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2023年6月7日水曜日

清渓川「再生」の衝撃,居酒屋ジャーナル2,建築ジャーナル,200608

   清渓川「再生」の衝撃,居酒屋ジャーナル2,建築ジャーナル,200608

 清渓川[再生]の衝撃

 布野修司

 

清渓川[再生]事業は、想像以上に衝撃的であった。

「実際見るまでは?」、と疑心暗鬼であったわけではない。既に日本語で清渓川プロジェクトについての本も出ているし、実際見てきた人の話も聞いていた。小池百合子環境相が絶賛し、伝え聞いた小泉首相が、「東京の日本橋の高速道路もなんとかならないか」と発言、影響は日本にも及んでいる。日本橋界隈のまちづくりをめぐって委員会が立ち上げられているのである。首都の都心から高速道路を撤去するという、その事業がとてつもなく画期的であることは直感を通り越して確信するところであった。しかし、これほどまでに複合的かつ重層的なねらいを持った錬りに錬られた計画とは思わなかったのである。「ソウルの革命」は、決して大袈裟ではない。

 

アジアに学ぶーー都市・建築の再生という課題

日本建築学会の建築計画委員会の委員長に選出されて(200510月)最初の仕事が、委員長担当マターだという2006年度春季研究集会の企画(62日~4日)であった。秋の研究発表大会とは別に、春には建築計画委員会独自に、例年、話題の作品やプロジェクトの行われた地域に出掛けて見学会や講演会、シンポジウムなどを行うのが恒例である。すぐさま思いついたのは、春季研究集会を国外、アジアのどこかで行うことである。この間、アジア建築交流委員会の委員長を務めていて(20012006年)、アジア国際建築交流シンポジウム(ISAIA)への日本人研究者の参加を組織してきており(2002年:第4回重慶大会、2004年:第5回松江大会、2006年:第6回大邱大会)、また、日中韓の三建築学会が発行する英文論文集(JAABE)委員会のフィールド・エディター(日本委員長:2005年~)としても、建築計画委員会のアジアへのフィールドへの参画が必要だと痛切に感じていたからである。

結果として、ソウルにおいて行うことにしたのは、第一に、講師に御願いした朴勇換(火ヘン)教授(韓陽大学)、金泰永教授(清州大学)をはじめ、韓三建准教授(蔚山大学)など韓国の研究者たちとのパイプ(研究交流)があったことが大きい。朴勇換教授は、東京大学の建築計画講座(鈴木成文研究室)の出身で、共に学んだ学友(先輩)である。金泰永教授は、朴重信(滋賀県立大学客員研究員)を通じて、日本人移住漁村に関する共同の調査研究を行ってきた。また、韓三建准教授とは、京都大学で慶州、蔚山の都市形成史について共同研究したことがあり、現在、その弟子である趙聖民君(滋賀県立大学博士後期課程在籍)と一緒に鉄道官舎を核とする旧日本人町の調査研究を展開中である。そして第二に、ソウル周辺で、面白いプロジェクトが陸続と行われているという、このネットワークから得られた情報によるところが大きい。

そして第三に、もちろん、この清渓川の復元再生事業が最大の関心としてあった。琵琶湖の辺(ほとり)にある滋賀県立大学(彦根)の環境科学部に属していることもあり、また、最近、宇治川(京都府)の平等院および塔の島周辺の景観委員会、また、故郷でもある松江(島根県)の、宍道湖と中海を繋ぐ大橋川改修に伴う景観まちづくりにコミットし始めたこともあって、川について学びたいという願望が個人的に強かった。しかし、建築計画委員会であるから、清渓川だけでは企画にならなかったであろう。ソウル市立美術館(旧京城裁判所のコンヴァージョン)、ソウルの森(浄水場の再生)、サンスン財団のリウム博物館(クールハウス、ボッタ、ヌーベル)などのメニューがあって、企画が可能となった。

当初は、安藤正雄、宇野求、松村秀一の各先生の予定を押さえ、十人程度でも密度の濃い研究集会ができればと思っていたのであるが、参加者は50人を超えた。それほど、清渓川[再生]事業についての関心は高かったのだと思う。

 

ソウルと清渓川

最初にソウルを訪れたのは、1976年のことである。当時は戒厳令が布かれ、24時を回ると外出禁止であった。明洞のホテルに泊まっていて、大慌てで帰宅する酔客を目撃したことを思い出す。二度目は、79年、地下鉄で写真を撮って、フィルムを寄こせと警察官にものすごい形相で難詰された。それから30年、何度もソウルを訪れているが、隔世の感がある。

1995年には北朝鮮を訪問(5月)した直後(7月)、空間社のサマー・スクールに出掛けて、スライド・レクチャーをしたりしたこともあるー日本の当局から不審がられて問い合わせを受けた。空間社を金壽恨の死(1987年)後、その跡を継いだ張世洋が呼んでくれたのであるが、彼とは同い年で飲み友達であった。実に惜しいことに、彼も師と同様、釜山でのアジア大会競技場の建設中に、過労死したー。

この1995年は、太平洋戦争後50周年の節目の年であった。前年、旧朝鮮総督府(国立博物館)を爆破解体する、という報道がなされ、その帰趨が注目されていたが、結局、このデ・ラランデによる傑作は、解体されて今はない。「日帝断脈説」という。日本帝国主義が、「大韓民国」の命脈を断つために、風水上の要地(脈)に杭を打ち込むがごとくに建設したと考えられていたのが旧朝鮮総督府である。保存を訴えた日本人研究者もいたが、どんな傑作であれ、壊されるべき建物はある(ポリティカル・コレクトネス)と僕は思っていたし、今でもそう思う。朝鮮総督府建設の際に、柳宗悦と今和二郎がその解体を惜しんだことが救いであったが、そのため移築され難を逃れていた光化門は元の位置に戻され、景福宮周辺はかつての姿を想起させるかたちに復元されている。

清渓川の水源(漢江の水をポンプ・アップする)が置かれたのは、この景福宮とそう離れてはいない。風水上の祖山である北岳山を焦点とする南北軸上、景福宮の南に位置する。そして、その南、西側には徳寿宮、東側向かいにはソウル市役所がある。このソウルの目抜き通りは、李氏朝鮮王朝の太祖が首都と定め、第三代太宗が遷都した時から、ソウルの中心である。市庁舎前広場は、ほんの小さな広場だけれど、ワールド・カップ・サッカー(2002)の時に、パブリック・ビューイングの場所となって以来、ことある毎に数十万人が蝟集する韓国一の国民統合の象徴的場所になった。

清渓川は、北の北岳山、仁王山、漢江を背にする南山、そして東に位置する駱山(駱駝山)から流れる小川を集めて東流する。その名がかつての姿を思わせるが、朝鮮時代初期から、乾期の汚染が酷く、洪水を繰り返すことから、埋立て論があったという。偉いのは、太宗で、河川を埋めるのは自然の摂理に反すると、そうしなかったという。治水、利水の悪戦苦闘があって、清渓川の原型が出来上ったのは、第十代英宗の頃(18世紀半ば)という。

この首都のど真ん中を流れる清渓川が人びとの生活において大きな意味を持ってきたことは言うまでもない。そして、日本統治期、さらに独立後の都市発展の過程で、その意味を失ってきたであろうことも想像に難くない。日本統治時代に、暗渠化の提案がなされ、一部実施されている。また、1958年から1978年にかけて実際暗渠化が行われたのである。清渓川は、上下水道、電気設備他のインフラを収めるトンネルとなるのである。それと並行して(19671976年)建設されたのが清渓高速道路である。清渓川は、ソウルの都市発展の軌跡をものの見事に象徴していたのである。そして、清渓川[再生]事業は、また、ソウルのみならず多くの都市の行方を指し示しているように思える。

以下、研究集会(「韓国における建築計画の現状」朴勇換(ひへん)、「近代化遺産の保存と再生」金泰永、「韓国における都市再生の試みー清渓川復元ー」許火英(ひへん))での、清渓川復元プロジェクトを陣頭指揮した許火英(ひへん)・現ソウル市住宅局長のパワー・ポイントによるプレゼンテーション(Cheong Gye Cheon Restoration Project- a revolution in Seoul -)の要点を記してみたい。プロジェクトの概要は、春季研究集会のために、朴重信、趙聖民および滋賀県立大学の学生諸君によって用意された資料に委ねたい。

 

ソウルの革命―清渓川【再生】事業の目的

許火英(ひへんに英)のプレゼンテーションは、「ソウルの革命」をサブタイトルとする。まさに「革命的」事業である。

何故、復元かについて次の4つの理由があげられる。

1 Paradigm shift of urban management

Development à High quality of life

Functionality and Efficiency

Environmental protection and preservation

Human-oriented and Environment-friendly city

2 Recovery of 600 year-history and culture

Rediscover of Seoul’s historical roots and original look

Cultural space for all citizens

3 Fundamental solution to safety problem

Structures (covering and elevated highway) beyond repair

Deterioration accelerating severe pollution of stream

4 Revitalization of downtown area

Stimulate urban redevelopment of neighborhood around CGC stream, a slum due to dilapidated buildings aged 40-50yrs

機能性や効率ではなく環境保護と保存を唱い、都市管理のパラダイムシフト(1)を第一に掲げるプロジェクトの目的はわかりやすい。これが単なるお題目ではないことは事業内容が充分示している。加えて、600年の歴史的環境、景観を復元する、という目的(2)も、上述のような、ソウルの歴史文化的核心に位置することから明快である。景福宮の復元から連続する事業と言っていい。景福宮から昌徳宮(秘園)の間には、旧漢城の北村がある。約860棟の韓屋が残っている。「冬のソナタ」の撮影地となったことから、日本でもよく知られるようになった。事業に先立って、歴史文化遺跡調査が行われ、かつての石橋など遺構が発掘されてもいる。

一方、実際には、環境再生を目指さざるを得ない直接的な理由があった。

清渓高速道路(南山1号トンネルから馬場洞まで全長5.8km)は、建設後20年を経て、劣化が明らかになり(19911992年調査)、補修が必要となっていたのである。高速道路撤去決定の段階では、一時しのぎの補修、改修ではとても経済的にも物理的にも間に合わない状況であった。加えて、清渓川の汚染、クロム、マンガン、鉛など重金属による汚染が大きくクローズアップされていた。すなわち、安全の問題(3)の理由が発端である。

しかし、だからといって、高速道路の撤去、暗渠の撤廃という、ことにすぐさまつながるわけではない。莫大な損失と過去の失政を認めて、しかも、さらに大きな投資を行う決断は並の政治家にはできないだろう。清渓川復元を公約に掲げて当選した李市長の豪腕がすごい。次期大統領候補の噂もさもありなんである。このプロジェクトが真にねらいとするのが清渓川周辺の町の活性化(4)である。清渓川周辺には、50坪未満の建物が密集しており(6,026棟)、露店も多い(約500店)。清渓川[再生]を都市[再生]へと結びつけられるかどうか、これが今後の展開を含めて、真の評価の鍵となるだろう。

こうして1~4の目的が整理されるが、プロジェクトの実施に当たっては、さらに大きな問題がある。高速道路を撤去することが果たして可能か。交通問題が解決されなければ、絵に描いた餅である。

 ソウル市が採ったのは、迂回道路の新設、駐車場の整備、一方通行システムの導入、曜日毎の運転自粛制、バス、地下鉄など公共交通機関の輸送能力の増強など多岐に亘る。公共交通機関利用、不法駐停車禁止のキャンペーンも展開された。

今回の事業で、清渓川に架かる22の橋のうち、7つは歩行者専用とされた。すなわち、車依存から、歩ける都市への転換という方向も含意されているとみていい。いずれにせよ、清渓川復元は、第5の目的、都心交通システムの再編管理を前提とすることになる。清渓川[再生]事業が可能となったのは、この前提条件をクリアできたからである。どんな都市でもできるというものではおそらくない。

 さらに、清渓川の河川(流域面積61km2、総延長13.7km、幅2085m)としての再生も大きな問題である。清流が蘇るのでなければプロジェクトは台無しである。清渓川は、上述のように、集中豪雨の際には溢れる危険性があり(実際20017月、市庁周辺の中心部が洪水被害を受けている)、逆に干上がる時もある。内水処理の断面を充分考慮し(200年確率で、118mm/時を想定)、自ら水量を確保できない清渓川への用水は、高度に浄水処理を前提として漢江の水(120,000t/日)および地下鉄からの地下水(22,000t/日)が用いられることになった。この条件も、プロジェクトの成否には決定的である。漢江の存在が無ければ、成り立たなかった事業である。都市河川(平均水深40cm)ではあるが、随所にビオトープや湿地、緑地、魚道が配され、自然生態の再生も目指されている。撤去解体工事で発生する残滓物のほとんどもリサイクルされている。

 そして、以上に加えて、5.84㌔にも及ぶ清渓川周辺住民(60,000店舗、200,000人)の合意が必要である。20027月の計画発表から着工(200371日)までに、4000回を超えるヒヤリング、説明会が行われたというが、驚くべき短期間での合意形成である。もちろん、工事中の不便のために駐車場料金を補償したり、融資による支援、移住希望者や露店商への対応など、きめ細かい具体的な対策もとられた。目的というより、合意形成は事業の前提であり、ソウル市民にとって大きな経験となりつつある。市民が一本、一本植樹する「ソウルの森」(20056月開園)が市民参加型の公園として実現しつつあるのも、この経験と無縁ではない。行政当局にとって、真の「住民参加」「市民参加」の実現は最大の目的なのである。それにしても、事業担当者の、この事業にかけたエネルギーは想像を絶する。

 

清渓川[再生]事業の評価

火英・ソウル市住宅局長は、2003年1月から20063月まで、この三年間の事業前後についてのモニタリング(影響評価)結果について報告してくれた。

交通状況は、朝のピーク時で1718km/時、夕方のピーク時で12㎞/時、酷く悪くなってはいないという。流入出台数は、ソウル全体の数字であるが、156万台から127万台に減った(18.6%源)。清渓川高速道路を利用していた車は一日平均102,746台(清渓道路が65,810台)で、10万台の減少以上の効果があったことになる。中心業務地区の地下鉄乗降客は13.7%増えたという。周辺住民からの大きな反発はなく、むしろ、歩行者、商店の顧客は増えているともいう。

交通量が減れば、環境も大きく改善されるのは道理である。大気中の二酸化窒素NO2濃度は、69.7ppb.から46.0 ppb.に減った(34%減)という。水質も100250ppm12ppmBOD)となり、川がまさに蘇った。騒音レヴェルも減少、風の道が創出された。7月の気温は、一日だけの測定であるが、清渓川の街区側(36度)と川辺(28度)で大きく異なり、8度も低くなった。環境改善は、諸指標によるまでもなく、一目瞭然である。大気、水質、騒音、臭い、昼光、風などについての世論調査も8割は改善されたと判断しているという。

自然生態環境も大きく改善されつつある。魚類は、3種から14種に、鳥類は18種に、昆虫は7種から41種に、それぞれ増えたという。生物多様性は、環境評価の大きな指標である。

そして、許火英・ソウル市住宅局長がプロジェクトの効果として掲げたのが以下である。

1 Changes in the urban management paradigm

2 Historic restoration

3 Nature & ecological restoration

4 CBD regeneration

5 Good example of

solving conflicts over a public project

 ほぼ目的に掲げたことを確認するかたちであるが、5にあげるプロジェクト・マネージメント、合意形成についての経験がいい先例になったというのは、プロジェクト担当者の実感でもあり、自負でもある。

 プロジェクトの具体的内容については、様々に評価すべきことがある。ランドスケープ・デザイン、照明デザインなど、様々な議論があるだろう。また、沿線各地区のまちづくりについてはこれからである。残念ながら、今回は全区間について見て回る時間がなかった。

 

 さて、以上が、舌足らずであるが、清渓川[再生]事業の衝撃のいくつかである。事業の最終評価は、もちろん、後世に属すことになる。しかし、現時点で、日本が学ぶべきことは少なくない。

 何よりも評価するのは、事業の総合性である。言うまでもなく、単なるランドスケープ・デザインの先例なのではない。都心の骨格に関わって、インフラストラクチャーも含めた、歴史・文化・環境の総体に関わる事業であることである。清渓川からかつての橋の石材が次々に掘り起こされたことが象徴するように、都市の起源、その発祥の原点に触れる事業である。また、都市の依拠する自然を再発見する事業である。これこそ真の「都市再生」事業というべきである。

 「都市再生」とは名ばかりで、規制緩和による都市「再」開発が喧伝される日本の「都市再生」とは次元が違うと言わざるを得ない。

 また、驚くべき短期間に事業が実施されたことは驚嘆に値する。この強烈なトップダウン方式と合意形成の手法は、大いに研究する必要がある。長い時間をかけて、結局は、理念的にも空間的にも中途半端な結果にしかつながらないのが日本の都市再開発である。

 清渓川という川の特性、その規模や機能、立地などがプロジェクトの「成功」に関わっていることは言うまでもない。大阪や東京など、直接海につながる河川ではおそらくさらに複雑である。交通問題にしても、単純ではないだろう。

しかし、環境再生の試みについては、日本でも、すぐさま直接的に大いに参考になるのではないか。日本の河川、とりわけ都市河川が、その本来的な姿を失って久しい。一方、都市洪水が頻発する。異常気象もさることながら、都市環境そのものが「おかしくなっている」という他ない。各地で河川[再生]の試みが成されているが、単に景観意匠の問題に矮小化されている場合が少なくないのではないか。宇治川、大橋川で考えているのは、河川改修(治水)に絡んだ環境[再生]、さらには都市[再生]への筋道である。問題は、環境[再生]が、清渓川の場合のように、地区の経済活性化にもつながる、という条件が多くの都市の場合見出せないことである。

 

successful project management


2022年12月24日土曜日

建築のあり方考える原点、長谷川堯,神殿か獄舎か 共同通信,200803

長谷川堯,神殿か獄舎か 共同通信,200803


建築のあり方考える原点

「神殿か獄舎か」復刻で

                                 布野修司

 一九六〇年代の高度経済成長のクライマツクスである「大阪万国博」の余韻が残るさなかに出版され、いわゆる「全共闘世代」の学生や若い建築家たちに貪るように読まれた長谷川堯の「神殿か獄舎か」がこのほど復刻された昨年古希を迎えた著者が三十五歳のときの処女論文集である本書に、著者の丁度一回り下の世代である筆者は、その後の仕事の方向を大きく規定されるほどの衝撃を受けた。

 「神殿か獄舎か」の分かりやすさは、そのタイトルの二分法に示されている。近代建築を主導してきたモニュメンタル(記念碑的)な建築にのみ関心を抱き、神の如く民衆を見下ろすスタイルを「神殿志向」と規定して全面批判し、建築家は本来「獄舎づくり」だ、と説く。

「神殿志向」の代表が、前川國男、丹下健三とその弟子たちであり、ほぼ同時期に『建築の解体』を書いて、建築のポストモダンの方向をリードすることになる磯崎新もそこではばっさりと斬られている。それに対して、大正期の建築家たち、中でも「豊多摩監獄」の設計者である後藤慶二が、獄舎づくりの象徴として称揚されている。様々な制度、規制の中でしか建築は実現することはない。そうした意味では建築家は所詮獄舎づくりだ。しかし、そうした制約の中で人々が安心して心地よく過ごせる空間をどう作り出すかが建築家の使命なのだ、と長谷川は言い切った。

続いて出版された『雌の視角』(七三年)『都市廻廊』(七五年)も同様で、「雄」か「雌」か、中世か近代か、という明快な二分法が基軸になっている。「(雌に対する)雄」とは、日本の近代建築を大きく規定してきた「構造派」(建築構造学派)のことである。

 何故、いま、この名著の復刻なのか。

 おそらく、高度成長時代の終焉する状況と地球環境問題で地球そのものの限界が意識される現在の状況が似ているからである。時代が一巡したのである。

著者の示した近代建築批判の方向は、安易な「ポストモダニズム建築」、すなわち、建物のファサード(正面部分)に様式建築のスタイルや装飾を復活させるだけの歴史主義的建築の跋扈(ばっこ)によって見失われてしまった。また、この間の耐震偽装問題の発覚に示されるように、建築家は「安全な」獄舎づくりに勤めることを怠ってきたことになる。

二度のオイルショックを経験した後の八〇年代には、バブル経済が日本列島を翻弄することになるとは夢にも思われなかった。バブルが弾け「空白の一〇年」が続いた。そして二一世紀を迎え、建築界は行方を全く見失ったように見える。

いまこそ「神殿思考」の近代建築の問題を再考すべきではないか。かつて本書を貪るように読んだ世代も、オイルショックの時代を知らない世代も、これからの建築のあり方を考える原点として繰り返し読むべきなのが本書である。実にタイムリーな復刻だと思う。







2022年10月28日金曜日

都市再生の本質ー光と影のはざまでー秩序と混沌ー「都市組織」と「都市住居」ー私にとって都市の魅力,『建築と社会』,200604

 都市再生の本質ー光と影のはざまでー秩序と混沌ー「都市組織」と「都市住居」ー私にとって都市の魅力,『建築と社会』,200604


都市再生の本質―光と影のはざまで― 関西で

私にとって都市の魅力

 

布野修司

都市の魅力とは何か、と真正面から問われると、いささか戸惑う。正直、あんまり考えたことがない。ただ、『カンポンの世界』[1]以降、都市については興味を抱き続けているし、近年の『近代世界システムと植民都市』[2]、『曼荼羅都市』[3]に至るまで、調査研究の中心は「都市組織urban tissue, urban fabric」のあり方であり、「都市住居」の型である。世界中で人々が作り上げてきた「都市組織」の多様なあり方、そしてそれに適合した都市住宅の型の生み出す街並み景観の多様なあり方に魅せられ続けている。

日本の都市が魅力を失いつつあるのは、都市住居の一定の型を支える都市組織のあり方を欠きつつあるからである。そして、都市再生が叫ばれるのも、それ以前に、人々が集まって住む仕組みが崩れつつあるからである。

都市の魅力とは何か、ということは、つまるところ、都市とは何か、ということであろう。都市とは何かをめぐっては、古来多くの議論があるが[4]、その基礎は、活力ある群衆Energized crowdingの存在である。「都市とは社会的に異質な個人が集まる、比較的大きな密度の高い恒常的な居住地である」(L.ワース、生活様式としてのアーバニズム)、「都市とは地域社会の権力と文化の最大の凝集点である」(L.マンフォード)といった定義を持ち出すまでもなく、都市の中心をなすのは、大勢の人が行き交い、蝟集する場所である。観光名所、盛り場、市場、広場、雑踏、路地・・・どんな都市であれ、活き活きと人が暮らす場所は魅力的である。日本の都市の中心市街地が活力を失ったのは、端的に人が集わなくなったからである。日本の都市の郊外住宅地が魅力に乏しいのは、個々の生活が車によってバラバラに分断されつつあるからである。

 

 バラックの海

これまでアジアを中心に数多くの都市を歩き回ってきたが、軽い興奮とともに心地よさを覚えるのが、貧相なバラックが建並ぶ、一般的には「スラム」と呼ばれるような住宅地である。そこら中にゴミが散らかり、下水は臭う、騒々しくて、人いきれでむっとする、普通の人であれば、思わず、目を背け、鼻をつまむような物的環境だけれど、何故か懐かしい。戦後まもなくの状況を直接体験しているわけではないから、この懐かしさは不思議である。

「スラム」を歩き回るのは、単なる好奇心ではない。生来の貧乏性だからと言えば言えるが、このバラックの世界に感ずる親しさは、個人の感性の問題というより、ある「共通感覚」ではないかと思う。それは、人と人とのつながり、そのぬくもりに感ずる「共有」「共生」の感覚に近い。物理的な環境は生存のためにぎりぎりといった劣悪極まりない場合でも、そのコミュニティはしっかりしている。相互扶助の組織がなければ生活が成り立たないのだから、それは当然である。突然の来訪者に対しても、暖かく迎え入れてくれるのが普通である。危ない目にあったことはほとんどない。

また、何よりも人々が活き活きしている。必死で生きている人々には素直に感動を覚える。寄せ場やホームレスの仮小屋に興味を寄せる若い世代が少なくないのも、社会問題への関心以前に「生きること」への共感があるのだと思う。

バラックの世界では、「生きること」と「建てること」、そして「住むこと」が全く同じ位相にある。我々が失ってきたのは、こうした直接的な都市への関わりである。

 

カンポンの世界

カンポンkampungとは、インドネシア(マレー)語でムラという意味である。カンポンガンkampunganというと「イナカモン」というニュアンスである。都市の居住地なのにムラという。このカンポン(都市村落urban village)には、多くのことを学んだが、そのエコ・コミュニティと呼びうるような特性、生態原理は以下のようである。

多様性:異質なものの共生原理:複合社会plural societyは、発展途上国の大都市の都市村落の共通の特性とされるが、カンポンにも様々な階層、様々な民族が混住する。多様性を許容するルール、棲み分けの原理がある。また、カンポンそのものも、その立地、歴史などによって極めて多様である。

完結性:職住近接の原理:カンポンの生活は基本的に一定の範囲で完結しうる。カンポンの中で家内工業によって様々なものが生産され、近隣で消費される。

自律性:高度サーヴィス・システム:カンポンには、ひっきりなしに屋台や物売りが訪れる。少なくとも日常用品についてはほとんど全て居ながらにして手にすることが出来る。高度なサーヴィス・システムがカンポンの生活を支えている。

共有性:分ち合いの原理:高度なサーヴィス・システムを支えるのは余剰人口であり、限られた仕事を細分化することによって分かち合う原理がそこにある。

共同性:相互扶助の原理:カンポン社会の基本単位となるのは隣組(RT:ルクン・タタンガ)-町内会(RW:ルクン・ワルガ)である。また、ゴトン・ロヨンと呼ばれる相互扶助活動がその基本となっている。さらに、アリサンと呼ばれる民間金融の仕組み(頼母子講、無尽)が行われる。

物理的には決して豊かとは言えないけれど、朝から晩まで人々が溢れ、活気に満ちているのがカンポンである。そして、その活気を支えているのがこうした原理である。

このカンポンという言葉は、英語のコンパウンド(囲い地)の語源だという。かつてマラッカやバタヴィアを訪れたヨーロッパ人が、囲われた居住地を意味する言葉として使い出し、インド、そしてアフリカに広まったとされる。カンポンは、そうした意味でも、「都市組織」のひとつのモデルといっていい。

 

歴史の中の都市:都市の記憶・文化変容・都市の規模

都市はひとつの作品である。都市に住み、建築行為を行うこと自体が、住民それぞれの表現であり、都市という作品への参加である。そういう意味では、都市は集団の作品である。都市の建設は、一朝一夕に出来るものではない。完成ということもない。人々によって日々手が加えられ、時代とともに変化していく。そういう意味では、都市は歴史の作品である。

都市の魅力は、それ故、その歴史性にも大きな基礎を置いている。実際、都市を歩く楽しみのひとつはその歴史的追体験にある。都市の記憶が豊富であればある程、一般的にその都市は魅力的なのである。

もちろん、都市の歴史には負の遺産として記憶されるものもある。近代植民都市の歴史は、ヨーロッパによる非ヨーロッパ世界の侵略の歴史である。しかし、ヨーロッパ文化と土着の文化の衝突、葛藤を含めて、その都市の形成、変容の過程は、それぞれの都市の歴史である。都市が、本来、カンポンのように多様な階層、民族が混住し、多様な価値感を許容するものであるとすれば、多様な居住文化が相互に影響し合うことこそその魅力の源泉である。例えば、住居の形式を見ると、ヨーロッパの形式がそのまま移植される場合もあれば、土着の形式がそのまま借用される場合もある。また、多くの場合、折衷的な形式が新たに創り出される。新たに創り出された形式は、歴史の流れの中で大きな伝統となっていく。相互遺産mutual heritage、二親dual parentageという概念も共有されつつあり、世界文化遺産に登録される植民都市も少なくないのである。

 

曼荼羅都市

世界史の中で都市の歴史を振り返る時、産業革命、蒸気船、蒸気機関車の出現による変化、19世紀末以降の大転換が決定的である。都市はヒューマン・スケールを超えて膨張し始め、とどまることを知らない。魅力的な都市は、基本的に歩いて楽しめる都市である。近代以前の都市はほとんどそうである。




[1] 布野修司:『カンポンの世界』,パルコ出版,1991

[2] 布野修司編:『近代世界システムと植民都市』、京都大学学術出版会、2005

[3] 布野修司、『曼荼羅都市―ヒンドゥー都市の空間理念とその変容―』、京都大学学術出版会、2006

[4] 布野修司:「都市のかたちーその起源、変容、転成、保全ー」、『都市とは何か』『岩波講座 都市の再生を考える』第一巻、岩波書店、20053






2022年9月19日月曜日

一見バラバラなように見える諸論考が、「都市・建築」の現在をそのまま示して居いる、書評・『都市・建築の現在』,図書新聞,20061125

 書評『都市・建築の現在』

一見バラバラなように見える諸論考が

布野修司

 

本書は、「建築史の研究領域を集成した、日本建築史上・日本出版史上の空前のシリーズ」をうたう全10巻の最終巻である。読者は、当然「都市・建築の現在」を歴史的パースペクティブにおいて位置づけ、「未来」を展望する論考を期待することになる。しかし、集められた諸論考は、あるものは「3 一九六八年――パリの五月革命をめぐる思想と建築」(五十嵐太郎)を論じ、あるものは「6 難民キャンプの現状」(森川嘉一郎)を論じといった具合で、一見バラバラなように見える。この論考のバラバラの寄せ集めは、「建築・都市」の多様性を浮かび上がらせるために「方法論的統一」を求めないとするシリーズに一貫する編集方針に基づくものであるが、「都市・建築」の現在をそのまま示しているというのが第一印象である。

各巻の趣旨は巻頭論文に示されるというから、石山修武の「序 現代の特質―何をもって現代とするか―」が、まず読まれるべきであろう。石山は、まず、建築の工業化=標準化(交通と差異)の問題をとりあげている。建築生産の工業化が「建築・都市」の現在のあり方を決定的に規定するという認識は多くの共有するところであり、極めてオースドックスだと思う。松村秀一論文「1 住宅の生産と流通」、清家剛論文「2 オフィスビルの表現」は、工業化技術の変遷をくっきりと跡づけている。具体的な建築家の建築作品を次々にあげる石山論文は、一般にはわかりにくいと思われるが、この二つの論文でおよそ「都市・建築の現在」は把握できる。松村論文は、プレファブ住宅の歴史を丁寧に描く最良のテキストになっている。清家論文によって、日本に限定されるがオフィスビルの歴史がよくわかる。石山の言うように、二〇世紀はオフィスビルの時代であり、世界中の都市景観を大きく変えたのはオフィスビルである。そして、鉄とガラスとコンクリートといった同じ工業材料によって、また同じ構法によって建てられた超高層が林立する世界中の大都市の景観が似てくるのは当然であった。

石山は、テクノロジーに主導されてきた建築のあり方の究極の姿をコンピューター技術に依拠するフランク・O・ゲーリーのビルバオ・グッゲンハイム美術館に見る。「この建築によって二〇世紀の建築は幕を閉じた」とまで言うが、それが標準化、あるいは「機械の美学」を乗り越えて、極めて遊戯的な、個人的な表現を実現している一方で、その表現が普遍的なコンピューター技術に支えられている、というのがその視点である。石山の文章全体は分裂気味(感覚的)でわかりにくい。「時間、すなわち眼の当たりにせざるを得ない現実の歴史性を生きるのは知覚に頼るしかない。それが、これからの現代の特質である。」と文章は結ばれている。

それに対して、巻末の鈴木博之論文「7 都市と建築 その機能と寿命」は、全巻のまとめの役割を担うが、基調としてわかりやすい。「都市・建築の強さと耐久性」をめぐって、日本近代の歴史を振り返った上で、「成熟期社会の都市と建築」を展望するのであるが、「これまでのスクラップ・アンド・ビルドという体系ではなく、継承と変化に対応する建築のための技術体系が必要とされるのである」というのが結論である。また、建築・都市の長寿命化のためには複合機能性が大事だという。そして、複合機能性を秘めた場所をつくることこそが環境の形成行為であり、文化を築くことだという。

ワイマール・バウハウス大学教授のヨルク・グライダー論文「4 病理としての建築――近代と「美学の生理学」」は、技術と芸術の二律背反の問題を美学の病理として問うている。中川理論文「5 環境問題としての風景論」は、開発と保存の問題を通奏低音としながら「景観問題」を環境問題として問うている。全体を通じて不満があるとしたら、評者が関心を持ち続けているアジア、あるいは発展途上地域の「都市・建築」の問題が触れられていないことである。西欧vs日本の構図が本書の基本に置かれている。この点では、アジアはともかく、日本の中の外国人居住の問題などに触れられず物足りなさはあるものの森川論文に好感をもった。グローバルな都市問題、居住問題は、大きく、先進諸国の「都市・建築」に関わる筈である。

通読して、建築家としての石山修武の「知覚に頼るしかない」という意味が少しわかる。近代建築の巨匠たちが絶大な信頼を置いてきたテクノロジーへの期待は最早ない。また、その延長であるIT技術の留まることのない展開の限界も直感してしまう。建築家がなしうるのは、「状況」を直感しながらつくり続けることである。「1968年」の状況に絡めて、五十嵐太郎は「より純粋な理念に走る思想のほうが過激であり、建築のほうが現実との妥協点をもとめてしまう。ここに思想と建築が交差する永遠のアポリアがある」と結論づける。問題は、「知覚」に頼って行われる現実との妥協の行方である。

果たして、建築の工業化の趨勢は大きく転換することがあるのであろうか。果たして、建築の長寿命化はどのように実現していくのであろうか。「環境問題」は、果たして、「都市・建築」のあり方をどのように変えていくのであろうか。本巻を通じて、以上のような基本的問題は浮かび上がっている。しかし、歴史を見据え、見通す方向性は見えない。近代建築批判の課題は依然として、問い続けるものとして「宙吊り」にされ続けているのである。


西川幸治名誉教授インタビュー、教室を知的探検と交流のベース・キャンプに、traverse 新建築学研究 07, 2006

 2006/04/22 京都大学工学部/西川、布野、伊勢、土屋、高橋、田島

西川幸治名誉教授インタビュー

教室を知的探検と交流のベース・キャンプに

traverse 新建築学研究 07, 2006 

 

■彦根中学から三高へ

布野先生は、建築系教室への帰属意識はあんまりないとおっしゃいますが、そもそも何故、建築学科だったのか、あたりからお話していただけますか。

西川消去法です。新制大学への進学は工学部に入りました。しかし、旧制高校3年のところを1年で追いだされ三高など旧制高校がつちかってきた教養への執着と休学がきっかけになり、専門にこだわらない姿勢がうまれたと思います。

布野なぜ工学部だったのですか。

西川それは消去法でした。たしかに、戦中・戦後の混沌のなかで、空を眺める宇宙物理学、天文学への憧れはありました。三高は文科と理科しかありません。私は理科で、宇宙物理とか地球物理などに関心がありました。しかし「じっさい、モノを作る方がいいですよ」と言う三高校の先生がおられました。

布野数学は得意でしたか。

西川数学はわりと好きでした。それは戦中末期で、45年の815日というのは大転換です。すべてが変わりました。

布野その時はおいくつでしたか。

西川彦根中学の3年生です。色々考えたり、将来を思う時期でした。

布野彦根中学というのはどこら辺にあるのでしょうか。今の彦根東高校ですか。

西川そうです。終戦を期に、価値観が大きく逆転換するのを痛切に感じました。のなかで変わらなかったのが数学とか理科なのだと。

布野天文学ですか。

西川中学1年の時、宇宙物理学の山本一清の『天体と宇宙』(1941)という本を読みました。京大の宇宙物理の先生で、花山天文台長などもしています。のちに出身地である、大津の田上に天文台を作って、そこが当時アマチュア天文学のメッカになっていました。今ものこるこの田上の天文台は地域の文化財として顕彰すべきだと思っています。

布野三高しか志望しなかったのですか。横尾先生は横須賀ですが、三高行こうか、一高行こうか、迷ったと聞きました。

西川戦時中の中学は大変でした。当時、華やかだったのが海兵・陸士でした。彦根中学というのは、あまり軍人が出ない所でした。なぜか終戦間際には海兵にたくさん合格しましたが。

布野彦根は、ずっと井伊家、譜代大名で、幕府の中枢にいたわけですが、明治維新以降、少しパッとしなくなった。

西川彦根は幕府の譜代大名の城下町で、薩長を中心としたいわゆる明治政府からは疎外された城下町でした。それだけに、近世の景観をよくのこしています。

布野裏返しですね。幕藩体制を支えてきたわけですから。

西川そうです。もし、井伊直弼が桜田門外で暗殺されていなかったら、彦根は会津のような運命になっていたでしょうね。城下町も残らないし、城はもちろん破壊されたでしょう。戦後になってどこかに進学という時に、三高か八高か四高のどこかを考えました。

布野八高が名古屋、四高が金沢ですね。一高はないですね。

西川一高は考えなかったけれど、存在は知っていました。子どもの頃、佐藤紅緑の『あゝ玉杯に花うけて』という本を読んでいたので、小学生の頃に一高だけは知っていました。その頃は三高の存在は知らなかったくらいです。戦後、親しい人が三高に入りました。

布野三高に来られて下宿はどこでしたか。

西川最初は五条坂にいました。父が昔下宿していた所です。夏休みあけの昭和239月に北白川に移りました。それから大学院出るまでずっと下宿は北白川です。

布野学生時代からずっとですか。

西川そうです。学生時代からずっとです。

布野三高というのは要するにここ京大ですね。

西川そうです。文・理科あわせて1000人位の生徒がいました。

布野入られて、それで建築に決められたのはどういう経緯ですか。

西川当時、学制改革で、非常に不安定でした。私達が入った時は旧制高校のままで卒業できるかどうかわからない状況でした。

布野新制と旧制との切り替えの時ですね。

西川文科甲類には小松左京がいましたね。

布野多分、建築界なら磯崎新がそうですね。

西川川上秀光さんとは同級です。

布野川上先生は三高ですか。

西川そうです。三高で同じクラスで二人建築に進み、私は京都に、彼は東京に行った。

布野磯崎新も同じ歳だと思います。

西川私もどこかで会っています。伊藤ていじさんに紹介されて磯崎さんと川上さんたちに会いました。

布野八田利也というペンネームで、活躍しましたね。

西川—GMP、原稿、マスプロダクション(笑)そこに伊藤ていじさんに連れられて行って、三人とはなしました。

布野伊藤ていじ先生はちょっと上ではないですか。

西川あの人は旧制の四高出身で、岐阜の人で歳はかなり上です。

布野入られた時から川上先生は知り合いだったんですか。

西川同じクラスでした。とにかく彼は元気でしたよ。活発にヨットで琵琶湖に遊んだりしていました。

布野川上先生も建築、西川先生も建築。その辺の雰囲気を僕は聞いたことがないんですよ、巽和夫先生とか横尾先生とかにも。三高から来た先生はあんまりいないんじゃないでしょうか。名誉教授クラスには。

西川あんまりいませんね。森田慶一先生、西山先生は三高、村田先生、坂先生は一高だときいています。

布野東大です。藤井先生と武田五一は福山出身でしょう。

西川武田五一先生は三高で、新徳館という木造の講堂は武田先生の設計でした。藤井厚二先生は六高だときいています。ところで新制第一期には作家の高橋和巳がいます。彼は松江高校ですが。

布野僕も松江です。

西川彼は松江高校で、中国文学専攻です。奥さんは仏文出身の高橋たか子。作風は大分違いますが。

布野黒川紀章と同級。黒川さんはちょっと先生より下でしょう。

西川森田さんと同じクラスだった。2,3年下ですね。同じ世代では高橋和巳を一番愛読していました。『悲の器』などはいい本です。若くして亡くなってしまいましたが。彼が進々堂なんかで昼飯を食べて帰ってくる時に、顔を合わせることはありました。目礼するくらいの間柄だったけど、しゃべったことはないです。

布野彼は文学部ですね。大学闘争時代に、高橋和巳は、造反教師というか、学生からはスターでした。僕も、全集買って読みました。

西川紛争の頃、立命館にいました。吉川幸次郎さんが引き戻したのです。吉川さんは自分にはないものをもつ弟子を選んだんでしょう。中国文学にはたくさん秀才がいましたから。当時いろんな人がいましたよ。みんながレギュラーなコースで行くのではなくて、私と同じクラスに高瀬昭一さんというのがいて、三高から、東大の理科へ進学しましたが、次に会った時には東大の美学美術史に行ってました。映画に関係し、やがて朝日新聞に入って、朝日ジャーナルの編集長をしていました。神戸から来た江戸さんは物理の湯川研へ進学しましたが、やがて、美術評論家の中原佑介として活躍しています。

 

■結核

西川私は休学しているのです。京大に入って、二年目の時に。ですから二回生を二回しています。

布野それは意識的にですか。

西川結核です。伊藤ていじさんほど悪くはなかった。伊藤さんは肺が空洞になって肺切除の手術を受けたと言っておられました。私はそこまではいかず、浸潤で終わっているわけです。

布野建築に入るというのはいつ決めたのでしょうか。どうやって選んだのでしょうか。

西川いろいろ教室を見て歩いた記憶はあります。建築教室では廊下に福井地震で被災した建物の大きい写真がかけてあったのが印象にのこっています。結局、どこも気乗りがしなくて、消去法で選んだのです。

布野当時、どこに製図室がありましたか。

西川製図室は今の新館と本館の間に小さな平屋があってそこが製図室だった。その製図室が1回生と2回生で、3回生になったら隣の環境の実験室も製図室でした。やがて、2階がつけたされ、本館東の建物は新制の大学院の室になりました。

布野先生は設計製図はどうでしたか。30人中一番描けたのは誰ですか。

西山目良純さんとか柴田勝之(坂倉)、金本貫治(大建)らが、デザイン志望でした。私自身、医者に製図は胸に悪いと言われて、敬遠していました。

布野結局、建築史を選ばれるわけですね。

西川その頃に西山さんの『これからのすまい』を読んで、ああいうアプローチの仕方があるのかと面白いと思っていました。

布野藤原悌三先生は、この四月で滋賀県大を退官されましたけど、やはり西山先生はインパクトがあったと退官記念講演会でお話になっていました。

西川私も面白いなと思いました。終戦直後の『新建築』に西山さんの長大な論文が載っており、すごいなと思いました。あの戦後の混乱の時代に夢のある計画だという気がしました。

布野もともと『新建築』は関西ですしね。

西川あれは村田治郎先生が『新建築』に西山さんを紹介したとおっしゃっていました。

布野例の「新建築問題」が出てくる時に京都の偉い先生たちがいちゃもんつけたということを聞いてるんですが。1950年代に新建築問題で川添登さんとかが辞めた事件があるわけです。それは村野先生の「そごう百貨店」の批評が問題のきっかけになった。「そごう」は、新橋駅前の今はビックカメラになっていますが、その横は「東京フォーラム」で、丹下さんの「東京市庁舎」を建て替えた。「そごう」を批判して書いたら吉田社長が「編集部全員クビ」と言った。その時に村田先生が京都から「村野に文句付けるとはどういうことだ」と言ったことは事実みたいなんです。それで『新建築』ががらっと変わった。『新建築』には絶対作品を発表しないという建築家も出たんですね。

西川初めて聞いた。そんな事に村田先生は関心があったんだろうか。

布野代わって編集長になったのが清家さんとか東工大グループなんです。少し横道にそれましたが、先生が昭和29年に建築を選ばれた。その時の教授陣は。

西川私が入った時には年輩の先生では計画・意匠は森田慶一先生、建築史は村田治郎先生、構造は鉄筋コンクリートの研究をされていた坂静雄先生、鉄骨構造・施工の棚橋諒先生、環境の前田敏男先生の5人だったと思います。

布野その時は西山夘三先生は助教授ですね。

西川西山先生はおかっぱ頭で、花森安治とならんで有名でした。ほかに講師で増田友也先生がおられた。

布野—4回生おわって、大学院に行かれた。

西川休学したので転学部しようかと本気で考えました。

布野なぜ転学部を。

西川僕は社会学か経済か心理に行こうかと。休学中に読んでいたのがそういう系の本だったから。それを断念して、踏み留まったのはやはり、T.V.A.Tennesee Valley Authority)に関するD.E.リリエンソールの『T.V.A-民主主義は進展する-』でした。これを読んで感銘しました。

布野僕達でもピンとこないし、若い学生はもっとわからないと思いますが。

西川アメリカの地域総合開発です。それを新しい民主主義の考え方と手法で、草の根の民主主義に根ざした手法で、テネシー渓谷を総合的に地域を開発するということで注目されました。アメリカにおけるニューディール政策のもとですすめられたのです。

布野それを読んだのはいくつの時ですか。

西川昭和24年の刊行ですから大学に入ってからですね。和田小六という人が訳した本で、10年位前に復刊されました。T.V.Aの開発方式というのは批判されるようになってからです。当時、影響を受けた人はわりと土木とか建築には多いで.すよ。私達の世代はT.V.A.を読んで影響を受けた人は多いと思います。

布野土木とか建設に行くぞという人が多かった。戦後復興が大課題でもあったからですね。

西川あの本というか、T.V.A.の功罪について、きちんと検討すべきだと思います。戦後の20世紀後半の総合開発はほとんどがT.V.A.がモデルとしているようです。アフガンでもヘルマンド・バレー・オーソリティが、それはアメリカのを直輸入して結果的には失敗したと言われていました。東南アジアのメコン川など大河川でもT.V.A方式の地域開発がすすめられました。日本でも奥只見や愛知用水はそうでしょう。それらをT.V.A.のモデルとしてどの部分が成功してどこで失敗したかをきちんと検討しておく必要があると思っています。

布野その話と社会学やりたいという話はどうつながるんですか。それと最終的に歴史にどうして行かれたんですか。

西川結核という病気は、死にいたる病なんですよ。命がゆるやかに消えていくのにずっと向き合う、今のガンのような急なものと違って。立原道造もそうでしょう、掘辰雄のような美しい文学も結核との関わりの中で生まれた文学でしょう。休学していた頃、抗生物質のストレプトマイシンとかパスなどの薬があらわれ、劇的に救われたのだと思います。

布野僕らは結核というのは頭ではわかっているけれど、その死に至る病ということは実感できない

西川いろんなところで救われたわけです。私はマイシンをのんだりして。人工気胸というのをやっていました。胸膜腔内に空気を入れて肺を縮めるわけです。週に1回、学部からドクターコースまで続けていました。気胸をやめるころに、ちょうど医学総会が京都であって、気胸は結核療養に役に立たないという結論がでたということでした(笑)。しかし、担当医は「あなたの場合は割ときいていましたよ」と言ってくれましたけど。たまたま休学している時に映画『カラコルム』を観ました。木原均先生を隊長とした調査の記録です。梅棹忠夫さんらがアフガンで調査しモンゴル族を発見する。

 

■学部から大学院へ:映画『カラコルム』を観る

布野それは大学院の時ですか。

西川まだ学部ですね。復学するかどうするかという時でした。同じ生があり、死なねばならないのなら、こういうことをやりたいなと思いました。

布野先生のモンゴルへのこだわりというのはそこからですか。

西川アフガンでの調査で、ちょうどイタリアの調査団と交流する場面がありました。それと梅棹さんたちがモンゴル族の末裔を発見する場面に感動しました。

西川イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊に参加することになった時、京大病院で相談したところ、アフガンに行かれた梅棹さんも気胸をしておられたよということで、参加の意志を固めました。

布野僕は梅棹先生と一度、目が悪くなられてから対談をしたことがあります。当時は梅棹先生はどういうポジションだったんですか。

西川梅棹さんは京都大学を出られて、大阪市立大学の理学部におられたと思います。それでカラコラム・ヒンドゥークシュ学術調査隊が組織され、カラコラムとヒンドゥーュクシュ班とに分かれて、ヒンドュクシュ班に梅棹さんは入った。カラコラムの方は今西錦司さんが中心だったと思います。

布野先生の卒業は59年ですね。僕は先生の名誉教授の推薦の文章も書いたし、京都新聞文化賞の時も書いたんですが。大学院行く時はどういう選考基準だったんですか、試験があったりしましたか。誰でも行けたんですか。

西川私は無試験でした。しかし、年度末にあと何人かは試験で採っていたように思います。

布野推薦の時代。村田先生が来いと言ったわけでないでしょう。

西川計画系が何人という感じでだと思います。私はどこに行っていいかわからないし、あまり図面をひかない方がいいと言うし、だからなんとなく村田さんの所に行った。

布野その時は巽先生はいたんですか。

西川いましたよ。私は1年休学したので、巽さんは1年前に新制大学院の第1期として進学していました。一緒によく集まってだべっていました。今と違って大学院は研究室に分属しないでグループになって一学年全部が入っていました。構造も歴史も全部。

布野何人位ですか。

西川—10人位でしたかね。京大だけでなくて熊本とか神戸大学から来た人もいた。私は大学院に行くのに何で行くのかと聞かれて「体が悪くて」と言うと、村田さんが「君、大学院はサナトリウムじゃないよ」と言われた(笑)。

布野それで大学院の修士論文は。

西川私は、修士論文は近世都市で書きました。ちょうどその頃、彦根市史の編纂に関わっていました。彦根の城下町、もうひとつは城下町から町人の町へ転換した長浜、この二つ町をとりあげて修士論文を書いたのです。

布野それは故郷だからですか。先生の選択、もしくはプロジェクトがあっての選択ですか。

西川彦根は故郷だし、史料も手にとり易かったからでしょう。修士を終えてしばらくは、近世でも彦根藩だけでなくて他の藩、例えば津軽藩などの史料を使って江戸の上屋敷とかを調べたりしました。当時、修士課程には演習がたくさんありました。設計演習の単位を取らないと卒業できないわけです。だけど単位を他学部で取っていいということになっていたので、設計演習に替えて、他学部で単位を取りました。美学美術史とか日本史、考古学で単位をかせぎました。

布野その時の先生はどなたですか。

西川美学・美術史の教授は井島勉という方でした。文学部には集中講議があり、東大から吉川逸治先生がヨーロッパ中世美術で、東京芸大から新規矩夫先生がエジプト美術を講義されました。それらを大変楽しく受けました。

布野栄養、ルーツにはなっている。

西川今でも忘れられないのが、その他、上野照夫先生の絵巻物研究、インド美術史。林屋辰三郎先生の中世史研究。

布野林屋辰三郎先生は、どこにおられたんですか。

西川立命館大の文学部教授で、京大の国史に非常勤講師で週一度来られていました。その頃、羽仁五郎という歴史家は有名でした。

布野『都市の論理』68年。僕ら学生の必読書でした。

西川岩波新書で『都市』という本が出ていた。戦時中刊行された『ミケランジェロ』にも感銘しました。

布野今、『都市の論理』を読み返すと、随分乱暴な議論もしている。

西川彼は秀才ですね。一高—東大の法学部を卒業して文学部へ再入学した。三木清の友人です。

布野東大ですか。京大かと思っていました。

西川反アカデミズムの旗頭です。スマートで、不思議なことに福山先生も若い頃、講演を聴いてたいへん憧れたと言っておられた。

布野福山先生は先生が助手になった時にお見えになってお世話したんですね。

西川教授として赴任される1ヶ月前、昭和344月に助手になったのです。

 

■ガンダーラへ

西川博士課程では日本近世の都市を勉強しました。西山先生がそのころ大学院研究室へ来られて、言いやすかったのでしょうか(笑)「そんなことをして何になるのかね」と毎回言われました。「結局、役に立たないことをやるのか」とか、「近世をやる」と言えば、「なぜ近世をやるのかね」と言われる。説明しても「人がやらないからやるのか」とか言われる。若かったから一生懸命抗弁してました。あの頃は世の中全体が実用的なものの考え方をする時代でした。当時の時代風潮は建築史みたいなことをする居場所がだんだん小さくなっていた。最後に西山さんは「西川君やるのはいいからその代わり、歴史のことは何を聞かれても答えられるようにならないといけないよ」。西山さんにはかなり厳しく助言して頂いたと、今は思います。また、「書庫に入ったらどこにどの本があるかは覚えるように」と言われました。本を探すのにどこにいけばいいか、今でも目に浮かんできます。小さな書庫だったが、天井が高くて、二段に仕切ってありました。新館ができて移って地下にも拡がり大きくなりましたが。

布野助手になられて福山先生がお見えになって、その時にお世話されていた。

西川私が教授室にはいる最後の助手でした。

西川当時、大学院生らの研究室に入って研究するのではなくて、教授室に助手として入っていたわけです。秘書の仕事もしていました。切符の手配とかね。次の助手は永井規男さんで大学院の研究室にはいり、福山先生には女性の秘書がつきました。

布野永井先生は関西大学へ行かれるのですね。その時の教授陣は。

西川村田先生が辞められて、福山先生が来られ、坂先生が辞められて、横尾先生が土木教室からもどってこられた。

布野増田友也先生は。

西山増田先生はやがて講師から助教授になっておられた。

布野西山先生は。

西川西山さんもまだ助教授でした。

布野助手で福山先生のお世話をされながら、ガンダーラがあるわけですね。きっかけはどういうことですか。第一次隊は何年でしたか。

西川—1955年に木原均先生を隊長とするカラコルム・ヒンドュクシュ学術調査隊が組織され、1959年には、京大イラン・アフガニスタン・パキスタン学術調査隊が組織され、考古美術、地理、歴史言語、人類の各班が調査をはじめました。ただ福山先生が来られた時に人文研に案内し、水野清一、長広敏雄、平岡武雄、藤枝晃を訪ねました。これが水野清一先生にお会いした最初です。

布野ガンダーラに行かれていたんですか。

西川そうです。文学部で講議を受けて、小林行雄先生の考古学の演習を受けました。考古学の演習では、私は図学を習っていたから、土器の実測に役立つこともありました。小林行雄さんは建築の出身でした。そんな繋がりがあって、山科の大宅廃寺の発掘調査にはじめて参加しました。奈文研の坪井清足さんを中心に、金関恕、小野山節、佐原真、田中琢、田辺昭三、岡田茂弘、白石太一郎さんらも参加していました。

布野当時は皆、助手クラスですね。大学院クラスでしょう。

西川それが後、考古学の中堅として活躍しています。

布野佐原先生は京大ではないでしょう。大阪外国語大学からですね。

西川大阪外大のドイツ語専攻から京大の大学院の考古学に進学しています。彼のドイツ語のリードはきれいで、機会があればうたってました。佐原さんとは1960年、ガンダーラの調査では宿舎は同室ですごしました。

布野その時の教室の雰囲気も聞きたいですが、先生は結核やって文学部系とつきあっていた。(笑)

西川教室の外の人とつきあう癖がついてしまったんでしょう。文学部系とは近い関係なのです。60年から人文研の水野清一先生の調査隊に参加し、研究会とか調査隊の打ち合わせで、しょっちゅう人文研へでかけましたが、福山先生が寛容にみとめてくださいました。それともう一つ、伊藤ていじさんとつきあって、D.C.の時に今井町の調査をやった。村田さんは民家をやるのにもあんまり賛成していなかった。

布野でも村田先生の学位論文は民家じゃないですか。「俺は民家やるんだ」と冒頭に書いてある。

西川村田先生の民家は、ユーラシア大陸を見据えた民家の流れが対象でしたから、少しくい違いがあったのでしょう。ただ、東大が研究室をあげて民家調査をやるようなことを京大ではしていなかったし、できなかったのです。私は伊藤ていじさんに心服していましたから。才人で凄い人です。

布野今井町の調査は、先生と京大からはどなたか。

西川私だけです。太田博太郎先生がずっとおられて、伊藤ていじさん、稲垣さん、川上秀光さん、渡辺定夫さん、大河直躬さん、それからイスラームの石井昭さん。この間亡くなられた名古屋大学の小寺さん。私にはとても楽しい調査でした。東大の人たちも一緒に調査ができて楽しかった。

布野ああいう調査を今できないんですかね。僕はアジアでやりたいと思っているのですが。

西川—ぜひ、やってください。

 

■ガンダーラから寺内町へ

西川そういう人と接することによって、東大で新しい動きがあることを知ったのは個人的に面白かった。今井町の調査で、その当時に今井町も城下町も同じような古い町と見ていました。ところがガンダーラに調査に行って、あの頃の車はよくパンクするのです。パンクするとそこで修理し、立ちどまって周りの町なんか見ていると、城壁で囲まれた都市の廃虚が残っていたりしている。そしてバーミヤンの石仏の上で、

布野これは有名な話だからちゃんと聞かないと。

西川(笑)1960年秋、アフガンの調査を終え、パキスタンへ移動する時、はじめてバーミヤンにたち寄りました。当時、大仏の頭の上にトンネルの階段で登れました。大仏の頭上、天井には西方の影響のつよい壁画がよくのこっていました。その大仏の頭上から見たら、シャレ・ゴルゴラという丘があって、阿鼻叫喚の巷だという意味なのです。この丘は、ジンギスカンの軍隊がここで戦死したジンギスカンの孫をいたみ、町の老若男女を虐殺したのです。そこで、この遺跡にはその泣き叫ぶ声が今もきこえるというのです。こういう町の住民が、町と運命をともにするということが日本にもあったかなと思った。その時にぱっと今井町が浮かんだ。寺内町がそうした例ではないかと。それが寺内町をあらためて考えるきっかけになりました。

布野それは何年ですか。

西川—1960年。途端に寺内町が私にとって身近に面白くなってきた。

布野寺内町ユートピア論ですね(笑)

西川寺内町を美化しているかもわかりませんね。その頃、日本ではいろんなことがありました。調査にいっている間に大阪万博もありましたからね。

布野その頃寺内町ユートピア、ガンダーラに行ってしまった(笑)

西川教室でも、大阪万博で忙しかったし、上田君はそのなかではりきっていて、忙しそうでした。

布野上田篤先生は俺がやったと言ってますね。磯崎と俺と二人で万博やったと。

西川梅棹さんはこの万博をきっかけに民博(民族学博物館)をつくられたのです。

布野—70年というのは、僕は大学2年生ですから、その頃からだいたいわかってくるんですけど、例えば先生の研究室でローズナウ『理想都市』(鹿島出版会)を訳されますね。そういう雰囲気はよく覚えています。団長として調査を開始されたのは何年ですか。

西川—80年になってからです。60年代は水野清一先生がIAP、イラン、アフガン、パキスタン調査をやられて、70年代は樋口隆康先生がアフガンでスカンダル・テペやバーミヤンの石窟の調査をすすめられ、私もバーミヤン調査に参加しました。それを引き継いで80年代から私たちはガンダーラで、ラニガト仏教寺院跡の調査をすすめました。197912月、 ソ連の侵入でアフガンに入れなくなりました。

 

■保存修景

布野ガンダーラが西川先生のひとつの軸ですけど、もう一方で先生のいろいろな功績を書いていると、保存修景論がある。それは何がきっかけでしたか。

西川何がきっかけだったかな。教室で将来構想を検討しようとしたことがありました。その時に歴史的環境保存計画というのを提案しました。これをみて西山研の助教授の絹谷さんが、「建築教室で環境というのはまずい。教室では環境と言えば、前田先生の設備環境工学に限られているからね」ということでした。

布野前田先生はその時は総長でしたか。

西川工学部長になられる前かな。

布野なぜ禁句だったんですか。

西川当時、環境という言葉を設備環境工学に限定していたのでしょう。地域計画関係でも。環境という言葉をさけていたようです。その時、西山先生が同情してくれて何かいい言葉をかんがえようと言われて、考えたのが、「保存修景計画」です。これは結局陽の目をみなかったですね。その後、保存修景研究施設というのを工学部の付置研究施設として何度も要求したけれど駄目だった。そのために関野克先生に相談したり、文部省もまわりました。

布野助教授の時に上は福山先生がおられて。

西川保存修景計画について思い出せば、1959年福山先生が京大に着任され、大極殿の研究を続けておられたので、長岡宮の調査をされることになり、その発掘調査の現場を担当することになりました。地元の熱心な研究者中山修一さんが長年すすめられた調査を延長することからはじめたのです。当時、平安神宮からの資金援助で調査をすすめていました。やがて、大極殿や小安殿・朝堂院の建物を発見され、文化庁を中心に調査を本格的に組織化することに努めました。その中で、京都府の文化財保護課の堤圭三郎さんから、都市計画的視点をいれた長岡宮の保存構想をまとめてくれませんかというはなしがありました。そこで考えたのが『国際建築』32-6(1965.9)に載せた、福山先生と大学院の野口英雄さんらと連名発表した『長岡宮跡の調査と保存計画』で、遺跡の保存を地域の開発の中にくみいれ、名神高速道路両側に設ける洛南緑地帯と結びつけようとしたもので、これは今井町調査で関野先生が今井町保存について緑地帯をめぐらすことを提言されていたのを思い出したものです。また、文学部史学科の雑誌『史林』が現代史を特集するという企画がありました。考古学の分野で遺跡保存について書くように樋口さんから頼まれました。そこでまとめたのが『保存修景計画—歴史的文化遺産保存の構想—』です。結局、現代史特集は実現せず、展望という欄をつくってもらって『史林』49-6(1966.11)に載せました。その後、『中央公論』85-9(1970.9)に『保存修景計画のすすめー文化遺産の蘇生と活用のためにー』を載せ、保存修景計画の現代的意義を強調しました。その頃、京大には人類学の研究室がなかったので、梅棹さんがプライベートに楽友会館で毎週1度、近衛ロンドという研究会をやっておられた。

布野近衛ロンド。近衛通りのロンドですか。

西川そうです。その近衛ロンドで、遺跡の保存について話したのです。それまでの考古学の発掘は何か発見して、それで終わりにしている。それでは駄目だ。写真でも、現像、定着、焼付というDPEというプロセスがある。遺跡の保存もそうしたプロセスをとりいれないと駄目で、遺跡をどう、保存し活用するかを考えるべきだと話しました。これをきっかけに梅棹さんの人文研でので『重層社会の研究会』に参加しました。私の学位論文はだいたい梅棹さんの研究会で発表しました。そこではいろんな人の意見を聞けたし、寺内町もそうです。

布野それとガンダーラは平行していますか。ガンダーラは外務省関係のお金ですね。

西川ガンダーラの調査は文部省、科学研究費、海外学術調査で、保存の計画と作業は外務省関係のユネスコ信託無償資金によりました。ところでパキスタンの首都、イスラマバードは誕生の日から知っている。だから愛着がある。まったくの荒野の中に一本道が、今のゼロポイントの辺りです。その道だけがあって、あとは泥の海みたいになっていた。こんな所が都市になるのかなと思った。1960年代のはじめです。外務省にいろいろお世話になったり、ガンダーラ博物館地域構想を提案しましたが、まだ実現していません。日本の外務省でも好感をもたれ、一時、かなりいいところまでこぎつけましたが、これも結局だめでした。本当にむつかしい。

布野それは何年頃ですか。僕が京大に来る前。

西川もちろんそうですよ。80年代の中頃でした。

布野僕が先生に会ったのは、80年代末のイスラームの都市の研究会の時で、あれ自体は色々発展していますが、今もイスラームの問題とか今後、我々が何をすればいいのかとか、若い人達へのメッセージも含めて話すとどうなりますか。

西川私がお願いしたいのは、総合性を大事にして欲しいということですね。私はやっぱりいろんな、特に文学部の人とつきあってきたから、文学部や人文研の講議を受けたり、専門外の人と話す機会があったし、総合大学というのを結果的に利用させてもらったなと思います。京大が老舗の総合大学として、その利点を活用してほしいです。異分野の人と交流し、協力し、刺戟しあえば、面白い成果がでると思うけれど、なかなか認知してもらえない。京都大学でも人文研で桑原武夫先生が共同研究のスタイルをうみだされました。もっと多様な共同研究の手法を開拓してほしいです。

布野民博の地域研究は撤退ですね。京大が引き受ける。

西川京大にとってプラスかもしれないけど、あれは松原正毅さんが民博でやっていました。京大の地域研究は大きく成長するでしょう。人文研が中国研究ではひとつのメッカみたいになっているし。

布野—AA研作って、だけどあんまりうまくいっていないみたいですけど。

西川ヨーロッパをはじめアメリカなどいろんな地域研究があるでしょう。やはりアメリカ研究は同志社か(笑)同志社にはアメリカ研究の蓄積があるし。だからいろんな大学がそれぞれ特色を持つべきです。

それから保存修景という言葉も、なかなかわかってもらえず大変でした。集計ではなく修理の修、景色の景ですと説明していました。やがて、この言葉も市民権が得られるようになってきました。京都で19709月、ユネスコ後援の『京都・奈良伝統文化保存シンポジウム』が開かれ、これをきっかけに翌年6月、美観風致議会では『京都市における市街地景観の保全・整備対策に関する答申』をまとめ、ちょうど審議会に委員として参加していましたので、市の大西國太郎さんらに協力し、積極的に作業に加わりました。724月、『京都市市街地景観条例』が定められ、その『特別保全修景地区』に、研究室で調査した東山八坂地区(産寧坂二年坂)、祇園新橋地区が指定されました。両地区とも、のち重要伝統的建造物群保存地区に選定されました。そのころから、九州の大分でも調査しました。忘れられないのは近江八幡です。ヘドロ化し、蚊や蝿の温床になっていた八幡掘を暗梁にし駐車場にしようという案が出るなかで、歴史をうつし流れてきた八幡掘を再生させようという動きが青年会議所を中心に市民の間から起り、この作業にも積極的に参加し、『よみがえる八幡掘』というパンフレットを作成しました。この八幡掘はみごとに再生し、その後、町なみ保存修景につながり、今、八幡掘を延ばして「八幡の水郷」として重要文化的景観第1号としても顕彰されています。京都府・京都市で、文化財条例をつくることになり、はじめて登録制を導入し、文化財環境保存地区を定め、その頃、滋賀県でも琵琶湖景観条例(ふるさと滋賀の風景を守り育てる条例)が定められ、景観への関心は高まってきました。こうした動きに継続的に参加しました。

布野林屋先生との出会いは。

西川林屋先生は、梅棹さんが民博へ行かれるのと入かわりの頃に来られた。林屋さんは化政文化の研究会を作って、それにも参加させてもらいました。林屋先生は立命館におられた頃から京都市史編集にもあたっておられました。60年代の終りに『京都の歴史』第1巻・別添地図「平安京—京都の成立—」、第2巻・別添地図「京都—京童と軍記の世界—」、で復原地図の作成を林屋先生から頼まれ、日記史料などから、地名をひろいだし、地図におとしていく作業を続けました。とくに、六波羅の平氏政庁を地図におとすことができた時には、予想をこえた成果に興奮しました。市史の皆さんとの交流は、その後も続き、新修 大津市史、長浜市史、近江八幡市史、新修彦根市史へとつながっています。また、保存修景計画や地域文化財の研究会、勉強会や見学旅行にも、参加させてもらい楽しい刺戟をうけました。

 

交流:近寄ること

伊勢うまく質問出来ませんが、西川先生のお話を聞いて、一番基本の所に大学に入ってすぐ結核になり、そこで自分の身体の限界を完全に感じて、そこからスタートしたという強さがある。足が地に着いている。個人として非常に誰とも対等にやっていける人格を持っているというか。

西川そんな大袈裟なことでなくて、みんなでやればできることです。組織として専門外の事をやると異端視する傾向があります。それでは困る。少なくともそういう専門外の動きをする人を許容する大らかさがないと、新しい展開へと機能しないと思います。共同研究だけが研究だとは言わないけれど、許容しないといけない。

伊勢多くの大学が、がそれと反対の方向に進んでいて、大学自体がそういう構造を持っている。

西川そうでしょう。どうしても個別専門化する傾向はつよいです。もうひとつ違った共同研究のスタイルも必要だということです。

伊勢どうやってコントロールすればいいのかというところでしょうか。

西川いろんなスタイルの研究が出てくるでしょう。人文科学研究所とか、経済研究所とか、いろんな付置研究所がそういう役割を担ったらいいと思います。あとは自由に話す機会をもつことでしょう。いろんな人が出入りして話しあう場所を用意してほしいです。構造の人と電車の中で一緒になって、隣の研究室の人は何をやっているのかと聞くと「そんなの知りません」と言ってました。それでは困ると思った。自分のやっている範囲だったらわかるけど隣の人は知らないというのでは。紛争のころ、いろんな研究室に入れ込めない人がたくさんいて、そこで都市のことを考える、インターゼミアーバンというのをつくろうと思った。これは結局あまりうまく機能しなかった。そこでこの研究会に集まった人たちと滋賀県文化財懇話会というのをつくって考古学・地理・歴史・民族の専門の人とかが集まり、琵琶湖を一周したり、保存計画を勉強しました。しがらみからはなれ、いろんな人達とつきあうことです。孤立するのはよくない。

伊勢僕にとっては、このトラバースが唯一の機会になってしまっています。

西川意識的にやらないといけない。特に交流でしょう。やはり。みんなが敬遠しあっていたら駄目です。近寄らないといけない。どっちみち私たちの命は限られているのだから。

布野最後に強烈なメッセージがあったら。

西川活性化することです。大学とか教室は、私は登山のためのベース・キャンプのようなものだと思います。それ自体が自己完結なものでなく、新しい目標に向って、若い人たちの活動を支える後方支援の役割をはたすべきだと思います。過去にこだわらず、過去を活かして前進してほしいです。関連する分野と連繋がして、異質なものも寛容にとりいれて、ゆたかに成長してほしいとねがっています。