繰り返される。松山さんと違って田舎育ちだから、家の前の空き地で夏の夜、茣蓙に寝っ転がって仰ぎ見た記憶はある。しかし、感動をもって甦ってくるという感じはない。「更け行くや水田の上の天の川」(惟然)などという情景は既に僕らの世代のものではない。最後に収められた文章は「手の孤独、手の秘密」と題されている。手の力、手の仕事についての省察である。その中に、大学四年の時に小さな別荘を手作りで建てた話が出てくる。他の場所でも松山さんは書いているからそのことは知っているのだが、手の仕事への拘りが全ての評論活動の原点にあるのだと思う。
ちょっと前に、藤森照信先生から『天下無双の建築学入門』(ちくま新書)を頂く。一気に読んだ。これは『住宅術入門』とすべきじゃないかとまず思った。ここにも徹底した手への拘りがある。しかし、藤森先生のこの脳天を突き抜けるような無心の明るさと松山さんの本から受けるある種の重さとの違いは一体どこから来るのだろう。
2001年11月10日~11日
駆け足で札幌、函館を回る。研究室出身の三井所隆史君と会って一晩飲む。土日とあって羽山先生尋ねる時間なし。申し訳ありません。
2001年11月15日
1月号特集企画、下河辺淳vs.平島治 対談。遠藤和義、岩松準両委員とともに出席司会。上京の新幹線の中で、まず、日刊建設工業新聞の特集「建設産業大改革」にざっと眼を通す。ピントこない。そんなに危機感はなさそうな印象である。そこで送られてきたばかりの古川修先生の遺稿集『建設業の世界』(大成出版社)をじっくり読んだ。古川先生とは京都大学ではご一緒することはなかったけれど不思議な縁である。そのことは「小林如泥のこと」と題して追悼集『獺祭魚』(だっさいぎょ)に書いた。ご存命であれば真っ先に相談したかった1月号の特集である。下河辺淳先生は古川先生と同級生で親友である。遠藤委員は古川先生のお弟子さん、岩松準委員はかつてNIRAで下河辺先生のもとにあった。僕は勝手に「建築産業に未来はあるか」(仮)という特集に最も相応しい人をあれこれ考えて下河辺先生を思いついたと思っていたのであるが、予め多くの縁が今回の対談を導いていたのである。
予め遠藤委員作製のメモを両氏には送ってあるが、まあシナリオ通りには進行しないだろうとは思っていた。それにしても、いきなり下河辺先生に足払いをかけられてしまった。
「建築業というのは何ですか?家具屋さんは建築業ですか?」
びっくりしたけれどうろたえはしなかった。古川先生の本の冒頭(「建設業のはなし」)にその議論があり、読んだばかりであったのである。遠藤さんに振って答えて頂いた。家具を売るだけだと小売業とか卸業であるが、それを据え付けると建築業になる。要するに建築業と言ってもその拡がりはとてつもなく大きいのである。
「建築業の何が問題なんですか?私には何も申し上げることがないんだけど・・・」
最初の口頭試問にかろうじてパスすると次はメガトン級の発言である。これにはいささかうろたえた。体制を立て直して恐る恐る日本の産業構造の転換について問うと、これには答えざるを得ないと思われたのか、ビシバシと眼から鱗が落ちるような発言が機関銃の弾のように飛んできた。実に刺激的な1時間半であった。
乞うご期待である。
2001年11月20日
第五回編集委員会。上京の新幹線の中では西垣通『IT革命』(岩波新書)と何故か相原恭子『京都 舞妓と芸妓の奥座敷』(文春新書)。
編集委員会は、少し余裕が出て来る。段々議論を楽しむようになれればと思う。とは言え、いよいよ出発ということで決めなくてはいけないことが山積している。大きな問題は常設コラムの順序を含めた紙面の構成である。表紙にインパクトある図表を!と決めたのだけれど中身のレイアウト方針が見えない。わかりやすく!が絶対方針であるが、わかりやすくといっても基準があるわけではない。カラー頁をたくさん使えばいい、ということでもないだろう。主だった決定事項は以下の通り。
○
建築ソフトのフロンティアをカラー頁として特集の前に置く。
○
会告、情報ネットワークの改革の一矢として、青井委員提案の「建築アーカイブス」を末尾に置く。
二番目は特集以外の頁を使う。頁数削減の中にきらりと光る頁、資料性の高い記事をつくりたい。
それに加えて、布野編集委員会の方針として、本文用紙は可能な限り再生紙、印刷インクは大豆インクを中心に使用することとした。4月号の京都議定書をめぐる議論のなかから、「隗よりはじめよ」となった次第。再生紙も可能な限り使いたい、と思う。
3月号「建築の情報技術革命(仮)」の発注は終わり、既に焦点は4月号である。
常置欄について、今のところ、「建築のアジア 世界の植民地建築」は僕の担当である。そのタイトルをめぐって、多少の議論があった。その欄は、要するに、あまり知られない、変わった建築を紹介しようという、歴代の委員会が設けてきたグラビア欄を引き継ぐものだ。「奇想天外の建築」というと力が入るから、「西欧以外の地域を取り上げて、面白い建築を紹介します。いわゆる植民地建築、宗主国の建築と土着の建築の折衷がテーマです」という趣旨を考えた。そこで「アジアの建築」ではなくて「建築のアジア」か。
アジアという言葉は、アッシリア起源で、古代ギリシャ語、古代ローマ語にも既にある。興味深いのはヨーロッパと対であるということだ。asuに対するereb(irib)が語源だという。すなわち、日いづる所(東)asuと日没する所(西)erebという意味でasuが訛ってasiaになった。erebがエウローピュとなりエウロパスすなわちヨーロッパ=キリスト教世界という定式化が行われるのは15世紀のことである。
ここでいうアジアは非西欧のことです、というと、アフリカもアメリカも入るんですか、と皆さん。入ります、というと怪訝な顔。そこで、「建築のクレオール」という案が出された。クレオールというのは現地生まれの白人という意味である。西欧建築が依然として優位のような気がしないでもない。要するに、西欧建築一辺倒ではない見方で建築を紹介したいということである。
2001年11月22日
京都大学にて「建築のあり方を考える会」。お誘いを受けていたけれど、これまでの会には所要で参加できず、初めて出席。古阪秀三(京都大学)、青木義次(東京工業大学)の二人が主唱者。原田(京都大学)、室崎(神戸大学)の両先生が報告。他に浅野史郎(日本大学)、藤井晴行(東京工業大学)の両先生が参加。「建築のあり方を考える会」とは、またなんと漠然とした会だろうと思っていたところ、建築界の問題点がボンボン飛び出す。防災が専門のお二人の報告だけれど、法の問題から建築教育の問題まで話題はどんどんひろがる。キーワードは「倫理」であろうか。編集委員会のネタがごろごろ出てくる。いささか感動である。学会の委員会とは全く関係ない、こんな会があるとは。
2001年11月30日
大阪の綿業会館で、高崎正治さんの「RIBA(英国王立建築家協会)名誉会員、2001年ジェンクス賞受賞」記念パーティーに出席。あんまりこうしたパーティーには出ないのであるが、京都造形芸術大学で一緒という縁で渡辺豊和さんに発起人を頼まれたのである。というとちょっと他人行儀であるが、高崎さんはまだ無名の頃から知っている。実にたいしたものだと思う。名誉会員は日本人7人目だという。その作品の評価は二つに分かれようが、異形の建築をつくり続ける力量は大変なものである。
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