植民都市の文化変容―土着と外来―居住形式を中心として
殖民都市的文化轉化;本土與外來—以居住形式為中心論述—
布野修司
序
植民都市研究は、第1に〈支配←→被支配〉〈ヨーロッパ文明←→土着文化〉の2つを拮抗基軸とする都市の文化変容の研究である。植民都市は、非土着の少数者であるヨーロッパ人による土着社会の支配をその本質としている。西欧化、そして近代化を推し進めるメディアとして機能してきたのが植民都市である。植民都市の計画は、基本的にヨーロッパの理念、手法に基づいて行われた。西欧的な理念が、アジアにおいてどのような役割を果たしたのか、どのような摩擦軋轢を起こし、どのように受け入れられていったのか、計画理念の土着化の過程は、どのようなものであったのか、さらに計画者と支配者と現地住民の関係はどのようなものであったのか、等々を明らかにすることは、それぞれの都市構造を理解する上で大きな意味をもっている。
第2に、近代植民都市の形成とその後の変容、転成に関する研究は、世界システムの形成とその展開に関する研究である。世界システムの形成をめぐっては、経済史を中心に多くの業績が積み上げられている。しかし、世界システムの拡大形成の拠点であった都市については、ほとんど植民都市として一括して論じられるだけである。植民都市の系譜を単にどの宗主国によって建設されたものかという起源論的な言及にとどまることなく、都市形態・居住特性などをも含んで大きく系列として体系的に整理していく作業が残されている。海外進出の先鞭をつけたポルトガルの場合、現地社会との関係はそれぞれ個別の交易関係に過ぎなかった。スペインの場合、「新大陸」は帝国の拡張空間であった。オランダは、既に成立していた各地域の域内交易ネットワークを繋いだ。そして、世界を帝国主義的に分割する段階が来る。世界システムの形成と植民都市のネットワーク形成の関係をダイナミックに捉えることは大きなテーマとなる。
第3に、植民都市の問題は、現代都市を考えるためにも避けて通れない問題となっている。発展途上地域の大都市は様々な都市問題、住宅問題を抱えつつあるが、その大きな要因は、以上のような植民都市としての歴史的形成にあるからである。極めて直接的には、植民都市の形成、変容、転成の過程を比較研究することにおいて、今日の発展途上地域の、大都市の都市構造を理解するための知見を得るとともに、都市空間あるいは地域生活空間の計画に関わる指針を得ることが大きな関心となる。
Ⅰ 植民都市の特性
植民都市は、宗主国と植民都市、植民都市と土着社会の二重の支配-被支配関係を基礎に成立している。また、植民地と植民都市の関係、植民帝国における諸植民都市との関係、さらには最終的には世界経済システムに包摂される諸関係の網目の核に位置する。そうした様々な関係は、植民都市内部の空間編成として表現される。西欧世界と非西欧世界(文明と野蛮)、宗主国と植民地(中心と周縁)の支配-非支配関係を媒介(結合-分離)するのが植民都市である。その基本的特性は以下のようである。
A 複合社会
植民によって形成される植民都市は、様々な住民によって構成される。植民地社会は多民族からなる複合社会plural societyである。オランダの社会学者J. S.ファーニバル
[1]は,同一の政治単位内に二つ以上の、人種的要素、宗教的要素など様々な要素、あるいは社会体制が隣接して存在しながら,互いに混合・融合することがないような社会を複合社会と呼んだ。また、イギリスの社会人類学者ラドクリフ・ブラウン[2]は,未開民族とヨーロッパ人の接触以来,両者によって構成されるようなった社会を複合社会と呼んだ。
植民都市においては、西欧人と現地民、エリート層と一般住民とが大きく二分化される。そして、白人と黒人、インディオなど土着民、ムーラート、メスチーソ、ユーレイシアン等混血、クレオール(クリオーリョ)など多人種、多民族によって様々な社会階層が形成される。植民社会を主として構成するのは、
①植民地社会のエリート層を形成する植民地権力ないし植民地帝国権力の居住集団、 ②民族混合の、他の植民地あるいは半植民地からの移住集団、 ③土着の知識階層、伝統的エリート、④土着のあるいは域内移住を含む土着の民族集団・部族・クランなどである[3]。
そして、植民地の経済構造も複合的なものとなる。ファーム・セクターとバザール・セクター、あるいはフォーマル・セクターとインフォーマル・セクターといった対概念でとらえられるが、西欧社会と現地世界、支配層と被支配層の二分化に対応して、世界経済システムと現地経済システムが併存する、二重経済構造が特徴となる。二重経済論を最初に提唱したのはブーケ
[4] である。その後、シンガー H. Singer やヒギンズ B. Higgins などの技術的二重構造論と,ルイス W. A. Lewis などの経済的二重構造論が展開される。技術的二重構造論は、近代部門は西欧技術を、在来部門は農業や中小企業の伝統技術を用い、両者の間には労働資本比率,労働生産性,賃金などで大きな格差が存在するとする。経済的二重構造論は、資本主義的な近代部門に対して,労働力供給のプールとなる伝統部門が存在するものとされる。
こうして、植民都市は異質な要素の重層する複合的空間となる。多人種、多民族による文化的背景を異にする多様な住民構成、非土着民による土着民の支配、土着エリート層と一般土着民の二分化、域外、域内からの移住者と土着民との競合、都市民と農民との寄生的関係など諸対立を内に含む階層(カースト)的社会構成、二重の政治経済構造が植民都市を特徴づけるのである(図Ⅰ-1)。
B 結節点
植民都市は、西欧世界と現地社会、宗主国と植民地とを結合する。植民都市の起源は、そもそも交易拠点の建設にある。西欧世界では産しない香辛料や貴金属、農業生産物など一次産品を得るのが交易拠点建設の目的である。植民都市は、こうしてもともと港市都市であり、西欧世界と土着の社会の結節点に位置した。西欧世界に必要なものを生産し、輸出する、また西欧世界の製造物を輸入する市場が置かれるのが植民都市である。初期の貿易商人にとって、都市建設は必ずしも必要ない。しかし、継続的な交易のために都市は必要不可欠なものとなる。交易のためには港が必要であり、港を支えるためには諸々のサーヴィスが必要となる。金融や保険も含めて貿易のための組織が定住すれば、その定住者を支える様々な職業が必要となるのである。
植民都市では、諸々の物資が集められ、交換される。それに伴って人々も移動し、混住する。そうした意味で様々な交通の結節空間である。すなわち、植民都市は、ネットワーク関係に基礎をおいて成立するのである。ポルトガル領インドがそうであるように、初期の植民地支配は領土支配ではなく、交易拠点としての植民都市のネットワークに他ならないのである(図Ⅰ―2)。
C 複写と転送
しかし、植民都市が媒介するのは、単に経済的な関係だけではない。R.J.ホルヴァートは「植民都市は、統治者と被統治者の間の政治的、軍事的、経済的、宗教的、社会的、そして知的中継地である。」[5]という。
軍事技術、経済システム、キリスト教、・・・すなわち、植民都市空間が媒介するのは、生活様式の全体に関わる西欧的な諸価値であり、西欧文明の全体である。植民地化を正当化する最大の根拠は文明化であった。西欧世界の規範やモデルは植民都市を通じて植民地にもたらされる。植民都市の景観は、西欧都市の複写(コピー)として、西欧の都市計画理念と技術に基づいて形作られる。植民都市に決まって建てられる時計塔(クロック・タワー)は、西欧的な時間(産業的時間)の観念の象徴である。劇場など様々な公共施設の建設は、西欧的市民社会の規範を移入する。A.D. キングは、「植民都市計画の第1の特徴は、母国から植民地社会へ、諸価値と諸イデオロギー(産業資本主義)を輸出することである」[6]という。つまるところ、西欧化(西欧世界の諸制度)、続いて産業化(産業社会の諸システム)を媒介するのが植民都市である。また、それが文明化であった。
しかし、植民都市は、西欧の文明を一方的に輸出するだけではない。非西欧世界の様々な文物もまた、植民都市を通じて西欧世界にもたらさられるのである。非西欧世界の「野蛮」はエキゾチシズムの対象となり、もの珍しい物品は収集され、剥製にされ、博覧会の展示対象となった。未知の世界は知的探求の対象となり、人類学、民俗学、地理学など近代人文諸科学の成立につながっていく。T.G. マッギーは、「植民都市は二つの文明の相互交渉の結合環」という[7]。「支配ー従属関係に基因する第3の植民地文化」という概念をA.D. キングは提出する。植民都市は、西欧都市のコピーそのままではない。建築様式は現地の気候に合わせて変化するし、土着の様式もまた大きく取り入れられるのである。それぞれの植民都市における媒介(分離―結合)機能の強度によって様々な植民地文化が生み出されてきたのである(図Ⅰ―3)。
D 都市村落
植民都市は、植民地社会の支配機構である。土着社会に対して、また、都市の後背地である農村に対して、都市本来の機能をもっている。ただ、全く白人のみによってほとんど現地民との関係をもたずに未開地に建設される場合を除けば、植民都市と母都市(本国における都市)は異なる。要するに、遥かに複合的、重層的な諸要素からなるということであるが、ポイントは土着世界との直接的関係をもち、その内にその要素を取り込んでいることである。そうした意味で、植民都市は植民地社会の縮図(ミクロコスモス)である。
植民都市は、少数の統治者によって支配される。通常、ヨーロッパ人の居住区域と大多数の土着住民の居住区域は空間的に分離される。商館から要塞化された商館へ、さらに要塞へ、という形で植民地拠点は強化拡大されていくが、そこに居住したのは基本的にヨーロッパ人のみである。その段階では、要塞そのものが現地社会との境界線である。次の段階で、城塞都市が建設される。すなわち、その内部に土着住民を含んだ都市が建設される。しかし、その場合もヨーロッパ人と土着住民との居住区域は基本的には分離される。インドネシアの都市史を明らかにするP. D. ミローンは、都市という概念がヨーロッパ人とその活動の集中した拠点のみについて用いられたことを強調している[8]。
こうした植民都市の建設過程は、西欧の都市とは異なる都市形態を出現させることになる。結果として、都市内に農村的要素を取り込む形態が一般化するのである。オランダ領東インドにおける都市内村落カンポンがそのいい例である。土着の村落の共同体組織や慣習、生活様式は都市内においても保持され続けるのである(図Ⅰ―4)。
E セグリゲーション
植民都市内における重層的複合的諸関係は、支配-被支配関係を第1原理とする空間的分離によって示される。マドラス(チェンナイ)に関して、S.J. レワンドウスキーは、植民都市の配置形態が西欧の都市設計のモデルによることが土着住民の居住分離につながることを指摘する。自治体の行財政は、いわゆる「ホワイトタウン」の住む植民地のエリートのために行われ、土着民はその視野外に置かれるのである。S.J. レワンドウスキーは、「ホワイト・タウン」を含む内部のファクトリーと「ブラックタウン」を統括するフォート、フォートに労働力を供給する村落の三つの地区を区別する[9]。三つの地区は全く密度を異にする。J. E.ブラッシュも、インドの植民都市の二重性が、土着の都市の中心とイギリス人の中心業務地区 (CBD) という二つの中心の明確な密度の差異として表現されると指摘している[10]。A.D.キングもまた植民都市の居住区の低密度性を指摘し、植民都市の最大の特徴を、土着の都市、カントンメント(軍営地)、市民居住地(シビル・ステーション)の三重の分割にあるとする[11]。ブリーズも新旧デリーに即して、伝統的土着の居住区、シビルライン(行政官僚、外国外交官)、政府住宅地(鉄道、警察関係)、カントンメント、バスティーbastis bustees(不法占拠地区)、村落地区、郊外スプロール地区という構成要素を列挙している[12]。
植民都市の形態は極めて多様であるが、基本的には重層的な二項対立をその内に含んでいる。土着の集落とヨーロッパ人居住区(カントンメント、シビル・ラインズ)、土着の民家とコロニアル住宅(バンガロー)、ヒンドゥー寺院やモスクと教会、バザールとショップ、・・・など、異質の要素が空間の分離を象徴するのである。
そして、究極のセグリゲーション・システムを完成させたのが南アフリカである。すなわち、南アフリカにおいては、アパルトヘイト体制が確立され、人種毎の隔離居住が制度化されるのである。黒人住民を一定地域に居住させるホームランド政策は、原住民土地法Natives Land act(1913年)を端緒とする[13]。黒人は指定用地以外の土地を購入することを禁止された。そして、原住民(都市地域)法が全国的に制定され(1923年)、集団地域法Group Areas Act(1950年)につながる。南アフリカでは、近代都市計画のゾーニング(用途地域性)の手法がセグリゲーションを固定化する大きな役割を果たすのである[14]。R.J.デイビスらは、「人種と民族集団の分離は、歴史的に南アフリカ都市における社会的、経済的、空間的構成の中心的特質である。」[15]と述べる。そして、A.D. キングは、「植民都市の景観的特徴は、人種差別である」という[16](図Ⅰ―5)。
Ⅱ オランダ植民都市の類型 Typology of Dutch Colonial Cities
オランダ植民都市は、都市の原型として特性を表現している。すなわち、城郭の二重構造、要塞と市街との二元的構成を基本としている。また、都市空間における混住的様式の卓越、複合社会的都市居住特性など共通の特徴をもつ。これらの点は個々にはイギリス植民都市にも引き継がれるが、これらが統合的に成立しているのは、オランダ植民都市系列の特徴である。さらに、都市モデルという観点からもオランダの植民都市に注目しうる。オランダは極めて高密度の都市居住の形態を発達させてきた。そのオランダがどのような都市住居の形式をそれぞれの植民地において導入したのかが大きな視点となる。また、「低地」であるが故に、水利、治水技術のみならず、宅地の創出、計画管理の技術を発達させてきたオランダの都市技術の移植も大きな関心である[17]。
2-1 オランダ植民都市
オランダの海外における数多くの交易拠点、商館、要塞、植民都市の建設は、海外のオランダ人の活動を監督し、調整する2つの大きな交易会社の制度的な枠組みにおいて行われた。つまり、オランダ東インド会社VOC(Verenigde Oost Indische Compagnie、1602年設立、1799解散)とオランダ西インド会社WIC(Geoctroyeerde West Indische Compagnie、1621年設立、1791年解散)の海外での活動は、当時のオランダ人の思考形式や行動様式に基づく自国の活動と同様に考えることが出来る。それほどVOCとWICという2つの会社は本国以上に強力であった。ケープタウン以東がVOCの管轄、西アフリカ以西がWICの管轄である。
VOCそしてWICによって建設された植民拠点(商館、要塞、都市)は膨大な数にのぼる。一時的に建設されたロッジ(宿所)、や前哨基地も合わせるととても把握しきれないほどである。A. F. ランカー Lancker[18]は、ほぼ全ての要塞を地図上にプロットしているが、バタヴィア周辺だけでも38の要塞が建設されている(図Ⅱ-1)。ただ、大半は小規模な前哨基地である。
一定の規模以上の植民拠点で、その都市形態、街区形態に焦点を置く際に手掛かりになるのは残された地図や絵画資料である。幸いデン・ハーグの国立公文書館ARAには膨大な地図資料が系統的に残されている。その膨大な地図資料を整理することによって、ファン・オールスRon van Oersは、157のオランダ植民都市(VOC管轄:南アフリカ6、東インド87、WIC管轄:西アフリカ26、アメリカ38)をリストアップしている[19]。筆者等もARAにおいて以上を確認し、主要なものを入手した。地図が残されているということは、オランダ植民都市の中でも一定の重要性をもった都市であると考えていい。
2-2 植民都市の類型
植民都市の類型化にあたっては、その立地、土着の都市との関係、存続期間、規模、形態、機能など様々な観点が考えられるが、極めてわかりやすく本質的なのは、城壁、市壁など居住地を限定づける境界のあり方である。植民都市が支配-被支配(中心-周縁)関係の媒介(結合-分離)空間であり、異質な要素の重層的複合空間であるとすれば、空間の分離のあり方にまず着目する必要がある。
都市のフィジカルな構成という観点から、囲われた空間に着目すると、ロッジ(ロジェ)logies、商館factorij、要塞fort, vesting、城塞kasteel、市街stadのように、そのうちに含む要素によって、植民都市の規模やレヴェル、段階を区別することができる。
O ロッジ lodge
A 商館 factory
B 要塞化した商館あるいは商館機能を含む要塞 fortified
factory
C 要塞 (+商館)fort(+factory)+集落
D 要塞+市街 fort+city
E 城塞 castle
F 城塞+市街
castle+city
Aは、交易のみのための最小限の施設である。ポルトガルの最初期の交易拠点は商館のみが置かれるだけのものが多い。専用の商館をもたないロッジの段階Oをこれ以前に区別できる。ロッジは、沿岸部の交易拠点ではなく、内陸の地方市場に設けられたものをいう。F.S.ハーストラGaastraは、ロッジ、商館の発展段階を、①土着物産の購入と積み出しの段階、②商品を予約注文し、積み出しまで保管する段階、③商品の供給者に前渡金を供与し、生産管理行う段階、④物産を全て掌中に握る段階にわけている[20]。
商館も現地社会との関係によって防御設備が必要となる。A、Bの区別は必ずしも明確ではないが、要塞の内部に商館機能を含むかどうかで基本的にCとは区別される。要塞とは別に商館が設けられることも少なくない。要塞は基本的には戦闘を前提にした防御施設である。基本的には軍隊あるいは兵士が常駐する。平時は使用せず、有事に立て籠もるかたちもある。
商館あるいは要塞の周辺にヨーロッパからの移住者のみならず各地からの移民や現地民などが周辺に居住し始めると、宣教、教化のための教会や修道院など諸施設が建てられる。そして市街地が形成され、全体が市壁で囲われたものがDである。港湾に立地する植民都市の場合、市街によって要塞が囲まれる形より、要塞と市街が連結した形態をとることが多い。そして、要塞と市街が一体化したのがEである。CとEの違いは単に規模の違いではなく、民居を含むかどうかの違いである。さらにその外郭に一般人(あるいは現地人を含めた)居住地が形成されるのがFである。単純な分類であるが、既存の集落、現地住民の居住区との関係でさらに分類できる。さらに、全くの処女地に計画されたものと既存の都市ないし集落を基にして建設されたものを区別することができる。オランダの植民都市はマラッカやセイロンの各都市などポルトガルの城塞を解体再利用したものが少なくない。
植民都市という場合、一般的にはD~Fがそれに当たる。しかし、既存の都市あるいは集落にA~Cが付加される場合、それも植民都市と呼べるだろう。都市の起源、その本質をどう規定するかが問われるが、市(マーケット)の機能をその本質的要素とするなら、たとえ商館ひとつの建設でも都市成立の条件とはなる。また、防御機能を都市の本質と考えれば、要塞の建設は都市建設の第一歩である。
数多くの植民都市の事例を見ると、A→Fは歴史的に段階を踏んで推移するように思われる。また、理念的にもA→Fの過程は、必然的なものとして想定できる[21]。従って、どの段階をもって類型化するかが問題となる。当然のことながら、歴史的な時間の経過とともにひとつの都市も形態や機能を変えて行くのである。そうした意味では、予め全体計画がなされているかどうかは分類の大きな視点となる。ここではまずオランダが関与した過程の最終段階を問題にしよう。A~Fの分類によって、その起源の形態はおよそ把握できる。
2-3 オランダ植民都市の類型
157の植民都市のうち、都市図が残るものは少ない。ARAに地図が残されている157の植民拠点、植民都市のうち一定期間存続したものを獲得順にリストアップし、都市名、占領年、放棄年、現在の国名の順に示すとすると次のようになる。
アンボイナAmboina(1605-1949、Indonesia)、テルナテTernate(1605-1949、Indonesia)、バンダ・ネイラBanda
& Neira(1609-1949、Indonesia)、グリッセGrisee(1613-1949、Indonesia)、ジェパラJepara(1605-1949、Indonesia)、バタヴィアBatavia(1619-1949、Indonesia)、
ゼーランディアZeelandia(1624-1661、
Taiwan)、ニーウ・アムステルダムNieuw
Amsterdam(1625-1664、
U.S.A)、カイエンヌ諸島Cayenne Is.(1627-1664、
Guyana)、ニーウ・アムステルダムNieuw
Amsterdam(1627-1796、Guyana)、レンセラースワイク
Rensselaerswyck(1628-1664、U.S.A)、レシフェ/マウリッツスタットRecife
/ Mauritsstad(1630-1654、Brazil)、チェリボンCheribon(Ceribon)(1746-1949、Indonesia)、ショップスタットSchopstad(1633-1645、Brazil)、フレデリクスタット
Frederikstad(1634-1654、Brazil)、ウイレムスタットWillemstad(1634~、Dutch
Antilles)、フーグリ Hoogly(1634-1686、India)、エルミナElmina(1637-1872、
Ghana)、トリンコマレーTrincomalee(1639-1796、
Sri Lanka)、ゴールGalle(1640-1796、Sri
Lanca)、フィリップスブルグPhilipsburg(1640~、Dutch
Antilles)マラッカMalacca(1641-1824、Malaysia)、サン・ルイス・マラナオSao
Luiz do Maranhao(1641-1644、Brazil)、出島Deshima(1641-1856、Japan)、ケープタウンCape
Town(1652-1795、South
Africa)、ジャフナJaffna(1658-1795、Sri
Lanka)、ネゴンボNegombo(1658-1795、Sri
Lanka)、ナガパットナムNagapatnam(1660-1781、India)、コーチンCochin(1663-1795、India)、マカッサルMacassar(1666-1949、Indonesia)、パラマリボParamaribo(1667-1975、Suriname)、スマランSemarang(1677-1949、Indonesia)、ステレンボッシュStellenbosch(1679-1806、South
Africa)、ポンディシェリーPondicherry(1693-1699、India)、スラバヤSurabaya(1743-1949、Indonesia)、スウェレンダムSwellendam(1746-1806、South
Africa)、スタブロークStabroek(1750-1796、Guyana)
以上の38都市のうち、レイアウトが表現された都市図が残されている都市は、R.ファン・オールスが不明とし、その後スタブローク(ガイアナ)と判明したものも含めて整理し直すと17となる。17の都市とその立地、規模、街路形態、全体配置・構成は、表Ⅱ-1の通りである。
表Ⅱ-1
都市 |
建設年 |
規模 k㎡ |
立地 ○:処女地 V:土着の都市集落 P:ポルトガル F:フランス |
全体配置 C:閉鎖 O:開放 |
街路形態 R:規則的 IR:不規則 G:グリッド |
要塞の形 Q:四角 P:五角 C:城塞 O:その他 |
全体構成 T:要塞+市街+周辺居住地 D:要塞+市街 E:城塞市街一体 |
Amboina |
1605 |
0.40 |
P |
C |
R |
Q |
T |
Batavia |
1619 |
1.40 |
V○ |
C |
R |
Q |
D |
Recife/Mauritsstad |
1630 |
1.32 |
P |
C |
IR |
QP |
D |
Willemstad |
1634 |
0,12 |
○ |
C |
R |
Q |
D |
Galle |
1640 |
0.56 |
P |
C |
R |
C |
E |
Malakka |
1641 |
0.60 |
VP |
C |
R |
C |
T |
Negombo |
1644 |
0.37 |
P |
C |
G |
Q |
D |
Kaapstad |
1652 |
1.30 |
○ |
O |
G |
QP |
D |
Colombo |
1656 |
0.98 |
P |
C |
R |
C |
T |
Cochin |
1663 |
1.20 |
VP |
C |
R |
C |
E |
Paramaribo |
1667 |
4.00 |
○ |
O |
G |
P |
D |
Pondicherry |
1693 |
2.34 |
F |
C |
G |
Q |
D |
Semarang |
1708 |
0.24 |
V |
C |
IR |
P |
E |
Philipsburg |
1734 |
0.37 |
○ |
O |
R |
O |
D |
Surabaya |
1743 |
0.30 |
V |
C |
R |
Q |
T |
Stabroek |
1748 |
3.00 |
○ |
O |
G |
O |
D |
Nieuw Amsterdam |
1788 |
0.98 |
○ |
O |
G |
O |
T |
まず、立地をみると、全く新たな処女地に計画都市として建設されたのは以下の都市である。ウイレムスタット:キュラソー(オランダ領アンティール)/ケープタウン:南アフリカ/パラマリボ:スリナム/フィリップスブルグ:サン・マルタン(オランダ領アンティール)/スタブローク(ジョージタウン):ガイアナ/ニーウ・アムステルダム:ガイアナ
最も代表的なのは、東インドへの中継基地として、新たに建設されたケープタウンであろう。他は、いずれもカリブ海に位置する交易拠点である。土着の都市が存在していた場所にオランダが新たに建設したかたちをとるのが、バタヴィア/スマラン/スラバヤといった今日のインドネシアの諸都市である。この3つの都市はいずれもジャワ北岸に位置しており、よく似た立地をしている。もちろん、代表となるのは東インドの拠点であり続けたバタヴィアである。
ポルトガルの拠点を奪って建設したのが、アンボイナ/マラッカ/コロンボ/ゴール/コーチン/ネゴンボ/レシフェなどである。ポンディシェリはフランスの拠点を占拠した例であり珍しい。レシフェは、ポルトガルのオリンダの資材を使って建設されたが全く新たに建設されたと考えていい。ポルトガルの拠点をベースとした都市としては、まず、マラッカ、そしてコロンボ、ゴールなどセイロンの諸都市、マラバール海岸のコーチン、コロマンデル海岸のネゴンボといった、要するに、VOCの交易拠点として大きな役割を担った都市がピックアップされる。
植民都市としての存続期間をみると、現在もオランダ領であるウイレムスタット、フィリップスブルグ、そして1975年までオランダ領であったパラマリボがひとつのグループとなる。また、バタヴィアとどオランダ領東インドの諸都市が代表的なオランダ植民都市となる。そして、ポルトガルから奪取し、18世紀末から19世紀初頭にかけてイギリスに割譲された、しかし、オランダ時代の都市の骨格を今日に伝えるケープタウン、マラッカ、コロンボ、ゴール、コーチンなどが第3のグループとなる。ニーウ・アムステルダム(ニューヨーク)、レシフェ、ゼーランディアなどは存続期間は短く、第4の類型となる。
都市の形態、空間構成について、主要なオランダ植民都市を前述のA~Fの型に当てはめると図Ⅱ―4のようになる。
A 商館 factoryのみの例は枚挙に暇がないが、出島がひとつのモデルである。
B 要塞化した商館あるいは商館機能を含む要塞 fortified factoryも例は多いが、フーグリ、スマラン(初期)などの図が残されている。
C 要塞 (+商館)は、要塞および商館が既存の集落が立地する場所に建設される場合と要塞の周辺に商館とともに集落が建設される場合(ゼーランディア/エルミナ/パラマリボなど)があるが、ケープタウンやスタブローク、ニーウ・アムステルダム(ニューヨーク)などは市街が明確に計画される例である。
そして、市街が市壁で囲われるD 要塞+市街の類型には、アンボイナ、バタヴィア、スラバヤ、ポンディシェリ、ネゴンボ、ウイレムスタット、レシフェなどがある。オランダ植民都市の典型である。図アンボイナとレシフェ
他の類型として、E 城塞 には、コーチン、ゴール、ジャフナなどがある。F 城塞+市街にはマラッカ、コロンボがある。
D、Fの例に見られるように、城郭の二重構造、要塞と市街との二元的構成を基本としているのがオランダ植民都市である。
もちろん、ポルトガル植民都市もまた城郭の二重構造を基本としている。アントニオ・ボカロの『東インド領のあらゆる城塞、町、村についての書』[22](1635年)に載せられた20都市を見ると、モサンビーク(要塞、村、島)、モンパサ(要塞、島)、マスカット(要塞+城塞)、リベディア(要塞+村)、ディウ(要塞+城塞)、ダマン(要塞+城塞)、アガサイム(要塞+村)、パサイン(城塞⊃要塞)、タナ(要塞、村)、チャウル(要塞+城塞)、チョラン(城塞)、サルセテ(要塞)、マンガロール(要塞+城塞)、カナノール(要塞+城塞+城塞)、クランガノール(要塞+城塞)、コーチン(城塞)、コウラン(要塞+城塞)、サントメ(城塞)、マカオ(要塞+城塞)となる。オランダは基本的にポルトガルを踏襲しているとみていい。実際、コーチン、マラッカなど直接ポルトガル要塞を引き継いでいる。ただ、立地の選定にまず違いがある。専ら「低地」を選定するオランダに対して、ポルトガルは小高い丘を抱えた入江を選定する傾向がある。リスボンがモデルになっていたのではないかと思われる。起伏のある丘に建設されたマラッカやオリンダ(ブラジル)がその典型である。オランダはそのオリンダを破壊して、低地にレシフェを建設する。本国における築城術の伝統の違いである。
オランダ植民都市の多くががグリッド・パターンを採用していることも丘陵地へ立地することの多いポルトガル植民都市との違いである。整然としたグリッド・パターンを全面的に採用し、市壁をもたないスペイン植民都市ほど徹底しないが、ケープタウン、スタブローク、パラマリボなどでは明確なグリッド・パターンが採用されている。都市の内部構成、すなわち、基幹構造、施設分布、街区構成、住居類型などをめぐってそれぞれの植民都市に差異はあるが、形態的には、一定のモデル、あるいは一定の建設手法があったと考えられる。
Ⅲ 都市型住居の世界史へ
3-1 オランダ都市型住居
オランダの都市を特徴づけるのはタウンハウスである。運河住宅(フラフト・ハウス)とも呼ばれる、運河に面してタウンハウスの建ち並ぶ景観はオランダ特有である。オランダで発達したタウンハウスの形式がヨーロッパ各地に伝わっていく。また、海外植民地にも移植されていくことになる。ここではアムステルダムを中心に見よう。アムステルダムについては、R.メイシュケR.Meischkeらによって詳細な調査がなされている[23]。
C.アントニスの鳥瞰図(1544)には既にびっしりと建て詰まったタウンハウスの様子が描かれているが、考古学的な遺構から初期の形態も推測される。ヘルマン・ヤンセHerman Janse[24]によれば、1200年頃に建てられた最初期の家々は、間口3.5m~5m、奥行き10m以内で、壁は板壁あるいはハンノキや柳の枝を細かく編んだもので、床は粘土を踏み固めた上に筵を引いていた。周辺の農家は、柱・梁・方杖で組まれたヘビントと呼ばれるフレームを並べてつくられ、両側に側廊をもつ三列式が一般的であったが、都市住居となるとワン・スパンのみとなり、家と家の50cm程の間に雨水を落とす溝(オーセンドロップ)が造られた。当初は平屋で、1350年頃から2階建てが行われた。草葺き屋根の木造で、屋根裏が倉庫として用いられた。初期の住居はワンルームであったと考えられるが、まもなく奥側が暖房が可能となるように壁が建てられ前後に2室に分けられた。15世紀に入って、前室の天井高を高くして奥の空間に中二階が設けられるようになり、下が地下室として使われるようになる。奥の部屋の床は地面から1.5mの高さにあり、地下室の床は地面より1m低い。螺旋階段で上下は繋がれた。地下水位が高いことから本格的地下室は造られず、しばしば水の上に浮くかたちの煉瓦造の貯蔵室が設けられた。そこに行くには、歩道から外部の独立した階段を使う。貯蓄用の地下室は、重要で、キッチン、食料貯蓄室、ワインセラー、使用人の宿所、事務室や倉庫などに使われた。現在に残る最古の木造住宅は、上述したように、ベヘインホフ34番地の住宅(1420年頃)である。煉瓦造は15世紀初めから現れ、2度の大火の後、一般的となる。
背割りした街区に住居が建ち並ぶか、ベヘインホフのように中庭を囲むのが一般的な街区形式となるが、住居の形式は主として間口の幅によって決まる。大きく分ければ、間口幅が狭い(5.6m~8.5mぐらい)一列型住居と、広い(14m~17mぐらい)二列型住居の2種類がある。建造物の多くは泥や砂や泥炭の層に打ち込まれた木材の杭によって支えられている。300年以上も前の例が示すように、長い支持杭を地中に打ち込む基本的な方法は変わっていない。道のレベルから短い手すり付きの階段があって玄関前のストゥプstoepenと呼ばれるテラスに至る。しばしば小さな煉瓦のベンチが手すりに据え付けられている。このストゥプはオランダの住居のひとつの特徴である。1階は、外部シャッターによって守られた開き窓によって明かりをとり、大きなファンライトにかざられた入口のドアから中にはいる。ファンライトは通路や‘居間’を明るくする。中庭には、倉庫と使用人の宿舎などの他、便所やキッチンがある。オランダ人の庭好きは、家屋の裏の完全に閉鎖された空間に見ることができる。庭には、リンデンやブナの木が植えられ、灌木やフェンスによって風から守られている。居間は、2階と3階を占め、屋根の下の最上階には独立した窓がある。一般的なケースだが、最上階が倉庫として使われるときには、窓の代わりに木製のドアの大きな開口部がとられる。上部には棟梁の延長である相当な長さの角材があり、滑車装置が取り付けられ、屋根裏に重い荷物をつり上げるのに用いられる。17世紀末期から18世紀にかけて、家屋の最上階は主として居住のために使われるようになる。17世紀初期のアムステルダム市域の拡大の時期に、土地利用、区画の大きさ、建築物の高さ、窓の大きさとその配置などに関する規則がつくられている。その規則は、統一をめざすため、外壁に使用する4種類の異なった煉瓦や、構造用、装飾用の石の種類にまで言及している。火災の危険のために、木製の破風は1666年に禁止されている。タウンハウスの成立と諸規則の成立は並行しているといっていい。
オランダのタウンハウスを特徴づけるのはなんといってもファサードである。初期のタウンハウスは、直線もしくは階段状の破風(ステップ・ゲイブル)をしている。17世紀前半に流行ったものである。ただ、17世紀のタウンハウスは限られた数しか残っていない。ほとんどの家が18世紀からのものであり、19世紀にも頻繁に建て替えられているのである。煉瓦と砂石による最初のバロック風建造物が1570年から1622年の間に建てられ、そのうち5つだけが現存している。ヘンドリック・ デ・ケイゼルはそのうち4つの設計者である。ひとつは兵器庫で時には倉庫として使用され、1606年にシンゲル(423)に建てられた。1605年の双子の住宅もシンゲル(140/2)にある。そして1622年には、ルトロッティの家がヘーレンフラフト(170/2)に建てられている。
以降、ファサードの流行り廃りはアムステルダムの歴史を刻んでいる。1655年以降、コーニス(水平帯)にルネッサンス様式が用いられ出す。兄弟建築家のフィリップ・フィンボーン、ユストゥス・フィンボーンによる装飾の革新として知られる。
初期のものは、中央が一段と高くなった首型破風であり、次第に鐘状破風(1660~1790)に変わっていく。フィンボーン兄弟によって導入されたスタイルは建てられなくなる。18世紀に地下が拡大して3階建て住宅が一般的となる時期に現れたのが鐘状破風のタウンハウスである。1790年頃以降、段状、噴水、首、鐘型の破風やアーチ型のコーニスは建てられなくなる。1796年のフランスによるオランダの併合の後、ギルド制は廃止されたが、それとともにファサードに装飾はされなくなるのである。19世紀には地味なファサードとなり、コーニスの簡素な上部はオランダの経済状況の悪化と国家的な自信の喪失を反映することになるのである。
3-2 オランダ植民都市と都市住居
オランダ人たちは、海外植民地においてどのような住居形式を採用したのか、については、未だその全容を把握するに至ってはいないが、幸いD. フレイクGreigの『不承不承の植民者たちThe
Reluctant Colonists』[25]がオランダ海外植民地の建築についてまとめてくれている。ここでは、臨地調査を行ったバタヴィア、マラッカ、コロンボ・ゴール、ケープタウン、ウイレムスタット、パラマリボなどについて具体的にみてみたい。
基本的に、宗主国は自国の建築様式を植民地にそのまま持ち込もうとする。例えば、バタヴィアの市役所は明らかにアムステルダムの市庁舎(現王宮)がモデルになっているように思われる。シモン・ステヴィンの理想都市の計画を実現しようとしたことが示すように、バタヴィアは西洋風の都市であった。街区の構成も、残された地図や都市図に依れば、オランダ都市と同様である。建設材料も、当初は船荷のバラストとして運んだ。ニュー・アムステルダム(ニューヨーク)を描いた地図を見ると、切り妻の住居が並んでおり、風車が描かれている。また、『オランダ植民地住宅』という本によると、現在も、ニューヨーク周辺にかつてオランダ人が建てた建物が残っているが、基本的にオランダの農家のスタイルである。
生活様式についても同様である。熱帯の気候であるにもかかわらず、本国における衣食住に拘り続けるのがむしろ普通である。オランダ人たちはジャワに入植して一世紀の間、その生活習慣を変えようとしなかったという。
しかし、植民地においては、本国そのままの建築様式を持ち込むことができない状況が少なくない。建設材料が調達できない場合がある。また、建築技術者がいるとは限らない。そこで、現地で調達可能な材料で、現地の職人を使って、建設を行うこととなる。
また、本国の建築様式が合わないという状況が一般的である。第一に、気候が大きな問題である。また、地震などがあると構造形式が問題となる。フィリピンでは、宣教師たちが建築家の役割をも果たしたのであるが、地震バロックと呼ばれる独特の教会形式を生み出したのが彼らである。
現地の気候への適応を考える時にモデルとなるのが各地のヴァナキュラー建築である。オランダ人たちは、次第に、熱帯の気候に対処するために、気積の大きい大屋根を現地の民家に倣って用いるようになる。現地の職人を用い、民家の架構形式をそのまま用いるのが容易でもある。
インドやジャワのようにヒンドゥー建築の伝統がある地域では、その伝統をどう活かすかが次の段階でのテーマになる。ジャワにおけるM.ポントやインドにおけるインド・サラセン様式を取り入れようとした英国人建築家がその例である。
オランダ植民都市の場合、処女地に建設された場合と既存の都市あるいは集落をベースとした場合で大きく異なる。一般に処女地に建設する場合、本国の住居形式がそのまま持ち込まれる。オランダ西インド会社WIC管轄のレシフェ、ウイレムスタットがそうである。しかし、同じカリブ海域でありながら、スリナムのパラマリボは木造の住居が基本である。ジャワから多くの植民が行われたことが関係していると考えられる。農村部は高床式住居である。
ケープタウンもほぼ処女地に建設されたといっていいが、ダッチ・ゲイブルと呼ばれる住宅形式が持ち込まれている他、都市住居の形式は本国とは異なっている。マレー人が植民され、マレー・クオーターが形成されるが、その住居形式はマレーシア、インドネシアのものとは異なっている。
アジアのオランダ植民都市の場合、多くがポルトガルの要塞、植民都市を破壊、改変したという要素を考慮する必要がある。また、土着の居住形式が取り入れられる傾向を指摘できる。すなわち、オランダの都市住居の形式は、バタヴィアを除いて、必ずしも積極的に導入されていないように思われる。そして、都市型住居の形式として、華僑、華人の影響を注目することができる。例えば、マラッカの街屋(店屋)は、オランダ時代に遡ると考えられるが、その骨格を形成したのはババ・ニョニャ[26]と言われる層である。
3-3 アジアのショップハウス
いわゆるショップハウスという連棟の店舗併用住宅は、シンガポールの建設に当たって、ラッフルズが創り出したと言われる。
「第二回被殖民都市與建築—本土文化與殖民文化—」
國際學術研討會(暫訂議程;省略尊稱)
十一月二十四日(星期三)
9:00-9:10
開幕式:中研院台史研究所 莊英章
(一)本土文化與外來文化的交融
9:10-11:40
主持人:莊英章
(1)
題目:殖民都市的文化轉化;本土與外來—以居住形式為中心論述—
發表人:布野修司(日本)
對話人:徐明福
(2)題目:臺灣都市的變遷——日本殖民統治前後的都市改造——
發表人:青井哲人(日本)
對話人:黃俊銘
11:40-1:30 中餐休息
(二)海峽兩邊的建築文化發展
1:30-4:00
主持人:許雪姬
(3)
題目:十六世紀後期閩西南城牆與土堡的興建
發表人:方 擁(中國)
對話人:李乾朗
(4)題目:清代以來台灣佛教伽藍的變與不變
發表人:黃蘭翔(台灣)
對話人:米復國
4:00-4:15 中場休息
4:15-6:45
主持人:施添福
(5)
題目:阿里山鄒族男子會所KUBA的變遷
發表人:關華山(台灣)
對話人:汪明輝
(6)題目:清末日據西化下臺灣住宅型態的變化
發表人:葉乃齊、張興國(臺灣)
對話人:賴志彰
7:00-9:00 晚宴
十一月二十五日(星期四)
(三)中國建築史的研究
9:00-11:30
主持人:夏鑄九
(7)
題目:傳統中國園林史研究盲點之突破
發表人:田中淡(日本)
對話人:王鎮華
(8)
題目:中國建築史的確立與發展——村田治郎與關野貞
發表人:福田美穗(日本)
對話人:黃銘崇
11:30-1:00 中餐休息
(四)華人文化與南洋
1:00-3:30
主持人:傅朝卿
(9)
題目:南洋時期閩南世系宗祠的落地生根
發表人:陳國偉(台灣)
對話人:崛入憲二
(10)
題目:越南順化故宮和北京故宮的相同與差異
發表人:潘青海(越南)
對話人:林會承
3:30-3:45 中場休息
(五)綜合討論
3:45-5:45
主持人:林會承
引言人:布野修司(日本)、關華山(台灣)、方擁(中國)
會議結束
[1] J.S. Furnival(1878-1960)。イギリスの東南アジア研究者。1902~23年ビルマの駐在官として勤務。1924~31年、ラングーン大学講師。1933~35年ジャワを訪問、『蘭インド経済史』( J.S. Furnival,”Netherlands
India: A Study of Plural Economy”, London, 1939(1967))を刊行。戦後もラングーン大学で経済学を講じた。
[2] Alfred Reginald Radcliffe-Brown (1881-1955).
[3] 例えば、Christoph Antweiler, ’Urbane Rationalitaet:
Eine stadtethnologishe Studie zu Ujung Pandang(Makassar), Indonesien’, Koelner
Ethnologissche Mitteilungen no.12. Berlin, Dietrich Reimer Verlag, 2000’によれば、マカッサルの植民地社会は、大きく白人、ブルガー、中国人、マカッサル人の4つのグループからなり、それぞれ奴隷を最下層として3~4層の階層を形成する。
[4] Julius Herman Boeke,(1884-1956)。オランダのインドネシア経済研究者。ファン・フォーレンホーフェンの後継者。1924~28年、バタヴィア法律学校で経済学を教える。1929年、ライデン大学教授。J.H.Boee, “Economics and Economic
Policy of Dual Societies: as Exemplified by Indonesia”, do. Budhisantoso. (永易啓一訳、『二重経済論---インドネシア社会における経済構造分析』、秋蕫書房、1979年)。J.H ブーケ、奥田他訳、『ジャワ村落論』、中央公論社、1943年。
[5] Horvath, R. J. In search of a theory of urbanization: notes
on the colonial cities, East Lakes Geographer, 5,1969 60-82
[6] King, A. D., Language
of colonial urbanization, Sociology, 8, 1974, 81-110
[7] McGee, T. G.: The urbanization
process in the Third World, explorations in search of a theory, London, Bell,
1971
[8] Milone, P.D.: Urban
areas in Indonesia, University California, 1966
[9] Lewandowski, S.J.: Urban growth and municipal
development in the colonial city of Madras 1860-1900, Journal of Asian studies
34,1975
[10] Brush, J.E.: Spatial patterns of population in
Indian cities, D.J.Dwyer, The city in the Third World, 1974
[11] King, A.: ibid
[12] Breese, G: Urbanization in newly developing
countries, Engelwood Cliffs, New Jersey, Prentice-Hall, 1966
[13] 松野妙子、「南アフリカ人種差別土地法の起源 ─1913年の「土地法」についての一考察─」、『世紀転換期の世界 ─帝国主義支配の重層構造─』、未来社、1989年
[14] 第Ⅳ章 4 究極のセグリゲーション ケープタウン参照。
[15] Davies, R. J. and
Rondebosch, "The Spatial Formation of the South African City", Geo
Journal Supplementary Issue 2, 59-72, Wiesbaden, 1981
[16] King, Anthony D., “Colonial Urban
Development: Culture, Social Power and Environment”, Routledge & Kegan
Paul, London, 1976
[17] 何故、オランダ植民都市なのか。まず、日本および台湾との歴史的関係がある。特に、日蘭の歴史的交渉は日本社会に大きなインパクトを与えた。蘭学の果たした役割は極めて大きい。また、明治期に、J.デ・レイケ、G.A.エッシャーなど、オランダ人土木技術者が来日し、日本の河川改修事業、治水事業に大きな貢献をなしたことはよく知られるところである。もちろん、オランダとの出島を通じた接触の維持、『和蘭風説書』による海外情報の摂取は、開国の衝撃ほどのインパクトを日本の歴史に対して与えたわけではない。しかし、日本を含めた視野において、世界システムの成立とその展開を議論する上でオランダ植民都市のネットワークは極めて重要であろう。近代世界システムをめぐるこれまでの議論は基本的に欧米に軸足を置いた欧米史観に基づいている。第一、日本が触れられることはない。それに対して、アジアあるいは日本に軸足を置いた世界システム論が提起されつつある[17]が、オランダ植民都市はその鍵となるであろう。
[18] A.J.Lancker, Atlas van Bistorische Forten Obersee onder nederlandse vlag,
Netherlands, 1987
[19] R. van Oers(2000). Van Oers, R., “Dutch
Town Planning Overseas during VOC and WIC Rule[1600-1800]”, Walburg Pers, 2000)。 オランダ植民都市については、共同研究者でもあるvan
Oersが包括的に全都市をリストアップし、特に計画理念をめぐって、ケープタウン、コロンボ、レシフェ(ブラジル)の三都市について考察している。
[20] Gaastra, F.S., “De Geschiedenis de
VOC, Walburg Pers, 1982, 1991..内容はほぼ同じであるがカラー図番を加えた新装版が2002年に出版された。
[21] 宮崎市定は、中国古代城郭の起源をめぐって、「紙上考古学」と称して、山城式→城主郭従式→内城外郭式→城従郭主式→城壁式という発展形式を想定する(宮崎市定、「中国城郭の起源異説」、『宮崎市定全集3 古代』、岩波書店、1991年)。そして、この発展過程はギリシャ、ローマの都市の場合と共通であるという。植民都市はその発展過程を具体的に示している。そうした意味でも植民都市は都市の原型に関わっていると言えるだろう。
[22] Anto’nio Bocarro(text) & Pedro Barreto de Resende(plans), ”Livro
das Plantas de todas as fortalezas, cidades e povoacoens do Estado da India
oriental(Book of the Plans of fortresses,cities and boroughs in the State of
Eastern India)”. 『「ポルトガルと南蛮文化」展 VIA ORIENTALIS』、図録、日本放送協会、1993年。
[23] R, Meischke, H.J.Zantkuijl, W.Raue and P.T.E.E.Rosenberg, “Huizen
in Nederland Amsterdam”, Waanders Uitgevers, Zwolle, Vereniging Hendrick de
Keyser, Amsterdam,
[24] ヘルマン・ヤンセ、『アムステルダム物語 杭の上の街』、堀川幹夫訳、鹿島出版会、2002年。
[25] Greig, Doreen :The Reluctant
Colonists. NetheRlands. 1987
[26] 1641年オランダはポルトガルからマラッカを奪うと、パタビア(ジャワ島)における経験にならって、その地の華僑を統率させるために中国系の首領のカピタンをおいた。彼らはオランダ東インド会社の任命を受け,架橋社会の狩猟として相当の自治権限を与えられたものであった。またオランダは、商人としての中国人を多く招き、マラッカにはチャイニーズ・カピタンのもとに統制された華僑社会が形成されていった16。
それはイギリスの支配が始まる1824年に終わりを告げるが、華僑社会は現地政府の手から離れても、彼らだけで自治が行える体制ができていたほどで強固なものであった。そのような華僑社会で資産を蓄えた中国人は、現地妻(マレー系)と通婚し、現地文化に同化した混成社会を形成した。彼らの子孫を「ババニョニャ」と呼ぶ。「ババ」は男性で「ニョニャ」は女性を指す。総称して単に「ババ」と呼ぶこともある。彼らは中国系の中でもエリート層で教育も高く、西洋語を話せる者も少なくない。イギリスが、ペナン、シンガポールを海峡植民地とすると、彼らはそれらの島にも渡って行った。
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